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百物語 ■脱ぐ女
むかし、わたしは、意識を球形に膨らませ、空飛ぶ鳥や風、地下の化石や水、前方遠くの高層ビルや背後の公園の木々、…等々、とにかく、感知するものに触れながら、ゆらゆら歩くのが癖でした。船酔いのような不安や悪心はありましたが、求めるものがありましたので、それが何かは掴めなくとも、リアルの方向は知っているつもりでしたから、そうやって、ふわふわふわふわ歩いているのでした。駅に向かうとたくさんの人とすれ違います。すれ違う度にその人の歴史のようなもの、過去と未来の映像のようなもの、その人をかたち作っている関係のようなものが、瞬時に侵入して勝手に物語り、ひどく疲れました。深夜、歩きくたびれて、アパートに戻り、熱い紅茶などを飲んで、じっと机の染みなどを眺めていると、意識は高速で銀河をめぐり、わけのわからぬ暗黒をゆき、公理や定理の<外>を生臭く嗅いでいました。ふと戻ると、ひどくお腹が減り、背骨や脳髄はまだ魚のままで、指先は青白いのでした。
そんな時、<物>は確かに<動いた>のです。生理不順だし、人のこころが分からぬし、わたしは若年でした。日に一度は頭痛がし、アルバイトの時給は安く、暮らしは楽ではありませんでした。わたしは眠れずに歩き回るよりは、何か仕事をした方が良いと思うようになりました。それで穴蔵のような地下の舞台で踊るようになりました。カクテルライトを浴びながら、音に身を溶かし、少しずつ衣服を脱いでゆくと、男たちは、野の生き物が遠い月を見上げる時のように、まぶしげにわたしをみつめるのでした。わたしはそんな男たちの孤独なにおいが好きでした。そしてそうやって朝を迎えて初めてわたしは泥のように眠るのでした。そのうち、請われてわたしは歌を唄うようになりました。もう裸になる必要はありませんでしたが、わたしは自分の身体などどうでもよかったので、声を脱ぐように唄いました。それはわたしの貧弱な身体を晒すよりも、男たちのこころに触れるようでした。
<物>は静かに動きました。それは不可思議ではなく、<断念>のようでした。どんなにしても唄っても飢えた気持は癒せませんでした。お腹の底から声を出すには、たとえば空の月の<1>は欠落なのでした。月が<2>なら、ふたつあれば、わたしがわたしを見る目も、やわらかなカーブを描いたろうにと、そう思うのでした。
たぶん<わたし>は<1>ではないのでしょう。たぶんひとは<1>が何であるかを知らないのでしょう。ひとつひとつの<物>は全体が見ている<夢>なのでしょう。これとあれの<関係>は、<これ>があって<あれ>があって、両者を<関係>という媒介項が結んでいるのではないのでしょう。ただ出来事の全体が、<これ>と<あれ>と<関係>と言う夢を見ているのでしょう。わたしはただ夢をクリアに見たかったのです。わたしは恋歌をうたいました。声を脱ぐように唄いました。
わたしは夢をみる
夢をもっとはっきり見るために
わたしは夢をみる
ここがどこかを知るために
いつかある日
お月さまがうたってくれる
ふたりは
ひとりよりも
もっとひとりなんだって
あなたの目の中の金色のお月さま
とても綺麗よ
ひろくて
ふかい 夢をみている
わたしは夢をみる
あなたをもっとはっきり見るために
わたしは夢をみる
あなたが誰かを知るために
…………………………
<物>は不意に動きました。それがまるで<外>であるかのように。机はぼんやりし、その上をコップが「つ」と泳ぎました。壁は隣の壁の接点に向かって意識を集中し、消えてしまいたいようでした。床と天井は重力と引力の間で討議を重ね、別の力を呼び込みたいようでした。わたしは中空に明滅するベビーユニバースの数を数えて、なぜそれらは、詩うのだろうと考えていました。
むかし、わたしは、生きることがわからず、昔、わたしは、死ぬことがわからず、ただ男たちの前で、こころを脱ぐように唄っていました。<もの>たちは、わたしの暮らしまわりで踊り、息づき、詩っていました。
そしていま、わたしがどうしているかと言うと、
それは、あなたの夢の奥で、
もう、
伝えてしまいました。
これでわたしのロウソクは消させていただきます。
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