◆ TKKI カナヤマ オフィシャル ホームページ。
TKKI KANAYAMA’S OFFICIAL
HOMEPAGE.
◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。
KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY
HANDBOOK.
◆ カナヤマ直江兼続ガイドブック。
KANAYAMA’S NAOE KANETSUGU
GUIDEBOOK.
『 (Kjhh)41524
カナヤマ
直江兼続
関連 年代順
出来事ブック。 』
■ パソコン(PC)、 携帯用パソコン(PC)、
タブレット端末(PC)(iPad、他)、
スマートフォン(iPhone、他)、
ウェアラブル端末、 スマートテレビ用
インターネット向 電子書籍。
メ ニュー (目次)。
■ 次の項目から選んで、クイックして下さい。
□ 直江兼続の生涯の概要。
□ 直江兼続ガイドブック。
□ 直江兼続の生涯の概要。
■ 直江兼続と同時代近くの関係史料。
□ 上杉謙信ガイドブック。
□ 武田信玄ガイドブック。
□ 織田信長ガイドブック。
□ 豊臣秀吉ガイドブック。
□ 徳川家康ガイドブック。
□ 江戸幕府ガイドブック。
ブック。
□ 直江兼続 詳細年表。
■ 上位のWEBサイト。
□ (KOH) カナヤマ オフィシャル >
□ (Cse) 国際理解総合サイト >
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□ (Kjhh) 直江兼続 関連
年代順出来事ブック。 >
□ (Kjhh) この日本語ページ。
■ カナヤマ 主要 公式ホームページ
略語一覧表。
□ 主要サイトの略語・説明表。
□ 直江兼続ガイドブックへ。
◆ 直江兼続 関連年代順
出来事ブックの内容 :
■ 初学者・初心者用 インターネット向
直江 兼続ガイドブック。
■ パソコン(PC)、 携帯パソコン(PC)、
タブレット端末(PC)(iPad、他)、
スマートフォン(iPhone、他)、
ウェアラブル端末、 スマートテレビ用
インターネット向 電子書籍。
■ この本1冊で (このホームページ1つで)、直江
兼続の こと(概略) が、一通り、わかる。
■ 直江 兼続は、 安土桃山時代、江戸時代初期
の、越後国 (えちごのくに、現在の新潟県)
の武将で、義と愛民に生きた武士で、 越後国の
国主、大名で 後に出羽・米沢藩主となる、上杉景
勝 (うえすぎ かげかつ)の近臣、家老であった。
■ 直江 兼続ガイドブック (要覧)。
■ 初学者・初心者用 オンライン 直江 兼続ガイド
ブック。
■ 直江 兼続 の 入門 ガイドブック。
■ 直江 兼続 (なおえ かねつぐ) 関連 初心者向
インターネット用 オンライン書籍 (ブック)。
■ TKKI カナヤマ著 直江 兼続ガイドブック。
□ 直江兼続ガイドブックへ。
◆ (Kjhh)
直江兼続 関連
年代順出来事
ブック (総合)。
〇 近世日本の武将、直江兼続 (なおえかねつぐ)、
上、ドラマ 「天地人」での直江兼続フォト)
◆ 直江兼続 関連
年代順出来事
(詳細・各年)。
■ 直江兼続 関連年代順
出来事 (詳細項目)。
□ 直江兼続の生涯の概要。
□ 直江兼続ガイドブック。
□ 直江兼続の生涯の概要。
■ 直江兼続と同時代近くの関係史料。
□ 上杉謙信ガイドブック。
□ 武田信玄ガイドブック。
□ 織田信長ガイドブック。
□ 豊臣秀吉ガイドブック。
□ 徳川家康ガイドブック。
■ 備考。
■ 当書籍では、 歴史の出来事の5W1H
(いつ、どこで、だれが、何を、なぜ、どの
ように) や、 歴史の出来事の流れ(原因
理由⇒事件勃発⇒経過⇒結果⇒原因理
由)に沿って、歴史(過去)の出来事を分か
り易く、説明している。
■ より理解を深めるために、 日本史辞典の、
『 上杉景勝 (うえすぎかげかつ)、
上杉謙信 (うえすぎけんしん)、
織田信長 (おだのぶなが)、
豊臣秀吉 (とよとみひでよし)、
徳川家康 (とくがわ いえやす) 、
今川義元 (い まがわよしもと)、
明智光秀 (あけちみつひで)、
北条氏康 (ほうじょううじやす)、
北条 氏政 (ほうじょううじまさ)、
北条 氏直 (ほうじょううじなお)、
武田信玄 (たけだし んげん)、
武田 勝頼 (たけだしんげん) 』
の項目も参照してください。
■ 西暦・和暦の記載。
● この年代順出来事は、
西暦を先に、その後ろの( )内に和暦を記載し
ている。
● この年代順出来事に記載されている日付(年
月日)は、 一般の歴史書で使用されているの
と同じように、1872年(明治5年)以前は旧暦
(太陰太陽暦)を用い、 1873年(明治6年)
以後は新暦(太陽暦、グレゴリオ暦)を用いて
いる。
◆ では、直江 兼続 (なおえかねつぐ)に関係す
る出来事を、年代順に、見てみよう。
■ さあ、直江 兼続に関する様々な出来事を見て
みよう。
● 500〜400年前頃の日本へタイムスリップし
て、直江 兼続の活動を見てみよう。
● 歴史学の立場から、直江 兼続の生涯や実像
(真実の姿)を見てみよう。
● 歴史学の立場から、年代を追って、直江 兼続
の実像を見てみよう (歴史的有名な人物には、
虚像と実像があるが)。
● 日付は、一般の歴史書と同様に全て旧暦で
ある。
● 現代も、過去の時代も、人間は、利害と感情
(友愛)と理性等で行動し、富、名誉、権力等
を手に入れるために努力する。
人類の歴史は、 平和と戦争の歴史で
ある。 人は、美しき者、平和を好む者であり、
人は、醜き者、争う者でもある。
□ 直江兼続ガイドブックへ。
◆ 直江兼続 関連
年代順出来事
(詳細・各年)。
■ 『 では、年代を追って、直江兼続の行動
を詳しく見てみよう。 』
■ 1521年 (永正18年・大永元年)。
● 永正年号から大永 年号に改元。
大永年号:1521年ー1528年。
■ 1521年(永正18年 ・大永元年)に、
大永(だいえい、たいえい)年号に改元。
● 1521年(永正18年 ・大永元年)8月23日に、
和暦の「永正」(えいしょう、
永正元年・1504年〜永正18年・1521年) が、
和暦の「大永」(だいえい、たいえい、
大永 元年・1521年・ 8月23日〜
大永 8年・1528年・ 8月20日) に
改元される。
■ 1521年 (大永元年) 11月。
● 武田 信玄(太郎)が誕生する。
■ 1521年(大永元年)11月に、 武田 信玄
(たけだ しんげん、幼名:太郎(たろう))が、
甲斐国(かいのくに、現・山梨県)の守護大
名、戦国大名、国主の武田信虎(たけだの
ぶとら)の子として、誕生する。
■ 1528年 (大永8年・享禄元年)。
● 大永年号から享禄年号に改元。
享禄年号:1528年ー1532年。
■ 1528年(大永8年・享禄元年) に、
享禄(きょうろく)年号に改元。
● 1528年(大永8年・享禄元年)8月20日に、
和暦の「大永」(だいえい、たいえい、
大永元年・1521年〜大永8年・1528年) が、
和暦の「享禄」(きょうろく、
享禄 元年・1528年・ 8月20日〜
享禄 5年 ・1532年・ 7月29日) に
改元される。
■ 1530年 (享禄3年)。
● 上杉謙信(虎千代)の誕生。
■ 1530年(享禄3年)に、 越後国(えちごのく
に、現・新潟県)の戦国大名となる、上杉
謙信(うえすぎ けんしん、幼名:虎千代)が、
越後国(えちごのくに、現・新潟県)の、
守護代の長尾為景(ながお ためかげ)
の子として、誕生する。
● 1530年(享禄3年)に、越後国の戦国大名と
なる、上杉 謙信(うえすぎけんしん、幼名:虎千
代)が、誕生する。 虎千代(とらちよ、後の
上杉 謙信)が、 越後守護代・長尾為景の4男
(又は3男)として、春日山城で、産まれる。
● TKKI カナヤマ著 直江兼続ガイドブック。
■ 1532年 (享禄5年・天文元年)。
● 享禄年号から 天文年号に改元。
天文年号:1532年ー1555年。
■ 1532年(享禄5年・天文元年)に、
天文(てんぶん、てんもん)年号に改元。
● 1532年(享禄5年・天文元年)7月29日に、
和暦の「享禄」(きょうろく、
享禄元年・1528年〜享禄5年・1532年) が、
和暦の「天文」(てんぶん、てんもん、
天文 元年・1532年・ 7月29日〜
天文24年・1555年・10月23日) に
改元される。
■ 1534年 (天文3年)。
● 織田信長(吉法師)が誕生する。
■ 1534年(天文3年)5月12日に、
織田 信長 (おだのぶなが、幼名(ようみょ
う):吉法師(きっぽうし)、生没年:1534年
ー1582年))が、
尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部の相当
地域)の、戦国武将、国人領主の織田信秀
(おだ のぶひで、生没年:1511年ー1552
年頃))の子として、誕生する。
■ 1536年 (天文5年)。
● 信玄が元服する(成人となる)。
■ 1536年(天文5年)3月に、 武田信玄(太
郎)は、元服(成人)し、 室町幕府・12代将
軍の足利義晴(あしかがよしはる)の一字の
晴を賜り、武田 晴信(はるのぶ)と称す。
■ 1537年 (天文6年)。
● 豊臣秀吉(日吉丸?)の誕生。
■ 1537年(天文6年)に、 豊臣秀吉 (とよ
とみ ひでよし、幼名:日吉丸(ひよしまる)?)
が、 尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)
の、農民・足軽の弥右衛門の子として、誕生
する。
● 秀吉の誕生日は1536年 (天文5年)説も
ある。
■ 1542年 (天文11年)。
● 徳川家康(竹千代) が誕生する。
■ 1542年 (天文11年)に、 徳川家康 (とく
がわ いえやす、幼名:竹千代(たけちよ)) が、
三河国 (みかわのくに、現在の愛知県東部)
の、戦国武将・国人領主で岡崎城主の、
松平広忠 (まつだいら ひろただ) の子
として、 誕生する。
● TKKI カナヤマ著 直江 兼続ガイドブック。
■ 1543年 (天文12年)。
● 謙信が元服する(成人となる)。
■ 1543年(天文12年)8月15日に、
上杉謙信(虎千代)は、元服(成人)して、
長尾 景虎 (ながおかげとら)と名乗る。
■ 1546年 (天文15年)。
● 武田勝頼の誕生。
■ 1546年 (天文15年)に、 武田勝頼(たけ
だ かつより) が、 甲斐国(かいのくに、
現・山梨県)の戦国大名の武田信玄の子として、
産まれる。
■ 1548年 (天文17年)。
● 謙信が越後守護代となる。
■ 1548年(天文17年)に、 上杉謙信(長尾
景虎)は、 数え年19歳で、長尾家の家督を
相続し、 長尾氏の本拠地である春日山城
(かすがやまじょう)に入り、 越後国(えちご
のくに、現・新潟県)の守護代(しゅごだい)
となる。
■ 1550年 (天文19年)。
● 長尾政景が反乱を起こす。
■ 1550年 (天文19年)に、 上田長尾家当主
の長尾政景(まさかげ)が、 謙信(長尾景虎)
の長尾家の相続に不満を持って、反乱を起こ
す。
■ 1551年 (天文20年)。
● 謙信が長尾政景の反乱を鎮圧。
■ 1551年 (天文20年)に、 上杉謙信(長尾
景虎)は、 長尾政景の反乱を鎮圧する。
● 謙信の姉が長尾政景に嫁ぐ。
■ 1551年 (天文20年)に、上杉謙信(長尾
景虎)の実姉の桃 (もも、仙桃院(せんと
ういん))が、 長尾政景に嫁ぐ (政略結婚)。
● 謙信が越後を統一する。
■ 1551年(天文20年)に、 上杉謙信(長尾
景虎)は、 越後を統一し、名実共に、越後国
の国主となる。
● TKKI カナヤマ著 上杉謙信ガイドブック。
■ 1552年 (天文21年)。
● 謙信と信玄が
第1次川中島の戦いを行なう。
■ 1552年(天文21年)に、上杉謙信(長尾景虎)
と武田信玄(武田晴信)との間で、第1次川中島
の戦い (5回の川中島の戦いの最初)が行な
われる。
■ 1554年 (天文23年)。
● 甲相駿三国同盟が成立。
■ 1554年(天文23年)に、
武田信玄、北条氏康、今川義元の間で、互い
に婚姻関係を結び、 甲斐国本拠地の武田氏、
相模国本拠地の北条氏、駿河国本拠地の今
川氏の三者の甲相駿三国同盟 (こうそうしゅ
んさんごくどうめい、1554年ー1567年)が、
成立する。
■ 1554年 (天文23年)頃。
● 秀吉が信長に仕え始める。
■ 1554年(天文23年)頃に、豊臣秀吉(木下
藤吉郎)が、織田信長に仕える (家臣として
仕え始める)。
■ 1555年 (弘治元年)。
● 謙信の甥の上杉景勝(卯松)
の誕生。
■ 1555年(弘治元年)に、 上杉 景勝 (かげ
かつ)が、誕生する。
■ 1555年(弘治元年)に、 直江 兼続(なおえ
かねつぐ)が仕える主君となる、 上杉 景勝
(うえすぎ かげかつ、 幼名・長尾 卯松(うの
まつ)、後に直江 兼続が仕える主君・大名)
が、 誕生する。
● 1555年(弘治元年)に、 上杉 景勝は、
長尾 政景(ながお まさかげ)の次男であり、
上杉謙信(長尾景虎)の甥(おい)であり、
後の直江兼続の主君である。
● 長尾 政景は、上杉謙信の姉婿で上杉景勝
の父で、越後・坂戸城主(新潟県南魚沼市
六日町坂戸) である。
● 一方、上杉謙信(長尾景虎)は、数え年26歳
であった。
■ 1555年 (天文24年・弘治元年)。
● 天文年号から弘治年号に改元。
弘治年号:1555年ー1558年。
■ 1555年(天文24年・弘治元年)に、
弘治(こうじ)年号に改元。
● 1555年(天文24年・弘治元年)10月23日に、
和暦の「天文」(てんぶん、てんもん 、
天文元年・1532年〜天文24年・1555年) が、
和暦の「弘治」(こうじ、
弘治 元年・1555年・10月23日〜
弘治 4年・1558年・ 2月28日) に
改元される。
■ 1556年 (弘治2年)。
● 謙信の越後放棄と国外退去。
● 越後の国人領主たちが後を追
って謙信を連れ戻す。
■ 越後国各地の国人領主(こくじんりょうしゅ、
= 国衆)たちは自立心(独立心)が強く、越後
国の国主(こくしゅ)の謙信の命(命令)に従わ
ないことが多く、謙信は嫌気(いやけ)がさし、
1556年(弘治2年)3月に、家臣同士の領土
争いや国衆の紛争の調停などで心身が疲れ
果てて、上杉謙信(長尾景虎)は、突然、出家・
隠居すると宣言し、 1556年(弘治2年)6月
には、謙信(長尾景虎)は、 越後国(えちご
のくに、現・新潟県)の国主の座を放棄して、
春日山城(かすがやまじょう)をあとにし国外
の高野山(こうやさん)へと向かう。
● 1556年(弘治2年)に、慌(あわ)てふためい
た、越後国の国人領主たちは、 越後を逃亡し
た謙信を追いかけ、懇願し、服従を誓い、説得
し出家を断念させ、越後国主の謙信を越後国
に連れ戻す。
■ 1558年 (弘治4年・永禄元年)。
● 弘治年号から永禄年号に改元。
永禄年号:1558年ー15 70年。
■ 1558年(弘治4年・永禄元年)に、
永禄(えいろく) 年号に改元。
● 1558年(弘治4年・永禄 元年)2月28日に、
和暦の「弘治」(こうじ、
弘治元年・1555年〜弘治4年・1558年)
が、
和暦の「永禄」(えいろく、
永禄 元年・1558年・ 2月28日〜
永禄13年・1570年・ 4月23日) に
改元される。
■ 1559年 (永禄2年) 2月。
● 信玄が、徳栄軒信玄と称する。
■ 1559年(永禄2年)2月に、 武田信玄
(武田晴信)は、 出家して、「徳栄軒信玄」
(法号、法名)と号す(称す)。
■ 1559年 (永禄2年)。
● 信長が尾張を統一する。
■ 1559年(永禄2年)に。 織田信長は、
尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)
一国を統一し、 尾張国の国主(こくしゅ)
となる。
■ 1560年 (永禄3年)。
● 後に上杉景勝に仕える、
直江 兼続(与六)の誕生。
■ 1560年(永禄3年)に、 直江 兼続 (なお
えかねつぐ、幼名・樋口 与六(ひぐち よろく)
が、誕生する。
● 1560年(永禄3年)に、直江 兼続は、
越後の坂戸(さかど)城主 (現在の新潟県
南魚沼市六日町坂戸)の長尾政景(ながお
まさかげ)の家臣、 樋口 兼豊 (ひぐち か
ねとよ、樋口 惣右衛門(そうえもん))の長
男として、産まれる。
● 一方、その時、上杉謙信 (けんしん、長尾景
虎)は、数え年31歳であった。
上杉景勝 (かげかつ、長尾 卯松(うのまつ))
は、数え年6歳であった。
上杉景勝は、長尾政景の次男で上杉謙信
の甥(おい)であり、後の直江 兼続の主君で
ある。
● TKKI カナヤマ 直江 兼続ガイドブック。
■ 1560年 (永禄3年)。
● 信長が桶狭間の戦いで、
今川義元を敗死させる。
■ 1560年(永禄3年)5月に、織田信長は、
桶狭間(おけはざま)の戦いで、 今川 義元
(いまがわ よしもと)を破る。 今川義元は、
尾張の桶狭間で、敗死する。
● 家康が三河へ戻る。
■ 1560年(永禄3年)に、 義元の家臣して
信長と戦っていた、徳川家康(松平元康(ま
つだいらもとやす))は、 尾張より、松平軍
の兵を撤退し、三河国(みかわのくに、現・
愛知県東部)の岡崎城へ戻る。
その後、1561年(永禄4年)4月に、
家康は、今川氏から独立する。
● TKKI カナヤマ著 武田信玄ガイドブック。
■ 1561年 (永禄4年)。
● 謙信の小田原北条氏を攻め、
小田原城を囲む。
■ 北条氏攻め(小田原城攻め)。
● 1561年(永禄4年)に、 上杉謙信(長尾
景虎)は、 関東管領(かんとうかんれい)
の上杉憲政(うえすぎのりまさ)を擁して、
旧上杉氏家臣団の約10万人の大軍で、
北条氏康(ほうじょううじやす)を攻め、小田
原城を包囲する。
● 謙信が、山内上杉氏家督を
相続し、関東管領となる。
● 謙信が、上杉政虎と称する。
■ 1561年(永禄4年)閏3月16日に、
上杉謙信(長尾景虎(ながおかげとら))は、
鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で、
上杉憲政(うえすぎのりまさ)より、
山内上杉氏(やまのうちうえすぎけ)の家督
と関東管領職を相続(継承)し、
関東管領(かんとうかんれい)に就任し、
上杉憲政から一字の政を賜り、
上杉政虎(うえすぎまさとら)と称す。
■ 1561年 (永禄 4年)。
● 家康は織田方となり、今川氏
から独立する。
■ 1561年(永禄4年)4月に、三河国西部の
徳川家康(松平元康)は、 尾張国の織田
信長と和睦し、織田方となり、今川氏の今川
義元の後を継いだ今川氏真(いまがわ(うじ
ざね)と断行し今川氏から独立する。
■ 1561年 (永禄4年)。
● 謙信と信玄が、第4回川中島の
戦いで、戦い、引き分けとなる。
■ 第4回川中島の戦い。
● 1561年(永禄4年)8月に、 上杉謙信(上杉
政虎)の率いる上杉軍 と 武田信玄(徳栄軒
信玄)の率いる武田軍が、 信濃国(しなのの
くに、現・長野県)の北部の川中島で、衝突し、
第4回川中島の戦いが起こり、激戦となる。
第4回川中島の戦いでは、勝敗がつがず、
引き分けとなる。
● 謙信が、上杉輝虎と称する。
■ 1561年(永禄4年)12月に、上杉謙信(上杉
政虎)は、 室町幕府・13代将軍の足利義輝
から一字の輝を賜り、諱(いみな)を輝虎(てる
とら)と改め、上杉輝虎(うえすぎてるとら)と
称す。
■ 1562年 (永禄5年)。
● 信長と家康が同盟を結ぶ。
■ 1562年(永禄5年)1月に、徳川家康(松平
元康)は、 織田信長と清洲(きよす)同盟(織
徳同盟)を結ぶ。
■ 1564年 (永禄7年)。
■ 1564年(永禄7年)に、 上杉謙信(上杉輝
虎)の姉婿で上杉景勝(かげかつ)の父の、
長尾政景が、 舟遊びの最中、溺死する。
● 謙信が上杉景勝を養子の一人
とする。
■ 1564年(永禄7年)に、上杉謙信(上杉輝虎)
が、長尾政景の次男の、上杉景勝を養子とする。
● 謙信(上杉輝虎)が、 長尾政景の次男の、
上杉景勝を養子とする。
● 謙信と信玄が最後の川中島の
戦いを行なう。
■ 1564年 (永禄7年)に、上杉謙信(上杉輝虎)
と武田信玄(徳栄軒信玄)は、第5回川中島の
戦い (第1〜5回川中島の戦いの最後)を行う。
■ 1567年 (永禄10年)。
● 信長が美濃の斎藤氏を滅ぼす。
● 信長が尾張、美濃の2か国の
戦国大名になる。
■ 1567年(永禄10年)10月に、信長は、
美濃国(みののくに、現・岐阜県南部)の
斉藤氏を滅ぼす。
■ 1568年 (永禄11年)。
● 信長が畿内に進出する。
● 信長の援助で、足利義昭が
室町幕府の将軍となる。
■ 1568年(永禄11年)9月に、織田信長は、
足利義昭(よしあき)を奉じて、上洛を果たし、
10月に、義昭を室町幕府の第15代将軍位
に就(つ)ける。
この戦いに、 家康は、信長へ援軍を
派遣する。
■ 1568年 (永禄11年)。
● 武田氏と徳川氏が今川領
に侵攻する。
● 北条氏は今川氏に味方し、
甲相駿三国同盟の甲相
同盟が破綻する。
■ 武田氏と徳川氏の今川領侵攻。
● 1568年(永禄11年)12月に、武田氏と
徳川氏は、共同で、今川領に侵攻する。
その後、1568年(永禄11年)12月
に、武田氏は今川領だった駿河国(する
がのくに、現・静岡県中部)を領有し、
1569年(永禄12年)5月に、徳川氏は、
今川領だった遠江国(とおとうみのくに、
現・静岡県西部)を領有する。
■ 1568年(永禄11年)12月に、北条氏の
北条氏康は、今川氏の今川氏真に援軍を
送り、武田氏の武田信玄と敵対し、甲相駿
三国同盟の甲相同盟が破綻する。
● 信玄が駿河を領有する。
■ 1568年(永禄11年)に、 武田信玄
(徳栄軒信玄)が、 駿河国(するがのくに、
現・静岡県中部)を占領する(領有する)。
● 1568年(永禄11年)12月に、今川氏真
(うじざね)が、駿河国を離れ、 遠江国(と
おとうみのくに、現・静岡県西部)の掛川城
(かけがわじょう)へ逃れる。
■ 1570年 (永禄13年・元亀元年)。
● 永禄年号から元亀年号に改元。
元亀年号:1570年ー 1573年。
■ 1570年(永禄13年・元亀元年)に、
元亀(げんき) 年号に改元。
● 1570年(永禄13年・元亀 元年)4月23日に、
和暦の「永禄」(えいろく、
永禄元年・1558年〜永禄13年・1570年)
が、
和暦の「元亀」(げんき、
元亀 元年・1570年・ 4月23日〜
元亀 4年・1573年・ 7月28日) に
改元される。
■ 室町時代後期の各年号。
暗記法: 永大享天弘永元天
(えいだいきょうてんこうえいげんてん)。
● 永正(えいしょう)年号: 1504年ー1521年。
● 大永(だいえい)年号: 1521年ー1528年。
● 享禄(きょうろく)年号: 1528年ー1532年。
● 天文(てんぶん)年号: 1532年ー1555年。
● 弘治(こうじ)年号: 1555年ー1558年。
● 永禄(えいろく)年号: 1558年ー1570年。
● 元亀(げんき)年号: 1570年ー 1573年。
● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。
● TKKI カナヤマ著 直江兼続ガイドブック。
■ 1570年 (元亀元年)。
● 謙信は、北条氏康の子の北条
三郎を養子の一人とする。
■ 1570年(元亀元年)4月に、 上杉謙信(上杉
輝虎)は、 北条氏康の男子(七男)の、北条三
郎を養子とし、その後、景虎という名を与える
(上杉三郎景虎)。
● 信長は姉川の戦いで、
浅井・朝倉氏に勝利を得る。
■ 姉川の戦い。
● 1570(元亀元年)年6月に、織田信長は、
近江国の姉川(あねがわ)で、浅井・朝倉
連合軍を破る。
この戦いに、家康は、信長と共に参
戦し、信長を助ける。
● 信長と石山本願寺との戦いが
始まる。
■ 石山(いしやま)合戦の始まり。
● 1570年(元気元年)9月に、本願寺(一向
宗)の石山本願寺は、織田信長に対抗する。
■ 本願寺と織田信長との戦いの石山合戦
(1570年ー1580年)が、始まる。
● 謙信は、不識庵謙信と称する。
■ 1570年(元亀元年)12月に、 上杉謙信
(上杉輝虎)は、出家して、「不識庵謙信」
(法号、法名)と号す(称す)。
● (注意) 戦国武将の出家は、 欲望を捨
てる、俗世を捨てるという意味ではなく、
仏の心持ちをもち、新たに心を入れ替えた
ことを一般の人に示すパーフォーマンスで
ある。
■ 1571年 (元亀2年)。
■ 1571年(元亀2年)年9月に、織田信長は、
朝倉・浅井氏に味方した、 比叡山延暦寺
(ひえいざんえんりゃくじ)を焼討ちする。
■ 1572年 (元亀 3年)。
● 信玄は、上洛を開始し、
織田氏・徳川氏を攻める。
■ 1572年(元亀3年)10月に、武田信玄
(徳栄軒信玄)は、 上洛の軍を起こす
(上洛を開始する)。
● 家康は、三方が原の戦いで、
信玄に大敗する。
■ 1572年(元亀3年)12月に、 遠江 国(とお
とうみのくに、現・静岡県西部)の三方が原
(みかたがはら)の戦いで、 徳川・織田連合
軍は、 武田信玄(徳栄軒信玄)の武田軍に
大敗する。
■ 1573年 (元亀4年)。
● 足利義昭は、信長に敵対する。
■ 1573年(元亀4年)2月に、 足利義昭 は、
武田氏、朝倉氏、浅井氏、本願寺と協力して、
信長討伐を謀(はか)る。
● 信玄が、急死する。
■ 1573年(元亀4年)4月に、 武田信玄(徳
栄軒信玄)が、上洛途中で、死去(病死)する。
● 武田勝頼が武田氏を継承する。
■ 1573年(元亀4年)4月に、武田信玄(徳栄軒
信玄)死後、 武田勝頼 (たけだかつより)が、
武田氏の家督を継承する。
● 室町幕府が実質上滅亡。
■ 室町幕府が実質上滅亡。
● 1573年(元亀4年)7月に、織田信長が 、
足利義昭を京(きょう、京都)から追放する。
● 織田信長は、信長を裏切った、足利 義昭
(よしあき)を京(京都)より追放し、室町幕
府を実質上滅ぼす。
■ 1573年 (元亀4年・天正元年)。
● 元亀年号から天正年号に改元。
天正年号:1573年ー 1592年。
■ 1573年(元亀4年・天正元年)に、
天正(てんしょう) 年号に改元。
● 1573年(元亀4年・天正 元年)7月28日に、
和暦の「元亀」(げんき、
元亀元年・1570年〜元亀4年・1573年)
が、
和暦の「天正」(てんしょう、
天正 元年・1573年・ 7月28日〜
天正20年・1592年・12月 8日) に
改元される。
■ 1573年(元亀4年)7月に、織田信長は、
元号を元亀から天正へと改めることを朝廷
に奏上し、これを実現させる。
■ 安土桃山時代の各年号。
暗記法: 元天文慶
(げんてんぶんけい)。
● 元亀(げんき)年号: 1570年ー 1573年。
● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。
● 文禄(ぶんろく)年号: 1592年ー 1596年。
● 慶長(けいちょう)年号: 1596年ー 1615年。
■ 1573年 (天正元年)。
● 信長は、朝倉・浅井両氏を
滅ぼす。
■ 1573年(天正元年)に、織田信長は、朝倉・
浅井両氏を滅ぼす。
● 1573年(天正元年)8月に、 信長は、
越前に行軍し朝倉軍を破り、朝倉義景を自害
させ、 9月に、北近江の小谷(おだに)城を
落とし、浅井久政・長政父子を自害させる。
小谷城落城前、信長の妹のお市と娘
3人は、落ち延びて、信長が引き取る。
信長は、 越前と北近江を領土とする。
■ 1573年(天正元年)に、 豊臣秀吉(羽柴
秀吉)は、 浅井氏滅亡後、その旧領の北近
江三郡の経営を織田信長より任される。
その後、北近江(きたおうみ)の長浜
城の城主(城代)となる。
■ 1575年 (天正3年)。
■ 1575年(天正3年)に、 上杉謙信(不識庵
謙信)が、直江 兼続 (樋口兼続)を重用する。
■ 長篠の戦い。
● 1575年(天正 3年)5月に、信長・家康連
合軍は、 三河・長篠(ながしの)で、 武田
勝頼の率いる軍に大勝する。
■ 1575年(天正3年)8月に、信長は、越前
に侵攻し、本願寺門徒の軍を破り、 再び、
織田領にし、越前を柴田勝家に経営させる。
■ 1575年 (天正3年)。
■ 1575年(天正3年)に、 上杉謙信(不識庵
謙信)が、直江 兼続 (樋口兼続)を重用する。
■ 長篠の戦い。
● 1575年(天正 3年)5月に、信長・家康連
合軍は、 三河・長篠(ながしの)で、 武田
勝頼の率いる軍に大勝する。
■ 1575年(天正3年)8月に、信長は、越前
に侵攻し、本願寺門徒の軍を破り、 再び、
織田領にし、越前を柴田勝家に経営させる。
■ 1576年 (天正 4年)。
● 謙信は、本願寺、武田氏と提
携して、信長と対抗する。
■ 1576年 (天正4年)に、上杉謙信は、
織田信長との同盟を破棄し、本願寺顕如と講
和し、 武田勝頼とも和睦して、謙信を盟主
とする、 反信長包囲網を築き上げる。
■ 1577年 (天正5年)。
● 謙信は、手取川の戦いで、
信長軍を破る。
■ 手取川の戦い。
● 1577年(天正5年)9月に、信長軍は、
北陸で、 上杉謙信(不識庵謙信)の率いる
上杉軍に敗れ撤兵する。
● 1577年(天正5年)9月に、手取川の戦いで、
謙信(不識庵謙信)は、 柴田勝家の率いる
織田軍を、越前国(えちぜんのくに、現・福井
県東部)で、破る。
■ 1578年 (天正6年)。
● 謙信が急死する。
■ 1578年(天正6年)に、 上杉謙信(不識庵
謙信)が、死去(病死)する。
● 謙信死去後、御館の乱が
始まる。
■ 1578年 (天正6年)に、 上杉謙信(不識
庵謙信)の有力継承候補者の2人の養子の、
上杉景勝(うえすぎかげかつ) と、 上杉三
郎景虎(うえすぎさぶろうかげとら)との間に、
上杉氏の家督相続をめぐって争う、越後の
内乱である、御館の乱(おたてのらん、1578
年〜1579年)が起こる。
● 1578年 (天正6年)の上杉謙信の死後、
上杉謙信の領国の上杉領の国人領主(国衆)
たちは、 上杉景勝方に味方するか、上杉三
郎景虎方に味方するか、争い、上杉領内は、
内部分裂し、混乱する。
● 上杉景勝は、武田勝頼と同盟
を結ぶ。
■ 1578年(天正6年)に、上杉景勝は、
武田氏の武田勝頼と甲越同盟を結び、武田
氏の菊姫を、景勝の正室夫人にむかえる。
上杉景勝は、 御館の乱(おたてのらん、
1578年〜1579年)で有利となる。
● TKKI カナヤマ著 上杉謙信ガイドブック。
● 強大な信長軍の上杉領侵攻
開始。
■ 1578年(天正6年)に、 強大な信長軍は、
北陸地方の、上杉領の能登、加賀の攻略を
開始する。
● 織田水軍が、毛利水軍を破る。
■ 1578年(天正6年)11月に、 織田水軍が、
鉄甲船を用いて、毛利水軍を破る。
● TKKI カナヤマ著 直江 兼続ガイドブック。
■ 1579年 (天正7年)。
● 信長が安土城を完成させる。
■ 1579年(天正7年)に、 織田信長は、
五層七重の豪華絢爛(ごうかけんらん)な
天守をもつ安土城を完成させる。
● 上杉景勝が、御館の乱で、
勝利を得る。
■ 1579年(天正7年)に、 御館の乱(おたて
のらん)で、 上杉景勝は、武田氏の後ろ盾
を得て、戦いを有利にすすめ、 上杉氏継承
有力候補者の上杉三郎景虎は、自害(自刃)
する。
● 上杉景勝が、越後の国主
となる。
■ 1579年(天正7年)に、 御館の乱(おた
てのらん)で、上杉景勝が、上杉三郎景虎
に味方した勢力に大方勝利
を得る。 そして、上杉景勝が、御館の乱
で内部分裂し弱体化した上杉氏の家督を
継承(相続)する。
そして、1579年(天正7年)に、
上杉景勝が、越後国(えちごのくに、現・新
潟県)の上杉氏の家督を継承し、上杉謙信
の後継者として、御館の乱で弱体化した
上杉氏の当主となる。
■ 1580年 (天正8年)。
● 信長が、一向宗の、石山
本願寺を屈服させる。
■ 1580年(天正8年)に、 織田信長は、
本願寺(一向宗)の、石山本願寺を屈服
させる。
■ 本願寺と織田信長との戦いの石山合戦
(1570年ー1580年)が、信長の勝利
で終わる。
■ 1581年 (天正9年)。
● 上杉景勝の重臣の直江兼続
が、直江氏を相続する。
■ 1581年(天正9年)に、 直江 兼続(樋口
兼続)が、 直江氏を相続(継承)する。
● 直江 兼続は、 直江氏の直江信綱が死去し
その妻、お船(せん)と結婚し、 直江氏を相
続し、直江姓を名乗る。
■ 1582年 (天正10年)。
● 強大な織田軍に攻められ、
上杉氏が滅亡の危機。
■ 1582年(天正10年)に、 越後国の大名の、
上杉景勝は、強大織田軍に攻められ、 御館
の乱で弱体化した越後の上杉氏は 滅亡の
危機を迎える。
● 強大な織田軍に攻められ、
武田氏が滅亡する。
■ 1582年(天正10年)2月に、織田信長は、
武田領への攻撃 を開始し、 3月11日に、武田
勝頼を討ち取り(天目山の戦い)、戦国大名の
武田氏は滅亡する。
● 家康が駿河を領有する。
■ 1582年(天正10年)2月に、 織田軍に協
力して、 徳川軍も、武田領の駿河に侵攻し
て、駿河国(するがのくに、現・静岡県中部)を
占領する。
家康は、同年に、この戦功により、 織田
信長から駿河国一国を与えられる。
■ 1582年 (天正10年)。
● 信長が中国地方出陣前に、
茶事で、京に一時滞在。
■ 1582年(天正10年)に、 1582年(天正10
年)5月に、織田信長は、明智光秀に、備中国
にいる秀吉軍への援軍を命じ、 一方、信長は、
6月上旬後半の自身の中国地方行軍予定前に、
6月上旬前半に京(きょう、京都)で茶事(ちゃ
じ)で茶会(ちゃかい)を開くため、安土城から、
名物茶器を携え、京へ上洛するため、信長は、
5月29日に安土城を出て、5月29日に京の
本能寺に到着し、京に6月上旬前半まで滞在
する予定であった。
● 本能寺の変で、信長死す。
■ 本能寺の変。
1582年(天正10年)6月2日未明に、明智
光秀が、 6月1日の本能寺での茶会の翌日
に京(きょう、京都)の本能寺にいた織田信長
を攻め、自害させる。 信長、数え年49歳で
死す。
● 本能寺の変で信長が死去し強大
な織田軍が侵略を中止し、上杉
氏が滅亡の危機を脱する。
■ 1582年(天正10年)6月2日に、織田信長
が、本能寺の変で、自害(自刃)する。
越後を攻めていた強大な織田軍が、頭領
の信長を失い、越後国への侵入を中止し、
御館の乱で弱体化した上杉氏は、滅亡の危
機を脱する。
● TKKI カナヤマ著 直江 兼続ガイドブック。
■ 1582年 (天正10年)。
● 秀吉は、山崎の戦いで、
明智光秀を討つ。
■ 山崎の戦い。
● 1582年(天正10年)6月に、 信長死去後、
すぐに、秀吉は、明智光秀を討つ。
● 秀吉は、清洲会議で、織田氏
の中で、有利な地位を得る。
■ 清洲会議 (きよすかいぎ)。
● 1582年(天正10年)6月27日に、秀吉は、
清洲城(きよすじょう)にて、他の織田氏の
3重臣と相談し、信長の後継者と遺領の分割
を決める。
● 当日出席した織田氏の4人の重臣の、羽柴
秀吉(はしばひでよし)、柴田勝家(しばたか
ついえ)、丹羽長秀(にわながひで)、池田
恒興(いけだつねおき)には、会議前に、
既に、織田氏の一族、同盟者などの利害関
係者からの意向が伝えられていた。
● 清洲会議後、織田氏家臣団は、
羽柴方と柴田方に分裂。
■ 1582年(天正10年)6月27日の清洲会議後、
織田氏の家臣団は、 羽柴方 と 柴田方に分
裂する。
羽柴方には、 丹羽長秀、池田恒興、織
田信雄(おだのぶかつ)などであり、 柴田方
は、 織田信孝(おだのぶたか)、滝川一益(た
きがわかずます)などである。
■ 1582年 (天正10年)。
● 信長死後、織田領の信濃、甲斐、
上野で、天正壬午の乱が起こる。
■ 天正壬午の乱 (てんしょうじんごのらん)。
● 織田信長死後、
1582年(天正10年)6月から10月まで、
織田領の、信濃国(しなのくに、現・長野県)、
甲斐国(かいのくに、現・山梨県)、上野国
(こうずけのくに、現・群馬県)へ、
上杉景勝(うえすぎかげかつ)の軍、北条
氏直(ほうじょううじなお)の軍、徳川家康
の軍が、侵攻する。
● その後、天正壬午の乱(1582年6月〜
10月)の戦いの結果、徳川家康と北条氏
直は和睦し、 信濃国、甲斐国は、ほぼ
徳川領に、 上野国は、ほぼ北条領となる。
● 天正壬午の乱後、家康は、
五か国の大大名になる。
■ 天正壬午の乱の終了後、 徳川家康は、
三河国、遠江国、駿河国、甲斐国、信濃国
(現在の愛知県東部、静岡県西部・中部、
山梨県、長野県)の五か国を領有する大大
名になる。
■ 1582年 (天正10年)。
● 秀吉が、長浜と美濃の柴田方
の勢力を平定する。
■ 1582年(天正10年)12月に、秀吉は、
北近江へ侵攻し、柴田勝家方の武将の
長浜城を降伏させ、美濃へ侵攻し、柴田
勝家方の勢力を平定する。
● TKKI カナヤマ著 上杉謙信ガイドブック。
■ 1583年 (天正11年)。
● 秀吉は、越前の柴田氏を滅
ぼす。
■ 1583年(天正11年)4月に、豊臣秀吉
(羽柴秀吉)は、 賤ヶ岳(しずがたけ)で、
柴田勝家の軍を破り勝利を得て (賤ヶ岳の
戦い)、 そのまま秀吉は、追撃し、秀吉に
追撃された勝家は、越前(えちぜん、現・
福井県東部の相当地域)の北庄城(きたの
しょうじょう、北ノ庄城)で、自害する。
● 秀吉は、加賀・能登を平定し、
経営を前田利家に委ねる。
■ 越前国を平定後、更(さら)に、秀吉は、加賀
国と能登国(かがのくにとのとのくに、現・石川
県の相当地域)へ侵攻し2国を平定して、それ
らの経営を前田利家に委ねる。
■ 1583年(天正11年)。
● 秀吉が大阪城の築城を開始
する。
■ 1583年(天正11年)8月に、 豊臣秀吉
(羽柴秀吉)は、大阪の石山本願寺の跡地に、
豊臣大阪城の築城を開始する (1588年豊
臣大阪城完成)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
● 小牧・長久手の戦いで、秀吉
は、家康に敗け、和睦する。
■ 小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い
(1584年3月ー11月)。
● 小牧・長久手の戦いは、1584年(天正12
年)3月から11月まで、羽柴秀吉(豊臣秀吉)
と、 織田信雄(おだのぶかつ)や徳川家康と
の間で起こった戦いである。 秀吉は、11月
に信雄と和睦し、12月に家康と和睦する。
■ 1585年 (天正13年)。
● 秀吉は関白となる。
● 豊臣関白政権が確立する。
■ 1585年(天正13年)7月11日に、豊臣
秀吉(羽柴秀吉)は、 関白(かんぱく)に
宣下(せんげ)される(任じられる)。
● 秀吉は北陸を平定。
■ 秀吉の北陸平定。
● 1585年(天正13年)8月に、豊臣秀吉
(羽柴秀吉)は、 越中国(えっちゅうのくに、
現・富山県の相当地域)の佐々成政(さっさ
なりまさ)を降伏させ、北陸を平定する。
● 1585年(天正13年)8月に、 秀吉は、
越中国の佐々成政に対し征伐を開始し、
ほとんど戦うことなく、 8月25日に、成政
は剃髪(ていはつ)して、秀吉に降伏する
(北陸平定)。 織田信雄の仲介もあって、
秀吉は、成政を許し、 越中新川郡のみを
安堵(あんど)する (領地として与える)。
■ 1586年 (天正14年)。
● 秀吉は豊臣の姓を朝廷より
賜る。
■ 1586年(天正14年)9月に、豊臣秀吉
(羽柴秀吉)は、 正親町天皇 (おおぎまち
てんのう)より、「豊臣」(とよとみ)の姓を賜
(たまわ)る。
■ 1586年 (天正14年)。
● 家康が秀吉に臣従する。
■ 1586年(天正14年)10月に、徳川家康は、
豊臣秀吉に臣従する (秀吉は家康に臣従を
誓わせる)。
■ 1588年 (天正16年)。
● 上杉景勝が秀吉に臣従する。
■ 1588年(天正16年)に、直江 兼続が、上杉
景勝に付き従って、上洛する。
■ 1590年 (天正18年)。
● 秀吉が天下を統一する
(日本本土を統一する)。
■ 1590年(天正18年)7月に、豊臣秀吉は、
天下を統一する (日本本土の全国を統一す
る)。
● 秀吉が関東を平定。
■ 秀吉の関東平定。
● 1590年(天正18年)7月に、豊臣秀吉は、
小田原北条氏を降伏させ、関東を平定する。
● 秀吉が東北地方を平定。
■ 秀吉の奥羽制圧(奥羽仕置)。
● 1590年(天正18年)7月に、豊臣秀吉は、
奥羽(おうう、現・東北地方)も制圧した。
■ 1590年 (天正18年)。
● 家康が関東に移封となる。
■ 1590年(天正18年)8月に、徳川家康が、
関東に移り、江戸城に入る。
● 豊臣秀吉は、 徳川家康に中部地方より
関東地方への国替えを命じ(命令し)、家康
は、 1590年(天正18年)8月に、関東に
移り、江戸城に入る。
■ 1591年 (天正19年)。
● 秀吉は関白を甥の豊臣秀次
に譲り、太閤となる。
■ 1591年(天正19年)12月28日に、
豊臣秀吉は、関白の職を、甥(おい)の豊臣
秀次(とよとみひでつぐ)に譲る。
● 秀吉は太閤と呼ばれ、豊臣政権
の政治実権をもつ。
● 秀吉は、太閤(たいこう、前関白の尊称)と
呼ばれる。 秀吉は、豊臣政権の政治実権
は所持する。
■ 1592年 (天正20年)。
● 文禄の役が始まる。
■ 1592年(天正20年)3月に、秀吉により、
朝鮮出兵が開始される (文禄の役、1592
年〜1593年)。
● 文禄の役で、上杉景勝と直江
兼続が渡韓。
■ 1592年(天正20年)に、文禄の役で、
上杉景勝と直江 兼続が、渡韓する(朝鮮半島
へ出兵する)。
■ 1592年 (天正20年・文禄元年)。
● 天正年号から文禄年号に改元。
文禄年号:1592年ー 1596年。
■ 1592年(天正20年・文禄元年)に、
文禄( ぶんろく)年号に改元。
● 1592年(天正20年・文禄元年)12月8日に、
和暦の「天正」 (てんしょう、
天正 元年・1573年〜天正20年・1592年)
が、
和暦の「 文禄」 (ぶんろく、
文禄元年・1592年・12月 8日〜
文禄5年・ 1596年・10月27日) に
改元される。
■ 1593年(文禄 2年)。
● 秀吉夫人の淀の方(淀殿)が、
豊臣秀頼を産む。
■ 1593年(文禄2年)8月3日に、秀吉の側室
夫人の、淀の方(よどのかた、淀殿、茶々)は、
秀吉の男子の、豊臣秀頼 (とよとみひでより、
幼名:拾丸(ひろいまる)、拾(ひろい))を産む。
■ 1594年 (文禄3年)。
● 直江 兼続の嫡男の誕生。
■ 1594年(文禄3年)に、 直江 兼続の嫡男、
竹松(幼名、後、平八景明)が、 誕生する。
■ 1595年 (文禄4年)。
● 関白・豊臣秀次が自害する。
■ 1595年(文禄4年)7月15日に、 豊臣秀
吉は、 甥の関白秀次(生没年:1568年ー
1595年)を自害させる。
■ 1596年 (文禄5年・慶長元年)。
● 文禄年号から慶長年号に改元。
慶長年号:1596年ー 1615年。
■ 1596年(文禄5年・慶長元年)に、
慶長(けいちょう)年号に改元。
● 1596年(文禄5年・慶長元年)10月27日に、
和暦の「文禄」(ぶんろく 、
文禄元年・1592年〜文禄5年・ 1596年)
が、
和暦の「慶長」(けいちょう、
慶長 元年・1596年・10月27日〜
慶長20年・1615年・ 7月13日) に
改元される。
■ 1597年 (慶長2年)。
● 慶長の役が起こる。
■ 1597年(慶長2年)1月に、秀吉により、
再度、朝鮮出兵が開始される (慶長の役:
1597年〜1598年)。
■ 1598年 (慶長3年)。
● 家康の勢力を抑えるため、
秀吉は上杉景勝領地を徳川領
の北西に移す。
■ 1598年(慶長3年)に、 越後の大名の、
上杉景勝は、 豊臣秀吉によって、 会津
120万石に 加増移封される。
■ 1598年(慶長3年)に、 直江 兼続は、
豊臣秀吉より、 出羽・米沢を与えられる。
● 直江 兼続は、秀吉より出羽・米沢を与えら
れ、 越後より出羽・米沢に移り、その領地
の経営を行う。
■ 1598年 (慶長 3年)。
● 秀吉が、五大老・五奉行
の制度を定める。
■ 1598年(慶長3年)7月に、秀吉が、
五大老・五奉行の制度を定める (秀吉の
後継者である豊臣秀頼の体制を磐石にす
るため)。
● 徳川家康は、五大老の一人となる。
● 上杉景勝は、五大老の一人となる。
● 豊臣氏の五大老は、
徳川家康、前田利家(まえだとしいえ)、
毛利輝元(もうりてるもと)、宇喜多秀家(うき
たひでいえ)、上杉景勝(うえすぎかげかつ)
である。
■ 1598年 (慶長3年)。
● 豊臣秀吉が死去する。
■ 1598年(慶長3年)8月18日に、豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)が、
豊臣秀吉築木幡山伏見城 (こはたやま
ふしみじょう)で、死去する。 数え年
享年62歳であった。
● 幼い豊臣秀頼が豊臣氏当主
となる。
■ 豊臣秀吉死後、秀吉の遺言により、数え年
6歳の豊臣秀頼 (とよとみひでより、生没年:
1593年ー1615年)が、 豊臣氏本家(宗
家)の当主となる。 秀頼の生母の淀の方
(よどのかた、淀殿)が、豊臣秀頼の後見人
となる。
■ 1598年 (慶長 3年)。
● 朝鮮撤兵を行なう。
■ 1598年(慶長3年)8月に、豊臣秀吉死去
後、 徳川家康、前田利家が、朝鮮撤兵を
命じる。 同年12月にほぼ撤兵を完了する。
● 豊臣秀頼と淀の方が豊臣
大阪城の本丸に入る。
■ 1598年(慶長3年)に、秀吉が没する(死
去する)と、 秀吉の遺言により、 淀殿(茶
々)と豊臣秀頼は、 伏見城より、豊臣大阪
城の本丸に移る。
■ 1598年 (慶長 3年)。
● 豊臣秀吉死後、豊臣氏家臣の
文治派と武断派の対立が始ま
る。
■ 秀吉死後、 淀の方(よどのかた、淀殿、茶
々)淀殿(茶々)が信頼する奉行衆や文治派
の豊臣氏家臣 と、 おね(ねね)が信頼する
徳川家康や武断派の豊臣氏家臣は、豊臣氏
内で、対立する。
■ 1599年 (慶長 4年)。
● 豊臣氏大老の前田利家が、
病死する。
■ 1599年(慶長4年)3月に、豊臣政権の2人
の実力者の一人で豊臣氏大老の前田利家が、
病死する。
もう一人の実力者で豊臣氏大老の徳川
家康が、豊臣氏で、大きな勢力となる。
■ 1599年 (慶長 4年)。
● 石田三成が奉行職を解任され、
蟄居となる。
■ 1599年(慶長4年)3月に、前田利家病死、
後に、武断派大名による石田三成襲撃事件
が起こり、 石田三成は奉行職を解任され、
佐和山城で蟄居(ちっきょ)させられる。
■ 武断派大名による石田三成襲撃事件。
● 前田利家死去後、 文治派の大名の石田
三成は、 武断派の大名の福島正則、加藤
清正らに、襲撃され、 この事件により、豊
臣氏大老の家康の命(命令)により、三成は、
奉行職を解任され、三成の居城・佐和山城
で蟄居(ちっきょ)させられ、豊臣政権の中枢
から去る。
■ 1599年 (慶長 4年)。
● 家康による反徳川派の粛清。
■ 1599年(慶長4年)9月7日の徳川家康暗
殺未遂事件(徳川家康暗殺疑惑事件)に加
担したとみなされた人々が豊臣氏大老の家
康によって処罰される。
● 豊臣氏大老の前田氏が家康
の支配下に入る。
■ 1599年(慶長4年)10月に、加賀の前田
氏が、徳川氏の徳川家康の支配下に入る。
● 1599年(慶長4年)9月に、徳川家康は、
前田利長の家康暗殺計画ありとし、 加賀
征伐(前田征伐)を行おうとするが、10月に、
前田利長は母を人質として差し出したので、
家康は、加賀征伐(前田征伐)を取りやめる。
これにより、前田氏は、徳川氏の徳川
家康の支配下に組み込まれる。
■ 1600年 (慶長 5年)。
● 家康は、上杉景勝討伐軍を率い
て、大阪城を出て、会津へ向う。
■ 1600年(慶長5年)4月に、 徳川家康が、
会津(あいづ)の、上杉景勝(うえすぎかげか
つ)からの直江状 (なおえじょう、景勝の重
臣の直江兼続の家康弾劾状)を受け取り激
怒し、 家康は、上杉景勝が豊臣氏(豊臣政
権)に謀反(むほん)ありとして、 同年5月に、
上杉景勝討伐を宣言する。
■ 1600年(慶長5年)6月に、徳川家康は、
親徳川派(徳川家康支持)の大名で組織した、
上杉景勝討伐軍(会津征伐軍)を率いて、
会津へ向かい、大阪を出発する。
● 途中、家康は、 伏見城(ふしみじょう、豊臣
秀吉築・木幡山伏見城)に寄り、 1600年
(慶長5年)6月18日には、上杉景勝討伐軍
(会津征伐軍)を率いて、伏見を出発し、
1600年(慶長5年)7月1日に、江戸城に到
着する。
■ 1600年 (慶長 5年)。
● 奉行衆や毛利輝元が、豊臣
大阪城で、挙兵する。
■ 1600年(慶長5年)7月に、石田三成ら奉行
衆や毛利輝元が、挙兵し、全国の大名へ呼び
かけ、 反徳川家康の軍を集める。
■ 1600年 (慶長 5年)。
● 家康は、江戸城で、動向を探る。
■ 1600年(慶長5年)6月に、徳川家康は、
親家康派(家康支持)の大名で組織した、
上杉景勝討伐軍(会津征伐軍)を率いて、
大阪を出発し、会津へ向かい、1600年
(慶長5年)7月1日に、江戸城に到着する。
● 徳川家康は、江戸城に留まり、反徳川方
や親徳川方の情勢の分析を行い、徳川方
に多くの指示を出し、徳川方の味方を増や
すために、多数の文を各所に送る。
■ 1600年 (慶長 5年)。
● 奉行衆や毛利輝元が、豊臣
大阪城で、挙兵する。
■ 1600年(慶長5年)7月に、奉行衆や毛利
輝元が、挙兵し、全国の大名へ呼びかけ、
反徳川の軍を集める。
■ 1600年 (慶長 5年)。
● 家康は、援軍を引き連れて、
徳川方がいる美濃へ向かう。
■ 1600年(慶長5年)9月1日に、徳川家康
は、 徳川方が戦っている美濃国に向かっ
て、徳川軍の援軍を引きつれ、江戸城を出
立する。
● TKKI カナヤマ著 直江兼続ガイドブック。
■ 1600年 (慶長 5年)。
● 関が原の戦い。
■ 「慶長5年の天下分け目の戦い」
の中心的な戦いの「関ヶ原の戦い」は、
1600年(慶長5年)8月から9月にかけて、
美濃国(みののくに、現・岐阜県南部)の
関ヶ原付近で、
奉行衆・毛利方の西軍主力本隊 と、
徳川方の東軍主力本隊 とが、
戦った合戦であり、
西軍が敗北し、東軍が勝利を得る。
● 関が原の戦いの決戦。
■ 関が原の戦いの決戦。
● 関が原の戦い(大垣・山中の戦い)の、
1600年(慶長5年)9月15日の決戦(山中
の戦い)では、
徳川家康の率いる親徳川の徳川方の大名
の東軍本隊 と、
石田三成らの率いる反徳川の奉行衆・毛利
方の大名の西軍本隊とが、
美濃国(みののくに、現・岐阜県南部)の
山中(やまなか)村付近で決戦を行ない、
半日で終わり、
西軍が敗北し、東軍が勝利を得る。
■ 1600年 (慶長 5年)。
● 家康による「慶長5年の天下分
け目の戦い」の戦後処理。
■ 1600年(慶長5年)の、「慶長5年の天下分
け目の戦い」後、 徳川家康が、 勝った徳川
方の東軍に与(くみ)した大名の加増等を行い、
負けた奉行衆・毛利方の西軍に与(くみ)した
大名の改易、減封等の処分を行う。
■ 1601年 (慶長6年)。
● 西軍の上杉景勝は出羽・
米沢30万石に減封となる。
■ 1601年(慶長6年)に、 西軍に与(くみ)し
た、上杉景勝は、 豊臣家大老の徳川家康
により、 会津120万石から、 出羽・米沢
30万石に 移封・減封される。
● 1601年(慶長6年)に、出羽・米沢は、
上杉家領となり、 直江兼続は、引き続き、
その経営をまかされる。
■ 1603年 (慶長 8年)。
● 家康は、江戸幕府を開く。
● 家康は、江戸幕府の初代将軍
となる。
● 江戸幕府が始まる。
■ 1603年(慶長8年)に、 徳川家康が、
征夷大将軍となり、江戸幕府(= 徳川幕府)を
開く。 家康が江戸幕府の初代将軍となる。
■ 1605年 (慶長10年)。
● 家康は将軍職を徳川秀忠に
譲る。
● 将軍職の徳川氏世襲。
■ 1605年(慶長10年)に、 徳川家康が、
江戸幕府の将軍職を、家康の男子の徳川
秀忠に譲る。
これによって、徳川氏が将軍職を代々
世襲することを天下に示す。
■ 1608年 (慶長13年)。
■ 1608年(慶長13年)に、直江兼続は、
直江重光 と称す。
● TKKI カナヤマ著 直江 兼続ガイドブック。
□ 直江 兼続ガイドブックへ。
□ 日本史辞典の先頭ページへ。
■ 1615年 (慶長20年)。
● 大阪夏の陣が起こる。
● 豊臣氏が滅亡する。
■ 1615年(慶長20年)4月に、 大阪夏の陣
が起こり、5月に、豊臣氏が滅亡する。
● 直江兼続の嫡男が死去。
■ 1615年(慶長20年)に、直江 兼続 (直江重光)
の嫡男、平八景明が、死去する。
■ 1615年 (慶長20年・元和元年)。
● 慶長年号から元和年号に改元。
元和年号:1615年ー 1624年。
■ 1615年(慶長20年・元和 元年)に、
元和(げんな)年号に改元。
● 1615年(慶長20年・元和 元年)7月13日に、
和暦の「慶長」(けいちょう、
慶長元年・1596年〜慶長20年・1615年)
が、
和暦の「元和」(げんな、
元和 元年・1615年・ 7月13日〜
元和10年・1624年・ 2月30日) に
改元される。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
■ 1616年 (元和2年)。
● 徳川家康が死去する。
■ 1616年(元和2年)4月17日に、 徳川家
康が、死去する。 (数え年)享年75歳で
あった。
■ 1619年 (元和5年)。
● 直江兼続が死去する。
■ 1619年(元和5年)に、 直江 兼続(直江
重光)が、死去する。
● 1619年(元和5年)に、 直江 兼続は、
上杉氏の出羽・米沢藩の家老として、死去す
る。
● TKKI カナヤマ著 直江 兼続ガイドブック。
■ 1623年 (元和9年)。
● 上杉 景勝が死去する。
■ 1623年(元和9年)に、
上杉 景勝(かげかつ)が、死去する。
● TKKI カナヤマ著 直江 兼続ガイドブック。
□ 直江兼続ガイドブックへ。
◆ 直江兼続 関連
出来事
(概要・総合)。
〇 近世日本の武将、直江兼続 (なおえかねつぐ)、
上、ドラマ 「天地人」での直江兼続フォト)
◆ 直江兼続 関連
出来事
(概要・各事柄)。
□ 直江兼続の生涯の概要。
◆ 直江 兼続の生涯の概要。
■ 直江 兼続の生涯の概要。
■ 直江 兼続 (なおえ かねつぐ)は、
越後・坂戸(さかど)城主の長尾 政景(なが
おまさかげ)の家臣である樋口 兼豊 (惣右
衛門)の長男として、 1560年(永禄3年)
に、 越後国(えちご、現・新潟県)の上田庄
(うえだのしょう)で、誕生する。
● 直江 兼続 は、 初め、越後・上田庄の母
の元で暮らし、 その後、越後・上田庄の領
主となった、政景の子、上杉景勝の家臣と
して仕える。
● 直江 兼続は、 越後の春日山城で、上杉
景勝と共に、上杉謙信にも仕え、1578年
(天正6年)に起こった上杉謙信死後の内乱
で上杉景勝を勝たせ、1579年(天正7年)
に、越後国主となった上杉景勝の重臣とな
る。
● 直江 兼続は、
1581年(天正9年)に直江家を継承し、
1598年(慶長3年)に、秀吉より出羽・米
沢を与えられ、 越後より出羽・米沢に移り
その領地の経営を行い、1601年(慶長6
年)に、出羽・米沢は、上杉家領となり、引
き続き、その経営をまかされ、1619年(元
和5年)に、上杉家の出羽・米沢藩30万石
の家老として、死去する。
● TKKI カナヤマ著 直江 兼続ガイドブック。
□ 直江兼続ガイドブックへ。
『 あなたのハートには
何が残りましたか? 』。
以 上。