123. レアード LC-DW-500 スーパーソリユーション スピード・レーサー[アメリカ]
        LAIRD LC-DW-500 Super Solution Speed Racer[∪.S.A.]

 
全幅:6.40m、全長:5.42m、翼面積:10.4u、
発動機:P&Wワスプ・ジュニア空冷星型9気筒 525馬力、
総重量:980kg、最大速度:438km/h(実績値)、
乗員:1名、
初飛行:1931年8月23日、
生産機数:1機
 
Illustrated by Shigeo KOIKE , イラスト:小池繁夫氏  2003カレンダー掲載

   
 1920年代にはシュナイダー杯水上機国際スピード競技が列強の航空技術界を沸かせ、その最終競技会となった1931年の第12回レースはイタリアのマッキM.67を更にパワーアップした究極の水上機スピードレーサーM.72がエンジン不調のため期日までに調整が終わらず欠場となり、イギリスの2機だけの挑戦者の居ない寂しいものとなってしまった。 レースの結果は平均時速k 547.30m/h、最高時速655.00km/hであった。 しかし、その後も調整整備を繰り返したマッキM.72は1934年に真価を発揮し、最高時速709.209km/hをマークし、これは不滅の大記録(現在もレコードホルダーである)を打ち立てたのである。 1913年第1回の優勝機ドベルデュサンの最高速度が160km/h、その後約20年で約700km/hまで航空技術は大飛躍をしたのである。

 このような水上機に対抗し、陸上機もスピードに挑戦しており、1930年代にはアメリカでのパイロン周回のトンプソン杯と、大陸横断長距離レースのペンデイックス杯が陸上機の2大スピード・レースとして開催され、アメリカの航空技術の進歩に大きな刺激を与えることになった。

 しかし何故水上機が先行したのであろうか? それは陸上機にとっての最大の制約である飛行場の大きさ、質の良い滑走路の長さの問題である。その点 、水上機は広い平滑な水面を自由に利用でき、その為離着陸に高揚力装置も要らず、ハイスピードで離水着水できた。 シュナイダーレーサーは200Km/hを超える速度だったという。 また、とくに大馬力エンジンを搭載するレーサーは離陸時にプロペラの反トルクで機体を振り回されるが、更に尾輪式の陸上機では尻が地上滑走の時と機体が水平になった時でプロペラ後流の影響が大きく異なり、方向舵の踏み方を逆に変えねばならないなど陸上機は狭い滑走路での離着陸に、多くの問題を抱えていたが、技術者たちの夢への挑戦は次々とその課題を克服して行った。

 

 2大陸上機レースの、1930年第1回トンプソン杯レースではトラベルエア・ミステリーシップが優勝し、この富士重工業名の機カレンダー1998年版に掲載されている。 一方、第1回ペンデイックス杯で優勝したのが、この画のレアード・スーパー・ソリユーションである。 この機体の原型となったレアードLC-DW-300ソリユーションは、前年に行われた第2回トンプソン杯レースの3週間前に、スポンサーになったBFグッドリッチ社とE.レアードの間で、急遽契約された。 時間切れで十分なテストも行われないままレースに参加となったのは当然だったが、1位だった機体が事故を起こすという天運?に恵まれて優勝を飾った。 トンプソン杯の歴史の中で、複葉で優勝した唯一の機体という栄誉も手にすることができた。

 ここに画かれているスーパー・ソリユーションは、エンジンを過給器つきのワスプ・ジュニアに強化し、細部を改設計して、翌年の第1回ペンデイックス杯に出場した機体である。戦中派には忘れられない「東京上空30秒」の爆撃隊長となるJ.ドーリトルの操縦で、バーバンクLA〜クリーブランドOH間を9時間10分21秒、平均速度375km/hrで飛び、2位を大きく引き離しての、文句無しの1位で優勝した。 この時、ドーリットルは、給油が終わると、すぐにニューヨークに飛び、11時間16分の大陸横断記録も樹立している。

 なお、この翌年1932年には、トンプソン杯レースで張線は残るものの単葉のジービーレーサーが登場し、9月5日にで優勝。同23日には、473.82Km/hの陸上機国際速度記録を達成している。このようにアメリカの国民性を反映して航空レースは、ますますヒートアップして行った。

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