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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

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◆ カナヤマ直江兼続ガイドブック。

     KANAYAMA’S NAOE KANETSUGU 

  GUIDEBOOK

 

 

   (Kjhh)41524

  カナヤマ  

  直江兼続

  関連 年代順

  出来事ブック。 』

 

 

  ■ パソコン(PC)、 携帯用パソコン(PC)、

     タブレット端末(PC)(iPad、他)、

     スマートフォン(iPhone、他)、

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        インターネット向 電子書籍。

 

 

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メ ニュー (目次)。

 ■ 次の項目から選んで、クイックして下さい。

 

 □ 直江兼続 関連年代順

    出来事ブック (総合)

 

 □ 直江兼続 関連年代順

       出来事 (各年・詳細)

 

  □ 1521年〜1623年の出来事

 

 □ 直江兼続 関連出来事

    (概要・総合)

 

  □ 直江兼続 関連出来事

       (概要・テーマ別各事柄)

 

   □ 直江兼続の生涯の概要

 

 

 □ 直江兼続ガイドブック

 

   □ 直江兼続の生涯の概要。 

 

 

 ■ 直江兼続と同時代近くの関係史料。

 

   □ 上杉 謙信 画像 No.1

 

   □ 上杉謙信ガイドブック

    □ 上杉謙信 関連年代順

       出来事ブック  

           

   □ 武田信玄ガイドブック

   □ 武田信玄 関連年代順

      出来事ブック

 

   □ 織田信長ガイドブック

   □ 織田信長 関連年代順

           出来事ブック

 

    □ 豊臣秀吉ガイドブック  

   □ 豊臣秀吉 関連年代順

     出来事ブック

 

   □ 徳川家康ガイドブック 

   □ 徳川家康 関連年代順

     出来事ブック。   

 

    □ 江戸幕府ガイドブック

     □ 江戸幕府 関連年代順出来事

            ブック。 

 

   □ 直江兼続 詳細年表。 

 

 

 □ 直江兼続 関連年代順

    出来事ブックの内容

 

 

 

 ■ 上位のWEBサイト。 

 □ (KOH) カナヤマ オフィシャル   >

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 □ (Kjhh)  直江兼続ガイドブック      > 

 □ (Kjhh)  直江兼続 関連

          年代順出来事ブック      > 

 □ (Kjhh)  この日本語ページ。

 

 ■ カナヤマ 主要 公式ホームページ

    略語一覧表。

   KOH   CSE   UCF  KHAS (KASH) 

   CCF   KBIH   KPH    HCF  KANH

     QGN  KWDB TTFW  TTWH  AWM 

   KGJ   KJHH   KH H  KCB   KCTS

    IMB   KHIB  RH  KIOS  KE LKOH  

     GIMEH  ETCSS GIMJH JTCSS EP

 

  □ 主要サイトの略語・説明表

 

 

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#jpcontentsofthisbook

 

◆ 直江兼続 関連年代順

   出来事ブックの内容 :

 

 

 ■ 初学者・初心者 インターネット 

      直江 兼続ガイドブック。

 

 ■ パソコン(PC)、 携帯パソコン(PC)、 

   タブレット端末(PC)(iPad、他)、

   スマートフォン(iPhone、他)、

    ウェアラブル端末、 スマートテレビ用 

   インターネット向  電子書籍。

 

 ■ この本1冊で (このホームページ1つで)、直江

  兼続の こと(概略) が、一通り、わかる。

 

 ■ 直江 兼続は、 安土桃山時代、江戸時代初期

   の、越後国 (えちごのくに、現在の新潟県) 

   の武将で、義と愛民に生きた武士で、 越後国の

   国主、大名で 後に出羽・米沢藩主となる、上杉景

   勝 (うえすぎ かげかつ)の近臣、家老であった。

 

 ■ 直江 兼続ガイドブック (要覧)。

 

 ■ 初学者・初心者用 オンライン 直江 兼続ガイド

   ブック。

 

 ■ 直江 兼続 の 入門 ガイドブック。

 

 ■ 直江 兼続 (なおえ かねつぐ) 関連 初心者向 

  インターネット用 オンライン書籍 (ブック)。

   

 ■ TKKI カナヤマ著 直江 兼続ガイドブック。

 

 

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#jphappenings

 

 

   Kjhh) 

   直江兼続 関連

   年代順出来事

   ブック (総合)。

 

 

    

   〇 近世日本の武将、直江兼続 (なおえかねつぐ)、

     上、ドラマ 「天地人」での直江兼続フォト)

 

 

 

#jphappenings/eachyear

 

 

◆ 直江兼続 関連

   年代順出来事

     (詳細・各年)。

 

 ■ 直江兼続 関連年代順

    出来事 (詳細項目)。

 

  □ 1521年〜1564年の出来事

 

  □ 1564年〜1578年の 出来事

 

  □ 1578年〜1590年の出来事

 

  □ 1590年〜1615年の出来事

 

  □ 1615年〜1623年の出来事

 

 

 

 

 

 □ 直江兼続の生涯の概要

 

 

 □ 直江兼続ガイドブック

 

   □ 直江兼続の生涯の概要。 

 

 

 ■ 直江兼続と同時代近くの関係史料。

 

   □ 上杉 謙信 画像 No.1

 

   □ 上杉謙信ガイドブック

    □ 上杉謙信 関連年代順

       出来事ブック  

           

   □ 武田信玄ガイドブック

   □ 武田信玄 関連年代順

      出来事ブック

 

   □ 織田信長ガイドブック

   □ 織田信長 関連年代順

           出来事ブック

 

    □ 豊臣秀吉ガイドブック  

   □ 豊臣秀吉 関連年代順

     出来事ブック

 

   □ 徳川家康ガイドブック 

   □ 徳川家康 関連年代順

     出来事ブック。   

 

 

 

 

 ■ 備考。

 

  ■ 当書籍では、 歴史の出来事の5W1H

    (いつ、どこで、だれが、何を、なぜ、どの

    ように) や、 歴史の出来事の流れ(原因

    理由⇒事件勃発⇒経過⇒結果⇒原因理

    由)に沿って、歴史(過去)の出来事を分か

    り易く、説明している。

 

  ■ より理解を深めるために、 本史辞典の、 

  『 上杉景勝 (うえすぎかげかつ)、

    上杉謙信 (うえすぎけんしん)、 

    織田信長 (おだのぶなが)、

    豊臣秀吉 (とよとみひでよし)、 

    徳川家康 (とくがわ いえやす) 、

    今川義元  (い まがわよしもと)、 

    明智光秀 (あけちみつひで)、 

    北条氏康 (ほうじょううじやす)、  

    北条 氏政 (ほうじょううじまさ)、  

    北条 氏直 (ほうじょううじなお)、  

    武田信玄 (たけだし んげん) 

    武田 勝頼 (たけだしんげん) 』

   の項目も参照してください。

   

 

  ■ 西暦・和暦の記載。

  ● この年代順出来事は、

    西暦を先に、その後ろの( )内に和暦を記載し

    ている。 

  ● この年代順出来事に記載されている日付(年

    月日)は、 一般の歴史書で使用されているの

    と同じように、1872年(明治5年)以前は旧暦

    (太陰太陽暦)を用い、 1873年(明治6年)

    以後は新暦(太陽暦、グレゴリオ暦)を用いて

    いる。 

 

 

  ◆ では、直江 兼続 (なおえかねつぐ)に関係す

     る出来事を、年代順に、見てみよう。

 

  ■ さあ、直江 兼続に関する様々な出来事を見て

    みよう。

 

  ● 500〜400年前頃の日本へタイムスリップし

    て、直江 兼続の活動を見てみよう。

 

  ● 歴史学の立場から、直江 兼続の生涯や実像

    (真実の姿)を見てみよう。

 

  ● 歴史学の立場から、年代を追って、直江 兼続

    の実像を見てみよう (歴史的有名な人物には、

    虚像と実像があるが)。

 

  ● 日付は、一般の歴史書と同様に全て旧暦

    ある。

 

  ● 現代も、過去の時代も、人間は、利害と感情

    (友愛)と理性等で行動し、富、名誉、権力等

    を手に入れるために努力する。 

       人類の歴史は、 平和と戦争の歴史で

    ある。 人は、美しき者、平和を好む者であり、

    人は、醜き者、争う者でもある。

 

 

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◆ 直江兼続 関連

   年代順出来事

     (詳細・各年)。

 

  ■ 『 では、年代を追って、直江兼続の行動

      を詳しく見てみよう。 』

 

 

#jphappeningsbyperiod-1528

 

#jphappenings-1521

 

 

 ■ 1521年 (永正18年・大永元年)。

 

  ● 永正年号から大永 年号に改元。

      大永年号1521年ー1528年。

  ■ 1521年永正18年 ・大永元年)に、

    大永(だいえい、たいえい)年号に改元。 

  ● 1521年永正18年 ・大永元年)8月23日、 

    和暦の「永正」(えいしょう、

    永正元年・1504年〜永正18年・1521年) が、

    和暦の「大永」(だいえい、たいえい、

    大永 元年・1521年 8月23日〜

    大永 8年・1528年・ 8月20日) に

    改元される。   

 

 

 ■ 1521年 (大永元年) 11月。

 

  ● 武田 信玄太郎が誕生する。  

  ■ 1521年(大永元年)11月に、 武田 信玄

    (たけだ しんげん、幼名:太郎(たろう))が、 

    甲斐国(かいのくに、現・山梨県)の守護大

    名、戦国大名、国主の武田信虎(たけだの

    ぶとら)の子として、誕生する。

 

 

 ■ 1528年 (大永8年・享禄元年)。

 

  ● 大永年号から享禄年号に改元。

      享禄年号1528年ー1532年。

  ■ 1528年(大永8年・享禄元年) に、

    享禄(きょうろく)年号に改元。 

  ● 1528年(大永8年・享禄元年)8月20日、 

    和暦の「大永」(だいえい、たいえい、

    大永元年・1521年〜大永8年・1528年)  が、 

    和暦の「享禄」(きょうろく、

    享禄 元年・1528年 8月20日

    享禄 5年 ・1532年 7月29日)  に 

    改元される。 

 

 

 ■ 1530年 (享禄3年)。

 

  ● 上杉謙信(虎千代)の誕生。

  ■ 1530年(享禄3年)に、 越後国(えちごのく

    に、現・新潟県)の戦国大名となる、上杉  

    謙信(うえすぎ けんしん、幼名:虎千代)が、 

    越後国(えちごのくに、現・新潟県)の、

    守護代の長尾為景(ながお ためかげ)

    の子として、誕生する。

 

  ● 1530年(享禄3年)に、越後国の戦国大名と

    なる、上杉 謙信(うえすぎけんしん、幼名:虎千

    代)が、誕生する。 虎千代(とらちよ、後の

    上杉 謙信)が、 越後守護代・長尾為景の4男

    (又は3男)として、春日山城で、産まれる。

  ● TKKI カナヤマ著 直江兼続ガイドブック。

 

 

 ■ 1532年 (享禄5年・天文元年)。

 

  ● 享禄年号から 天文年号に改元。

      天文年号1532年ー1555年。

  ■ 1532年(享禄5年・天文元年)に、

    天文(てんぶん、てんもん)年号に改元。 

  ● 1532年(享禄5年・天文元年)7月29日に、 

    和暦の「享禄」(きょうろく、

    享禄元年・1528年〜享禄5年・1532年) が、 

    和暦の「天文」(てんぶん、てんもん、

    天文 元年・1532年・ 7月29日〜

    天文24年・1555年・10月23日) に

    改元される。 

 

 ■ 1534年 (天文3年)。

 

  ● 織田信長(吉法師)が誕生する。

  ■ 1534年(天文3年)5月12日に、 

    織田 信長 (おだのぶなが、幼名(ようみょ

    う):吉法師(きっぽうし)、生没年:1534年

    ー1582年))が、 

    尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部の相当

    地域)の、戦国武将、国人領主の織田信秀

    (おだ のぶひで、生没年:1511年ー1552

    年頃))の子として、誕生する。

 

 

 ■ 1536年 (天文5年)。

 

  ● 信玄が元服する(成人となる)。

  ■ 1536年(天文5年)3月に、 武田信玄(太 

    郎)は、元服(成人)し、 室町幕府・12代将

    軍の足利義晴(あしかがよしはる)の一字の

    晴を賜り、武田 晴信(はるのぶ)と称す。

 

 

 ■ 1537年 (天文6年)。

 

  ● 豊臣秀吉(日吉丸?)の誕生。

  ■ 1537年(天文6年)に、 豊臣秀吉  (とよ

    とみ ひでよし、幼名:日吉丸(ひよしまる)?)

    が、 尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)

    の、農民・足軽の弥右衛門の子として、誕生

    する。   

 

  ● 秀吉の誕生日は1536年 (天文5年)説も

    ある。

 

 

 ■ 1542年 (天文11年)。

 

  ● 徳川家康竹千代) が誕生する。

  ■ 1542年 (天文11年)に、 徳川家康 (とく

    がわ いえやす、幼名:竹千代(たけちよ)) が、 

    三河国 (みかわのくに、現在の愛知県東部)

    の、戦国武将・国人領主で岡崎城主の、

    松平広忠 (まつだいら ひろただ) の子

    として、 誕生する。

  ● TKKI カナヤマ著 直江 兼続ガイドブック。

 

 

 ■ 1543年 (天文12年)。

 

  ● 謙信が元服する(成人となる)。

  ■ 1543年(天文12年)8月15日に、 

    上杉謙信(虎千代)は、元服(成人)して、 

    長尾 景虎 (ながおかげとら)と名乗る。

 

 

 ■ 1546年 (天文15年)。

 

  ● 武田勝頼の誕生

  ■ 1546年 (天文15年)に、 武田勝頼(たけ 

    だ かつより) が、 甲斐国(かいのくに、

    現・山梨県)の戦国大名の武田信玄の子として、 

    産まれる。

 

 ■ 1548年 (天文17年)。

 

  ● 謙信が越後守護代となる。

  ■ 1548年(天文17年)に、 上杉謙信(長尾

    景虎)は、 数え年19歳で、長尾家の家督を

    相続し、 長尾氏の本拠地である春日山城

    (かすがやまじょう)に入り、 越後国(えちご

    のくに、現・新潟県)の守護代(しゅごだい)

    となる。

 

 

 ■ 1550年 (天文19年)。

 

  ● 長尾政景が反乱を起こす。

  ■ 1550年 (天文19年)に、 上田長尾家当主

    の長尾政景(まさかげ)が、 謙信(長尾景虎)

    の長尾家の相続に不満を持って、反乱を起こ

    す。

 

 

 ■ 1551年 (天文20年)。

 

  ● 謙信が長尾政景の反乱を鎮圧

  ■ 1551年 (天文20年)に、 上杉謙信(長尾

    景虎)は、 長尾政景の反乱を鎮圧する。

 

  ● 謙信の姉が長尾政景に嫁ぐ。

  ■ 1551年 (天文20年)に、上杉謙信(長尾

    景虎)の実姉の桃 (もも、仙桃院(せんと

    ういん))が、 長尾政景に嫁ぐ (政略結婚)。

 

  ● 謙信が越後を統一する。

  ■ 1551年(天文20年)に、 上杉謙信(長尾

    景虎)は、 越後を統一し、名実共に、越後国

    の国主となる。

  ● TKKI カナヤマ著 上杉謙信ガイドブック。

 

 

 ■ 1552年 (天文21年)。

 

  ● 謙信と信玄が

    第1次川中島の戦いを行なう。

  ■ 1552年(天文21年)に、上杉謙信(長尾景虎)

    と武田信玄(武田晴信)との間で、第1次川中島

    の戦い (5回の川中島の戦いの最初)が行な

    われる。

 

 

 ■ 1554年 (天文23年)。

 

  ● 甲相駿三国同盟が成立。

  ■ 1554年(天文23年)に、

    武田信玄、北条氏康、今川義元の間で、互い

    に婚姻関係を結び、 甲斐国本拠地の武田氏、

    相模国本拠地の北条氏、駿河国本拠地の今

    川氏の三者の甲相駿三国同盟 (こうそうしゅ

    んさんごくどうめい、1554年ー1567年)が、

    成立する。

 

 

 ■ 1554年 (天文23年)頃。

 

  ● 秀吉が信長に仕え始める。

  ■ 1554年(天文23年)頃に、豊臣秀吉(木下

    藤吉郎)が、織田信長に仕える (家臣として

    仕え始める)。

 

 ■ 1555年 (弘治元年)。

 

  ● 謙信の甥の上杉景勝(卯松)

     の誕生。

  ■ 1555年(弘治元年)に、 上杉 景勝 (かげ

    かつ)が、誕生する。

 

  ■ 1555年(弘治元年)に、 直江 兼続(なおえ

    かねつぐ)が仕える主君となる、 上杉 景勝 

    (うえすぎ かげかつ、 幼名・長尾 卯松(うの

    まつ)、後に直江 兼続が仕える主君・大名) 

    が、 誕生する。

 

  ● 1555年(弘治元年)に、 上杉 景勝は、 

    長尾 政景(ながお まさかげ)の次男であり、 

    上杉謙信(長尾景虎)の甥(おい)であり、

    後の直江兼続の主君である。 

 

  ● 長尾 政景は、上杉謙信の姉婿で上杉景勝

    の父で、越後・坂戸城主(新潟県南魚沼市

    六日町坂戸) である。

 

  ● 一方、上杉謙信(長尾景虎)は、数え年26歳

    であった。 

 

 

 ■ 1555年 (天文24年・弘治元年)。 

 

  ● 天文年号から弘治年号に改元。

      弘治年号1555年ー1558年。

  ■ 1555年(天文24年・弘治元年)に、

    弘治(こうじ)年号に改元。    

  ● 1555年(天文24年・弘治元年)10月23日に

    和暦の「天文」(てんぶん、てんもん 、

    天文元年・1532年〜天文24年・1555年) が、

    和暦の「弘治」(こうじ、 

    弘治 元年・1555年・10月23日〜

    弘治 4年・1558年・ 2月28日) に

    改元される。 

 

 

 ■ 1556年 (弘治2年)。

 

  ● 謙信の越後放棄と国外退去。

  ● 越後の国人領主たちが後を追

    って謙信を連れ戻す。

  ■ 越後国各地の国人領主(こくじんりょうしゅ、

    = 国衆)たちは自立心(独立心)が強く、越後

    国の国主(こくしゅ)の謙信の命(命令)に従わ

    ないことが多く、謙信は嫌気(いやけ)がさし、

    1556年(弘治2年)3月に、家臣同士の領土

    争いや国衆の紛争の調停などで心身が疲れ

    果てて、上杉謙信(長尾景虎)は、突然、出家・

    隠居すると宣言し、 1556年(弘治2年)6月

    には、謙信(長尾景虎)は、 越後国(えちご

    のくに、現・新潟県)の国主の座を放棄して、 

    春日山城(かすがやまじょう)をあとにし国外

    の高野山(こうやさん)へと向かう。

 

  ● 1556年(弘治2年)に、慌(あわ)てふためい

    た、越後国の国人領主たちは、 越後を逃亡し

    た謙信を追いかけ、懇願し、服従を誓い、説得

    し出家を断念させ、越後国主の謙信を越後国

    に連れ戻す。

 

 

 ■ 1558年 (弘治4年・永禄元年)。

 

  ● 弘治年号から永禄年号に改元。

     永禄年号1558年ー15 70年。

  ■ 1558年(弘治4年・永禄元年)に、

    永禄(えいろく) 年号に改元

  ● 1558年(弘治4年・永禄 元年)2月28日に

    和暦の「弘治」(こうじ、

    弘治元年・1555年〜弘治4年・1558年)

    が、 

    和暦の「永禄」(えいろく、

    永禄 元年・1558年・ 2月28日〜

    永禄13年・1570年・ 4月23日) に

    改元される。 

 

   

 ■ 1559年 (永禄2年) 2月。

 

  ● 信玄が、徳栄軒信玄と称する。

  ■ 1559年(永禄2年)2月に、 武田信玄 

    (武田晴信)は、 出家して、「徳栄軒信玄」

    (法号、法名)と号す(称す)。

 

 

 ■ 1559年 (永禄2年)。

 

  ● 信長が尾張を統一する。

  ■ 1559年(永禄2年)に。 織田信長は、 

    尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)

    一国を統一し、 尾張国の国主(こくしゅ)

    となる。

 

 

 ■ 1560年 (永禄3年)。

 

  ● 後に上杉景勝に仕える、

    直江 兼続(与六)の誕生。

  ■ 1560年(永禄3年)に、 直江 兼続  (なお

     えかねつぐ、幼名・樋口 与六(ひぐち よろく)

    が、誕生する。

 

  ● 1560年(永禄3年)に、直江 兼続は、 

    越後の坂戸(さかど)城主 (現在の新潟県

    南魚沼市六日町坂戸)の長尾政景(ながお

    まさかげ)の家臣、 樋口 兼豊 (ひぐち か

    ねとよ、樋口 惣右衛門(そうえもん))の長

    男として、産まれる。

 

  ● 一方、その時、上杉謙信 (けんしん、長尾景

    虎)は、数え年31歳であった。 

     上杉景勝 (かげかつ、長尾 卯松(うのまつ))

    は、数え年6歳であった。 

     上杉景勝は、長尾政景の次男で上杉謙信

    の甥(おい)であり、後の直江 兼続の主君で

    ある。

  ● TKKI カナヤマ  直江 兼続ガイドブック。

 

 

 ■ 1560年 (永禄3年)。

 

  ● 信長が桶狭間の戦いで、

    今川義元を敗死させる。

  ■ 1560年(永禄3年)5月に、織田信長は、 

    桶狭間(おけはざま)の戦いで、 今川 義元

    (いまがわ よしもと)を破る。 今川義元は、 

    尾張の桶狭間で、敗死する。

 

  ● 家康が三河へ戻る。

  ■ 1560年(永禄3年)に、 義元の家臣して

    信長と戦っていた、徳川家康(松平元康(ま

    つだいらもとやす))は、 尾張より、松平軍

    の兵を撤退し、三河国(みかわのくに、現・

    愛知県東部)の岡崎城へ戻る。

       その後、1561年(永禄4年)4月に、

    家康は、今川氏から独立する。

  ● TKKI カナヤマ著 武田信玄ガイドブック。

 

 

 ■ 1561年 (永禄4年)。

 

  ● 謙信の小田原北条氏を攻め、

    小田原城を囲む。

  ■ 北条氏攻め(小田原城攻め)。

  ● 1561年(永禄4年)に、 上杉謙信(長尾

    景虎)は、 関東管領(かんとうかんれい)

    の上杉憲政(うえすぎのりまさ)を擁して、 

    旧上杉氏家臣団の約10万人の大軍で、 

    北条氏康(ほうじょううじやす)を攻め、小田

    原城を包囲する。

 

  ● 謙信が、山内上杉氏家督を

    相続し、関東管領となる。

  ● 謙信が、上杉政虎と称する。

  ■ 1561年(永禄4年)閏3月16日に、 

    上杉謙信(長尾景虎(ながおかげとら))は、 

    鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で、

    上杉憲政(うえすぎのりまさ)より、

    山内上杉氏(やまのうちうえすぎけ)の家督

    と関東管領職を相続(継承)し、

    関東管領(かんとうかんれい)に就任し、

    上杉憲政から一字の政を賜り、

    上杉政虎(うえすぎまさとら)と称す。 

 

 

 ■ 1561年 (永禄 4年)。

 

  ● 家康は織田方となり、今川氏

    から独立する。

  ■ 1561年(永禄4年)4月に、三河国西部の

    徳川家康(松平元康)は、 尾張国の織田

    信長と和睦し、織田方となり、今川氏の今川

    義元の後を継いだ今川氏真(いまがわ(うじ

    ざね)と断行し今川氏から独立する。

 

 

 ■ 1561年 (永禄4年)。

 

  ● 謙信と信玄が、第4回川中島の

    戦いで、戦い、引き分けとなる。

  ■ 第4回川中島の戦い。

  ● 1561年(永禄4年)8月に、 上杉謙信(上杉

    政虎)の率いる上杉軍 と 武田信玄(徳栄軒

    信玄)の率いる武田軍が、 信濃国(しなのの

    くに、現・長野県)の北部の川中島で、衝突し、

    第4回川中島の戦いが起こり、激戦となる。

       第4回川中島の戦いでは、勝敗がつがず、

    引き分けとなる。

 

  ● 謙信が、上杉輝虎と称する。

  ■ 1561年(永禄4年)12月に、上杉謙信(上杉

    政虎)は、 室町幕府・13代将軍の足利義輝

    から一字の輝を賜り、諱(いみな)を輝虎(てる

    とら)と改め、上杉輝虎(うえすぎてるとら)と

    称す。

 

 

 ■ 1562年 (永禄5年)。

 

  ● 信長と家康が同盟を結ぶ。

  ■ 1562年(永禄5年)1月に、徳川家康(松平

    元康)は、 織田信長と清洲(きよす)同盟(織

    徳同盟)を結ぶ。 

 

 

 

#jphappeningsbyperiod-1564

 

 

 ■ 1564年 (永禄7年)。

 

  ■ 1564年(永禄7年)に、 上杉謙信(上杉輝

    虎)の姉婿で上杉景勝(かげかつ)の父の、

    長尾政景が、 舟遊びの最中、溺死する。

 

  ● 謙信が上杉景勝を養子の一人

    とする。

  ■ 1564年(永禄7年)に、上杉謙信(上杉輝虎)

    が、長尾政景の次男の、上杉景勝を養子とする。

 

  ● 謙信(上杉輝虎)が、 長尾政景の次男の、

    上杉景勝を養子とする。

 

  ● 謙信と信玄が最後の川中島の

    戦いを行なう。

  ■ 1564年 (永禄7年)に、上杉謙信(上杉輝虎)

    と武田信玄(徳栄軒信玄)は、第5回川中島の

    戦い (第1〜5回川中島の戦いの最後)を行う。

 

 

 ■ 1567年 (永禄10年)。

 

  ● 信長が美濃の斎藤氏を滅ぼす。

  ● 信長が尾張、美濃の2か国の

    戦国大名になる。

  ■ 1567年(永禄10年)10月に、信長は、 

    美濃国(みののくに、現・岐阜県南部)の

    斉藤氏を滅ぼす。 

 

 

 ■ 1568年 (永禄11年)。

 

  ● 信長が畿内に進出する。

  ● 信長の援助で、足利義昭が

    室町幕府の将軍となる。

  ■ 1568年(永禄11年)9月に、織田信長は、

    足利義昭(よしあき)を奉じて、上洛を果たし、 

    10月に、義昭を室町幕府の第15代将軍位

    に就(つ)ける。 

        この戦いに、 家康は、信長へ援軍を

    派遣する。

 

 ■ 1568年 (永禄11年)。

 

  ● 武田氏と徳川氏が今川領

    に侵攻する。

  ● 北条氏は今川氏に味方し、

    甲相駿三国同盟の甲相

     同盟が破綻する。

  ■ 武田氏と徳川氏の今川領侵攻。

  ● 1568年(永禄11年)12月に、武田氏と

    徳川氏は、共同で、今川領に侵攻する。

       その後、1568年(永禄11年)12月

    に、武田氏は今川領だった駿河国(する

    がのくに、現・静岡県中部)を領有し、

    1569年(永禄12年)5月に、徳川氏は、

    今川領だった遠江国(とおとうみのくに、

    現・静岡県西部)を領有する。

 

  ■ 1568年(永禄11年)12月に、北条氏の

    北条氏康は、今川氏の今川氏真に援軍を

    送り、武田氏の武田信玄と敵対し、甲相駿

    三国同盟の甲相同盟が破綻する。

 

  ● 信玄が駿河を領有する。

  ■ 1568年(永禄11年)に、 武田信玄

    (徳栄軒信玄)が、 駿河国(するがのくに、

    現・静岡県中部)を占領する(領有する)。 

 

  ● 1568年(永禄11年)12月に、今川氏真

    (うじざね)が、駿河国を離れ、 遠江国(と

    おとうみのくに、現・静岡県西部)の掛川城

    (かけがわじょう)へ逃れる。

 

 

 

 ■ 1570年 (永禄13年・元亀元年)。

 

  ● 永禄年号から元亀年号に改元。

     元亀年号1570年ー 1573年。

  ■ 1570年(永禄13年・元亀元年)に、

    元亀(げんき) 年号に改元。  

  ● 1570年(永禄13年・元亀 元年)4月23日に、 

     和暦の「永禄」(えいろく、

    永禄元年・1558年〜永禄13年・1570年) 

    が、 

    和暦の「元亀」(げんき、

    元亀 元年・1570年・ 4月23日〜 

    元亀 4年・1573年・ 7月28日) に

    改元される。

 

  ■ 室町時代後期の各年号。

    暗記法: 大享天弘永元天      

    (えいだいきょうてんこうえいげんてん)。

  ● 永正(えいしょう)年号: 1504年ー1521年。

  ● 大永(だいえい)年号:   1521年ー1528年。

  ● 享禄(きょうろく)年号:  1528年ー1532年。

  ● 天文(てんぶん)年号  1532年ー1555年。

  ● 弘治(こうじ)年号:    1555年ー1558年。

  ● 永禄(えいろく)年号:  1558年ー1570年。

  ● 元亀(げんき)年号    1570年ー 1573年。

  ● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。

  ● TKKI カナヤマ著 直江兼続ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1570年 (元亀元年)。

 

  ● 謙信は、北条氏康の子の北条

    三郎を養子の一人とする。

  ■ 1570年(元亀元年)4月に、 上杉謙信(上杉

    輝虎)は、 北条氏康の男子(七男)の、北条三

    郎を養子とし、その後、景虎という名を与える 

    (上杉三郎景虎)。

 

  ● 信長は姉川の戦いで、

    浅井・朝倉氏に勝利を得る。

  ■ 姉川の戦い。

  ● 1570(元亀元年)年6月に、織田信長は、

    近江国の姉川(あねがわ)で、浅井・朝倉

    連合軍を破る。 

        この戦いに、家康は、信長と共に参

    戦し、信長を助ける。

 

  ● 信長と石山本願寺との戦いが

    始まる。

  ■ 石山(いしやま)合戦の始まり。

  ● 1570年(元気元年)9月に、本願寺(一向

    宗)の石山本願寺は、織田信長に対抗する。

 

  ■ 本願寺と織田信長との戦いの石山合戦

    (1570年ー1580年)が、始まる。

 

  ● 謙信は、不識庵謙信と称する。 

  ■ 1570年(元亀元年)12月に、 上杉謙信

    (上杉輝虎)は、出家して、「不識庵謙信」

    (法号、法名)と号す(称す)。 

 

  ● (注意)  戦国武将の出家は、 欲望を捨

    てる、俗世を捨てるという意味ではなく、 

    仏の心持ちをもち、新たに心を入れ替えた

    ことを一般の人に示すパーフォーマンスで

    ある。

     

 

 ■ 1571年 (元亀2年)。

 

  ■ 1571年(元亀2年)年9月に、織田信長は、 

    朝倉・浅井氏に味方した、 比叡山延暦寺

    (ひえいざんえんりゃくじ)を焼討ちする。

 

 

 ■ 1572年 (元亀 3年)。 

 

  ● 信玄は、上洛を開始し、

    織田氏・徳川氏を攻める。

  ■ 1572年(元亀3年)10月に、武田信玄

    (徳栄軒信玄)は、 上洛の軍を起こす 

    (上洛を開始する)。

 

  ● 家康は、三方が原の戦いで、

    信玄に大敗する。

  ■ 1572年(元亀3年)12月に、 遠江 国(とお

    とうみのくに、現・静岡県西部)の三方が原

    (みかたがはら)の戦いで、 徳川・織田連合

    軍は、 武田信玄(徳栄軒信玄)の武田軍に

    大敗する。

 

 

 ■ 1573年 (元亀4年)。

 

  ● 足利義昭は、信長に敵対する。

  ■ 1573年(元亀4年)2月に、 足利義昭 は、

    武田氏、朝倉氏、浅井氏、本願寺と協力して、

    信長討伐を謀(はか)る。

 

  ● 信玄が、急死する。

  ■ 1573年(元亀4年)4月に、 武田信玄(徳

    栄軒信玄)が、上洛途中で、死去(病死)する。

 

  ● 武田勝頼が武田氏を継承する。

  ■ 1573年(元亀4年)4月に、武田信玄(徳栄軒

    信玄)死後、  武田勝頼 (たけだかつより)が、 

    武田氏の家督を継承する。

 

  ● 室町幕府が実質上滅亡。

  ■ 室町幕府が実質上滅亡。

  ● 1573年(元亀4年)7月に、織田信長が 、

    足利義昭を京(きょう、京都)から追放する。

 

  ● 織田信長は、信長を裏切った、足利 義昭

    (よしあき)を京(京都)より追放し、室町幕

    府を実質上滅ぼす。

 

 

 ■ 1573年 (元亀4年・天正元年)。

 

  ● 元亀年号から天正年号に改元。

     天正年号1573年ー 1592年。

  ■ 1573年(元亀4年・天正元年)に、

    天正(てんしょう) 年号に改元。 

  ● 1573年(元亀4年・天正 元年)7月28日に、 

    和暦の「元亀」(げんき、

    元亀元年・1570年〜元亀4年・1573年) 

    が、 

    和暦の「天正」(てんしょう、

    天正 元年・1573年・ 7月28日〜

    天正20年・1592年・12月 8日) に

    改元される。 

 

  ■ 1573年(元亀4年)7月に、織田信長は、

    元号を元亀から天正へと改めることを朝廷

    に奏上し、これを実現させる。

 

  ■ 安土桃山時代の各年号。

    暗記法: 元天文慶      

          (げんてんぶんけい)。

  ● 元亀(げんき)年号    1570年ー 1573年。

  ● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。

  ● 文禄(ぶんろく)年号  1592年ー 1596年。

  ● 慶長(けいちょう)年号 1596年ー 1615年。

 

 

 

 ■ 1573年 (天正元年)。

 

  ● 信長は、朝倉・浅井両氏を

    滅ぼす。

  ■ 1573年(天正元年)に、織田信長は、朝倉・

    浅井両氏を滅ぼす。

 

  ● 1573年(天正元年)8月に、 信長は、 

    越前に行軍し朝倉軍を破り、朝倉義景を自害

    させ、 9月に、北近江の小谷(おだに)城を

    落とし、浅井久政・長政父子を自害させる。 

       小谷城落城前、信長の妹のお市と娘

    3人は、落ち延びて、信長が引き取る。 

       信長は、 越前と北近江を領土とする。

 

  ■ 1573年(天正元年)に、 豊臣秀吉(羽柴

    秀吉)は、 浅井氏滅亡後、その旧領の北近

    江三郡の経営を織田信長より任される。

        その後、北近江(きたおうみ)の長浜

    城の城主(城代)となる。

 

 

 ■ 1575年 (天正3年)。

 

  ■ 1575年(天正3年)に、 上杉謙信(不識庵

    謙信)が、直江 兼続 (樋口兼続)を重用する。

 

  ■ 長篠の戦い。

  ● 1575年(天正 3年)5月に、信長・家康連

    合軍は、 三河・長篠(ながしの)で、 武田

    勝頼の率いる軍に大勝する。 

 

  ■ 1575年(天正3年)8月に、信長は、越前

    に侵攻し、本願寺門徒の軍を破り、 再び、

    織田領にし、越前を柴田勝家に経営させる。

 

 

 ■ 1575年 (天正3年)。

 

  ■ 1575年(天正3年)に、 上杉謙信(不識庵

    謙信)が、直江 兼続 (樋口兼続)を重用する。

 

  ■ 長篠の戦い。

  ● 1575年(天正 3年)5月に、信長・家康連

    合軍は、 三河・長篠(ながしの)で、 武田

    勝頼の率いる軍に大勝する。 

 

  ■ 1575年(天正3年)8月に、信長は、越前

    に侵攻し、本願寺門徒の軍を破り、 再び、

    織田領にし、越前を柴田勝家に経営させる。

 

 

 ■ 1576年 (天正 4年)。

 

  ● 謙信は、本願寺、武田氏と提

    携して、信長と対抗する。

  ■ 1576年 (天正4年)に、上杉謙信は、 

    織田信長との同盟を破棄し、本願寺顕如と講

    和し、 武田勝頼とも和睦して、謙信を盟主

    とする、 反信長包囲網を築き上げる。

 

 

 ■ 1577年 (天正5年)。

 

  ● 謙信は、手取川の戦いで、

    信長軍を破る。

  ■ 手取川の戦い。

  ● 1577年(天正5年)9月に、信長軍は、 

    北陸で、 上杉謙信(不識庵謙信)の率いる 

    上杉軍に敗れ撤兵する。

 

  ● 1577年(天正5年)9月に、手取川の戦いで、

    謙信(不識庵謙信)は、 柴田勝家の率いる

    織田軍を、越前国(えちぜんのくに、現・福井

    県東部)で、破る。

 

 

 

 

#jphappeningsbyperiod-1578

 

 

 ■ 1578年 (天正6年)。  

 

  ● 謙信が急死する。

  ■ 1578年(天正6年)に、 上杉謙信(不識庵

    謙信)が、死去(病死)する。

 

  ● 謙信死去後、御館の乱が

    始まる。

  ■ 1578年 (天正6年)に、 上杉謙信(不識

    庵謙信)の有力継承候補者の2人の養子の、

    上杉景勝(うえすぎかげかつ) と、 上杉三

    郎景虎(うえすぎさぶろうかげとら)との間に、

    上杉氏の家督相続をめぐって争う、越後の

    内乱である、御館の乱(おたてのらん、1578

    年〜1579年)が起こる。 

 

  ● 1578年 (天正6年)の上杉謙信の死後、

    上杉謙信の領国の上杉領の国人領主(国衆)

    たちは、 上杉景勝方に味方するか、上杉三

    郎景虎方に味方するか、争い、上杉領内は、

    内部分裂し、混乱する。

  

  ● 上杉景勝は、武田勝頼と同盟

    を結ぶ。

  ■ 1578年(天正6年)に、上杉景勝は、 

    武田氏の武田勝頼と甲越同盟を結び、武田

    氏の菊姫を、景勝の正室夫人にむかえる。 

       上杉景勝は、 御館の乱(おたてのらん、

    1578年〜1579年)で有利となる。

  ● TKKI カナヤマ著 上杉謙信ガイドブック。

 

  ● 強大な信長軍の上杉領侵攻

    開始。

  ■ 1578年(天正6年)に、 強大な信長軍は、

    北陸地方の、上杉領の能登、加賀の攻略を

    開始する。

 

  ● 織田水軍が、毛利水軍を破る。 

  ■ 1578年(天正6年)11月に、 織田水軍が、 

    鉄甲船を用いて、毛利水軍を破る。

  ● TKKI カナヤマ著 直江 兼続ガイドブック。

 

 

 ■ 1579年 (天正7年)。

 

  ● 信長が安土城を完成させる。

  ■ 1579年(天正7年)に、 織田信長は、 

    五層七重の豪華絢爛(ごうかけんらん)な

    天守をもつ安土城を完成させる。

 

  ● 上杉景勝が、御館の乱で、

    勝利を得る。

  ■ 1579年(天正7年)に、 御館の乱(おたて

    のらん)で、 上杉景勝は、武田氏の後ろ盾

    を得て、戦いを有利にすすめ、 上杉氏継承

    有力候補者の上杉三郎景虎は、自害(自刃)

    する。

 

  ● 上杉景勝が、越後の国主

    となる。

  ■ 1579年(天正7年)に、 御館の乱(おた

    てのらん)で、上杉景勝が、上杉三郎景虎

    に味方した勢力に大方勝利

    を得る。 そして、上杉景勝が、御館の乱

    で内部分裂し弱体化した上杉氏の家督を

    継承(相続)する。 

       そして、1579年(天正7年)に、

    上杉景勝が、越後国(えちごのくに、現・新

    潟県)の上杉氏の家督を継承し、上杉謙信

    の後継者として、御館の乱で弱体化した

   上杉氏の当主となる。 

 

 

 ■ 1580年 (天正8年)。

 

  ● 信長が、一向宗の、石山

    本願寺を屈服させる。

  ■ 1580年(天正8年)に、 織田信長は、 

    本願寺(一向宗)の、石山本願寺を屈服

    させる。

 

  ■ 本願寺と織田信長との戦いの石山合戦

    (1570年ー1580年)が、信長の勝利

    で終わる。

 

 

 ■ 1581年 (天正9年)。

 

  ● 上杉景勝の重臣の直江兼続

    が、直江氏を相続する。  

  ■ 1581年(天正9年)に、 直江 兼続(樋口

    兼続)が、 直江氏を相続(継承)する。  

 

  ● 直江 兼続は、 直江氏の直江信綱が死去し

    その妻、お船(せん)と結婚し、 直江氏を相

    続し、直江姓を名乗る。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 強大な織田軍に攻められ、

    上杉氏が滅亡の危機。

  ■ 1582年(天正10年)に、 越後国の大名の、

    上杉景勝は、強大織田軍に攻められ、 御館

    の乱で弱体化した越後の上杉氏は 滅亡の

    危機を迎える。

 

  ● 強大な織田軍に攻められ、

    武田氏が滅亡する。

  ■ 1582年(天正10年)2月に、織田信長は、 

    武田領への攻撃 を開始し、 3月11日に、武田

    勝頼を討ち取り(天目山の戦い)、戦国大名の

    武田氏は滅亡する。 

 

  ● 家康が駿河を領有する。

  ■ 1582年(天正10年)2月に、 織田軍に協

    力して、 徳川軍も、武田領の駿河に侵攻し

    て、駿河国(するがのくに、現・静岡県中部)を

    占領する。 

       家康は、同年に、この戦功により、 織田

    信長から駿河国一国を与えられる。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 信長が中国地方出陣前に、

    茶事で、京に一時滞在。

  ■ 1582年(天正10年)に、 1582年(天正10

    年)5月に、織田信長は、明智光秀に、備中国

    にいる秀吉軍への援軍を命じ、 一方、信長は、

    6月上旬後半の自身の中国地方行軍予定前に、

    6月上旬前半に京(きょう、京都)で茶事(ちゃ

    じ)で茶会(ちゃかい)を開くため、安土城から、

    名物茶器を携え、京へ上洛するため、信長は、

    5月29日に安土城を出て5月29日に京の

    本能寺に到着し、京に6月上旬前半まで滞在

    する予定であった。

 

  ● 本能寺の変で、信長死す。

  ■ 本能寺の変。

    1582年(天正10年)6月2日未明に、明智

    光秀が、 6月1日の本能寺での茶会の翌日

    に京(きょう、京都)の本能寺にいた織田信長

    を攻め、自害させる。 信長、数え年49歳で

    死す。

 

  ● 本能寺の変で信長が死去し強大

    な織田軍が侵略を中止し、上杉

    氏が滅亡の危機を脱する。

  ■ 1582年(天正10年)6月2日に、織田信長

    が、本能寺の変で、自害(自刃)する。  

      越後を攻めていた強大な織田軍が、頭領

    の信長を失い、越後国への侵入を中止し、

    御館の乱で弱体化した上杉氏は、滅亡の危

    機を脱する。

  ● TKKI カナヤマ著 直江 兼続ガイドブック。

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 秀吉は、山崎の戦いで、

    明智光秀を討つ。

  ■ 山崎の戦い。

  ● 1582年(天正10年)6月に、 信長死去後、

    すぐに、秀吉は、明智光秀を討つ。

 

  ● 秀吉は、清洲会議で、織田氏

    の中で、有利な地位を得る。

  ■ 清洲会議 (きよすかいぎ)。

  ● 1582年(天正10年)6月27日に、秀吉は、

    清洲城(きよすじょう)にて、他の織田氏の

    3重臣と相談し、信長の後継者と遺領の分割

    を決める。

 

  ● 当日出席した織田氏の4人の重臣の、羽柴

    秀吉(はしばひでよし)、柴田勝家(しばたか

    ついえ)、丹羽長秀(にわながひで)、池田

    恒興(いけだつねおき)には、会議前に、

    既に、織田氏の一族、同盟者などの利害関

    係者からの意向が伝えられていた。

 

  ● 清洲会議後、織田氏家臣団は、

    羽柴方と柴田方に分裂。

  ■ 1582年(天正10年)6月27日の清洲会議後、

    織田氏の家臣団は、 羽柴方 と 柴田方に分

    裂する。

       羽柴方には、 丹羽長秀、池田恒興、織

    田信雄(おだのぶかつ)などであり、 柴田方

    は、 織田信孝(おだのぶたか)、滝川一益(た

    きがわかずます)などである。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 信長死後、織田領の信濃、甲斐、

    上野で、天正壬午の乱が起こる。

  ■ 天正壬午の乱 (てんしょうじんごのらん)。

  ● 織田信長死後、

    1582年(天正10年)6月から10月まで、

    織田領の、信濃国(しなのくに、現・長野県)、

    甲斐国(かいのくに、現・山梨県)、上野国

    (こうずけのくに、現・群馬県)へ、

    上杉景勝(うえすぎかげかつ)の軍、北条

    氏直(ほうじょううじなお)の軍、徳川家康

    の軍が、侵攻する。

 

  ● その後、天正壬午の乱(1582年6月〜

    10月)の戦いの結果、徳川家康と北条氏

    直は和睦し、 信濃国、甲斐国は、ほぼ

    徳川領に、 上野国は、ほぼ北条領となる。

 

  ● 天正壬午の乱後、家康は、

    五か国の大大名になる。

  ■ 天正壬午の乱の終了後、 徳川家康は、

    三河国、遠江国、駿河国、甲斐国、信濃国

    (現在の愛知県東部、静岡県西部・中部、

    山梨県、長野県)の五か国を領有する大大

    名になる。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 秀吉が、長浜と美濃の柴田方

    の勢力を平定する。

  ■ 1582年(天正10年)12月に、秀吉は、 

    北近江へ侵攻し、柴田勝家方の武将の

    長浜城を降伏させ、美濃へ侵攻し、柴田

    勝家方の勢力を平定する。

  ● TKKI カナヤマ著 上杉謙信ガイドブック。

 

 

 ■ 1583年 (天正11年)。

 

  ● 秀吉は、越前の柴田氏を滅

    ぼす。

  ■ 1583年(天正11年)4月に、豊臣秀吉

    (羽柴秀吉)は、 賤ヶ岳(しずがたけ)で、

    柴田勝家の軍を破り勝利を得て (賤ヶ岳の

    戦い)、 そのまま秀吉は、追撃し、秀吉に

    追撃された勝家は、越前(えちぜん、現・

    福井県東部の相当地域)の北庄城(きたの

    しょうじょう、北ノ庄城)で、自害する。

 

  ● 秀吉は、加賀・能登を平定し、

    経営を前田利家に委ねる。 

  ■ 越前国を平定後、更(さら)に、秀吉は、加賀

    国と能登国(かがのくにとのとのくに、現・石川

    県の相当地域)へ侵攻し2国を平定して、それ

    らの経営を前田利家に委ねる。 

 

 

 ■ 1583年(天正11年)。

 

  ● 秀吉が大阪城の築城を開始

    する。

  ■ 1583年(天正11年)8月に、 豊臣秀吉

   (羽柴秀吉)は、大阪の石山本願寺の跡地に、

   豊臣大阪城の築城を開始する (1588年豊

   臣大阪城完成)。  

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ● 小牧・長久手の戦いで、秀吉

    は、家康に敗け、和睦する。

  ■ 小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い

    (1584年3月ー11月)。

  ● 小牧・長久手の戦いは、1584年(天正12

    年)3月から11月まで、羽柴秀吉(豊臣秀吉) 

    と、 織田信雄(おだのぶかつ)や徳川家康

    の間で起こった戦いである。 秀吉は、11月

    に信雄と和睦し、12月に家康と和睦する。

 

 

 ■ 1585年 (天正13年)。

 

  ● 秀吉は関白となる。

  ● 豊臣関白政権が確立する。

  ■ 1585年(天正13年)7月11日に、豊臣

    秀吉(羽柴秀吉)は、 関白(かんぱく)に

    宣下(せんげ)される(任じられる)。

 

  ● 秀吉は北陸を平定。

  ■ 秀吉の北陸平定。

  ● 1585年(天正13年)8月に、豊臣秀吉

   (羽柴秀吉)は、 越中国(えっちゅうのくに、

   現・富山県の相当地域)の佐々成政(さっさ

   なりまさ)を降伏させ、北陸を平定する。

 

   ● 1585年(天正13年)8月に、 秀吉は、 

    越中国の佐々成政に対し征伐を開始し、

    ほとんど戦うことなく、 8月25日に、成政

    は剃髪(ていはつ)して、秀吉に降伏する 

    (北陸平定)。 織田信雄の仲介もあって、 

    秀吉は、成政を許し、 越中新川郡のみを

    安堵(あんど)する (領地として与える)。

 

 

 ■ 1586年 (天正14年)。

 

  ● 秀吉は豊臣の姓を朝廷より

    賜る。

  ■ 1586年(天正14年)9月に、豊臣秀吉

   (羽柴秀吉)は、 正親町天皇 (おおぎまち

   てんのう)より、「豊臣」(とよとみ)の姓を賜

   (たまわ)る。

 

 ■ 1586年 (天正14年)。

 

  ● 家康が秀吉に臣従する。

  ■ 1586年(天正14年)10月に、徳川家康は、

    豊臣秀吉に臣従する (秀吉は家康に臣従を

    誓わせる)。

 

 

 ■ 1588年 (天正16年)。

 

  ● 上杉景勝が秀吉に臣従する。

  ■ 1588年(天正16年)に、直江 兼続が、上杉

    景勝に付き従って、上洛する。

 

 

#jphappeningsbyperiod-1590

 

 ■ 1590年 (天正18年)。

 

  ● 秀吉が天下を統一する

    (日本本土を統一する)。

  ■ 1590年(天正18年)7月に、豊臣秀吉は、

   天下を統一する (日本本土の全国を統一す

   る)。

 

  ● 秀吉が関東を平定。

  ■ 秀吉の関東平定。

  ● 1590年(天正18年)7月に、豊臣秀吉は、

    小田原北条氏を降伏させ、関東を平定する。

 

  ● 秀吉が東北地方を平定。

  ■ 秀吉の奥羽制圧(奥羽仕置)。

  ● 1590年(天正18年)7月に、豊臣秀吉は、

   奥羽(おうう、現・東北地方)も制圧した。

 

 

 ■ 1590年 (天正18年)。

 

  ●  家康が関東に移封となる。

  ■ 1590年(天正18年)8月に、徳川家康が、 

    関東に移り、江戸城に入る。

 

  ● 豊臣秀吉は、 徳川家康に中部地方より

    関東地方への国替えを命じ(命令し)、家康

    は、 1590年(天正18年)8月に、関東に

    移り、江戸城に入る。

 

 

 ■ 1591年 (天正19年)。

 

  ● 秀吉は関白を甥の豊臣秀次

    に譲り、太閤となる。

  ■ 1591年(天正19年)12月28日に、

    豊臣秀吉は、関白の職を、甥(おい)の豊臣

    秀次(とよとみひでつぐ)に譲る。 

 

  ● 秀吉は太閤と呼ばれ、豊臣政権

    の政治実権をもつ。

  ● 秀吉は、太閤(たいこう、前関白の尊称)と

    呼ばれる。 秀吉は、豊臣政権の政治実権

    は所持する。

 

                  

 ■ 1592年 (天正20年)。

 

   ● 文禄の役が始まる。

  ■ 1592年(天正20年)3月に、秀吉により、

   朝鮮出兵が開始される (文禄の役、1592

   年〜1593年)。

 

   ● 文禄の役で、上杉景勝と直江

    兼続が渡韓。

  ■ 1592年(天正20年)に、文禄の役で、

    上杉景勝と直江 兼続が、渡韓する(朝鮮半島

    へ出兵する)。

 

 

 ■ 1592年 (天正20年・文禄元年)。

 

  ● 天正年号から文禄年号に改元。

     文禄年号1592年ー 1596年。

  ■ 1592年(天正20年・文禄元年)に、

    文禄( ぶんろく)年号に改元。 

  ● 1592年(天正20年・文禄元年)12月8日に、 

    和暦の「天正」 (てんしょう、

    天正 元年・1573年〜天正20年・1592年) 

    が、 

    和暦の「 文禄」 (ぶんろく、

    文禄元年・1592年・12月 8日〜

    文禄5年・ 1596年・10月27日) に

    改元される。 

 

 

 ■ 1593年(文禄 2年)。

 

  ● 秀吉夫人の淀の方(淀殿)が、

    豊臣秀頼を産む。

  ■ 1593年(文禄2年)8月3日に、秀吉の側室

    夫人の、淀の方(よどのかた、淀殿、茶々)は、 

    秀吉の男子の、豊臣秀頼 (とよとみひでより、

    幼名:拾丸(ひろいまる)、拾(ひろい))を産む。 

 

 

 ■ 1594年 (文禄3年)。

 

  ● 直江 兼続の嫡男の誕生。

  ■ 1594年(文禄3年)に、 直江 兼続の嫡男、

    竹松(幼名、後、平八景明)が、 誕生する。

 

 

 ■ 1595年 (文禄4年)。

 

  ● 関白・豊臣秀次が自害する。

  ■ 1595年(文禄4年)7月15日に、 豊臣秀

    吉は、 甥の関白秀次(生没年:1568年ー

    1595年)を自害させる。

 

 

 ■ 1596年 (文禄5年・慶長元年)。

 

  ● 文禄年号から慶長年号に改元。

     慶長年号1596年ー 1615年。

  ■ 1596年(文禄5年・慶長元年)に、

    慶長(けいちょう)年号に改元。 

  ● 1596年(文禄5年・慶長元年)10月27日に、 

    和暦の「文禄」(ぶんろく 、

    文禄元年・1592年〜文禄5年・ 1596年) 

    が、

    和暦の「慶長」(けいちょう、 

    慶長 元年・1596年・10月27日〜 

    慶長20年・1615年・ 7月13日) に

    改元される。 

 

 

 ■ 1597年 (慶長2年)。 

 

  ● 慶長の役が起こる。

  ■ 1597年(慶長2年)1月に、秀吉により、

     再度、朝鮮出兵が開始される (慶長の役:

    1597年〜1598年)。

 

 

 ■ 1598年 (慶長3年)。 

 

  ● 家康の勢力を抑えるため、

    秀吉は上杉景勝領地を徳川領

    の北西に移す。

  ■ 1598年(慶長3年)に、 越後の大名の、

   上杉景勝は、 豊臣秀吉によって、 会津

   120万石に 加増移封される。

 

  ■ 1598年(慶長3年)に、 直江 兼続は、

   豊臣秀吉より、 出羽・米沢を与えられる。

 

  ● 直江 兼続は、秀吉より出羽・米沢を与えら

    れ、 越後より出羽・米沢に移り、その領地

    の経営を行う。

 

 

 ■ 1598年 (慶長 3年)。

 

  ● 秀吉が、五大老・五奉行

    の制度を定める。 

  ■ 1598年(慶長3年)7月に、秀吉が、

    五大老・五奉行の制度を定める (秀吉の

    後継者である豊臣秀頼の体制を磐石にす

    るため)。

  ● 徳川家康は、五大老の一人となる。

  ● 上杉景勝は、五大老の一人となる。

 

  ● 豊臣氏の五大老は、

    徳川家康、前田利家(まえだとしいえ)、

    毛利輝元(もうりてるもと)、宇喜多秀家(うき

    たひでいえ)、上杉景勝(うえすぎかげかつ) 

    である。

 

 

 ■ 1598年 (慶長3年)。

 

  ● 豊臣秀吉が死去する。

  ■ 1598年(慶長3年)8月18日に、豊臣秀吉

    (生没年:1537年ー1598年)が、

    豊臣秀吉築木幡山伏見城 (こはたやま

    ふしみじょう)で、死去する。 数え年

    享年62歳であった。

 

  ● 幼い豊臣秀頼が豊臣氏当主

    となる。

  ■ 豊臣秀吉死後、秀吉の遺言により、数え年

    6歳の豊臣秀頼 (とよとみひでより、生没年:

    1593年ー1615年)が、 豊臣氏本家(宗

    家)の当主となる。 秀頼の生母の淀の方

    (よどのかた、淀殿)が、豊臣秀頼の後見人

    となる。

 

 

 ■ 1598年 (慶長 3年)。

 

  ● 朝鮮撤兵を行なう。

  ■ 1598年(慶長3年)8月に、豊臣秀吉死去

    後、 徳川家康、前田利家が、朝鮮撤兵を 

    命じる。 同年12月にほぼ撤兵を完了する。

 

  ● 豊臣秀頼と淀の方が豊臣

    大阪城の本丸に入る。

  ■ 1598年(慶長3年)に、秀吉が没する(死

    去する)と、 秀吉の遺言により、 淀殿(茶

    々)と豊臣秀頼は、 伏見城より、豊臣大阪

    城の本丸に移る。

 

 

 ■ 1598年 (慶長 3年)。

 

  ● 豊臣秀吉死後、豊臣氏家臣の

    文治派と武断派の対立が始ま

    る。

  ■ 秀吉死後、 淀の方(よどのかた、淀殿、茶

    々)淀殿(茶々)が信頼する奉行衆や文治派

    の豊臣氏家臣 と、 おね(ねね)が信頼する

    徳川家康や武断派の豊臣氏家臣は、豊臣氏

    内で、対立する。

 

 

 ■ 1599年 (慶長 4年)。

 

  ● 豊臣氏大老の前田利家が、

    病死する。

  ■ 1599年(慶長4年)3月に、豊臣政権の2人

    の実力者の一人で豊臣氏大老の前田利家が、

    病死する。

       もう一人の実力者で豊臣氏大老の徳川

    家康が、豊臣氏で、大きな勢力となる。

 

 

 ■ 1599年 (慶長 4年)。

 

  ● 石田三成が奉行職を解任され、

    蟄居となる。

  ■ 1599年(慶長4年)3月に、前田利家病死、

    後に、武断派大名による石田三成襲撃事件

    が起こり、 石田三成は奉行職を解任され、

    佐和山城で蟄居(ちっきょ)させられる。

 

  ■ 武断派大名による石田三成襲撃事件。

  ● 前田利家死去後、 文治派の大名の石田

    三成は、 武断派の大名の福島正則、加藤

    清正らに、襲撃され、 この事件により、豊

    臣氏大老の家康の命(命令)により、三成は、 

    奉行職を解任され、三成の居城・佐和山城

    で蟄居(ちっきょ)させられ、豊臣政権の中枢

    から去る。

 

 

 ■ 1599年 (慶長 4年)。

 

  ● 家康による反徳川派の粛清。

  ■ 1599年(慶長4年)9月7日の徳川家康暗

    殺未遂事件(徳川家康暗殺疑惑事件)に加

    担したとみなされた人々が豊臣氏大老の家

    康によって処罰される。

 

  ● 豊臣氏大老の前田氏が家康

    の支配下に入る。

  ■ 1599年(慶長4年)10月に、加賀の前田

    氏が、徳川氏の徳川家康の支配下に入る。

 

  ● 1599年(慶長4年)9月に、徳川家康は、

    前田利長の家康暗殺計画ありとし、 加賀

    征伐(前田征伐)を行おうとするが、10月に、

    前田利長は母を人質として差し出したので、

    家康は、加賀征伐(前田征伐)を取りやめる。

       これにより、前田氏は、徳川氏の徳川

    家康の支配下に組み込まれる。

 

 

 ■ 1600年 (慶長 5年)。 

 

  ● 家康は、上杉景勝討伐軍を率い

    て、大阪城を出て、会津へ向う。

  ■ 1600年(慶長5年)4月に、 徳川家康が、 

    会津(あいづ)の、上杉景勝(うえすぎかげか

    つ)からの直江状 (なおえじょう、景勝の重

    臣の直江兼続の家康弾劾状)を受け取り激

    怒し、 家康は、上杉景勝が豊臣氏(豊臣政

    権)に謀反(むほん)ありとして、 同年5月に、

    上杉景勝討伐を宣言する。

 

  ■ 1600年(慶長5年)6月に、徳川家康は、

    親徳川派(徳川家康支持)の大名で組織した、

    上杉景勝討伐軍(会津征伐軍)を率いて、

    会津へ向かい、大阪を出発する。

 

  ● 途中、家康は、 伏見城(ふしみじょう、豊臣

    秀吉築・木幡山伏見城)に寄り、 1600年

    (慶長5年)6月18日には、上杉景勝討伐軍

    (会津征伐軍)を率いて、伏見を出発し、

    1600年(慶長5年)7月1日に、江戸城に到

    着する。

 

 

 ■ 1600年 (慶長 5年)。 

 

  ● 奉行衆や毛利輝元が、豊臣

    大阪城で、挙兵する。

  ■ 1600年(慶長5年)7月に、石田三成ら奉行

    衆や毛利輝元が、挙兵し、全国の大名へ呼び

    かけ、 反徳川家康の軍を集める。 

 

 

 ■ 1600年 (慶長 5年)。 

 

  ● 家康は、江戸城で、動向を探る。

  ■ 1600年(慶長5年)6月に、徳川家康は、

    親家康派(家康支持)の大名で組織した、

    上杉景勝討伐軍(会津征伐軍)を率いて、

    大阪を出発し、会津へ向かい、1600年

    (慶長5年)7月1日に、江戸城に到着する。

 

  ● 徳川家康は、江戸城に留まり、反徳川方

    や親徳川方の情勢の分析を行い、徳川方

    に多くの指示を出し、徳川方の味方を増や

    すために、多数の文を各所に送る。

 

 

 ■ 1600年 (慶長 5年)。 

 

  ● 奉行衆や毛利輝元が、豊臣

    大阪城で、挙兵する。

  ■ 1600年(慶長5年)7月に、奉行衆や毛利

    輝元が、挙兵し、全国の大名へ呼びかけ、 

    反徳川の軍を集める。 

 

 

 ■ 1600年 (慶長 5年)。 

 

  ● 家康は、援軍を引き連れて、

    徳川方がいる美濃へ向かう。

  ■ 1600年(慶長5年)9月1日に、徳川家康

    は、 徳川方が戦っている美濃国に向かっ

    て、徳川軍の援軍を引きつれ、江戸城を出

    立する。

  ● TKKI カナヤマ著 直江兼続ガイドブック。

 

 

 ■ 1600年 (慶長 5年)。 

 

  ● 関が原の戦い。

  ■ 「慶長5年の天下分け目の戦い」

    の中心的な戦いの「関ヶ原の戦い」は、

    1600年(慶長5年)8月から9月にかけて、

    美濃国(みののくに、現・岐阜県南部)の

    関ヶ原付近で、 

    奉行衆・毛利方の西軍主力本隊 と、 

    徳川方の東軍主力本隊 とが、

    戦った合戦であり、

    西軍が敗北し、東軍が勝利を得る。

 

  ● 関が原の戦いの決戦。

  ■ 関が原の戦いの決戦。

  ● 関が原の戦い(大垣・山中の戦い)の、

    1600年(慶長5年)9月15日の決戦(山中

    の戦い)では、

    徳川家康の率いる親徳川の徳川方の大名

    の東軍本隊 と、 

    石田三成らの率いる反徳川の奉行衆・毛利

    方の大名の西軍本隊とが、

    美濃国(みののくに、現・岐阜県南部)の

    山中(やまなか)村付近で決戦を行ない、

    半日で終わり、

    西軍が敗北し、東軍が勝利を得る。

 

 

 ■ 1600年 (慶長 5年)。 

 

  ● 家康による「慶長5年の天下分

    け目の戦い」の戦後処理。

  ■ 1600年(慶長5年)の、「慶長5年の天下分

    け目の戦い」後、 徳川家康が、 勝った徳川

    方の東軍に与(くみ)した大名の加増等を行い、 

    負けた奉行衆・毛利方の西軍に与(くみ)した

    大名の改易、減封等の処分を行う。

 

 

 ■ 1601年 (慶長6年)。

 

  ● 西軍の上杉景勝は出羽・

    米沢30万石に減封となる。

  ■ 1601年(慶長6年)に、 西軍に与(くみ)し

    た、上杉景勝は、 豊臣家大老の徳川家康

    により、 会津120万石から、 出羽・米沢

    30万石に 移封・減封される。

 

  ● 1601年(慶長6年)に、出羽・米沢は、 

    上杉家領となり、 直江兼続は、引き続き、

    その経営をまかされる。

 

 

 ■ 1603年 (慶長 8年)。

 

  ● 家康は、江戸幕府を開く。

  ● 家康は、江戸幕府の初代将軍

    となる。

  ● 江戸幕府が始まる。

  ■ 1603年(慶長8年)に、 徳川家康が、

   征夷大将軍となり、江戸幕府(= 徳川幕府)を

   開く。 家康が江戸幕府の初代将軍となる。

 

 

 ■ 1605年 (慶長10年)。

 

  ● 家康は将軍職を徳川秀忠に

    譲る。

  ● 将軍職の徳川氏世襲。

  ■ 1605年(慶長10年)に、 徳川家康が、

    江戸幕府の将軍職を、家康の男子の徳川

    秀忠に譲る。 

       これによって、徳川氏が将軍職を代々

    世襲することを天下に示す。

 

 

 ■ 1608年 (慶長13年)。

  ■ 1608年(慶長13年)に、直江兼続は、

     直江重光 と称す。 

  ● TKKI カナヤマ著 直江 兼続ガイドブック。

 

 

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#jphappeningsbyperiod-1615

 

 

 ■ 1615年 (慶長20年)。

 

  ● 大阪夏の陣が起こる。

  ● 豊臣氏が滅亡する。

  ■ 1615年(慶長20年)4月に、 大阪夏の陣

   が起こり、5月に、豊臣氏が滅亡する。

 

  ● 直江兼続の嫡男が死去。

  ■ 1615年(慶長20年)に、直江 兼続 (直江重光)

    の嫡男、平八景明が、死去する。

 

     

 ■ 1615年 (慶長20年・元和元年)。 

 

  ● 慶長年号から元和年号に改元。

     元和年号1615年ー 1624年。

  ■ 1615年(慶長20年・元和 元年)に、

    元和(げんな)年号に改元。 

  ● 1615年慶長20年・元和 元年)7月13日に、 

    和暦の「慶長」(けいちょう、

    慶長元年・1596年〜慶長20年・1615年)

    が、  

    和暦の「元和」(げんな、 

    元和 元年・1615年・ 7月13日〜 

    元和10年・1624年・ 2月30日) に

    改元される。 

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1616年 (元和2年)。

 

  ● 徳川家康が死去する。

  ■ 1616年(元和2年)4月17日に、 徳川家

    康が、死去する。 (数え年)享年75歳で

    あった。

 

 

 ■ 1619年 (元和5年)。

 

  ● 直江兼続が死去する。

  ■ 1619年(元和5年)に、 直江 兼続(直江

    重光)が、死去する。

 

  ● 1619年(元和5年)に、 直江 兼続は、

    上杉氏の出羽・米沢藩の家老として、死去す

    る。

  ● TKKI カナヤマ著 直江 兼続ガイドブック。

    

 

 ■ 1623年 (元和9年)。

 

  ● 上杉 景勝が死去する。

  ■ 1623年(元和9年)に、 

    上杉 景勝(かげかつ)が、死去する。

  ● TKKI カナヤマ著 直江 兼続ガイドブック。

 

 

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#jphappenings/summary

 

 

◆ 直江兼続 関連

   出来事

  (概要・総合)。

 

 

    

   〇 近世日本の武将、直江兼続 (なおえかねつぐ)、

     上、ドラマ 「天地人」での直江兼続フォト)

 

 

 

#jphappenings/summary-a

 

 

◆ 直江兼続 関連

   出来事

   (概要・各事柄)。

 

  □ 直江兼続の生涯の概要

 

 

#jphappenings/summary-per2110

 

 

#jphappenings/summary-j1000

 

 

◆ 直江 兼続の生涯の概要。

 

 

 ■ 直江 兼続の生涯の概要。

 

  ■ 直江 兼続 (なおえ かねつぐ)は、 

    越後・坂戸(さかど)城主の長尾 政景(なが

    おまさかげ)の家臣である樋口 兼豊 (惣右

    衛門)の長男として、 1560年(永禄3年)

    に、 越後国(えちご、現・新潟県)の上田庄

    (うえだのしょう)で、誕生する。

 

  ● 直江 兼続 は、 初め、越後・上田庄の母

    の元で暮らし、 その後、越後・上田庄の領

    主となった、政景の子、上杉景勝の家臣と

    して仕える。

 

  ● 直江 兼続は、 越後の春日山城で、上杉

    景勝と共に、上杉謙信にも仕え、1578年

    (天正6年)に起こった上杉謙信死後の内乱

    で上杉景勝を勝たせ、1579年(天正7年)

    に、越後国主となった上杉景勝の重臣とな

    る。

 

  ● 直江 兼続は、

    1581年(天正9年)に直江家を継承し、 

    1598年(慶長3年)に、秀吉より出羽・米

    沢を与えられ、 越後より出羽・米沢に移り

    その領地の経営を行い、1601年(慶長6

    年)に、出羽・米沢は、上杉家領となり、引

    き続き、その経営をまかされ、1619年(元

    和5年)に、上杉家の出羽・米沢藩30万石

    の家老として、死去する。

  ● TKKI カナヤマ著 直江 兼続ガイドブック。

 

 

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 『 あなたのハートには 

    何が残りましたか? 』。

 

 

 

以  上