鬼門とは何?何がいけないの?
家相における鬼門の扱い
鬼門とは何のことなのでしょうか?鬼門に水まわりや開口部を設けると、何が起きるのでしょう。多分皆さんには、家の中に悪いことが起きるというイメージがあるのではないでしょうか。
鬼門には表と裏があります。[表鬼門] が北東、[裏鬼門] が南西でその結ぶ線を [鬼門線] と呼び、その線上には開口部を設けないというのが家相の常識となっています。
また神聖な場所とされ神々の通り道とされているので、水まわりや不浄物は置いてはいけないとされています。ですから鬼門 ・ 裏鬼門にそのようなものを置くと、運が逃げる、家の中に悪いことが起きるとされています。
なぜ [北東] と [南西] を [鬼門] と呼ぶのか
古代中国では北東に騎馬民族の匈奴、南西に蛮異の戎という外敵が在りました。そのうえ偏西風の影響で南西からは強い風が吹き込んで来るのです。
南西に開口部があると、昔の中国の家屋は出入り口が一つしかなく風が抜けない構造だったため、強い偏西風の度に家中に竜巻が起こったかのごとくになってしまいます。
北東は匈奴対策上、頑丈な壁が必要でした。 水まわりを置くことが嫌われた理由は
「家相は迷信?それとも何か根拠がある?」 に詳しく書いてあります。
つまり鬼門とは強風と外敵を意味していました。 この [鬼門] という言葉は古代中国の民間信仰から出たものです。神霊や怨霊が深く拘っている卜占や呪術全般を
[鬼道] と呼び、人智の及ばないものを総称して [鬼] と呼んでいました。
鬼門を日本へ広めたのは聖徳太子
日本ではこの頃、物部氏を中心とする旧豪族系分権派が盛んに日本古来から存在する古代神道による [鬼道] を行い、民衆をコントロールしようと図っていました。
まだこの頃の日本には鬼門という発想は有りませんでしたが、古代神道には、古代神で最強最悪といわれて恐れられた [丑寅の神] という存在がありました。
それに対して、中央集権体制を推し進めようとしていた聖徳太子は古代神道を退け、渡来系豪族が伝えた仏教を新たな鬼道として用いて国を統括しようとしていました。そしてその中に中国の民間信仰であった鬼門という考え方が含まれていたのです。
そして日本ではますます鬼門が恐れられた
ところがその鬼門という考え方が広まるにつれ、そこで改めて古代神道で恐れられていた 「丑寅の神」 が一層畏怖される事になったのです。 なぜなら丑寅とは方位において
[北東] 方向、つまり鬼門方向を指す言葉だったからです。
[鬼門から最強最悪の丑寅の神がやってくる] これはあまりに恐ろしい事でもありました。 大和朝廷において蝦夷の反乱は都の北東にあたりました。そして坂上田村麿が13年の戦いの末に平定したのも束の間、また北東に当たる坂東で平将門の乱が起こります。
摂関政治が瓦解する基礎を形成したのも、同じく北東にある坂東の武士の台頭でした。
古代天皇家にとって [北東] は文字通り [鬼門] だったのです。 このように日本人が鬼門を忌み嫌う感覚は中国人の比ではありません。日本人にとっての鬼門とは、まさしく悪霊の出る門という存在でした。[魔が差す]
とは、これらの神秘な摩訶不思議な力への畏怖を如実に表した言葉でもあります。
鬼門をどう捉えるか?
以上、鬼門が忌み嫌われるようになっていった流れを簡単に説明してみました。これらを踏まえた上で、鬼門をどう捉えるかはそこに住む人次第といえるでしょう。
古代中国の生活の知恵と、日本の怨霊信仰から生まれた [鬼門]。現代社会には全く関係無いとも言い切れないこともあるのかもしれません。
村上瑞祥
初出掲載日:2001年6月30日
最終更新日:2025年3月20日
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