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 カナヤマ 日本歴史 辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 ふ 』。

 No.1294。

 

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□ 日本史 辞典 (総合)         

□       ● 事柄順。

 ふじ   藤原 不比等 (ふじわらの

             ふひと)。

          (659〜720年)。

          ○ 藤原(中臣)鎌足の子。

          ○ 律令制度を確立させた

          功績者。

          ○ 白鳳時代・奈良初期の

          政治家で、 律令制度の確

          立に尽力した。

 

 ふじ   藤原 仲麻呂 (ふじわらの

             なかまろ)。

          (706〜764年)。

          ○ 藤原不比等の孫。

 

 

□ 日本史 辞典 の 「ふ」 基本見出し語

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■  『 現在は、過去の成果であり、

    未来は、現在の成果である。 

 

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#fu

 

#fujiwaranonakamaro

 

■ 藤原仲麻呂 

       (ふじわらのなかまろ)。

 

■ 藤原仲麻呂

■ 生没年 : 706年〜764年。

■ 名称 : 藤原仲麻呂 (ふじわらのなかまろ)。

 別名: 恵美押勝(えみのおしかつ、758年〜)。

■ 奈良時代の政治家。

■ 藤原不比等(ふじわらのふひと)の孫で、藤原南家の藤原武智麻呂

 (ふじわらのむちまろ)の子。

 

□ 奈良時代日本政治実権者変遷一覧表

 

 

■ 藤原仲麻呂 が、 756年に政治の実権を握り、 757年に橘奈良

 麻呂(たちばなのならまろ、橘諸兄の子)の乱を抑えて (橘奈良麻呂

 の変)、758年に 淳仁(じゅんにん)天皇(在位758〜764年)を擁

 立して、政権の専制を確立する (藤原仲麻呂政権(756〜764年))。

■ 藤原仲麻呂 は、後ろ盾であったの叔母(おば)の光明皇太后が死

 去すると孤立を深め、 孝謙上皇の寵愛する、道鏡が進出し、764年

 に藤原仲麻呂が、攻められて、敗死した(恵美押勝の乱)。

 

■ 藤原仲麻呂 (ふじわらのなかまろ、生没年 706〜764年) は、

 別名は 恵美押勝(えみのおしかつ、758年〜)とも言い、奈良時代

 の政治家であり、 藤原不比等(ふじわらのふひと)の孫で、 藤原南

 家の藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の子(第2子) である。

 

 

■ 藤原不比等(659〜720年)の死後、 皇族の長屋王(ながやおう、

 676?〜729年)が政権の実権を握った (長屋王政権720〜729

 年)。 藤原不比等の子の4兄弟が外戚の地位が危うくなるのを恐れ

 て、 729年に、策謀(さくぼう)によって、長屋王を自殺させ (長屋王

 の変)、 政権の実権を握った (藤原武智麻呂政権729〜737年)。

 

■ 737年に、 藤原4兄弟とも、  流行していた天然痘(てんねんとう) 

 で、病死して (その4人の子供達の一部は生き残ったが)、 政権内で

 の藤原氏の勢力は、一時、後退した。

   藤原4兄弟が病死後、かわって、皇族出身の橘諸兄(たちばなのも

 ろえ、生没年684〜757年)が政権の実権を握(にぎ)った。 (橘諸兄

 政権737年〜756年)。

 

■ 光明皇后 (こうみょうこうごう、生没年701〜760年) は、 藤原

 不比等の娘で、 光明子 (こうみょうし) といい、 聖武(しょうむ)天皇

 (在位724〜749年)の皇后で、 のち、光明皇太后 (こうみょうこう

 たいごう) となり、 孝謙(こうけん)天皇(在位749〜758年)の生母 

 であり、 藤原仲麻呂の叔母(おば) である。

   藤原南家の藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の子の藤原仲麻

 呂は、 叔母(おば)の光明皇太后 と結び、 次第に政治勢力を増し、

 藤原仲麻呂 が、 756年に政治の実権を握り、757年に、橘奈良麻

 呂(たちばなのならまろ、橘諸兄の子)の乱を抑えて (橘奈良麻呂の

 変)、758年に 淳仁(じゅんにん)天皇(在位758〜764年)を擁立し

 て、政権の専制を確立する (藤原仲麻呂政権(756〜764年))。

 

■ 760年に、藤原仲麻呂は、後ろ盾であったの叔母(おば)の光明皇

 太后が死去すると孤立を深め、 孝謙上皇(太上天皇)(こうけん じょ

 うこう(だいじょうてんのう))が寵愛する、道鏡 が進出し、 764年に 

 藤原仲麻呂が、攻められて、 敗死した(恵美押勝の乱)。 道鏡(どう

 きょう)は、 称徳(しょうとく)天皇 (在位764〜770年、孝謙天皇が

 改名して 再即位)の支持を得て、 764年に、 政治の実権を握った 

 (道鏡政権764〜770年)。 

 

■ 764年の恵美押勝(えみのおしかつ)の乱

● 孝謙(称徳)天皇方 が、 事前に計画し、藤原仲麻呂(恵美押勝)

 方へ戦いをしかける。

● 孝謙(称徳)天皇方 は、 764年9月に、奈良の平城京で、 藤 原

 仲麻呂(恵美押勝)方から、 駅令(えきれい、駅制の鈴) と 天皇御

 璽(てんのうぎょじ、天皇公印)を奪い、 その後、 藤原仲麻呂(恵美

 押勝)方が、平城京を脱出 すると、 孝謙(称徳)天皇方 は それを

 追撃し、 藤原仲麻呂(恵美押勝) は、 琵琶湖の西岸で、敗死する  

 ( 続日本紀(しょくにほんぎ)より )。

 

 

■ 称徳(しょうとく)天皇が死去すると、 道鏡は、後ろ盾を失って、失

 脚し、 代わって、 道鏡排斥運動を推進した、藤原式家の藤原 宇合

 (うまかい)の子の藤原百川 (ふじわらのももかわ、732〜779年)

 が、 光仁(こうにん)天皇(在位770〜781年)を擁立し、770年に、 

 政権の実権を握り、 光仁天皇の男子の山部(やまべ)王(後の桓武

 天皇)を皇太子にして、 藤原氏の勢力回復に努めた (藤原百川政

 権770年〜779年)。 

 

 

■ 藤原不比等 (ふじわらのふひと、生没年 659〜720年) は、白

 鳳時代や奈良時代初期の政治家で、 律令制度の確立に尽力(じん

 りょく)した。

 

■ 藤原不比等 は、大宝律令の撰修(せんしゅう) に参画(さんかく、

 参加)し、養老律令の編纂(へんさん)を主宰し、 平城京遷都を中心

 となって行う。

 

■ 藤原不比等の娘の宮子(みやこ) は、 文武(もんむ)天皇の夫人

 となり、 文武(もんむ)天皇と宮子(みやこ)との間の子が聖武(しょう

 む)天皇(在位724〜49年)となり、 さらに、 藤原不比等の娘の光

 明子(こうみょうし)が、 聖武天皇に嫁ぎ、皇后となり、 藤原不比等と

 その子の藤原四家は、 天皇家と密接な関係を結んだ。

  後に、聖武天皇と光明子との間の娘 が、考謙(こうけん)天皇(在位、

 749〜758、女帝)となり、 再び、 称徳(しょうとく)天皇(764〜77

 0、女帝)となる。

 

■ 藤原不比等(659〜720年)の4人の子の男子 が、 藤原四家(ふ

 じわらよんけ)を興(おこ)し、分立した。 

   即ち、 藤原南家の藤原 武智麻呂(むちまろ)、  藤原北家の藤原

 房前(ふささき)、 藤原式家の藤原 宇合(うまかい)、 藤原京家の藤原

 麻呂(まろ) の藤原四家 である。

 

 

♪♪ 藤原仲麻呂 (= 恵美押勝)  が登場する、面

 白く、興味深い、ドラマ、映画、ドキ ュメンタリー。

 

★ 藤原仲麻呂 (= 恵美押勝) が登場する、面白く

 興味深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 歴史のドラマ、映画 は、

 史実(歴史上の事実) と 架空の出来事 が 混じって描かれています。 

 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 大仏開眼 (だいぶつかいげん) 』 (日本の2010年 NHK

 古代史ドラマスペシャル)。

● 藤原仲麻呂 (ふじわらのなかまろ、= 恵美押勝) を演じた俳優 : 

 高橋 克典 (たかはし かつのり)。

 

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#fujiwaranofuhito

 

■ 藤原不比等 

     (ふじわらのふひと)。

 

■ 藤原不比等。  

■ 生没年 : 659年〜720年。

■ 名称 : 藤原不比等 (ふじわらのふひと)。

■ 白鳳時代や奈良時代初期の、政治家。

■ 律令制度の確立に尽力(じんりょく)した。

■ 藤原鎌足(ふじわらのかまたり、中臣鎌足、614〜669年)の子。

■ 藤原不比等(659〜720年)の4人の子の男子 が、 藤原四家

 (ふじわらよんけ)を分立した。 

■ 律令制度を確立するために、 厩戸皇子(うまやどのおうじ、聖徳

 太子)の業績や大化改新の諸改革を、潤色(じゅんしょく、粉飾) した

 という説もある。

 

□ 奈良時代日本政治実権者変遷一覧表

 

 

■ 藤原不比等 (ふじわらのふひと、生没年 659〜720年) は、白

 鳳時代や奈良時代初期の政治家で、 律令制度の確立に尽力(じん

 りょく)した。

 

■ 藤原不比等 は、大宝律令の撰修(せんしゅう) に参画(さんかく、

 参加)し、 養老律令の編纂(へんさん)を主宰し、 平城京遷都を中

 心となって行う。

 

■ 藤原不比等の娘の宮子(みやこ) は、 文武(もんむ)天皇の夫人

 となり、 文武(もんむ)天皇と宮子(みやこ)との間の子が聖武(しょう

 む)天皇(在位724〜49年)となり、 さらに、藤原不比等の娘の光

 明子(こうみょうし)が、 聖武天皇に嫁ぎ、 729年に皇后となり、藤

 原不比等とその子の藤原四家は、 天皇家と密接な関係を結んだ。

  後に、聖武天皇と光明子との間の娘 が、考謙(こうけん)天皇(在

 位、749〜758、女帝)となり、 再び、 称徳(しょうとく)天皇(764

 〜770、女帝)となる。

 

■ 藤原不比等(659〜720年)の4人の子の男子 が、 藤原四家(ふ

 じわらよんけ)を興し、分立した。 

   即ち、 藤原南家の藤原 武智麻呂(むちまろ)、  藤原北家の藤原

 房前(ふささき)、 藤原式家の藤原 宇合(うまかい)、 藤原京家の藤

 原麻呂(まろ) の藤原四家 である。 しかし、後に、 家長の4人とも、

 流行していた天然痘(てんねんとう)で、737年に病死して (その4人

 の子供達の一部は生き残ったが)、 藤原氏の勢力は、 一時、後退し

 た。

 

■ 藤原北家の房前(ふささき)の曾孫(ひまご) が、 平安時代に藤原

 北家隆盛の基礎を作る、 藤原冬嗣 (ふじわらのふゆつぐ、775〜8

 26年) である。

 

■ 藤原不比等 は、 律令制度を確立するために、 厩戸皇子 (うま

 やどのおおじ・みこ、聖徳太子) の業績や大化改新の諸改革を、潤色

 (じゅんしょく、粉飾) したという説もある。

● 日本書紀 (にほんしょき、720年成立、30巻) は、藤原の藤原不

 比等の意向を受けて、編纂(へんさん)された。

●  藤原不比等 は、 当時既に本人やその一族が死亡している、 厩

 戸皇子 ( うまやどのおうじ・みこ、 厩戸王(うまやどおう)、 聖徳太

 子(しょうとくたいし)、 574〜622年 ) を、利用し祀(まつ)りあげ、

 律令制度成立のシンボルの1つとして、 聖徳太子の虚像を作った と

 いう説 もある。 

●  日本書紀に記載されている、  憲法十七条をはじめその他の聖徳太

 子の業績や 大化改新(たいか(の)かいしん)の諸改革  が、 歴史学

 者により、今、見直されている。

 

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『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』

 

 

以  上