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 カナヤマ 日本歴史 辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 は 』。

 

 

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□ 日本史 辞典 (総合)  

□       ● 事柄順。

〇 はっ   服部半蔵

             (はっとりはんぞう)。 

          (戦国時代〜江戸時代)。

             ○ 服部半蔵は、

          代々「半蔵」を通称の名乗り

                     とした服部半蔵家の歴代の

          当主達である。

             ○ 服部半蔵は、

          初代半蔵・保長は伊賀出身

          の忍者であり、 2代半蔵・正成

          や3代半蔵・正就は武士で徳川

          家家臣で忍者の統率者であり、 

          4代半蔵・正重は武士で徳川家

          家臣で佐渡金山同心、後、久松

          松平家家臣である。

 

〇 はっ  服部半蔵 正成

             (はっとりは んぞう  まさなり・まさしげ)。

             ○ 服部半蔵 正成は、

           2代目服部半蔵である。

             ○ 服部半蔵 正成は、

           戦国、安土桃山時代の戦

           国武将で、鬼半蔵と呼ば

           れる。

             ○ 服部半蔵 正成は、

           徳川氏の忍者の統率者

           でもある。

 

 

□ 日本史 辞典 の「 は 」 基本見出し語

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■  『 現在は、過去の成果であり、

    未来は、現在の成果である。 

 

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◆ 日本史辞典。

 

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#ha

 

#hattorihanzo

 

■ 服部 半蔵  

     (はっとり はんぞう)。

     (= 服部半蔵家の歴代

    の当主達)。

 

■ 服部半蔵。

■ 時期 : 戦国時代(室町時代後期)〜江戸時代。

■ 名称 : 服部 半蔵 (はっとり はんぞう)。 

● 代々「半蔵」を通称の名乗りとした服部半蔵家の歴代の当主達。

■ 服部半蔵家の初期の当主4人。

● 戦国時代(室町時代後期)、安土桃山時代、江戸時代初期にわた

 り活躍した、服部半蔵家の初期の当主4人 (初代、2代、3代、4代

 の服部半蔵)。

● 初代半蔵・保長(やすなが)は伊賀出身の忍者、 2代半蔵・正成

 (まさなり/まさしげ)、3代半蔵・正就(まさなり)は、 武士で徳川家

 臣で、忍者の統率者、 4代半蔵・正重(まさしげ)は、武士で徳川家

 臣で、佐渡金山同心、失脚し、その後、 久松(ひさまつ)松平家(伊

 勢・桑名藩)家臣。

■ 5代目以後の半蔵も、 久松(ひさまつ)松平家(伊勢・桑名藩) の

 家臣として、 江戸時代に存続した。

■ フィクションの世界 では、 服部半蔵は、 戦国時代(室町時代後

 期)から江戸時代までの時期の、 伊賀の忍者として描かれているこ

 とが多い。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11816。

 

 

■ 服部 半蔵 (はっとり はんぞう)とは、 代々「半蔵」を通称の名乗

 りとした服部半蔵家の歴代の当主達である。

■ 服部半蔵家の初期の当主4人。

● 戦国時代(室町時代後期)、安土桃山時代、江戸初期にかけて活

 躍した、 服部半蔵家の初期の当主4人 (初代、2代、3代、4代の

 服部半蔵 が いた。

● 初代の服部 半蔵 (=服部半蔵(半三)保長) は、忍者だったが、

 2代、3代、4代目の服部半蔵は、 武士で、 徳川家家臣 であった。

■ 初代半蔵・保長(やすなが)は伊賀出身の忍者で、 2代半蔵・正成

 (まさなり/まさしげ)、3代半蔵・正就(まさなり)は、武士で徳川家臣

 で 忍者の統率者で、 4代半蔵・正重(まさしげ)は、 武士で徳川家

 臣で佐渡金山同心であったが失脚し、その後、久松(ひさまつ)松平家

 (伊勢・桑名藩)家臣となる。

■ 初代の服部半蔵の、初代半蔵・保長(やすなが) は、 戦国時代

 (室町時代後期)の、伊賀出身の忍者であった。

■ 2代、3代、4代目の服部半蔵は、 武士で、 戦国時代(室町時代

 後期)、安土桃山時代、江戸時代初期の武士で、 徳川家譜代家臣 

 であった。

● 2代、3代目の服部半蔵の、2代半蔵・正成(まさなり/まさしげ)、3

 代半蔵・正就(まさなり) は、武士で、 徳川家譜代家臣で、 忍者の

 統率者 であった。

● 4代目の服部半蔵の、4代半蔵・正重(まさしげ) は、武士で、 徳

 川家譜代家臣で、佐渡金山の同心だったが、失脚し、その後、 久松

 (ひさまつ)松平家 (伊勢・桑名藩) の家臣となった。

■ 5代目以後の半蔵も、 久松(ひさまつ)松平家 (伊勢・桑名藩)の

 家臣として、 江戸時代に存続した。

● 5代目以後の服部 半蔵 (服部半蔵家)は、 久松(ひさまつ)松平

 家の、 伊勢国(いせのくに、現在の三重県中央部)の桑名藩、 の家

 臣として、 江戸時代に存続した。 

 

■ フィクションの世界 では、 服部半蔵は、 戦国時代(室町時代後

 期)から江戸時代までの時期の、 伊賀の忍者として描かれていること

 が多い。

 

■ 皇居の、「半蔵門」 (はんぞうもん)。

● 「半蔵門」 の名称 は、 江戸城の警備を担当していた徳川家

 の家来の服部半蔵正成・正就父子の通称「半蔵」 に由来する。

● 「半蔵門」 の名称 は、 江戸時代初期、 江戸城の西端の、その

 門の前に、 江戸城の警備担当の、 (服部半蔵正成・服部半蔵正就

 ・父子の) 服部半蔵家の屋敷 や その部下の組屋敷 (甲州街道

 沿い) があったので、 服部半蔵正成・正就父子の通称「半蔵」から、 

 「半蔵門」 と言う名前がつけられた。

● 服部半蔵正成(2代目の服部半蔵)、 服部半蔵正就(3代目の服

 部半蔵) は、武士で、徳川家譜代家臣で、 忍者の統率者であった。

● 半蔵門前の、甲州街道は、江戸城に直結する唯一の街道で、将軍

 家に非常事態が起こった場合に江戸を脱出する要路になっていたと言

 われている。

● 服部半蔵家の改易後は、 伊賀組は江戸城内 (大奥、中奥、表等)

 を警護し、 甲賀組は、江戸城の場外の門を警護したという。

 

 

■ 初代の服部半蔵 は、 服部半蔵(半三)保長(やすなが)で、 伊賀

 出身の忍者で、 伊賀を出て、 室町幕府12代将軍・足利義晴に仕え、 

 続いて、 三河にて、 松平清康 (徳川家康の祖父) に仕えた。

 

■ 2代目の服部半蔵 は、 服部半蔵正成(まさなり/まさしげ)で、武

 士で、徳川家譜代家臣で、戦国武将で、 徳川家の忍者の統率者でも

 あった。

● 服部半蔵正成 は、 服部半蔵(半三)保長の四男で、 徳川家康に

 仕えた武士で、 戦国時代から安土桃山時代に活躍した戦国武将で、

 徳川家の忍者(伊賀甲賀衆)の指揮者であり、 徳川家の伊賀忍者の

 頭領 (伊賀同心の支配役) でもあった。 

  服部半蔵正成 は、 世間でよく知られている「服部半蔵」とは、 彼

 のことであり、 自身は、甲冑(かっちゅう)を着て、足軽を率いた武士

 であった。 槍(やり)の名手として知られ、 「鬼半蔵」と言われ、 戦

 国武将として、 功を成している。

● 服部半蔵正成 は、 自身は戦国武将であったが、 父親が伊賀出

 身であった縁から、 徳川家に召し抱えられた伊賀忍者を統率する立

 場になった。

● 服部半蔵正成 は、 1596年(慶長元年)11月に没し、江戸麹町

 (こうじまち)清水谷の西念寺 (東京都新宿区、安養院の後身)に葬ら

 れた。

 

■ 3代目の服部半蔵 は、 服部半蔵正就(まさなり)で、武士で、 徳

 川家譜代家臣で、 徳川家の伊賀忍者の頭領 (伊賀同心の支配役)

 であったが、任を解かれた。

● 服部半蔵正就 は、服部半蔵正成の長男で、 父の服部半蔵正成の

 死後、 徳川家の、伊賀同心(伊賀の忍者)200人の支配を引き継いだ。

  しかし、 服部半蔵正就 は、 徳川家から伊賀同心の指揮権を預け

 られたにすぎないのに、 伊賀同心を家来扱いしたため、 伊賀同心の

 反発を招き、 伊賀同心の支配の役目(伊賀忍者の頭領、伊賀同心支

 配役)を解かれた。 その後、 服部半蔵正就は、名誉挽回(ばんかい)

 のため、大阪の役に参加するが、行方不明となる (おそらく戦死した)。

 

■ 4代目の服部半蔵 は、 服部半蔵正重(まさしげ)で、 武士で、徳

 川家譜代家臣で、佐渡金山同心であったが失脚し、その後 桑名藩家

 臣となった。 

● 服部半蔵正重 は、 服部半蔵正成の次男で、 兄の服部半蔵正就

 の後を継いだ。

  しかし、 既に、 徳川家の伊賀忍者の頭領(伊賀同心の支配役)で

 はなくなっており、 舅(しゅうと)の大久保長安ともに、 佐渡金山など

 の政策を担当し(佐渡金山の同心)、 大久保長安事件に巻き込まれて、

 失脚した。

● その後、各地を転々とした後、 服部半蔵正重は、 兄嫁の実家(服

 部半蔵正就の妻は松平定綱の姉妹)の、伊勢国桑名藩・初代藩主の松

 平定綱に2000石で召抱(めしかか)えられて、 桑名藩の家老として、

 服部半蔵家は存続する (大服部家)。 また、服部半蔵正就の子の、

 服部源右衛門正辰 も桑名藩に仕えて、血統から藩主一族の扱いを受

 け、 服部半蔵家(大服部家)以上に優遇される (小服部家)。

 

 

♪♪ 服部半蔵が登場する、興味深い、

    ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 服部半蔵が登場する、興味深い、ド

      キュメンタリー。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 

   『 謎の忍者軍団 知られざる

     ‘‘ 忍びの里 ’’物語 』。 

    (NHKテレビの2009年(H21年)

     4月29日・本放送・テレビ・ドキュ

     メンタリー番組・第5回)。

 ■ 2代目服部半蔵の、服部半蔵正成 

      (はっとりはんぞう まさなり・まさしげ、

   2代目服部半蔵)が登場する。

 

 

★ 服部半蔵が登場する、興味深い、映

   画、ドラマ。

  ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

     ドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) と 

     架空の出来事が 混じって描かれています。 

     また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 梟の城 (ふくろうのしろ) 』 。 

        (英語題名:OWLS’ CASTLE) 。 

    (日本の1999年映画)。

 ■ 2代目服部半蔵の、服部半蔵正成 

      (はっとりはんぞう まさなり・まさしげ、

   2代目服部半蔵)が登場する映画。

 ■ 武将で伊賀忍者の統率者・服部半蔵

   正成の活躍、 豊臣秀吉の政治を描い

   た映画である。

 ■ 絢爛豪華(けんらんごうか)な 安土

   桃山時代を描いた映画である。

 ■ 司馬遼太郎原作の「梟の城」を映画

   化した作品。 

 

 ● 中井喜一(服部半蔵正成役)、鶴田

  真由、葉月里緒菜、上川隆也などが出

  演する。

 

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#hattorihanzomasanari-masashige

 

■ 服部半蔵 正成  

     (はっとりはんぞう 

     まさなり・まさしげ)。

    (= 2代目服部半蔵)

 

■ 服部半蔵正成。

■ 名称 : 服部半蔵 正成 (はっとりはんぞう 

              まさしげ/まさなり)。 

● 別名は、正種。 戦国武将で、鬼半蔵とも呼

  ばれた。

● 武家官名(律令官名) : 石見守(いわみの

  かみ)。  「服部石見守」と称した。

■ 生没年 : 1542年(天文11年)〜1596年

          (慶長元年)。

■ 服部半蔵正成(2代半蔵・正成)は、

  2代目の服部半蔵であり、 戦国乱世で活躍

  する。

■ 「服部半蔵」は、

  戦国時代から江戸時代まで、代々「半蔵」を通

  称の名乗りとした服部半蔵家の歴代の当主達

  であり、 服部半蔵正成は、その一人で、2代

  目の服部半蔵である。 

■ 服部半蔵正成(2代半蔵・正成)は、

  忍者ではなく、武士で、 戦国武将 であり、 

  徳川家譜代家臣であり、 忍者の統率者 でも

  であった。

■ フィクションのドラマ・映画世界では、 服部半

  蔵正成は、 戦国時代(室町時代後期)や安土

  桃山時代の時期の、戦国武将ではなく、 伊賀

  の忍者や忍者の頭領として描かれていることが

  多い。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11819。

 

□ 服部半蔵正成(2代目服部半蔵)

   が登場する、興味深い、ドキュメ

   ンタリー、ドラマ、映画

 

  ■ 服部半蔵正成(2代半蔵・正成)は、

    戦国時代(室町時代後期)、安土桃山時代

    に活躍した、武士であり、戦国武将であり、

    槍の名手であり、戦国乱世で活躍する。

 

  ■ 服部半蔵正成(2代半蔵・正成)は、

    三河生まれで、戦国武将で、徳川16将の

    一人である。

  ■ 服部半蔵正成(2代半蔵・正成)は、

    徳川氏の忍者の統率者(指揮者)であり、

    徳川氏に仕える忍者の指揮者に任じられ

    ていた。

 

■ 1582年の本能寺の変の時、 服部 半蔵 正成は、 

 徳川家康の伊賀越え(いがごえ)で、 堺にいた徳

 家康を、家康の領国の三河へ逃亡させることに成功し、

 家康の命(いのち)を救い、 徳川家の8000石の武

 士となる。

   約40名の少数のお供しかいない徳川家康にとっ

 て、 帰国の逃亡途中の伊賀越えは、非常に危険で

 あった。 秩序が乱れたときの武装した農民の武者狩

 り、徳川家に敵意を抱く者、明智光秀に味方する者な

 どに襲われる危険があった。 服部 半蔵 正成は、忍

 者の伊賀者(いがもの、伊賀衆)を説得して、味方に

 し、護衛させ、 家康一行の伊賀越えの逃亡を、かろ

 うじて成功させた。 

   服部 半蔵 正成は、武士として、三河で生まれ育っ

 たが、 服部 半蔵 正成の父は、伊賀の忍者であり、 

 服部家は、伊賀では名家の1つであったので、 忍者

 の伊賀者(伊賀衆)を味方につけるには、効果があっ

 た。

   その後、家康は、伊賀越えで、服部 半蔵正成に従

 った伊賀者を、「伊賀同心」(いがどうしん)として、徳

 川家に召抱(めしかか)え、 半蔵正成の指揮下に置

 いた。 

   1590年の徳川家康の関東移封後、 服部 半蔵正

 成は、家康より、江戸城の甲州街道に通じる門の警備

 を任(まか)された。 その門を半蔵門という。

   甲州街道は、 江戸城陥落時の徳川家の逃亡ルー

 トに想定されていた。

   また、 忍者集団の「伊賀同心」は、江戸時代に、大

 阪の陣のかく乱・情報工作、徳川家の諜報活動、江戸

 城周辺の警備、大奥の警備、甲州街道の警備などに従

 事した。 

 

■ 服部 半蔵 正成 (はっとり はんぞう まさなり/まさ

 しげ) は、生没年は、 1542年(天文11年)〜1596

 年(慶長元年) である。

■ 服部 半蔵 正成 は、 別名は、正種 で、 戦国武将

 で、 鬼半蔵とも呼ばれた。 官名は、 石見守(いわみ

 のかみ)で、 服部石見守と称した。

■ 服部 半蔵 正成 は、 2代目の服部半蔵で、 「服部

 半蔵」 (戦国〜江戸時代に、代々「半蔵」を通称の名乗

 りとした服部半蔵家の歴代の当主達) の一人で、 2代

 目である。

■ 服部 半蔵 正成 は、 2代半蔵・正成(まさなり/まさ

 しげ)で、 忍者ではなく、 武士で、 戦国武将で、 徳川

 家譜代家臣で、 忍者の統率者 (指揮者) であった。

■ 服部 半蔵 正成 は、 三河生まれで、 戦国武将で、 

 徳川16将の一人と称された。

■ 服部 半蔵 正成 は、 戦国時代(室町時代後期)、安

 土桃山時代の、武士で、戦国武将であり、 槍の名手で

 あった。 戦国乱世で活躍した。

■ 服部 半蔵 正成 は、 徳川家の忍者の統率者で、徳

 川家に仕える忍者の指揮者 に任じられていた。

 

■ 服部半蔵正成(まさなり/まさしげ)は、 2代目の服部

 半蔵 で、武士で、 徳川家譜代家臣で、戦国武将で、徳

 川家の忍者の統率者でもあった。

● 服部半蔵正成 は、 武士で、 石見守(いわみのかみ)

 という武家官名(律令官名)をもち、 服部石見守と称した。

● 服部半蔵正成 は、 伊賀出身の忍者である服部半蔵

 (半三)保長(初代・服部半蔵)の四男で、 徳川家康に仕

 えた武士で、 戦国時代から安土桃山時代にわたり活躍し

 た戦国武将で、 徳川家の忍者(伊賀甲賀衆)の指揮者で

 あり、 徳川家の伊賀忍者の頭領 (伊賀同心の支配役)で

 もあった。 

● 服部半蔵正成 は、 世間でよく知られている「服部半蔵」

 とは、 彼のことであり、 自身は、甲冑(かっちゅう)を着て、

 足軽を率いた武士であった。 槍(やり)の名手として知られ、 

 「鬼半蔵」と言われ、 戦国武将として、 功を成している。

● 服部半蔵正成 は、 自身は戦国武将であったが、 父親

 が伊賀出身の忍者であった縁から、 徳川家に召し抱えられ

 た伊賀忍者を統率する立場になった。

● 服部半蔵正成 は、 1596年(慶長元年)11月に没し、

 江戸麹町(こうじまち)清水谷の西念寺 (東京都新宿区、安

 養院の後身)に葬られた。

 

■ 服部半蔵正成 は、服部半蔵(半三)保長(やすなが、初

 代の服部半蔵)より服部家の家督を継ぎ、 武士として、 徳

 川家康に仕えて、戦功を重ねた。

 

■ 服部半蔵正成は、 三河宇土城夜襲(1557年、16歳、

 初陣と言われている)、 遠江国(とおとうみのくに)掛川城

 攻略、 姉川の戦い(1570年)、 三方ヶ原の戦い(1572

 年) などで戦功を立てた。

■ 1579年(天正7年)に、 家康嫡男の松平信康が織田信

 長に疑われ遠江国二俣(ふたまた)城で自刃に追いやられ

 た時、 服部半蔵正成は、 家康より検視につかわされ介錯

 (かいしゃく)を命ぜられたが、 主君を手にかけられないと

 落涙し介錯ができなかた。 それを知り、家康は、服部半蔵

 正成をより一層評価した (大久保彦左衛門の三河物語よ

 り)。

 

  ■ 伊賀越えのと伊賀衆・甲賀衆の徳川氏家臣

    登用。

  ● 1582年(天正10年)6月2日に本能寺の変

    が起こり、 本能寺の変の第一報を聞いた時、

    家康は、少数の供(とも)・約30人のみで畿内

    (きない、現・大阪府・京都府南部・奈良県)に

    滞在し、 堺から京(きょう、京都)へ上洛途中

    の、河内国飯盛山(いいもりやま)山麓にいた。 

       家康一行は、 甲賀、伊賀を通って伊勢か

    ら三河に抜ける「伊賀越え」に際し、 服部半蔵

    正成(まさしげ)は、伊賀、甲賀の地元の土豪と

    交渉し、家康一行を彼らに警護させ安全に通

    行させて伊勢から船で三河の岡崎まで護衛した。 

    この時護衛した伊賀衆・甲賀衆の者達が、 後

    に、伊賀同心や甲賀同心として徳川幕府に

    えることとなる。

 

  ■ 服部半蔵正成(まさしげ)の活躍。

  ● 小牧・長久手の戦い(1584年)では、 伊勢

    松島城の加勢で、 服部半蔵正成(まさしげ)

    は、 伊賀・甲賀者100人を指揮し、鉄砲で

    豊臣方を撃退した。

 

  ● 小田原の役(1590年)では、 服部半蔵正

    成(まさしげ)は、家康に従軍し、武功をあげ

    た。

 

  ● 家康の関東入国(1590年)後、 家康より、 

    服部半蔵正成は、与力30騎、伊賀同心200

    人を付属され、8000石を得た。 

       服部半蔵正成は、自身は武将であった

    が、 徳川氏に召抱えられた伊賀忍者を統率

    する立場になった。

 

 

  ■ 服部半蔵家。

  ●  服部 半蔵(はっとり はんぞう)は、 代々

    「半蔵」を通称の名乗りとした服部半蔵家の

    歴代の当主達である。

 

  ■ 服部半蔵家の初期の当主4人(初代〜

    4代目)。

  ● 戦国時代(室町時代後期)、安土桃山時代、

    江戸時代初期にかけて活躍した、服部半蔵

    家の初期の当主4人 (初代、2代、3代、

    4代の服部半蔵 がいた。

  ● 初代の服部半蔵 (= 服部半蔵(半三)

        保長)は、忍者であったが、 2代、3代、4代

    目の服部半蔵は、武士で、徳川家家臣 であ

    った。

  ● (1) 初代半蔵・保長(やすなが)は伊賀出

    身の忍者であり、 (2)(3) 2代半蔵・正成

    (まさしげ/まさなり)、3代半蔵・正就(まさ

    なり)は、武士であり、徳川家家臣であり、忍

    者の統率者でもあり、 (4) 4代半蔵・正

    (まさしげ)は、 武士であり、徳川家家臣で

    あり、佐渡金山同心であったが失脚し、 その

    後、久松(ひさまつ)松平家(伊勢・桑名藩)

    臣となる。

 

  ■ 服部半蔵家の5代目以後の当主。

  ● 5代目以後の半蔵も、 久松(ひさまつ)松平

    家 (伊勢・桑名藩)の家臣として、江戸時代 

    に存続する。

 

 

■ 皇居の、「半蔵門」(はんぞうもん)

  ■ 「半蔵門」(はんぞうもん)の名称は、 

    江戸城の警備を担当していた徳川 氏

    の家来の服部半蔵正成・正就(まさし

    げ・まさなり)父子の通称「半蔵」 に由

    来する。

 

  ■ 「半蔵門」(はんぞうもん)の名称は、 

    江戸城の西端の門の近くに、 服部半

    蔵正成・正就父子の屋敷があったので、 

    その名が付けられたと言われている。

  ● 「半蔵門」の名称は、 江戸時代初期に、 

    江戸城の西端の、その門の近くに、 江

    戸城の警備担当の、服部半蔵正成・服

    部半蔵正就・父子の、服部半蔵家の屋敷 

    やその部下の組屋敷 (甲州街道沿い)

    があったので、 服部半蔵正成・正就父

    子の通称「半蔵」から、 「半蔵門」という

    名称がつけられたと言われている。

 

  ■ 服部半蔵正成(2代目の服部半蔵)、 

    服部半蔵正就(3代目の服部半蔵) は、

    武士であり、徳川氏譜代家臣であり、

    忍者の統率者でもあった。

 

  ■ 半蔵門前の、甲州街道は、江戸城に直

    結する唯一の街道で、徳川 氏に非常事

    態が起こった場合に江戸を脱出する要

    路になっていたと言われている。

 

  ■ 服部半蔵家の役職替え・失脚後は、 

    伊賀組は江戸城内 (大奥、中奥、表、そ

    の他)を警護し、 甲賀組は、江戸城の場

    外の門を警護したという。

 

 

#hattorihanzomasanari-masashigegatojosuru

 

♪♪ 服部半蔵正成(2代目服部半蔵)

    が登場する、興味深い、 ドキュメ

    ンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 服部半蔵正成(2代目服部半蔵)が

   登場する、興味深い、ドキュメンタリ

      ー。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 

   『 謎の忍者軍団 知られざる

     ‘‘ 忍びの里 ’’物語 』。 

    (NHKテレビの2009年(H21年)

     4月29日・本放送・テレビ・ドキュ

     メンタリー番組・第5回)。

 ■ 2代目服部半蔵の、服部半蔵正成 

      (はっとりはんぞう まさなり・まさしげ、

   2代目服部半蔵)が登場する。

 

★ 服部半蔵正成(2代目服部半蔵)が

   登場する、興味深い、映画、ドラマ。

  ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

     ドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) と 

     架空の出来事が 混じって描かれています。 

     また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 梟の城 (ふくろうのしろ) 』 。 

        (英語題名:OWLS’ CASTLE) 。 

    (日本の1999年映画)。

 ■ 2代目服部半蔵の、服部半蔵正成 

      (はっとりはんぞう まさなり・まさしげ、

   2代目服部半蔵)が登場する映画。

 ■ 武将で伊賀忍者の統率者・服部半蔵

   正成の活躍、 豊臣秀吉の政治を描い

   た映画である。

 ■ 絢爛豪華(けんらんごうか)な 安土

   桃山時代を描いた映画である。

 ■ 司馬遼太郎原作の「梟の城」を映画

   化した作品。 

 

 ● 中井喜一(服部半蔵正成役)、鶴田

  真由、葉月里緒菜、上川隆也などが出

  演する。

 

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『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』。

 

 

以  上。