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日のすきま セレクト集(2001年3月〜2002年4月)

■ 阿武隈以前(船橋時代)■

2001/03/05(月)   ヒカルと古事記

 宇多田の新曲を仕事中のカーラジオで聴いてなぜだか古事記のことを思い感極まっちまった。よくよく感じてみたらみんな近代的閉塞じゃねえか。売れないことがなぜ悪い。無関係でいることの凶暴さ。春だというのに自由な呼気吐気できない。もっと客観的にみる訓練を。生活の実用をやるにつけ言葉のメタメタ度合いが減ってきちまった。いちどおれのなかの絡み枝を全部抜き取り、さっぱり剪定して身軽になって、もう一度芽吹くことを期待しよう。受身であること。古事記を読もう。

2001/03/06(火)   夜明けの「ぬ」

 夜明けに起きて、今日の段取りが頭を巡る。便所で下血の量を確認し、珈琲を点て、窓が白むのを眺める。やうやうあけゆくやまぎわ。やっぱ風景には山がなければの。それでも自転車で崖っぷちを走ればかすかに富士が見えることがある。驚くほどの大きさだ。
 さてそろそろ「ぬ」を起こさねばの。

2001/03/06(火)   教授と仕事

 議員の藪の中に侵入者防止のフェンスを作ることになっているのだが、時間になってもフェンス屋がこない。雑木林の下で待っていると来たのは教授だった。教授と基礎ブロックを運ぶ。法面の藪を掻き分けて20kgほどのブロックを17個。腕が痛くなった。半袖になってやった。半袖は今年はじめてだ。教授が連れてきた手元は、前歯が上下抜けていたが、実に謙虚ないい顔をしたオヤジだった。

2001/03/18(日)   みそらのひばり

 四六時中アタマの中で喋っている奴がいる。
 もちろんオレなのだが、本当は他の誰かと考えた方がいいんじゃないか。

 午前中雨。マンション植栽。どろどろになる。
 昼頃から初夏の日差し。半袖でサザンカ植える。

 ヒバリが揚がった。
 ヒバリの声を空の真ん中に聴いて「いいなあ」と思っている奴が本当のオレなんじゃないか。

 四六時中アタマの中でケンカしているのは他人なんだ。

 うらうらに照れる春日に雲雀あがり…

 この家持はオレなんだ。
 そう思うと腑に落ちるものがある。

2001/03/19(月)   花見にこような

 爆音。重量。ディーゼルの焦げた臭い。
 旧式のローラーをかけて整地する。身体を倒して方向を変え、レバーチェンジで前進後退。満開の梅と猫柳の下。桜のつぼみのふくらんだ下。
 汗をかいたシャツの替えを妻に届けてもらう。現場は自宅から自転車で10分のところ。
 緑地のベンチで妻と弁当を食べる。お茶を分け合う。

 これからのこと。これまでのこと。

 工事終わったら花見にこような。

2001/04/02(月)  春は、ええのぉ・・・。

 Win2kもDELLの適切なサポートで復旧した。よかった。原因は家人がOS上でOSを再インストールしようとしたかららしい。なんてこった。
 機械は自己言及的な操作を受け付けない。主体が主体を再構成しようとするような操作は、論理矛盾としてはねられ、機械は原始状態に退行(退避)してしまう。
 同時にメタレベルを抱えることが出来るか否か、それが機械が「こころ」を持てるかどうかの境だ。逆に言えば同時にメタレベルを抱えることが「こころ」の状態だと言える。主体が主体を再構成してしまうこと、自己言及してしまうこと、この世はあの世、今がどこかにつながる感覚、生死の形式を裏切る過剰さ、みな、これらは、わたしがわたしであることの根っこだ。わたしの根っこは、わたしをぺろりとひっくり返し、OSがわたしたぁ、剛毅なことよ、ふふふ、、、と。
 桜が咲く頃、木の芽時、なあんにもない冷たい虚空と、うす桃色の性とが、たがを外して戯れて、春は、ええのぉ・・・。

2001/04/03(火)   思い出してみろ

 今日は早出。5時に起き、家人に弁当作らせ、1時間半のドライブして、大きな沼のほとりの現場に着いた。芝張り前の整地除草作業。芝張りは整地がいのちだ。不陸(でこぼこ)があると仕上がりが見苦しい上に、水がたまったりして芝の生育に悪い。
 それにしても正月から、ほとんど木に入っていない。
 真っ暗な木の懐から枝伝いに上り、樹冠から透かせて空と風を入れてくる。地上に降りて黙って離れ、振り返ってみた自分の木が、美しく柔らかに光を受け、放たれているのを確かめた時の、充実感といったらない。木が好きだ。
 考えて見たらあたしは水も好きだ。水の音や水の戯れ、身体を包む浮力。匂い。
 あたしは火も好きだ。好きなときに好きなだけ焚き火ができ、それをみつめている。いつの間にか夕闇が下り、あっという間にいちにちが終わる。そんな暮らしが理想だ。

 赤ん坊は生まれたかったのではなく、さなぎが蝶になるように、どうしようもない分断があって、場が満ちて生まれたのだ。選択する主体などない。おまえはおまえが生まれるときどこにいた。おまえはどこにもいなかった。そのことを思い出してみろ。

2001/04/09(月)   おまえ、じゃま。

 半袖一枚でダンボールの上に昼寝していたらすっかり日焼けしてしまった。湯船に沈んでひりついた。
 これからの季節はいちばんすきな季節だ。なんだか再生した気持ちになる。
 今日も残業。明日も早出残業。両膝が妙に浮腫んでいる。

 現場への行き帰り、紙のような軽トラで高速道ビリビリ走りながら考えた。
 たぶん全世界の7割か8割がオレと大差ない人生を送っているのだろう。
 そしてそれぞれのオレが自分を固有の主人公と信じて疑わないのだろう。
 その主人公どうしが生きたり死んだり子供を産んだりするのは一体なんなのか。

 あるいはこう考える。
 主人公は本当はたったひとりしかいない。
 オレたちはその主人公がランダムに見る夢にすぎない。
 あるいはランダムな個物が主人公という夢をみている。
 ともかく「主人公」「主体」という考えの場所をもったのはなぜなのか。

 なぜだろね。
 今日の現場の土はあまりに堅く、ユンボで粉状に砕いてからでないと埋め戻せなかった。ニュータウンとかいう分譲地の土壌はこんなもんだ。ミミズもモグラも虫もいない。

 「主体」「主人公」と硬直化していると死んだ土になるかもね。

 おい、主人公。

 おまえ、じゃま。

2001/04/15(日)   夢の亀裂

 今日はゆっくり過ごした。アパートの隣の部屋の幼児がばたばた走り回ってうるさかったが、午後の光などみながら昼寝をした。

 夢はいつも哀しい。私の意識の始まりには何かの欠落があったのだろう。その欠落の周辺で懸命に意識を尖らせている自分がいる。以前帰省した折、母親がひょんなことから「おまえは堕ろすはずのこどもだった」と漏らしたことがある。生活が苦しくて、とうてい育てられなかったのだという。それを聴いてなんとなく納得した部分がある。拭いきれない生の不全感の原因のような気がした。

 けれど原因は知ってしまえばもうただの事象で、空が青い、水が流れると大差がない。私は私という30数年の事象の原因を知ることで、自由になることが出来る。空は青く、水は流れ、私は私とは無関係にある。そのことを知ってから、夢の中よりも現実の方が格段に幅が広いということが解った。なぜなら現実は夢よりももっと深い夢だからだ。

 はじまりの欠落は、きっと世界という夢の亀裂だったのだろう。ならば私は世界よりももっと深く大きな夢をみればよい。父も母も世界もはじまりから生み出してやる。

2001/04/16(月)   春は 

      春はネエちゃんがきれいだなぁ…。

2001/04/18(水) 22:12:00   明日があるさ。

 雨が降っています。雨が降っています。アヴェ・マリア。

 身の苦しみ。日の苦しみ。ビールの苦み。(かあ! たまんねえ)

 ふざけんな。こんちくしょう。明日があるさ。アヴェ・マリア。

2001/04/19(木) 21:50:00  螺旋

 今日は小雨の中、庭の山門の杉皮葺き替え。古い押縁竹を丁寧に取り外しながら、構造を理解し、作り直す。夢中になる。
 街にツツジの花が咲き出した。高くにはハナミズキ。夢中になる。
 日の底をつなぐような毎日。それでも自分を忘れる時がある。言葉になった時だ。

 言葉のはじまり。
 そこでお会いしましたね。

 まいにち毎日が螺旋。

2001/04/20(金)   総じてもて存知せざるなり

 夏日。家々が増殖しなくてよかった。花々が酔わなくてよかった。見知らぬ女を犯さなくてよかった。津波がこない。なびけこの山。

 山門の葺き替えが捗らない。10年ものはそれなりに手数が必要だ。黙れメス犬。

 灯台守と結婚した。津波がくるから。夜明けには。津波がくるから。

 灯台守は海を知らない。海を理解しない。魚だからだ。

 私は青空の他力。此岸の似鳥。

 とても地獄は一定すみかぞかし。さらに後悔すべからず。

2001/04/21(土)   毎日それをする

 小雨。6時過ぎ、山門の葺き替えようやく終わる。ひとりで3日かかったことになる。嫌な顔もせず、ねぎらってくれた好い旦那だった。
 今日の気温は昨日と16℃違うという。ゴム靴を忘れたので、足袋の上にコンビニ袋かぶせて雨に濡れる。
 杉皮の防水力は見事だ。苔の生えた表面のぼろぼろの皮を剥ぐと、一枚下は、まだ真新しい色をしている。その色を残して新しい皮を追加し、青竹で押さえ、ビスで止め、竹と竹の交点を墨縄で化粧縛りする。
 ひとりの仕事はいい。物との関係に没入出来る。その奥で、何かの普遍性に触れた気になることがある。持続できずにすぐに消えてしまうが。

 日をなぞること。日をなぞるのが苦痛な日もある。楽しい日もある。
 なぞるという行為は何なのか。わからぬが毎日それをする。
 日をなぞるのではなく、日を超越したいと思うこころはどこからくるのか。

 考えるとき、自分自身の特別な考えとは思わずに、世界の7〜8割は大差なく同じことを考えていると思うこと。その方がリアリテイがある。

 各個が持っている意識の束。みなそうだ。危うい。

2001/05/09(水)   咲く花

 いちにちが終わる
 たくさんの色
 いくどもみた
 そっちへは
 行くな

 伸びる草木
 咲く花
 また今年も

 花びらを食べる
 棘のある身体
 地べたに横たえ

 いちにちがおわる
 どんな記憶も
 空の嘘

 そっちへはゆくな
 空の嘘
 海の嘘
 たくさんの色
 ここで染められ
 咲く花よ

2001/05/12(土)   御簾垣

 よい天気。やっと初夏らしい風と光。
 坪庭を囲う御簾垣制作に入る。御簾垣は初めて作るので事前に参考書をじっくり読んだ。
 ほぞ穴を掘る丸ノミが欠けていてどうしようもない。なんとかだましだまし使った。
 5月の青い空の下、終日モノに向かい合う。晒し竹、焼丸太、青竹、土、五郎太石、丸ノミ、カナヅチ、ドリル、ビス、二丁スコ、突き棒、水平器、……。

2001/05/15(火)   海の匂いがする

 夜になって南の窓から深い海の匂いがする。貝の匂い。大海原がある。ときおり風の走り抜け方でこの高台にも海が寄せる。霧笛が聞こえる。幻聴のようだ。雨が来るのだろう。
 日に炙られながら御簾垣完成。坪庭にはモミジを入れた。

2001/05/16(水)   エゴの花

 仕事を終えて自転車で帰ると、畑道の一部が雪で染まっているのだった。車輪を止めるとたくさんの白い花。見上げるとエゴの花だ。満開。間断なく首を落とす。ぽとりぽとりと。十数年前、最初の失業で田舎に引きこもっていた時に、近くの河原でよくこの花の落ちるのを見ていた。人の時間とは無関係の出来事の出来事。ひとしきり眺めると不思議に元気をもらって帰った。おれが死んでも、今いるすべてのひとが死んでも、この木はこんなふうに花を落とし続けるのだろうな。それはやっぱりいいものだ。

2001/05/18(金)   植木屋

 仕事帰りのトラックの窓から肘を出し、夕陽の信号を眺めていると、この国道を地下足袋履いたオヤジが、ぱらぱら踊るように手のひらを頭上で回転させながら、前屈みで小走りに走り抜けてゆく。尋常じゃない。姿を追うと、向かい側に赤子を抱えた嫁がいて、その孫に向かって戯けながら4車線道路を踊り抜けていたのだ。腰には木鋏。植木屋だ。孫の前で百面相。植木屋だ。

2001/05/19(土)   夕立

 夕立の中自転車で帰る。雷。サイレン。走るひと。世間は大騒ぎだ。鳥打ち帽を目深に被り、向こうの太陽みながらゆったり帰る。住宅街を抜けて畑道。ばしゃばしゃざわざわ誰かが喋っている。キャベツだ。大葉に雨粒を転がし、盛んに何か喋っている。エゴの花はあれからまだ間断なく花の首ごと落としている。畑土はじゅうじゅう天の水を吸っていて、これもまた違う言葉だ。夕立、雷、生き物の言葉。リセットする世界。風呂上がりに発泡酒飲んで、5月言祝ぐ。

2001/05/23(水)    緑色のガラス玉

 雨の中、桜の大木にかじりつき剪定。ゴム足袋の爪先に力を入れて、左手、右足、右手、左足、と、それぞれの支持力を確認しながら上る。
 と、手に「にゅる」と粘つくものがある。確認したいが、手を離したら落ちる。木の股に膝裏をかけて目線を上げる。見るとナメクジだ。たくさんいる。

 雨の中ひとり桜と重力とナメクジと格闘していると、緑色のガラス玉の中に入ったようで、オレはいま幸せなのではないかと考えた。

2001/05/25(金)    苦しんで死のう

 いい天気。今日も小学校の高木剪定。
 グランドでは運動会の練習。怒鳴る先生は相変わらずだが、マスゲームの曲調が格段に明るくなった。屈託なく動き回るこどもたち。
 樹冠を切り落として明るくなった空に頭を出し、しばし眺める。
 オレは運動会は大嫌いだった。人前で何かするのが苦手だった。
 とおい遠い他人のような記憶。

  …………………………………………………………

 小山俊一の隠遁について考えている。
 「個と全体性」という思考の枠の可能性と限界についてだ。
 小山は「タチ」に従ったと言うが、隠遁によって暴力的に己の「個と全体性」を引き寄せることで、戦争の世紀のど真ん中を潜ったことの落とし前をつけようとしたのではないか。核戦争後の世界を想像することで、人間のデーモニッシュな部分を癒そうとしたところがある。ほんとうはすべて反転出来るのではないか。私と世界という枠組は、私でも世界でもない寂しい第三領域を拡張することで強固になる。ヘッジファンドが森の湖畔の豪邸で、世界中の情報網からの連絡を受けてカネを動かしているようなものだ。寂しさ、虚しさは失せない。

 『数えて六十になった。銘を二つつくった。(1)おれは<人間>ではなく<おれ>である。(2)陋巷で窮死する。』(アイゲン通信1)
 『いつか外を歩いていて、不意に<苦しんで死のう>という考えが浮かんだ。苦しんで死ねばいいのだ。おれも世界もその位のものだ、そう思ったのだ。』
                           (プソイド通信4)

 この言葉だ。この言葉にすべてを反転する契機がある。
 ここをもっと拡張できれば何かがはじまる。

2001/05/28(月)   草むしり

 今日は無心に草むしり。草葉にきのうの雨滴。太陽が反射してしぼれる。

 エウロパに立つ人が、巨大な木星の渦を見ている。

 ゆうべのテレビの映像が妙に焼き付いている。
 月に立って昇る地球を見るのもいいだろう。
 大気がないから直に宇宙だ。

 宇宙ステーションの位置から斜めに地表を見ると、うすく薄い大気がゼリーのように見える。空をこんな角度で見たことがなかった。まるでシャーレの中の微生物のように雲が湧いていた。

 その雲が降らした雨に濡れた雑草を無心にむしる。太陽は私の背中と火星を一度に射す。どちらもまわる。太陽も銀河をまわる。銀河も宇宙をまわる。宇宙はヒモになって螺旋を形成しDNAになる。DNA蛙飛び込む水の音。

 イメージが関係を変える。私は世界ではなくイメージの中にいる。なんと危うい。けれどこのシステムの中で、新しい巨大なイメージ以外に何が現実の関係を変えるだろう。だがなんと危うい。そしてなんと危ういと教え込まれてきた。

 草葉にきのうの雨滴。太陽が反射してしぼれる。今日は無心に草むしり。

2001/06/06(水)   小山俊一

 今日はズル休みをした。雨の窓辺で一日、小山俊一を読んでいた。
 Google検索をしてみた。
 「小山俊一」はソフトプログラマーだったり、大学のテニス部員だったり、不動産屋だったり、金融関連出版社の社長だったりした。
 わずかに「EX-POST通信」「プソイド通信」と吉本の「情況への発言」がからんでくるだけだった。
 こうしてだんだん忘れ去られてゆくのだろう。魚売りの老婆や暦売りの男、印半纏のあんま、片足の男、ネゴロのおばんちゃ…、これら小山が記した受苦のものたちもみな忘れ去られてゆくのだろう。

 世界と魂というのはどういう位相にあるものなのか。あるのは(残るのは)言葉で、こころで、群れであるだけだ。そしてその形式をひきついで、新たな、言葉とこころと群れが形成される。

 梅雨入りした。今日はズル休みをした。しとしとしとしと考えた。

2001/06/18(月)   虫

 木のてっぺんで真夏の日差しを受けていると虫になった気がする。
 風に揺れながら朦朧と虫になる。
 そのうち背中が割れて羽を開きどこかへ飛んでゆく。

 抜け殻が木にかじり付いて鋏を動かしている。
 抜け殻のまま地面に降りてクルマを運転して帰ってきた。
 今日はもう寝てしまおう。

2001/06/19(火)   軍鶏

 夜の粒子が少しずつ増えていちにちが終わる。
 きょうも錆びた。
 錆びを落としに極楽へ行った。
 極楽では初老の男が滝湯を浴びて夜空に飛沫を上げていた。
 その飛沫が灯りに照らされていた。
 雨も降っていた。
 雨と飛沫と夜風に吹かれた。 

 イメージ(喩)の生成発展を人間の価値の歴史とするのなら、オレがオレであることの当事者性は、オレは人間ではなくオレであると言うしかなくなる。なぜなら固有のものとしてのオレは、歴史の中の非歴史としてしか立ち現れないからだ。歴史の中の非歴史。そのことを手渡すことでかろうじて人は生き得たのではないか。そうではないか。喩よ。

2001/06/28(木)   雌犬の乳を飲んで

 今日も公園で草刈り。
 休憩時間にジュースを飲みながら古新聞を読む。
 6月20日の朝日の夕刊に驚くべき記事があった。
 引用する。

  南米チリで、15匹の野良犬を引き連れて2年にわたって放浪生活を送っていた10歳の少年がこのほど警察に保護された。「雌犬の乳を飲んで朝食代わりにした」と話している。
  名前がアレックスとだけ分かった少年は、5歳の時、両親と離れて福祉施設に引き取られたが、2年前に抜け出して行方不明になっていた。チリ南部の町、タルカウアノで野良犬を集め、洞窟などで寝起きしていた。ゴミ箱の残飯をあさったりして食いつないでいたという。
  警察に通報されたが、海に飛び込んで逃げようとした。警察官が飛び込んで助け出したという。健康には問題なかったが、前歯が2本なかった。少年は長期のカウセンリングが必要だという。(ロイター)

 新聞には得意気に放浪の様子を絵で説明する少年が写されている。「汚れた血」「ポン・ヌフの恋人」のアレックス役、ドニ・ラバンに顔が似ている。震撼した。
 この少年が言葉を獲得したら、どんなにすごい詩を書いてくれるだろう。雌犬の乳を朝食代わりにして、ゴミ箱をあさって、15匹の野良犬を引き連れて放浪2年、それだけでもう詩なのだけれども。
 オレにとって詩は現実を切り開くもの、現実を創り出すものだ。この少年の2年の放浪、その起き伏しを想像してみるだけで、ダレた日常に強烈なカンフルを打たれた気になる。

2001/07/05(木)    アフリカからの

 風呂上がり夕風に吹かれビール片手に日のすきま。
 マテバシイの枝を抜くたびにフレアーが入って来た。燃える。
 こいつら幹焼けして枯れなければいいんだけれど。
 何年も放っておくと下枝が枯れて、カタチを作りようがない。
 樹冠から首を出し茹だりながら旅程を思う。
 (アフリカからの)
 数万年の旅路。
 この★の表皮その他を這いずりながら水のように繋がってこの身を受け、この異和を魂として立ち上がり、遠くを、そう近くをもう一度リセットし、立ち上げ、また日をこなす。未知を、(うまくいきますかな)。
 夕風。
 そしてよい夕餉とよい眠りを。

2001/07/06(金)   日を渡る

 弁当を食おうと集会所の縁側に座ると、子どものシマヘビが出てきた。50cmくらい。蛇もこのくらいなら可愛いぞ。要するに蛇は長すぎるのだ。
 マテバシイの高い枝にキイロスズメバチが巣を作っていた。他の職人が怖がって近づかないのでキンチョール持って登る。巣の出入り口に向けて決死の思いで噴射。わらわら強面のギャングが穴から這いだしめちゃくちゃに飛び回る。ひるまず噴射。女王蜂が這い出てI'm winner! 巣を開くとミルキーな幼虫がぎっしり詰まっていた。
 まいにちが過ぎゆく。一気に跳躍したいのに日はじりじり過ぎゆく。それで5年後、10年後に少しでも自分や世界が好きになれればいいのだ。いつの間にかそういう次元を渡っていればいいのだ。

2001/07/12(木)    砂嵐とプール

砂嵐。
熱射と砂嵐。
霊園でサザンカの移植。
昼寝中、卒塔婆がばたばたいって五月蠅かった。
うるさい。
でも木影は快適。
木影の有り難し。
卒塔婆はうるさい。
からだじゅう赤砂まみれだからプールへ行った。
運動公園。7時まで。
ふい〜、でのび、ぷれ〜いず、でのびた。
タマヤマさんが先に入っていた。
このひととは血まみれのケンカをしたことがある。
こちらは糸切り歯が折れて入れ歯になったし、
むこうはアブドラザ・ブッチャーのようになり、3日会社にこなかった。
もう孫がいるのに血の気の多いひとだ。
「夕方のプールはぬるいよ」なんて、挨拶を交わす。
おれは「のし」でふい〜。
木の間の夕陽を見ながらふい〜。
からだに水を吸わせる。
たまに潜水していなくなる。

2001/07/18(水)    カミキリムシ

午前中
ヤマモモの剪定
昼、藤棚の下で弁当を広げていると
丁度近くの小学校の下校時で
次から次と小学生がおれの弁当をのぞき込んでゆく
見たってあげねえよ
暑さでかすれた声で威嚇する
「あ、ぜいたくにトンカツ入ってる」
うるさい
おれは犬と子どもには容赦しねえ
ってことは同類項ということか
きょうもぬくい
午後は藤棚の枝抜き
太陽
フレア
放射線いっぱい
ぶっかぶる蛇口もお湯
1時から3時まで
気がちがいまする
そういうときは歴史を考える
なぜなら
死の意味が見あたらないから
ぶったぎられるだけじゃん
関係
ふざけんな

弁当の新聞紙の上に
カミキリムシ
何カミキリ?
キボシ? クワ? シロスジ?
ゴマダラじゃねえ
子どものカミキリムシ
指で弾くと
藤の根本に
ぽ〜んと
あ、
ちょっと痛かったかもしれん

ごめんな。

2001/07/22(日)   華勝園のひとびと

日曜の昼は妻と華勝園にラーメンを食べにゆく
私鉄の駅前の小さな店
間口が狭いうなぎの寝床のような店だから見過ごしてしまう
修業先の植木屋が管理していたハイツが近くにあって
仕事の昼飯に利用していた
だからもう通い始めて8年になる
ひょこひょこ曲がり腰で歩く
畑が似合いそうなオバさんが注文を請け負って
それがどんなに混んでいても絶対間違えず
伝票もないのに計算もぴったりで
プロとはこういう人かと唸った
この店の品は安くうまくボリュームたっぷりで
ひそかなファンが多いらしく(味噌ラーメンが絶品!)
いつもほどよく混んでいる
ときどき
初老の双子のオジさんに出会うのだが
このふたりは着ているものも一緒で
同じ所作で店にあらわれるものだから
なんだか幸せな気持ちになってしまう
日曜は家族連れが多いが
平日は隣のスーパーのオバさんたちが
わいわいにぎやかに食べている
そのにぎやかなテーブルのあいだを
ひょこひょこ小さくおじぎしながら
華勝園のオバさんは
きっちり仕事をこなしてゆく

2001/07/23(月)    ヒグラシ

暑さと埃のなかきっちり残業し
あとは風呂上がりの冷えたビールをやるだけだと
そればっかりを頭に
いつもの藪下の畑を自転車で帰ると
木の間からふいに銀の箔、銅の箔、金の箔が落ちてきた
kana.kana,kanaと
ふいにタマシイが奏ずるので
自転車を止めて
夕暮れの空を仰ぎ
うなだれる
アヴェ・マリア
多層であるよ
そのまま、このまま
いかせてもらいやす。

2001/07/28(土)   涼しい

涼しい。さびしいくらいだ。
道路の植え込みのゴミ拾い。
オモライさんになったみたいに、ゴミ袋下げて延々あるく。
この日照りで植え込みの3〜4割方が枯れている。
死んだ臭い。
空き缶や弁当カスを拾って歩く。
昼休みは埠頭で食べた。
青潮が発生して、ハゼが苦しそうに浮いていた。
曇り。
沖合は晴れて南の色。
海の色を見ながらにぎりめしをぱくつく。
どこか景色のいい田舎で暮らしたいな。
景色や空気のにおいだけで元気になれるそんなところで。
アタマのなかは刹那が一杯。
いつでもどこでも破滅をひらいている。
涼しい。さびしいくらいだ。

2001/07/31(火)    右から左へ

ゆうべは海の生臭いにおいが夜を満たし、寝苦しかった。
 身もだえしながら9時間も寝てしまった。

近くの中学校で伐採・抜根。
ユンボでネズミモチの根っこに悪戦苦闘している時に、何かが裾の中に入った。
蜂かと思って払ったが、取れたような気がしない。
そのうち昼飯になった。
いつもの握り飯3個を食べて、トラックのシートに横になり、足を窓枠に投げ出すと、また足のほうがむずむず、さわさわする。
さっきは右足だったのに、今度は左だ。
ふくらはぎからふとももにかけて、さわさわさわさわする。
ぱんぱん叩いてはみたが、効果がない。
そのうち蜂の頭のようなものを触った。
こいつか、と思い、押さえつけながら外に出て、ズボンをふるって裾から落とした。
落ちてきたのはなんだと思う?
20cm大の黒々としたムカデだった!

「ひぇえぇえぇえええ!!」

それにしても、はじめ右で、それから左ということは、
いつの間にか真ん中の領域もお通りあそばしたのだろうか。
刺されなくてよかった
と、つくづく思う松吉であった

2001/08/03(金)  筒のかたちで

 朝から体調が悪いのであった。
 昼休みは竹林のなかに新聞紙敷いて弁当食った。
 見上げるとさわさわさわさわ空が呼ぶのであった。
 喉を上げ座ったまま筒のかたちで、(三木成夫の声で)、

 おぉ〜おぉぉ〜ん

 と洞を鳴らした。3回鳴らした。洞が鳴った。
 それから握り飯をぱくついた。

2001/08/04(土)  変態

 朝からべっとりまとわりつく暑さだわい。
 市営住宅のアメリカフウとヒマラヤスギの剪定。
 樹幹を詰めてくれと言われ、てっぺんにかじりつきながら、
 えっちらおっちらノコ挽いて、
 何を思ったか真裏にもノコ挽いて、
 2mの幹がてっぺんで踊り出した。
 わしのぼんやりした顔の眼鏡をはじき、
 わしの首をむち打ちながら、
 踊った幹は落ちていった。
 ぼんやりしていたんだ。
 クマのプーさんの12ページから17ページぶんくらい「ぼぉ」っとしていた。
 きょうもシャツ4枚とりかえ、汗くさいリュック背中に、自転車に乗って帰ってきた。
 ちかごろなんだか眠れない。
 幼虫が脱皮するときみたいに身体が火照る。
 縦になったり斜めになったりしてやりすごす。
 変態するのかな。

2001/08/12(日)  盆帰省

 軽トラにサルスベリと脚立と着替えを積み込んで出発。
 サルスベリは親父の所望。脚立は実家の庭の手入れのため。
 今回はじめて阿武隈の山裾をゆくコースを取った。
 自分は浜通りの町っ子だから、山里は爺婆の時間の中でしか意識されていない。
 そのじじばばの時間がいま妙に気になる。
 要するに田舎暮らしがしたくなったということなんだろうが。
 故郷は小雨が降っていた。涼しい。

2001/08/22(水)   河原で暮らす

 嵐のなかひとりでマンション植栽。
 ひとりはいいな。
 嵐を楽しんだ。

 多摩川の中州に住んでいたホームレスらしき人物が、台風の増水で取り残され、消防隊員が救助に向かうと、自分から川に入り、流されて行方不明になった、とラジオで告げていた。
 まるで自分が川に入ったように情景が浮かんだ。
 関わりを絶つことでやっと生きられる人の心もある。
 どんな気持ちで日々河原で暮らしていたんだろう。
 こんな始末のつけ方に憧れる気持ちもある。
 いまごろもう海に出たんだろうか。

2001/08/24(金)   sora

 きっときついからだろ。
 なぜきついんだろ。
 せっかくのふかさなのに。
 きょうもあつかった。
 おもわずしごとちゅうにびーるをのんだ。
 しごとちゅうのさけはごはっと。
 のんべのおやかたからおしえられた。
 それでもふっとのんでしまった。
 えんえんとつづくぼさぼさのまつ。
 あたまがぼんやりした。
 ぬすむようにびーるをのんで、まつにのぼり、
 ふっとじぶんがらくになった。
 しあげたまつにかぜがなる。
 たましいをかこうな。
 そらをみろ。

2001/08/25(土)   red

 じぶんから飛び込んだんだそうだ。
 多摩川に流されたオヤジは。
 おれは、
 今日も日に炙られ帰ってきた。
 「また焼けたね」と家人が言う。
 昼は、公園のベンチに寝た。
 ヒヨドリのギャーギャー鳴く声に起こされた。
 夢を見たような、みなかったような。
 午後は墓地の芝張り。
 荷台からスコップで土下ろし。
 傾く、傾け、傾くな。
 「おーい」と誰かが呼んでいる。
 夜、
 月が赤かった。

2001/08/30(木)   木を切ってるんだよなぁ

 小学校の裏藪のエノキの大木に登っていると、隣のマンションの5〜6歳くらいの子ども達が、「何やってんですか〜」と声をそろえて来た。
 またか、と思いながら木の葉の陰からいいかげんに応える。
 「わから〜ん」
 子どもらは、笑いながら「木を切ってるんだよなぁ」と言い合っている。
 わかってるんだったら訊くなと思いながら、「お前らは何やってんだ〜?」
 「見てるんです〜。オジサンは何やってるんですかぁ〜」
 「見られてるんだよ」
 笑いあうこども。
 「オジサンはどっから登ったんですかぁ〜」
 「登ったんじゃないよ」
 枝を落としながら、
 「空から降りてきたんだよ」
  え〜!
 「何で降りてきたんですか〜」
 羽だよ。羽。見えるだろ。背中に、ほら。
 「見えないよな」顔を見合わせる子どもら。
 ああ、オジサン、羽もがれちまったよ。
 だからもう地面に降りるよ。もう飛べなくなっちまった。
 「あ、降りてくる」

 さ、もうメシだ。
 メシにするべ。

2001/08/31(金)   クチナシの実

 雨の中草むしり。
 雑草も秋のものに移ってきている。
 もっと夏をさわっておくんだった。
 もっと夏の真ん中をやるんだった。
 トカゲのように干からびて
 スズメバチのようにきりきりまい
 猿のように放埒に
 木から木を伝って人間界を去ればよかった。
 たとえば海に入ってない。
 生臭い鮫の背びれをつかんでいない。
 岩礁を伝って海淵に光る深海魚を見ていないんだ。
 背中に降る秋の雨。
 オオムラサキツツジにも
 クチナシの実にも雨。

2001/09/03(月)   人夫出し

 高木護『人夫考』を読んでいて博多の人夫出しを思い出した。
 博多駅の北のガードを越えて少し歩いたところにそれはあった。朝6時前に顔を出せば、早い者順で仕事がもらえた。当時最低日当8000円保証、運転すれば9000円、クルマを持ち込めば10000円くれた。10年くらい前の話だ。一日二日稼げば一週間は暮らせる。その一週間のあいだに何かをつかめばいい。その何かがなにかはさっぱりわからなかったが。
 最初の仕事は博多湾に浮かぶ小島の小学校の屋根葺きだった。駅からマイクロバスに乗せられ、漁港のようなところから小舟に投げこまれたとき、すわタコ部屋行きかと身構えた。昼には、屋根職人たちの手元をしながら、全開の玄界灘の中にいた。みな海の色に染まっていた。波が煌(きら)めいた。
 人夫出しは労働宿を兼ねていて、常雇いの人夫が寝泊まりしていた。常雇いといっても、働きたい時に働くだけで、経営者の方も、宿賃と飯代をきちんと払っていれば何の文句もなかった。眉に入れ墨を入れている元漁師の老人や、不幸を一身に背負ったように暗い顔をしている若者や、駅周辺でいつも酔っぱらって暴れている痩せた男など、毎回メンバーが違ったし現場も違った。お互い話すこともなく、ただその日その日の監督の指示通りに動いて、5時に上がり、日当を受け取って帰った。

2001/09/04(火)  秋刀魚

 雨の中、泥だらけで公園の草を刈っていると、単調な仕事に嫌気がさすことがある。
 陰気な木立の下で作業を続け、ときどき芝広場の方を眺める。
 緑の明るさ。
 夏とは違った透明な緑。吸収してゆく秋の緑。
 ぼんやり考えながら草を集めていると、ちりんちりんと自転車を鳴らす者がいる。
 妻だった。
 「心電図どうだった」
 今日は健康診断の日だった。
 「ん? 何も言われなかったよ」
 そうか。
 「今夜は秋刀魚にするね」
 サンマか。 ペロもいれてくれる?
 「あいよ」

 去ってゆく妻を呼び止める。
 「ところでおれってどうよ」
 にっこり笑って妻は言う。
 「カッコイイわよ」

 よしよし。

2001/09/05(水)   kaisei

 快晴。
 刈り取った芝の上に寝る。
 大の字。
 地球にはりつく。
 そうすっとあとはsoraで、
 soraは広く、kumoなど流れて、
 kigiの葉もそろそろ身支度し、
 あとはなんだっけ、
 あとは…
 ああ、ore か、
 ore はもういない、
 快晴。

2001/09/06(木)   行商の思い出

 仕事帰りの自分は汚れ物なので、そのまま風呂に直行する。
 湯船につかりながら、ふと「行商」やっていた頃を思い出した。

 一泊二食付き3500〜4500円の商人宿に泊まりながら、後ろに赤い箱をつけたカブで農山村を走り回る。
 農道やあぜ道をゆきながら、あっちの田んぼにひとり、こっちの畑にふたりと人を見つけては、カバン抱えて走ってゆく。
 相手は突然現れた若造を怪訝そうにしながら、ちょうどいい一服の相手だとタバコを取り出す。
 こちらは親しそうに世間話しながら、頃合いを見計らって四六版の雑誌を取り出す。
 仕事は「現代農業」という農業雑誌の定期購読取りだ。
 反応は色々だったが、大抵は単なる本屋だと分かって安心されることが多かった。
 農村部にも、宗教の勧誘やら、家紋売りやら、家屋敷を勝手に撮った航空写真売りやら、色んな人間が出入りしていた。
 初対面の農家のオヤジに気に入られて、泊まっていけだの、ムコになれだの、跡を継げだの言われたり、逆に石をぶつけられる勢いでたたき出されたり、家によって人によって地域によって様々だった。

 長崎の上五島列島のO島という島にはひとりで入った。佐世保から船で4時間くらいかかったような気がする。学校の先生が生徒達にテープで見送られていたから、3月末くらいの季節だろう。この島は人柄がよく、おもしろいくらい契約が取れた。るんるん気分でバイクを走らせた。一般に長崎はどこでもそうだが、どこからでも海が見える。この島はとくに山と海との起伏が美しかった。
 と、向こうの谷底の田んぼにひとりの農夫が見えた。急な谷を降りるのは危険で手間だが、こういう人気のないところでは邪魔が入らず、わざわざ来てくれたという心理で契約が取れやすい。もういっちょういくか、と藪をかき分け降りていった。「こんにちわ〜!」「ごせいがでますね!」
 農夫は耳が遠いのか振り向きもしない。こちらはあちこち傷を作りながらようやく谷を降り、田んぼのあぜ道を駆け寄ってゆく。「きょうは、よか天気ですねえ〜」「現代農業で〜す」
 農夫はじっと向うをむいている。どうもおかしいと思いながら、近づいてようやく気づいた。相手は上手に作業服を着せられたカカシだった。

 夜、漁港脇の民家に泊まった。きのうまでの宿が何かの都合で客をおけなくなり、急遽この家を紹介されたのだ。息子の勉強部屋のような2階に通された。風呂はドラム缶風呂のようなものだった。窓を開けるとすぐ船が見えた。港いちめんが夕焼けていた。

2001/09/07(金)   右翼の兄ちゃん

 いつだったか公園の造成工事をしていると、細い口ひげを生やした30半ばくらいのスリムな兄ちゃんが「監督さんですか」と近づいて来た。材料屋かと思い、施工写真撮りながら応ずると、名刺出しながら、近くの右翼です、と言う。「はっきりいってバックはヤクザなんですけどね、実はいま近くで工事している監督さんたちにご協力願っているんですよ」ご協力とは何かと訊くと「向こうの○×建設さんは3万円だったんですがね、ご協力願えませんか」言葉は丁寧だが、目は威嚇している。要求がストレートなのでおかしみがあった。「そういうのは会社の方へ行ってくれよ」「いやいやそんなことしたら手が回っちゃうじゃないですか」両手を腰の前で交差させぶらぶらさせる。「あくまで監督さん個人の裁量でご協力願っているんですよ」「きちんと領収書も発行しますから、ほらね」なるほど住所と結社名を印刷し朱印を押した大仰な領収書を持っている。そういえばうちの社長がどこかの公園でヤクザに因縁をつけられて20万も払ったとぼやいていた。こういう輩は無下に断ると打設したばかりのコンクリをめちゃくちゃにしたり、現場に汚物を撒いたりすると聞く。24時間現場で番をしているわけにはいかないので工程が大幅に遅れてしまうのだ。こちらは工期内に工事を完成させるのが至上命令だから、奴らはそれにつけ込む。お役所はそういう事情には我関せずだ。この兄ちゃんは回りに屈強の土木労働者もいるというのに臆することなく、あけすけにたかってくる。なんて奴だと思った。このパフォーマンスにいくらか出してもいいような気分になった。「いったいいくら持ってるんですか」とこちらの財布をのぞき込む。財布には一万五千円あった。五千円だけ出した。「そっちにもっといい色したお札が入っているじゃないですか」これは道具を買う金だから駄目だと嘘を言って断った。「ちゃんと領収書書いてもらうよ」はい、はい、とペンを走らせ何事もなく去っていった。その領収書を会社に提出し、五千円は戻ったが、あの兄ちゃん、あの才覚をもっと別のところに活かしきれないのだろうか。ちんけな公園工事にたかったって、ろくな稼ぎにもならないだろうに。

2001/09/24(月)   求菩提山のふもと

 透明な秋晴れのいちにち。
 福岡の豊前市の奥、求菩提山の麓の村を回っていた時のことを思い出した。
 茅葺き屋根と柿の実の色、稲穂の匂い、群れなす蜻蛉、山には法師。
 求菩提山は山伏の修行の山なのである。
 小川の木橋のほとり、ふとバイクを止めると、草むらの中に、一年前捨てた靴がそのままそこにあった。つい昨日忘れていったみたいだった。
 しばらくその靴を眺めてじっとしていた。
 秋の澄んだ光がくっきりとした陰影を作っていた。
 仕事をやめてずっとそのままうずくまっていたかった。

2001/09/25(火)  飛蝗

 いちにち草刈り、草あつめ。
 新聞敷いて地べたに昼寝。
 陽が膝の上を移動する。
 熟睡。
 起き上がっても、ここがどこかしばらく分からない。
 そんな日がつづく。
 赤ん坊の頭で、
 オレ、ナニヤッテンダロウ、と考える。
 足下を、ぱたぱたぱたとバッタが飛ぶ。

2001/09/29(土)   走る

 単調な毎日。
 今日も草刈り草集め。
 日々が過ぎゆく。
 細長い公園。
 ぱいすけ両手に持って突然走り出す。
 がしがしと地面に爪先を突きつけてゆく。
 なんだいけるじゃないか。
 速い速い。
 心肺機能、下半身と上半身の連動、腕の振り、足の引き上げ、
 風を切る。
 まだまだいける。
 おうよ、
 走れ。

2001/10/03(水)   夕焼け

 大きなシラカシを3本剪定。
 木の懐に入り込みながら枝の混沌を一本一本拓いてゆく。
 自分の身体を螺旋形に入れながら邪魔な枝を下ろし上ってゆく。
 枝葉の濃淡。
 風と光のからみ。
 あるときふと全体が「ぱあっ」と明るくなり剪定のカタチが出来てくる。
 木から下り、遠く離れて自分の仕事をみる。
 夕焼け。
 きょうも一日働かせてもらいました。
 ありがとうございました。

2001/10/08(月)   雨の音

 雨の中、道路沿いの植え込みの草むしり。

 夕食後、妻は親戚から送ってもらった栗の皮むき。
 私は公園で拾ったマテバシイのドングリの皮むき。
 ものすごく手間がかかる。
 茶碗一杯分のドングリを剥くのに2時間はかかった。

 テレビやラジオはアフガン空爆に興奮している。
 私たちは縄文人のように木の実の皮を剥いて冷たい雨の音を聴いている。

2001/10/09(火)   こんやも

 やりたいこと、
 やらなければならないこと、
 かんじること、
 かんがえなければならないこと、
 たくさんあるのに、 こんやも、
 どんぐりのからむきでいちにちをおえてしまいました。

2001/10/17(水)  雨の音

 冷たい雨。
 クレーンに乗って、マンションのシラカシ剪定。
 冷えてきたので合羽の下に新聞紙を入れた。
 それでも寒いので古合羽を二枚重ねした。
 いちにちじゅう雨だった。

 キャベツ畑にも雨。
 夕闇の舗路にも雨。
 合羽のフードで視界が悪いので音ばかり聴いて世界を帰った。

2001/10/29(月)   無関係

 日月と休みを取り、軽トラで房総半島を廻って来た。
 夕方から風雨が強まって、夜は嵐になった。
 眠れぬ頭で考えたこと。

 今度のテロ関連の発言で、一番「はっ」としたのは、
 先週のビックコミックスペリオールの橋本治のコラムだった。
 手元にないので正確な引用は出来ないが、要するに言っているのは、
 「無関係」ということだった。
 今度のことにオレは無関係だし、興味も持てない。
 日本という国に関係があるとも思えない。
 なにをみな騒いでいるのか。

 いま、表現者としてこういう発言をすることは、凄いことだと思う。
 無関係であるとはどういうことか。
 ほんとうは表現者というのは「無関係」という位置の者のことではないのか。
 無関係という孤独の場所。
 その場所に本当に耐えているのか。

 祖師に遇いては祖師を殺せ、仏に遇いては仏を殺せ。
 おのれの生死、そいつはオレには無関係だ。

 無関係の場所。

 それがあるから人は生き得るのではないか。
 それがあるから人は言葉を生み、魂を繋げるのではないか。

2001/10/30(火)   振り返った

 房総の、太平洋を臨む、とある岬の展望台へむかう山道を歩いていた。
 風が強まり、雨粒が落ち始めていた。
 ふと道端を見ると、何か毛皮のようなものが落ちている。
 「なんだ?」
 声に応じて、ビクッと振り向いた。
 タヌキだ。
 足萎えて、這うように動くが、すぐに力つきて肩で息をする。
 動けぬまま、精一杯の気を放ち、こちらを警戒している。
 なんとかならないの?
 妻は悲しむが、野生のものに手を貸せるだけの技量も経験も自分にはない。
 せめて見なかったふりをして通過するだけだ。

 展望台へは風雨が強すぎて登れなかった。
 買ったばかりの傘がいかれてしまった。
 また道を引き返すと、妻が道の途中で棒立ちになった。
 さっきのタヌキが懸命に這いながら道を横断していた。
 むかい側に藪があり、巣があるらしかった。

 私達は、無言でタヌキの道行きを見送った。
 藪の中に入ってゆくところで、タヌキはゆっくりこちらを振り返った。
 たじろぐような穏やかな目だった。

2001/10/31(水)   山茶花

 満開の山茶花の綾枝を抜く。
 はらはらと花の匂い。
 何かに憂え、
 気がつけば花のなか。
 秋の陽は斜め。
 まだ人でありましたか。

2001/11/01(木)   一瞬を

 うすく朱の入ったサザンカの花にキイロスズメバチがとまった。
 花粉にまみれ、蜜を舐め、恍惚…。
 秋が深まる前に、死に行く前に蜜を舐める…。

 鋏を構え、一瞬を閉じた。
 蜂は、胸部と腹部の、ちょうどくびれたあたりで切断された。
 激しく羽を震わせ、アゴをがちがちさせる頭胸部と、
 触れると静かに針を出す腹部。
 鋏を近づけると、前足を上げ、抵抗しようとする。
 それから仕事終わりまで、ずっと生きていた。
 いまも生きているかもしれない。

2001/11/07(水)   朝の色

 夜明けの匂いにはもう冬が混じっている。
 寝起きで朦朧としたアタマを窓の外へ出し、大気の引き合った音を聴く。
 雲間から差す光に野菊、ススキ、コスモス、セイタカアワダチソウ…
 いろいろな色が収束し、結実へ向かう。
 今日もむげえの若いおっかさんは、朝早くから洗濯に精出し、
 手すりを力いっぱい拭き拭きし、家族のものをベランダいっぱい干してゆく。
 これも朝の色。

2001/11/12(月)   オーロラ

 雨の中、工場の落葉掃除。
 長年堆積した落葉は、ほとんど堆肥化している。
 晴れの日の数倍重い落葉を、シートに乗せて引張る。
 えんえん。
 雨の日の昼寝はクルマの中で新聞にくるまる。
 今日たまたま広げた古新聞にオーロラの写真があった。
 NASAが打ち上げた観測衛星が、南北両極同時にオーロラが踊るさまを捉えている。
 あいだの山や海、幾多の国々を無視した、一個の電磁界としての地球の姿。
 無数の蛾や蝶が蛍光色の鱗粉を撒き散らし、両極で舞っている。
 世界は何も知らず、政治や経済や戦争をしている。
 漆黒の大宇宙にぽつんと浮かんで、大吟醸でもやりながらこんな光景を見てみたい。
 穴のように無関係にこの星を眺める。
 それには巨大な距離が要るのだろう。
 それを上手に折り畳んで、日のすきまに入れ、
 両極のオーロラをみる。

2001/11/13(火)   工場の昼休み

 工場の昼休み、運転席からむくりと起きると、
 斜め向こうで、モンゴルの女とブラジルの男が、楽しげに立ち話している。
 むかし吉永小百合の青春映画で観たような、工場の物語。
 始業のチャイムが鳴って、ふたりは、小走りでそれぞれの持ち場に戻る。
 午後もラインで洗濯機を作るのだ。

2001/11/14(水)   「ぬ」の電話

 家に電話をかける。
 「もしり、もしり…」

  …あ、
 「ぬ」だ。

 「ぬ」、今なにやってんの?
 「なばばを、もささ、もささしてるの」
 …バナナをもしゃもしゃ食べているのか。
 「ちゃりすけは?」
 オレは家に電話かけてんだよ。誰かいないの?
 「ぬがいるよ」
 ぬしかいないの?
 「ぬとね、にきと、ねきと、あと5にんのるーとらがいるよ」
 いっぱいいるなぁ。
 「5にんのるーとら
  すっぽんぽん、あ、すっぽんぽん
  5にんのるーとら
  すっぽんぽん、あ、すっぽんぽん、すっぽんぽん」

  …………。

2001/11/15(木)   親方

 仕事帰り、用事で久しぶりに親方の家にゆくと、酔っぱらってちゃぶ台のまわりをハイハイしているのが見えた。
 窓越しに眺めながら、親方トシとったなあ…、と思う。
 親方は自分の実の叔父で、自分が植木屋をはじめるきっかけになった人だ。
 この人のことを書くと、一冊の本になるくらい、ぐちゃぐちゃ色々あった。
 どこから手をつけていいか分からないくらい個性的な人で、情の深い人なんだ。
 その親方がおれの顔を見て泣いた。
 「ババアがよぉ、肝臓の方までやられちゃってよぉ、…」
 叔母は乳癌が転移して再入院している。
 「あのくそアマと思っても寂しくてよ、きのうは仕事も休んじまってよ…」
 だからって、酒飲んで晴れるもんでもねえだろ
 と、おれは毒づく。 しっかりしろよ
 「ああ、そうだな…。 上がっていかないのか」
 いいよ、まだ仕事中だから…、
 つっけんどんに言ってトラックを出す。

 叔母への恨みは消えないので、まだ見舞いにも行っていない。
 ひとりの車中で何かを抱きしめる

2001/11/17(土)  けーん、

 朝からなんだか体調が悪い。
 河口の公園で高木の移植工事。
 八掛けの根杭をけーん、けーん、と打つ。
 もう三日もやっている。
 いつまでたっても暮らし向きはかわらねえな、けーん、けーん、
 明日も仕事だ、けーん、けーん、
 貧乏ひまなし、けーん、けーん、
 もう疲れちゃったよ、けーん、けーん、
 ………
 気持ちはどんどんネガティヴになる。
 と、目の端をビロード色のものがよぎった。
 キジだ!
 とととと、と灌木の中を走ってゆく。
 近くに宮内庁の鴨場があるから、そこから飛んで来たのだろう。
 気が付けば、晩秋の午後の金色の日差しの中、
 この世はあの世と雉がゆく。

2001/11/18(日)   職人たち

 昔世話になった植木屋の手伝いに呼ばれて行った。
 4年ぶりくらいだ。
 規模は小さいが、江戸職人の匂いを残す老舗だ。
 問わず語りに、職人達のうわさ話になる。
 タケさんは白内障で2ヶ月入院した。
 ナンバさんは不整脈でもう出てこない。
 マーちゃんは仕事のケガがもとで手が使えなくなった。
 今度生活保護を申請するそうだ。
 トモちゃんは、アパートにボヤを出して中国に強制送還された。
 職人達のほとんどは、年金にも健康保険にも入っていなく、税金も納めていない。
 出面でその日その日を暮らしている。
 「年末はさすがに忙しいけどよ、2月3月なんかは10しか出れなかったよ」
 仕事がない日はじっとおとなしく部屋にこもり、
 仕事に出ると酒宴を開いて使っちまう。
 そうして歳を取ればよれよれになって死んでゆくのだ。
 そんな職人達が久々のおれの顔をみてニッコリ笑った。

2001/11/30(金)   染まる

 楓をゆすり黄葉を散らす。
 公孫樹、桜、満天星(ドウダン)、辛夷(コブシ)、様々な色。
 懺悔の姿で色を浴び、色を受け、色を仰ぐ。
 染まるのは、いつも、初めての、始まりのかたち。

2001/12/02(日)  走るジジイ

 日曜の仕事はなぜか疲れるな、とぼんやり思いながらゴミ車を運転していると、
 傍らの歩道を壊れたようなゼンマイで、ジジイが走っていた。
 うれしげに喘ぎながら…。
 福岡国際マラソンにインスパイアされたか。おい、ジジイ!
 夕陽の中を冗談のようにジジイは走ってゆく。
 あんなジジイになりてえ。

2001/12/04(火)  冬の雨

 ベニカナメ生垣。
 雨の中ひとりでバリカンの舞い。
 冬の枝は固い。
 ちぎれた枝は鋏で剪り戻し。
 まいにち植木のお手入れ。
 むこうの国では殺し合い。
 リセット出来ないOSの上、破滅のプログラムを走る。
 午後には雨があがった。
 吐く息が白い。

2001/12/05(水)  洗濯屋

 今日もひとり。
 自販機にお茶買いにゆく角にクリーニング屋があり、
 そこの親父がいつも踊るように仕事している。
 いまどき1枚いくらもしないようなYシャツを、
 丁寧にうれしそうに折り畳んでいる。
 ときどき目が合うのだけれど、
 お互いつまらないものを見たなという顔で過ぎる。
 向こうはどうかしらないが、
 オレにとっては一日の希望だ。

2001/12/09(日)  朝の光

 霜の降りた朝、引き合う音の中、一日が生まれる。
 久しぶりの休日、朝の光を楽しむ。
 南の窓、本棚をうつろう光…。
 ゆっくり珈琲を飲み、新聞をめくり、食パンを焼く。
 妻が目を覚まさぬようヘッドフォンでテレビを見る。
 小腹が空いたのでラーメンを作る。
 麺を鍋に入れ、箸を立て、ふと想いがよぎった。
 生まれたものはみな死に、朽ちる。
 そういうこととして生き、存在している。
 例外はない。
 存在とは、このOS上を走るプログラムのことだ。
 では虚無や永遠を想うこの魂は何なのか。 
 いつも離れぬこの「私」は誰なのか。
 祈るように彼方に焦がれるのは何の姿だろう。
 ラーメンを食べ眠くなったので、
 日だまりに毛布を敷いて寝た。

2001/12/13(木)  ヒイラギモクセイ

 雨の中、ヒイラギモクセイの生垣結束。
 痛い、寒い、痛い、寒い…。
 だんだん追いつめられたアルカイダのような気分になってきた。
 気持ちはすっかりテロリストだ。
 こんなとき口ずさめるウタがあればな…。
 酷い現場を放して包む、やわらかく稟としたウタが…。
 ウタはいったい何処へいった。
 オレ達が口ずさむべき時代の詩は…。

 でも今日はカレーだからいいや。
 寝ちまおう。

2001/12/15(土)  八百屋

 きょうも夕闇のなか帰る。
 信号待ちするカーブの左に小さな八百屋がある。
 八百屋といっても、大根とか馬鈴薯とか二三種類のものをベニヤ板の上に並べているだけだ。
 枯れ木のような爺さんが店番をしている。
 白髪の頭にちょっこり毛糸の帽子を乗せてミカン箱の上に座っている。
 裸電球に照らされて彫りが深くみえる。
 いちにちここで日が経つのを待っているのか、客がいるのを見たことがない。

2001/12/16(日)  日は過ぎる

 ひろがる虚空のようなもの
 不思議、ふしぎ、不思議
 こんなに限定された物理のなかで
 オレの重力は不良する
 日は昇り、日は沈み、
 日は過ぎる
 いま死んだ
 いま生まれた
 月夜に
 みんな魂の匂いをかぐ
 ひろがる虚空のようなもの
 なぜ求める
 なぜ追い求める
 日は昇り、日は沈み、
 日は過ぎる

2001/12/17(月)  鳥

 冬陽に目を刺されながら、シャラの木の古皮を剥く。
 オレンジの斑(まだら)。
 赤松が妙齢の婦(おんな)なら、沙羅は若い娘か。
 身を固く締め。

 金木犀の綾枝を抜く。
 もっと始まりの方へ光を届かせる。
 姿にやわらかな風を入れる。

 と、向こうの方から空気を賑わせて、
 二三羽の鳥がついと行った。
 いま抜いた枝と枝の間を。

 ときおり見えない葉陰に鳥の巣を見かける。
 つややかな卵に驚くこともある。
 鳥はどれも必死な目をしている。
 必死に生きて、うたい、いつか

 落ちるように死ぬ。

2001/12/18(火)   zakuro

 冬ざれの石榴を鋏む。
 棘を傷みながら手を伸ばす。
 手が逃げる。
 ピラカンサやユズほどではないが。疼痛。
 鳥の残した実が細い枝先に揺れる。

  露人ワシコフ叫びて石榴打ち落とす (西東三鬼)

脚立の上でザクロを頬張る。
 思いの外まだみずみずしい。
 犬のようにむしゃぶり、種を吐き散らす。
 小さい時間。
 地を染めた、
 サザンカの花びらの上。

2001/12/19(水)  アララギ

 霜柱が立った。
 寺の一位(イチイ)を刈り込む。
 榧(カヤ)に似るが、葉が痛くないので、すぐ分かる。
 脚立の下の躑躅(ツツジ)が狂い咲きしている。

 帰り花顔冷ゆるまでおもひごと (岸田稚魚)

 帰り花には死の匂いがする。
 植物生理的には干天が続いたり台風などで木が痛めつけられたりした年に多いらしい。
 色うすく冬の日だまりにふるえている。

 いちにちがゆく。
 夕闇の空を後ろに透かして刈り込んだ玉の仕上がりをみる。

 南西に爪のような月。

2001/12/21(金)  雪催(ゆきもよい)

 参道のユキヤナギの生垣を刈り込む。
 黄葉した小さい葉が曇り空に光るようだ。
 触れればハラハラ散るひかりの置き処。

 しだいに冷え込んできた。
 今日は午後から雪の予報。
 それまでに高く徒長した菩提樹の枝を詰める。
 吐く息が白い。

  鳥も木もうたがひぶかく雪催  (千代田葛彦)

 昼寝から起きたら雨だった。
 熱い茶を飲んでから合羽を着込む。
 脚立が濡れて冷たい。

2001/12/24(月)  へろへろと

  …彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。する
 とすぐ鶏が鳴いた。ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを裏切るであろう」と
 言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。…

  …そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔
 し、銀貨三十枚を祭祀長、長老たちに返して、言った、「わたしは罪のない人の
 血を売るようなことをして罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、
 われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。そこで彼は銀貨を聖所に投
 げ込んで出ていき、首をつって死んだ。…

  …さて、昼の一二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。そして三時
 ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。
 それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という
 意味である。…

  聖書で一番好きな箇所。

  …またあるとき、唯円房はわがいふことをば信ずるかとおほせのさふらひしあひ
 だ、さんさふらふとまうしさふらふしかば、さらばいはんこと、たがふまじきかと、
 かさねておほせのさふらひしあひだ、つつしんで領状もうしてさふらひしかば、た
 とへばひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべしとおほせさふらひしと
 き、おほせにてはさふらへども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともお
 ぼへずさふらふと、まうしてさふらひしかば、さてはいかに親鸞がいふことを、た
 がふまじきとはいふぞと。これにてしるべし、なにごとも、こころにまかせたるこ
 とならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども
 一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころ
 さぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべしと。

  歎異抄で一番好きな箇所。
  我が心の善くて殺さぬにはあらず。

 今日はいちにち松の手入れ。
 飽きもせずに松葉を引く。
 最後に藁を巻いてやり、墨縄で化粧。
 手の胼(ひび)に松ヤニと墨縄の墨が入って落ちない。

  へろへろとワンタンすするクリスマス  (秋本不死男)

2001/12/25(火)  泰山木

 タイサンボクの大木の懐に入り、古葉や忌み枝を取りながら螺旋状に上ってゆく。
 懐は広く、オレは中空に自由自在。
 今日は雪催で冴えた冷気の曇り日。
 気温が10℃以下だと鼻で吸う気体が美味い。
 泰山木は6月ごろ、純白の大きな花弁の、香り高い花をつける。
 枝を切っても香り高い。
 香りを楽しみ、気体を愉しみ、中空での姿態をたのしんだ一日。

 今夜は雪の予報。

2001/12/26(水)  老猫

 今日はシイノキの懐で半日を過ごした。
 隣家の日だまりに老いた猫が二匹うずくまっていた。
 毛がぼさぼさで肉が衰えていた。
 一匹はブロック塀の上、もう一匹はトタンの物置の上にいた。
 ブロックの上の猫は白に茶の三毛で、向こうを向いていた。
 トタンの上のは黒っぽく、斜めにこちらを向いていた。
 二匹とも大きな猫だった。
 冬の陽がゆっくりとふたつを温めていた。

 猫だったことがある。

 それから椎木だったこともある。

 そうしてこうして、
 なんだか、

 なにもかもが、

 とにかく、
 こうして分かれ、

 かなしかった。

2001/12/28(金)  ゴミ拾い

 湾岸を走る道路の植込みのゴミ拾い。 
 ゴミ袋を持ち、炭ばさみで空き缶やビニールや紙くずなどを拾ってゆく。
 臭くて汚くて厭だが、時折変なものが捨てられている。
 今日はダンベルセットとエロビデオを拾った。
 軟式の野球ボールと戦友の住所録と延長コードが一緒のビニール袋に入っていた。
 ラブホテルの横はいつも放置自動車が並んでいる。
 ホームレスのねぐらになっていて、雑誌や毛布が詰め込まれている。
 去年の5月にここでホームレスがひとり死体になっていた。
 見つけた者は2時間警察に事情聴取されていた。
 長い歩道をゴミ拾いながら歩いていると、初老の小母さんが嘔吐して座り込んでいた。
 大丈夫ですか、救急車をよびましょうか。
 いいえ結構ですと、応えた小母さんは聖者のようだった。

2002/01/07(月) 冬の蜥蜴

 初仕事はニシキギとツバキの移殖。
 久しぶりのスコップ仕事で土まみれになる。
 古いプランターを動かしたら、下にトカゲが二匹丸く重なって冬眠していた。 
 つついても動かない。
 今日はひどく寒かった。
 目も開かない。
 丸く硬直したまま風に震えている。

 夏、
 トカゲの幼体の尾は鮮やかな瑠璃色をしていた。
 日盛りに石垣の上などを高速で横切った。
 場が蜥蜴を速度として私に見せていた。

 いまは凍結している。
 ひっそりと寄り添って仮死している。
 停止した小さな夏の装置、
 そっと移動してまた穴を掘った。

2002/01/09(水)  猫

 今日も公園のケヤキ剪定。
 武者立ちで目通りが合わせて3mある。
 クレーンが入らないので二連梯子を使った。
 カルスがうまく巻くようにノコを入れる。
 枝の股のシワに触らないように、滑らかに…。
 中空にぶら下がりながらノコを使っていると、
 突然切り口から赤みのある液体が噴き出した。
 まるで樹が血を流したようだった。
 これは前にも経験がある。
 緑地のコナラの太枝を切っていると、突然真っ赤な水が噴き出した。
 水を浴びてしばらく呆然とした。
 枝や幹の虚(うろ)に雨水がたまり、樹液と混ざり、腐る。
 そんな筒と知らずノコを当てると、そこから中のものが噴き出すのだ。
 いのち。

 今朝、出勤途中のいつもの交差点で、右の車道の先に黒いものが見えた。
 自転車で先を急ぎながらその映像を反芻した。
 空に足をばたつかせて、あれは猫じゃないだろうか。
 引き返して助けようとする身と、いまさら遅いと先を急ぐ身体。
 さっきからそこに猫がいる。
 それは切り取ったケヤキの瘤枝なのだけれど、
 さっきからそこに猫がうずくまっている。

2002/01/14(月)  伐採

 緑地で杉や松の枯損木の伐採。
 二連梯子で梢まで上り、ロープを二本結わえて引っ張り、チェーンソーで倒す。
 大きなものが倒れる。
 大きなポテンシャルの移動。
 地響。 ぽっかりあいた空。

 枯損木を倒して空間を整理してやると森が喜ぶのがわかる。
 場の新鮮。 可能性の隙間。

 自分を伐採する必要がある。
 自分を真新しい場として更新する必要がある。
 倦怠や諦念や不幸の意識で枯れるのなら、まっさらな隙間を立てた方がいい。
 何も持たず、じっくり待てば、やわらかいものが芽ばえるかもしれない。

2002/01/21(月) 雨の中

 給水場のツゲ玉の刈込み。雨の中。
 ときおり、息をついて空を見る。
 細細と降る冬の雨、顔を濡らし、
 ふっ、と空の上から自分を見れば、
 暮らしのことやら、先のことやら、昔のことやら、
 アタマいっぱいで地面にへばり付いている。
 へばりついているなあ…。
 ここに来れば、
 魚だって泳いでいるのに、
 違う風だって吹いているのに、
 貝みたいにへばりついている。

2002/01/27(日) 昼寝

 朝まで降っていた雨は昼頃やみ、午後から明るい日が差した。
 南の部屋の窓際で昼寝する。
 冬の日向ぼこ。
 窓からひらけた空の色が見え、雲が動いた。

 目が醒めるともう日は沈みかけていた。
 西の空が氷の海のように光を残していた。
 薄い夢をいくつか見たが忘れてしまった。

 子どもの頃、昼寝から醒めると妙に悲しく、せつなかったことを思い出した。
 大人が誰もいない空っぽの家は、非在ばかりで、さらわれそうだった。
 じぶんをじぶんに繋ぎ止めたくて、大きな声で泣いたのだ。

 そんなことはもうできないが、日常の風景が「ぐあん」とぶれるような日のすきまはまだそちこちにある。
 それは決して悲しいことではない。
 むしろ自分がじぶんであることの根っこは、その風景でしか繋がらないから、出来るだけ丁寧につきあうしかないのだ。
 案外それはまたオツなことでもある。

 夜、月が冴えた。

  てのひらというばけものや天の川  (永田耕衣)

2002/01/28(月) 使徒

 県立公園の芝生広場にすっくと立っていたポプラが枯れてしまった。
 初夏の夜、照明にライトアップされたポプラは、使徒のようだった。
 それが11本も枯れてしまった。
 県からの依頼でその伐採をした。
 風で倒れる危険があるからだ。
 二連梯子でロープを結わえ、そのロープを張って正対すると、
 ポプラは数十年の時間を枯らし、風に震えて立っていた。
 根元へ行き、切れないチェンソーで呻りをあげ、5年、10年、20年…、
 すべての時間を切断した。
 地響きを上げて倒れたまっすぐなもの…。
 ふと見まわすと、子ども連れの奥さんたちが、日向ぼっこしていたホームレスが、
 リストラされた会社員たちが、みな遠巻きにして見守っていた。
 私は司祭か何かのような足取りで、倒れたものに近づくと、
 さらにそれを輪切りにしてクレーンにかけ、トラックに積んだ。
 切断面はまだ水を吸って濡れていた。

 夕方、残されたポプラもまた使徒のように見えた。
 使徒の向こうに大きな月が出た。
 明日は満月らしい。

2002/01/29(火) 公園風景

 今日も公園で仕事。
 枯れて危険な枝や、折れてつっかかったままの枝を梯子を伸ばして撤去する。
 よくぞここまで放置したというくらいボロボロのスカスカになっている。
 立枯れしたものは二三度揺すると根元から折れた。
 持ち上げると驚くほど軽い。
 生命とは水のことかと思う。

 一服時、ベンチに座って何気なく母子連れを見ていると、2歳くらいの女の子が
火のついたように泣き出した。身も世もなく泣いて、そのうち、芝生の上に大の字
になったりうつ伏せたりしていつまでも泣きやまない。母親は少し離れて笑いなが
ら見守っている。

 自然界で子どもがこんなに無防備に泣く動物っているのだろうか、と考えながら
見ていた。
 今日もよい陽気で日向はあたたかい。
 野鳩が整列して石垣の上に列び、泣く子を見下ろしていた。

 パーゴラの下ではホームレスが座卓を囲んで麻雀をしている。
 そのうち酒盛りをはじめた。
 ベンチをブルーシートで繭のように囲ったのが彼らのねぐらだ。
 朝晩は冷えるだろうけれど、今は極楽という感じで静かに飲んでいる。
 ふところがもぞもぞしたと思ったら猫が飛び出した。
 猫は日向でひとつ伸びをした。

 さてオレも仕事をはじめるか。

2002/02/02(土) こーん。

 昼休み、トラックの中で寝ていると、周りをカサコソと歩くものがいる。
 剪定して散らばった枝葉を拾ったり、踏んだりする音がする。
 眠いので放っておいたが、どうにも気になって起きてみると、フード付きのフリース
を着た小さな子どもだった。
 「なにやってるんだ」と一喝すると、「ニコッ」と笑った。
 「危ないからあっちいきな」と云うと「コーン」と鳴いた。
 キツネじゃあるめえに、と思いながら、また寝直した。
 昼寝の後はいつもここがどこかわからない。
 それでも一時数分前には必ず、ふっ、と目が覚める。
 もう剪定は下枝を残すだけだ。
 六尺の脚立の天辺に乗って、遠いところから鋏んでいた。
 と、突然バランスを崩して、横様に落ちた。
 落ちる瞬間、さっきの子どもが目に入った。

  こーん。

2002/02/07(木) 状景

 住所不定無職32歳の男が、東京タワーの展望台(145m)から飛び降り自殺した。
展望台に潜み、閉店後の深夜、椅子で窓を破って飛び降りたらしい。

 母親を包丁で刺し殺した19歳の無職の息子は、犯行の動機を訊かれて「なぜ殺した
か、それを考えている」と応えたと言う。

 今日の夕刊の片隅に載っていた記事。
 状景がまざまざと浮かんだ。

 人気がなくなるまで物陰に潜んでいる時の呼吸の音。
 展望台から見た東京の夜景。
 椅子で窓を破った時の手応え。吹き込む冬の風。
 身を乗り出して見た下界。落下の加速度。

母親を殺した19歳は自分で通報した。
 署員が駆けつけた時はまだ包丁が腹に刺さったままだった。
 母親は一時間半後に死亡した。
 警察が来るまで、この母子はアパートの中でどう向き合っていたのだろう。
 息子は、殺した理由を自分で見つけることが出来るのだろうか。

 いちにちの中のたくさんの私たち。
 いま、ここに連なるたくさんの深い穴。
 穴は深ければ深いほど自分自身だ。

2002/02/08(金) モモノハナ

 川砂利を、スコップで手下ろし。
 スコップは持ち方で、この手の仕事に慣れているかどうかが分かる。
 土や砂利を掬(すく)う時、片手をスコップの首の方へ滑らす。
 両腕とスコップの作る三角形を狭めたり広げたりする。
 このリズムで遊ぶようにやる。

 今日は春のような陽気だ。
 シャツを掛けた桃の枝も花芽を膨らませていた。 
 酒癖の悪い中也が、太宰を餌食にして、
 「何だ、おめえは。青鯖が空に浮かんだような顔しやがって。全体、おめえは何の花が好きだ?」と搦(から)み、太宰は泣き出しそうな顔で、「モ、モ、ノ、ハ、ナ」と応えたそうだ。 (壇一雄の回想より)

 また春がくる。
 もうすぐ「日のすきま」も、丸一年になるんだなぁ…。

2002/02/10(日) 共感する細胞

 寒い日。
 朝から百舌の声がする。
 午後には少し雪もちらついた。
 ストーブの前で本を読む。
 そうして日が暮れた。

 休みの終わりはいつも、為すところなく日が暮れたという感になる。
 やりたいこと、やるべきこと、やり残したことの前で途方に暮れる。
 たぶん、未来にじかに晒されるからだろう。
 こんな不安定な虚時間があるから言葉は始まる。

 取り溜めしておいた録画ビデオでミラーニューロンのことを知る。
 ミラーニューロンとは、他人の行動をあたかも自分の行動のように感じ取ることが出来る脳内細胞のことだ。
 1998年にイタリアの科学者がサルの脳を研究していて偶然発見し、発表した。
 遺伝子の二重らせん構造の発見に匹敵するぐらいの大発見と言われる。
 子どもは大人の物真似をすることによってこの細胞を発達させ、成長してゆく。

 はっとしたのは、このミラーニューロンがある脳の場所が、言語に関係すると言われるブローカ野(運動性言語野)にあることだ。本来ここは、言葉を話すときに働く部分だ。

 言葉と共感の細胞的場が同じであること。
 言葉は私からというよりも、あなたへの共感から始まったと言うこと。
 言葉はそこで発達して還り、私の思考になったということ。

 だからなのだろう、名付けようのないもの、不安定で虚ろなもの、未知なもの、心細いものに出会うと、言葉を立てたくなる。そのようにして自分を確かめたくなる。

 なぜなら私とは、あなたへの共感の中で作り上げられた言葉なのだから。
 言葉だけがある。

2002/02/11(月) 白梅

 大きな白梅のとなり、
 ヤマモモの剪定をする。
 ときおり木のふところから
 枝葉を通して梅の花を見る。
 梅の花は梅の花だけれど、
 それがそれ以上になる時がある。
 風景の、
 質感のようなもの、
 有ることの、
 広がりのようなもの。
 樹冠から身を乗り出すと、
 花びらや蕾がすぐそばにある。
 大きく息を吸って、
 梅の花、梅の花、梅の花、空、
 光。

2002/02/12(火) 五郎太石

 からはまの掃除。
 五郎太をひとつひとつ撫でながら、枯葉や泥を取ってゆく。
 石どうしをコツコツ打ち付けて、ぽいと向こうへ放り寄せ、ゴミを手箒で取ってゆく。
 コツコツ、コツコツ、サッサ、コツコツ、コツコツ、サッサ、
 バサッ、とパイスケに空け、一杯になったら運ぶ。
 それを日がな一日。
 ハサミムシ、ミミズが何匹か出てきた。
 冬ごもりしていた小さなものたち。
 死角の方には名の知らぬ鳥が、チョイチョイ、チョイチョイと…。

 ごろごろごろごろ五郎太石。
 なんで五郎太と名付けられた?

 このあいだ古新聞を読んでいたら、聾で女優の忍足亜希子という人がこんなことを言っていた。

 子どもの頃から耳が聞こえなかったので、マンガの擬音語、擬態語は、実際の音を想像するよいテキストだった。だから、「雪がこんこんと降る」、「あたりがシーンとする」といった擬態語は実際に、「こんこん」「シーン」と言う音がしているんだと思っていた。

 擬態語は、手元の辞書では『視覚・触覚など聴覚以外の感覚印象をことばで表現した語。「にやにや」「ふらふら」「ゆったり」の類』とある。

 忍足亜希子は「にやにや」した人、「ふらふら」した人、「ゆったり」した人の周りにはこんな音がしていると思っていたのだ。なんて素敵なことだろう。

 五郎太石は、動かなくても、ごろごろした音が聞こえるから、ゴロタ石なんだな。

2002/02/14(木) 草原の人

 モミジの枝を鋏むと、みるみる水が溢れ出た。
 舐めてみたら少し渋い味がした。
 このところの好天でもう根が動きはじめたのだろう。
 ふるえるような細根が大地に吸い付いている。
 こくこくと水を飲んでいる。

 梅の香の方からカタカタ、カタカタ、と早い音がするので何かと思った。
 茶褐色のスズメ大の小鳥だった。
 尻尾を振りながら声を出す。
 図鑑で調べたらウグイスらしい。
 ウグイスはいわゆるウグイス色しているのかと思ったら、それはメジロの方で、ウグイスは笹藪の中などで地味な色をしているのだと言う。
 ウグイスの地鳴きは、チャッチャ、チャッチャとある。
 カタカタ、とは違うなあ…。

 小鳥ひとつをとっても身近なものが見えていない。
 周りが見えるということは大切なことだ。

 このあいだテレビでモンゴルの遊牧民が羊を屠(ほふ)る情景を映していた。
 草原の人は生きたままの羊の胸に10cmほど刃を入れ、手で心臓を探り、動脈を締めた。
 静かに作業は行われた。
 羊はほとんど暴れることをしなかった。
 地に一滴の血をこぼすことなく羊は屠られた。

 この人は草原にあるもの総てに知悉している。
 羊を眠らせるように殺し、たぶん自分も眠るように死んでゆくのだと思った。

2002/02/20(水) 沈丁花

 あたたかい日和。
 管理している集合住宅の植木に施肥してまわる。
 寒肥のつもりが、もう沈丁花が香りだした。
 花の側を通るたびに香りを楽しむ。

 沈丁花は東京の香りだった。
 東北の田舎町から上京したての頃、
 路地を歩くとどこからともなく甘く濃厚な香りが届いて驚いた。
 住居が密集し、複雑な生活空間があり、人の手が行き届いている。
 そんな都市の路地、早春の気韻だった。

 いまはもうないが中野の江古田に結核の療養所があった。
 二十歳の秋に両肺に穴があいて強制入院させられた。
 半年寝て暮らすうちに、すっかり足腰が弱ってしまった。
 退院間際にリハビリを兼ねて近くの寺の境内を散歩した。
 今日のようにあたたかな日和で梅が咲いていた。
 ふらふら歩いていると息切れしてへたり込んでしまった。
 そこへ沈丁が香った。
 身に沁みた春。

 そんな日のすきま。

2002/02/25(月) また来る春

 大きなコブシの木の下 竹を洗う
 汚れの下から浮き上がる 美しいもの
 水の 山の 草の 空の 色

 午後から中学校の桜の枝を下ろす
 桜も花芽が色づいた
 下ろした枝にも桜の花芽

 また春が来るな
 言葉がひとり恥じらうな
 色を感じるたびに こころが遠くなるのは
 きっと誰かの懐かしいこころなんだろう

 日が長くなった
 まだ明るいうちに家路を辿る
 キャベツ畑も もう終わりだ
 収穫の後 一面に散らかった葉の色がある

2002/03/10 (日)  ontological anxiety

 見事な陽気。
 散髪屋から帰って、「存在論的不安だ、散歩してくる」、
 と云ってまた自転車に跨る。
 路地のハクモクレン、シモクレン、一気にこぼれている。
 カメラ屋の横のサクラが満開だ。
 (たぶん罠だろうな)
 街道筋に出る。
 いつも気になっていた屋敷林に今日は潜入する。
 「無断立入禁止」の札の奥に道は続き、どこまでも屋敷は見えない。
 迷い込んだ風を装って杉並木の中をゆく。
 庭門が見えて、その奥の、大王松が見事に手入れされて見える。
 ヒバもヒノキも 繊細、雄大、隅々まで気を通してある。
 私は怖くなって引き返した。
 けれど漕いでも漕いでも進まない。
 坂道だし向い風だからだな。
 こんなとき人は物の怪の仕業だと思うのだな。
 冷静に分析している。
 正面突破はやめて搦手(からめて)から攻めることにする。
 街道を大廻りして、横道があれば入ってみる。
 道はすぐ行き止まりになる。
 もうかなり廻ったのに城には届かない。
 私は測量技師だったのか。
 馬小屋の横に大きな坂がある。
 マントを靡(なび)かせ一気に下ると右手に深い森があった。
 自転車のまま入る。
 木漏れ日、木の芽風、静けさ。
 あああ、いいなあ、うれしくなっちゃった。

                            ( = joy of nonbeing)

2002/03/14 (木)  松風

 小学校の裏庭で伸び放題になっていた黒松の枝下ろしをした。
 隣地に張り出して影を作っていたからだ。
 自然樹形の松は枝がもろい。
 残したい細枝が少し触っただけでもげてしまう。
 幹にかじりついて鋸(ノコ)を振るっていると、
 足下の自然菜園に低学年の子どもがノートを持ってやってきた。
 中年の男先生が説明する。
 「これが白菜です。うまく葉が巻かないでいます。このまま放っておくと菜の花のような花を咲かせます。これがブロッコリーです。この小さなつぶつぶが花になります」
 先生はこちらを全く無視している。せっかく働くオジサンが上にいるんだからうまく教材として使えばいいのにな。
 それよりも、枝下ろししている真下に子どもを入れちゃ危ないんだけどな。
 そんなことを思いながら木の上で鋸を休めて先生の説明を聞いていると、おかっぱ頭の女の子と目があった。
 Vサインして応えると、ころころ笑った。こちらも照れて枝を上った。
 この学校は丘の上にあるから、木の上にいると辺りがぜんぶ見渡せる。
 アンズが咲いて、コブシが咲いて、レンギョウが咲いた。
 住宅で埋め尽くされた谷を渡って松に風が吹く。
 春の松籟もいいものだ。

 午後、下ろした枝を運んでいるとショウリョウバッタが飛んだ。
 いやオンブバッタか。
 こいつらのこともよくわからない。
 オオイヌノフグリの草むらをハイテク機器が移動する。

2002/03/19 (火)  春霞

 暖かくなると夜は筋肉が火照って頭に血が廻らなくなるから、小鳥のように早く寝る。
 夜明け前に起き出し窓を開けると、薄霞(うすかすみ)の中に眠っていた物達が現れる。
 駐車したクルマ、空き地の菜の花、草、電柱、自転車、…、…、
 それらは本当にそこにいたのか。
 いま戻ったような顔をして、お前の場所が落ち着かないぞ。
 鳥が起き出した。
 電車が動き出した。
 街灯が消えた。
 朝日が伸びてゆく。
 光る菜の花…。
 みんなしだいに己の役割に目覚めてゆくのだな。
 私も私の役割を着て、朝を整え、出てゆかなければならないのだな。

2002/03/21 (木)  岡本

 岡本が近くの体育館に来る。
 あちこちにポスターが張られ、その隅っこで岡本はファイティングポーズを取っている。
 ガソリンスタンドで半額立見券が手に入ったのできのうの仕事終わりに見に行った。

 体育館はアパートから自転車で5分の所だ。
 少しドキドキしてゆくと、岡本はいきなり受け付け入り口に座っていた。
 疲れた暗い顔をしている。
 岡本とは中学で一回だけ柔道をしたことがある。
 不良どもの中にいながら、いつも恥ずかしそうな笑みを浮かべていた。
 あれからもう何年だ。
 ときおりテレビのバラエテイ番組に出ているのを見た。
 アフロの頭でマット上を滑ってゆく至芸があるという。
 岡本はテレビでも恥ずかしそうにしていた。

 入り口でビニール袋を渡されて体育館に入ると、
 中央にリングが設置され、周りにパイプ椅子が並べられていた。
 地方巡業のダレた雰囲気が漂う。
 通路ではやさぐれたオヤジがオデンなど煮ている。

 女子レスラーがモーニング娘。のような歌を唄っている間、
 岡本はひとり、女子レスラーのグッズ売り場で店番をしていた。
 中学の頃と変わらぬ内気な目線を下ろしている。
 声をかけようか、試合を見てからにしようか、と迷っているうちに、
 ミゼットプロレスは終わってしまった。
 岡本は試合に出なかった。
 結局、声を掛けずに帰ってきた。 

 家に帰って岡本のリングネームで検索をかけると、ファンサイトもあり、女子プロレスが傾きかけている中、テレビの着ぐるみ仕事もあって人気者だという。

 岡本は深い倦怠の目をしていた。

 私はしゃぼしゃぼと自転車をこいで帰った。

2002/03/27 (水)  雨

 朝から篠突く雨が降り注いだ。
 いちにち毛布にくるまって部屋の中にいた。
 ときおり窓から雨の降るのを見た。
 畑の向こうのマテバシイの葉群の中へヒヨドリか何かがしきりに出入りしている。
 ヒーヨ、ヒーヨという声が雨の向こうにかしましい。
 ヒナでも育てているのか。
 畑の野菜が一面に雨を受けている。
 畑の野菜が雨を受けるとはどういうことなんだろう。
 地べたに寝ころんで雨を受け、髪や手足を濡らす。
 胸や腹を濡らす。
 空が一面降りてくる。

 西の空が夕焼けた。
 薄いゼリーのような空。
 こんな空を漆黒の宇宙から見たことがある。
 写真集だったが。
 人間は寒天のような大気の底にへばり付いて生き死にしているんだと思った。

 明日は晴れるだろう。
 稼がなくてはな。

2002/04/10 (水)  空をゆく

 植木を4tクレーンで吊り、旋回する。
 4月の曇り空をゆく木々たち。
 まさか自分が空を飛ぶとは思わなかったろう。
 根を切られ、枝葉を剪られ、見知らぬ土地に植え付けられる。

 少しずつ荷造りをしている。
 スーパーへゆけば自由に持ち帰ってよいダンボール箱が置いてある。
 いままでの引っ越しは全部ダンボール箱で済んだ。
 机や洗濯機は知り合いにくれてきた。
 二十数箱のダンボールをクロネコに預けてそれで終わりだった。
 いまは相方がいるのでそうはいかない。
 いや、その前に引っ越し先を決めなくてはな…。

 まだ仕事中で身動き取れないのでインターネットで色々調べている。
 借家を紹介する村もある。
 どんな土地に根付くのだろうか。まあまあ、
 それまでは、
 ゆや〜ん、ゆよ〜んと空をゆき、
 空に浮かんでいることを楽しんでいよう。

2002/04/12 (金)  断層

 最後の仕事は雨の中、公園の草むしりだった。
 咲き始めたヒラドツツジの花の香を鼻先に、つくばって草をむしった。
 ホトケノザ、ハハコグサ、ハコベ、スイバ、タンポポ、ナズナ、…、
 春の柔らかい野草たち。
 雨の日は草を抜きやすい。
 きれいにしたこの土はまた新たな草を芽吹かせるのだろう。

 草むしりは無心になれて好きな仕事だが、仕事の単価が安いので経営は大変だ。
 正月開けてからこんな仕事が続いていた。
 いつもは公共工事で一番忙しい時期だ。
 残業、残業で、体重が3〜5キロは落ちる。
 それが今年はまだ明るいうちに家路を辿ることが多かった。

 私も辞めてゆく身だが、周りからも厳しい話が聞こえてくる。
 付き合いのあった石屋は長年勤めた番頭を辞めさせた。
 在庫がは捌(は)け次第、店も畳むつもりだと言う。
 下請けのM造園は、10人もの職人を抱え、仕事が取れず、
 心労で社長は鼻血が止まらなくなり、入院したという。
 出入りの竹屋はデパートに勤めていた息子を跡継ぎにしたが、
 売り上げが悪すぎて、息子はまた勤めに出始めた。

 社会の構造が変化するにつれ、日々に不連続の断層が出来る。
 いま私たちはその断層を見させられている。
 面白いと言えば面白い、きついと言えばきつい、そんな時代の節目にいる。
 私としては、自分にふりかかる現実を日々のすきまに刻みながら、
 それがより根源に開くことを求めてゆくしかないのだろう。

 仕事上がり、詰め所で送別会を開いてもらった。
 この会社には4年3ヶ月いた。
 家に帰り、もうしばらく弁当はいらないよ、と伝えると、
 妻は「ごくろうさまでした」と微笑んだ。

 風呂上がり、ビールを飲んでいると、どっと疲れが押し寄せてきた。
 泥のように眠った。

2002/04/14 (日)  ごきげんよう

 時代劇のような漁師町でかき氷とおでんの両方をやっている屋台があり、真田広之が威勢良く売っていた。
 私は横からまじまじと見つめ、どういうふうにやるのか覚えようとした。
 これからは自分で何かを仕掛けて喰ってゆかなければならない。
 もう無辜の消費者というわけにはいかない。みな何かを表現することで生きてゆくのだ。
 そんな朝の夢。

 いちにち本のダンボール詰め。
 録り溜めたビデオを見ながら。
 イスラエルはシャロンの方法では未来が無いことに気づきはじめている。
 憎悪だけが生きる縁(よすが)になっている人々がいる。
 人の魂とは無関係に銃火器は作動する。
 根拠の無い始まりが根拠の無い終わりへ向かう。人はそれを歴史とよんでいる。
 どんなOSとも心中するのはごめんだ。
 それだけが根源の自恃だ。

 夕方、積めるだけのダンボールを軽トラに乗せた。
 明日、阿武隈へ向かう。
 取りあえず両親の家を拠点に借家探しをする。
 無職の身に貸してくれる家は少ないだろう。
 山奥の村の借家紹介にもあたってみる。
 思いがけない田舎暮らしになるかも知れない。
 そしたら本当に『るーとらの秘密基地』になってしまうな。(^^)/

 というわけで、明日からしばらく「日のすきま」お休みします。
 通信環境が整ったらまた再開します。
 ゲリラ的にどっかのインターネットカフェでアップするかもしれません。
 毎日しこしこ書き綴って、後日一気にアップするかもしれません。
 では、みなさんごきげんよう。