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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK

 

 カナヤマ 日本歴史 辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 な 』。

 No.0530。

 

 

メ ニュー (目次)  #jpmenu     

■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

□ 日本史 辞典 (総合)         

□           ● 事柄順。

〇 なお  直江 兼続 (なおえ かねつぐ)。

          (総合)。

          (= 直江 重光、 樋口 兼続、樋 

                    口与六)。

          (1560〜1619年)。

          ○ 上杉景勝の近臣、重臣。 

          ○ 越後・上田衆の一人。

          ○ 直江実綱(景綱)の娘の、

          お船(おせん)の2番目の夫 。

 

〇 なお  直江 兼続 簡略年表 

             (なおえかねつぐ かんりゃくねんぴょう)。

             (⇒日本史年表) 。

 

〇 なお  直江 兼続 詳細年表 

             (なおえかねつぐ しょうさいねんぴょう)。

             (⇒ 日本史年表) 。

 

〇 なお  直江 兼続 ガイドブック

 

 

 

□ 日本史 辞典 の「な」 基本見出し語

   の 先頭ページへ。 

 

■  『 現在は、過去の成果であり、

    未来は、現在の成果である。 

 

■ 上位のWEBサイト。 

□ (KOH) カナヤマ オフィシャル   >

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         われら地球市民 

□ (Ke)   百科事典           >

□ (Khh)  歴史学 ハンドブック     >

□ (Kjhh) 日本史 ハンドブック     >

□ (Kjhh) 日本史 辞典         >

□ (Kjhh) 日本史 辞典 日本語版  >

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#jpdictionary(general)

 

◆ 日本史辞典。

 

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□ 日本史 辞典 の「な」 基本見出し語

   の 先頭ページへ

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#na

 

#naoekanetsugu

 

■ 直江 兼続  

      (なおえ かねつぐ)

   (樋口 兼続) (樋口 与六)。

 

■ 直江 兼続。

■ 生没年 : 1560年〜1619年。

■ 名称 : 直江 兼続 (なおえ かねつぐ)。 

● 幼名 : 樋口 与六(ひぐち よろく)。 元服後、初めの名 は 樋口

 兼続(ひぐち かねつぐ)、  その後、直江家を相続し、直江 兼続 (15

 81年〜)、 後、直江 重光 (なおえ しげみつ)(1608年〜) と称す。

■ 上杉景勝の重臣。  上杉家第一の重臣

● 上杉 景勝(かげかつ)に仕えた重臣、 上杉家の家老 。

● 1580年に越後国主、1598年に会津120万石領主、1601年に

 出羽・米沢30万石領主となった、上杉景勝に、 その重臣として仕え、

 活躍した。

■ 上田衆 (越後国・上田庄(うえだのしょう)出身の武士達)の一人。

■ 安土桃山時代、 江戸時代初期の武将。

■ 直江 兼続 (樋口兼続) の主君 は、上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)。

■ 直江 兼続 (樋口兼続) の正室(妻) は、 お船(おせん)で、 

 長尾・上杉家の譜代の家臣で越後・与板(よいた)城主である直江実綱

 (景鋼) (なおえ さねつな(かげつな))の 娘。

■ 樋口 兼豊 (ひぐち かねとよ、樋口 惣右衛門(そうえもん))の 長男。 

■ 直江兼続(長男)の兄弟 は、 大国実頼 (樋口与七、次男) と 樋

 口秀兼 (三男) と 長女(きた(仮称)、実名不詳) と 次女(実名不

 詳) と 三女(実名不詳)。

■ 直江 兼続 (樋口兼続)の 父 は、 樋口 兼豊 (樋口 惣右衛門) 

 で、 越後・坂戸(さかど)城主の長尾 政景(ながお まさかげ)の家臣。

■ 直江 兼続 (樋口兼続)の 母 は、出自には、2つの説がある。 泉

 重歳(いずみ しげとし、信濃国の豪族)の娘 または、 直江親綱 (越

 後守護代・長尾家の譜代家臣) の娘 (=長尾・上杉家家老の直江実

 綱(景綱)(なおえさねつな(かげつな))の妹)。

■ 義 (正義、道理) と 愛 (慈愛、愛民) の 武将 と言われている。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 直江 兼続 (なおえ かねつぐ) の詳細に関しては、

 『 直江 兼続 ガイドブック (要覧) 』  を参照して下さい。

 

□ 直江 兼続の概要

□ 直江 兼続 簡略年表

□ 直江 兼続 詳細年表

□ 関連項目

□ 直江 兼続 画像 NO.1

□ 直江 兼続 が登場する、面白く、興味深い、

   ドキュメンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 直江 兼続 (なおえ かねつぐ) の生涯の概略。

● 直江 兼続  は、 越後・坂戸(さかど)城主の長尾 政景(ながお まさ

 かげ)の家臣である樋口 兼豊 (惣右衛門)の長男として、1560年に、

 越後(えちご、現在の新潟県)の上田庄(うえだのしょう)で、誕生し、初

 め、越後・上田庄の母の元で暮らし、その後、越後・上田庄の領主とな

 った、政景の子、上杉景勝の家臣として仕え、越後の春日山城で、上杉

 景勝と共に、上杉謙信にも仕え、1578年に起こった上杉謙信死後の内

 乱で上杉景勝を勝たせ、1580年に、越後国主となった上杉景勝の重臣

 となり、1581年に直江家を継承し、 1598年に、秀吉より出羽・米沢

 を与えられ越後より出羽・米沢に移りその領地の経営を行い、1601年

 に、出羽・米沢は、上杉家領となり、引き続き、その経営をまかされ、16

 19年に、上杉家の出羽・米沢藩30万石の家老として、死去する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

     

     〇 近世日本の武将、直江兼続 (なおえ かねつぐ)、

     上、ドラマ 「天地人」での直江兼続フォト)

 

#naoekanetsugusummary

 

◆ 直江 兼続の概要。

 

■ 1560年に、 直江 兼続  (なおえ かねつぐ、樋口 与六) が、 越後

 (現在の新潟県)の上田庄(うえだのしょう)で、誕生する。

■ 1564年に 、 直江兼続 (樋口 与六) が、 小姓・近習として 越後・

  上田庄の領主の上杉景勝(うえすぎかげかつ)に家臣として仕え始める。

  その後、1564年、上杉景勝が越後の春日山城で上杉謙信に仕えたた

 め、兼続も上田庄から春日山城に移り居住し、景勝、謙信に仕える。

■ 1580年に 、 直江 兼続 (樋口兼続) が、 越後国の国主となった

 上杉景勝の、 重臣となる。 1598年まで、越後の春日山城で居住し、

 越後の統治に活躍する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1581年に 、 直江 兼続 (樋口兼続) が、 お船(おせん)と結婚し、

 直江家を相続し、直江姓を名乗る。

■ 1592年に、 文禄の役で、 上杉景勝と共に、直江 兼続が、渡韓する。

■ 1594年に、 直江 兼続の嫡男、平八景明(竹松) が、 誕生する。

■ 1598年に、 直江 兼続 は、豊臣秀吉より、 出羽・米沢を与えられ、

 越後より米沢に移り、その経営を行う。

● 直江 兼続 は、1598年から1619年の死去するまで米沢に居住する。

■ 1600年に、 直江 兼続 は、徳川家康に 直江状(弾劾状) を送る。

■ 1601年に、 出羽・米沢は、上杉家領となり、 直江 兼続 は、上杉景

 勝より、 景勝の上杉家の領地の出羽・米沢30万石の経営を任される。

■ 1614年に、 直江 兼続 (直江重光) は、 大阪冬の陣で、徳川方と

 して、参戦し、 武功を挙げる。

■ 1615年に、 兼続 (直江重光) の嫡男、平八景明 が、  死去する。

■ 1619年に、 直江 兼続 (直江 重光) が、上杉家の出羽・米沢藩の

 家老として、 死去する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

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□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。                

 

■ 義 (正義、道理) と 愛 (慈愛、愛民) の 武将、 直江 兼続。

● 直江 兼続 (なおえ かねつぐ) は、 近世日本において、 義(ぎ) 

 即ち 正義、信義、道理 を重んじ、 愛(あい) 即ち 慈愛、愛民 

 に生きた武将 である と言われている。

 

■ 直江 兼続 (なおえ かねつぐ) は、 幼名が樋口 与六と言い、 元

 服(成人)後、初めの名を 樋口 兼続 (ひぐち かねつぐ)と称す。  そ

 の後、 直江家を相続し、1581年より、直江 兼続と称し、 後、1608

 年より、直江 重光 (なおえ しげみつ) と称する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 直江 兼続  は、上田衆 (越後国・上田庄出身の武士達) の一人

 である。

● 上田衆 とは、 越後・坂戸(さかど)城主で上田・長尾家当主の、 長

 尾政景(ながおまさかげ)、上杉景勝(うえすぎかげかつ)に仕えた武士

 達で、 越後国(えちごのくの)・上田庄(うえだのしょう) (= 現在の新潟

 県・南魚沼市(みなみうおぬまし)) 出身の武士達 である。

 

■ 直江 兼続 (なおえ かねつぐ) は、安土桃山時代、江戸時代初期の

 武将 で、 直江 兼続 (樋口兼続) の主君 は、上杉 景勝 であった。

● 直江 兼続 は、 越後の武将、戦国大名の上杉 景勝(うえすぎ かげ

 かつ)に仕えた、重臣。 上杉家第一の重臣で、上杉家の家老で あった。

● 直江 兼続 は、 上杉景勝の重臣で、 1580年に越後国主、1598

 年に会津120万石領主、その後、 天下分け目の戦い (1600年、関が

 原の戦い、その他) では、 石田方(西軍)に味方し、1601年に減移封

 され出羽・米沢30万石領主となった、上杉景勝に、 その重臣として仕え、

 活躍した。

 

■ 直江 兼続 は、 樋口 兼豊 (樋口惣右衛門)の 長男で、 父、 母、

 弟、妹 と共に、 越後国(えちごのくに)の上田庄(うえだのしょう) (現

 在の新潟県の南東部の南魚沼市) に住み、 そこで育った。

 

■ 直江 兼続 (樋口兼続) の 父 は、 樋口 兼豊 樋口惣右衛 

  門) で、 越後・坂戸(さかど)城主の長尾 政景 (ながお まさかげ、

 上田・長尾家当主) に仕える武士 であった。

● 樋口 兼豊 樋口惣右衛門) は、 坂戸城で、 勘定奉行を務め

 ていた。

 

■ 直江 兼続 (樋口兼続) の 母 は、出自には、2つの説がある。泉

 重歳(いずみ しげとし、信濃国の豪族)の娘 または、 直江親綱 (越

 後守護代・長尾家の譜代家臣) の娘 (=長尾・上杉家家老の直江実

 綱(景綱)(なおえさねつな(かげつな))の妹) であった。

 

■ 直江兼続(長男)の兄弟 は、 大国実頼 (樋口与七、次男) と 樋

 口秀兼 (三男) と 長女(きた(仮称)、実名不詳) と 次女(実名不

 詳) と 三女(実名不詳) である。

 

■ 直江 兼続 (なおえ かねつぐ) がいなければ、上杉謙信なきあと

 の上杉家 は、存在しえなかった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 直江 兼続(樋口兼続)が仕えた、上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)は、

 越後・坂戸(さかど)城主の長尾 政景(まさかげ)の子であり、 上杉謙

 信(うえすぎ けんしん)の甥(おい)で、 謙信の養子 となり、 上杉謙

 信の死後、 上杉謙信の家督(かとく)を継ぎ、 越後の国主、大名とな

 り、 その後、1598年、豊臣秀吉により加増移封され、 会津120万

 石の大名となり、 その後、 天下分け目の戦い (1600年、関が原の

 戦い、その他) では、 石田方(西軍)に味方し、1601年、徳川家康

 により減封され、 出羽・米沢30万石の大名 となった。

 

■ 直江 兼続 (樋口兼続) の正室(妻) は、 お船(せん)で、長尾・ 

 上杉家の譜代の家臣で越後・与板(よいた)城主である直江実綱(景

 鋼)(ながお さねつな(かげつな))の 娘 であった。

 

■ 長尾 政景 (ながお まさかげ) は、 越後・坂戸城主で、 上田

 ・長尾家当主で、 上杉景勝(かげかつ) の父 である。 また、直江

 兼続(樋口兼続)の父、樋口 兼豊樋口惣右衛門) の主君である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 直江 兼続 (樋口兼続) の 正室(妻) は、 直江 実綱 (さねつ

 な、景綱(かげつな))の、 娘 である。

● 直江 実綱 (さねつな、景綱) は、 長尾・上杉家の譜代の家臣で、

 越後・与板城主 で、上杉謙信の重臣であった。  直江 実綱(景綱)

 には、男子がなく、 実綱(景綱)の娘・お船(せん)の娘婿の直江 信

 綱(長尾 景孝)が 直江家の後を継いだが、 同僚に殺害された。

● 直江家が断絶するのを惜しんで、 上杉景勝 は、 直江 兼続 (樋

 口兼続)に、 直江実綱(景綱)の娘のお船(せん)を娶(めと)らせ、直

 江信綱の後を受けて、 直江家を相続させた。

 

■ 直江 兼続 と 兼続正室(妻)・お船 の墓所 は、 米沢市の直江

 家菩提寺の徳昌寺、 後に改葬されて、 米沢市の上杉家菩提寺の春

 日山林泉寺 にある。 

● なお、兼続 と お船 の、それぞれの遺骨の一部 は、 和歌山県

 の高野山清浄心院 にも分骨されている。

● 米沢市の徳昌寺と米沢市の林泉寺との間で争いが起こり、 敗れた

 徳昌寺は廃絶する。  米沢・徳昌寺にあった直江夫妻の墓と位牌は、 

 東源寺を経て、 米沢・林泉寺へと移った。 但し、遺骨については、現

 在でも、東源寺にあるのか林泉寺にあるのか 定かではない。

 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。    

 

 

#naoekanetsugu-relateditems

 

◆ 関連項目。

■ 直江 兼続(長男)の一族の、 樋口 兼豊 (樋口 惣右衛門、直江 

 続の父)、 お藤 (直江 兼続の母)、 樋口与七 (次男、直江 兼続の

 弟)、 きた (仮称、長女、直江 兼続の妹)、 に関しては、 

 当日本史辞典の 『 樋口 兼豊 (ひぐち かねとよ)、 お藤 (おふじ)、 

 樋口与七 (ひぐち よしち)、 きた 』 を参照して下さい。

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。    

 

■ 直江 兼続の主従関係の、 上杉景勝 (直江 兼続の主君)、 長尾

 政景 (直江 兼続の父の樋口兼豊の、主君)、 上杉謙信 (直江 兼続

 の、主家の長尾・上杉家の頭領)、   に関しては、 

 当日本史辞典の 『 上杉 景勝 (うえすぎ かげかつ)、 長尾 政景(な

 がお まさかげ)、上杉 謙信 (うえすぎ けんしん) 』を参照して下さい。

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。    

 

■ 直江 兼続の盟友関係の、 上田衆、 ( 雲洞庵時代(幼少)から兼続

 と一緒に上杉景勝に仕える) 泉沢久秀  に関しては、 

 当日本史辞典の 『  上田衆 (うえだしゅう)、 泉沢久秀 (いずみさ

 わひさひで) 』を参照して下さい。

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。    

 

■ 直江 兼続の敵対または友好武将、大名の、 織田信長 (日本中央

 部を支配する戦国大名)、 武田勝頼(甲斐・信濃の戦国大名)、 北条

 氏政 (関東の戦国大名)、 伊達政宗 (東北の戦国大名)、 豊臣秀

 吉 (関白、日本を統一した大名)、石田三成 (近江の大名、関が原の

 戦の西軍を指導した大名)、 徳川家康 (将軍、日本を支配した大名)

 に 関しては、 

 当日本史辞典の 『 織田 信長 (おだ のぶなが)、 武田勝頼 (たけ

 だかつより)、 北条氏政 (ほうじょううじまさ)、 伊達政宗 (だてまさ

 むね)、 豊臣 秀吉 (とよとみ ひでよし)、 石田三成 (いしだみつな

 り)、 徳川家康 (とくがわいえやす) 』 を参照して下さい。

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。                

 

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#naoekanetsugu-appearingscenes

 

■ 直江 兼続 が登場する、興味深い、ドキュ

   メンタリー、ドラマ、映画。

 

♪♪ 直江 兼続(なおえ かねつぐ)が登場する、

    興味深い、ドキュメンタリー。

 

■ その時歴史が動いた 『 戦国にかかげ

    た‘‘ 愛 ’’ 〜北の関ヶ原 直江兼続の

     決断〜 』 。 

   (NHK2009年(H21)1月・本放送テレビ・

    ドキュメンタリー番組、第347回)。

 

♪♪ 直江 兼続(なおえ かねつぐ)が登場する、

    興味深いドラマ、映画。 

 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   ドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) と 

   架空の出来事 が 混じって描かれています。 

 

● (注意) ドラマ、映画 は、 フィクション で、 虚

   構を通して、 真実を描き出すものです。 

   現代風にアレンジしてあったり、 話を面白くし

   たりするため、 架空の出来事 が 混じって描

   かれていて、 史実(歴史上の事実) と ドラマ、

   映画 では 異なる部分が、あります (大筋は、

   だいたい史実に基づいていますが、 細かい描

   写では、 史実 と異なっています)。

 

■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。  

   (NHKテレビ・2016年大河ドラマ)。

 安土桃山時代や江戸時代初期の時代を描く。

● ドラマで「直江兼続」 (なおえ かねつぐ、

  上杉景勝の重臣) を演じた俳優名 : 

  村上 新悟 (むらかみ しんご)。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』 。

   (NHKテレビ・2009年大河ドラマ)。

■ このドラマ は、日本の戦国時代(室町時代

  後期)、安土桃山時代 、江戸時代初期、を描

  いたドラマ です。 

■ このドラマは、 越後(新潟県)の戦国武将、

  直江兼続(なおえ かねつぐ)の生涯 と 直江

  兼続が仕えた上杉景勝、 上杉景勝の叔父の

  上杉謙信、 豊臣秀吉、 徳川家康、 その他

  多くの戦国時代(室町時代後期)、安土桃山時

  代 、江戸時代初期 に活躍した人々描いた  

  テレビドラマ です。

● 直江 兼続を演じた俳優名 : 

  妻夫木 聡 (つまぶき さとし)。  

● 幼少時代の直江 兼続 (なおえ かねつぐ) 

  を演じた俳優名 : 

  加藤 清史郎。

 

   

   〇 近世日本の武将、直江兼続 (なおえ かね

   つぐ)、上、ドラマ「天地人」での直江兼続フォト)

   (ドラマの書籍販促のPRフォト)。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の「な」 基本見出し語

   の 先頭ページへ

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ。 

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#naoekanetsugubriefchronology

 

■ 直江兼続 簡略年表 

    (なおえかねつぐ かんりゃくねんぴょう)。

 

◆ 直江 兼続 簡略(略式)年表。

 

■ 1560年 ● 直江 兼続  (なおえ かねつぐ、樋口 与

          六)が、 越後(現在の新潟県)の上田庄(う

          えだのしょう)で、誕生する。

■ 1564年 ● 直江兼続 (樋口 与六) が、 小姓・近

          習として 越後・上田庄の領主の上杉景勝

          (うえすぎかげかつ)に家臣として仕え始め

          る。 その後、1564年、上杉景勝が越後の

          春日山城で上杉謙信に仕えたため、兼続も

          上田庄から春日山城に移り居住し、景勝、

          謙信に仕える。

■ 1580年 ● 直江 兼続 (樋口兼続) が、 越後国の

          国主となった上杉景勝の、重臣となる。 

          1598年まで、越後の春日山城で居住し、越

          後の統治に活躍する。

          ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1581年 ● 直江 兼続 (樋口兼続) が、 お船(おせ

          ん)と婚儀を結び(結婚し )、直江家を相続し、

          直江姓を名乗る。

■ 1592年 ● 文禄の役で、 上杉景勝と共に、直江 兼続

          が、渡韓する。

■ 1594年 ● 直江 兼続の嫡男、平八景明(竹松)が、 誕

          生する。

■ 1598年 ● 直江 兼続 は、豊臣秀吉より、 出羽・米沢

          を与えられ、越後より米沢に移り、その経営を

          行う。

         ● 直江 兼続 は、1598年から1619年の死

          去するまで米沢に居住する。

■ 1600年 ● 直江 兼続 は、徳川家康に 直江状(弾劾

          状)を送る。

■ 1601年 ● 出羽・米沢は、上杉家領となり、 直江 兼

          続は、上杉景勝より、 景勝の上杉家の領地

          の出羽・米沢30万石の経営を任される。

■ 1614年 ● 直江 兼続 (直江重光) は、 大阪冬の陣

          で、徳川方として、参戦し、 武功を挙げる。

■ 1615年 ● 兼続 (直江重光) の嫡男、平八景明 が、

          死去する。

■ 1619年 ● 直江 兼続 (直江 重光) が、上杉家の出

          羽・米沢藩の家老として、死去する。

         ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

    

   〇 近世日本の武将、直江兼続 (なおえ かねつぐ)、

   上、ドラマ 「天地人」での直江兼続フォト)

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の「な」 基本見出し語

   の 先頭ページへ

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ。 

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#naoekanetsugudetailedchronology

 

■ 直江兼続 詳細年表 

    (なおえかねつぐ しょうさいねんぴょう)。

 

◆ 直江兼続  詳細年表。

 

□ 直江兼続 年表 1528年〜 1559年

□ 直江兼続 年表 1560年〜 1577年

□ 直江兼続 年表 1578年〜 1581年

□ 直江兼続 年表 1582年〜 1599年

□ 直江兼続 年表 1600年〜1623年

□ 直江 兼続 画像 NO.1

 

■ より理解を深めるために、 本史辞典の 『 上杉景

 (うえすぎかげかつ)、 上杉謙信 (うえすぎけんしん)、 

 北条氏康 (ほうじょううじやす)、 織田信長 (おだのぶ

 なが)、 豊臣秀吉 (とよとみひでよし)、 徳川家康 (と

 くがわ いえやす) 』 の項目 も参照して下さい。

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 

■ 直江 兼続 (なおえ かねつぐ)の詳細 な内容に関して

 は、『 直江 兼続 ガイドブック (要覧) 』  を参照して

 下さい。

■ 戦国時代については、『 中世日本歴史詳細 年表 』

 を、安土桃山時代、江戸時代については、『 近世日本

 歴史詳細年表 』を参照して下さい。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典 31438。

■ より理解を深めるために、 当年表と近い時期の日本

 史辞典の年表の、 『 戦国時代 (室町時代後期) 年表、 

 安土桃山時代 年表、 江戸時代初期 年表、 上杉 謙

 信 年表、 上杉 景勝(かげかつ)年表武田信玄年表

 武田 勝頼(かつより) 年表、 織田信長 年表、 豊臣秀

 吉年表、 徳川家康 年表、  お江(おごう)年表大 奥

 年表 』 も参照して下さい。

■ 当年表 は、 直江兼続 (1560年〜1619年) が

 生きた時代の詳細年表である。

■ 直江 兼続 (なおえ かねつぐ、 生没年 : 1560年

 〜1619年) の時代の日本へタイムスリップして、 直

 江兼続 の足跡、活動を見てみよう。

■ 歴史学の立場から、年代を追って、 直江兼続の実像

 (歴史的有名な人物には、実像 と虚像がありますが)を

 見てみよう。

■ 日付(年月日)は、全て旧暦、人物の年齢は、数え年。

● 日付は、一般の歴史書と同様に、全て旧暦 である。

● 一般的な歴史書籍で使用されているのと同じように、

 当年表の日付(年月日)は、1872年(明治5年)12月

 2日までは、旧暦(太陰太陽暦)を用い 、人物の年齢も

 数え年を用いている。

 

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◆ 直江兼続  詳細年表。

● では、直江兼続 (なおえ かねつぐ) に関係する出来

 事を、年代順に、見てみよう。

 

#naoekanetsugudetailedchronology-1528

 

■ 1528年   ● 享禄(きょうろく)改元。  

 (享禄 元年)     1528年8月20日に、 和暦の「大永」

            (だいえい、たいえい) が、 「享禄」 (き

            ょうろく、 享禄元年・1528年・8月20日

            〜 享禄5年・1532年7月29日) に 改

            元される。 

■ 1530年   ● 越後の戦国大名となる、上杉 謙信 (うえ

  (享禄 3年)  すぎ けんしん、幼名:虎千代) が、 越後

            で、 長尾為景の子として、誕生する。 

■ 1532年   ● 天文(てんぶん、てんもん)改元。   

 (天文 元年)     1532年7月29日に、和暦の「享禄」(き

            ょうろく) が、 「天文」 (てんぶん、てんも 

            ん、 天文元年・1532年・7月29日〜 天文

            24年・ 1555年・10月23日) に改元され

            る。 

■ 1534年   ● 直江 兼続の敵となる、 織田 信長 (おだ

 (天文 3年)    のぶなが、幼名:吉法師) が、 尾張で、織

             田信秀の子として、 誕生する。

■ 1536年   ● 直江 兼続の味方となる、 豊臣秀吉  (と

 (天文 5年)   よとみ ひでよし、幼 名:日吉丸?)が、 尾張

            で、弥右衛門の子として、 誕生する。

■ 1541年   ● 北条家の北条氏綱が死去し、 北条氏康が、 

 (天文10年)   家督を継いで、 北条氏の第3代当主となり、 

            1541年に、北条家の実権(1541〜71年)を

            持つ。 一説には、1538年(天文7年)に氏綱

            が、隠居し、氏康に家督を譲り後見していたと

            も言われている。

■ 1542年   ● 直江 兼続の敵となる、 徳川家康 (とく

 (天文11年)   がわ いえやす、幼名:竹千代) が、 三河

            で、松平広忠の子として、 誕生する。

             ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1546年   ● 直江 兼続の味方となる、 武田勝頼 (た

 (天文15年)    けだ かつより) が、甲斐の戦国大名の

             武田信玄の子として、 生まれる。

■ 1551年   ● 上杉 謙信(長尾景虎) は、長尾政景の。

 (天文20年)   反乱を鎮圧する。

            ● 上杉謙信(長尾景虎)の(実)姉の桃(仙

            桃院)が、長尾政景に嫁ぐ (政略結婚)。

                       ● 上杉謙信(長尾景虎)は、越後を統一し、 

            名実共に、越後国主となる。

■ 1551年   ● 織田信長の父・信秀が急死し、 織田

 (天文20年)   信長 が、織田信秀の家督を継ぐ。

■ 1554年   ● 豊臣秀吉 が、織田信長に仕える 

 (天文23年)   (家臣として仕え始める)。

■ 1555年   ● 弘治(こうじ)改元。    

 (弘治 元年)   1555年10月23日に、和暦の「天文」

            (てんぶん、てんもん) が、 「弘治」 (こ

            うじ、 弘治元年・1555年・10月23日〜

             弘治4年・ 1558年・2月28日) に改元

            される。 

■ 1555年   ● 直江 兼続が仕える主君となる、 上杉  

 (弘治元年)    景勝 (うえすぎ かげかつ、 幼名・長尾

            卯松(うのまつ)、後に直江 兼続が仕える

            主君・大名) が、 誕生する。

■ 1558年   ● 永禄(えいろく)改元。    

 (永禄 元年)    1558年2月28日に、和暦の「弘治」(こ

            うじ) が、 「 永禄」 (えいろく、 永禄元

            年・1558年・2月28日〜 永禄13年・

            1570年・4月23日) に改元される。 

■ 1559年   ● 織田信長 は、 尾張一国を統一し、尾

 (永禄 2年)   張国主となる。

 

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#naoekanetsugudetailedchronology-1560

 

■ 1560年   ● 直江 兼続  (なおえ かねつぐ、幼名・樋

 (永禄 3年)   口 与六)  誕生する。  

           ● 直江 兼続は、 越後の坂戸(さかど)城主 

            (現在の新潟県南魚沼市六日町坂戸)・長尾

            政景(ながおまさかげ)の家臣、 樋口 兼豊

            (ひぐち かねとよ、樋口 惣右衛門(そうえも

            ん))の長男として、 生 まれる。   

           ● 一方、上杉 謙信 (けんしん、長尾景虎)、

            31歳。 上杉景勝 (かげかつ、長尾 卯松)、

            6歳。 上杉景勝は、上杉謙信の甥(おい)で、

            長尾政景の次男で、 後の直江 兼続の主君。

           ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1560年   ● 1560年5月に、織田信長は、 桶狭間

  (永禄 3年)   (おけはざま)の戦いで、今川義元を破る。 

             今川義元は、 尾張の桶狭間で、敗死する。

           ● 義元の部下として信長と戦っていた、徳川

            家康(松平元康)は、尾張より、松平軍の兵を  

            撤退し、三河へ戻り、今川家から独立する。

■ 1561年   ● 第4回川中島の戦い。

 (永禄4年) 

■ 1562年   ● 1562年1月に、徳川家康(松平元康) は、

 (永禄 5年)   織田信長と清洲同盟 (織徳同盟)を結ぶ。 

■ 1564年   ● 直江 兼続 (樋口 与六) 、 小姓・近習

  (永禄7年)    として 上杉 景勝仕える (家臣として仕え

             始める)。 通説だが、これを立証しえる史料

             はない。

■ 1564年   ● 上杉 謙信(上杉輝虎)の姉婿で上杉景勝の 

 (永禄7年)    父の、長尾政景が、舟遊びの最中、溺死する。

            ● 上杉謙信(上杉輝虎)が、上杉景勝を養子

            とする。  

            ● 第5回川中島の戦い。

■ 1567年   ● 1567年10月に、織田信長 は、 美濃

 (永禄10年)   (現在の岐阜県)の斉藤氏を滅ぼす。 

■ 1568年   ● 1568年11月に、織田信長は、足利義

 (永禄11年)   昭(よしあき)を奉じて、上洛を果たし、 義

                     昭を将軍位に就(つ)ける。  この戦いに、

            家康は、信長へ援軍を派遣した。

■ 1570年   ● 元亀(げんき)改元。    

 (元亀 元年)     1570年4月23日に、 和暦の「永禄」

            (えいろく) が、 「 元亀」 (げんき、 元亀

            元年・1570年・4月23日〜 元亀4年・15

            73年・7月28日) に改元される。 

■ 1570年   ● 1570年4月に、織田信長は、 軍を、越

 (元亀 元年)   前に侵攻したが、信長の妹婿の北近江の浅

            井長政に背後をつかれ、 京(都)へ逃れた。

                        金ヶ崎の退き口 (かながさきのしりぞきぐち)。

■ 1570年   ● 1570年6月に、織田信長は、近江国の

 (元亀 元年)   姉川で、浅井・朝倉連合軍を破る (姉川の

            戦い)。 この戦いに、家康は、信長と共に参

            戦し、信長を助けた。

            ● 1570年9月に、本願寺は、信長に対抗

            する(石山合戦の始まり)。

■ 1571年   ● 相模国(さがみのくに、現在の神奈川県) 

 (元亀 2年)   の北条家の、 北条氏康(1515〜71年) 

            が、死去する。  氏康の子、北条氏政

            (1538〜90年) が 北条家の実権(15

            71〜90年)を握る。

■ 1571年   ● 1571年9月に、 織田信長 は、  比叡

 (元亀 2年)   山延暦寺 (ひえいざんえんりゃくじ) を焼

            討ちする。

■ 1572年   ● 1572年10月に、武田信玄は、上洛の

 (元亀 3年)   軍を起こす (上洛を開始する)。

           ● 1572年12月に、遠江の三方が原(みか

            たがはら)の戦いで、 徳川・織田連合軍は、

            武田信玄の武田軍に大敗する。

■ 1573年   ● 1573年2月に、足利義昭は、武田氏、浅

 (元亀 4年)   井氏、朝倉氏、本願寺と協力して、信長討伐

            を謀(はか)る。

           ● 武田信玄が、病状悪化し、武田軍は、徳川

            領の三河や遠江から、軍を返し、甲斐へ帰国

            した (信玄は帰国途中、信濃・駒場で病死)。 

           ● 1573年4月に、 武田信玄が、上洛途中

            で、死去(病死)する。

           ● 1573年に、 武田信玄死後、 武田勝頼 

            (たけだ かつより)が、武田家の家督を継承

            する。

                      ● 1573年7月に、織田信長は、信長を裏切

            った、足利 義昭(よしあき)を京都より追放し、

            室町幕府を滅ぼす (室町幕府滅亡)。

           ● 1573年7月に、 信長は、元号を元亀から

            天正へ と改めることを朝廷に奏上(そうじょう)

            し、これを実現させた。

■ 1573年   ● 天正改元。    

 (天正 元年)    1573年7月28日に、 和暦の「元亀」(げ

            んき) が、 「 天正」 (てんしょう、天正元年・

            1573年・7月28日〜 天正20年・ 1592年

            ・12月8日) に改元される。 

■ 1573年   ● 1573年に、信長は、朝倉・浅井両氏を滅

 (天正 元年)   ぼす。 

            ● 豊臣秀吉(木下秀吉)は、 浅井氏滅亡後、

             その旧領の北近江三郡の経営を織田信長よ

             り任され、 北近江(きたおうみ)の長浜城の

             城主となる。

■ 1575年   ● 上杉 謙信が、直江 兼続 (樋口兼続)を重

  (天正3年)   用(ちょうよう)する。 通説だが、これを立証し

            える史料はない。

■ 1575年   ● 1575年5月に、信長・家康連合軍 は、三

 (天正 3年)   河・長篠(ながしの)で、 武田勝頼の率いる軍

            に大勝する (長篠の戦い)。 

           ● 1575年8月に、信長は、越前に侵攻し、本

            願寺門徒の軍を破り、再び、織田領にし、越前

            を柴田勝家に経営させる。

■ 1577年   ● 1577年 9月に、信長軍 は、北陸で、 上

 (天正 5年)   杉謙信の率いる上杉軍に敗れ (手取川(てど

            りがわ)の戦い)、 撤兵する。

 

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#naoekanetsugudetailedchronology-1578

 

■ 1578年   ● 上杉 謙信1578年3月に、死去する

  (天正6年)   ●  3月に、 謙信死去直後から、上杉謙信

             の2人の有力な養子の上杉景勝と上杉三

             郎景虎の間に上杉家の家督相続をめぐ

             って、 御館の乱(おたてのらん、1578〜

             80年)が起こる。 

           ● 上杉 景勝は、 1578年6月に、武田家の

            武田勝頼と甲越同盟を結び、1578年12月

            に、その甲越同盟の証として、武田家の菊姫

            (きくひめ)を、景勝の正室夫人にむかえる。

           ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1578年   ● 信長軍は、上杉領の能登、加賀の攻略を

 (天正 6年)   開始する。 

           ● 1578年11月に、織田水軍が、鉄甲船を

            用いて、毛利水軍を破る。

■ 1579年   ● 織田信長 は、 五層七重の豪華絢爛(ご

 (天正 7年)   うかけんらん)な安土城を完成させる。

■ 1579年   ● 上杉景勝は、武田家の後ろ盾を得て、戦い

 (天正7年)    (御館の乱)を有利にすすめ、 1579年3月

            に、上杉三郎景虎が自刃(自害)する。

■ 1580年   ● 1580年に、 直江兼続 (樋口兼続)の

 (天正8年)    主君の上杉景勝 御館の乱で、上杉三

            郎景虎に味方した勢力に最終的に勝利を得

            。 そして、上杉 景勝、 上杉家の家督を

            継承(相続)する。  そして、上杉景勝 は、

            越後国の国主となる。 

           ● 1580年に、 直江 兼続 (樋口兼続) が、 

            越後の国主、大名となった、上杉 景勝の、重

            臣となる

■ 1580年   ● 織田信長 は、 石山本願寺を屈服させる。

 (天正 8年) 

■ 1581年   ● 直江 兼続  が、直江家を相続する。

  (天正9年)     直江兼続 (樋口兼続) 、 直江家の直江

            信綱が死去しその妻、お船(おせん)と結婚し

            直江家を相続し、 直江姓を名乗る

■ 1581年   ● 1581年2月に、織田信長 は、 京都の

 (天正 9年)   内裏(だいり)東の馬場で、京都御馬揃え(馬

            揃えは、現在の軍事パレードに相当)を行う。

 

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#naoekanetsugudetailedchronology-1582

 

■ 1582年   ● 越後の大名上杉 景勝 、  織田軍

 (天正10年)   に攻められ、 越後の上杉家は 滅亡の

            危機

           ● 1582年6月に、織田信長が、本能寺  

            の変で、自刃(自害)する。 越後を攻めて

            いた織田軍が、 頭領の信長を失い、撤退

            、 上杉家は滅亡の危機を脱する

           ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1582年   ● 1582年2月に、織田信長 は、 武田

 (天正10年)   領 (甲斐、信濃、上野、 駿河) への攻撃

            開始し、 3月11日に、武田家の当主の、

            武田勝頼を討ち取り(天目山の戦い)、 戦

            国大名の武田氏は滅亡する。 

           ● 1582年2月に、織田軍に協力して、 徳

            川軍も、武田領の駿河に侵攻して、駿河を

            占領する。 家康は、同年に、この戦功によ

            り、 織田信長から駿河一国を与えられる。

■ 1582年   ● 1582年5月に、織田信長 は、明智光秀

 (天正10年)   に、備中国にいる秀吉軍への援軍を命じ、信

            長は、同年6月に、京都へ上洛した。

           ● 1582年6月に、豊臣秀吉の主君・信長は、

            本能寺の変で自刃。 明智光秀 が、1582年

            6月に、京都の本能寺にいた織田信長を攻め、

            自害させる (本能寺の変)。  信長、49歳

            で死す。 同年6月に、秀吉は、 明智光秀を

            討つ (山崎の戦い)。

           ● 1582年6月27日に、秀吉は、に、清洲城

            にて、他の織田家の重臣と信長の後継者と遺

            領の分割を決める (清洲会議)。

           ● 1582年12月に、秀吉は、 秀吉に敵対す

            る北近江(きたおうみ、滋賀県北部)へ侵攻し、

            長浜城を降伏させ、また、秀吉に敵対する美

            濃(みの、岐阜県)へ侵攻し、平定する。

                  ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1582年   ● 織田信長死後、 織田領の信濃(しなの、

 (天正10年)   長野県)、甲斐(かい、山梨県)、上野(こう

            ずけ、群馬県)へ上杉景勝の軍、北条氏政

            の軍、徳川家康の軍が侵攻した。 

               その後、戦いの結果、 北信濃(きたし

            なの、長野県北部)は、上杉領になり、また、

            徳川家康と北条氏政は和睦し、 信濃(北信

            濃を除く)、甲斐は、徳川領に、 上野は、北

            条領 となった。

              ここに、 徳川家康 は、三河(みかわ、愛

            知県東部)、遠江(とおとうみ、静岡県西部)、

            駿河(するが、静岡県中部)、甲斐、信濃を領 

            有する大大名になる。

■ 1583年   ● 1583年4月に、豊臣秀吉は、賤ヶ岳(しず

 (天正11年)   がたけ)で、柴田勝家の兵を破り(賤ヶ岳の戦 

            い)、追撃された、勝家は、越前の北庄城 (き

            たのしょうじょう)で、自害する。

           ● 秀吉は、 さらに、 加賀国と能登国(かが

            のくに と のとのくに、現在の石川県)へ侵攻し

            2国を平定して、 それらを前田利家に与えた。 

           ● 1583年8月に、秀吉は、石山本願寺の跡

            地に、大阪城の築城を開始する (1588年大

            阪城完成)。

■ 1584年   ● 1584年4月に、徳川家康は、秀吉の兵

 (天正12年)   を長久手(なかくて)で破り (小牧・長久手

            の戦い)、1584年12月に秀吉と和睦する 。

           ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1585年   ● 1585年3月に、秀吉は、紀伊(きい、和歌

 (天正13年)   山県)へ侵攻して、平定する (秀吉の紀州征

            伐)。

           ● 1585年7月に、豊臣秀吉は、関白となる。

           ● 1585年8月に、秀吉は、 長宗我部 元

             親(ちょうそかべ もとちか)を降伏させ、四

             国を平定する (秀吉の四国征伐)。

           ● 1585年8月に、秀吉は、越中国(えっち

            ゅうのくに、富山県)の佐々 成政 (さっさ な

            りまさ)を降伏させ、北陸を平定する (秀吉

            の北陸平定)。

■ 1586年   ● 1586年10月に、徳川家康 が、 豊臣

 (天正14年)   秀吉(羽柴秀吉)に臣従する。

           ● 1586年12月に、秀吉は、 太政大臣に

            就任し、 豊臣の姓を 賜(たまわ)り、豊臣

            政権が 確立する。

■ 1587年   ● 1587年5月に、豊臣秀吉は、島津 義

 (天正15年)   久(しまづ よしひさ)を降伏させ、九州を平

            定する (秀吉の九州平定)。

■ 1588年   ● 直江 兼続が、上杉 景勝に付き従って、

 (天正16年)   上洛する。

■ 1589年   ● 茶々(淀殿)は、 秀吉の男子、 鶴松

 (天正17年)   (つるまつ)を生む。  

■ 1590年   ● 1590年7月に、秀吉は、北条氏を降 

 (天正18年)   伏させ、関東を平定する (秀吉の関東

            平定)。

           ● 1590年7月に、秀吉は、奥州も制圧

            した (秀吉の奥州制圧)。

           ● 1590年7月に、秀吉は、 天下を統一

            した (日本全国を統一した)。

           ● 1590年8月に、(秀吉の命により)徳

            川家康が、 関東に移り、江戸城に入る

            (家康が関東を領有、約250万石)。

■ 1591年   ● 豊臣秀吉の正室のねねの元で育てられ

 (天正19年)   ていた、 鶴松 (淀殿(茶々)の男子) が、 

            死亡する。

           ● 1591年12月に、秀吉は、関白の職を、

            甥(おい)の秀次(ひでつぐ)に譲る。 秀吉

            は、太閤(たいこう、前関白の尊称)と呼ば

            れるようになる。                 

■ 1592年   ● 1592年(天正20年)4月に、 秀吉に

  (天正20年)   より、 朝鮮出兵が開始される (文禄の役

            (ぶんろくのえき)、1592〜93年)。

■ 1592年   ● 文禄の役で、 上杉 景勝、  直江 兼続

 (天正20年)    が、 渡韓

■ 1592年   ● 文禄改元。   

 (文禄 元年)   1592年12月8日に、 和暦の「天正」(て

            んしょう) が、 「 文禄」 (ぶんろく、 文禄

            元年・1592年・12月8日〜 文禄5年・

            1596年・10月27日) に改元される。

           ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。 

■ 1593年   ● 秀吉の側室夫人の、 淀殿(茶々) は、 

 (文禄 2年)   秀吉の男子、拾(ひろい、後の豊臣秀頼)

            を生む。

■ 1594年   ● 直江 兼続の嫡男、竹松(幼名、後、平八

 (文禄 3年)   景明)が、 誕生する。

■ 1595年   ● 1595年7月に、秀吉は、関白秀次を自

 (文禄 4年)   害させる。

■ 1596年   ● 慶長改元。   

 (慶長 元年)     1596年10月27日に、 和暦の「文禄」

            (ぶんろく) が、「 慶長」 ( けいちょう、 慶

            長元年・1596年・10月27日〜慶長20年・

            1615年・7月13日) に改元される。 

■ 1597年   ● 1597年1月に、豊臣秀吉により、再度、 

 (慶長 2年)   朝鮮出兵が開始される (慶長の役 1597

            〜98年)。

■ 1598年   ● 越後の大名、上杉 景勝 は、  豊臣秀吉

 (慶長3年)    により、 会津120万石に加増移封される

           ● 直江 兼続 、豊臣秀吉により、出羽・米

            沢 を与えられる。 その後、豊臣秀吉が、死

            去する。

■ 1598年   ● 1598年7月に、豊臣秀吉が、 五大老・

 (慶長 3年)   五奉行の制度を定める (秀吉の後継者で

            ある豊臣秀頼の体制を磐石にするため)。

              家康が五大老の一人となる。 上杉景勝

            も五大老の一人となる。

           ● 1598年8月に、秀吉が、 死去する 

             (63歳)。

           ● 1598年に、秀吉死去後、 徳川家康、前

            田利家 が、朝鮮撤兵を命じる (159812

            月にほぼ撤兵完了する)。

■ 1599年   ● 1599年3月に、豊臣政権の実力者の、

 (慶長 4年)   前田利家が、病死する。  

           ● 1599年3月に、豊臣家大老の家康により、 

            石田三成は奉行職を解任され、 佐和山城で

            蟄居(ちっきょ)させられる。

           ● 1599年10月に、加賀の前田家が、家康

             の支配下に入る。

           ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

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#naoekanetsugudetailedchronology-1600

 

■ 1600年   ● 1600年 に、 関が原の戦いが起こり、 

 (慶長 5年)   西軍が敗れる。   

           ● 1600年4月に、 家康が、 会津の、上

             杉景勝から直江状勝の重臣の直江

             兼続の弾劾状) を受け取り激怒し家康

             上杉景勝が豊臣家(豊臣政権)に謀

             反(むほん)ありとして、 1600年5月に、 

             上杉景勝討伐を宣言する

            ● 1600年6月に、家康は、親家康派の大

             名で組織した、上杉 景勝討伐軍を率いて、 

             会津へ向かい、大阪を出発する。

            ● 1600年7月に、石田三成が、挙兵し、

             全国の大名へ呼びかけ、反家康の軍を集

             める。

            ● 1600年9月15日に、 関が原の戦いが

             起こり、徳川家康の率いる大名の東軍が勝

             つ。 

               石田三成の率いる反家康派の大名の

             西軍 と 徳川家康の率いる親家康派の大

             名の東軍が、 関が原で衝突し、戦いは1

             日で終わり、 西軍が敗北し、東軍が勝つ。

            ● 関が原の戦い後、 徳川家康が、 東軍

             に与(くみ)した大名の加増 や 西軍に与

             (くみ)した大名の改易、減封の処分を行う。

■ 1601年   ● 西軍に与(くみ)した 、上杉 景勝 、 

 (慶長6年)    豊臣家大老の徳川家康により、会津120

            万石から、 出羽・米沢30万石に 移減

            封される

■ 1603年   ● 徳川家康 が、征夷大将軍となり、江戸

 (慶長 8年)   幕府を開く。  家康が江戸幕府の初代将

            軍 となる。

■ 1605年   ● 徳川家康が、江戸幕府の将軍職を、家

 (慶長10年)   康の男子、徳川秀忠に譲る (将軍職の

            徳川家世襲)。

■ 1607年   ● 徳川家康は、 駿府に隠居(いんきょ)

 (慶長12年)   する。 家康は、引き続き、大御所として、 

            政治に関与する。

■ 1608年   ● 直江 兼続 は、直江重光と称す。 

 (慶長13年)  ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1611年   ● 京都・二条城で、 家康が、 成長し立

 (慶長16年)   派になった、豊臣秀頼に会う。 家康が、

            豊臣家隆盛を恐れ、秀頼排除の意向を固

            める。

■ 1614年   ● 1614年7月に、 方広寺(ほうこうじ)

 (慶長19年)   鐘銘事件が、起こる。               

           ● 1614年10月に、大阪冬の陣が起こる。

            直江兼続 (直江重光)は、徳川方として、

            参戦し、武功を挙げる。

■ 1615年   ● 1615年4月に、 大阪夏の陣で、豊臣

 (慶長20年)    氏が滅亡する。              

           ●  直江 兼続 (直江重光) の嫡男、平八

            景明 が、死去する。

■ 1615年   ● 元和改元。   

 (元和 元年)   1615年7月13日に、 和暦の「慶長」(け

            いちょう) が、 「 元和」 (げんな、 元和

            元年・1615年・7月13日〜 元和10年・

            1624年・2月30日) に改元される。 

■ 1616年   ● 1616年4月に、 徳川家康 が、死去

 (元和 2年)   する (享年75歳)。

■ 1619年   ● 直江 兼続 (直江 重光) 死去する

 (元和 5年) 

■ 1623年   ● 上杉 景勝 (かげかつ)が、死去する。

 (元和 9年) 

 

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『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』

 

 

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