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KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK.
カナヤマ 日本歴史 辞典
日本語版
見出し語 『 さ 』
No.0230。
メ ニュー (目次) #jpmenu
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□ 日本史 辞典 (総合)。
□ さ ● 事柄順。
〇 さい 西郷 隆盛。
(さいごう たかもり)。 《人名》。
(= 西郷 隆永 たかなが 、西郷
吉之助 きちのすけ、西郷 南洲
なんしゅう)。
(1827年ー1877年)。
SAIGO Takamori.
■ 西郷 隆盛は、
近代日本国家の基礎を築
いた政治家、軍人である。
○ 西郷 隆盛は、
明治新政府首脳である。
○ 西郷 隆盛は、
薩摩藩下級武士出身であ
る。
■ 西郷隆盛の主な功績。
● 倒幕 (江戸幕府勢力の
打倒、幕末〜明治2年)。
● 廃藩置県 (1871年
(明治4年)) の実施。
● 近代国家諸改革 (18
67年(慶応3年)ー1873
年(明治6年))の断行。
■ 西郷 隆盛 (さいごう たかもり、
西郷隆永、西郷 吉之助(きちのすけ)、
南洲 (なんしゅう)、1827年ー18
77年) は、 近代日本国家の 基礎を
築いた政治家、軍人である。
西郷 隆盛は、 明治新政府(= 近
代日本政府)の首脳の一人であり、
薩摩藩の下級武士の出身である。
■ 西郷 隆盛の主な功績は、 倒幕
(江戸幕府勢力の打倒、幕末〜明治2
年)、 廃藩置県 (1871年(明治4
年))の実施、 近代国家諸改革 (18
67年(慶応3年)ー1873年(明治6
年))の断行などである。
■ 西郷隆盛主導留守政府とは、
旧薩摩藩出身の大久保利通、旧長州
藩出身の木戸孝允などが欧米視察の
ため、1871年(明治4年)から1873
年(明治6年)まで、日本を留守にする
間、西郷隆盛が主導した、明治新政府
(近代日本政府)である。
■ 西郷隆盛主導留守政府の実施政
策は、 1871年(明治4年)から18
73年(明治6年)まで、 近代国家建
設のため、 日本の、国家財政整備、
教育、殖産興業、法治国家、国防、
インフラ整備などのため、
地租改正、
徴兵制施行、
学校教育制度制定、
太陽暦実施、
鉄道敷設、
裁判所設置、
製糸場建設、
などを実施する。
〇 さい 西郷 隆盛 関連出来事
(さいごう たかもり かんれんできごと)。
《人物関連出来事》。(19世紀)。
〇 さい 西郷 隆盛 詳細年表。
(さいごう たかもり しょうさいねんぴょう)。
《人物年表》。 (19世紀)。
(⇒ 日本史年表) 。
■ 『 現在は、過去の成果であり、
未来は、現在の成果である。 』
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◆ 日本史辞典
● 見出し語は、グリーンでマークされています。
■ 西郷 隆盛
(さいごう たかもり)。
(西郷 吉之助)
(西郷 隆永)。
■ 西郷 隆盛。
■ 名称 : 西郷 隆盛 (さいごう たかもり)。
● 正式名は、 西郷 隆永(たかなが、諱(いみ
な))、 後に、 西郷 隆盛(たかもり、1869
年〜)。
● 西郷 隆盛の個人名の諱(いみな、個人名
の実名)は隆永。
● 別名は、
個人名の、「通称(つうしょう)」 は、吉之助
(きちのすけ)、吉之介、善兵衛 等 。
個人名の、「号(ごう)」は、 西郷 南洲 (さ
いごう なんしゅう)。
■ 生没年 :
1827(文政10年)〜1877年(明治10年)。
■ 日本の明治維新の大改革を成し遂げ、近代
国家日本を生み出した、政治家。
■ 日本の封建制度を崩壊させ、日本の近代国
家の基礎を築いた人物。
■ 西郷 隆盛は、 日本歴史史上では、 政治家
同様に、私利私欲よりも公益を優先させた人
物である。
■ 1866年の薩長同盟(連合)、 1867年の
王政復古の大号令、 1868年の江戸城無血
開城、 1869年の戊辰戦争(1868〜69年)
勝利、 1871年の廃藩置県、1873年の徴
兵令公布(国民皆兵)、 その他多数の業績
を残す。
藩下級 藩士出身。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 明治新政府 (近代日本政府)の首脳、要人、
実力者、指導者の一人。
■ 策略家で、目的のためなら、手段を選ばずと
いう面もあった。
● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック。
□ 西郷 隆盛ガイドブック。
□ 西郷隆盛 詳細年表。
■ 西郷 隆盛。
■ 西郷 隆盛は、 日本の明治維新の大改革を
成し遂げ、近代国家日本を生み出した、政治
家である。
● 西郷 隆盛は、日本の封建制度を崩壊させ、
日本の近代国家の基礎を築いた人物 である。
特に、西郷 隆盛の廃藩置県の断行により、日
本は、約800年以上続いた封建制度を捨て去り、
近代国家に生まれ変わる。
■ 西郷 隆盛 (さいごう たかもり、西郷 隆
永(たかなが)、 西郷 吉之助(きちのすけ)、
南洲 (なんしゅう)、1827〜1877年) は、
近代日本国家の基礎を築いた政治家、軍人
である。
西郷 隆盛は、 明治新政府(= 近代日本
政府)の首脳であり、 薩摩藩下級武士の出
身であった。
● 西郷 隆盛の主な功績は、 倒幕 (江戸幕
府勢力の打倒、幕末〜明治2年)、 廃藩置県
(1871年(明治4年))の実施、 近代国家諸
改革 (1868(明治元年)〜1873年(明治6
年))の断行 などである。
● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック。
■ 西郷隆盛主導留守政府とは、
旧薩摩藩出身の大久保利通(おおくぼとしみ
ち)、 旧長州藩出身の木戸孝允(きどたかよ
し、桂小五郎)などが欧米視察のため、
1871年(明治4年)から1873年(明治6年)
まで、日本を留守にする間、西郷隆盛が主導
した、明治新政府(近代日本政府)である。
■ 西郷隆盛主導留守政府の実施政策は、
1871年(明治4年)から1873年(明治6
年)まで、 近代国家建設のため、日本の、
国家財政整備、教育、殖産興業、法治国家、
国防、インフラ整備などのため、
地租改正、
徴兵制施行、
学校教育制度制定、
太陽暦実施、
鉄道敷設、
裁判所設置、
製糸場建設、
などを実施する。
■ 西郷 隆盛。
■ 西郷 隆盛は、 日本歴史史上では、 政治
と同様に、私利私欲より公益を優先させた人
物である。
■ 西郷 隆盛は、 薩摩藩下級藩士出身で、
幕末・明治初期の政治家、軍人 である。
西郷 隆盛 (さいごう たかもり)は、
生没年は 18 27(文政10年)〜1877年
(明治10年) である。
■ 西郷 隆盛は、1866年の薩長同盟(連合)、
1867年の王政復古の大号令、1868年の江
戸城無血開城、 1869年の戊辰戦争勝利、
1871年の廃藩置県、18 73年の徴兵令公布
(国民皆兵)、 その他多数の業績を残す。
● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック。
■ 西郷 隆盛は、明治新政府 (近代日本政府)
の首脳、要人、実力者、指導者の一人であった。
西郷 隆盛は、策略家で、目的のためなら、
手段を選ばずという面もあった。
西郷 隆盛は、明治初期に、 明治新政府
(近代日本政府(1867〜1945年)) の実権
を握った権力者の一人であった。
● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック。
■ 西郷 隆盛。
■ 西郷 隆盛 (生没年:1827〜1877年)は、
幕末、明治初期の 政治家、軍人で、 明治
新政府(近代日本政府)のリーダーの一人で、
幕末に、武力倒幕し、 明治新政府で、 日本
の近代化を推進した。
■ 幕末、1866年の薩長同盟成立後は、西郷
郷隆盛 (西吉之助)は、 武力討幕運動の
中心人物 となる。
戊辰戦争(1868〜69年)では、 戊辰
戦争を主導し、明治新政府軍 (日本近代政
府の軍) を勝利に導く。
明治新政府(近代日本政府)の東征軍では、
参謀として、 旧江戸幕府を崩壊させ、 江戸城
の無血開城に成功する。
戊辰戦争は、 西郷隆盛の努力により、 旧
幕府勢力との全面戦争をせず、旧幕府勢力の一
部との部分戦争となり、 国内の大規模内乱とな
らずにすんだ。 国内の大規模内乱による国力、
軍事力の弱体化を防ぎ、明治期を迎え、日本の
弱体時に植民地化をねらっていた欧米列強は日
本の植民地化をあきらめた。
● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック。
■ 西郷隆盛は、 明治新政府を樹立させ、戊辰
戦争を終わらせ、一旦、 1869年(明治2年)に、
故郷の薩摩(鹿児島県)に戻ったが、 1871年
(明治4年)に、 東京に戻り、 明治新政府(近
代日本政府)では、1871 年(明治4年)に、参
議となり、 廃藩置県を推進する。
● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック。
■ 幕末 (江戸時代末期)に関しては、当日本
まつねんぴょう)、を参照して下さい。
■ 明治新政府 (近代日本政府)に関しては、
当日本史辞典の 『 近代日本政府 』 を参
照して下さい。
■ 西郷 隆盛 の氏名。
■ 正式名(本名)は、 西郷 隆永(たかなが)。
その後、 西郷 隆盛(1869年〜) と呼ばれる。
● 個人名の、「通称(つうしょう)」は、吉之助 (き
ちのすけ)、吉之介、善兵衛 等 である。
● 個人名の、「号(ごう)」は、南洲 (なんしゅう)
である。
● 個人名の、幼名(ようみょう)は、小吉、 元服
(成人)後の 、個人名の、「諱 (いみな、個人
名の実名)」 は、隆永 (たかなが)である。
● 父の、諱 (いみな)は、 隆盛 (たかもり)で
ある。
● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック。
■ 西郷 隆盛は、 幕末、明治時代初期では、通
称名は、 「西郷 吉之助」(さいごう きちのすけ)
であり、 1869年 (明治2年)までは、正式名は、
「西郷 隆永」(さいごう たかなが)であり、
18 69年(明治2年)から、正式名は、 「西郷
隆盛」 (さいごう たかもり) となる。
■ 西郷 隆盛 (さいごう たかもり)は、 幼名は、
小吉、 元服後の、個人名の「実名の諱(いみ
な)」は、隆永(たかなが)、 個人名の「仮名(け
みょう)の通称(あだ名)」は、吉之助 (きちのす
け)、吉之介、善兵衛 等 であり、 また、個人
名の「号(ごう)」は、南洲(なんしゅう) である。
西郷 隆盛の正式名(本名) は、 西郷 隆
永(たかなが)であり、 その後、1869年 (明治
2年)より、 西郷 隆盛 と呼ばれた。
■ 西郷 隆盛 (さいごう たかもり)の隆盛は、
父の「諱(いみな)」(個人名の実名)から採
(と)った諱(いみな)系の名である。
■ これは、 本人の諱(いみな、個人名の実名)
は、ほとんど知られておらず、周囲の者が諱を
知らなかったために、 誤記されてしまった例
である。
● 幕末の、西郷 隆盛は、 通称名は、「西郷 吉
之助」(さいごう きちのすけ)であり、 諱(いみ
な)が隆永(たかなが)である、正式名は、「西郷
隆永」(さいごう たかなが) であった。
しかし、親友の吉井友実が、 西郷 隆盛
の「本人の諱(いみな)の隆永」を知らず、西郷
隆盛の「父の諱(いみな)の隆盛」を彼のものと
勘違いして、1869年(明治2年)に、 朝廷に
奏上(そうじょう)してしまったため、 明 治新政
府(近代日本政府)の公文書では、 西郷 隆盛
は、「平朝臣 隆盛」(たいらのあそん たかもり)
と 記載され、 「戸籍令施行」(1872年(明治5
年)1月)以 後は、 戸籍にも同様に「西郷 隆
盛」と記載され、 「西郷 隆盛」 (さいごう たか
もり) と呼ばれるようになってしまった!!
西郷 隆盛本人は、「それでよか」と言った
といわれ、おおらかな人物であった。
● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック。
■ 西郷 隆盛の婚儀。
■ 西郷 隆盛は、 3度、婚儀を結ぶ(結婚する)。
西郷 隆盛の婚儀の相手は、 「須賀」(す
が)、「愛加那」(あいがな)、 「糸子」(いとこ)
である。
■ 1度目(1852年婚儀、西郷28歳)の夫人は、
須賀(すが)であり、 西郷が両親に勧められて
結婚し、 後に、夫人は実家に帰り、別れた。
■ 2度目(1860年婚儀、西郷35歳)の夫人(側
室、愛妾)は、 愛加那 (あいがな)であり、
奄美大島の約3年間潜伏生活時に知り合った
島娘で、 西郷との間に、2人の子供 (菊次郎、
お菊) をもうけた。
● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック。
■ 3度目(1865年婚儀、西郷39歳)の夫人(正
室、正妻) は、 糸子(いとこ)であり、 西郷と
の間に、3人の子供 (寅太郎、午次郎、酉三)
をもうけた。
■ (注意) 前近代日本 (1872年(明治5年)
の壬申戸籍(じんしんこせき)の実施前) では、
一夫多妻制、 家父長制の夫婦別姓であった。
■ 西郷 隆盛の下野と西南戦争。
■ 1973年(明治6年)に、西郷隆盛は、 征韓論
(せいかんろん)を唱(とな)えて、政府を辞職、
故郷の鹿児島に帰り、 私学校をおこす。
1877年(明治10年)に、 西郷隆盛は、
不平士族に擁立されて、 西南戦争を起こして、
敗(やぶ)れて、鹿児島の城山で、自害(自殺)
する。
遺体の確認は、体の各所を調べ、医師の
判定によった。 現場では誰も西郷の本当の顔
を知らず (写真嫌いで本人の写真は無し、現
在ある写真は想像写真)。
● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック。
■ 西南戦争 (せいなんせんそう) とは、 明治新
政府(近代日本政府)に対する最大の反動的士
族反乱で、 1877年(明治10年)の、不平士族
(英:disaffected samurai warrior(s))
の反政府武力闘争の戦争 である。
西南戦争後、反政府運動の中心は、自由
民権運動 (1874〜89年) (英: The
Freedom and People’s Rights
Movement) に移った。
■ 西郷隆盛が鹿児島に開いた、私学校は、 不
平士族(ふへいしぞく、明治政府(近代日本政
府)の改革に不 平をもつ元武士) の党派的中
心となり、 鹿児島県県政をも支配し、鹿児島
県は、独立国の観をなし、 日本の反政府の
拠点となる。
明治政府(近代日本政府)の内務卿の大
久保利通(おおくぼとしみち)は、 1875年(明
治8年)の大阪会議で、体制を整備し、西郷の
孤立化を図(はか)る。
大阪会議は、伊藤博文(ひろぶみ)、井上
馨(かおる)の仲介で実現し、政府の分裂や政
局の行き詰まりを打開するため開催され、立
憲体制への漸次(ぜんじ)的移行ということで、
板垣退助との間に妥協が成立し、木戸・板 垣
が、政府の参議(さんぎ)に復帰する。
1877年(明治10年)に、 西郷隆盛は、
不平士族に擁立されて、挙兵し、約3万人の
軍をもって、上京を企(くわだ)てたが、 熊本
城攻略に失敗し、その後、鹿児島県へ退却し、
城山で自害した。
● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック。
■ 不平士族の最大の武力反乱を鎮圧
(ちんあつ)し、明治新政府(近代日本政
府)の基盤が確立する。
■ 明治維新は、 士族による革命 であった。
西郷隆盛は、心情として、武士を捨てられ
なかった。 西郷隆盛は、 西郷と共に倒幕に
活躍し、明治期に秩禄処分・廃刀令で不遇の
境遇となった士族(武士)達を見捨てられなか
った。
■ 明治政府に反乱(西南戦争)を起こした、西郷
隆盛は、 明治政府(近代日本政府)の基盤の
確立の恩人、功労者!?
「雨降って、地(じ)固まる。」
反明治政府(反近代日本政府)の武力打倒派の
不平士族を、「一身に引き受けてくれた」、
西郷隆盛。
■ 明治政府(近代日本政府)に反乱(西南戦争)を
起こした、西郷隆盛は、 結果的に、明治新政
府(近代日本政府)にとって、西南戦争で 明
治新政府を武力で倒そうとする過激な不平士
族をまとめて集め抹殺させる機会を与えてくれ、
西南戦争の敗北で、それ以後、不平士族に武
力蜂起(ほうき)を諦(あきら)めさせてくれた人
物である。
西南戦争の敗北後、 不平士族は、武力
による明治新政府打倒を諦(あきら)め、自由
民権運動(1874 年〜1889年)など言論によ
り、明治新政府に改革を要求して いく(対抗し
ていく)。
● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック。
■ 1877年(明治10年)に、 西南戦争では、
明治新政府(近代日本政府)に対し、約1万
2000人の薩摩の武士(士族)が蜂起(ほう
き)し、 その軍に、九州各地を中心に全国
から約1万8000人の武士(士族)が加わ
り、 計約3万人の武士(士族)が、 反乱を
起こしたが、 明治新政府(近代日本政府)
の政府軍により鎮圧(ちんあつ)された。
反乱鎮圧の政府軍は、 皮肉にも、西
郷隆盛が明治新政府在職中、西郷隆盛が
決めた1873年(明治6年)の徴兵令によっ
て、全国から集められた平民、士族の軍隊で
あった。
■ 西南戦争での明治新政府(近代日本政府)
側の勝利 により、 明治新政府(近代日本
政府)の基盤は、ここに、確立した。
西南戦争後(1877年以後)、 不平士
族は、武力ではなく、言論により、 明治新政
府(近代日本政府)の政策を変えようとする。
そして、自由民権運動(1874年〜1889年)
が 、本格的に行われる。
● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック。
■ 西郷隆盛の銅像。
■ 西南戦争後、 明治政府(近代日本政府)は、
不平士族の不満を抑えるため、 不平士族に非
常に人気のあった、西郷隆盛の銅像 (兎(うさ
ぎ)狩りの姿) を、上野 (現・東京都台東区
上野) に建造し、 その偉業を称(たた)えた。
● 正装の銅像も検討されたが、 上野の西郷像
の建造当時、 西郷は明治政府(近代日本政
府)に反乱を起こし朝敵(ちょうてき)となった
人物であり、 西郷への反感を持つ政治家も
多かったので、 西郷の普段着姿の銅像を、
建造することにした。
● 上野の西郷隆盛像の兎(うさぎ)狩りの姿は、
大山巌 (おおやまいわお、西郷隆盛の従弟
(いとこ)、薩摩藩士出身、明治政府の陸軍
大将・元帥) の発案である。
上野の西郷隆盛像の、人の銅像は高村
光雲作、 愛犬の銅像は、 後藤貞行作であ
る。
● 西郷隆盛像を見た、隆盛の正妻、西郷 糸子は、
その像を見て、不満をもった と言われている。
西郷隆盛像の銅像が、 本人と似ていなか
ったか、 または、正装(軍服)でなく、私服(普
段着姿)であったからと言われている。
● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック。
#saigotakamori-appearingscenes
♪♪ 西郷 隆盛(吉之助)が登場する、
興味深い、ドキュメンタリー、ドラ
マ、 映画。
★ 西郷 隆盛 (吉之助) が登場する、
興味深い、ドキュメンタリー。
■ 歴史秘話ヒストリア
『 のんびり犬と暮らしたい〜
上野のシンボル西郷さん
西南戦争への道〜 』。
(NHKテレビの2012年(平成24年)
9月5日・本放送ドキュメンタリー番組)。
■ BS歴史館
『 今いてほしい!?日本を変
えたリーダー 西郷隆盛 』。
(NHKテレビの2012年(H24)4月 ・
本放送ドキュメンタリー番組)。
■ その時歴史が動いた 『 さらば
殿様〜廃藩置県 激動の内幕〜』。
(NHKテレビ・2006年(H18)3月・本放
送 ドキュメンタリー番組、第246回)。
● 西郷 隆盛、 大久保 利通(としみち)、 木
戸 孝允(たかよし)、 島津久光( しまづひさ
みつ) が登場する。
■ 歴史秘話ヒストリア 『 のほほん
と大胆にいきましょう〜西郷隆盛
のマイペース人生〜 』 。
(NHKテレビ・2010年(H22)8月25日 ・
本放送ドキュメンタリー番組)。
■ 歴史秘話ヒストリア 『 ‘‘相棒’’
はお前だけ〜西郷隆盛と山岡鉄
舟 明治をつくった熱い絆〜 』
(NHKテレビ・2012年(H24)2月1日・
本放送ドキュメンタリー番組)。
■ その時歴史が動いた 『 幕末最
後の60日! 新政府誕生への道
〜小松・大久保・西郷、奔走す〜 』
(NHKテレビ・2008年(H20)11 月・
本放送ドキュメンタリー番組、第343回)。
★ 西郷 隆盛 (吉之助) が登場する、
興味深い、ドラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。
歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上
の事実)と 架空の出来事が、混じって、描か
れています。 また、現代風にアレンジしてあ
ります。
■ 『 西郷(せご)どん 』 。
(NHKテレビ・2018年(H30年)
大河ドラマ)。
■ 日本の幕末、明治時代初期、明治維新
の時代状況やその時代に活躍した人々
を描く。
■ 西郷隆盛の生涯と活躍を描く。
西郷隆盛(さいごうたかもり、西郷吉
之助(さいごうきちのすけ))は、幕末 、
摩薩藩士で、 明治初期、明治政府(近
代日本政府)の指導者の1人であった。
● 西郷隆盛(西郷吉之助)を演じる俳優 :
鈴木 亮平 (すずき りょうへい)。
■ 『 花燃ゆ (はなもゆ) 』 。
(NHKテレビ・2015年大河ドラマ)。
■ 日本の幕末、明治時代前期、明治維新
の時代状況やその時代に活躍した人々
を描く。
■ 西郷隆盛を描く。
● 西郷隆盛(西郷吉之助)を演じた俳優 :
宅間 孝行 (たくま たかゆき)。
■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 。
(NHKテレビ・2010年大河ドラマ)。
■ 日本の幕末、明治維新の時代状況や
その時代に活躍した人々を描く。
■ 西郷隆盛を描く。
● 西郷 隆盛 (吉之助)を演じた俳優名 :
高橋 克実 (たかはし かつみ)。
■ 『 篤姫 (あつひめ) 』 。
(NHKテレビ・2008年大河ドラマ)。
■ 日本の幕末、明治時代前期、明治維新
の時代状況やその時代に活躍した人々
を描く。
■ 西郷隆盛を描く。
● 西郷 隆盛 (吉之助)を演じた俳優名 :
小澤 征悦。
■ 『 ラスト・サムライ 』。
(2003年米映画、トム・クルーズ主演)。
■ 日本の明治時代初期、明治維新の時代
状況やその時代に活躍した人々を描く。
■ 西郷隆盛を描く。
★ 素晴らしい関連写真。
武士道を描いた映画。
(映画会社のPRフォト。 2003年アメリカ
映画 「ラスト・サムライ」 より)。
#saigotakamoridetailedchronology
■ 西郷隆盛 詳細年表
(さいごうたかもり しょうさいねんぴょう)。
■ 西郷隆盛 詳細年表。
■ 当年表は、 西郷隆盛(1827年〜1877年)が生き
た時代の詳細年表である。
■ 江戸時代については、『 近世日本歴史詳細年表 』
を、 明治時代については、 『 近代日本歴史詳細 年
表 』 を参照して下さい。
■ より理解を深めるために、当年表と近い時期の日本
年表 』 も参照して下さい。
■ 当年表は、 西暦を先に、 その後ろの( )内に和暦
を記載している。
■ 当年表の日付は、 1872年(明治5年)以前は旧暦
陽暦) を記載している。
● 当年表の日付(年月日)は、一般的な歴史書籍で使
用されているのと同じように、 1872年(明治5年)12
月2日までは、 旧暦(太陰太陽暦)を用い、 1873年
(明治6年)1月1日以後は、 新暦(現在の太陽暦、グ
レゴリオ暦)を用いている。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
◆ 西郷隆盛 詳細年表。
● では、 西郷隆盛に関係する出来事を、年代順に、見て
みましょう。
#saigotakamoridetailedchronology-1818
■ 1818年 ● 文政改元。
(文政 元年) 1818年4月22日に、和暦の「文化」(ぶ
んか) が、 「文政」 ( ぶんせい、文政元年・
1818年・4月22日〜文政13年・ 1830年
・12月10日) に改元される。
■ 1827年 ● 西郷隆盛が、薩摩国(さつまのくの、鹿児
(文政10年) 島県)で、誕生する。
■ 1830年 ● 天保(てんぽう)改元。
(天保 元年) 1830年12月10日に、和暦の「文政」
(ぶんせい) が、 「 天保」(てんぽう、天保
元年・1830年・12月10日〜天保15年・
1844年・12月2日) に改元される。
■ 1844年 ● 弘化(こうか)改元。
(弘化 元年) 1844年12月2日に、和暦の「天保」
(てんぽう) が、 「 弘化」 (こうか、弘化元
年・1844年・12月2日〜弘化5年・ 1848
年・2月28日) に改元される。
■ 1848年 ● 嘉永(かえい)改元。
(嘉永 元年) 1848年2月28日に、和暦の「弘化」
(こうか)が、 「嘉永」(かえい、嘉永元年・
1848年・2月28日〜嘉永7年・1854年・
11月27日) に改元される。
■ 1851年 ● 1851年2月、島津 斉彬 (しまず なり
(嘉永 4年) あきら) が、 11代薩摩藩主となる。
■ 1853年 ● 篤姫( あつひめ、於一(おかつ))が、薩
(嘉永 6年) 摩藩主・島津家本家の養女となる。 篤姫
は、島津篤子 (しまづ あつこ)、篤姫(あつ
ひめ) と称す。 篤姫(於一) は、島津斉彬
(なりあきら)の養女となる。
■ 1853年 ● 徳川 家定 (いえさだ、将軍在任1853
(嘉永 6年) 〜58年、家慶の四男)が、 江戸幕府・第
13代将軍となる。
● これ以後、 家定は体が弱かったため、
次期14代将軍継嗣(けいし)問題が起こり、
雄藩連合政治を望み次期14代将軍に一橋
慶喜(ひとつばし よしのぶ、水戸藩出身一
橋家当主)を擁(よう)する、一橋派 と、徳
川独裁政治を望み次期14代将軍に徳川
慶福(よしとみ、紀伊藩藩主)を擁する、紀
州派(南紀派) とが、対立する (1853年
〜1859年頃)。
■ 1853年 ● 1853年6月、アメリカのペリー艦隊が
(嘉永 6年) 日本来航。 開国を要求。
■ 1853年 ● 江戸幕府の老中首座・阿部正弘 が、挙
(嘉永 6年) 国的な対策を立てようと、 開国について、
諸大名や色々な人物に、意見を求めたため、
これ以後、日本各地で、 外国勢力を武力
で追い払うことを主張する、尊皇(王)攘夷派
(じょいは) と、 開国し外国勢力と協力して、
先進の西洋文化を採り入れて国を発展させ
ることを主張する、開国派(かいこくは) とが
対立する (1853年〜1867年頃)。
■ 1853年 ● 1853年8月、江戸幕府の老中首座・阿
(嘉永 6年) 部 正弘(まさひろ) と 島津 斉彬(なりあ
きら)の話し合いで、 篤姫(あつひめ)の
輿入(こしい)れが決まる (内定する)。
● 篤姫(島津篤子)は、 鹿児島の薩摩藩・
鶴松城より移動し、薩摩藩・江戸藩邸へ移
る。
■ 1854年 ● 1854年3月に、日米和親条約締結。
(嘉永 7年) 日本開国。
● 1854〜55年に、幕府・老中首座・阿部
正弘は、 欧米列 強の米英露蘭と和親条約
を締結する。
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#saigotakamoridetailedchronology-1854
■ 1854年 ● 1854年4月、西郷隆盛は、 島津藩主・
(嘉永 7年) 島津斉彬(しまづなりあきら)の庭方役(に
わかたやく、秘書) となる。
■ 1854年 ● 西郷隆盛が、 島津斉彬に抜擢されて
(嘉永 7年) 江戸に赴(おもむ)き、篤姫(あつひめ、島
津篤子、近衛敬子) の、輿入れの支度係
(1854〜1856年)、 篤姫(島津篤子、
近衛敬子)との連絡係 (1854〜1859年)
となる。
■ 1854年 ● 安政(あんせい)改元。
(安政 元年) 1854年11月27日に、和暦の「嘉永」
(かえい)が、 「安政」 (あせんい、安政
元年・1854年・11月27日〜安政7年・
1860年・3月18日) に改元される。
■ 1856年 ● 1856年11月、篤姫 (あつひめ、近衛
(安政 3年) 敬子(このえすみこ )、一橋派)、江戸城・大
奥に入る。
■ 1856年 ● 1856年12月、薩摩藩出身の篤姫(近
(安政 3年) 衛敬子) が、 家定(いえさだ)と婚礼の式
を挙げ、 13代将軍・徳川家定(いえさだ)
の正室・夫人 となる。
■ 1857年 ● 1857年6月、老中・阿部正弘 (まさひろ、
(安政 4年) 一橋派の中心人物、篤姫(敬子)の輿 入れ
を求め、バックアップした) が、 急死する。
■ 1857年 ● 徳川 斉昭(なりあき、一橋派) が、 幕政
(安政 4年) 参与を辞する。
■ 1858年 ● 1858年4月、13代将軍・徳川家定が、
(安政 5年) 井伊直弼(なおすけ、南紀派) を大老に任
命する。
● 井伊 直弼 (いい なおすけ、南紀派) が
幕府・大老に就任する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1858年 ● 1858年5月、次期14代将軍が、 紀州
(安政 5年) 藩主・徳川 慶福 (よしとみ、後の徳川家茂
(いえもち))に決定する。
■ 1858年 ● 1858年6月に、日米修好通商条約締結。
(安政 5年) ● 安政の5カ国条約締結。 1858年6月〜
9月に、 幕府・大老・井伊直弼(なおすけ)
は、勅許(ちょっきょ、天皇の許可)を得ず、
欧米列強の米蘭露英仏と不平等な「安政の
5カ国条約」(修好通商条約)を締結する。
■ 1858年 ● 1858年7月、幕府13代将軍・徳川家定
(安政 5年) (いえさだ) が、 急死する。
■ 1858年 ● 1858年9月、安政の大獄(1858〜59
(安政 5年) 年、反井伊勢力や一橋派の一掃)が、始まる。
■ 1858年 ● 1858年12月、徳川 家茂(いえもち、慶
(安政 5年) 福) が、幕府14代将軍 となる。
■ 1858年 ● 1858年12月、島津藩の実権を持つ、
(安政 5年) 島津 斉興(なりおき) は、 幕府の目を逃
れるため、一橋派の活動家、西郷隆盛を、
死んだことにし、潜居させる(潜伏生活をさ
せる)こととした。 西郷 は、鹿児島を出帆
する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1859年 ● 1859年1月、西郷 は、死んだこととされ、
(安政 6年) 奄美大島に潜居(潜伏生活)する (1859年
1月〜1862年1月)。
■ 1860年 ● 万延(まんえん)改元。
(万延 元年) 1860年3月18日に、和暦の「安政」(あ
んせい)が、 「万延」(まんえん、万延元年・
1860年・3月18日〜万延2年・1861年・2
月19日) に改元される。
■ 1860年 ● 1860年 3月、桜田門外の変。
(万延 元年) 大老・井伊直弼が、暗殺される。
● これ以後、 江戸幕府は 、公武合体政策を
すすめ、 尊皇攘夷派・急進派 と 公武合体
派・佐幕派 とが対立する (1960年〜186
4年頃)。
■ 1861年 ● 文久改元。
(文久 元年) 1861年2月19日に、和暦の「万延」(ま
んえん)が、 「文久」(ぶんきゅう、文久元年
・1861年・2月19日〜文久4年・1864年
・2月20日) に改元される。
■ 1861年 ● 1861年10月、島津藩の実権を持つ、島
(文久 元年) 津久光(ひさみつ)が、西郷隆盛に召喚状を
出す。
■ 1862年 ● 1862年 1月西郷 は、奄美大島を1月
(文久 2年) に出帆する。
■ 1862年 ● 1862年2月、西郷は、 奄美大島から船
(文久 2年) で着き、 鹿児島に戻り、 薩摩藩の任務に就
(つ)く。
■ 1862年 ● 1862年2月、江戸幕府将軍・徳川家茂
(文久 2年) と 孝明天皇の妹・皇女・和宮の婚儀が為
(な)される (公武合体の政策のため)。
■ 1862年 ● 1862年6月、島津藩の実権を持つ、島
(文久 2年) 津久光は、西郷が自分の命(めい)に背
(そむ)いたため、 西郷を遠島処分とした。
西郷は、鹿児島を出帆する。
■ 1862年 ● 1862年7月、西郷隆盛 は、遠島となり、
(文久 2年) 徳之島や沖永良部島で、生活をする
(1862年7月〜1864年2月)。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1863年 ● 1863年3月、幕府将軍・徳川家茂(い
(文久 3年) えもち)上洛 (将軍上洛230年ぶり)。
■ 1863年 ● 1863年8月八月十八日の政変。
(文久 3年)
■ 1864年 ● 元治(げんじ)改元。
(元治 元年) 1864年2月20日に、和暦の「文久」
(ぶんきゅう)が、 「元治」 (げんじ、元治
元年・1864年・2月20日〜元治2年・
1865年・4月7日) に改元される。
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#saigotakamoridetailedchronology-1864
■ 1864年 ● 1864年2月、島津藩の実権を持つ、島
(元治 元年) 津久光が、西郷隆盛を赦免召還し、遠島を
解く。
● 西郷は、沖永良部島を出帆し、 鹿児島
へ戻り、薩摩藩の任務に就(つ)く。
■ 1864年 ● 1864年7月、禁門(きんもん)の変 (蛤
(元治 元年) 御門(はまぐりごもん)の変)で、 西郷が活
躍する。
■ 1864年 ● 1864年8月、幕府、第1次長州征討
(元治 元年) (1864年8月〜12月) 開始。
■ 1864年 ● 1864年11月、長州藩は、幕府に屈服
(元治 元年) し、幕府に対し恭順(きょうじゅん)の態度
をとった。 1864年12月に、幕府軍は、引
き揚げる。
■ 1864年 ● 1864年12月15日に、長州藩で、高杉
(元治 元年) 晋作(たかすぎしんさく)が、奇兵隊を率い
て挙兵する (功山寺(こうざんじ)挙兵)。
その後、高杉晋作は、幕府に恭順した
長州藩の保守派(俗論派)を退(しりぞ)け、
長州藩の藩論を、討幕へ転換させた。
● これ以後、日本各地で、 尊皇(王)討幕派
と 公武合体派・佐幕派 とが対立する (18
64年〜1866年頃) 。
■ 1865年 ● 慶応(けいおう)改元。
(慶応 元年) 1865年4月7日に、和暦の「元治」(げ
んじ)が、「慶応」 (けいおう、慶応元年・18
65年・4月7日〜慶応4年・1868年・9月8
日) に改元される。
■ 1865年 ● 1865年10月、幕府は、 安政の諸条約
(慶応 元年) の勅許(ちょっきょ、天皇の許可)を得る。
■ 1866年 ● 1866年1月、薩長同盟成立。 薩長の
(慶応 2年) 反幕府政治・軍事同盟の密約。
● 坂本龍馬の斡旋で、京都で、長州の桂小
郷隆盛が会見し、薩長同盟が結ばれた。
● これ以後、日本各地で、 尊皇(王)討幕
派と 公議政体派・佐幕派 とが対立する
(1866〜1867年頃)。
■ 1866年 ● 1866年5月、幕府は、改税約書(かい
(慶応 2年) ぜいやくしょ)に調印。
■ 1866年 ● 1866年6月、幕府は、長州に対し、第2
(慶応 2年) 次長州征討(1866年6〜7月)を開始。
● 第2次長州征討で、坂本龍馬は、長州藩
海軍を支援する。
■ 1866年 ● 1866年7月、幕府将軍・徳川家茂死去
(慶応 2年) (病死)。 第2次長州征討、中止となる。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1866年 ● 1866年(慶応2年)12月5日、徳川慶喜
(慶応 2年) (よしのぶ)、幕府15代将軍 (在任、1866.
12.5〜1867.12.9) となる。
■ 1866年 ● 1866年12月25日、倒幕を好まず、公
(慶応 2年) 武合体論の立場をとる、孝明(こうめい)天
皇が、急死する。
■ 1867年 ● 1867年1月9日、睦仁(むつひと)天皇
(慶応 3年) (= 明治天皇) が、践祚(せんそ)の儀を行う
(事実上、即位する)。
■ 1867年 ● 1867年5月、薩摩藩主導で、四侯会議
(慶応 3年) が設置されたが、短期間で崩壊した。
■ 1867年 ● 1867年5月、京(都)で、中岡慎太郎の
(慶応 3年) 仲介で、薩摩の西郷吉之助(隆盛)と土佐の
討幕派の乾(いぬい、板垣)退助との間 で、
「薩土(さつど)討幕同盟」(武力討幕の薩土
密約)が、結ばれる。
■ 1867年 ● 1867年6月、大政奉還の行方がわかる
(慶応 3年) までは、 武力倒幕は見送るという「薩土 (さ
つど)盟約」が、土佐藩と薩摩藩との間で、結
ばれた。
龍馬は、既にある、薩摩の西郷隆盛と土
佐の討幕派の乾(いぬい、板垣)退助との間で
1867年5月に交わされた 「薩土討幕同盟」
(武力討幕の薩土 (さつど)密約)を思いとど
まらせるため、 1867年6月22日に、京(都)
の三本木の料亭で、 坂本龍馬・中岡慎太郎の
仲介により、 土佐の後藤象二郎 と 薩摩の
西郷隆盛、小松帯刀、大久保利通 が、 会談
した。
■ 1867年 ● 1867年10月、幕府は、大政奉還 (政権を
(慶応 3年) 朝廷へ返上)を行う。
■ 1867年 ● 1867年11月、坂本龍馬が暗殺される。
(慶応 3年)
■ 1867年 ● 1867年12月9日、王政復古のクーデター。
(慶応 3年) ● 1867年12月9日 に、王政復古の大号令
と小御所会議。
王政復古の大号令と小御所会議により、
近代日本政府 (明治新政府、天皇親政政
府)樹立 と、 幕府 (徳川宗家)排除 の王
政復古となる。
■ 1868年 ● 1868年(慶応4年)1月3日、鳥羽伏見の
(慶応 4年) 戦い(1868.1.3〜1.8)が起こる。 戊辰
戦争((ぼしんせんそう、1868.1.3〜18
69.5.18) が 始まる。 西郷隆盛が、戊
辰戦争で、明治新政府軍を主導する。
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#saigotakamoridetailedchronology-1868
■ 1868年 ● 1868年4月、江戸城無血開城。 討幕
(慶応 4年) 軍、江戸入場。
■ 1868年 ● 明治改元。
(明治 元年) 1868年9月8日に、和暦の「慶応」(け
いおう) が、 「明治」 (めいじ、明治元年・
1868年・9月8日〜明治45年・1912年・
7月30日) に改元される。
■ 1869年 ● 1869年5月、戊辰(ぼしん)戦争が
(明治 2年) (1868〜69年) が終わる。
■ 1869年 ● 1869年6月、西郷隆盛は、明治新政府
(明治 2年) の職(軍)を辞し、鹿児島へ戻る。
■ 1869年 ● 1869年6月、明治新政府が、版籍奉
(明治 2年) 還を実施する。
■ 1869年 ● 1869年7月、 西郷は、西郷隆盛 と
(明治 2年) 呼ばれる。
■ 1871年 ● 1871年2月、明治新政府が、薩長土
(明治 4年) 3藩より、親兵を徴集する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1871年 ● 1871年6月、西郷隆盛が、鹿児島より
(明治 4年) 東京へ出て、参議として、明治新政府に復
職する。
■ 1871年 ● 1871年7月、明治新政府が、廃藩置
(明治 4年) 県を実施する。
■ 1871年 ● 1871年11月、大久保、木戸ら岩倉使
(明治 4年) 節団(1871〜73年)が、外遊のため、日
本を出発する。
■ 1871年 ● 1871年11月、西郷隆盛 が、大久保、
(明治 4年) 木戸ら岩倉使節団外遊中の留守政府(18
71年11月〜1873年9月)を指導する。
■ 1872年 ● 1872年12月、太陽暦の採用(太陽暦
(明治 5年) へ の切り替え)。 旧暦(太陰太陽暦)の明
治5年(1872年)12月3日を、 新暦(太陽
暦)の明治6年(1873 年)1月1日とする。
■ 1873年 ● 1873年9月、大久保、木戸ら岩倉使節
(明治 6年) 団が外遊から戻る。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1873年 ● 1873年10月、「明治6年の政変」が起
(明治 6年) こる。 西郷隆盛、下野する(政府の役職を
辞職する)。 西郷は、鹿児島へ戻り、これ
以後、鹿児島の私学校で教育に専念する。
■ 1877年 ● 1877年2月、西南戦争(1877年2〜
(明治10年) 9月)が、起こる。
鹿児島の私学校生徒が、暴動を起こす。
西郷隆盛は、不平士族に擁立されて、明治
新政府(近代日本政府)に反乱(西南戦争)
を起こす。
■ 1877年 ● 1877年9月、西郷隆盛が、51歳で、西
(明治10年) 南戦争で、死去(敗死、自害)する。
□ 日本史 辞典 の「 さ 」 基本見出し語サイトの先頭ページへ。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』
以 上
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