(3)変革の黄金時代(民間航空輸送への挑戦)

  第一次大戦は民間航空への発展を一時的に停めてしまったが、軍事目的によって航空技術は飛躍的に発展し、設計者や製造者がそこで得たものは、戦後というか両大戦間の民間航空機発展に大きく寄与した。 
 すなわち飛行機は大戦後の欧州の復興におおきな役割を果たし、大戦で生き残った航空機を用いた旅客輸送が恐る恐るではあるが本格化し、この時点から軍事目的の飛行機と、純粋に民間旅客輸送の飛行機と別々の道を歩む分岐点の時代となっている。  (右はフォッカーF-ll)
 
 はっきりはしないが最初の郵便公認飛行は1911年フランス人のアンリ・ぺクーがコンペール複葉機で手紙や小包を8kmの区間を運んだとされ、航空郵便の消印がなされている。 また、イギリスではジョージ5世の即位に合わせて期間限定の定期郵便飛行が行われた。
 こういった郵便飛行はさらにアメリカやイタリアでも行われ最初の組織的な航空機用途であったが、実験的に旅客輸送も始まっていた。たが、それらは多分に宣伝的なものだった。
 
 最初の定期飛行旅客輸送は、1914年にアメリカでセントピーターズバーグ・タンパ飛行会社が設立され、ペノワ XIX 水上機で社名であるフロリダの2都市間の定期旅客輸送を目指したが、旅客がったた1名の機体だけに商業的に成り立たず、4ヶ月で敢え無く倒産してしまった。ちなみに旅行料金は1人5ドルであった。 ただし、このまえに飛行船による定期旅客輸送はドイツのツェペリン伯爵が民間航空輸送会社を起し飛行船で実績を既に上げていた。
 
 また一方で、航空機技術の発展により記録への挑戦がブームとなり、1913年から始まったシュナイダートロフィーを頂点に、米国でも多彩なレースが開催され、技術と技能を競った。 また速度や高度、長距離飛行の記録に世界各地で挑戦された。 そして、徐々にではあるが、旅客輸送の普及とあわさって、飛行機が大衆の心を、しっかりと身近に捉えるモノになってきた。
 
 更に時代は進み、イギリス・フランス・ドイツ・米国による飛行機技術の発達は目覚しく、長距離航空路が開拓され、また飛行航路を支える運行関連技術、通信技術も発展し、各国でエアライン会社が競って設立され国際航空の幕開けになっていった。
 
 以下、ご覧いただくように平和な大戦間での航空技術者は、自由闊に壮大な空の夢を描き、その実現に向けて果敢に挑戦し、新しいアイディアをふんだんに盛り込んで実に個性的で魅力にあふれた飛行機を次々と開発していった。
    以下の機体名(青字)をクリックしてください。イラストと解説をご覧いただけます。 年号は試作機を含む初飛行年
 
032
カーチス NC-4飛行艇
アメリカ
1918年
034
フォッカー F-ll 旅客機
オランダ
1919
035
ユンカース F13 旅客輸送機
ドイツ
1919
037
プレゲ一  280T 旅客機
フランス
1922
045
中島 ブレゲー19A 2改型 長距離連絡機
日本
1925
 
・実用化の進む旅客輸送機
 初めは、いろいろな形式の旅客機が登場する。まだまだ技術者それぞれの個性で設計される時代であり、それが実に楽しいし、その創造力と挑戦意欲に感心させられる。 
 
 またこの時代は世界各地の飛行場の整備が十分では無かったこともあり、広い着水エリアが使える水上機・飛行艇が盛んに開発された。この飛行艇は陸上機の降着装置の技術発展と空港の整備により終わりを告げるが、海と空を翔るロマンを感じてしまうのは私だけではなかろう。
 
 民間飛行艇の盛衰についてシコルスキーS-42Bのページ内をご覧ください。(右はドルニエ Dox大型飛行艇)
 
040
サポイア  サンタ・マリア 飛行艇
イタリア
1924
050
フォッカー サザンクロス号 旅客機
オランダ
1925
052
スーパーマリーン サザンプトン飛行艇
イギリス
1925
055
デハビランド  DH66 ハーキュリーズ 旅客機
イギリス
1926
060
フォード  5-AT トライモーター旅客機
アメリカ
1926
061
ホィットワースアーゴシー旅客機
イギリス
1926
065
フェアチャイルドFC-2W2 "スターズ アンド ストライプス号"
アメリカ
1926
068
ルバッスール PC.8 白い鳥 号 長距離記録機
フランス 1927
070
ロッキード ヴェガ5 旅客・連絡機
アメリ力
1927
075
シコルスキーS-38A 飛行艇
アメリカ
1928
080
ショート S.8 カルカッタ 飛行艇
イギリス
1928
083
カムス53旅客飛行艇
フランス
1928
 
091
ブレゲーX lX “疑 問 符 号” 
フランス
1929
100
ドルニエ  ドックス 飛行艇
ドイツ
1929
110
ウイボー・ベノー282.T12 旅客輸送機
フランス
1930
120
ハンドレー・ページHP42旅客機
イギリス
1930
127
コンソリデーテッド フリートスター 20-A
アメリカ
1932
151
カーチスライト T-32 コンドル 旅客機
アメリカ
1933
 
・スピードレーサー、国際記録機
 あくなきスピードの追求は人間の本能的欲求であろうか? 
 世界各地で、技術を競うと同時に、未知の世界に挑戦する英雄的パイロットたちが誕生した。 
 1913年モナコの海岸で始まったシュナイダートロフィーは水上機の速度を限界を求めて技術と技能を競った。 米国ではパイロン周回のトンプソン杯、大陸横断長距離レースのベンディックス杯など多くのレースが行われた。 こういったレースになると、アメリカ人は特別な取り組みと能力を発揮するのは現代も変わらない!
 
 日本では、国内の技術レベルを引き上げることを目的に、長距離飛行国際記録への挑戦が官学民を挙げて行われ、国民から大きな喝采を得るとともに、当時の列強に追いつく自信にもなった・・・。
 
088
トラベルエアR型ミステリーシップ スピードレーサー
アメリカ
1929
090
ロッキード  シリウス 高速連絡機
アメリカ
1929
105
マッキM.67 シュナイダートロフィー・スピードレーサー
イタリア
1929
123
レアードLC-DW-500 スーパーソリユーション
アメリカ
1931
260
三菱 雁型 高速連絡機 「神 風」
日本
1936
235
航研(東大)長距離飛行世界記録機 「航研機」
日本
1937
 
・本格的な旅客機の登場
 
 旅客機はエンジンの発達と大型化のニーズに合わせ、複葉の時代が終わり、単葉全金属製の時代に入り、長距離飛行のニーズから3発旅客機等も数多く作られた。 (右はドボアティンD338)
 
 その中で、不朽の名作・輸送機の決定版ともいえるダグラスDC-3(開発の経緯を掲載)が登場する。
173
エアスピードAs.6Aエンヴォイ 旅客輸送機
イギリス
1934
175
ハインケルHe70 高速旅客機
ドイツ
1934
180
シコルスキー  S-42B 旅客飛行艇
アメリカ
1934
193
ドルニエ Do 18E 「ツェーフィル号」郵便輸送飛行艇
ドイツ
1935
198  シコルスキーS-43水陸両用飛行艇 アメリカ 1935
 
215
ドボアティン D338 旅客機
フランス
1935
256
ダグラス DC-3
アメリカ
1936
257
コードロン "シムーン" 旅行・スポーツ機
フランス
1936
289
グラマン G22 "ガルフホークU" スポーツ機
アメリカ
1936
299
ドルニ工 Do26A 郵便輸送飛行艇
ドイツ
1938
455
ダグラス DC-4旅客機
アメリカ
1942
 
・日本の旅客機と航空輸送業
 日本での航空技術開発は軍用機主導で行われた。
 それは、まず明治維新で新政府は、欧米先進国に対し、それまでの鎖国による50年100年の遅れを一気に取り戻し自主独立を果たすべく、そのための富国強兵の施策を、とくに技術面で軍事力強化を国の力で推進し、最新技術を習得させ、そこで得た先端技術を民間に展開して、国内の民生経済の発展・国際競争力強化に繋げるという国家戦略であった。 即ち、軍備強化で需要(市場)を作りだし、その産業を民間に興させて、裾野を広げ、国力(経済力)を高めるという筋書きであった。
 
 そういった中で、1922年ワシントン条約で日本の戦艦・巡洋艦の建造が大幅に制限されたことをきっかけとして、国(軍)の航空技術への後押しがとくに著しく高まり、造船メーカーも航空機生産に乗り出し、民間技術の裾野は確実に広がった。 そういったことから完成機体は軍用機に重点が置かれ、従って純粋の民間輸送機の開発はほんの僅かでしかない。
 
 日本の航空機は欧米に10年遅れたスタートであったが、技術進歩のスピードは凄まじく、追いつくのは容易ではなかった。 最初は欧米の戦闘機や偵察機をライセンス生産導入して技術を学び、産業の裾野を広げ、次にその技術応用をもって独自の爆撃機や戦闘機・偵察機を開発させ、その試作機を一部民間転用していくといったストーリーであった。 従って旅客機はもっぱら輸入機とそのライセンス生産機に頼っていた。
 
 この中にあって、中島のAT-2だけは純粋に民間旅客輸送機を最初から目指した開発量産機(右イラスト)であり、その意味で稀有な存在といえ、これに続く民間輸送機は戦後のYS-11となる。
 
 日本の民間航空輸送業の始まりは、1922年(大11)「日本航空輸送研究所」が大阪の堺〜和歌山〜徳島の間での定期輸送が初めとされている。 また翌1923年には「東西定期航空会(朝日新聞社)」が東京〜大阪間を、また川西飛行機が設立した「日本航空」が大阪〜別府間の定期航路を開設した。とはいっても輸送は郵便が主体で、概ね軍の払い下げの機体を使用した。 さらに。各地で個人会社のレベルでの国内近距離輸送事業に次々と取り組まれていった。
 
 そして、次第に国内航路の拡充や東アジアとの国際航路のニーズの高まりから、国策に基づく統合によって、1928年(昭3)官営の「日本航空輸送株式会社」が設立され、使用機材も近代化されててきたが、更には時局の変化の中で、国威発揚とも合わさって、1938年には「大日本航空株式会社」と改称し、軍の管理下になっていってしまった。
 
095
中島 フォッカー・スーパーユニバーサル旅客機
日本 (KD)
1929
255
中島 ダグラスDC-2型 旅客機
日本 (KD)
1936
135
中島式 P-1 郵便機
日本
1933
108
水上旅客輸送機第11義勇号 (九○式2号水偵1型改) 
日本
1934
283
川西 輸送大型飛行艇
日本
1936
285
中島 AT-2 高速旅客機
日本
1936
292
三菱 MC-20旅客機
日本
1937
 
 
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