巨乳を愛し、貧乳を慈しみ、手のひらサイズに酔いしれる乳ロマンチストであるところのYU-SHOWさんが、何をもって「巨乳」「貧乳」と称するかについて一言申し上げたき次第。(各方面より)
我々はしばし、おっぱいが巨乳であるか貧乳であるかという線引きを、カップサイズや胸囲の数値だけで判断してしまいがちですが、よくよく考えてみれば、それはあまり適切な区別とはいえません。どんな巨乳であれ、地球規模で考えればごく些細な粒肉に過ぎませんし、同じく貧乳にせよ、ミクロの世界からすれば広大な銀河系に等しいわけですから。
だから、おっぱいの大小を語る上では、数値などの絶対的基準にとらわれては、結局そのおっぱいが持つ本質的な魅力を見失ってしまう恐れがあるのです。
では、なにをもって巨乳とするか。なにをもって貧乳とするか。
俺が思うに、巨乳というのは、「手のひらからこぼれ落ちる」レベルの肉量を持つおっぱいがそれに該当するのではないかと思います。
オッパイのサイズを大別すると、巨乳と、手のひらサイズ以下の二種類に分けられます。おっぱいとは本来揉むためのものであり、その際にもみゅもみゅを行う手のひらからこぼれてしまう状態、いわばオーバーロードを生じさせるような類のおっぱいについて、その驚異的な威容を表現するために、「巨」という言葉は用いられるべきなのではないでしょうか。
また、この区分は厳密なものではありません。手のひらからこぼれるという状態が発生するならば、CカップだろうとBカップだろうとかまわないのです。それはたとえば、そのおっぱいをもみゅもみゅする手のひらそのものが小さい場合。具体的な例をあげてみましょう。
<状況例>
一緒にお風呂に入ってる中学二年生の姉と小学二年生の妹。最近とみに膨らんできた(とはいえまだまだたゆんたゆんというほどではない)姉のおっぱいを見る妹は、当然のごとくつるぺた。おっぱいだけでなく、体全体が小さいのですが、そんな小さな手のひらをもって、姉の中学生にしてはそれなりに大きめのおっぱいに、いたずら心でもみゅもみゅ攻撃。
「うわー、おねーちゃん、おっぱいおっきー」「きゃっ、こ、こらっ、なにやってんのあんたは!」「ゆかのてからはみでてきちゃうよー。おねーちゃんみたいなひとのこと、きょにゅー、っていうんでしょ」「べ、べつにあたし、そんなおっきく……んあっ」
このような状況下であれば、たとえ姉のカップが実質Bであろうとも、巨乳という表現は用いる事が可能、それどころかむしろ積極的に巨乳と表現したくなるわけです。しかし、巨乳か否かを厳密にサイズで区分してしまっては、そんな幸せな可能性が失われてしまうことも考えられます。スペックのみにとらわれては、真なる幸せを失ってしまいかねないということが、このサンプルからもおわかりいただける事でしょう。
では、貧乳はどうでしょうか。
先ほども申したとおり、おっぱいの区分は、手のひらに収まるか否かで二分されます。すなわち、巨乳かそれ以外。ならば、何をもって「貧乳」という表現は成立するのか。
これは、「そのおっぱいの持ち主の女の子が、自分の胸の小ささに何らかのコンプレックス・こだわりの類を抱いているか否か」のみで区別できると断言してしまってよいと思います。
よく考えてみましょう。「貧」という言葉は、相対的な表現でしか用いられません。貧しい、それは、何と比べてか。そう、富むという概念が存在しない限り、また貧しいという状態も存在しえないのです。
つるぺた幼女やAカップならば、いちいち議論するまでもなく、貧乳のカテゴリに入れることができます。しかし、それが微妙な範囲のサイズである場合はどうでしょう。手のひらからこぼれるほどじゃない。大きくはない。が、これは果たして、貧乳と言えるか否か。そこで、相対的表現としての「貧乳」が活きてくるわけです。
つまり、俺が何を言いたかったのかというと、おっぱいの大きさというのは所詮人間の主観であり、絶対的な区分は難しいので、サイズのみにこだわった区分はよくないことですよー、と宮崎吐夢ばりに言いたかったのです。カップじゃない。ハートだ。同じCカップでも巨乳にも貧乳にもなりえるという人間の表現力の可能性宇宙の偉大さこそが大事なんだ!
許すまじ(と思ってたけれどこれはこれでまあいいかという気分にも。妥協する世代に突入しつつあることを痛感しはじめた今日この頃のYU-SHOWです)
あの感動の答辞シーンの間に、CM(それもマツケンサンバ)を挟むという暴挙! ありえん! つーか、もし仮にそういう崩し効果を狙ったものだったとしたら、予想以上の効果ですよ。笑っていいのか。あのシーンは笑うべきところなのか。というか笑ってしまったのですが、思わず。