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6月1日(日)
この地方で、一番でかい農場を営んでいた家(仮に伊藤さんとしておく)が離農した。
俺は農業を営んでいた。伊藤さんちと比べれば、でかいというわけではなかった。片手間にやってる兼業農家だったが(これだけでは食っていけない)、それなりには自分の仕事に自信があったし、農業に対して喜びみたいなものも覚えていた。
伊藤さんちが離農することに関しては、それなりに衝撃があった。ちょっとした近所づきあいがなかったわけでもない。伊藤さんちは卸に顔が利くから、ウチでふだん扱わない苗を回してもらったこともあったし、ウチで作っている作物に関しては、逆にむこうへ回しもした。
ただ、特別親密というわけではなかった。ごく普通の、あたりさわりのない近所づきあいと言ってよかった。伊藤さんちが農業をやめることによって、ウチや、近隣の農家に影響がないわけではなかったが、突き詰めて考えれば、結局はよその事と思うべきなのだと思った。
伊藤さんちの畑を誰が買い取ったとか、卸売りとか、農協のこととか、近所で伊藤さんの話題は絶えなかったが、根本的な変化は、何もなかった。結局は、自分の畑を耕すだけなのだった。
その日も、俺は畑を耕していた。伊藤さんちでは、しいたけをたくさん作っていた。ウチでは作ったことはなかった。ウチは、あまり手を広げず、ウチならではの作物を作り続けてきた。
これからも、それでいいと思った。伊藤さんという、大きな農家が近所にあった。そう思うだけでいい。
ふと気がつくと、畑のあぜ道から、こちらをじっと見つめている少女がいた。どこの子だろうと思い、記憶をたどった。おおきなバツ印のついた、特徴的な帽子。先が丸くなったポニーテール。思い出した。伊藤さんちの子だった。
どうしたのかと声をかけようとして、ふと戸惑った。面識はない。この子が通学している様子や、ここらから自転車で30分のコンビニにアイスを買いに行く姿を何度か見かけただけだった。俺のことは知っていると思ったが、どうしてここにいるのかは分からなかった。
俺が戸惑っているうちに、その子がとてて……と近づいてきた。手に、中身がいっぱい詰まった、かなり大きなビニール袋を握っていた。
「これ」
ビニール袋を差し出してきた。袋の裾から中身が見える。しいたけ。生ぼせの、極上物だろう。伊藤さんちの山(畑と両方持っていた)で作っていたものだ。
「おとーさんから」
それはきっと、引越しの前の挨拶まわりのようなものだったのだろう。本人が回らず、この子に配らせるあたりが、伊藤さんらしいと思った。
「ああ、どうもありがとう。……伊藤さんは、まだこっちに?」
「今、引越しのトラックが来る」
そうか、と返事をして、その子に、よろしく伝えてくれと言っておいた。手渡されたしいたけの袋を畑の脇に置いておくと、再び農作業にとりかかった。挨拶に伺おうか、と思わないでもなかった。しかし、それをすることは躊躇われた。
伊藤さんは、何を思って離農を決意したのだろう、とふと思った。なぜ、耕すのか。俺は、どうして畑を耕しているのだろう。そして、どういうときに、それをするのをやめることになるのだろうか。
そんなことを思うと、単に近所づきあいの一環でご挨拶を、という気にはなれなくなったのだった。そういうものにうるさい人ではなかった(もしそうなら、自分でしいたけを持ってくる)。気配りが足りないと思われるようなこともないだろう。
すぐに帰るだろうと思っていたその子が、まだあぜ道に留まっていた。来たときと同じように、こちらをじっと見つめている。どうしたのだろう、と思った。
その子の様子を見た。俺というよりは、畑や、農作業そのものに注意を寄せているようだった。畑も農作業も、家で見慣れているはずだった。なんとなく、わかるような気がした。伊藤さんがこの後、どうするのかは分からない。再び農業に携わることがあるかもしれない。しかし、今、伊藤さんは畑を手放すのだった。今まで、ひたすらに耕しつづけてきた畑を。この子は、そのことを受け止めているはずだった。
俺の視線に気づいたその子は、少しばつが悪そうにした。帰ろうと、こちらに背を向けようとしたそのとき、俺は思わず声をかけていた。
「待て。ウチの作物を持っていけ」
たまたま用意してあった大きいざるを持ってきて、畑に成っている作物を盛った。うまそうなところを。俺が、自信を持って人に食わせられるものを。
呼ばれて、こちらに来ていたその子は、ちょっとぎこちなさそうにしながらも、興味深そうに作物を見つめていた。
「とれたての妹だ。うまいぞ」
まだ洗ってもいなかったが、もう食べられそうなところを選び、俺はその子の口元に妹ネタを寄せた。少しだけ考えたようだったが、その子は、ぱくっと妹を一口にした。
「うまいか」
「うまい」
ちょっと、微妙な顔をしていた。本当にうまいと思ったかどうかは分からない。今作っている妹は、少しだけクセがあった。苦味ばしった寝取られの味が混じる。それがいいという人も多いが、好き嫌いは分かれるはずだ。
「もういいぞ。行け」
妹を山ほど盛ったざるを持たせて、俺はその子を追いやった。軽くおじぎをして、その子はぱたぱたと走り去っていった。それからしばらくして、滅多に人の通らない近くの国道を、一台のでかいトラックが通り過ぎていった。俺は、作業に手一杯だったので、トラックの方は向かなかった。
翌日、農作業を始める前、俺はなんとなく、伊藤さんちの耕地に脚を寄せた。そこはもう、ただの平地だった。何もない。かつては、作物という名のネタで覆われていた、広大な畑だった。黄金色の、地の恵み。それを、伊藤さんは黙々と作っていたのだった。
その日の晩飯は、しいたけを焼くことにした。うまかった。俺の作物は、これだけの味を出しているか。そう気になった。伊藤さんが、最後に作った作物だった。彼が、何を思って作物を作ってきたかは分からない。ただ、そこに作物がある。それだけは、確かなことだった。そして、明日から、それはもうなくなるということも。
別れの味だ。俺は、そう思った。
丸焼きにした、おいしそうなしいたけちゃんを、俺は貪るように頬張った。