中島の九〇式二号水上偵察機の一型は純粋な国産設計で1930年末に完成したが、海軍の審査において一般性能および運動性能が(二型に比べ)劣っているとして2機の試作だけで終わった。 中島の水偵のヒット作の九〇式二号水上偵察機2型とは全く別設計の機体である。(開発の経緯は九〇式二号水上偵察機の2型のページをご覧ください)
この試作機の1機は後に「第11義勇号」として海防義会(**)に納入されたものを東京航空輸送株式会社(*)の水上旅客輸送機J-BERGとして羽田〜下田〜清水の路線で使用した。 機体後部に2座席設け密閉型の風防を取り付けるなどの改造が行われ、発動機は運行中のスーパーユニバーサルが装備してる中島ジュピター6型を希望したので装備した。
- 注(*)
- 東京航空輸送株式会社は、1930年(昭5)に東京・蒲田にあったパイロット養成の日本飛行学校が始めた航空輸送会社である。上記の羽田〜下田〜清水を1日1往復させていた。(羽田空港は1931年開港。この水上機は羽田の多摩川河口あたりから離水したのであろう)
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- 注(**)
- 「海防義会」について、1938年(昭13)発行のその15年史のなかで設立由来を、つぎのように書かれている。「大正十一年一月社団法人帝国海事協会(財団法人)は時勢の必要に適応するため、曩に其の事業の一部として明治三十七年十月創設したる帝国義勇艦隊部を同協会より分離し、之に所属する資産を以て寄附行為に依り別に財団法人を設立せり。 是れ即ち現今の『義勇財団・海防義会』にして、其の目的とする所は、義勇艦隊建設の精神に則り帝国の海防に貢献するに在り」。 ということで堅く勇ましい文章ではあるが、海軍の外郭団体で豊かな資金を元に、航空機関係の機体・エンジンの開発に資金提供したり、海防装備の支援や、漁業関係を含めて民間向けの航空機提供(払下げ)などを行って国威発揚に一役かっていた。
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