第6章 1994〜1995年
栄光の門(3)


1995年、僕は頂点に立つ生活が、絶え間なく転がる基本原理にもとづいて、途轍もなくタフになろうとしている事を知った。誰がビタスの死を予測できただろうか―――あるいはティムの突然の病気を? 僕は人生における大きな問題について、ほとんど何も分かっていなかった。そしてそれら2つの出来事は、僕を動揺させた。どのように対応していくのか? 哀しむ会を開く事か? 戦いの最前線から退き、くよくよ考え込み、自分の成績を損なわせ、そして僕がいかに「人間的」であるかについて、レポーターが書けるよう泣く事か? ティムが病気になった時、彼と僕はとても順調な流れに乗っていた。何よりも、自分が前方へと突き進み、そして我々が始めた仕事を完成させる必要を感じていた。

1995年のオーストラリアン・オープンは、ティムの健康状態に始まり、苛酷な大会だった。ティムがシカゴに戻って間もなく、さらに一連の検査をした結果、誰もが最も恐れていた事が確かになった。彼には脳腫瘍があったのだ。治療としては果敢な化学療法、および外科手術の可能性も考えられた。事態の深刻さは明白だった。それでもなお、ティムは病気に打ち勝とうと決意していた。そして可能な限り、僕をコーチし続けようとしていた。僕はそのすべてを受け入れた。彼が僕に関わり続ける事は、彼の精神力を維持するのにも役立つだろうと僕は信じていたのだ。

僕は次の大会、メンフィスの前に数週間の休みをとり、そして我々はこれからの計画を実行していった。ティムはできる限り多くの試合をテレビで見て、大半の試合の前には電話で作戦について話し合った。ポールは日常的な事柄について僕を手助けしてくれた―――ヒッティング、ストリンギングの管理、練習コートの予約、ティムが我々の一方に告げた事に関するディスカッション等。初めのうち、この方法は上手く機能したが、ティムの状態が悪化するにつれて、状況は必然的に難しくなっていった。

一方で、僕はこれまで秘密にしてきたが、自分自身の肉体的問題と戦っていた。ティムに比べれば些細なものではあったが。1年以上の間、僕は吐き気に苦しんできた。時には食物や水さえも胃に収めておけなかったのだ。その状態は1993年頃に始まり、1994年の春までにはかなり悪化していた。重要なキービスケーンの大会では、アンドレ・アガシと対戦する決勝戦の開始時刻に間に合わせる事ができなかった。

今でも感謝しているが、アンドレは午後1時に開始予定の決勝戦を1時間遅らせる事に同意してくれ、僕はブドウ糖の点滴を受けた。僕は朝の間ずっと嘔吐しどおしで、それを前夜に食べたパスタのせいだと考えていた。点滴は効き目を現し、僕は水分をリチャージして、3セットで決勝戦に勝利したのだった。当時は、この出来事は脱水症状に関係があると僕は信じたがっていた。

しかし、右腕の痛みに対処するためのインドシン( Indocin )を服用すると、吐き気は間もなく再発した。右腕の問題は恐らく、ティムと僕が1年かそれ以上前に、練習課程を変更した事で始まったのかも知れない。僕はその時まで、練習ではめったにサーブを強く打っていなかった。主としてボールを打ち、ラリーをして、汗をかく事だけを望んでいたからだった。ティムは僕が最も手ごわい武器を最高の状態で維持するため、さらに励む必要があると考えていた。

ティムにとっては、練習で安易なサーブを打つ事は、たくさんのホームランを打っているからと、バントの練習をおざなりにする野球選手と同じだった。馬鹿げた事だったのだ。ティムは僕のサーブを向上させ続ける事を望み、僕が懸命に取り組めば、より長きにわたって(この点では彼が正しかった)さらに強烈で、安定性の高いサーブを打つようになるだろうと考えていた。彼は僕を納得させ、トッド・シュナイダー―――元 ATP ツアーのトレーナーで、僕の専属として雇い入れていた―――も同じく、サーブする腕をより鍛える事に、なんら危険はないと同意した。

ティムの直感は正しかった。僕のサーブは向上し、いっそうの武器となった。だが残念ながら、練習量を増やし、すべて強烈なサーブを打つ事で、僕の腕は突如として痛みを覚え、最後には「デッド・アーム」とも呼ばれる状態に陥った。腕はうずいてズキズキした。時には真夜中や練習の最中、あるいは試合中にも。それは鈍いズキズキする痛みで、とても不快な、腕の中の歯痛のようだった。痛みがひどい時には、サービススピードにも、そしてもちろん、熱意と自信にも影響した。

僕はアドヴィルと、非常に強力な抗炎症剤のインドシンを服用し始めた。 練習や試合の後に規則正しく摂取した。間もなく、予防法として試合前にもインドシンとアドヴィルのカクテルを常用するようになった。だがインドシンに病みつきになるにつれて、食物を胃の中に収めておけなくなっていった。1994年ウィンブルドン準決勝トッド・マーチン戦の前には、水を飲むともどしてしまった。1994年グランドスラムカップ決勝戦の朝には、気分の悪さで目が覚めた。吐き気があったが、とにかく無理にでも朝食をとろうとした。そして直後にもどしてしまった。ひどい気分だった。

しかし、僕はその時までにはナンバー1の座に馴染んでいて、休みをとりたくなかった。その座をさらに確たるものにしたかったのだ。だから僕はひたすら突き進んだ。キービスケーンでの試合後まもなく、タンパで医師の元へ行き、胃腸の検査を受けた。疑問の余地なくカイヨウができていると判明し、ストレスとインドシンが重なった結果によると診断された。医師は運が良ければ、そして正しい薬物療法を受ければ、3カ月でカイヨウは消えるだろうと言った。つまりビタスの悲劇的な死とティムの突然の病気に加えて、今や僕には1日3錠の服薬療法が待っていたのだった。


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