◆ TKKI カナヤマ オフィシャル ホームページ。
TKKI KANAYAMA’S OFFICIAL HOMEPAGE.
◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。
KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK.
◆ カナヤマ坂本 龍馬ガイドブック。
KANAYAMA’S SAKAMOTO RYOMA GUIDEBOOK.
(Kjhh)31442
カナヤマ 坂本 龍馬
ガイドブック
坂本 龍馬 年表。
No.10。
■ パソコン、 ネットブックPC、 タブレット端末(PC)、
スマートフォン, ネットテレビ用 電子書籍。
メ ニュー (目次) #jpmenu
■ 次の項目から選んで、クイックして下さい。
□ 坂本龍馬 詳細年表。
■ 上位のWEBサイト。
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一覧表。
LKOH GIMEH ETCSS GIMJH JTCSS EP
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◆ 坂本 龍馬 ガイドブックの内容 :
■ 初学者・初心者用 オンライン 坂本 龍馬 ガイドブック
(要覧)。
■ 坂本 龍馬 (さかもと りょうま) 関連 初学者・初心者向
インターネット用 オンライン書籍 (ブック)。
■ 坂本 龍馬 ガイドブック。
■ 坂本 龍馬 の 入門 ガイドブック。
■ この本1冊で (このホームページ1つで)、 坂本 龍馬の
こと(概略) が、一通り、わかります。
■ 坂本 龍馬 は、 幕末の政治改革者 です。 政治家、実
業家 であり、 日本を近代化へ導いた人物 です。 江戸時
代(1603〜1868年)の末期(幕末)の、土佐藩 (現在の
高知県)の下級武士出身で、 近世日本の革命家 でした。
■ パソコン、 PDA(携帯情報端末) 用 WEB サイト。
■ TKKI カナヤマ 著 坂本 龍馬 ガイドブック (要覧)。
□ 日本史辞典の先頭ページへ。
◆ (Kjhh) 坂本 龍馬
ガイドブック。
( 坂本 龍馬 要覧 )
#sakamotoryomadetailedchronology
■ 坂本龍馬 詳細年表。
(さかもとりょうま しょうさいねんぴょう)
◆ 坂本龍馬 詳細年表。
■ 坂本龍馬の詳細な内容に関しては、「 坂本竜馬 ガイ
ドブック (要覧) 」を参照してください。
■ 当年表は、 坂本龍馬(1835年〜1867年)が生きた
時代の詳細年表である。
■ 江戸時代については、『 近世日本歴史詳細年表 』
を、 明治時代については、 『 近代日本歴史詳細 年
表 』 を参照して下さい。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典 31437。
■ より理解を深めるために、当年表と近い時期の日本
年表 』 も参照して下さい。
■ 当年表は、 西暦を先に、 その後ろの( )内に和暦
を記載している。
■ 当年表の日付は、 1872年(明治5年)以前は旧暦
陽暦) を記載している。
● 当年表の日付(年月日)は、一般的な歴史書籍で使
用されているのと同じように、 1872年(明治5年)12
月2日までは、 旧暦(太陰太陽暦)を用い、 1873年
(明治6年)1月1日以後は、 新暦(現在の太陽暦、グ
レゴリオ暦)を用いている。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
◆ 坂本龍馬 詳細年表。
● では、 坂本龍馬に関係する出来事を、年代順に、見て
みましょう。
#sakamotoryomadetailedchronology-1830
■ 1830年 ● 天保改元。
(天保 元年) 1830年12月10日に、和暦の「文政」(ぶ
んせい) が、 「 天保」(てんぽう、天保元
年・1830年・12月10日〜天保15年・ 18
44年・12月2日) に改元される。
■ 1835年 ● 1835年11月、坂本龍馬が、土佐国(と
(天保 6年) さのくに、高知県(高知市上町))で、生まれ
る。
■ 1844年 ● 弘化改元。
(弘化 元年) 1844年12月2日に、和暦の「天保」(て
んぽう) が、 「 弘化」 (こうか、弘化元年・
1844年・12月2日〜弘化5年・ 1848年・
2月28日) に改元される。
■ 1846年 ● 1846年 6月坂本龍馬の母、坂本幸(さ
(弘化 3年) ち)が、死去する。
■ 1848年 ● 嘉永改元。
(嘉永 元年) 1848年2月28日に、和暦の「弘化」(こ
うか)が、 「嘉永」(かえい、嘉永元年・18
48年・2月28日〜嘉永7年・1854年・11
月27日) に改元される。
■ 1853年 ● 坂本龍馬は、剣術修行のため、江戸(東
(嘉永 6年) 京)に出て、北辰一刀流剣術の千葉定吉の
桶町(おけまち)千葉道場 (通称:小千葉
道場)(東京都千代田区)に入門する。
■ 1853年 ● 徳川 家定 (いえさだ、将軍在任1853
(嘉永 6年) 〜58、家慶の四男) が、江戸幕府・第13
代将軍となる。
● これ以後、 家定は体が弱かったため、
次期14代将軍継嗣(けいし)問題が起こり、
日本各地で、 雄藩連合政治を望み次期14
代将軍に一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ、水
戸藩出身一橋家当主)を擁(よう)する、一橋
派 と、 徳川独裁政治を望み次期14代将軍
に徳川 慶福(よしとみ、紀伊藩藩主)を擁す
る、紀州派(南紀派) とが、対立する (18
53年〜1859年頃)。
■ 1853年 ● 1853年6月、アメリカのペリー艦隊が日本
(嘉永 6年) 来航。 開国を要求。
■ 1853年 ● 江戸幕府の老中首座・阿部正弘が、 挙国
(嘉永 6年) 的な対策を立てようと、 開国について、諸大
名や色々な人物に、意見を求めたため、 こ
れ以後、日本各地で、 外国勢力を武力で追
い払うことを主張する、尊皇(王)攘夷派(じょ
ういは) と、 開国し外国勢力と協力して、先
進の西洋文化を採り入れて国を発展させるこ
とを主張する、開国派(かいこくは) とが対立
する (1853年〜1867年頃)。
■ 1853年 ● 1853年12月、坂本龍馬は、佐久間象山
(嘉永 6年) (さくましょうざん)の私塾にも通うようになる。
■ 1854年 ● 1854年3月、日本開国。 日米和親条約
(嘉永 7年) 締結。 幕府・老中首座・阿部正弘は、 18
54〜55年に、欧米列強の米英露蘭と和親条
約を締結する。
■ 1854年 ● 坂本龍馬 は、土佐に帰郷する。
(嘉永 7年)
■ 1854年 ● 1854年3月、日米和親条約締結。
(嘉永 7年) 日本開国。
● 1854〜55年に、幕府・老中首座・阿部正
弘は、 欧米列強の米英露蘭と和親条約を
締結する。
■ 1854年 ● 1854年4月、西郷隆盛は、 島津藩主・島
(嘉永 7年) 津斉彬(なりあきら)の庭方役となる。
■ 1854年 ● 西郷隆盛が、 島津斉彬に抜擢されて江戸
(嘉永 7年) に赴(おもむ)き、篤姫(あつひめ、島津篤子、
近衛敬子)の、 輿入れの支度係 (1854〜
1856年)、 篤姫(島津篤子、近衛敬子)との
連絡係(1854〜1859年) となる。
■ 1854年 ● 安政改元。
(安政 元年) 1854年11月27日に、和暦の「嘉永」(か
えい)が、 「安政」 (あせんい、安政元年・18
54年・11月27日〜安政7年・1860年・3月
18日) に改元される。
■ 1855年 ● 坂本龍馬の父、坂本八平が、死去する。
(安政 2年)
■ 1856年 ● 坂本龍馬は、剣術修行のため、再び、江
(安政 3年) 戸の小千葉道場に遊学する。
■ 1857年 ● 1857年6月、老中・阿部 正弘 (まさひろ、
(安政 4年) 一橋派の中心人物) が急死する。
■ 1858年 ● 坂本龍馬は、剣術修行を終えて、土佐に
(安政 5年) 帰郷する。北辰一刀流免許皆伝。
■ 1858年 ● 1858年4月、井伊 直弼 (いい なおす
(安政 5年) け、南紀派) が幕府・大老に就任。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1858年 ● 1858年 5月、次期14代将軍が、紀州
(安政 5年) 藩主・徳川 慶福 (よしとみ、後の徳川 家
茂(いえもち))に決定する。
■ 1858年 ● 1858年6月、日米修好通商条約締結。
(安政 5年) ● 安政の5カ国条約締結。 1858年6月
〜9月に、幕府・大老・井伊直弼(なおす
け)は、勅許を得ず、欧米列強の米蘭露英
仏と不平等な「安政の5カ国条約」(修好通
商条約)を締結する。
■ 1858年 ● 1858年7月、幕府13代将軍・徳川家定
(安政 5年) (いえさだ)が、急死する。
■ 1858年 ● 1858年9月、安政の大獄(1858〜59、
(安政 5年) 反井伊勢力や一橋派の一掃)が始まる。
■ 1858年 ● 1858年12月、徳川家茂(いえもち、慶
(安政 5年) 福) が、幕府14代将軍 となる。
■ 1858年 ● 1858年12月、島津藩の実権を持つ、島
(安政 5年) 津斉興(なりおき)は、幕府の目を逃れるた
め、一橋派の活動家、西郷隆盛を、死んだ
ことにし、 潜居(潜伏生活)させることとした。
西郷は、鹿児島を出帆する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1859年 ● 1859年1月、西郷は、死んだこととされ、
(安政 6年) 奄美大島に潜居する(潜伏生活をする)
(1859年1月〜1862年1月)。
■ 1859年 ● 1859年2月、15代土佐藩主の山内容
(安政 6年) 堂(やまのうちようどう、豊信) が、土佐藩
主を辞任し、 隠居する。
■ 1860年 ● 万延改元。
(万延 元年) 1860年3月18日に、和暦の「安政」
(あんせい)が、 「万延」(まんえん、万延
元年・1860年・3月18日〜万延2年・18
61年・2月19日) に改元される。
■ 1860年 ● 1860年3月、桜田門外の変。
(万延 元年) 大老・井伊直弼が、暗殺される。
● これ以後、日本各地で、 江戸幕府は公
武合体政策をすすめ、 尊皇(王)攘夷派・
急進派 と 公武合体派・佐幕派 とが対立
する (1960年〜1864年頃)。
■ 1861年 ● 文久改元。
(文久 元年) 1861年2月19日に、和暦の「万延」
(まんえん)が、 「文久」 (ぶんきゅう、文
久元年・1861年・2月19日〜文久4年・
1864年・2月20日) に改元される。
■ 1861年 ● 1861年3月、土佐で、井口村刃傷(じん
(文久 元年) しょう)事件が起こり、土佐藩士の、「上士」
(じょうし)と坂本龍馬の属する「下士」(かし)
との間で対立が深まる。
■ 1861年 ● 1861年9月、下士は、武市半平太(たけ
(文久 元年) ちはんぺいた、武市瑞山)をリーダーに、
「土佐勤王党」を結成する。 坂本龍馬は、
9番目で参加する。
■ 1861年 ● 1861年10月、坂本龍馬は、武市半平
(文久 元年) 太の密使として、長州(ちょうしゅう)へ向か
う。
■ 1862年 ● 1862年1月、坂本龍馬は、長州の萩
(文久 2年) (はぎ)で、久坂玄瑞と面談する。 2月末
に土佐に帰国する。
■ 1862年 ● 1862年2月、西郷は、 潜伏していた、
(文久 2年) 奄美大島から船で着き、 鹿児島に戻り、
薩摩藩の任務に就(つ)く。
■ 1862年 ● 1862年2月、江戸幕府将軍・徳川家茂
(文久 2年) と 孝明天皇の妹・皇女・和宮の婚儀が為
される (公武合体の政策のため)。
■ 1862年 ● 1862年 3月、坂本龍馬は、土佐藩を
(文久 2年) 脱藩する。 その直後、「土佐勤王党」によ
る吉田東洋(よしだとうよう)の暗殺事件が起
こる。 当初は、坂本竜馬が実行犯として疑
われた。 坂本龍馬は、九州などを放浪した後、
江戸へ入り、千葉道場に身を寄せる。 その後、
千葉重太郎の紹介で、幕府政事総裁職の松平
慶永(よしなが、春嶽(しゅんがく))に面会する。
● 1862年、 龍馬が土佐藩脱藩時、龍馬と青
少年期を共に過ごした龍馬の初恋の女性の平
井 加尾 (ひらい かお)は、 龍馬より駆け落
ちの誘いを受けたが断り、 それ以後、龍馬と
の交流を断つ。
■ 1862年 ● 1862年4月、武市半平太(瑞山)が、 山内
(文久 2年) 容堂の側近の吉田東洋(よしだとうよう)を暗殺
する。 その後、半平太(瑞山)は、門閥家老と
結び、藩政を掌握する。
■ 1862年 ● 1862年6月、島津藩の実権を持つ、島津
(文久 2年) 久光は、西郷が自分の命に背(そむ)いたため、
西郷を遠島処分とした。 西郷は、鹿児島を
出帆する。
■ 1862年 ● 1862年7月、西郷は、遠島となり、徳之島
(文久 2年) や沖永良部島で、生活をする (1862年7月
〜1864年2月)。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
#sakamotoryomadetailedchronology-1862
■ 1862年 ● 1862年12月、坂本龍馬は、勝海舟の
(文久 2年) 弟子となる。 松平慶永の紹介状を携
(たずさ)えて、勝海舟(かつかいしゅう)
に面会し、 海舟の弟子となる。
■ 1863年 ● 海軍塾が開設される (大阪で約半年、
(文久 3年) その後、神戸で約1年)。
坂本龍馬は、神戸では塾頭をつとめる。
■ 1863年 ● 龍馬は、土佐藩の実権を持つ山内容堂
(文久 3年) (やまのうちようどう、山内豊信(とよしげ))
から、脱藩の罪を許される。
■ 1863年 ● 1863年3月、幕府将軍・徳川家茂(いえ
(文久 3年) もち)上洛 (将軍上洛230年ぶり)。
■ 1863年 ● 1863年8月、八月十八日の政変。
(文久 3年) 京(都)から尊攘派(そんじょうは、尊王攘
夷派) が駆逐(くちく)され、 土佐勤王党
も壊滅状態となる。
土佐藩の弾圧は江戸にいる龍馬にも
及ぶ。 龍馬は、再脱藩する。
■ 1863年 ● 土佐藩の実権を持つ山内容堂(やまの
(文久 3年) うちようどう) が、側近の吉田東洋(よし
だとうよう)を暗殺した、「土佐勤王党」の
弾圧に乗り出し、党員を片っ端から捕縛・
投獄した。 「土佐勤王党」は、 壊滅させ
られた。
■ 1864年 ● 元治改元。
(元治 元年) 1864年2月20日に、和暦の「文久」
(ぶんきゅう)が、 「元治」 (げんじ、元治
元年・1864年・2月20日〜元治2年・1
865年・4月7日) に改元される。
■ 1864年 ● 1864年2月、島津藩の実権を持つ、島
(元治 元年) 津久光が、西郷隆盛を赦免召還し、遠島
を解く。
● 西郷隆盛は、沖永良部島を出帆し、鹿児
島へ戻り、 薩摩藩の任務に就(つ)く。
■ 1864年 ● 神戸海軍操練所(こうべかいぐんそうれ
(元治 元年) んじょ、約1年間)が設立される。
■ 1864年 ● 1864年6月、池田屋事件が起こる。
(元治 元年) 京(都)の尊王攘夷派(そんのうじょうい
は) は、大打撃を受ける。
■ 1864年 ● 1864年7月、禁門(きんもん)の変
(元治 元年) (蛤御門(はまぐりごもん)の変)が、
起こる。
● 池田屋事件に憤慨(ふんがい)し、勢力
回復をねらい、長州藩が京(都)へ攻めの
ぼり、禁門(きんもん)の変 (蛤御門(はま
ぐりごもん)の変)が起こる。
幕府・薩摩勢力により、上洛した長州藩
は、敗退する。 長州藩兵を率いていた久
坂玄随が自刃(じじん、自害)する。
■ 1864年 ● 1864年8月、幕府、第1次長州征討
(元治 元年) (1864年8月〜12月) 開始。
■ 1864年 ● 1864年11月、長州藩は、幕府に屈服
(元治 元年) し、幕府に対し恭順(きょうじゅん)の態度を
とった。 1864年12月に、幕府軍は、 引き
揚げる。
■ 1864年 ● 1864年12月、長州藩で、高杉晋作(た
(元治 元年) かすぎしんさく)が、奇兵隊を率いて、幕府
に恭順した保守派を退(しりぞ)け、長州藩の
藩論を、討幕へ転換させた。
● これ以後、日本各地で、 尊皇(王)討幕派
と 公武合体派・佐幕派 とが対立する (18
64年〜1866年頃)。
■ 1865年 ● 慶応改元。
(慶応 元年) 1865年4月7日に、和暦の「元治」(げん
じ)が、「慶応」 (けいおう、慶応元年・1865
年・4月7日〜慶応4年・1868年・ 9月8日)
に改元される。
■ 1865年 ● 池田屋事件や禁門(きんもん)の変に参加
(慶応 元年) した志士がいた海軍塾・神戸海軍操練所は、
幕府から 追及され、閉鎖される。
龍馬ら20数名は、勝海舟の紹介で西郷隆
盛を頼って、 大阪の薩摩藩邸に保護される。
■ 1865年 ● 1865年5月、薩摩藩の援助により、 土佐
(慶応 元年) 脱藩の仲間らと共に、長崎で亀山社中(後の
海援隊)を組織し、物産・武器の貿易を行う。
■ 1865年 ● 1865年9月、幕府将軍の家茂、長州藩再
(慶応 元年) 征(第2次長州征討)の勅許を受ける。
■ 1865年 ● 1865年10月、幕府、安政の諸条約の勅
(慶応 元年) 許を得る。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
#sakamotoryomadetailedchronology-1866
■ 1866年 ● 1866年1月、薩長同盟成立。 薩長の
(慶応 2年) 反幕府政治・軍事同盟の密約。
● 坂本龍馬らの斡旋で、京(都)で、長州
の桂小五郎(木戸孝允(きどたかよし))と
薩摩の西郷吉之助(隆盛)が会見し、薩長
同盟が結ばれる。
● これ以後、日本各地で、 尊皇(王)討
幕派 と 公議政体派・佐幕派 とが対立
する (1866〜1867年頃)。
■ 1866年 ● 1866年1月、寺田屋事件が起こる。
(慶応 2年) 坂本龍馬は、寺田屋で幕吏に襲撃され、
妻のお龍(おりょう)の助けで、龍馬は、幕
吏の手から逃(のが)れる。
その傷を癒(いや)すため、 お龍と共に
鹿児島を旅行する。
■ 1866年 ● 1866年6月、幕府は、長州に対し、第
(慶応 2年) 2次長州征討(1866年6〜7月)を開始。
● 第2次長州征討で、龍馬は、長州藩海
軍を支援する。
■ 1866年 ● 1866年7月、幕府将軍・徳川家茂死去
(慶応 2年) (病死)。 第2次長州征討、中止となる。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1866年 ● 1866年(慶応2年)12月5日に、徳川
(慶応 2年) 慶喜(よしのぶ)が、幕府15代将軍 (在
任、1866.12.5〜1867.12.9) と
なる。
■ 1866年 ● 1866年12月25日に、 倒幕を好まず、
(慶応 2年) 公武合体論の立場をとる、孝明(こうめい)
天皇 が、 急死する。
■ 1867年 ● 1867年1月9日に、 睦仁(むつひと)
(慶応 3年) 天皇 (= 明治天皇) が、践祚(せんそ)の
儀を行う (事実上、即位する)。
■ 1867年 ● 1867年4月、龍馬 は、脱藩の罪を
(慶応 3年) 許され、土佐藩との関係を修復する。
● 亀山社中は、土佐藩に付属する外郭機
関として、「海援隊」と改称される。
● その後、海援隊は、中岡慎太郎の作っ
た陸援隊と共に、行動した。
また、岩崎弥太郎(いわさきやたろう)が、
藩命により海援隊の会計係となる (経理を
担当する)。
■ 1867年 ● 1867年4月、いろは丸沈没事件が起こ
(慶応 3年) り、龍馬は、紀州藩に損害を賠償させる。
■ 1867年 ● 1867年5月、薩摩藩主導で、四侯会議が
(慶応 3年) 設置されたが、短期間で崩壊した。
■ 1867年 ● 1867年5月に、「薩土討幕同盟」が結ば
(慶応 3年) れる。
● 京(都)で、中岡慎太郎の仲介で、薩摩の
西郷吉之助(隆盛)と土佐の討幕派の乾
(いぬい、板垣)退助との間 で、「薩土(さ
つど)討幕同盟」(武力討幕の薩土密約)
が、結ばれる。
■ 1867年 ● 1867年6月、坂本龍馬は、洋上で、土佐
(慶応 3年) 藩船の夕顔丸の船上で、「船中八策」(せん
ちゅうはっさく) を策定し、それを後藤象二郎
に提示する。
■ 1867年 ● 1867年6月に、 武力倒幕を見送る「薩土
(慶応 3年) (さつど)盟約」が結ば れる。
● 大政奉還の行方がわかるまでは、武力倒幕
は見送るという「薩土 (さつど)盟約」が、土佐
藩と薩摩藩との間で、結ばれた。
坂本龍馬は、既にある、薩摩の西郷隆盛と
土佐の討幕派の乾(いぬ い、板垣)退助との
間で1867年5月に交わされた 「薩土討幕同
盟」(武力討幕の薩土(さつど)密約)を思いと
どまらせるため、1867年6月22日に、京(都)
の三本木の料亭で、 坂本龍馬・中岡慎太 郎
の仲介により、 土佐の後藤象二郎 と 薩摩
の西郷隆盛、小松帯刀、大久保利通 が、会
談した。
■ 1867年7月 ● 1867年7月、イカルス号事件(イギリス
(慶応 3年) 人水夫殺害事件)が起こり、 龍馬ら海援
隊士が、疑われるが、無事、嫌疑は晴れる。
■ 1867年 ● 1867年10月、幕府は、大政奉還
(慶応 3年) (政権を朝廷へ返上)を行う。
奉還をもとに、後藤象二郎が、土佐藩前藩
主・山内容堂を説いて、土佐藩の進言によ
る大政奉還(たいせいほうかん)を実現させ
る。
■ 1867年 ● 1867年11月、坂本龍馬は、「新政府綱
(慶応 3年) 領ハ策」を作成する。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
#sakamotoryomadetailedchronology-1867
■ 1867年 ● 1867年11月、坂本龍馬が暗殺される。
(慶応 3年) 坂本龍馬は、1867年11月15日に、 京
都の近江屋(おうみや)で、何者か(幕府の
見廻組(みまわりぐみ)?)に急襲され、殺害
される。 同席していた中岡慎太郎も殺害さ
れる。
■ 1867年 ● 1867年12月、王政復古のクーデター
(慶応 3年) と 新政府の樹立。
● 1867年12月9日、 王政復古の大号
令と小御所会議 により、幕府排除の王政
復古 と近代日本政府 (明治新政府、天皇
親政政府) 樹立 となる。
■ 1868年 ● 1868年(慶応4年)1月3日、鳥羽伏見の
(慶応 4年) 戦い(1868.1.3〜1.8)が起こる。 戊辰
戦争((ぼしんせんそう、1868.1.3〜18
69.5.18) が 始まる。 西郷隆盛が、戊
辰戦争で、明治新政府軍を主導する。
■ 1868年 ● 1868年4月、江戸幕府の本拠地の江戸城、
(慶応 4年) 無血開城。 討幕軍、江戸入場。
■ 1868年 ● 1868年4月、海援隊 は、土佐藩の藩命に
(慶応 4年) より、解散する。
■ 1868年 ● 明治改元。
(明治 元年) 1868年9月8日に、 和暦の「慶応」(けい
おう)が、「明治」 (めいじ、明治元年・1868
年・9月8日〜明治45年・1912年・7月30日)
に改元される。
■ 1869年 ● 1869年(明治2年)5月18日、戊辰(ぼ
(明治 2年) しん)戦争が(1868〜69) が終わる。
■ 1869年 ● 1869年6月西郷は、明治新政府の職
(明治 2年) (軍)を辞し、鹿児島へ戻る。
■ 1869年 ● 1869年6月、明治新政府が、版籍奉還
(明治 2年) (はんせきほうかん)を実施する。
■ 1871年 ● 龍馬の兄の坂本権平が死去し、坂本家は、
(明治 4年) 龍馬の甥の坂本直寛(なおひろ、5代目当主)
が継ぐ。
■ 1871年 ● 1871年2月、明治新政府が、薩長土3藩
(明治 4年) より、親兵を徴集する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1871年 ● 1871年6月、西郷が、鹿児島より東京へ
(明治 4年) 出て、参議として、明治新政府に復職。
■ 1871年 ● 1871年7月、明治新政府が、廃藩置県
(明治 4年) を実施する。
■ 1871年 ● 1871年8月、坂本龍馬の姉・千鶴(ちづ
(明治 4年) る)の長男・高松太郎(たかまつたろう) が、
坂本直(なお)として、坂本龍馬の養嗣子とな
る(名跡(跡目)を相続する)。
■ 1871年 ● 1871年12月、大久保、木戸ら岩倉使節
(明治 4年) 団(1871〜73年)が、外遊のため、日本を
出発する。
■ 1871年 ● 1871年12月西郷 が、大久保、木戸ら
(明治 4年) 岩倉使節団外遊中の留守政府(1871年
12月〜1873年9月)を指導する。
■ 1872年 ● 1872年12月、太陽暦の採用(太陽暦
(明治 5年) へ の切り替え)。 旧暦(太陰太陽暦)の明
治5年(1872年)12月3日を、 新暦(太陽
暦)の明治6年(1873 年)1月1日とする。
■ 1873年 ● 1873年9月、大久保、木戸ら岩倉使節
(明治 6年) 団が 外遊から戻る。
■ 1873年 ● 1873年10月、「明治6年の政変」が起
(明治 6年) こる。 西郷が、下野する (政府の役職を
辞職する)。
■ 1877年 ● 1877年2月、西南戦争(1877年2〜9
(明治10年) 月)が、起こる。
■ 1877年 ● 1877年9月、西郷隆盛が、享年51歳で、
(明治10年) 西南戦争で、死去(敗死、自害)する。
■ 1883年 ● 高知の「土陽新聞」に、「汗血千里の駒」
(明治16年) (かんけつせんりのこま、高知出身の坂崎紫
瀾(さかざきしらん)著作) が掲載され、大
評判となり、 坂本龍馬が、有名となる。
■ 1898年 ● 明治31〜32年にかけて、 坂本直寛当
(明治31年) 主の坂本家は、坂本龍馬も生前構想してい
た北海道開拓のため、一家をあげて、北海道
に移住 する。
□ 日本史辞典の先頭ページへ。
『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』
以 上