昭和9年(1934年)12月アメリカから輸入し中島にて製造した高速旅客機DC-2に影響を受け、中島社内で独自設計による開発が始まった。設計主務者はダグラスDC-2(14人乗り)のライセンス生産を担当した明川清技師で、Akegawa
Transportを略してATと呼んだ。 当初のAT-1はDC-2との競合から実際は製作されず、その後DC-2とも競合しないスペックで使用目的の異なる若干小型のAT-2として試作が進められ、昭和11年9月に尾島飛行場で初飛行した。 AT-2は中島飛行機の中で数少ない自社開発民間旅客機であると同時に、戦前の日本で唯一の双発旅客機として純粋に開発された機体ではなかろうか。 三菱MC-20旅客機もそうであるがるが、そのほとんどは爆撃機であるベース設計を改修して旅客機としていた。
その初飛行について明川技師は「日本民間航空史話(日本航空協会1965年発行)」の中で次のように書いている。
そのころの尾島飛行場は利根川の河原のであり文字通り土の飛行場であった。堤の外の格納庫から、そこに居合わせた人々の手を借りて、飛行機は一たん堤防の上に押し上げられ、それから河原に設けられた直径10mばかりをコンクリートで固められた試運転場に静かに下ろされた。 当時は滑走路というものが恒常化されておらず、そのかわり多少のデコボコさえ我慢すれば、風向きによって、どちらの方向にでも自由な方向が選べた。
最後のエンジン調整が行われ、初飛行を担当する末松飛行士が、緊張した面持ちで搭乗した。 彼は無口で手堅いパイロットであった。空を飛ぶときの飛行機の姿に比べ、土の上の地上を走る姿は、なんとも頼りなげにみえることか。 20mの翼がゆさゆさと揺れ、夏草が揺れ、埃を立てながら出発点に向かって進んで行く。 1千mも下ったろうか、ゆっくりと機首を立て直し、やがて轟々の全速音、こちらに向かって進んでくる。 舵の調子を見て、それからもう一度引き返して、それから飛び上がるのがこれまでの習慣である。 しかし、この時はそうではなかった。いきなり離陸してしまったのである。あっけにとられている私たちの眼前をというより頭上を、黒みゆく大空に白銀の姿をきらめかして飛び去ったのである。
初飛行は約20分であった。着陸し飛行機から降り立った末松飛行士の顔を見るのが怖いような一瞬であった。 「行って参りました」と彼は普段と言葉遣いも改めて言った。 「ご苦労様、どうでしたか?」と問う私に、「いいですね。このまま真っ直ぐ満州へ飛んでいけと言われても、大丈夫です。」 ああ彼にして何という思い切った表現であったろう。 この瞬間にこそ、設計者のそれまでの苦労が報われるのである。 この後、試験飛行は約2時間を飛び、さらに19回17時間余りを飛行して堪航(耐空)証明書を交付してもらえた。(注:なんと短い試験飛行で済んだ時代だったのですね!驚!)
明川技師はAT-2の設計に当たって当時圧倒的に技術の優れたDC-2をおおいに参考としたが、しかし何としても新規に開発するのだから、その存在意義を明確に持ちたいと考えた。 DC-2に比べ馬力も小さいし乗員も少ない。構造的にはおおよそ決まっている。空力的(空気抵抗)には当然同等以上を狙うのは当然であり、独自性は少ない。 そこで明川技師が密かに狙ったのは「決して飛行機側の責任では墜落しない飛行機を作ろう」ということであった。
おおよそ墜落の原因というのは、脱出できないキリモミに陥るためである。 当時の飛行管制やでは計器技術では悪天候(気流)や盲目飛行のときはキリモミ状態に突然陥ってしまう可能性があった。 脱出できないキリモミに入らないためには、重心位置・主翼の陰に入ってしまうことのない十分な大きさの尾翼、それに急速に増大する水平旋回速度に抵抗する十分な機体の有効側面積が必要である。 このキリモミ対策は、それ以前に開発に携わっていた複座戦闘機の「すわり」を良くして、射弾命中制度を向上させるための経験を具体的に活かし応用したものであり、旅客機しての乗り心地向上にも繋がった。(明川技師筆)
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