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ある日


 坂を降りたカーブのところで、管理人のおばさんや、近所の奥さんたちが騒いでいるので、なんだろうと思って近づいたら、蛇がいた。
 やわらかいwのかたちで、こちらを睨みつけている。
 「死んでいるの?」
 「どこにも傷はないわよ」
 「でもさっきから動かないじゃない」
 「だれかなんとかしてよ」
 わたしは爪先でそっと触れてみた。
 死んでいる・・・。
 奥様たちがキャーキャー言うのをBGMに、わたしは素手で触れてみた。
 蛇はそのままのかたちで持ち上がった。
 乾いて体温は無く、ウロコが少しざらざらして、なかの骨がきしんだ。
 よく見ると口から少し血を吐いていた。

 わたしは蛇が無条件に嫌いだった。長すぎるし、動きが邪悪だった。時々先の割れた舌を、ちょろちょろ出すしぐさは理解を越えていた。t・vの映像で出るだけで、反射的にチャンネルを変えた。

 けれどもそんなわたしが今日、初めて蛇に触れたのはたぶんその見開いた「眼」のせいだった。
 それはあまりに孤独に「死」を見つめていた。それは生きるために殺してきたたくさんの「命」に張りつめ、それを凌駕した「眼」だった。

 わたしは1mほどのその蛇を、誰もいないところまで運び、ゆっくり草に泳がせたかった。

 けれど、わたしの野原までには、いくつかの交差点を通り、いくつかの信号を待たねばならなかった。蛇をぶら下げたわたしを見るたびに、ひとびとは、一様に息を飲み、凍り、その下腹を重くした。
 わたしはこの日常を、蛇とともに横断することに興奮した。

 わたしのひまわりのスカート、わたしの不眠の緑のシャツに、わたしの蛇は綺麗に似合った。歩く振動でいつの間にか蛇は柔らかく伸び、下にさがった口からは深紅の血が垂れていた・・・。

 わたしは蛇が古来、「性」の象徴とされて来たのがよく解った。この長すぎる脊椎。脊椎は海からの生命の記憶であり、一度海から「弱さ」の故に川に追放された魚の祖先たちが胎内に貯蔵した「新しい海」なのだ。「弱さ」は「環境」と対立するのではなく、「環境」を取り込むことで、その「やわらかさ」で命を伝えて来た。いま、その「やわらかさ」が上陸し、野原をくねった。幾
時代かが過ぎて車道を横切り、轢かれて死んだ。わたしの手に身体を預けたこの死体。凶暴を装ったその背に反し、腹は薄く白くいたいけに、臓器を包んで柔らかい。薄い幾枚もの鱗。魚の記憶がぬぐい切れないのか。でももうどうしようもないものがお前を上陸させ、奇形の身体、長すぎる背骨をくねらせたのだろ?
 「性」はどうしようもない。「性」はわたしを越えて奔(はし)り、くねり、奇形の肢体に「海」を波立たせる。どうしようもないわたしは海だ。狂おしくうねる全生命の記憶だ。

 ひとびとは蛇を忌避する。アダムとイブは邪悪な蛇に「性」を教えられ、楽園を追放されたという。

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 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。主なる神は人に呼びかけて言われた。「あなたはどこにいるのか」。彼は答えた。「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。神は言われた。「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。人は答えた。「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは
食べたのです」。そこで主なる神は女に言われた。「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた。「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。主なる神はへびに言われた。
 「おまえは、この事を、したので、
  すべての家畜、野のすべての獣のうち、
  最ものろわれる。
  おまえは腹で、這いあるき、
  一生、ちりを食べるであろう。
  わたしは恨みをおく、
  おまえのすえと女のすえとの間に。
  彼はおまえのかしらを砕き、
  おまえは彼のかかとを砕くであろう」。
 つぎに女に言われた。
 「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。
  あなたは苦しんで子を産む。
  それでもなお、あなたは夫を慕い、
  彼はあなたを治めるであろう」。
  更に人に言われた。「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じ た木から取って食べたので、
  地はあなたのためにのろわれ、
  あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
  地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、
  あなたは野の草を食べるであろう。
  あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、
  あなたは土から取られたのだから。
  あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。
                      (旧約聖書「創世記」第三章)


 ひとは「神」を創造し、「神」に生命記憶を預け、この狂おしさから逃れようとした。「あなたは、ちりだから、ちりに帰る」・・・このように自己のアニマに語らせる、せつない伏せ目の聖書の語り手が見える。この語り手は「全体」を見ることの恐ろしさを知っている。それは「人間」を壊す視力だ。けれどだからこそ聖書は全体として読まなければならない。「部分」の解釈は腐った「教団」を産む。「全体」は語ることができない。それは「詩」として感じうるだけだ。

 わたしは死んだ蛇を、わたしのエデンの園、わたしの野原に放った。蛇は静かにやわらかく血を啜り、わたしを顧みることなく去って行った。