doppel・ganger
こんなことがありました。
疲れているのに眠れなくて、机に向かってぼんやりしていたんです。
外はしのしのと雨が降っておりました。私はなぜか雨の夜は眠れなくなるんです。肺の中が濡れるような感じで、身体の中に雨の映像があるんです。
そんな夜でした。誰かが玄関のドアをノックするんです。こんな真夜中いったい誰だろうと思いました。もしかしたらあの人が来てくれたのではないか。さみしい夜でした。
けれどドアを開けても誰もいないのです。冷たい春の雨が降っているだけでした。つぼみを持った桜の枝々が向こうの街灯に照らされていました。コブシの白い花弁がいくつも地面に落ちていました。それらはみんな濡れていました。
あの人が来るわけがない。私はぼんやりと机のある部屋に戻りました。机には死んだ叔母が買ってくれた卓上灯がともっていました。壁際に置いたラジオからは誰かの変奏曲が聴こえました。その前にコップがあり、冷たい水が光っていました。机の前には黒革の椅子があります。そしてその椅子の上に私が座っていました。
私はぼんやりと哀しい思いで私の背中を見つめました。恐怖よりも哀しさがあったのです。すぐそばの私は、宇宙のように遠い距離にあるのに、なんらかの操作でここに画像を結んでいる。そんな感じでした。私はたぶんその入れ子のように奇妙な距離感を哀しいと感じたのだと思います。
それから私は振り返りました。こんな私をまた見つめる私がいるような気がしたのです。けれどそこには、…あれはなんと言ったらいいんでしょう。全くなんでもないもの、虚空の虚空とでも言えばいいんでしょうか。言葉には出来ない、ただ全くなんでもないもの、それが強烈な実在感とともに、「開かれて」あるのでした。
私は哀しいという感傷から非常な緊張の方へと全身を強いられました。しっかり覚醒しないと「開かれた」ものに飲み込まれそうだったからです。私がなくなる。そんな感じがしたのです。
けれど「開かれた」ものを背後に椅子の上のもうひとりの私は、ただ静かに微笑んでいました。私は初めて恐怖を覚えました。ぞっとしたんです。ひったくるように机の上のコップの水を飲み干しました。
私は庭に出ました。馬酔木の花が部屋の明かりに照らされてぼんやり浮かんで見えました。細かい雨をうけて、薄紅色の縁取りのある小さな花が暗闇の中に揺れていました。その様子を長い間見つめているうちに、私は私に負けたんだな、私はなくなるんだな、それは初めからそうだったのかも知れないな、と、そんな考えが静かに腑に落ちてゆくのでした。
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