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 カナヤマ 日本歴史 辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 ふ 』

 No.1297。

 

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□ 日本史 辞典 (総合)        

□         ● 事柄順。

 ふじ  藤原四家 と 藤原4兄弟 

             (ふじわらよんけ と ふじわらよんきょう

            だい)。

 ふじ  藤原 北家 (ふじわらほっけ)

             (= 藤原四家の1つ)。

             ○ 奈良時代に興り、平安時代

          中期に摂関家となり、鎌倉時代

          に五摂家に分かれ、 江戸時代

          後期まで公家として存続する。

 

 

 

□ 日本史 辞典 の 「ふ」 基本見出し語

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■  『 現在は、過去の成果であり、

    未来は、現在の成果である。 

 

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◆ 日本史辞典

 

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#fu

 

 

#fujiwarahokkeclan

 

■ 藤原北家 

       (ふじわらほっけ)。

 

■ 藤原北家。

■ 名称 : 藤原北家 (ふじわらほっけ)。

■ 藤原氏藤原四家の1つ。

 奈良時代に興り、 平安時代中期に摂関家(せっ

 かんけ)となり、 鎌倉時代に五摂家(ごせっけ)に分

 かれ、江戸時代後期まで公家として存続する。

 

□ 奈良時代日本政治実権者変遷一覧表

 

 

■ 藤原北家 (ふじわらほっけ) は、 藤原氏藤原

 四家の1つで、 奈良時代に興り、 平安時代中期に

 摂関家(せっかんけ)となり、 鎌倉時代に五摂家(ご

 せっけ)に分かれ、江戸時代後期まで公家(くげ)として

 存続する。

 

■ 藤原北家の藤原房前(ふささき)の曾孫(ひまご)の、 

 藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ、775〜826年) が、

 安時代に、 藤原北家隆盛の基礎をつくる。

 

■ 平安時代には、 藤原四家の1つの藤原北家 が、

 藤原氏の中で独占的地位を占め、 藤原北家が、 平

 安時代中期に摂関家 (せっかんけ) となり、 更に、

 藤原道長(ふじわらのみちなが)、藤 原頼道(ふじわら

 のよりみち)の摂政関白の時期に、藤原北家 が、天

 皇の外戚となり、 摂関政治を行い、日本の政治を支

 配し、 藤原氏の隆盛期を現出させる。

 

■ 藤原氏の藤原北家 は、1068年に、藤原氏を外戚

 としない、後三条天皇が即位し、摂関政治は、衰える。

   しかし、それ以後、藤原北家は、平安時代後期より

 江戸時代後期まで、摂関家として、朝廷の摂関 (摂政

 関白)をほぼ独占し、 鎌倉時代に五摂家(ごせっけ)

 に分かれ、 江戸時代後期まで公家として存続する。

 

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#fujiwara4clansand4brothers

 

■ 藤原四家 と 藤原 

   4兄弟 

       (ふじわらよんけ と ふじわらよんきょうだい)。

 

■ 藤原四家と藤原4兄弟。

■ 名称 : 藤原四家 と 藤原4兄弟 (ふじわらよん

 け と ふじわら よんきょうだい)。

■ 藤原4兄弟と藤原四家 は、藤原氏の隆盛の基盤

 となった。

■ 藤原四家 は、 藤原不比等 (ふじわらのふひと)

 の4子の藤原四兄弟が興(おこ)した家(一族)で、藤

 原氏の隆盛の基盤となった。

■ 藤原4兄弟 とは、 藤原不比等ふじわらのふひ

 と)の4子で、 藤原南家の藤原 武智麻呂 (むちま

 ろ)、  藤原北家藤原 房前(ふささき)、 藤原式

 家の藤原 宇合(うまかい)、 藤原京家の藤原 麻呂

 (まろ)。

■ 藤原四家 とは、藤原南家、藤原北家、藤原式家、

 藤原京家。

■ 藤原北家は、公家(くげ)として、奈良時代から江戸

 時代まで存続し、平安時代中期に摂関家となり、江

 時代後期まで存続した。

 

□ 奈良時代日本政治実権者変遷一覧表

 

 

■ 藤原四家 は、 藤原不比等 (ふじわらのふひと)

 の4子の藤原4兄弟が興(おこ)した家(一族)で、

 原氏の隆盛の基盤となった。

■ 藤原4兄弟 (ふじわらよんきょうだい) とは、 

 原不比等ふじわらのふひと)の4子で、 藤原南家の

 藤原 武智麻呂(ふじわらのむちまろ)、  藤原北家の

 藤原 房前(ふじわらのふささき)、 藤原式家の藤原

 宇合(ふじわらのうまかい)、 藤原京家の藤原 麻呂

 (ふじわらのまろ) である。

 

■ 藤原四家 (ふじわらよんけ) とは、 藤原南家、藤 

 原北家、 藤原式家、 藤原京家 の藤原氏の四家で

 ある。

■ 藤原南家は、藤原 武智麻呂(むちまろ)を祖とする。

■ 藤原北家は、藤原 房前(ふささき)を祖とする。

■ 藤原式家は、藤原 宇合(うまかい)を祖とする。

■ 藤原京家は、藤原 麻呂(まろ)を祖とする。

 

■ 藤原北家は、公家(くげ)として、奈良時代から江

 戸時代まで存続し、 平安時代中期に摂関家となり、

 その後、江戸時代後期まで存続した。

 

■ 奈良時代に、 藤原不比等の4子(4人の男子)の藤原四家が

 成立した。 即ち、藤原南家の藤原 武智麻呂(むちまろ)、  藤原

 北家の藤原 房前(ふささき)、 藤原式家の藤原 宇合(うまかい)、 

 藤原京家の藤原 麻呂(まろ) の藤原四家 である。

 

■ 藤原不比等(659〜720年)の 4子(4人の子の男子)である藤

 原4兄弟 が、藤原四家(ふじわらよんけ)を興(おこ)し、分立した。 

   即ち、 藤原南家の藤原 武智麻呂(むちまろ)、  藤原北家の

 藤原房前(ふささき)、 藤原式家の藤原 宇合(うまかい)、 藤原

 京家の藤原麻呂(まろ) の藤原四家 である。 しかし、後に、家

 長の4人とも、流行していた天然痘(てんねんとう)で、737年に病

 死して (その4人の子供達の一部は生き残ったが)、 藤原氏の

 勢力は、 一時、後退した。

 

 

◆ 白鳳時代から奈良時代までの藤原氏。

■ 藤原不比等 (ふじわらのふひと、生没年 659〜720年) は、

 白鳳時代や奈良時代初期の政治家で、 律令制度の確立に尽力(じ

 んりょく)した。

 

■ 藤原不比等 は、大宝律令の撰修(せんしゅう) に参画(さんかく、

 参加)し、養老律令の編纂(へんさん)を主宰し、 平城京遷都を中心

 となって行う。

 

■ 藤原不比等の娘の宮子(みやこ) は、 文武(もんむ)天皇の夫人

 となり、 文武(もんむ)天皇と宮子(みやこ)との間の子が聖武(しょう

 む)天皇(在位724〜49年)となり、 さらに、 藤原不比等の娘の光

 明子(こうみょうし)が、 聖武天皇に嫁ぎ、729年に皇后(光明皇后

 となり、 藤原不比等とその子の藤原四家は、 天皇家と密接な関係を

 結んだ。

  後に、聖武天皇と光明子との間の娘 が、考謙(こうけん)天皇(在位、

 749〜758、女帝)となり、  重祚(ちょうそ、再即位)して、 称徳(しょ

 うとく)天皇(在位、764〜770、女帝)となる。

 

■ 藤原不比等(659〜720年)の4子(4人の子の男子) が、 藤原四

 家(ふじわらよんけ)を興(おこ)し、分立した。 

   即ち、 藤原南家の藤原 武智麻呂(むちまろ)、  藤原北家の藤原

 房前(ふささき)、 藤原式家の藤原 宇合(うまかい)、 藤原京家の藤原

 麻呂(まろ) の藤原四家 である。

 

■ 藤原不比等(659〜720年)の死後、 皇族の長屋王(ながやおう、

 676?〜729年)が政権の実権を握った (長屋王政権720〜729

 年)。 藤原不比等の子の4兄弟が外戚の地位が危うくなるのを恐れ

 て、 729年に、策謀によって、長屋王を自殺させ (長屋王の変)、政

 権の実権を握った (藤原武智麻呂政権729〜737年)。

 

■ 737年に、 藤原氏4兄弟とも、流行していた天然痘(てんねんとう) 

 で、病死して (その4人の子供達の一部は生き残ったが)、 政権内で

 の藤原氏の勢力は、一時、後退した。

   藤原4兄弟が病死後、かわって、皇族出身の橘諸兄(たちばなのも

 ろえ、684〜757年)が政権の実権を握(にぎ)った。 (橘諸兄政権7

 37年〜756年)。

 

■ 光明皇后 (こうみょうこうごう、生没年701〜760年) は、 藤原

 不比等の娘で、 光明子 (こうみょうし) といい、 聖武(しょうむ)天皇

 (在位724〜749年)の皇后で、 のち、光明皇太后 (こうみょうこう

 たいごう) となり、 孝謙(こうけん)天皇(在位749〜758年)の生母 

 であり、 藤原仲麻呂の叔母(おば) である。

   藤原南家の藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の子の藤原仲麻呂

 は、 叔母(おば)の光明皇太后 と結び、 次第に政治の実権を得て

 いき、 藤原仲麻呂 が、 756年に政治の実権を握り、 757年に

 橘奈良麻呂(たちばなのならまろ、橘諸兄の子)の乱を抑えて (橘奈良

 麻呂の変)、758年に 淳仁(じゅんにん)天皇(在位758〜764年)を

 擁立して、政権の専制を確立する (藤原仲麻呂政権(756〜764年))。

 

■ 760年に、藤原仲麻呂は、後ろ盾であったの叔母(おば)の光明皇太

 后が死去すると孤立を深め、 孝謙太上天皇(こうけんだいじょうてんの

 う)が寵愛する、道鏡 が進出したので、 藤原仲麻呂が、 764年に乱

 を起こしたが、 敗死した(恵美押勝の乱)。 道鏡(どうきょう)は、 称

 徳(しょうとく)天皇 (在位764〜770年、孝謙天皇が改名して再即位)

 の支持を得て、 764年に、政権の実権を握った (道鏡政権764〜

 770年)。 

 

■ 称徳(しょうとく)天皇が死去すると、 道鏡 は、後ろ盾を失って、失

 脚し、 かわって、 藤原式家の藤原百川 (ふじわらのももかわ、732

 〜779年) らがはかって、 光仁(こうにん)天皇(在位770〜781年)

 を擁立し、 政権の実権を握った (藤原百川政権770年〜779年)。

 

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『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』

 

 

以  上