るーとらの秘密基地
blog「日のすきま」 小梅blog 抜け道 更新履歴
松吉
■カイエ
■日のすきま
■メルマガ「日のすきま」
■月のすきま
■植木屋雑記帳
■詩集『日の採集』
■詩集『ひまわり』
■詩集『サマータイム』
■くうくう!
■MK対話
カイエ

群れること

 群れることはあながち悪いことではない。問題なのは群れていることを自覚しないことだ。死ぬのはひとりだ。ひとりになったときに無自覚な群れは依存の責任を誰かに転嫁しようとする。サカナの群れ。きょろきょろと前後左右を気に掛けて、自分の位置の修正に汲汲している。そうしてあれが死に、かれが死に、じぶんが死ぬ。ふと空っぽになったこころで考える。群れとは何だったのか。じぶんとは何だったのか。

 群れの本当の特徴は、群れには主体がないということだ。リーダーらしき者や地位や機構はある。だがそれらは主体ではない。群れの主体はその群れが死滅したときにはじめて現れる。幻想。あの群れはこんな幻想を抱いて死滅した。この群れはこういう幻影と一緒に消えた。歴史家の仕事はそのことを明らかにすることにある。

 ひとはなぜ群れるのか。
 ひとはどのようにしてじぶんの群れを対象化するようになったのか。
 ここにはたぶん死の恐れと死の自覚が深く関わっている。

 だがここでふと考える。ほんとうに「死ぬのはひとり」なのか。「ひとりでうまれひとりでしぬ」。…なにか息苦しい理屈、限定された描法のような気がする。近代や現代はそのことの回廊のなかに閉じ込められているようだ。「個」という新しい風景。その風景がほんとうにリアルで深い風景なのか、もう一度最初から感じ直して考えてみる必要があるのかもしれない。