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 カナヤマ 日本歴史 辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 い 』

 NO.1230。

 

 

メ ニュー (目次)  #jpmenu     

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□ 日本史 辞典 (総合)         

□          ● 五十音順 (アイウエオ順)。

〇 いし  石田 三成

             (いしだ みつなり)。 《人名》。

          (= 石田佐吉(いしだ さきち、通称)

             石田 治部いしだ じぶ)、治部少輔

          (じぶのしょう、官位)。

          (1560年ー1600年)。

                ISHIDA Mitsunari.

          ○ 1574年頃または1577年

          頃より羽柴氏(豊臣氏)家臣と

          なる。

             ○ 豊臣氏の家臣、豊臣秀吉の

          側近。 

          ○ 安土桃山時代の武将、大名。 

          ○ 豊臣政権の五奉行の一人。

          ○ 慶長5年の天下分け目の 

          戦い(関ヶ原の戦い(大垣・山中

          の戦い)、他の戦い)で、敗戦し、

          処刑される。

                    □ 豊臣氏 画像アルバム 

                        No.1

                    □ 豊臣氏 画像アルバム 

            No.2

                     (⇒ 五奉行五大老、豊臣氏五

          大老・五奉行豊臣政権

          豊臣氏)。

                            ■ 石田 三成 (いしだ みつなり、= 石田

             治部いしだ じぶ)、1560年ー1600年)

             は、 豊臣氏の家臣、豊臣秀吉の側近で

             あり、 安土桃山時代の武将、大名であり、 

              豊臣政権の五奉行の一人である。

              ● 石田三成 (いしだ みつなり、石田 治

             部いしだ じぶ)、1560年ー1600年)は、

             近江(おうみ、現・滋賀県)の石田正継(ま

             さつぐ)の子で、 安土桃山時代に活躍し

             た武将・大名であり、 豊臣氏の家臣、豊

             臣秀吉の側近であり、「豊臣氏五奉行」の

             一人であった。

              ● 石田三成は、 若くして豊臣秀吉に仕え、

             1591年(天正19年)に近江佐和山・21万

             石を領し、佐和山城主となる。

              ● 石田三成は、通称・佐吉(さきち)、官位・

             治部少輔(じぶのしょう)とも称した。

             ● 石田三成は、 奉行として、秀吉の天下

             取りの戦い、朝鮮の役(文禄・慶長の役)、

             内政で、軍需品輸送、占領政策、太閤検地

             などで活躍した。 

             ■ 石田三成は、 豊臣秀吉死後、1600

             年(慶長5年)の天下分け目の戦い(関ヶ

              原の戦い(大垣・山中の戦い)、他の戦い)

             で、敗戦し、捕縛され、処刑される。

 

 

 ● 五十音順 (アイウエオ順)。

 

□ 日本史 辞典 の 「い」 基本見出し語 の

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■  『 現在は、過去の成果であり、

    未来は、現在の成果である。 

 

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◆ 日本史辞典

 

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#i

 

#ishidamitunari

 

■ 石田 三成  

         (いしだ みつなり)。

 

■ 石田 三成 。 

■ 名称 : 石田 三成 (いしだ みつなり)。 

■ 別名 : 石田 佐吉(いしだ さきち、通称)、

  石田 治部いしだ じぶ)、治部少輔 (じぶの

     しょう 、官位)。

■ 生没年 : 1560年〜1600年。 

■ 安土桃山時代の武将、大名。 

■ 豊臣家(豊臣氏)恩顧(おんこ)の武将。

■ 1574年(天正2年)頃または1577年(天正5

   年)頃より羽柴氏(豊臣氏)家臣となる。

 豊臣政権では、 近江閥 (近江出身の豊臣家

  家臣)で、 文治派 (豊臣政権で、 政務を多く

  担った武将) であった。

■ 豊臣政権の官僚で、 五奉行の一人。

 

□ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中

   の戦い)」 画像アルバム No.2

□ 「従来説 (伝説)関ヶ原の戦い」

   像アル バム No.3 

□ 豊臣氏 画像アルバム No.1

□ 豊臣氏 画像アルバム No.2

□ 石田 三成が登場する、興味深い、

   ドキュメンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 石田 三成 (いしだ みつなり、生没年:1560年

  〜1600年、石田 治部いしだ じぶ))は、 安土

  桃山時代(1573〜160 3年)の武将、大名であり、 

  豊臣政権の官僚で、五奉行の一人であった。 

 

■ 石田 三成は、豊臣家(豊臣氏)恩顧(おんこ)の

  武将であった。 

 

 石田 三成は、 豊臣政権では、 近江閥 (近江

  出身の豊臣家家臣)で、 文治派 (豊臣政権で

  政務を多く担った武将) であった。

 

■ 石田 三成は、 近江国(おうみのくに、現在の滋

  賀県)佐和山(さわやま)19万石の領主 である。

■ 石田 三成は、 全国的な物流システムを作り上

  げた。

■ 石田 三成は、 検地改革(太閤検地)を行い、

  全国的に石高(生産高)を明らかにした。

■ 石田 三成は、 地方の大大名になるより、大阪

  で(中央で)政務をつかさどる道を選んだ。

■ 石田 三成は、 徳川家康が恐れた男である。

● 石田 三成は、 豊臣政権による統一国家を守

  ろうとした。

■ (新説)石田 三成は、1600年(慶応5年)、豊

  臣政権を守ろうとして、家康に対抗して、西軍

  の一翼を担う。

● (従来説) 石田 三成は、1600年(慶応5年)、

  豊臣政権を守ろうとして、家康に対抗して、西

  軍を組織した。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 石田 三成 は、 近江国(おうみのくに、現在の

  滋賀県)の佐和山(さわやま)19万石の領主 で

  あった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 石田 三成 (石田佐吉)は、1560年(永禄3年)に、

  近江国の土豪・武将の石田正継(いしだまさつぐ)

  の次男として、生まれる。

 

■ 石田 三成は、 石田 佐吉(さきち、通称)と称し

  た。 また、石田 治部いしだ じぶ)、 治部少輔

  (じぶのしょう、官位)と呼ばれた。  

     三成が、1585〜1600年に、治部少輔の

  官位に叙任されていたため。

     石田 三成は、 1585年(天正13年)に、 

  秀吉の関白就任に伴い、 従五位下治部少輔

  (じゅごいのげ・じぶのしょう)に叙任(じょにん)

  される。

 

■ 石田 三成は、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕官する。

■ 石田 三成は、 1574年(天正2年)頃または15

   77年(天正5年)頃より、羽柴氏(豊臣氏)家臣と

  なる。

 

■ 三献の茶

    三献の茶 (さんけんのちゃ) とは、安土桃山時代

  に、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が石田三成を臣下(家臣)に

  するきっかけとなった時の話である。

    三献の茶は、 秀吉が近江国 (おうみのくに、現・

  滋賀県の相当地域)の琵琶湖畔の長浜(ながはま)で

  城主をしていた時、 領内の検分のため鷹(たか)狩り

  の帰りに訪れた近江国の寺で、寺に預けられていた三

  成は秀吉に3杯の茶を差出し、秀吉が知恵配り・心遣い

  に感動し秀吉に気に入られ、秀吉が三成を家臣に加え

  たという話である。

      秀吉が訪れた近江国の寺(観音寺または三珠

  院)で、寺小姓の三成に茶を所望した際、 三成は、秀

  吉が喉が渇いているであろうと思い、 ぬるい茶で喉の

  渇きを癒させ後に熱い茶を十分味あわせるため、一杯

  目は、大きめの茶碗にぬるい茶を差出し、二杯目はや

  や小さな茶碗にやや熱めの茶を差出し、三杯目は、小

  さな茶碗に熱めの茶を差出したという話である。

      三献の茶の話は、安土桃山時代の当時の書物

  ではなく、後の江戸時代中期に書かれた書物「武将感

  状記」に記されているが、事実かどうかは不明である。

 

■ 石田三成の正室夫人は、 皎月院 (こうげついん、

  生年不詳ー1600年)であり、 宇多 頼忠(うだ より

  ただ)の娘である。

● 皎月院は、 「真田丸」(2016年NHK大河ドラ

  マ)では、「うた」という名(仮称)で登場する。

             

 

■ 石田 三成 は、豊臣政権の下(もと)で、全国的

  な物流システムを作り上げた。

● 石田 三成 は、豊臣政権の下(もと)で、全国的

  な物資補給システムを作り、豊臣政権をささえた。

 

■ 石田 三成 は、豊臣政権の下(もと)で、 検地

  改革(太閤検地)を行い、全国的に石高(生産高)

  を明らかにした。

● 1590年に、秀吉が、日本全国を統一すると、秀吉

  の家臣の、石田 三成は、 検地奉行として、 本

  格的に、日本全国で、 検地(太閤検地)を行った。

 

■ 1590年の豊臣秀吉の北条攻めの時、 秀吉側

  近として物流面で関東各地の北条勢力の一掃に

  尽力した。

     石田 三成は、 秀吉側近として物流面で関東

  各地の北条勢力の一掃に尽力し、また、1590年

  の北条攻めの時、忍城(おしじょう)の戦いで、豊臣

  軍の武将としても戦ったが、苦戦した。

  

■ 石田 三成は、 豊臣政権下で、 地方の大大名

  になるよりは、 大阪で(中央で)、 政務をつかさ

  どる道を選んだ。

 

■ 石田 三成は、 徳川家康が恐れた男である。

● 石田 三成 は、豊臣政権による統一国家を守ろ

  うとした。 石田 三成は、1600年、豊臣政権を守

  ろうとして、家康に対抗して、西軍を組織した。

 

■ 石田 三成は、 豊臣政権で 文治派の中心人物

  で、権勢をふるった。 豊臣政権の五奉行の一人

  にもなった。

 

■ 1586年(天正14年)に、 石田 三成は、 当時

  知将、智勇兼備の名将として名高い島左近(しま

  さこん)を、 2万石の知行を与えて召抱(めしか

  か)えた。

 

 

 「関ヶ原の戦い(大垣・山中の戦い)」。

■ 石田三成は、 豊臣秀吉死後、1600年(慶長

  5年)の天下分け目の戦い(関ヶ原の戦い(大垣・

  山中の戦い)、他の戦い)で、敗戦し、捕縛され、

  処刑される。

             

● 石田 三成は、1600年9月の関が原の戦いに敗

  れた後、 隠れていたが、捕まり、 1600年10月

  に、処刑される(斬首される)。

 

 

◆ 「新説の関ヶ原の戦い(= 大垣・山中

  の戦い)」。

 

 「新説関ヶ原の戦い」と決戦。

■ 一次史料に基づく「新説の関ヶ原の戦い(= 大

  垣・山中の戦い)」(1600年(慶長5年)8月26

  日頃ー9月15日)では、西軍(奉行衆方)南宮

  の 大垣城後詰軍の毛利勢が東軍の徳川方

  から攻撃を受け敗北すると西軍(奉行衆方)が

  駐留する大垣城が孤立し不利となるので、大垣

  城に駐留していた西軍の奉行衆・毛利方の小西・

  宇喜多・石 田・島津勢等の軍は、1600年(慶長

  5年)9月15日に予想される東軍の徳川方によ

  る南宮山の西軍の奉行衆・毛利方の毛利勢へ

  の攻撃に備えて(の後詰として)、1600年(慶長

  5年)9月14日の日没後、大垣城を出て、関ヶ原

  盆地・山中(やまなか)方面へ向い、 西軍の奉

  行衆・毛利方の小西・宇喜多・石 田・島津勢等

  の西軍主力軍・約3万人の兵は、9月15日の午

  前4時頃、 山中(やまなか)付近に布陣し、その

  後、 1600年(慶長5年)9月15日の午前10時

  頃から正午頃まで、 西軍主力軍を追って大垣付

  近から移動してき東軍の徳川方の東軍主力軍・

  約5万1000人の兵と山中で決戦を行い、敗北す

  る。

 

■ 石田三成。

■ 「新説の関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

  では、石田三成は、 西軍結成(挙兵)の首謀者

  ではなく、 家康と良好な関係にあったが、 西

  (奉行衆 ・毛利方)の大谷吉継の説得で西軍

  に加わる。

 

■ 「新説の関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

  は、 石田三成は、 豊臣秀吉 の死後、徳川家

  康とは友好な関係であったが、 1600年(慶長

  の5年)天下分け目の戦い (関ヶ原の戦い(大垣・

  山中の戦い)、他の戦い)では、 大谷吉継の説

  得で、  西軍(奉行衆 ・毛利方)に加わり、敗れて、

  捕まり、処刑される(斬首される)。

 

 

 「新説関ヶ原の戦い」の決戦時の

   石田三成の動き。

 ■ 西軍の奉行衆・毛利方の石田三成は、 16

  00年(慶長5年)9月14日の日没後に、大垣

  城から出て、以前から築いておいた、山中(や

  まなか)付近の藤下(と うげ、関ヶ原盆地の笹

  尾山から南3km)の自害峯(じがいみね)と

  いう場所に午前4時頃、布陣し、石田三成は、

  その後、他の西軍の諸将と合流するため、

  自害峯のすぐ近くの山中(やまなか)に移動し、

  大垣付近から移動してくるかもしれない東軍

  の徳川方の東軍主力軍 や 裏切るかもしれ

  ない松尾山山麓に布陣する西軍(奉行衆方)

  の小早川秀秋の軍に備え,、そして、石田三

  成は、午前10時頃から正午頃まで、山中(や

  まなか)で、西軍主力軍の一翼を担い、大垣

  付近から移動してきた東軍の徳川方の東軍

  主力軍と決戦を行い、敗北する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 山中の戦い。

 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」の

  1つの、「山中の戦い」では、  第1段階として、

  1600年(慶長5年) 9月15日の夜明けに関が

  原西部で、東軍(徳川方)の徳川本隊約3万20

  00人)・小早川(約8000人)等の軍と西軍(奉

  行衆方)の先方隊の大谷軍(約1200人)との間

  で戦われ、西軍(奉行衆方)の大谷軍が全滅した。

      第2段階として、関が 原の南西・約2km

  ある主戦場の山 中(やまなか)付近で、 1600年

  (慶長5年) 9月15日の午前10時頃から正午頃

  までの間、 東軍(徳川方)の徳川方先手勢の福

  島勢(約1万9000人)、徳川本隊(約3万2000

  人)等の軍 と 西軍(奉行衆方)の小西・宇喜多・

  石田・島津勢等の軍(約3万人)との間で戦われ、 

  西軍(奉行衆方)が総崩れとなり敗北し、東軍(徳

  川方)が勝利を得た。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

               

■ 石田三成。

      「大垣・山中の戦い(= 新説の関ヶ原の戦

  い)」では、 西軍(奉行衆・毛利方)の石田三成

  は、1600年(慶長5年)8月26日から9月14日

  まで、 大垣城で籠城し、東軍(徳川方)と大垣

  城攻防戦を行う。

      西軍(奉行衆・毛利方)南宮山の大垣

  城後詰軍の毛利勢が9月15日 以後に予想され

  る東軍(徳川 方)から攻撃を受け敗北すると西

  軍(奉行衆・毛利方)が駐留する大垣城が孤立し

  不利になるので、 石田三成は、9月15日の東

  軍(徳川方)による西軍(奉行衆・毛利方)の南

  宮山布陣の毛利勢への攻撃に備えて(の後詰

  として)、 1600年(慶長5年)9月14日の日没

  後、大垣城を出て、関ヶ原盆地・山中(やまなか)

  方面へ向う。 

     石田三成は、9月15 日の午前四時頃、

  山中(やまなか)近くの、(関ヶ原の笹尾山から

  南3kmの)藤下(とうげ)の (以前より整備して

  いた)自害峯(じがいみね)という場所に布陣し、 

  石田三成は、大垣付近から来るかもしれない

  東軍(徳川方)の軍 や 東軍(徳川方)に寝返

  るかもしれない松尾山山麓に布陣する西軍(奉

  行衆・毛利方)の小早川秀秋の軍と対峙する。

     石田三成は、すぐ近くの山中(やまなか)に

  移動し、 9月15日の午前10時頃から正午頃ま

  で、  大垣付近から追って来て山中に現れた

  軍(徳川方)の徳川方先手勢の福島勢や徳川本

  隊等の軍と戦い、敗北する。

 

■ 石田三成。

■ 一次史料に基づく「新説の関ヶ原の戦い(= 大

  垣・山中の戦い)」(1600年(慶長5年)8月26

  日ー9月15日)では、 9月15日以後に西軍(奉

  行衆・毛利方)南宮山(なんぐうさん)の 大垣城

  後詰軍の毛利勢が東軍(徳川方)から攻撃を受

  けて敗北すると西軍(奉行衆・毛利方) の拠点の

  大垣城が孤立し不利となるので、 大垣城に駐

  留していた西軍(奉行衆・毛利方)の小西・宇喜

  多・石 田・島津勢等の軍は、1600年(慶長5年)

  9月15日以後に予想される東軍(徳川方)による

  西軍(奉行衆・毛利方) の南宮山の毛利勢への

  攻撃に備えて(の後詰として)、 1600年(慶長

  5年)9月14日の日没後、大垣城を出て、関ヶ原

  盆地・山中(やまなか)方面へ向い、 西軍(奉行

  衆方)の小西・宇喜多・石 田・島津勢等の軍は、

  9月15日の未明に、 山中(やまなか)付近に布

  陣し、 大垣付近から来るかも しれない東軍

  (徳川方)の軍 や 松尾山山麓に布陣し裏切

  るかもしれない西軍(奉行衆・毛利方)の小早川

  秀秋の軍に備える。 

     西軍(奉行衆 ・毛利方)の小早川秀秋は、

  1600年(慶長5年)9月14日に、松尾山山麓

  に布陣する。

     石田三成は、 1600年(慶長5年)9月14

  日の日没後に、大垣城から出て、山中(やまな

  か)付近の(関ヶ原盆地の笹尾山から南3kmに

  ある)藤 下(とうげ)の 自害峯(じがいみね)とい 

  う場所に、午前4時頃、布陣し、石田三成は、

  大垣付近から来るかもしれない東軍(徳川方)の

  軍 や 東軍(徳川方)に寝返るかもしれない松尾

  山山麓に布陣する西軍(奉行衆・毛利方)の小早

  川秀秋の軍と対峙する。 その後、石田三成は、 

  すぐ近くの山中(やまなか)に移動し、9月15日の

  午前10時頃から正午頃まで、  大垣付近から追っ

  て来て山中(やまなか)に現れた東軍(徳川方)の

  徳川方先手勢の福島勢や徳川本隊等の軍と戦い、

  敗北する。

 

 

◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。

■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、石田三成

  は、 豊臣秀吉の死後、徳川家康に対抗し、徳川

  家康を豊臣政権から除こうとして、 1600年(慶

  長5年)の天下分け目の戦い (関ヶ原の戦い、

  他の戦い) を起こし、天下分け目の戦いで西軍

  の実質的指導者となり、 石田方の西軍を主導し、

  敗れて、処刑される(斬首される)。

 

● 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、 石田三成

  は、大垣城から出て、関ヶ原盆地の西北部の、笹

  尾山(ささおやま)という場所に本陣(陣地)を置き、

  1600年(慶長5年)9月15日の(午前8時頃〜

  午後2時頃)の関ヶ原の戦いの決戦で東軍と戦い、

  敗北した。

 

 

#ishidamitsunari-appearingscenes

 

■ 石田 三成 が登場する、興味深い、

  ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 石田 三成 が登場する、興味深い

  関連ドキュメンタリー。 

 

■ 諸説あり!関ヶ原の戦いスペシャル

   『 関ヶ原の戦いの真実 』 (2)。 

   (TBSテレビ・2018年1月6日・本放送・

    歴史ドキュメンタリー番組)。

■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦

  い)」 と 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」

  の2つの有力な説を詳細に述べる。

 

■ 諸説あり!

   『 関ヶ原の戦いの真実 』 (1)。 

   (TBSテレビ・2017年9月2日・本放送・

    歴史ドキュメンタリー番組)。

■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦

  い)」 と 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」

  の2つの有力な説を詳細に述べる。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 みんなで幸

  せになろう! 〜決戦!関ヶ原 石

  田三成の一途な戦い〜 』 

   (NHKの2010年(平成22年)7月28日・

   本放送)。

 

★ 石田 三成 が登場する、興味深い、

  ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実)

  と 架空の出来事が混じって描かれています。

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。  

   (NHKテレビ・2016年大河ドラマ)。

 安土桃山時代や江戸時代初期の時代を描く。

 1582年(武田氏滅亡)から1615年(大坂の

  夏の陣)までの、真田氏 や 真田幸村(信繁)

  (さなだ ゆきむら(のぶしげ)) を描く。

● ドラマで「石田三成」 (いしだみつなり) 

  を演じた俳優名 : 

  山本 耕史 (やまもと こうじ)。

 

● ドラマで「うた」 (仮称、石田三成の正室

  夫人) を演じた女優名 : 

  吉本 菜穂子 (よしもと なほこ)。

● ドラマで「真田 信繁(幸村)」 (さなだの

  ぶしげ(ゆきむら))を演じた俳優名 : 

  堺 雅人 (さかい まさと)。

 

■ 『 軍師 官兵衛 』 

   (NHKテレビ・2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

● 石田 三成を演じた俳優名 : 田中 圭

   (たなか けい)。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 

   (NHKテレビ・2011年大河ドラマ) 

● 石田 三成を演じる俳優名 :  萩原 聖人 

   (はぎわら・まさと)。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』  

   (NHKテレビ・2009年大河ドラマ)。

● 石田 三成を演じた俳優名 : 小栗 旬。

 

■ 『 戦国自衛隊 関が原の戦い 

   (せんごくじえいたい せきがたはらのたか

   い) 』。 

   (日本テレビ・2006年制作テレビドラマ)。

● 石田 三成を演じた俳優名 : 竹中直人。

● 石田 三成の近臣の島左近を演じた俳優名 

  : 松方弘樹。

 

■ 『 のぼうの城 』。 

   (日本の2011年映画)。 

● 1590年の豊臣秀吉の北条攻めの時、石 

  田三成は、 豊臣軍の武将として北条勢力

  と戦い、 苦戦した。

 

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『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』

 

 

以  上