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 カナヤマ 日本歴史 辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 さ 』

 No.0650

 

メ ニュー (目次)  #jpmenu     

■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

□ 日本史 辞典 (総合)

□       ≪ 坂本龍馬関係者 ≫

          ● 事柄順。

 さか  坂本 龍馬 (さかもと りょうま) 。

          (総合)。

                   (1835〜1867年)。

                    ○ 幕末の政治改革者。

                    ○ 政治家、実業家。

                    ○ 土佐藩下級武士・郷士出身。

          土佐脱藩浪士となる。

 

 さか  坂本 龍馬 詳細年表 

             (さかもとりょうま しょうさいねんぴょう)。

             (⇒ 日本史年表) 。

 

 さか  坂本龍馬 

       (坂本龍馬ガイドブック)

 

 さか  坂本家 (さかもとけ)

          (= 郷士坂本家、土佐藩郷士

          の坂本家)。

                (1770年〜1871年)。

 

 さか  坂本 龍馬が愛した女性達

             (さかもとりょうまがあいしたじょせいたち) 。

          ○ 加尾(かお)、佐那(さな)、お龍

          (おりょう)等 。

          ○ 平井 加尾(ひらい かお)、千葉

          佐那(ちば さな )、 楢崎龍 ならさき

             りょう、お龍 おりょう)、お元(おもと)

             錦路、お蝶 等。

 

 さか  坂本 権平 (さかもと ごんぺい)

          (= 坂本直方)。

          (1814〜1871年)。

          ○ 坂本龍馬の兄。

          ○ 郷士坂本家の4代目当主。 

 

 さか  坂本 乙女 (さかもと おとめ)。

          (1832〜1879年)。

          ○ 坂本龍馬の姉。

          ○ 龍馬のよき理解者、相談

          相手。

          ○ 龍馬の母親代わり。

 

 

□ 日本史 辞典 の「 さ 」 基本見出し語サイト

  の先頭ページへ。        

 

■  『 現在は、過去の成果であり、

    未来は、現在の成果である。 

 

■ 上位のWEBサイト。 

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#jpdictionary(general)

 

◆ 日本史辞典

 

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#sa

 

#sakamotoryoma

 

■ 坂本 龍馬 

       (さかもと りょうま)。

 

■ 坂本 龍馬 (さかもと りょうま) の詳細に

  関しては、 『 坂本 龍馬 ガイドブック 』  

   を参照して下さい。

 

■ 坂本 龍馬 (総合)

■ 生没年 : 1835年 (天保6年) 〜 1867

  (慶応3年)。

■ 名称 : 坂本 龍馬 (さかもと りょうま)。 

● 龍馬正式名(本名)  は、坂本 直陰 (なおか

  げ) であり、 後に、坂 本 直柔(なおなり) とな

  る。  

● 龍馬の個人名の(いみな、個人名の実名)  

  は、直陰 (なおかげ)、後、 直柔(なおなり) 

  となる。 

● 龍馬の個人名の通称 は、 龍馬(りょうま)。 

●  才谷 梅太郎 (さいたに うめたろう) などの

  変名あり。

● 竜馬(りょうま)  は、後世の人が、「龍馬」の

  代わりに使用。 坂本龍馬自身は、「竜馬」の

  字体を使ったことはない。

■ 幕末の志士、政治改革者。 

■ 明治維新(1841〜77年)の政治改革者。

 

■ 坂本龍馬 は、 薩長同盟(さっちょうどうめ

  い)や大政奉還(たいせいほうかん)を実現さ

  せ、 船中八策(せんちゅうはっさく)を著(あら

  わ)し 、 日本の近代国家建設に貢献した。

□ 薩長同盟

□ 船中八策

□ 大政奉還

 

□ 坂本 龍馬 画像 NO.1

 坂本 竜馬 が登場する、面白く、

    興味深い、ドキュメンタリー、ドラ

    マ、映画。 

 

 

■ 坂本 龍馬 は、 薩長同盟(さっちょうどうめい)や

 政奉還(たいせいほうかん)を実現させ、船中八策を著

 (あらわ)し 、 日本の近代国家建設に貢献した。

■ 坂本 龍馬 は、 幕末の政治家、実業家 であった。  

  土佐藩下級武士の郷士(ごうし)出身 であった。

■ 坂本 龍馬 は、 勝 海舟 (かつ かいしゅう)の弟子

  であった。

■ 坂本 龍馬 は、 海運と貿易に従事する。 海外情勢

  に通じる。

■ 坂本 龍馬 は、 攘夷派(じょういは)・慎重派  から 

  開国派(かいこくは)へ転向 する。

■ 坂本 龍馬 は、1867年、 武力倒幕派( ぶりょくとう

 ばくは)から 公議政体派(こうぎせ いたいは)へ転向す

 る。

■ 坂本 龍馬 は、江戸幕府より新政府 (近代日本政府

 への政権移行を画策(かくさく)。 

● 坂本 龍馬 は、江戸幕府より新政府へ平和的な政権

 移行を画策し、もし「大政奉還」が 実現しない場合には、 

 武力倒幕を考えていた。

@ 倒幕の薩長同盟を成立させる。

A 「公議政体論」を唱 (とな)え、 「大政奉還」を実現させ

 る。

■ 坂本 龍馬 は、1867年(慶応3年)11月に、京(都)

 で暗殺される。

■ 亀山社中 (かめやましゃちゅう 、1865〜67年) は、 

 坂本龍馬らが長崎で、設立した貿易・海運会社 であり、

 1867年には、 海援隊(1867〜68年) となる。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 坂本 龍馬 は、 トーマス・グラバーと親密な関係で、

 長崎のグラバー商会と関係が深く、 彼の信用を得てい

 た。

■ 坂本 龍馬 は、 幕末の志士を支援する多くの商人

 と結びつきを持った。

● 坂本 龍馬 は、 京(都)の寺田屋の女将(おかみ)の

 お登勢(おとせ)、 京(都)の材木商の酢屋(すや)、 京

 (都)の醤油屋の近江屋 (おうみや、竜馬が暗殺された

 所)、 長崎の茶商の大浦慶(おおうらけい、女性)、 長

 崎の海運業の小曾根英四朗(こそねえいしろう)、 下関

 の豪商の伊藤助太夫  (龍馬暗殺時、龍馬夫人のお龍

 を預かっていた)、 その他 多くの支援者の商人と結び

 つきを持った。 

 

◆ 坂本家一族。

■ 郷士・坂本家(ごうし・さかもとけ) は、土佐の豪商・

 才谷屋(さいたに や)の分家 であった。

■ 坂本 龍馬 は、 土佐藩郷士・坂本 八平(はちへい) 

 (坂本 直足(なおたり))の次男 で、 末っ子 であった。

■ 龍馬の父 は、 坂本 八平(はちへい) (坂本 直足(なおたり))(17

 97〜1856年) で、 婿養子(むこようし) である。

■ 龍馬の生母 は、 坂本 幸(さち、1796−1846年)で、 龍馬12歳

 の時に死去。 

■ 龍馬の継母(ままはは) は、 北代 伊與(伊予) (きただい いよ、

 1804〜1865年)で、 龍馬の父の坂本 八平(直足)の後妻 である。 

 (注意) 前近代日本では、夫婦別姓

■ 龍馬の兄 は、 坂本 権平(ごんぺい(直方)、1814〜1871年) で、

 郷士坂本家の第4代目当主 である。 

■ 龍馬の兄・権平の妻 は、 川原塚 千野 (かわはらづか ちや、1821

 〜1858年) である。  (注意) 前近代日本では、夫婦別姓

■ 龍馬の姉 は、 千鶴 (ちづる、長女)、 栄 (えい、次女)、 乙女 

 (おとめ、三女、坂本乙女、1832 〜1879年) の3人である。 

● 少年期に母を失った龍馬にとって、龍馬の姉の乙女が、 実質的な育て

 の親 とも言える。

● 龍馬の姉(長女)の千鶴(ちづる) は、 高松家に嫁(とつ)ぐ。

■ 龍馬の甥(おい) には、 姉・千鶴の長男の、高松太郎 (たかまつたろ

 う、1842〜98年) がいる。 海軍塾神戸海軍操練所亀山社中海援

  に加わる。

● 1871年(明治4年)8月に、 龍馬の姉・千鶴(ちづる)の長男・高松太

 郎が、 龍馬死後、 坂本直(なお)として、坂本龍馬の養嗣子となる (名

 跡(跡目)を相続する)。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 龍馬の甥(おい) には、 姉・千鶴の次男の、坂本 直寛(なおひろ、坂

 本南海男、1853−1911年) がいる。 17歳の時、 龍馬の兄の坂本

 権平の養嗣子となる。 龍馬の兄・坂本権平の死後、 郷士坂本家の5代

 目当主となる。

■ 龍馬の姪(めい) には、 兄・坂本 権平(直方)の娘(長女)の春猪 (は

 るい) がいる。

 

◆ 坂本龍馬の女性達。 

■ 龍馬には、主に、 3人の愛する女性 ( 加尾(かお、平井加尾)、 佐

 那(さな、千葉 佐那)、お龍(おりょう、楢崎龍) ) がいた。  龍馬の 夫

 人(妻) は、お龍 (おりょう、楢崎 龍 (ならさき りょう)、1841〜1906

 年) である。

 

 

 

 

 

■ 西郷 隆盛の 龍馬評。

● 『 天下に有志あり、余多く之と交わる。 然れども度量の大、龍馬に如

  くもの、未だかって之を見ず。 龍馬の度量や到底測るべからず 』

   (てんかにゆうしあり、よおおくこれとまじわる。 しかれどもどりょうのだい、

 りょうまにごとくもの、いまだかってこれをみず。 りょうまのどりょうやとう

 ていはかるべからず)。

 

 

#sakamotoryoma-sacchodomei

 

◆ 薩長同盟。

■ 坂本龍馬は、 幕末、雄藩の薩摩藩と長州藩とを結びつけて、 幕府に

 対抗する勢力とし、旧幕府より新政府への政権移行を画策(かくさく)した。  

 

■ 薩長同盟 (さっちょうどうめい) とは、 幕末の1866年(慶応2年)に、 

 薩摩藩(さつまはん)と長州藩(ちょうしゅうはん)との間で結ばれた、政治・

 軍事同盟 であり、 江戸幕府勢力に対抗して、薩長両藩の相互援助を約

 した。

 

■ 薩長同盟 は、犬猿の仲の薩摩藩と長州藩を、土佐藩出身の 坂本龍馬

 (さかもとりょうま)らが仲介して成立させた同盟 である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 薩長同盟 とは、1863年の八月十八日の政変以来反目してい た薩摩

 と長州藩 を、 土佐藩出身の坂本龍馬や中岡慎太郎(なかおかしんたろ

 う)らの仲介により、 何度も交渉を重ねて成立させた、 武力倒幕の密約

 同盟 である。

● 坂本龍馬や中岡慎太郎らの仲介により、 薩摩藩の西郷隆盛らと長州

 藩の桂小五郎 (かつらこごろう、木戸孝允)らが折衝(せっしょう)して、同

 盟が成立した。

● 長州藩の一藩では、 江戸幕府と対抗できず、 薩摩藩の一藩でも、江

 戸幕府と対抗できず、 薩長両藩が連合することで、幕府勢力に対抗する

 こととした。

 

■ 1865年の第2次長州征伐(ちょうしゅうせいばつ)の頃から、公武合体派

 であった薩摩藩では、 西郷隆盛 (さいごうたかもり)尊王討幕派 が、 藩

 論を動かすようになった。

 

■ 薩長同盟成立以後は、 日本では、武力討幕派の勢力が台 頭(たいとう)

 する。

 

 

#sakamotoryoma-senchuhassaku

 

◆ 船中八策。

■ 船中八策 (せんちゅうはっさく) とは、1867年(慶応3年)6月に、坂本

 龍馬が構想し、著(あらわ)した政策提言 である。

 

■ 坂本龍馬 は、 幕末の1867年(慶応3年)6月に、土佐藩船の夕顔丸

 (ゆうがおまる)で京(都)へ向かう途中、 その船の中で、新国家の基本理

 念を構想し、「船中八策」を著した。 龍馬 は、 最初に、船に同乗の、

 藤象二郎に示した。

● 「船中八策」には、 大政奉還、議会の設置、人材の登用、対等な国交

 の樹立、憲法の制定、軍備の強化、近衛兵の創設、貨幣制度改革などの

 画期的な政策が、うたわれていた。

 坂本龍馬が構想した「船中八策」 は、 龍馬の死後、 明治新政府(

 代日本政府)の基本方針の土台 となり、 基本政策として生かされる。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 「船中八策」 は、次のような内容である (原本は現在残っていない)。

(第1策) 〈大政奉還〉  政権を朝廷に返上する。

(第2策) 〈議会の設置〉 上下院の議会を設け、議員の討論で全てを決定する。

(第3策) 〈人材の登用〉 あらゆる層から有能な人材を集める。

(第4策) 〈対等な国交の樹立〉 広く国交を開き、適正な条約を締結する。

(第5策) 〈憲法の制定〉 新しい法典を制定する。

(第6策) 〈軍事力の増強〉 海軍を拡張する。

(第7策) 〈軍事力の増強〉 御親兵(ごしんぺい、近衛兵)を設置する。

(第8策) 〈貨幣制度改革〉 金銀の交換率を外国と均一化する。

 

 

#sakamotoryoma-taiseihokan

 

◆ 大政奉還。

■ 坂本龍馬は、 幕末、 旧幕府より新政府への「平和的な政権移行」を

 画策(かくさく)した。  

■ 坂本龍馬は、もし「大政奉還」が実現しない場合には、 武力倒幕を考

 えていた。

■ 坂本龍馬は、1867年(慶応3年)に、 尊王倒幕派から公議政体派

 転向した。

■ 公議政体派の、坂本龍馬や後藤象二郎が尽力(じんりょく)して、「大政

 奉還」を実現させた。

■ 坂本龍馬 は、 龍馬考案の「船中八策」の第1策の大政奉還を、2つ

 のルートで、幕府将軍・徳川慶喜(よしのぶ)へアピールし(訴え)、「大政

 奉還」を、実現させた。

(1) 坂本龍馬 ⇒ 後藤象二郎 ⇒ 山内容堂の建白書 ⇒ 徳川慶喜。

(2) 坂本龍馬 ⇒ 永井 尚志(なおゆき、慶喜側近幕臣) ⇒ 徳川慶喜。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 坂本龍馬は、 龍馬考案の「船中八策」 (1967年6月、夕顔丸(ゆう

 がおまる)船中で構想) の第1策の大政奉還を、 2つのルートで、幕府

 将軍・徳川慶喜(よしのぶ)へアピールし訴え、「大政奉還」を実現させた。

(1) 坂本龍馬 が 後藤象二郎へ提案し、後藤象二郎が山内容堂へ提案

 し、山内容堂が、建白書を提出し、徳川慶喜に大政奉還を勧(すす)めた。

(2) 坂本龍馬 が 永井尚志 (ながいなおゆき、慶喜側近幕臣)へ提案し

 (に働きかけて)、 永井尚志が徳川慶喜に大政奉還を勧(すす)めた。

 

■ 坂本龍馬は、まず、倒幕の薩長同盟を、1866年(慶応2年)1月に成立

 させた。  その後、龍馬は、 江戸幕府(徳川宗家)にアピールして、 

 議政体論に基づく幕府の「大政奉還」 を実現させようとした。 坂本龍馬

 は、 「大政奉還」が幕府に採り入れられない場合は、 武力倒幕を推(お)

 し進める考えを持っていた。 しかし、「大政奉還」(たいせいほうかん、徳

 川宗家の政権返上) が1867年(慶応3年)10月に実現し、 成功した。

 

● しかし、 薩摩藩、長州藩、土佐藩の倒幕派が、 公議政体論に反対で

 あったため、 「大政奉還」後、 公議政体派の土佐藩出身の坂本龍馬と

 (武力)倒幕派の薩摩藩の西郷隆盛、長州藩の桂小五郎、土佐藩の乾(い

 ぬい、板垣)退助らとの間に、 路線対立が起こった。 その様な状況の下

 で、 1867年(慶応3年)11月に、 公議政体派へ転向した坂本龍馬 は、

 何者かに暗殺される。

● 土佐藩 は、 幕末の1866〜67年、 後藤象二郎らの公議政体派 と 

 乾(いぬい、板垣)退助らの武力倒幕派に、 藩論が分かれていた。

● 薩摩藩、長州藩、土佐藩の倒幕派は、 「大政奉還」後、公議政体論に

 基づく、列藩会議政府では、徳川宗家や旧幕府勢力が、中央政府に残存

 し、また、盛り返すことを恐れ、強く反対し、 武力で旧幕府勢力を徹底的

 に排除し、徳川宗家(旧江戸幕府)を 滅亡させることを望んでいた。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 大政奉還 (たいせいほうかん) とは、 幕府が朝廷へ政権を返上する

 ことである。

 1867年(慶応3年)10月に、 徳川宗家(そうけ)の江戸幕府 が、 朝

 廷に政権を返上した。

 

■ 1867年(慶応3年)の10月3日に、 前土佐藩主の山内豊信(とよしげ、

 容堂(ようどう)) が、 公議政体と大政奉還の建白書を、  老中・板倉勝

 静(かつきよ)を通して、 江戸幕府15代将軍の徳川慶喜(よしのぶ)に提

 出した。

 

■ 1867年(慶応3年)の10月13日に、 江戸幕府15代将軍の徳川慶喜 

 が、 京(都)の二条城に、 在京の諸藩の重臣達を召集し、 そこで、 大政

 奉還を諮問(しもん)した。 江戸幕府15代将軍の徳川慶喜 は、 10月14

 日に、これを受け入れ、大政奉還の上表(じょうひょう)を朝廷に提出し、朝

 廷に政権の返上を申し入れた。  翌日の10月15日に、 朝廷はこれを認

 めた。 

 

● 徳川慶喜(よしのぶ) は、 一旦(いったん)政権を朝廷に返上しても、い

 ずれ政局収拾の主導権は、慶喜の手中に収まり、 日本の政治の主導権は、

 徳川宗家が握れるという思惑もあった。 また、公議政体論に基づき、 旧江

 戸幕府の徳川宗家が、日本の政治の中心となり、 列藩会議(列候会議)政

 府でも、 徳川慶喜が政治の実権をもてるとみていた。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 王政復古の大号令。

 公議政体派が打ち出した「大政奉還」で、 機先を制せられた形の(武力)

 倒幕派 は、 1867年(慶応3年)12月9日に、朝廷で、クーデターを起こし、

 成功し、「王政復古の大号令」を発し、 新政府(近代日本政府)を樹立(じゅ

 りつ)した。 ここに、1603年以来、265年続いた江戸幕府 は、消滅した。 

 

■ 小御所会議。

 「王政復古の大号令」が出された、1867年(慶応3年)12月9日の夜に、

 京(都)の朝廷の京都御所で、小御所会議(こごしょかいぎ)が開かれ、 岩倉

 具視、大久保利通、西郷隆盛などの倒幕派 (幕府武力打倒派) と、 山内

 容堂(ようどう)や松平 春嶽(しんがく)などの公議政体派 (幕府擁護派)が、

 対立したが、 (武力)倒幕派に押しきられて、 徳川宗家(旧江戸幕府)抜き

 の新政府樹立の「王政復古」 となった。

 

 

■ 龍馬が画策し実現させた「大政奉還」が、 国を2分す

 る大規模な日本の内乱 を防いだ。 中小規模の内乱で

 収まった。

● 「大政奉還」 (たいせいほうかん) とは、 天皇への徳川宗家の政権返

 上である。

  1867年(慶応3年)10月の「大政奉還」 により、 徳川宗家の江戸幕府 

 は消滅し、 徳川宗家の旧江戸幕府 は、正式な日本の政府ではなくなった。  

  「大政奉還」(政権返上)で徳川宗家の旧幕府が正式な政府ではなくなった 

 ことにより、 徳川宗家の旧幕府側に味方すべきか、薩摩・長州連合主力の

 新政府側に味方すべきか迷っていた日本全国の藩の多くが、 戊辰戦争(ぼ

 しんせんそう、1868〜69年)では、 当初は徳川宗家の旧幕府側より軍事

 力で劣っていた薩摩・長州連合主力の新政府側の官軍に、戊辰(ぼしん)戦

 争中に、 日本全国の藩の多くが、次々に味方するようになり、 抵抗勢力が

 少なくなり、 戊辰戦争で、新政府側が、一方的な勝利をおさめる結果となっ

 た。 中小規模の内乱で収まった。 そして、 大規模な内乱に発展せず、薩

 摩・長州連合主力の新政府が、 強力な軍事力を保持しながら、日本の近代

 化を押し進めることとなった。

   日本で大規模な内乱がおき、 徳川宗家の旧幕府側と薩摩長州連合主

 力の新政府側の両方が、互角に戦争し、両方が消耗して、日本全体の軍事

 力が弱体化した時に、 日本を植民地にし搾取(さくしゅ)しようと機会をねら

 っていた英、仏、米、露など欧米列強も、 日本を植民地にすることを諦(あき

 ら)めた。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

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■ 坂本 龍馬 は、 司馬遼太郎の小説 『 竜馬がゆく 』 の主人公

 とされて以来、 国民的人気を誇っている。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 坂本 龍馬 は、 トーマス・グラバーと親密な関係で、長崎のグラバ

 ー商会と関係が深く、 彼の信用を得ていた。

● グラバー商会 は、 当時の東洋最大手のイギリス武器商会の、ジャ

 ーディン・マセソン商会の直系 で、 トーマス・グラバーの肩書き は、

 「ジャーディン・マセソン商会長崎代理人」 であった。

● 坂本 龍馬 が、 幅広く権力者と交流できた理由は、 彼個人の資

 質の他に、イギリス武器商会・ジャーディン・マセソン商会の「営業マン」

 であったから とも言える。

● 坂本 龍馬 は、 土佐藩脱藩後に、継続的に接触した、トーマス・グ

 ラバーの影響を強く受けており、 薩長(さっちょう)同盟、 亀山社中(か

 めやましゃちゅう)、 海援隊(かいえんたい)、 船中八策(せんちゅうは

 っさく) は、 坂本龍馬の完全な独創ではなかったという指摘もある。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 亀山社中 (かめやましゃちゅう) は、 坂本龍馬ら が長崎で設立し

 た貿易・運輸会社 である。 

● 坂本龍馬は、1865年(慶応 元年)5月に、薩摩藩の援助により、土

 佐脱藩の仲間らと共に、 長崎で、亀山社中(後の海援隊)を組織し、物

 産・武器の貿易を行う。

● 坂本龍馬は、1867年(慶応3年)4月に、脱藩の罪を許され、土佐藩

 との関係を修復する。  亀山社中は、土佐藩に付属する外郭機関とし

 て、「海援隊」と改称される。 

● 海援隊 は、 1867年11月の龍馬暗殺後も、存続するが、1868年

 (慶応4年)4月に、 土佐藩の藩命により、解散させられる。

 

■ 坂本 龍馬 は、 1867年(慶応3年)11月15日に、 明治期(186 8年

 〜1912年)直前に、 京(都)の近江屋(おうみや)で、暗殺された。

● 暗殺者は、不明で、 見廻組(みまわりぐみ)犯人説、 薩摩藩犯人説、新

 選組犯人説、 土佐藩犯人説 などの犯人説がある。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 坂本 龍馬 (さかもと りょうま) は、 1835年 (天保6年)11月15日

 に生まれ、 1587年 (慶応3年)11月15日 に死去する。

 

■ 坂本 龍馬の、通称は、龍馬 (りょうま)である。 別名で、竜馬(りょうま)

 とも言われ場合もある。

■ 坂本 龍馬の、諱(いみな、個人名の実名) は、直陰 (なおかげ)、後に、 

 直柔(なおなり) である。   

■ 坂本 龍馬の、正式名(本名)は、 坂本直陰 (なおかげ)、のち、坂本直

 柔(なおなり) と称す。

 

■ 坂本 龍馬 は、 幕末の 政治家、実業家 で、 土佐藩の下級武士 (土

 佐藩郷士(ごうし)) の出身 である。

■ 坂本 龍馬 は、 幕末の志士で、 政治改革者であり、 明治維新  (18

 41〜77年)の政治改革者 である。

■ 坂本 龍馬 は、 勝海舟の弟子 であった。

■ 坂本 龍馬 は、主に、 3人の愛する女性 ( 加尾(かお)、 佐那(さ な)、

 お龍(おりょう) ) がいた。  龍馬の妻 は、お龍 (おりょう、 楢崎 龍 (なら

 さき りょう)、1841−1906年) である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 坂本 龍馬 は、 海運と貿易に従事し、 海外情勢に通じた。

■ 坂本 龍馬 は、 薩長同盟を成立させる。

● 薩摩藩と長州藩の和解に奔走し、1866年に、薩長同盟を実現させた。

■ 坂本 龍馬 は、 公議政体論を唱え、大政奉還を実現させた。

 

■ 坂本 龍馬 は、郷士・坂本家の出身で、 土佐藩では、 階級的には、

 「下士」(かし)の武士で、 土佐藩の武家の最下層にあたる郷士(ごうし)

 ではあったが、 郷士坂本家の本家の商家 「才谷屋」(さいたにや) は、

 土佐有数の豪商であり、 郷士坂本家は、 土佐藩の下手な「上士」(じょ

 うし)の武士よりは裕福な家庭環境 にあった。 

 

■ 坂本 龍馬 は、 土佐藩藩士で、土佐藩下士(かし)で、土佐藩郷士(ご

 うし) であった。

● 江戸時代、 各藩の武士は、 上級武士の「上士」 (じょうし)と下級武士

 の「下士」(かし)という身分 に分かれていた。

  土佐藩でも、 土佐藩藩士の間の身分制度が厳(きび)しかった。

● 郷士(ごうし) は、 「下士」に属し、 土佐藩では、最下級の身分の武士

 であった。

● 「上士」 (じょうし) とは、江戸時代の(各藩の)上級武士である。  また、 

 「下士」 (かし) とは、江戸時代の(各藩の)下級武士である。

 

■ 坂本 龍馬 は、 土佐藩の武士(郷士)で、 土佐藩脱藩後、 貿易 ・

 運輸会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成し、 薩長

 連合を斡旋(あっせん)し、 大政奉還(たいせいほうかん)の成立に尽力

 (じんりょく)し、 幕末の志士(しし)として、活躍した。

 

■ 龍馬は、 幕末の志士を支援する多くの商人と結びつきを持った。

● 龍馬 は、 京(都)の寺田屋の女将(おかみ)のお登勢(おとせ)、 京

 (都)の材木商の酢屋(すや)、 京(都)の醤油屋の近江屋(おうみや、竜

 馬が暗殺された所)、 長崎の茶商の大浦慶(おおうらけい、女性)、 長

 崎の海運業の小曾根英四朗(こそねえいしろう)、 下関の豪商の伊藤助

 太夫(いとうすけだゆう)、その他多くの支援者の商人と結びつきを持った。 

● 幕末、 志士を支援する商人が多かったのは、 商人達の間にいち早く

 西洋の動向を知りたいという思いとともに、 全国を駆け回る志士達から

 日本各地の情報を得たいという思いもあったためである。

 

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◆ 坂本龍馬の、家系・家族。

■ 郷士・坂本家(ごうし・さかもとけ) は、土佐 (とさ、現在の四国・高知

 県) の 豪商・才谷屋 (さいたにや)の分家 であった。

■ 1666年(寛文6年)に、ハ兵衛は、 高知城下で質屋を開業し (屋号

 は才谷屋)、 酒屋、諸品売買業(呉服等)を扱う豪商となる。  

  1730年(享保15年)頃、商家・才谷屋は、 本町筋の年寄役(としより

 やく)となり、 藩主に拝謁(はいえつ)を許されるにいたった。 

  1770年(明和7年)頃に、商家・才谷屋の6代目直益は、郷士(ごうし)

 の株を買い、長男・直海を、郷士・坂本家(ごうしさかもとけ)の初代とし、 

 名字帯刀をなさせた (公認の名字を名乗り、二本差しの帯刀をする身分

 にさせた)。

   一方、直益は、次男・直清に、 商家・才谷屋を継(つ)がせた。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

● 郷士坂本家の3代目の坂本直足(なおたり) (坂本八平) は、 郷士

 山本覚右衛門の次男として生まれ、 郷士坂本家第2代目当主の坂本直

 澄の娘・坂本幸(さち)と婚儀をなし、 郷士坂本家へ養子として入った。 

● そして、 坂本直足(なおたり)(坂本八平)と坂本幸(さち)の間に、二

 男三女が誕生した。

● 坂本直足(なおたり)(坂本八平)の次男 が、 坂本龍馬である。

 

■ 坂本龍馬 (坂本 直柔(なおなり)、1835−1867年) は、 土佐

 藩郷士・坂本 直足(なおたり)(坂本 八平(はちへい))の次男 である。

■ 坂本龍馬の父は、 坂本 直足(なおたり)(坂本 八平、1797−18

 56年)で、 郷士坂本家第3代目当主で、他家からの養子 である。

■ 坂本龍馬の生母は、 坂本 幸(さち、1796−1846年)で、 郷士

 坂本家第2代目当主の坂本直澄の娘 である。

■ 坂本龍馬の父の坂本 直足(なおたり)(坂本 八平(はちへい))の 後

 妻 は、北代 伊予(きただい いよ、伊與(いよ)、1804−1865) で

 ある。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 坂本龍馬の兄は、 坂本 直方(権平(ごんぺい)、1814−1871年) 

 で、 郷士坂本家第4代目当主 である。 兄の妻は、千野(ちや)である。

● 龍馬とは21歳の年齢差がある。 龍馬の父が死んだあと、 坂本 権

 平 (坂本直方) が、 龍馬の父親代わりでもあった。 

■ 坂本龍馬の姉は、 千鶴(ちずる)、 栄、 乙女(おとめ、1832−18

 79年) の3人である。 

■ 坂本龍馬の妻は、 お龍(おりょう) 即ち、 楢崎龍 (ならさき りょう、

 1841−1906年) である。

 

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#sakamotoryoma-appearingscenes

 

◆ 坂本 龍馬 が登場する、面白く、興

  味深い、 ドキュメンタリー、ドラマ、

  映画。

 

★ 坂本龍馬 が登場する、面白く、興

  味深い関連ドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 フリーをな

  めたらいかんぜよ!〜坂本龍馬と

  海援隊 夢と挑戦の日々〜 』 

  (NHKの2009年(平成21年)11月11日本

  放送、第22回)。

 

■ その時歴史が動いた 『 龍馬が愛

  した女 幕末、愛と別れの物語 』 

  (NHK2005年(H17)2月本放送ドキュメン

  タリー番組、第206回)。

 

★ 坂本龍馬 を描いた、面白く、興味

  深い、ドラ マ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画 は、 史実(歴史上の事

  実) と 架空の出来事 が 混じって描かれて

 います。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 

  (NHK2010年大河ドラマ)。 

● 坂本龍馬を演じる俳優名 : 福山 雅治 

  (ふくやま まさはる)。

 

   

   ○ ドラマ関連の書籍販促のPRフォト。 

 

■ 『 篤姫 (あつひめ) 』 

  (NHK2008年大河ドラマ)。

● 坂本龍馬を演じた俳優名 : 玉木 宏 

  (たまき ひろし)。

 

■ 『 JIN−仁 (じん) 』 

   (日本の2009年(前編)・2011年(後編)

  のTBS時代劇テレビドラマ)。

● 坂本龍馬を演じた俳優名 : 内野 聖陽  

  (うちの まさあき)。

 

■ 江戸時代・幕末の1862〜68年の人々や

  社会事情を描いたドラマ。 

  前編(第1期)11話、後編(第2期)11話。

 現代の医者が、江戸時代の幕末へタイムス

  リップして、幕末の日本で活躍する時代劇ド

  ラマ。 現代の医者と幕末の武士の娘を中

  心に、ドラマが展開する。 フィクションでは

  あるが、ドラマの医療指導・監修もなされ、

  前近代日本の医療未発達の事情を知ること

  ができる。

● 江戸時代にタイムスリップした、現代の医者

  の南方 仁 (みなかた じん): 大沢たかお。

● タイムスリップした現代の医者の医療を助け

  る、幕末の武士の娘、橘 咲 (たちばなさき) 

  : 綾瀬 はるか。

● ドラマ「JIN−仁」は、 現代日本の脳外科

  医・南方 仁 (みなかたじん、写真の左、大

  沢たかお) が、 幕末の日本へタイムスリ

  ップしてしまい起こる、色々な出来事を描く、

  歴史SF作品 である。

● ドラマ「JIN−仁」 は、 タイムスリップした

  医師・南方 仁 と その医師を助け看護師

  の役をかってでる幕末に生きた武士の娘・  

  橘咲(たちばなさき、写真の右、綾瀬はるか)

  をはじめ、 坂本龍馬(さかもとりょうま)、勝

  海舟(かつかいしゅう)、 久坂 玄瑞(くさか

   げんずい) などが登場する、歴史スペクタ

  クル。

● ドラマ「JIN−仁」の2009年放映・前編ドラ

  マで、緒方洪庵(おがたこうあん)、 新門辰

  五郎(しんもんたつごろう)、 吉原 遊廓(よ

  しわらゆうかく) などが登場する。

● ドラマ「JIN−仁」の2011年放映・後編ドラ

  マで、 西郷隆盛(さいごうたかもり)、和宮

  (かずのみや) などが登場する。

 

 

 ○ ドラマ「JIN−仁」のPRフォト。 

 ○ 上記のPRフォトは、 ドラマ「JIN−仁」の

  第1話で、 江戸時代末期(幕末)の、江戸の

  旗本屋敷で、 負傷した武士(旗本)の橘恭太

  郎(たちばな きょうたろう)を診(み)ている、

  医師・南方仁 (みなかたじん、フォト左、大沢

  たかお) と、 心配そうに見つめる、その負傷

  した武士の母・橘 栄(たちばな えい)(麻生

  祐未(あそうゆみ)、フォト中央) と その武士

  の妹・橘 咲 (たちばな さき、フォト右、綾瀬は

  るか) を描いた、ドラマのワン・シーン。

 

■ 『 竜馬がゆく 』 

  (日本の2004年テレビ東京・ドラマ)。

● 坂本 龍馬を演じた俳優 : 市川 染五郎 

  (7代目)。

● お龍(りょう)を演じた俳優名 : 内山 理名 

  (うちやま りな)。

 

■ 『 新選組!(しんせんぐみ) 』 

  (日本の2004年NHK大河ドラマ)。

● 坂本 龍馬を演じた俳優 : 江口 洋介 

  (えぐち ようすけ)。

● お龍(りょう)を演じた俳優名 : 麻生 久美子 

  (あそう くみこ)。

 

■ 『 坂本竜馬 』 

  (日本の1989年TBS・ドラマ)。

● 坂本 龍馬を演じた俳優 : 真田 広之。

● お龍(りょう)を演じた俳優名 : 名取 裕子 

  (なとり ゆうこ)。

 

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#sakamotoryomadetailedchronology

 

 坂本龍馬 詳細年表。

     (さかもとりょうま しょうさいねんぴょう)

 

◆ 坂本龍馬 詳細年表。

 

□ 坂本龍馬 年表  1830年〜1862年

□ 坂本龍馬 年表  1862年〜1866年

□ 坂本龍馬 年表  1866年〜1867年

□ 坂本龍馬 年表  1867年〜1898年

 

■ 坂本龍馬の詳細な内容に関しては、「 坂本竜馬 ガイ

 ドブック (要覧) 」を参照してください。

■ 当年表は、 坂本龍馬(1835年〜1867年)が生きた

 時代の詳細年表である。

■ 江戸時代については、『 近世日本歴史詳細年表 』

 を、 明治時代については、  『 近代日本歴史詳細 年

  』 を参照して下さい。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典 31437。

■ より理解を深めるために、当年表と近い時期の日本

 史辞典の年表の、 『 篤姫 年表、 西郷隆盛 年表、 

 明治維新 年表、 幕末 年表本龍馬 年表、 大奥

 年表 』 も参照して下さい。

 当年表は、 西暦を先に、 その後ろの( )内に和暦

 を記載している。

■ 当年表の日付は、 1872年(明治5年)以前は旧暦

 太陰太陽暦)を、 1873年(明治6年)以後は新暦(

 陽暦) を記載している。

● 当年表の日付(年月日)は、一般的な歴史書籍で使

 用されているのと同じように、 1872年(明治5年)12

 月2日までは、 旧暦(太陰太陽暦)を用い、 1873年

 (明治6年)1月1日以後は、 新暦(現在の太陽暦、グ

 レゴリオ暦)を用いている。

 

□ 坂本龍馬 詳細年表の先頭へ戻る

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◆ 坂本龍馬 詳細年表。

● では、 坂本龍馬に関係する出来事を、年代順に、見て

 みましょう。

 

#sakamotoryomadetailedchronology-1830

 

■ 1830年   ● 天保改元。    

 (天保 元年)   1830年12月10日に、和暦の「文政」(ぶ

             んせい) が、 「 天保」(てんぽう、天保元

            年・1830年・12月10日〜天保15年・ 18

            44年・12月2日) に改元される。 

■ 1835年   ● 1835年11月、坂本龍馬が、土佐国(と

 (天保 6年)   さのくに、高知県(高知市上町))で、生まれ

            る。

■ 1844年   ● 弘化改元。    

 (弘化 元年)     1844年12月2日に、和暦の「天保」(て

             んぽう) が、 「 弘化」 (こうか、弘化元年・

             1844年・12月2日〜弘化5年・ 1848年・

             2月28日) に改元される。 

■ 1846年   ● 1846年 6月坂本龍馬の母、坂本幸(さ

 (弘化 3年)    ち)が、死去する。

■ 1848年   ● 嘉永改元。    

 (嘉永 元年)      1848年2月28日に、和暦の「弘化」(こ

             うか)が、 「嘉永」(かえい、嘉永元年・18

             48年・2月28日〜嘉永7年・1854年・11

             月27日) に改元される。 

■ 1853年   ● 坂本龍馬は、剣術修行のため、江戸(東

 (嘉永 6年)   京)に出て、北辰一刀流剣術の千葉定吉の

            桶町(おけまち)千葉道場 (通称:小千葉

            道場)(東京都千代田区)に入門する。 

■ 1853年   ● 徳川 家定 (いえさだ、将軍在任1853 

 (嘉永 6年)   〜58、家慶の四男) が、江戸幕府・第13

            代将軍となる。 

           ● これ以後、 家定は体が弱かったため、 

            次期14代将軍継嗣(けいし)問題が起こり、

            日本各地で、 雄藩連合政治を望み次期14

            代将軍に一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ、水

            戸藩出身一橋家当主)を擁(よう)する、一橋

            派 と、 徳川独裁政治を望み次期14代将軍

            に徳川 慶福(よしとみ、紀伊藩藩主)を擁す

            る、紀州派(南紀派) とが、対立する (18

            53年〜1859年頃)。

■ 1853年   ● 1853年6月、アメリカのペリー艦隊が日本

 (嘉永 6年)   来航。 開国を要求。

■ 1853年   ● 江戸幕府の老中首座・阿部正弘が、 挙国

 (嘉永 6年)   的な対策を立てようと、 開国について、諸大

            名や色々な人物に、意見を求めたため、 こ

            れ以後、日本各地で、 外国勢力を武力で追

            い払うことを主張する、尊皇(王)攘夷派(じょ

            ういは) と、 開国し外国勢力と協力して、先

            進の西洋文化を採り入れて国を発展させるこ

            とを主張する、開国派(かいこくは) とが対立

            する (1853年〜1867年頃)。

■ 1853年   ● 1853年12月、坂本龍馬は、佐久間象山

 (嘉永 6年)   (さくましょうざん)の私塾にも通うようになる。

■ 1854年   ● 1854年3月、日本開国。 日米和親条約

 (嘉永 7年)   締結。 幕府・老中首座・阿部正弘は、 18

            54〜55年に、欧米列強の米英露蘭と和親条

            約を締結する。

■ 1854年   ● 坂本龍馬 は、土佐に帰郷する。

 (嘉永 7年)

■ 1854年   ● 1854年3月、日米和親条約締結。 

 (嘉永 7年)   日本開国。

            ● 1854〜55年に、幕府・老中首座・阿部正

             弘は、 欧米列強の米英露蘭と和親条約を

             締結する。

■ 1854年   ● 1854年4月、西郷隆盛は、 島津藩主・島

 (嘉永 7年)    津斉彬(なりあきら)の庭方役となる。 

■ 1854年   ● 西郷隆盛が、 島津斉彬に抜擢されて江戸

 (嘉永 7年)   に赴(おもむ)き、篤姫(あつひめ、島津篤子、

            近衛敬子)の、 輿入れの支度係 (1854〜

            1856年)、 篤姫(島津篤子、近衛敬子)との

            連絡係(1854〜1859年) となる。  

■ 1854年   ● 安政改元。  

 (安政 元年)      1854年11月27日に、和暦の「嘉永」(か

            えい)が、 「安政」  (あせんい、安政元年・18

            54年・11月27日〜安政7年・1860年・3月

            18日) に改元される。 

■ 1855年   ● 坂本龍馬の父、坂本八平が、死去する。

 (安政 2年)

■ 1856年   ● 坂本龍馬は、剣術修行のため、再び、江

 (安政 3年)   戸の小千葉道場に遊学する。

■ 1857年   ● 1857年6月、老中・阿部 正弘 (まさひろ、

 (安政 4年)   一橋派の中心人物) が急死する。

■ 1858年   ● 坂本龍馬は、剣術修行を終えて、土佐に

 (安政 5年)   帰郷する。北辰一刀流免許皆伝。

■ 1858年   ● 1858年4月、井伊 直弼 (いい なおす

 (安政 5年)   け、南紀派) が幕府・大老に就任。  

            ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

■ 1858年   ● 1858年 5月、次期14代将軍が、紀州

 (安政 5年)   藩主・徳川 慶福 (よしとみ、後の徳川 家

            茂(いえもち))に決定する。 

■ 1858年   ● 1858年6月、日米修好通商条約締結。 

 (安政 5年)  ●  安政の5カ国条約締結。 1858年6月

            〜9月に、幕府・大老・井伊直弼(なおす

            け)は、勅許を得ず、欧米列強の米蘭露英

            仏と不平等な「安政の5カ国条約」(修好通

            商条約)を締結する。 

■ 1858年   ● 1858年7月、幕府13代将軍・徳川家定

 (安政 5年)   (いえさだ)が、急死する。

■ 1858年   ● 1858年9月、安政の大獄(1858〜59、

 (安政 5年)    反井伊勢力や一橋派の一掃)が始まる。

■ 1858年   ● 1858年12月、徳川家茂(いえもち、慶

 (安政 5年)    福) が、幕府14代将軍 となる。

■ 1858年   ● 1858年12月、島津藩の実権を持つ、島

 (安政 5年)    津斉興(なりおき)は、幕府の目を逃れるた

             め、一橋派の活動家、西郷隆盛を、死んだ

             ことにし、 潜居(潜伏生活)させることとした。 

             西郷は、鹿児島を出帆する。

            ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

■ 1859年   ● 1859年1月、西郷は、死んだこととされ、

 (安政 6年)   奄美大島に潜居する(潜伏生活をする) 

            (1859年1月〜1862年1月)。

■ 1859年   ● 1859年2月、15代土佐藩主の山内容

 (安政 6年)   堂(やまのうちようどう、豊信) が、土佐藩

            主を辞任し、 隠居する。

■ 1860年   ● 万延改元。    

 (万延 元年)     1860年3月18日に、和暦の「安政」

            (あんせい)が、 「万延」(まんえん、万延

            元年・1860年・3月18日〜万延2年・18

            61年・2月19日) に改元される。 

■ 1860年   ● 1860年3月、桜田門外の変。 

 (万延 元年)   大老・井伊直弼が、暗殺される。  

            ● これ以後、日本各地で、 江戸幕府は公

            武合体政策をすすめ、 尊皇(王)攘夷派・

            急進派 と 公武合体派・佐幕派 とが対立

            する (1960年〜1864年頃)。

■ 1861年   ● 文久改元。    

 (文久 元年)     1861年2月19日に、和暦の「万延」

             (まんえん)が、 「文久」  (ぶんきゅう、文

             久元年・1861年・2月19日〜文久4年・

             1864年・2月20日) に改元される。 

■ 1861年   ● 1861年3月、土佐で、井口村刃傷(じん

 (文久 元年)    しょう)事件が起こり、土佐藩士の、「上士」

             (じょうし)と坂本龍馬の属する「下士」(かし)

             との間で対立が深まる。

■ 1861年   ● 1861年9月、下士は、武市半平太(たけ

 (文久 元年)    ちはんぺいた、武市瑞山)をリーダーに、

             「土佐勤王党」を結成する。 坂本龍馬は、

             9番目で参加する。

■ 1861年   ● 1861年10月、坂本龍馬は、武市半平

 (文久 元年)   太の密使として、長州(ちょうしゅう)へ向か

            う。

■ 1862年   ● 1862年1月、坂本龍馬は、長州の萩

 (文久 2年)    (はぎ)で、久坂玄瑞と面談する。 2月末

             に土佐に帰国する。

■ 1862年   ● 1862年2月、西郷は、 潜伏していた、

 (文久 2年)   奄美大島から船で着き、 鹿児島に戻り、 

            薩摩藩の任務に就(つ)く。

■ 1862年   ● 1862年2月、江戸幕府将軍・徳川家茂 

 (文久 2年)   と 孝明天皇の妹・皇女・和宮の婚儀が為

            される (公武合体の政策のため)。

■ 1862年   ● 1862年 3月、坂本龍馬は、土佐藩を

 (文久 2年)    脱藩する。  その直後、「土佐勤王党」によ

            る吉田東洋(よしだとうよう)の暗殺事件が起

            こる。 当初は、坂本竜馬が実行犯として疑

            われた。 坂本龍馬は、九州などを放浪した後、

            江戸へ入り、千葉道場に身を寄せる。 その後、

            千葉重太郎の紹介で、幕府政事総裁職の松平

            慶永(よしなが、春嶽(しゅんがく))に面会する。 

            ● 1862年、 龍馬が土佐藩脱藩時、龍馬と青

             少年期を共に過ごした龍馬の初恋の女性の平

             井 加尾 (ひらい かお)は、 龍馬より駆け落

             ちの誘いを受けたが断り、 それ以後、龍馬と

             の交流を断つ。

■ 1862年   ● 1862年4月、武市半平太(瑞山)が、 山内

 (文久 2年)    容堂の側近の吉田東洋(よしだとうよう)を暗殺

             する。 その後、半平太(瑞山)は、門閥家老と

             結び、藩政を掌握する。

■ 1862年   ● 1862年6月、島津藩の実権を持つ、島津

 (文久 2年)    久光は、西郷が自分の命に背(そむ)いたため、 

             西郷を遠島処分とした。  西郷は、鹿児島を

             出帆する。

■ 1862年   ● 1862年7月、西郷は、遠島となり、徳之島

 (文久 2年)    や沖永良部島で、生活をする (1862年7月

             〜1864年2月)。

 

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#sakamotoryomadetailedchronology-1862

 

■ 1862年   ● 1862年12月、坂本龍馬は、勝海舟の

  (文久 2年)   弟子となる。   松平慶永の紹介状を携

             (たずさ)えて、勝海舟(かつかいしゅう)

             に面会し、 海舟の弟子となる。

■ 1863年   ● 海軍塾が開設される (大阪で約半年、

  (文久 3年)   その後、神戸で約1年)。

              坂本龍馬は、神戸では塾頭をつとめる。

■ 1863年   ● 龍馬は、土佐藩の実権を持つ山内容堂

 (文久 3年)   (やまのうちようどう、山内豊信(とよしげ))

            から、脱藩の罪を許される。

■ 1863年   ● 1863年3月、幕府将軍・徳川家茂(いえ

 (文久 3年)   もち)上洛 (将軍上洛230年ぶり)。

■ 1863年   ● 1863年8月、八月十八日の政変。  

 (文久 3年)   京(都)から尊攘派(そんじょうは、尊王攘

            夷派) が駆逐(くちく)され、 土佐勤王党

            も壊滅状態となる。 

              土佐藩の弾圧は江戸にいる龍馬にも

            及ぶ。 龍馬は、再脱藩する。

■ 1863年   ● 土佐藩の実権を持つ山内容堂(やまの

 (文久 3年)   うちようどう) が、側近の吉田東洋(よし

            だとうよう)を暗殺した、「土佐勤王党」の

            弾圧に乗り出し、党員を片っ端から捕縛・

            投獄した。 「土佐勤王党」は、 壊滅させ

            られた。

■ 1864年   ● 元治改元。    

 (元治 元年)      1864年2月20日に、和暦の「文久」

            (ぶんきゅう)が、 「元治」  (げんじ、元治

            元年・1864年・2月20日〜元治2年・1

            865年・4月7日) に改元される。 

■ 1864年   ● 1864年2月、島津藩の実権を持つ、島

 (元治 元年)   津久光が、西郷隆盛を赦免召還し、遠島 

            を解く。 

           ● 西郷隆盛は、沖永良部島を出帆し、鹿児

            島へ戻り、 薩摩藩の任務に就(つ)く。

■ 1864年   ● 神戸海軍操練所(こうべかいぐんそうれ

 (元治 元年)   んじょ、約1年間)が設立される。

■ 1864年   ● 1864年6月、池田屋事件が起こる。 

 (元治 元年)   京(都)の尊王攘夷派(そんのうじょうい

            は) は、大打撃を受ける。

■ 1864年   ● 1864年7月、禁門(きんもん)の変 

 (元治 元年)    (蛤御門(はまぐりごもん)の変)が、

             起こる。                

            ● 池田屋事件に憤慨(ふんがい)し、勢力

            回復をねらい、長州藩が京(都)へ攻めの

            ぼり、禁門(きんもん)の変 (蛤御門(はま

            ぐりごもん)の変)が起こる。 

               幕府・薩摩勢力により、上洛した長州藩

            は、敗退する。 長州藩兵を率いていた久

            坂玄随が自刃(じじん、自害)する。

■ 1864年   ● 1864年8月、幕府、第1次長州征討 

 (元治  元年)   (1864年8月〜12月) 開始。

■ 1864年   ● 1864年11月、長州藩は、幕府に屈服

 (元治 元年)   し、幕府に対し恭順(きょうじゅん)の態度を

            とった。 1864年12月に、幕府軍は、 引き

            揚げる。

■ 1864年   ● 1864年12月、長州藩で、高杉晋作(た

 (元治 元年)   かすぎしんさく)が、奇兵隊を率いて、幕府 

            に恭順した保守派を退(しりぞ)け、長州藩

            藩論を、討幕へ転換させた。

           ● これ以後、日本各地で、 尊皇(王)討幕派 

            と 公武合体派・佐幕派 とが対立する (18

            64年〜1866年頃)。

■ 1865年   ● 慶応改元。  

 (慶応 元年)    1865年4月7日に、和暦の「元治」(げん

            じ)が、「慶応」  (けいおう、慶応元年・1865

            年・4月7日〜慶応4年・1868年・ 9月8日)

            に改元される。 

■ 1865年   ● 池田屋事件や禁門(きんもん)の変に参加

 (慶応 元年)   した志士がいた海軍塾・神戸海軍操練所は、  

            幕府から 追及され、閉鎖される。  

              龍馬ら20数名は、勝海舟の紹介で西郷隆

            盛を頼って、 大阪の薩摩藩邸に保護される。

■ 1865年   ● 1865年5月、薩摩藩の援助により、 土佐

 (慶応 元年)   脱藩の仲間らと共に、長崎で亀山社中(後の

            海援隊)を組織し、物産・武器の貿易を行う。

■ 1865年   ● 1865年9月、幕府将軍の家茂、長州藩再

 (慶応 元年)   征(第2次長州征討)の勅許を受ける。

■ 1865年   ● 1865年10月、幕府、安政の諸条約の勅

 (慶応 元年)   許を得る。

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#sakamotoryomadetailedchronology-1866

 

■ 1866年   ● 1866年1月、薩長同盟成立。 薩長の

 (慶応 2年)   反幕府政治・軍事同盟の密約。 

            ● 坂本龍馬らの斡旋で、京(都)で、長州

            の桂小五郎(木戸孝允(きどたかよし))と

            薩摩の西郷吉之助(隆盛)が会見し、薩長

            同盟が結ばれる。

            ● これ以後、日本各地で、 尊皇(王)討

             幕派 と 公議政体派・佐幕派 とが対立

             する (1866〜1867年頃)。

■ 1866年   ● 1866年1月、寺田屋事件が起こる。 

 (慶応 2年)   坂本龍馬は、寺田屋で幕吏に襲撃され、 

            妻のお龍(おりょう)の助けで、龍馬は、幕

            吏の手から逃(のが)れる。

             その傷を癒(いや)すため、 お龍と共に

            鹿児島を旅行する。

■ 1866年   ● 1866年6月、幕府は、長州に対し、第

 (慶応 2年)   2次長州征討(1866年6〜7月)を開始。

            ● 第2次長州征討で、龍馬は、長州藩海

            軍を支援する。

■ 1866年   ● 1866年7月、幕府将軍・徳川家茂死去

 (慶応 2年)   (病死)。 第2次長州征討、中止となる。 

              ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

■ 1866年   ● 1866年(慶応2年)12月5日に、徳川

 (慶応 2年)   慶喜(よしのぶ)が、幕府15代将軍 (在

            任、1866.12.5〜1867.12.9) と

            なる。 

■ 1866年   ● 1866年12月25日に、 倒幕を好まず、

 (慶応 2年)   公武合体論の立場をとる、孝明(こうめい)

            天皇 が、 急死する。 

■ 1867年   ● 1867年1月9日に、 睦仁(むつひと)

 (慶応 3年)   天皇 (= 明治天皇) が、践祚(せんそ)の

            儀を行う (事実上、即位する)。  

■ 1867年   ●  1867年4月、龍馬 は、脱藩の罪を

 (慶応 3年)   許され、土佐藩との関係を修復する。 

            ● 亀山社中は、土佐藩に付属する外郭機

            関として、「海援隊」と改称される。 

           ● その後、海援隊は、中岡慎太郎の作っ

            た陸援隊と共に、行動した。 

              また、岩崎弥太郎(いわさきやたろう)が、

            藩命により海援隊の会計係となる (経理を

            担当する)。 

■ 1867年   ● 1867年4月、いろは丸沈没事件が起こ

 (慶応 3年)   り、龍馬は、紀州藩に損害を賠償させる。

■ 1867年   ● 1867年5月、薩摩藩主導で、四侯会議が

 (慶応 3年)    設置されたが、短期間で崩壊した。

■ 1867年   ● 1867年5月に、「薩土討幕同盟」が結ば

  (慶応 3年)       れる。                                

           ● 京(都)で、中岡慎太郎の仲介で、薩摩の

             西郷吉之助(隆盛)と土佐の討幕派の乾

             (いぬい、板垣)退助との間 で、「薩土(さ

             つど)討幕同盟」(武力討幕の薩土密約)

             が、結ばれる。

■ 1867年   ● 1867年6月、坂本龍馬は、洋上で、土佐

 (慶応 3年)   藩船の夕顔丸の船上で、「船中八策」(せん

            ちゅうはっさく) を策定し、それを後藤象二郎

            に提示する。 

■ 1867年   ● 1867年6月に、 武力倒幕を見送る「薩土

 (慶応 3年)   (さつど)盟約」が結ば れる。

           ● 大政奉還の行方がわかるまでは、武力倒幕

            は見送るという「薩土 (さつど)盟約」が、土佐

            藩と薩摩藩との間で、結ばれた。

              坂本龍馬は、既にある、薩摩の西郷隆盛と

            土佐の討幕派の乾(いぬ い、板垣)退助との

            間で1867年5月に交わされた 「薩土討幕同

             盟」(武力討幕の薩土(さつど)密約)を思いと

            どまらせるため、1867年6月22日に、京(都)

            の三本木の料亭で、 坂本龍馬・中岡慎太 郎

             の仲介により、 土佐の後藤象二郎 と 薩摩

            の西郷隆盛、小松帯刀、大久保利通 が、会

            談した。

■ 1867年7月  ● 1867年7月、イカルス号事件(イギリス

 (慶応 3年)    人水夫殺害事件)が起こり、 龍馬ら海援

             隊士が、疑われるが、無事、嫌疑は晴れる。

■ 1867年   ● 1867年10月、幕府は、大政奉還 

 (慶応 3年)    (政権を朝廷へ返上)を行う。  

           ● 坂本龍馬「船中八策」の第1策の大政

            奉還をもとに、後藤象二郎が、土佐藩前藩

            主・山内容堂を説いて、土佐藩の進言によ

            る大政奉還(たいせいほうかん)を実現させ

            る。

■ 1867年   ● 1867年11月、坂本龍馬は、「新政府綱

 (慶応 3年)   領ハ策」を作成する。 

 

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#sakamotoryomadetailedchronology-1867

 

■ 1867年   ● 1867年11月、坂本龍馬が暗殺される。  

 (慶応 3年)   坂本龍馬は、1867年11月15日に、 京

            都の近江屋(おうみや)で、何者か(幕府の

            見廻組(みまわりぐみ)?)に急襲され、殺害

            される。 同席していた中岡慎太郎も殺害さ

            れる。

■ 1867年   ● 1867年12月、王政復古のクーデター 

 (慶応 3年)   と 新政府の樹立。 

             ● 1867年12月9日、  王政復古の大号

            令と小御所会議 により、幕府排除の王政

            復古 と近代日本政府 (明治新政府、天皇 

            親政政府) 樹立 となる。

■ 1868年   ● 1868年(慶応4年)1月3日、鳥羽伏見の

 (慶応 4年)   戦い(1868.1.3〜1.8)が起こる。 戊辰

            戦争((ぼしんせんそう、1868.1.3〜18

            69.5.18) が 始まる。  西郷隆盛が、戊

            辰戦争で、明治新政府軍を主導する。

■ 1868年   ● 1868年4月、江戸幕府の本拠地の江戸城、

 (慶応 4年)   無血開城。 討幕軍、江戸入場。

■ 1868年   ● 1868年4月、海援隊 は、土佐藩の藩命に

 (慶応 4年)   より、解散する。

■ 1868年   ● 明治改元。   

 (明治 元年)    1868年9月8日に、 和暦の「慶応」(けい

            おう)が、「明治」  (めいじ、明治元年・1868

            年・9月8日〜明治45年・1912年・7月30日) 

            に改元される。 

■ 1869年   ● 1869年(明治2年)5月18日、戊辰(ぼ

 (明治 2年)   しん)戦争が(1868〜69) が終わる。

■ 1869年   ● 1869年6月西郷は、明治新政府の職

 (明治 2年)   (軍)を辞し、鹿児島へ戻る。

■ 1869年   ● 1869年6月、明治新政府が、版籍奉還

 (明治 2年)   (はんせきほうかん)を実施する。

■ 1871年   ● 龍馬の兄の坂本権平が死去し、坂本家は、

 (明治 4年)   龍馬の甥の坂本直寛(なおひろ、5代目当主)

            が継ぐ。

■ 1871年   ● 1871年2月、明治新政府が、薩長土3藩

 (明治 4年)   より、親兵を徴集する。 

             ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

■ 1871年   ● 1871年6月、西郷が、鹿児島より東京へ

 (明治 4年)   出て、参議として、明治新政府に復職。

■ 1871年   ● 1871年7月、明治新政府が、廃藩置県

 (明治 4年)   を実施する。

■ 1871年   ● 1871年8月、坂本龍馬の姉・千鶴(ちづ

 (明治 4年)   る)の長男・高松太郎(たかまつたろう) が、

            坂本直(なお)として、坂本龍馬の養嗣子とな

            る(名跡(跡目)を相続する)。

■ 1871年   ● 1871年11月、大久保、木戸ら岩倉使節

 (明治 4年)   団(1871〜73年)が、外遊のため、日本を

            出発する。

■ 1871年   ● 1871年11月西郷 が、大久保、木戸ら

 (明治 4年)   岩倉使節団外遊中の留守政府(1871年11

            月〜1873年9月)を指導する。

■ 1872年   ● 1872年12月、太陽暦の採用(太陽暦

 (明治 5年)   へ の切り替え)。 旧暦(太陰太陽暦)の明

            治5年(1872年)12月3日を、 新暦(太陽

            )の明治6年(1873 年)1月1日とする。

■ 1873年   ● 1873年9月、大久保、木戸ら岩倉使節 

 (明治 6年)   団が 外遊から戻る。

■ 1873年   ● 1873年10月、「明治6年の政変」が起

 (明治 6年)   こる。 西郷が、下野する (政府の役職を

            辞職する)。 

■ 1877年   ● 1877年2月、西南戦争(1877年2〜9

 (明治10年)   月)が、起こる。 

■ 1877年   ● 1877年9月、西郷隆盛が、享年51歳で、

 (明治10年)   西南戦争で、死去(敗死、自害)する。

■ 1883年   ● 高知の「土陽新聞」に、「汗血千里の駒」 

 (明治16年)   (かんけつせんりのこま、高知出身の坂崎紫

            瀾(さかざきしらん)著作) が掲載され、大

            評判となり、 坂本龍馬が、有名となる。

■ 1898年   ● 明治31〜32年にかけて、 坂本直寛当

 (明治31年)   主の坂本家は、坂本龍馬も生前構想してい

            た北海道開拓のため、一家をあげて、北海道

            移住 する。

 

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#sakamotoke

 

 坂本家  

     (さかもとけ) (郷士坂本家)

 

 坂本家。

 時期 : 1770年頃〜1871年。

■ 名称 : 坂本家 (さかもとけ)。 別名 : 郷士坂本家 (ごうしさかもとけ)。

■ 郷士・坂本家(ごうし・さかもとけ) は、 土佐 (とさ、現在の四国地方・高知

 県) の 豪商・才谷屋 (さいたにや)の分家 であった。

■  郷士坂本家 (ごうしさかもとけ)。

 土佐藩郷士(とさはんごうし)の坂本家。

 

 

■ 郷士坂本家 (1770年頃〜1871年)の変遷。

● 土佐の豪商・才谷屋の本家 

 ⇒ 郷士坂本家の 初代・坂本直海 (= 坂本龍馬の母方の曾祖父)

                        1770年、才谷屋 から分家し、翌年、土佐藩の郷士となる。 

 ⇒ 郷士坂本家の第2代・坂本 直澄 (= 坂本龍馬の母方の祖父)。 

 ⇒ 郷士坂本家の第3代・坂本 八平 (はちへい) (= 坂本 直足 (なおたり)、婿養子、坂本龍馬の父)。

 ⇒ 郷士坂本家の第4代・坂本 権平 (ごんぺい) (= 坂本 直方、坂本龍馬の兄)。

 ⇒ 郷士坂本家の第5代・坂本 直寛 (なおひろ) (= 坂本南海男、坂本龍馬の甥)。

 ⇒ 明治期を迎え、1871年、廃藩置県で土佐藩が消滅、 土佐藩の郷士

  身分が消滅し、 その後、士族・坂本家となる。

 

 

◆ 坂本龍馬の、家系。

■ 郷士・坂本家(ごうし・さかもとけ) は、土佐 (とさ、現在の四国・高知

 県) の 豪商・才谷屋 (さいたにや、高知市上町3丁目付近) の分家で

 あった。 

 坂本龍馬の生家(せいか)は、 現在の高知県の高知市上町(かみま

 ち)1丁目付近にあった。 現在は、「坂本龍馬先生誕生の地」(吉田茂元

 首相の筆)という碑が立っている。 龍馬死後の坂本家は、坂本直寛(な

 おひろ)が当主の時に、北海道の開拓をすべく、明治31〜32年に、一家

 をあげて、北海道に移住した。 最初に、北海道の札幌(さっぽろ)の北の

 浦臼(うらうす)に移住した。 その後、龍馬の生家は、売却され、戦災で

 焼けてなくなり、 現在、その跡に、上町病院が建っている。

● 本家の才谷屋は、江戸時代には、豪商であったが、武士相手に金貸し

 などをしていたため、明治期に入り、武士が滅亡すると、貸した金が戻らな

 くなり、没落した。

 

■ 1666年(寛文6年)に、 ハ兵衛守之は、長岡郡才谷村から出て、 高

 知城下で質屋を開業した (屋号は才谷屋)。 その後、 酒屋、 諸品売買

 業(呉服等)へと商(あきな)いを拡大し、城下屈指の豪商 となる。

 

■ 1730年(享保15年)頃、 商家・才谷屋は、 本町筋の年寄役(としよ

 りやく)となり、 藩主に拝謁(はいえつ)を許されるにいたった。

 

■ 商家・才谷屋は、もともと、大浜姓を名乗っていたが、 後に、坂本姓に

 改姓する。 いつごろかは不明であるが、 才谷屋の直益が、1767年(明

 和4年)の建墓時には、坂本姓を刻んでいる。

 

■ 1770年(明和7年)に、 直益の長男・直海が、 分家し、 1771年に、 

 商家・才谷屋の6代目の直益は、 郷士(ごうし)の株を買い、  長男・直海

 を、 郷士・坂本家(ごうしさかもとけ)の初代とし、 坂本直海として、 名字

 帯刀をなさせた (公認の名字を名乗り、二本差しの帯刀をする身分にさせ

 た)。 

  一方、 直益は、 次男・直清には、 商家・才谷屋 を継(つ)がせた。 

 坂本龍馬は、 坂本直海の曾孫(ひまご) である。

 

 

 

◆ 坂本龍馬の、郷士坂本家の、歴代当主

 とその家族。

■ 郷士坂本家の初代当主の坂本直海。

● 1770年(明和7年)に、商家・才谷屋の6代目直益の長男・直海 は、

 土佐藩の郷士(ごうし)となり、 長男・直海を、豪商・才谷屋 (さいたにや)

 の分家の、郷士・坂本家(ごうしさかもとけ)の初代当主 となった。

 

 

■ 郷士坂本家の第2代目当主の、坂本直澄。

■ 坂本直澄は、郷士坂本家の初代当主の坂本直海の死後、郷士坂本家

 の第2代目当主 となる。

■ 坂本直澄の娘は、 坂本 幸(さち、1796−1846年)で、郷士坂本家

 第2代目当主の娘であり、 坂本龍馬の生母である。

■ 坂本直澄の娘の坂本 幸は、坂本八平(はちへい、坂本直足(なおたり))

 と婚儀をなし、 坂本八平(坂本直足) は、 郷士坂本家へ養子として入っ

 た。

● 坂本八平(坂本直足)は、 土佐藩の郷士・山本覚右衛門の次男として

 生まれ、 郷士坂本家へ婿養子として入った。 

 

 

■ 郷士坂本家の第3代目当主の、坂本八平(はちへい)

 (= 坂本直足(なおたり))。

● 郷士坂本家へ婿養子として入った、坂本八平 (坂本直足(なおたり))

 は、 郷士坂本家第2代目当主の坂本直澄の死後、 郷士坂本家の3代

 目の当主となる。

 

■ 坂本龍馬 (坂本 直柔(なおなり)、1835−1867年) は、 土佐藩

 郷士・坂本 八平(はちへい)(= 坂本 直足(なおたり))の次男 である。

● 坂本八平(坂本直足)の次男 が、 坂本龍馬である。

■ 坂本龍馬は、土佐藩郷士・坂本 八平 (= 坂本 直足)の次男 で、 末

 っ子 であった。

 

 

 

■ 郷士坂本家の3代目の坂本八平 (坂本直足(なおたり)) は、 郷士

 山本覚右衛門の次男として生まれ、 郷士坂本家第2代目当主の坂本直

 澄の娘・坂本幸(さち)と婚儀をなし、 郷士坂本家へ婿養子として入った。 

 

■ そして、 坂本八平(坂本直足(なおたり))と 坂本幸(さち)の間に、二

 男三女が誕生した。

 

■ 坂本龍馬の父は、 坂本 八平(はちへい) (坂本 直足(なおたり))、

 1797−1856年) で、 郷士坂本家第3代目当主で、 他家からの婿養

 子(むこようし) である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 坂本龍馬の生母は、 坂本 幸(さち、1796−1846年)で、 郷士坂本

 家第2代目当主の坂本直澄の娘 である。

● 龍馬の生母は、 坂本 幸(さち、1796−1846年)で、 龍馬12歳の

 時に死去した。 

 

■ 坂本龍馬の継母(ままはは) は、伊與(いよ、伊予)である。  龍

● 龍馬の父の坂本 八平(坂本 直足)の 後妻 は、 北代 伊予(きただ

 いいよ、伊與(いよ)、1804−1865) で ある。

 (注意) 前近代 日本では、夫婦別姓

 

■ 坂本龍馬の兄 は、 坂本 権平 (ごんぺい、(坂本 直方)、1814−1

 871年) で、 龍馬の父の坂本 八平(坂本 直足)死後、 郷士坂本家の

 第4代目当主 となる。 

 

■ 坂本龍馬の兄・坂本 直方(坂本権平)の妻 は、 川原塚 千野 (かわ

 はらづか ちや、1821−1858年)である。

 (注意) 前近代日本では、夫婦別姓

 

■ 坂本龍馬の姉は、 千鶴(ちづる、長女)、 栄(えい、次女)、 乙女(お

 とめ、三女、坂本乙女、1832−1879年) の3人である。 

● 少年期に母を失った龍馬にとって、姉の乙女が、 実質的な育ての親と

 言える。

● 龍馬の姉(長女)の千鶴(ちづる) は、 高松家に嫁(とつ)ぐ。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 坂本龍馬の姪(めい)には、 兄・坂本 権平(直方)の娘(長女)の、春猪

 (はるい)がいる。

 

■ 坂本龍馬の愛する主な女性には、 加尾(かお)、 佐那(さな)、お龍(お

 りょう))の3人がいた。  龍馬の妻 は、お龍 (おりょう、楢崎 龍 (ならさ

 き りょう)、1841−1906年) である。

 

 

 

■ 郷士坂本家の第4代目当主の、坂本 直方 (= 坂本権平

 (ごんぺい)) (当主1856年〜1871年)。

■ 龍馬の兄の、坂本 権平(ごんぺい)(直方)、1814−1871年) は、

 龍馬の父の、坂本 直足(なおたり)(坂本 八平、1797−1856年)の死

 去後、郷士坂本家の第4代目当主 となる。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 坂本 権平は、龍馬とは21歳の年齢差がある。 龍馬の父が死んだあ 

 と、 坂本 権平(坂本直方)が、 龍馬の父親代わりであった。 

 

■ 龍馬の姉・坂本乙女 は 1867年の離婚後、 郷士坂本家の実家に

 戻る。

 

■ 龍馬の妻(未亡人)の、お龍(おりょう、楢崎龍)は、 1867年11月の

 龍馬暗殺後、郷士坂本家に身を寄せる。 お龍は、 龍馬の姉・坂本乙

 女 とは不仲であったようで、 お龍 が、程なく、乙女の元(もと)を去り、 

 各地を放浪することとなった。

 

■ 坂本龍馬の甥(おい)には、 姉・千鶴の長男の、高松太郎 (たかまつ

 たろう、1842−98年) がいる。 海援隊隊士となる。

 

■ 坂本龍馬の甥(おい)には、姉・千鶴の次男の、坂本 直寛(なおひろ、

 坂本南海男、1853−1911年) がいる。 17歳の時、龍馬の兄の坂

 本権平の養嗣子となる。 龍馬の兄・権平の死後、 郷士坂本家の5代

 目当主となる。

 

 

■ 郷士坂本家の第5代目当主、士族坂本家の初代当主

 の、坂本直寛(なおひろ)(= 坂本南海男) (当主1871

 年〜1911年)。

 

■ 1871年(明治4年)に、坂本 直寛が、坂本家の5代目当主となる。

 高松家に嫁(とつ)いだ龍馬の姉・千鶴の次男の、坂本 直寛(なおひろ、

 坂本南海男、1853−1911年) が、 17歳の時、 龍馬の兄の坂本

 直方(坂本権平)の養嗣子となる。 そして、 龍馬の兄・坂本 直方(坂本

 権平)の死後、 郷士坂本家の5代目当主となる。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 龍馬の姉・坂本乙女 は 1867年の離婚後、実家に戻り、 明治期は、

 坂本 直寛(なおひろ) と共に暮らす。

 

■ 明治期を迎え、1871年、廃藩置県で土佐藩が消滅、 坂本家では、

  土佐藩の郷士身分が消滅し、 その後、士族・坂本家となる。

 

■ 1871年(明治4年)8月に、 龍馬の姉・千鶴(ちづる)の長男・高松太

 郎が、 坂本直(なお)として、 坂本龍馬の養嗣子となる(坂本龍馬の名

 跡(跡目)を継ぐ)。 龍馬は、1867年11月に暗殺され、 実子がいなか

 ったため。

■ 1898年(明治31年)〜1899年(明治32年)にかけて、 坂本直寛当

 主の坂本家は、 一家をあげて、龍馬も生前構想していた北海道開拓のた

 め、 北海道に移住する。

 

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#sakamotootome

 

 坂本 乙女  

     (さかもと おとめ)。

 

 坂本乙女。

■ 生没年 : 1832年(天保3年) − 1879年(明治12年)。

■ 名称 : 坂本 乙女 (さかもと おとめ)。 

  乙女 (おとめ、とめ)、 晩年は、独 と改名。

● 正式名(本名) : 坂本 乙女、後、坂本 独。

  前近代日本では、夫婦別姓。

■ 坂本龍馬の姉。 

■ 龍馬の母親代わり。

● 少年期に母を失った龍馬にとって(龍馬12歳の時に死去)、姉の乙女

 が、 実質的な育ての親と言える。

■ 龍馬のよき理解者であり、よき相談相手。

■ 土佐藩郷士の父・坂本八平(婿養子)と母・坂本幸(さち)の間の三女。

■ 文武両道で、大柄な女性。

■ 1856年、典医・岡上樹庵と結婚して一男一女(赦太郎、菊栄)をもう 

 けるが、家風の相違や夫の暴力・浮気などが原因で、1867年に離婚し、

 実家に戻る。

■ 1867年の龍馬暗殺後、 坂本乙女の下(もと)に身を寄せた、龍馬の

 妻(未亡人)の、お龍(おりょう、楢崎龍) とは不仲となる。

 

 

■ 乙女の父は、 坂本 直足(なおたり) (坂本 八平(はちへい)、1797

 -1856年) で、 婿養子(むこようし) である。

■ 乙女の生母は、 坂本 幸(さち、1796−1846年) である。 

■ 乙女の父の坂本 八平(直足)の後妻 は、 北代 伊與(伊予)(きただ

 い いよ、1804−1865)。  (注意) 前近代日本では、夫婦別姓。

 乙女の継母(ままはは)は、伊與(いよ、伊予)である。 

■ 乙女の兄は、 坂本 直方(権平(ごんぺい)、1814−1871年)で、

 郷士坂本家第4代目当主 である。 

■ 乙女の兄・権平の妻は、川原塚 千野 (かわはらづか ちや、1821−

 1858年)である。  (注意) 前近代日本では、夫婦別姓。

■ 乙女の姉は、 千鶴(ちづる)、 栄(えい) である。 

● 乙女の姉(長女)の千鶴(ちづる)は、高松家に嫁(とつ)ぐ。

■ 乙女の甥(おい)には、姉・千鶴の次男の、坂本 直寛(なおひろ、坂本

 南海男、1853−1911年) がいる。 17歳の時、龍馬の兄の坂本

 権平の養嗣子となる。 龍馬の兄・権平の死後、 郷士坂本家の5代

 目当主となる。 

● 乙女 は、 離婚後、 実家に戻り、坂本 直寛と共に暮らす。

■ 乙女の姪(めい)には、 兄・坂本 権平(直方)の娘(長女)の春猪(はる

 い)がいる。

■ 乙女の甥(おい)には、 姉・千鶴の長男の、高松太郎 (たかまつたろう、

 1842〜98年) がいる。 海軍操練所、亀山社中、海援隊に加わる。

● 1871年(明治4年)8月に、 坂本龍馬の姉・千鶴(ちづる)の長男・高松太

 郎が、 龍馬死後、 坂本直(なお)として、坂本龍馬の養嗣子)となる(名跡

 (跡目)を相続する)。

 

 

 

 坂本乙女 が登場する、面白く、 興味深 い、ドラマ、

 映画、ドキュメンタリー

 

 

■ 坂本乙女 (さかもとおとめ、1832年−1879年) は、 坂本龍

 馬の姉で、 龍馬の母親が早く亡くなったため、 龍馬の母親代わり

 となった女性 である。

● 少年期に母を失った龍馬にとって、姉の乙女が、 実質的な育て

 の親 と言える。

● NHK大河ドラマ「龍馬伝」では、 乙女(とめ) とも呼ばれている。

 

■ 坂本乙女 は、土佐藩郷士(ごうし)の父・坂本八平(養子)と母・

 坂本幸(さち)の間の三女で、 文武両道で、大柄(おおがら、身長五

 尺八寸約174cm、体重30貫約112kg)な女性 であった。 晩年

 は、乙女を、独と改名する。

 

■ 1846年、母親の坂本幸(さち)が亡くなったのちは (龍馬12歳)、

 坂本乙女 が、 坂本龍馬の母親代わりを務め、 書道、和歌、剣術

 などを龍馬に教えたり、 彼が当時患(わずら)っていた夜尿症(やに

 ょうしょう)を治した事もあった。 坂本乙女 は、龍馬のよき理解者と

 して、 龍馬の相談に乗ったり励ましたりした。

 

■ 坂本乙女 は、 1856年、 典医・岡上樹庵と結婚して一男一女 

 (赦太郎、菊栄)をもうけるが、 家風の相違や夫の暴力・浮気などが

 原因で、1867年(慶応3年)に離婚し、実家に戻る。

 

■ 坂本乙女 は、 1867年の龍馬暗殺後、 坂本乙女の元(もと)に

 身を寄せた、龍馬の妻(未亡人)の、お龍(おりょう、楢崎龍) とは不

 仲であったようで、 お龍 が、程なく、乙女の元(もと)を去り、 各地

 を放浪することとなった。

 

■ 甥(おい)には、姉・千鶴の次男の、坂本 直寛(なおひろ、坂本南

 海男、1853−1911年) がいる。 17歳の時、龍馬の兄の坂本

 権平の養嗣子となる。 龍馬の兄・権平の死後、 郷士坂本家の5代

 目当主となる。 

● 坂本乙女 は 離婚後、 実家に戻り、 明治期は、 坂本 直寛(な

 おひろ) と共に暮らす。

 

■ 坂本乙女 (独) は、1879年(明治12年)に、壊血病で、死去する。

 

 

■ 坂本 乙女 (さかもと おとめ) は、生没年は 1832年(天保3年)〜

 1879年(明治12年) で、 乙女 (おとめ、とめ)  と称し、、 晩年は、独

 と改名 する。

● 坂本 乙女の、正式名(本名)は、 坂本 乙女、後、坂本 独 である。

  1872年(明治5年)1月の戸籍法施行(壬申(じんしん)戸籍前の、

 前近代日本では、夫婦別姓 である、

■ 坂本 乙女 は、 坂本龍馬の姉 である。 

■ 坂本 乙女 は、 龍馬の母親代わりであり、 龍馬のよき理解者であり、

 よき相談相手 であった。

● 少年期に母を失った龍馬にとって(龍馬12歳の時に死去)、姉の乙女

 が、 実質的な育ての親と言える。

■ 坂本 乙女は、 父・坂本八平(婿養子)と母・坂本幸(さち)の間の三女

 である。

■ 坂本 乙女は、 文武両道で、大柄な女性 であった。

■ 坂本 乙女は、 1856年、典医・岡上樹庵と結婚して一男一女(赦太郎、

 菊栄)をもうけるが、家風の相違や夫の暴力・浮気などが原因で、1867年

 に離婚し、 実家に戻る。

■ 坂本 乙女は、 1867年の龍馬暗殺後、 坂本乙女の下(もと)に身を寄

 せた、龍馬の妻(未亡人)の、お龍(おりょう、楢崎龍) とは不仲となる。

 

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♪♪ 坂本乙女 が登場する、面白く、興味深い、

 ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 歴史のドラマ、映画 

 は、 史実(歴史上の事実) と 架空の出来事 が 混じって描かれて

 います。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 (2010年NHK大河ドラマ)。

● 坂本乙女を演じた女優 : 寺島 しのぶ。

● 坂本 龍馬を演じた俳優 : 福山 雅治 (ふくやま まさはる)。

 

   

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#sakamotogonpei

 

■ 坂本権平  

     (さかもと ごんぺい)  (坂本 直方)

 

■ 坂本権平。

■ 生没年 1814(文化11年)〜1871年(明治4年)。

■ 坂本 権平 (さかもと ごんぺい)。 

● 個人名の通称は、 権平(ごんぺい)、個人名の(いみな)は、 直方。

● 正式名(本名)は、坂本 直方。

■ 坂本龍馬の兄。  

■ 坂本龍馬の志士活動に理解を示し、支えた人物。

■ 土佐藩郷士の郷士坂本家の第4代目当主 (当主1856年〜1871年)。 

■ 郷士坂本家 は、土佐の豪商・才谷屋(さいたにや)の分家。

■ 権平の父は、 土佐藩郷士・坂本 直足(なおたり)(坂本 八平(はちへ

 い)、1797-1856年、婿養子(むこようし)) の長男。

■ 権平の生母は、 坂本 幸(さち、1796−1846年)。 

■ 権平の父・坂本 八平(直足)の後妻 は、 北代 伊與(伊予) (きただ

 い いよ、1804−1865)。  (注意) 前近代 日本では、夫婦別姓

 権平の継母(ままはは) は、伊與(いよ、伊予)である。 

■ 権平の妻は、川原塚 千野 (かわはらづか ちや、1821−1858年)。

 (注意) 前近代 日本では、夫婦別姓

■ 権平の子には、 娘(長女)の春猪(はるい)がいる。

■ 権平の姉妹 は、 千鶴(ちづる、長女)、 栄(えい、次女)、 乙女(おと

 め、三女、坂本乙女、1832−1879年) の3人である。 

● 姉(長女)の千鶴(ちづる)は、高松家に嫁(とつ)ぐ。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 権平の甥(おい)には、 姉・千鶴の長男の、高松太郎 (たかまつたろう、

 1842−98年) がいる。 亀山社中海援隊に加わる。

● 1871年(明治4年)8月に、 坂本龍馬の姉・千鶴(ちづる)の長男・高

 松太郎が、坂本直(なお)として、坂本龍馬の養嗣子となる (名跡(跡目)

 を相続する)。

■ 権平の甥(おい)には、 姉・千鶴の次男の、坂本 直寛(なおひろ、坂本

 南海男、1853−1911年) がいる。 17歳の時、権平の養嗣子となる。 

 権平の死後、 郷士坂本家の5代目当主となる。

 

 

 

□ 坂本 権平(直方) が登場する、面白く、興味深い、

 ドラマ、映画、ドキュメンタリー

 

■ 坂本 権平 (さかもと ごんぺい、 生没年 1814−1871年) は、

 坂本龍馬の兄 である。 

 

■ 坂本 権平(坂本直方) は、 土佐藩郷士・坂本 八平(はちへい)(坂本

 直足(なおたり)、1797-1856年) の長男 である。

 

■ 坂本 権平の正式名(本名) は、 坂本 直方 である。

 

■ 坂本 権平(坂本直方) は、 郷士坂本家第4代目当主 である。 

● 龍馬とは21歳の年齢差がある。 龍馬の父が死んだあと、 坂本 権平

 (坂本直方) が、 龍馬の父親代わりであった。 坂本龍馬の志士活動に

 理解を示し、支えた人物 である。

 

■ 坂本 権平(坂本直方) は、 郷士坂本家の第4代目当主 (当主185

 6年〜1871年) であった。 

 

■ 郷士坂本家 は、土佐の豪商・才谷屋(さいたにや)の分家 であり、郷

 士坂本家は、豪商の本家から援助を受けて豊かであった。

 

■ 権平の父は、 土佐藩郷士・坂本 直足(なおたり)(坂本 八平(はちへ

 い)、1797-1856年、婿養子(むこようし)) で、 郷士坂本家第3代目

 当主であった。

 

■ 権平の生母は、 坂本 幸(さち、1796−1846年) で、 郷士坂本家

 第2代目当主の坂本直澄の娘 である。

 

■ 権平の継母(ままはは) は、伊與(いよ、伊予)である。

●  権平の父・坂本 八平(直足)の後妻 は、 北代 伊與(伊予) (きただ

 い いよ、1804−1865) である。  (注意) 前近 日本では、夫婦別姓

 

■ 権平の妻は、川原塚 千野 (かわはらづか ちや、1821−1858年)

 である。  (注意) 前近代日本では、夫婦別姓

 

■ 権平の子には、 娘(長女)の春猪(はるい)がいる。

 

■ 権平の姉妹 は、 千鶴(ちづる、長女)、 栄(えい、次女)、 乙女 (お

 とめ、三女、坂本乙女、1832−1879年 )) の3人である。 

● 姉(長女)の千鶴(ちづる)は、高松家に嫁(とつ)ぐ。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 権平の甥(おい)には、 姉妹・千鶴の長男の、高松太郎 (たかまつたろう、

 1842〜98年) がいる。 海軍操練所、亀山社中、海援隊に加わる。

● 1871年(明治4年)8月に、 坂本龍馬の姉・千鶴(ちづる)の長男・高松

 太郎が、 龍馬死後、 坂本直(なお)として、坂本龍馬の養嗣子となる(名跡

 (跡目)を相続する)。

 

■ 権平の甥(おい)には、 姉妹・千鶴の次男の、坂本 直寛(なおひろ、坂本

 南海男、1853−1911年) がいる。 17歳の時、権平の養嗣子となる。 

 権平の死後、 郷士坂本家の5代目当主となる。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 権平の弟・坂本龍馬の妻は、 お龍(おりょう) 即ち、 楢崎龍 (ならさき 

 りょう、1841−1906年) である。

 

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♪♪ 坂本 権平(直方) が登場する、面白く、興味 深い、ド

 ラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 坂本 権平(直方) を描いた、面白く、 興味深い、ドラマ、

 映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 歴史のドラマ、映画 は、

 史実(歴史上の事実) と 架空の出来事 が 混じって描かれています。 

 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 (NHK2010年大河ドラマ) 

● 坂本 権平(直方)を演じた俳優名 : 杉本 哲太 (すぎもとてった)。

● 坂本龍馬を演じた俳優名 : 福山 雅治 (ふくやま まさはる)。

 

  

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#sakamotoryomagaaishitajoseitachi

 

 坂本龍馬が愛した女性達 

   (さかもとりょうまがあいしたじょせいたち)。

 

 坂本龍馬が愛した女性達。

■ 平井 加尾 (ひらい かお)、 千葉 佐那 (ちば さな)、 お龍 (おりょう)

  (= 楢崎 龍 (ならさき りょう))。

■ 3人の他にも、 お元(おもと)、 お蝶(おちょう)、 錦路、等がいた。

 

□ 坂本 龍馬 画像 NO.1

 

■ 平井 加尾 (ひらい かお)

 □ 平井 加尾 と坂本龍馬との交際の概略

 □ 平井 加尾 と坂本龍馬との交際の詳細

 

■ 千葉 佐那 (ちば さな) 

 □ 千葉 佐那 と坂本龍馬との交際の概略。 

 □ 千葉 佐那 と坂本龍馬との交際の詳細。 

 

 楢崎 龍(ならさき りょう) (= お龍 (おりょう) )

  お龍 と坂本龍馬との交際の概略

  お龍 と坂本龍馬との交際の詳細

 

 

 

 

■ 幕末の政治改革者である坂本龍馬 は、 色々

 な女性に恋をし、深く愛した。 ここでは、主な女性

 を取り上げた。

 

■ 平井 加尾 (ひらい かお)は、 土佐の土佐藩士の娘 であり、 千

 葉佐那 (ちば さな)は、 江戸の剣術道場主の娘 であり、 お龍

 (おりょう) (= 楢崎 龍( ならさき りょう)) は、 京(都)の町医者

 の娘  であった。

 

 

■ 龍馬が熱愛した女性は、 上記3人の他にも、

 お元(おもと)、錦路、お蝶(おちょう) 等がいた。

 

■ お元(おもと)は、 長崎の丸山の遊女、 錦路 は、長崎の丸

 山の遊女、 お蝶(おちょう)は、 江戸在住の、京(都)の公家の

 元腰元(侍女) であった。 

● お元(おもと) は、 龍馬にとって、 長崎妻ともいえる存在で、

 長崎の吉原と呼ばれた丸山の遊女で、 美女であった。 龍馬が

 長崎の清風亭で後藤象二郎と会見した席にも侍(はべ)っていた。

 

■ 錦路 は、 長崎の丸山の遊女で、 龍馬のお気に入りの女性

 で、 「深い契りを結ぶ身」であったと言われている。 長崎の亀山

 社中の仲間と丸山へ繰り出した時に、よく会っていた。

 

■ お蝶(おちょう) は、 京美人で、 京(都)で公家の腰元(侍女)

 をしていた女性を、龍馬が江戸へ連れて行き、 江戸妻としたと言

 われている女性 である。  土佐勤王党の同志の大石弥太郎が

 回顧録の中で述べている。

 

□ 坂本 龍馬 が愛した女性 が登場する、面白く、

 興味深い、ドラマ、映画 、ドキュメンタリー

 

 

◆ 平井 加尾 と 坂本龍馬 との交際概略 

 (龍馬との交際期間 :1836年〜1862年)。

 

■ 平井 加尾 (ひらい かお) は、 龍馬の地元の土佐 (高知県)

 の幼馴染(おさななじみ)の女性で、 土佐藩士の娘である。 

  加尾 は、 龍馬と共に青少年期を共に過ごした、恋人の女性で、 

 龍馬の初恋の女性 である。 龍馬と加尾 は、 土佐 (高知県) 

 では、よく 逢引(あいびき、デート)をしていた。 1862年、龍馬が

 土佐藩脱藩時、 京(都)にいた加尾は、 龍馬より駆け落ちの誘い

 を受けたが断り、 それ以後、龍馬との交流を断つ。

 

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◆ 千葉 佐那 と 坂本龍馬 との交際概略   

 (龍馬との交際期間 :1853年〜1867年)。 

 

■ 千葉 佐那 (ちば さな) は、 龍馬とは、江戸(東京)で知り合

 った女性で、 江戸の剣術道場主・千葉定吉の娘 である。

  佐那 (さな) は、 1853年(嘉永6年)に、 龍馬が遊学先の

 江戸(東京)の剣術道場 (千葉定吉の桶町(おけまち)千葉道場

 (通称:小千葉道場)) で知り合い、 その後、龍馬の恋人となっ

 た女性であり、 剣術の達人である。 

  佐那 は、 龍馬を、一生、愛した女性である。  龍馬と婚約を

 交わしたとも言われている。 

  佐那 は、 龍馬の死後、明治期、 学習院女子部に舎監として

 奉職した後、 東京の千住にて針灸を生業としてすごした。 

  佐那は、 龍馬の死後も、 龍馬のことが忘れられず、一生、独

 身で過ごした。 

 

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◆ お龍 (楢崎 龍) と 坂本龍馬 との交際概略   

 (龍馬との交際期間 :1864年〜1867年)

 

■ お龍 (おりょう) (楢崎 龍 (ならさき りょう)) は、 龍馬とは、

 京都で知りあった女性で、 京都の医者の娘である。 

  医者の父(養父)が勤王(勤皇)支持者で、 幕府に捕縛され、 安

 政の大獄に連座して、1863年(文久3年)に獄死した。 

 

■ 父の捕縛後、 一家は、経済的に困窮し、 お龍 は、母、 弟2人、

 妹2人を抱えて、一家の大黒柱となり、 母親や弟妹を養うために、

 料理屋、旅館等で働いていた。 そのような情況で、お龍または母親

 が、勤王の志士の賄(まかな)い(炊事の手伝い)をしていた時に、お

 龍は、勤王の志士として京都で活動していた坂本龍馬と知り合ったと

 言われている。 そして、お龍は、龍馬に気に入られて、 龍馬の恋人

 となる。 

 

■ 1864年8月に、お龍(おりょう)は、 龍馬と結婚の内祝言(うちし

 ゅうげんん)をあげ、 龍馬の事実上の妻 (内妻) となる。 

 

■ 1866年(慶応2年)1月に、お龍は、京(都)の寺田屋(てらだや)

 でも龍馬を助けた (寺田屋事件)。 お龍は、 その直後に、 薩摩藩

 の小松帯刀(たてわき)や西郷隆盛らの誘いで、結婚祝いに二人で、

 薩摩(さつま、鹿児島県)へ温泉旅行をした。  これが、 日本で初め

 てのハネムーン (西洋流新婚旅行) だと言われている  (龍馬が寺

 田屋で負った傷の療養を兼ねた旅行だった)。

 

■ 1867年(慶応3年)11月に、 龍馬が京都の近江屋(おうみや)で

 暗殺された時、 お龍は、 近江屋に居なかったため、 難を逃れた。

 

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◆ 平井 加尾 と 坂本龍馬 との交際詳細   

◆ 坂本龍馬の土佐での初恋の女性で、 土佐でよく逢引をしてい

 た、平井 加尾 (ひらい かお)。 

 

■ 平井 加尾 (ひらい かお) は、生没年は 1838年(天保9年)

 〜1909年(明治42年) で、 平井 嘉尾 (ひらい かお) とも

 言い、 のちに、1878年(明治11年)以後、 西山 加尾 (にしや

 ま かお) と称す。

■ 平井 加尾 (ひらい かお) は、 土佐藩士・平井直澄の娘で、

 土佐国(とさのくに、現在の高知県)の土佐郡井口村の出身である。

■ 平井 加尾 は、 坂本龍馬の初恋の女性で、 龍馬を振る。 

 後に、家のため(平井家存続のため)、婿養子をとり、別の男性・

 西山志澄と婚儀を結ぶ。

● 平井 加尾 は、 土佐藩の平井家の跡取りの兄が自害し、平

 井家の跡取り娘となり、 平井家の婿養子に入った男性・西山志

 澄(にしやま ゆきずみ)と婚儀を結ぶ。

 

■ 平井 加尾 (ひらい かお) は、龍馬の地元の土佐 (高知県)

 の幼馴染(おさななじみ)の女性で、 土佐藩士の娘である。 

  加尾 は、 龍馬と共に青少年期を共に過ごした、恋人の女性で、 

 龍馬の初恋の女性 である。 龍馬と加尾 は、 土佐 (高知県) 

 では、よく 逢引(あいびき、デート)をしていた。 1862年、龍馬が

 土佐藩脱藩時、 京(都)にいた加尾は、 龍馬より駆け落ちの誘い

 を受けたが断り、 それ以後、龍馬との交流を断つ。

 

■ 平井 加尾 (ひらい かお) は、 三条家に嫁(とつ)いだ土佐藩

 主・山内容堂の妹・友姫 (ともひめ)の御付役(世話役)として、 18

 59年(安政9年)に、上洛し、 以後、 1862年(文久2年)まで、京

 (都)の三条家に仕えた。

 

■ 1862年(文久2年)に、 加尾の兄・平井収二郎 (ひらいしゅうじ

 ろう) は、藩主が京(都)に上洛した際、勤王運動のため、武市半平

 太と共に、 京(都)に入る。

 

■ 1862年(文久2年)に、平井 加尾 は、 龍馬が土佐藩脱藩時、

 龍馬より駆け落ちの誘いを受けた時、 土佐出身で土佐藩士の娘

 である加尾 は、悩み、 加尾の兄・平井収二郎も止めに入り、土

 佐藩を脱藩し放浪する、龍馬との駆け落ちを断念する。

● 坂本龍馬が平井 加尾に男装用の身支度を用意するように指示

 する文書が残っている。   

● 1862年(文久 2年) 3月に、 坂本龍馬は、土佐藩を脱藩する。

  その直後、「土佐勤王党」による吉田東洋(よしだとうよう)の暗殺事

 件が起こる。 当初は、坂本竜馬が実行犯として疑われた。 坂本龍

 馬は、九州などを放浪した後、江戸へ入り、千葉道場に身を寄せる。 

 

■ 加尾の兄・平井収二郎 (ひらいしゅうじろう) は、 土佐勤王党

 に参加し、 勤王運動を行う藩政改革を計画したが、 土佐藩の実

 権を握る公武合体派の前藩主・山内容堂により、 1863年に、切

 腹させられた。

 

■ 平井 加尾 は、 恋人の坂本竜馬への想いを振り切って、平井家

 を存続させるため、1866年(慶応2年)に、 土佐勤王党に加わって

 いた、土佐藩士・西山志澄 (にしやま ゆきずみ)を平井家の婿養子

 に迎えて、 志澄と婚儀を結び、 志澄に平井家を継がせた。

 

■ 平井 加尾の墓 は、 東京の青山霊園にある。 墓には、「西山

 加尾」 と銘記されている。.

 

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◆ 千葉 佐那 と 坂本龍馬 との交際詳細   

◆ 坂本龍馬が江戸で知り合い、愛した女性の、千葉 佐那(ちば

  さな)。

 

■ 千葉 佐那 (ちば さな)は、生没年は 1838年(天保9年)〜

 1896(明治29年)で、 別名は、 千葉 佐那子(ちば さなこ)、

  千葉 さな子(ちば さなこ) とも言う。

■ 千葉 佐那(ちば さな) は、 江戸出身 で、千葉定吉(千葉

 周作の弟)の二女 である。 千葉周作は、北辰一刀流剣術の開

 祖である。

■ 千葉 佐那 は、 坂本龍馬の恋人で、 美貌で知られ、竜馬の

 死後も彼を想い続け、一生を独身で過ごした。

 

■ 千葉 佐那  (ちば さな) は、 龍馬とは、江戸(東京)で知り

 合った女性で、 江戸の剣術道場主・千葉定吉の娘である。

  佐那 (さな) は、 1853年(嘉永6年)に、 龍馬が遊学先の

 江戸(東京)の剣術道場 (千葉定吉の桶町(おけまち)千葉道場

 (通称:小千葉道場)) で知り合い、 その後、龍馬の恋人となっ

 た女性であり、 剣術の達人である。 

  佐那 は、 龍馬を、一生、愛した女性である。  龍馬と婚約を

 交わしたとも言われている。 

  佐那 は、 龍馬の死後、明治期、 学習院女子部に舎監として

 奉職した後、 東京の千住にて針灸を生業としてすごした。 

  佐那は、 龍馬の死後も、 龍馬のことが忘れられず、一生、独

 身で過ごした。 

 

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◆ お龍 (楢崎 龍) と 坂本龍馬 との交際詳細     

◆ 坂本龍馬が京(都)で知り合い、愛した女性の、お龍(おりょう)。

 

■ お龍 (おりょう) は、 生没年は 184 1年?〜1906年(明治

 39年)  で、 正式名(本名) は、楢崎 龍 (ならさき りょう) と

  いう。 生年は、1840年という説もある。

〇 明治初期の戸籍法令制定の前は(前近代の日本では)、夫婦

 別姓。

● 明治期に、 2番目の夫の西村松兵衛と再婚して、 西村つる

 (西村ツル) と称す。

■ お龍 は、父の京都の医師の楢崎 将作の長女 である。

● お龍 は、 実父は西陣織物商で、 のち、医師の楢崎 将作の

 養女となったという説もある。

■ お龍 は、坂本龍馬の妻 (坂本龍馬と結婚した女性) である。

■ お龍の最初の夫は、幕末に、結婚した、坂本龍馬 である。

● お龍の夫の坂本龍馬は、1867年(慶応3年、明治改元の前年)

 の11月に、京(都)の近江屋(おうみや)で、暗殺される。

■ お龍の2番目の夫は、明治期に、結婚した、西村松兵衛 である。

■ お龍 は、 日本人初のハネムーン(西洋流新婚旅行)をした女

 性と言われている。

■ お龍 は、 龍馬の死後、 土佐(高知県)、京(都)、東京、その

 他の地をを転々とし、 横須賀に定住した。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ お龍の父の医師の楢崎将作は、勤王(勤皇)支持者で、安政の大

 獄で捕らえられ、その後、獄死した。

  このため、お龍(りょう)や母、幼い4人の弟妹は生活に困るように

 なり、 お龍(りょう) は、 一家を養うため、料理屋、旅館等で働い

 た。 また、お龍 または 母 が 勤皇の志士の賄(まかな)いをして

 いたと言われている。 このときの縁で、 お龍 は、坂本竜馬の隠れ

 家(かくれが)で、 龍馬と出会い、自由奔放なところを気に入られ、 

 恋人となる。 その後、龍馬の世話で、寺田屋に奉公することになる。

 

● 1864年(元治元年)8月に、 お龍(おりょう)は、 龍馬と結婚の

 内祝言(うちしゅうげん)をあげ (京都東山粟田の金蔵寺にて住職

 の媒酌で内祝言を挙げ、龍馬30歳、お龍24歳)、 お龍は、龍馬

 の事実上の妻 となる。 

 

■ お龍(りょう) は、 寺田屋事件の時、 1866年 1月に京・伏見の

 寺田屋が幕吏(ばくり)に包囲された時、 お龍は、1階で、風呂に入

 っていたが、気づいて、 風呂から出て、衣類をまとい (裸のままで

 はなく、濡れ肌で袷を1枚ひっかけて)、2階へ上がり、 龍馬に危機

 を知らせ、 龍馬を救った。 寺田屋事件の詳細は、「三吉慎蔵日記

 抄録」に書かれている。

  その後間もなく、1866年、 お龍は、 龍馬の怪我の養生の旅行

 を兼ねて、 薩摩藩へ結婚祝いの新婚旅行を楽しんだ。 これが、日

 本最初のハネムーン(西洋式新婚旅行)であった と言われている。

 

■ 1867年(慶応3年)11月に、 龍馬が京(都)の近江屋で暗殺され

 た時、 お龍は、 近江屋に居なかったため、 難を逃れた。

● 1867年に、龍馬は、 下関に寄り、廻船問屋・伊藤家に妻のお龍

 を預けたため (お龍は下関の豪商の伊藤助太夫の元にいたため)、 

 お龍は、京(都)には、いなかった。

 

■ 龍馬死後、 龍馬の意志の通り、 お龍は、 1968年(慶応4年)

 3月に、 土佐の坂本家へ行き、 龍馬の姉、坂本乙女の元に身を寄

 せたが、 2人は、不仲となり、 お龍は、そこを去り、 京都へ行き、

 龍馬の暗殺された近江屋で、泣き明かしたと言われている。  その

 後、 各地を転々としながら横須賀へ流れ、 行商人の西村松兵衛と

 再婚した。

 

■ 坂本龍馬喪失の悲嘆から、お龍は、 晩年、アルコール依存症状

 態であったと伝えられている。 酔っては、 私は、坂本龍馬の妻だと

 こぼしていたと言われている。

 

■ お龍 は、1906年、 横須賀にて、 66歳で死去している。

● 坂本龍馬、西村松兵衛、いずれの夫との間にも、子はなかった。

● お墓は、横須賀市大津の信樂寺(しんぎょうじ)にある。 お龍のお

 骨の一部は、 龍馬の眠る京都霊山護国神社に葬られた。

 

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♪♪ 坂本 龍馬 が愛した女性 が登場する、面白く、

 興味深い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 坂本龍馬の愛した女性 が登場する、面白く、興味

 深い関連ドキュメンタリー。 

 

■ その時歴史が動いた 『 龍馬が愛した女 幕末、

 愛と別れの物語 』 (NHK2005年(H17)2月本放送ドキ

 ュメンタリー番組、第206回)。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 フリーをなめたらいかん

 ぜよ!〜坂本龍馬と海援隊 夢と挑戦の日々〜』 

 (NHKの2009年(平成21年)11月11日本放送、第22回)。

 

★ 坂本龍馬の愛した女性 が登場する、面白く、興味

 深い関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 歴史のドラマ、映画 

 は、 史実(歴史上の事実) と 架空の出来事 が 混じって描かれて

 います。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 (日本の2010年NHK大河ド

 ラマ)。

● お龍(おりょう)を演じる女優 : 真木 よう子 (まき ようこ)。

● 平井 加尾(ひらい かお)を演じた女優 : 広末 涼子 (ひろす

  え りょうこ)。

● 千葉 佐那(ちば さな)を演じた女優 : 貫地谷 しほり (かん

 じや しほり)。

● 坂本 龍馬を演じた俳優 : 福山 雅治 (ふくやま まさはる)。

 

   

   ○ ドラマ関連の書籍販促のPRフォト。 

■ 『 日曜劇場 JIN−仁 』 (日本の2009年TBSテレビ

 ・ドラマ)。

● 坂本 龍馬を演じた俳優 : 内野 聖陽 (うちの まさあき)。

 

■ 『 篤姫 (あつひめ) 』 (日本の2008年NHK大河ドラマ)。

● お龍(りょう)を演じた俳優名 : 市川 実日子 (いちかわ みかこ)。

● 坂本 龍馬を演じた俳優 : 玉木 宏 (たまき ひろし)。

 

■ 『 竜馬がゆく 』 (日本の2004年テレビ東京・ドラマ)。

● お龍(りょう)を演じた俳優名 : 内山 理名 (うちやま りな)。

● 坂本 龍馬を演じた俳優 : 市川 染五郎 (7代目)。

 

■ 『 新選組!(しんせんぐみ) 』 (日本の2004年NHK大河

 ドラマ)。

● お龍(りょう)を演じた俳優名 : 麻生 久美子 (あそう くみこ)。

● 坂本 龍馬を演じた俳優 : 江口 洋介 (えぐち ようすけ)。

 

■ 『 坂本竜馬 』 (日本の1989年TBS・ドラマ)。

● お龍(りょう)を演じた俳優名 : 名取 裕子 (なとり ゆうこ)。

● 坂本 龍馬を演じた俳優 : 真田 広之。

 

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□ 日本史 辞典 の 「 さ 」 基本見出し語

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『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』

 

 

以  上