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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK

 

 カナヤマ 日本歴史 辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 ふ 』

 No.1291。

 

メ ニュー (目次)  #jpmenu     

■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

□ 日本史 辞典 (総合)      

□         ● 事柄順。

 ふじ  藤原氏

             (ふじわらし、ふじわらうじ)。 

          《公家の氏族》。

          (= 藤原家、旧中臣氏)。 

          (7世紀頃ー19世紀)。

             □ 藤原氏 画像アルバム 

             No.1

           ○ 公家としての藤原氏。 

           ○ 公家の藤原氏は、公家の

           氏族で、貴族、摂関家である。

           ○ 飛鳥白鳳時代〜江戸時代

          の、公家の藤原氏。

                    □ 日本歴史で活躍した氏族:

          天皇家藤原氏伊勢平氏

          河内源氏鎌倉北条氏

          足利氏上杉氏武田氏

          井伊氏小田原北条氏

          真田氏織田氏豊臣氏

          徳川氏

              ■ 公家の藤原氏 (ふじわらし、ふじ

             わらうじ、 = 藤原家)は、公家の氏族

              であり、7世紀頃から 19世紀まで存

             在した公家、貴族、摂関家である。

 

 ふじ  藤原 鎌足

                           (ふじわらの かまたり)。

          (= 中臣鎌足 なかとみのかまたり)。

          (614〜669年)。 

          ○ 藤原氏の祖。

 ふじ  藤原四家 と 藤原4兄弟

              (ふじわらよんけ と ふじわらよんきょう

             だい)。

 ふじ  藤原 不比等

              (ふじわらの ふひと)。

          (659〜720年)。

          ○ 藤原(中臣)鎌足の子。

          ○ 律令制度を確立させた

          功績者。

 ふじ  藤原北家

             (ふじわらほっけ)。

          (= 藤原四家の1つ)。

          ○ 藤原不比等(ふひと)の男子

          の、藤原 房前(ふささき)を祖と

          する藤原氏。

            ○ 奈良時代に興り、平安時代

          中期に摂関家となり、鎌倉時代

          に五摂家に分かれ、 江戸時代

          後期まで公家として存続する。

 ふじ  藤原氏・摂関家

             (ふじわらし・せっかんけ)。

          (= 摂関家、五摂家)。

       (⇒ 摂関家)。

          ○ 平安時代中頃〜江戸時代

          後期。 

          ○ 鎌倉時代に五摂家(ごせっけ)

          に分かれる。

 ふじ  藤原政権

             (ふじわらせいけん) 。

          (= 藤原氏政権、摂関政治政権)。

          (977年頃 〜1086年頃)。

          (⇒ 公家政権)。

          (⇒ 日本の政権・政府)。

       (⇒ 摂関政治)。

 ふじ  藤原 道長 

              (ふじわらの みちなが) 。 

             (966年〜1027年)。

          ○ 摂関政治で日本を実質的に

          支配し、栄華を極めた貴族。

 

 

□ 日本史 辞典 の 「ふ」 基本見出し語

   の 先頭ページへ。        

 

■  『 現在は、過去の成果であり、

    未来は、現在の成果である。 

 

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◆ 日本史辞典

 

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□ 日本史 辞典 の 「ふ」 基本見出し語

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#fu

 

#fujiwarafamily

 

 藤原氏 

      (ふじわらし)。  (= 藤原家)

 

 藤原氏。

■ 名称 : 藤原氏 (ふじわらし、ふじわらうじ)。 

 別名: 藤原家 (ふじわらけ)。

■ 存続時期 : 公家の藤原氏、 飛鳥白鳳時代〜江戸時代。

● 貴族(公家)としての家系 : 7世紀より19世紀まで。

■ 旧中臣氏。

 

□ 藤原氏 画像アルバム No.1

 

 

■ 藤原氏 (ふじわらし、ふじわらうじ) は、 貴族(公家)の一族で、

 貴族(公家)としての家系 は、7世紀より19世紀まで、 存続した。

 

■ 藤原氏 とは、 中臣氏(なかとみし)の一族で、 中臣鎌足(なか

 とみのかまたり、614〜669年) が、 天智天皇から、功により、

 藤原の姓(せい)を賜(たまわ)り、 藤原鎌足 (ふじわらのかまたり) 

 と称す。

■ 藤原鎌足(中臣鎌足)の子 が、 藤原不比等 (ふじわらのふひと、

 659〜720年) で、 藤原不比等 は、律令制度の確立に努める。

■ 奈良時代に、 藤原不比等の4子(4人の男子)の藤原四家が成立

 した。 即ち、藤原南家の藤原 武智麻呂(むちまろ)、  藤原北家の

 藤原 房前(ふささき)、 藤原式家の藤原 宇合(うまかい)、 藤原京

 家の藤原 麻呂(まろ) の藤原四家 である。

■ 平安時代には、 藤原四家の1つの藤原北家 が、独占的地位を

 占め、 摂関政治を行い、 藤原道長(ふじわらのみちなが)、藤原頼

 道(ふじわらのよりみち)の時期に、 藤原氏の隆盛期を現出する。

■ 藤原氏 は、 平安末期から衰(おとろ)えたが、 それ以後平安時

 代より江戸時代まで、 朝廷の摂関 (せっかん、摂政関白) は、藤

 原一族の藤原北家の五摂家(せっけ) が独占し、 明治期に至る。

 

■ 藤原氏 とは、 中臣氏(なかとみし)の一族で、 中臣鎌足(なか

 とみのかまたり、614〜669年) が、 天智天皇から、功により、

 藤原の姓(せい)を賜(たまわ)り、 藤原鎌足 (ふじわらのかまたり) 

 と称す。

■ 藤原鎌足(中臣鎌足)の子 が、 藤原不比等 (ふじわらのふひと、

 659〜720年) で、 藤原不比等 は、律令制度の確立に努める。

■ 奈良時代に、 藤原不比等の4子(4人の男子)の藤原四家が成立

 した。 即ち、藤原南家の藤原 武智麻呂(むちまろ)、  藤原北家の

 藤原 房前(ふささき)、 藤原式家の藤原 宇合(うまかい)、 藤原京

 家の藤原 麻呂(まろ) の藤原四家 である。

 

 

◆ 藤原北家。

■ 藤原北家 (ふじわらほっけ) は、 藤原氏藤原

 四家の1つで、 奈良時代に興り、 平安時代中期に

 摂関家(せっかんけ)となり、 鎌倉時代に五摂家(ご

 せっけ)に分かれ、江戸時代後期まで公家(くげ)として

 存続する。

 

■ 藤原北家の藤原房前(ふささき)の曾孫(ひまご)の、 

 藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ、775〜826年) が、

 平安時代に、 藤原北家隆盛の基礎をつくる。

 

■ 平安時代には、 藤原四家の1つの藤原北家 が、

 独占的地位を占め、 摂関政治を行い、 藤原道長(ふ

 じわらのみちなが)、藤原頼道(ふじわらのよりみち)の

 時期に、 藤原氏の隆盛期を現出する。

■ 平安時代には、 藤原四家の1つの藤原北家 が、

 藤原氏の中で独占的地位を占め、 藤原北家が、 平

 安時代中期に摂関家 (せっかんけ) となり、 更に、

 藤原道長(ふじわらのみちなが)、藤 原頼道(ふじわら

 のよりみち)の摂政関白の時期に、藤原北家 が、天

 皇の外戚となり、 摂関政治を行い、日本の政治を支

 配し、 藤原氏の隆盛期を現出させる。

 

■ 藤原氏 は、 平安末期から衰(おとろ)えたが、 そ

 れ以後平安時代より江戸時代まで、 朝廷の摂関(せ

 っかん、摂政関白)は、 藤原北家がほぼ独占し、江戸

 時代まで存続する。

■ 藤原氏の藤原北家 は、1068年に、藤原氏を外戚

 としない、後三条天皇が即位し、摂関政治は、衰える。

   しかし、それ以後、藤原北家は、平安時代後期より

 江戸時代後期まで、摂関家として、朝廷の摂関 (摂政

 関白)をほぼ独占し、 鎌倉時代に五摂家(ごせっけ)

 に分かれ、 江戸時代後期まで公家として存続する。

 

 

◆ 白鳳時代から奈良時代までの藤原氏。

■ 藤原不比等 (ふじわらのふひと、生没年 659〜720年) は、

 白鳳時代や奈良時代初期の政治家で、 律令制度の確立に尽力(じ

 んりょく)した。

 

■ 藤原不比等 は、大宝律令の撰修(せんしゅう) に参画(さんかく、

 参加)し、養老律令の編纂(へんさん)を主宰し、 平城京遷都を中心

 となって行う。

 

■ 藤原不比等の娘の宮子(みやこ) は、 文武(もんむ)天皇の夫人

 となり、 文武(もんむ)天皇と宮子(みやこ)との間の子が聖武(しょう

 む)天皇(在位724〜49年)となり、 さらに、 藤原不比等の娘の光

 明子(こうみょうし)が、 聖武天皇に嫁ぎ、729年に皇后(光明皇后

 となり、 藤原不比等とその子の藤原四家は、 天皇家と密接な関係を

 結んだ。

  後に、聖武天皇と光明子との間の娘 が、考謙(こうけん)天皇(在位、

 749〜758、女帝)となり、  重祚(ちょうそ、再即位)して、 称徳(しょ

 うとく)天皇(在位、764〜770、女帝)となる。

 

■ 藤原不比等(659〜720年)の4子(4人の子の男子) が、 藤原四

 家(ふじわらよんけ)を興(おこ)し、分立した。 

   即ち、 藤原南家の藤原 武智麻呂(むちまろ)、  藤原北家の藤原

 房前(ふささき)、 藤原式家の藤原 宇合(うまかい)、 藤原京家の藤原

 麻呂(まろ) の藤原四家 である。

 

■ 藤原不比等(659〜720年)の死後、 皇族の長屋王(ながやおう、

 676?〜729年)が政権の実権を握った (長屋王政権720〜729

 年)。 藤原不比等の子の4兄弟が外戚の地位が危うくなるのを恐れ

 て、 729年に、策謀によって、長屋王を自殺させ (長屋王の変)、政

 権の実権を握った (藤原武智麻呂政権729〜737年)。

 

■ 737年に、 藤原氏4兄弟とも、流行していた天然痘(てんねんとう) 

 で、病死して (その4人の子供達の一部は生き残ったが)、 政権内で

 の藤原氏の勢力は、一時、後退した。

   藤原4兄弟が病死後、かわって、皇族出身の橘諸兄(たちばなのも

 ろえ、684〜757年)が政権の実権を握(にぎ)った。 (橘諸兄政権7

 37年〜756年)。

 

■ 光明皇后 (こうみょうこうごう、生没年701〜760年) は、 藤原

 不比等の娘で、 光明子 (こうみょうし) といい、 聖武(しょうむ)天皇

 (在位724〜749年)の皇后で、 のち、光明皇太后 (こうみょうこう

 たいごう) となり、 孝謙(こうけん)天皇(在位749〜758年)の生母 

 であり、 藤原仲麻呂の叔母(おば) である。

   藤原南家の藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の子の藤原仲麻呂

 は、 叔母(おば)の光明皇太后 と結び、 次第に政治の実権を得て

 いき、 藤原仲麻呂 が、 756年に政治の実権を握り、 757年に

 橘奈良麻呂(たちばなのならまろ、橘諸兄の子)の乱を抑えて (橘奈良

 麻呂の変)、758年に 淳仁(じゅんにん)天皇(在位758〜764年)を

 擁立して、政権の専制を確立する (藤原仲麻呂政権(756〜764年))。

 

■ 760年に、藤原仲麻呂は、後ろ盾であったの叔母(おば)の光明皇太

 后が死去すると孤立を深め、 孝謙太上天皇(こうけんだいじょうてんの

 う)が寵愛する、道鏡 が進出したので、 藤原仲麻呂が、 764年に乱

 を起こしたが、 敗死した(恵美押勝の乱)。 道鏡(どうきょう)は、 称

 徳(しょうとく)天皇 (在位764〜770年、孝謙天皇が改名して再即位)

 の支持を得て、 764年に、政権の実権を握った (道鏡政権764〜

 770年)。 

 

■ 称徳(しょうとく)天皇が死去すると、 道鏡 は、後ろ盾を失って、失

 脚し、 かわって、 藤原式家の藤原百川 (ふじわらのももかわ、732

 〜779年) らがはかって、 光仁(こうにん)天皇(在位770〜781年)

 を擁立し、 政権の実権を握った (藤原百川政権770年〜779年)。

 

■ 藤原北家の房前(ふささき)の曾孫(ひまご) が、 平安時代に藤原

 北家隆盛の基礎を作る、 藤原冬嗣 (ふじわらのふゆつぐ、775〜8

 26年) である。

 

 

◆ 平安時代中期の藤原氏。

■ 977年に、藤原頼忠(ふじわらのよりただ)が、関白に

 就任し、藤原氏により本格的な摂関政治を開始し、 藤原

 (氏)政権(977年頃〜1086年頃)を樹立し、 995年

 に、 藤原道長(ふじわらのみちなが)が内覧(ないらん)

 となり、 1086年に、白河天皇が上皇となり、院政を開

 始し、藤原(氏)政権は、消滅する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

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#fujiwaragovernment

 

■ 藤原政権 

     (ふじわらせいけん)。 

        (= 藤原氏政権)

 

■ 藤原政権。

■ 時期 : 977年頃〜1086年頃。

■ 名称 : 藤原政権 (ふじわらせいけん)。

 別名 : 藤原 氏政権 (ふじわらしせいけん)。

● 藤原政権藤原 氏政権の英名 : 

 The Fujiwara Government。

 

 

■ 977年に、藤原頼忠(ふじわらのよりただ)が、関白に

 就任し、藤原氏により本格的な摂関政治を開始し、 藤原

 (氏)政権(977年頃〜1086年頃)を樹立し、 995年

 に、 藤原道長(ふじわらのみちなが)が内覧(ないらん)

 となり、 1086年に、白河天皇が上皇となり、院政を開

 始し、藤原(氏)政権は、消滅する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ (S3) 摂関政治 とは、摂政・関白(せっしょう・かんぱく)が、政治

 の実権を握り、日本を支配する政治形態で、 天皇の臣下の摂政・関

 白が、 朝廷の実権を握り、 摂政は天皇幼少時、 関白は天皇成人

 後に、 天皇の政治を代行した。

 

■ (S2) ⇒ (S3) 大土地私有の発生と農民の過重な負担に対

 する抵抗により、 10世紀頃に急速に崩壊し、 (S2) 律令政治 

 (7〜10世紀) は、 10世紀後半に、「荘園制」を基礎とする (S3)

 摂関政治 (10〜11世紀) に移行する(へ変わる)。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 摂関政治 は、 朝廷の実権を握る、摂政・関白などの貴族が、日

 本を支配する政治形態で、 10世紀後半から11世紀後半まで、権

 力をふるった。 11世紀末より、 「院政」 にとって代わられた。

 

■ 日本では、 律令政治 (8世紀前前半〜10世紀後半) が、衰えて、 

 摂関政治 (10世紀後半〜11世紀後半) が、 始まる。

 

■ 摂関政治の最盛期は、 11世紀の藤原道長・頼道(みちなが、より

 みち)の時で、 摂関家の藤原道長・頼道は、 広大な荘園を経済的基

 盤とし、天皇の外戚となって、地位を確保した。

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■ 摂政や関白。

● 摂政や関白 は、天皇に代わり、政治を代行する者で、 摂政 (せっ

 しょう) は、 天皇が幼少時、天皇に代わって、政務全体を行う官職で、

 関白 (かんぱく) は、 天皇の成人後、 天皇に代わって、政務全体を

 行う官職 である。 

● 最初の摂政の就任は、 593年、厩戸王(うまやどおう、聖徳太子)で、

 最初の関白の就任は、 884年の藤原 基経(もとつね) であった。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 10世紀後半 (969年安和(あんな)の変) より、 摂政や関白は

 朝廷の常任の官となり (摂関常置されて本格化し)、 藤原北家が、

 摂関家となり、 摂政や関白は 11世紀後半 (1086年院政開始) 

 より権力 (日本を支配する実権) は衰えたが、  藤原北家の摂関

 家が、 江戸末期まで、存続した。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 藤原(氏)政権 (ふじわら(し)せいけん) は、 977

 年頃から1086年頃までで、  977年に、藤原頼忠(ふじ

 わらのよりただ)が、関白に就任し、藤原氏により本格的

 な摂関政治を開始し、藤原(氏)政権(977年頃〜1086

 年頃)を樹立し、 995年に、藤原道長(ふじわらのみちな

 が)が内覧(ないらん)となり、 1086年に、白河天皇が

 上皇となり、院政を開始し、藤原(氏)政権は、消滅する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

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『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』

 

 

以  上