日本・民間航空の曙 1910年から1920年、民間のパイオニア達
                                  伊藤音次郎の挑戦

 1903年のライト兄弟の動力飛行の成功、それを追うように欧州での飛行の成功は、日本の人々にも少なからず影響を与えた。 とくにライト兄弟の成功は、学識経験の研究者でもない普通の市民である自転車屋の職人が、独力で勉強し、工夫を重ね作り上げて成しただけに、民間のエンジニア、大空に夢を描く人々に、おおいに「自分もやれるのでは、やってみたい」と希望をもたせたのではないだろうか?

 日本でも空を飛ぶことを夢見た者は、明治維新のずっと前にも居た。大江戸のアイデアマン・平賀源内も竹とんぼ・現代のプロペラを発明したといわれるが、きっと空を飛ぶことを夢見ていたに違いない。 
 
 また明治の中期に陸軍・松山連隊の薬剤手であった二宮忠八はカラスの飛ぶ様子を見て、その模型作りを始めた。彼は凧作りの経験から機体は容易に出来たが、推進力にハタと困った。そこで竹とんぼを横にして、医者の使っている聴診器のゴムチューブを使って動力に使おうとした。しかし聴診器のゴムでは強すぎることからうまくいかず、次に自転車のチューブを細く切って使うことを思いつき装着した。
 1891年(明24)夕暮れに丸亀練兵場で、1号機のカラス型の初飛行に臨んだ。それまで空飛ぶ道具に取り付かれた二宮は周りから狂人扱いされており、この日も一人で薄暗い中での実験だった。ゴムを巻き、機体を地面にそっと置いて離すと、推進器が勢いよく回り、機体は地上を滑り間もなく浮き上がって30mほど先の藪の中まで飛んだ。彼にとって感激の一瞬であった。(右は2号機の玉虫型復元模型)
 
 その機体は主翼を真中に、前に垂直安定板、後ろに水平安定板があり完全に現代の飛行機の形をなしている。そして胴体の上にゴムがあって、後方のプロペラを回すプッシャータイプであった。ライト兄弟の飛行が成功する10年余り前であった。 二宮は軍を退役後に製薬会社を興し社長になって余裕が出来たことから、模型を発展させ有人飛行に挑戦しようとしたが、ライト兄弟の飛行成功のニュースを聞き、諦めたという。

 さて、このページでは、日本の飛行機製作の曙の時代の、ベンチャーたちの話を紹介して、未知の新しいコトへの挑戦のココロを、これからの若い技術者に知っていただければと思い、まとめてみました。


 日本初の飛行

 ライト兄弟から6年後の1909年、日本では、まず陸軍が中心となって「臨時軍用気球研究会」を発足させた。名前は気球であるが、積極的に飛行機の研究に取り組み、日野熊蔵陸軍歩兵大尉と徳川好敏陸軍工兵大尉を欧州に派遣し、飛行機の操縦法の取得と、機体の購入に当たらせ、ドイツ製の単葉グラーデ機とフランス製のファルマン機を持ち帰った。 

 帰国した二人は1910年(明43)12月、代々木練場で本邦初の公開飛行を企画した。 計画では14日に地上滑走、15、16日を予備飛行、17、18日を本番と定めていたが、日野大尉のグラーデ機は14日の地上滑走のときに、高度2mで距離100mほどを飛んでしまった。 一方、徳川大尉は準備整備中にプロペラを折ってしまい、本番飛行は19日となって、その早朝に高度70m、距離3km、練兵場を2周の4分間の飛行を行った。そのあと日野大尉が再度300mほどを飛んでいる。 そんなことから公式には飛行日を二人が飛んだ19日として、日本での日本人最初の飛行は徳川大尉と日野大尉を併記した。 ともすると徳川大尉が初めてと言われるが、実際は5日前の日野大尉が先というのが正しいらしい。 (どっちが先かのレベルではないと思いますが・・[笑]  このグラーデ機のプロペラの実物が東京上野の科学博物館に展示されている)

 -←日野大尉のグラーデ機

   -←徳川大尉のファルマン機

 上の2機に加え、ライトの複葉機やブレリオ式単葉機も購入し、徳川大尉は所沢から川越付近の上空で飛行試験を重ねたが、ある時エンジン故障で畑に不時着し、横転破損して野外(場外)事故1号にもなっている。

 その後、徳川大尉の乗りなれたアンリ・ファルマン機をベースに改良設計を加え、国内で初めて出来た飛行機が「陸軍・臨時軍用気球研究会式」、略して「陸軍・会式1号」となったのである。 1911年に初飛行を行い、その後、操縦将校のの訓練機として使われた。

←陸軍・会式1号機
この復元機が所沢航空発祥記念館に展示されている。
 

 この陸軍の活動に対し、海軍は1912年に海軍航空術研究会を発足させ、フランスに金子養三大尉を派遣、また米国には中島知久平を含め3人の大尉を派遣し、操縦術の取得と、それぞれフランスからはモーリス・ファルマン水上機、米国からはカーチス水上機を購入させ、同年12月の横浜沖での観艦式にデモフライトを行っている。

 民間人による挑戦

 一方、民間でも多くのパイオニア達が自分の飛行機の開発製作に取り組んだ。現代では空気力学・構造解析など航空理論が確立しているが、当時はまったくひどいもので、航空機の設計製作に欠かせない基礎理論は、ごくごく基本的な領域に限られていたし、実験データの資料なるものも全く無かった。 参考にすべき先達の経験もほとんど得られなかっただけに、自分の力で、一つ一つゼロから積み上げなくてはならなかった。 失敗を繰り返し、そこからの試行錯誤の連続であり、遂に飛べなかった無名の試作機も数知れないと言ってよい。 また、たまたま上手くいって初飛行に成功しても、着陸に失敗して命を落としたり、重傷を負って飛行機開発を諦めざるをえなかった冒険者も数多くいた。

 資料に出てくる飛べなかった個人の飛行機を列挙すると、水中舵を左右逆につけ?て横転し失敗した磯部式水上機(1910)、飛行不成功で隠居させられた伊賀式単葉機(1911)、滑走中に翼が見物の子供の頭に当たり、家人に諭され諦め、模型商になった森田式単葉機(1909)、都筑式1号(1910)、土井式飛行機(1912)、ジャンプしか出来なかった梅田式飛行機(1914)、離陸したのに避雷針に衝突して墜落した式トラクター(1919)、炎上して諦めた海野式水上機(1914)、そして離陸に成功したが直後に墜落大破した鳥飼式・隼号(後に修理され伊藤飛行機研究所の基盤を作る機体となる)などがある。きっとこれ以外にも多くの挑戦者がいたと思われるが、新しい技術に果敢に挑戦する心意気に敬服する。

 一方、確かに飛べたと言える飛行機には、高左右式、武石式複葉機「白鳩号」、星野式トラクター、坂本式、式「つるぎ号」、尾崎式「曽我号」、福長式「天竜号」などなど、改造機を含めると枚挙にいとまはない。

 そして素晴らしい成功を得て、改良機をも数多く手がけた者には、先輩格の奈良原式1号〜3号、そして4号鳳号。 白戸式旭号から始まり40型機までの多くの機体を製作した白戸は多くの後継者を育てた。伊藤式恵美号その後改良型を数十機も製作し、多くの飛行家に使用され、また懸賞飛行にも果敢に挑戦した。 玉井式1〜5号では羽田飛行機研究所を設立して飛行訓練と共に製造も請け負った・・・・・。


 国産機初の飛行

 
 まず、奈良原三次(右写真)は東京帝大を出て海軍横須賀工廠の海軍技士でかつ臨時軍用気球研究会の委員でもあった。しかし公式の仕事とは別に、外国の資料を参考に日本の竹細工(弓職人)の技術を使って自費で奈良原式1号機を1910年10月に完成した。 それこそ徳川大尉の飛行より前のことであったが、残念なことに発注したノーム50馬力の発動機が、間違えてアンザニー25馬力が送られてきて、馬力不足は否めず、30cm浮揚したに過ぎなかった。 

 奈良原は1号機の失敗にめげず、1911年今度こそとノーム50馬力を搭載した奈良原式2号機(下左写真)を完成させ、自ら操縦して高度4m、距離60mを飛んだ。これが日本の国産機による初の飛行成功となっている。プッシャー式が全盛の中で、将来を先取りしたトラクター式に取り組み成功した技術先見性は見事である。 

 さて、それらの飛行の場所であるが、奈良原は最初は軍の所沢飛行場の片隅を借りて飛行していたが、自由に飛ぶことが出来ず不便であったので、千葉県の稲毛海岸に、潮が引くと広大な干潟ができることから、ここに1912年初の民間飛行場を開設した。そしてここ稲毛には多くの民間飛行家たちが集うようになった。

 奈良原式は更に3号機(下右側)を経て、4号機「鳳号」を製作(更に下の2枚の写真の機体)した。 この「鳳」というのは出資者がひいきにしている横綱のしこ名である。この鳳号は大成功で、有料飛行会を開いたり、地方巡業飛行で活躍した。 しかし1912〜13年は各地での興行が不成績であり、さらに挽回すべく鳳2号を製作したが、金策も思わしくなくなり、意欲を失って、遂に航空界から引退し稲毛からも突然姿を消してしまった。 このころ、内外での飛行士の墜落事故死のニュースが伝えられ、男爵を嗣がせる為に、家族・親戚の反対があって引退したとも言われている。

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  いろいろなエピソード

    下の機体は、滋野式「わか鳥号」である・・・・これにはよく出来た話があるので紹介する。 設計者の滋野清武は陸軍中将の三男であったが、2人の兄を病気で失い、若くして家督を継ぐことになって陸軍中央幼年学校に入ったが病気で中退し、そのあと上野の音楽学校に入り音楽家を目指していた。そして1910年、28歳で日本に和香子夫人を残してフランスに留学したが、なんと自動車学校に入り、次にジュピシー飛行学校に入った。更に別の飛行学校に転じ、1912年国際飛行操縦士の免状を取得した。

 そして現地で複葉単座のトラクター式飛行機を設計し、飛行機製造会社に製作を依頼していたが、その渡仏の間に、日本で病死した妻・和香子を、偲んで「わか鳥号」と名づけたという愛らしい話である。 (別の資料では、滋野清武が愛妻・和香子を亡くして、その傷心を癒すために渡仏したとある・・?)

 この「わか鳥号」の飛行試験の最中に日本からの要請で急遽帰国することとなり、機体を船で持ち帰り、所沢の飛行試験場で組み立て飛行試験を行ったが、そのころの民間機としては出色の性能を発揮した。 

-- 玉井式→

上左は、都築式プッシャー型双プロペラ単葉の珍しい機体である。都築式飛行機後援会なるものが結成され、写真にあるように、1912年大勢の人々が初飛行を見守ったが、双プロペラの駆動装置の抵抗が大きく、十分な推力が得られないで失敗に終わっている。

 上右は1914年の玉井清太郎の玉井式2号機で、最初の1号機は水上機であったが、エンジンの馬力不足とフロートのステップの設計がなされておらず、ために離水できなかった。 2号機では陸上機に改造したもの。 玉井式では3号機まで製作し、その後、出資者の勧めで東京の羽田に飛行学校を作り、また日本飛行機製作所を作って、そこでNSF玉井式1〜3号機を製作し、練習生の訓練を行った。 NFSとは Nippon Fiying Schoolのことである。

  外国人飛行家の来日ブーム 

 1911年から1920年の間は、海外から飛行家の訪日があいつぎ、また飛行サーカス団もやってきた。 1911年マニラから米国に帰国途中の米国飛行団ボールドウィン一行を大阪朝日新聞が主催して無料の公開飛行を大阪城東の練兵場で開催したところ、なんと50万人もの観衆が集まった。 

 そこでマース飛行家はカーチス複葉機スカイラークで自由自在な飛行を披露し、観衆の目の前をローパスしたり、急上昇・急旋回に加え、ファイナルはエンジンを切って、静寂の中で見事に着陸して見せた。

 これに味をしめた一行は、今度は興行師と契約して、兵庫の鳴尾競馬場で有料飛行会を開催し、入場料を何と5円もとったが、左の写真のように、観覧スタンドは立錐の余地も無いほどだった。さらに東京に向かい目黒競馬場でも有料飛行会を行ったが、最終日に強風の中で飛行を決行したが、翼を柵にぶつけ、マースは機外に投げ出されて負傷してしまった。

 その他に、1915年12月にはチャールス・ナイルス飛行家が東京・青山の練兵場で10万人の観衆の前で、宙返り飛行を行い、やんやの声援を受けた。あとで紹介する新進飛行家であった伊藤音次郎も見学した日記に「第一回ブレリオノ試飛行。2回はヤッタヤッタ、クルリクルリト、ツヅケサマニヤッタ。イツドーシテ、ドー云ウ風ニ返ッタノカワカラナカッタ」と興奮気味に記している。

 翌1916年3月、米国で「新しい空の王者」と呼ばれていた、若いアート・スミス(24歳)がカーチス複葉機2機をもって来日し、やはり青山の練兵場で有料公開飛行を行い20万人の観衆を集めた。 これも伊藤音次郎は見学に行っているが、こんどは冷静で「話ホドニ思ワナカッタ。タダ垂直ラセン下降ハウマイト思ッタ。横転デモ、スベテナイルスヨリ機敏デアッタダケ。素人受ケスル飛ビカタデアッタ」と日記に書いている。 その後、スミスは日本各地で飛び、人気を博したという。(下の写真2枚)

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 また同年の12月には19歳のキャサリン・スチンソンが来日した。下右の写真のように、あどけない顔立ちの、ちょっと今風の美人であるが、万国飛行免状148号を所持していた。 ノーム80馬力を装備したライト複葉機で夜間宙返り飛行をおこなったり、曲芸飛行を披露して各地でおおいなる人気を集めた。(下の2枚の写真) 右の和服姿は歓迎晩餐会で長岡外史中将(臨時軍用気球研究会会長)から贈られたもので、「茶縞御召の綿入れに麻の葉模様の襦袢を重ね、藤色の半えりをのぞかせて静織菊模様の帯をお太鼓にしめ、いみじくもお下げに結んだ髪に赤いリボンをつけて、にこやかに現れ、足だけは靴をはいていたのも愛嬌であった」と日本航空史に記載されている。

      

 

 その後1921年になってもバート・バー飛行サーカス団などが来日公演を行ったが、もう物珍しさは薄くなっていたが、広告宣伝だけは派手であったため、観客は演技に不平を言う始末であって、その後の観客数は激減した。 こういった日本での見世物興行の時代は早々と終わってしまった。

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 それでも、新しい機体が公開されると、多くの人々が見学にきた。単なる曲技飛行を見るのではなく、新しい技術に対する興味深いところは、古今変わらぬ日本人の共通する特質かもしれない。 見学者の老若男女の服装を見ると時代を感じ面白い。 このころの軍用機は、もっぱら輸入機に頼っていて、徳川大尉の持ち帰ったモーリス・ファルマン機を「モ式」と称して偵察の目的に制式採用し、陸軍工廠や研究会の工場で生産されていた。 また海軍でもモ式水上機などを横須賀海軍工廠で生産したりしていた。

 新しい民間飛行家の誕生

 さて民間機に話を戻すが、1910年代の初めには、自ら自費で米国・欧州に渡って、飛行機の操縦法を学ぶ人たちが出てきた。(右の写真の3人は米国での免許取得組)  確かに操縦法が先なのは常識であろう。 機体は出来上がっても、初飛行のときその操縦方法を知らなかったために飛べなかったという鳥飼繁三郎が製作した「隼号」など笑えぬ話があった。 

 星野米三は1913年米国スロン飛行学校を卒業し、万国飛行免状231号を取得した。そして帰国して独自の複葉機を設計し、1914年稲毛で見事飛行に成功している。余りの好成績で、東京訪問飛行を計画して飛び立ったが、江戸川河口付近で濃霧に見舞われ低空飛行しているときに海面から突き出た杭に接触し、機体は泥の中に突っ込んで星野は負傷し、目的を果たせなかった。(下左の写真) このころ稲毛では、誰が初めての東京までの野外飛行(帝都飛行)に成功するかが、仲間内の目標であった。

 一方、国内での操縦技術の訓練も始まり、帝国飛行協会が設立され、陸軍への委託操縦練習生の1期生が1914年に卒業している。その中の尾崎行輝は自分で飛行機の設計をはじめ、1917年に比較的小型の尾崎式トラクター(下右)を完成させた。

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  伊藤音次郎の挑戦

 さて民間航空発展の功労者の代表格は伊藤音次郎であろう。 彼は1891年、大阪に生まれ、大阪船場の佐渡島商店で働いていたが、ライト兄弟飛行の活動写真を見て飛行機にあこがれ、19歳のときに上京して奈良原三次に、頼み込んで無給の弟子に加えてもらった。 そして鳳号の分解組み立てを手伝う中で飛行機の構造を学びとり、また、そこで技師長だった志賀潔(理学博士)に気に入られて、暇を見つけては飛行の基礎理論を教わった。 さらに操縦法は白戸栄之助が飛ぶ様子を克明に観察し、また短い時間であったが千葉県稲毛の飛行場で、白戸から操縦を教わったが、奈良原のもとで決して優遇されたわけではない。(右写真はそのころの音次郎20歳)

 そして、師匠たる奈良原は1913年に突然稲毛から姿を消したことから、飛行練習も中止になり、残された白戸とともに伊藤は苦労に苦労をを重ねていた。 

 そこで、1915年1月、伊藤は23歳にして意を決して、その稲毛に伊藤飛行機研究所(飛行練習所)を構え独立した。 そして上で紹介した「飛べなかった鳥飼式・隼号」がバラバラのまま放置されているのを聞き、これを借り受けるために、飛行機の精密な模型作ってを15円で売り、それを資金として引き取り、修理改造しなんとか飛べるようにした。 そして、それを使って操縦法をマスターすることにとりかかった。

 なにしろ稲毛は干潟。寒中は氷を割って滑走し、車輪がパンクすれば古縄を巻き、ガソリンが無くなれば着ているものを質(しち)に入れて金を工面するほどの辛苦をかさねた。(日本航空史による) これで飛行の自信を得たあと、白戸の地方巡業飛行の手伝いで資金を少しづつ集め、また出身の大阪での親戚縁者から資金援助をもらって、隼号のグレゴアジープ式のエンジンを買い取り、オリジナルの機体の設計と製作を始めた。

  伊藤式恵美1型と初の帝都飛行の成功

 その1号機が1915年11月完成の「伊藤式・恵美1型」である。 奈良原の元での下積みの間の多くの知見が設計に巧妙に織り込まれていると同時に、、隼号での操縦練習成果などがあって、伊藤式恵美1型の自ら操縦しての初飛行は大成功であった。そして新年を迎えて1916年1月8日、稲毛から初の帝都飛行:東京間の往復飛行に挑戦しようということになった。 

 

 七草の翌日、寒中の飛行であるだけに、正宗の1合ビンをポケットに入れ、正午12時45分に離陸した。高度500mで東京の下町を抜けるとまず真っ白な三越が目に付いた。日比谷公園から御成門、増上寺上空で旋回して芝浦海岸から浜離宮・洲崎を抜けて千葉に戻るコースをとった。その間、寒さに耐え、正宗をチビチビやりながらの(今では厳罰の飲酒飛行!)約55分の飛行であった。

 翌朝の新聞は「新進飛行家伊藤音次郎氏!」と書きたてた。その記事には伊藤の「苦難」のニ字に尽きる永い経歴が書かれ、同情と称賛たっぷりの紹介がされていた。(日本航空史) 伊藤は全国に渡って、おおいに名をあげたのである。 そこで研究所の運営資金の獲得を目的に7ヶ月の地方巡業飛行に出て一応の成果を得てそれまでの借金を返し、資金的になんとか一息ついた。

 なお「恵美(えみ)号」の名前であるが、愛妻の名か、はたまた愛娘の名前かと思っていたが、あにはからんや、自分の生まれた地名からとった名である。 「地元の多くの人に物心両面で世話になったので喜んでもらいたい。美しい恵みに応えたい。」ということから、大阪浪速区の恵美須町(えびす)の恵美にもちなんで命名したのである。 (日本傑作記物語の伊藤氏本人の記事による。東京の恵比寿ではない) 

 その頃の航空を目指すものは、奈良原は男爵の嗣男であったし、滋野も男爵で中将の息子といったぐあいに、商家・良家の裕福な家の者たちか、軍での上級士官というのが相場であった。 しかし、伊藤は全く無名であり、商店の丁稚奉公から自らの意思を全うして航空を目指した、真面目で実直な努力家であっただけに、出身地の支援者への恩義を大切にしたのであろう。 また、想像だが「粘り強いけれども控えめ」といった印象をもってしまう。 だからこそ、以下に述べるように何度もの危機を乗り越えられたではなかろうか。

 上の左側は処女作・伊藤式恵美1型が完成した記念写真の「伊藤音次郎」本人である。 右上の機体はその恵美1型。このあと1917年には改良した恵美2型を製作し、機体の設計製作と若い操縦士の訓練を業とした。 
 
  研究所の発展と最初の危機
 
 また一門には奈良原の所で働いていて恵美1型の製作に大きな力を発揮した元宮大工のベテラン大口豊吉や、片腕となる最初の門下生で操縦教官にもなった山縣豊太郎(下左の写真)がいたが、ともに苦労を重ねつつ、彼らも操縦術と共に設計の力をもつけ、伊藤式「鶴羽1号」を製作している。 (下右の機体 「鶴羽」は山縣の出身地の広島の鶴羽神社にあやかったもの。なお実際の設計は伊藤がかなり手伝っている筈である)
 
 しかし全てが順調とはいかない。この1917年(大6)10月台風が東関東を襲い、稲毛にあった研究所の工場・格納庫は高潮で全壊し、存亡の危機に陥った。 幸い保有の2機の飛行機は、出生地の大阪で錦を飾る飛行会で行っていたために難を免れた。 早速、代わる研究所の場所と飛行場探しに奔走し、同じ千葉県の津田沼町で鷺沼のはずれに適地を見つけ、伊藤飛行場(といっても干潟)を設け、また新しい技術者として稲垣知足も加わって、再建することが出来た。この後の研究所での設計実務は稲垣が行っている。 伊藤は全く海外洋行の経験は無かったが、稲垣には欧州の民間航空の勉強に行かせている。
 山縣  鶴羽号と安岡練習生/津田沼にて
 

  懸賞郵便飛行へのエントリー、そして優勝

 1919年(大8)帝国飛行協会は航空界の発展と国民への認知向上を目論見、第1回東京大阪間懸賞郵便飛行競技会を開催した。この競技会は東京から大阪までを無着陸で8貫目の郵便物を積んで飛行し、更に大阪を離陸して東京に帰るというもので、これにエントリーしたのは、中島式4型機(佐藤要蔵操縦)、中島6型機(水田嘉藤太操縦)の中島の2機に対抗して伊藤式恵美5型(山縣豊太郎操縦)が参加してのレースとなった。

 この伊藤式恵美5型は、米国人E.パターソンが日本で飛行機を製作しようとサンプルで1918年に日本に持ち込んだ機体で、典型的なアメリカ式トラクター機でゴルハム125馬力を搭載していた。 パターソンは日本での工場設立は失敗し、機体とスペアエンジンのゴルハム150馬力を伊藤音次郎に1万6千円で売却し帰国した。 

 伊藤はこの機体を若干改修し伊藤式恵美5型としたが、一般には「ゴルハム複葉機」と呼ばれた。(右の写真、機体を見ている人たちの新鮮な姿が撮影されている) 

 競技会では佐藤の中島機が優勝し、米国製のゴルハム機に勝った勝ったと、国産機の優秀性をはやしたてる格好の材料にされてしまった。 しかし山縣はそれまで、こんな長距離飛行の経験も無かっただけに、東京を出発するときは悲壮な思いで見送られた。 が、その期待に応え山縣は慎重な飛行で見事往復に成功し、125馬力の機体ではまっとうな8時間25分の記録であり、周りを感服させた。 ただ時間は初期規定をオーバーしていたので番外となったが伊藤の仲間達は目一杯の祝杯をあげた。 そして翌日の京橋での表彰式では、慰労金という名目で4500円を獲得した。(本命であった水田機はコース紀伊半島上空でコースをそれ、和歌山に着陸したため失格となった) 懸賞郵便飛行会は翌年は大阪〜久留米間、更に翌々年は東京〜盛岡間と続けられた。

 

 そして翌年の1920年(大9)4月には帝国飛行協会主催で、新たな長距離飛行競技会が行われた。東京洲崎崎の飛行場を出発し、大阪の城東練兵場上空で折り返し洲崎に戻るという、当時としては驚くべき長距離(直線870km)を無着陸で往復飛行するものであった。(前年の第一回郵便飛行会は大阪で着陸した) これに伊藤は前年に買い入れたゴルハム150馬力発動機を装備した伊藤式「恵美14型」(右の写真)で参加し、やはり山縣豊太郎が搭乗した。 

 この懸賞飛行は5機が参加する予定であったが、残念ながら実際の参加の機体は、中島飛行機の最新型の中島式七型在米同胞号(飯沼金太郎操縦)と、山縣の操縦する伊藤式恵美14型の2機となり、他のエントリー3機は、製作に手間取り飛行会に間に合わず棄権になってしまった。

 これまた本命の中島機は往路の丹沢で濃霧に包まれ墜落し飯沼操縦士は重傷を負った。 往復できたのは伊藤式恵美号だけで、今回も慎重な飛行を心がけた山縣は、大阪の城東練兵場上空で、到着の証拠となるボールを地上に投げ落とし、ここで持参の海苔巻をしっかと頬張って、旋回し生駒山を越えて、東へ向かった。 記録は6時間43分で、見事優勝懸賞金1万円を獲得し、前年のゴルハム発動機を購入した借金に充てることが出来たという。 また同年8月には第1回民間懸賞飛行大会が東京・州崎で行われ、高度・速度・高等飛行技術を競うもので、伊藤式恵美16型の後藤勇吉が高度と高等技術で優勝、伊藤式恵美14型の山縣は速度で優勝し伊藤式が圧勝した。山縣はこういった快挙もあって、天才飛行士といわれた。

  山縣豊太郎の散華

 しかし運命とは悲しいもので、山縣豊太郎は1920年民間懸賞飛行大会で優勝した後、同8月末に津田沼での宙返りの練習飛行で主翼が折れ墜落し大空に散華(殉職)した。 弱冠22歳であった。 伊藤にとって、山縣は研究所創設以来の片腕であっただけにはかり知れない衝撃であったろう。 また、この知らせに当時の新聞は号外を出したほどである。 伊藤は追悼のために伊藤式22型・山縣記念号を製作し偲んでいる。 なお広島市東区の鶴羽神社には山縣の記念像が今もある。

 

 さて研究所では経営のために、受託設計製作事業を積極的に行っていた。 その中で、比較的小型の伊藤式恵美6型・燕号を受注製作した。この機体は1916年上海で開催の極東オリンピックの自転車競技で優勝し日章旗を掲げた藤原正章の発注によるもので、愛用の自転車の商標の「燕」を名前にした。

 完成後に藤原は操縦練習を重ねたが、その途中で機体を大破、すぐさま1918年に燕2号を新調し、今度は滑走中に燃料タンクが爆発炎上して焼失、更に残った部品を活用して燕3号を製作、今度は滑走路をオーバーランしてまたもや大破。

 それを修理して、今度は「燕/神戸号」(右の写真)と改称して、鳴尾飛行場で離陸直後に失速して大破し「燕」シリーズは終わった。 しかし藤原は、その後も森式飛行機、中島式5型、一○式艦戦機改など中古機や軍の払い下げ機など次々と?大破し、結局自分の事業も大破・破産して、最後は神戸学生航空研究所長になって、その生涯を終えている。自称、墜落3回、離着陸時の転覆12回、不時着4回の航空事故日本記録保持者であった!

  数多くの卒業生

 さらに伊藤式は門下生の技術者が設計の中心となって、1922年の伊藤式恵美第31型まで続き、水上機や飛行艇、小型スポーツ機、また台湾からの注文でリムジンタイプの旅客仕様機まで数多く作っている。 

 その中で1922年帝国飛行協会が3等飛行士だけの競技会を下志津陸軍飛行場で開催されたが、伊藤研究所の訓練生で女流飛行家第一号の 兵頭 精(右の写真、名は「ただし」と読む)が伊藤式恵美25型で速度競技に出場して10位となるなど、彼女は各地の飛行会では大の人気者であったが、妬む者もあってかマスコミがスキャンダルを書き立てたことから嫌気がさし、航空界から身を引いた。 (NHKの連続テレビ小説「雲のじゅうたん」1976放送のヒロイン真琴は、この兵頭をモデルとしたといわれている)

 同競技会で恵美25型機は兵頭 精のあと、同じく門下生の加藤正世が搭乗し飛行したが着陸に失敗して大破している。(加藤は後に昆虫博士として知られる)

 門下生には日本航空史上、初めて航空輸送という概念で、大阪堺で日本航空輸送研究所を設立し、和歌山・徳島への水上機による定期輸送を始めた井上長一など、民間航空界で活躍する多くの人たちを伊藤飛行機研究所は育てている。

  事業存続の危機から新たな道

 1920年代に入って再び危機がおとずれる。その頃までに軍が採用していた輸入機やライセンス生産の機体が民間にタダ同然で大量に払い下げられるようになってきたのである。従って個人での飛行機製作事業では、その中古機に太刀打ちできなくなってきた。
 伊藤の工場も新規の開発機は事業として成立せず、伊藤は「悔しいかな、もう製作工場ではなく、修理工場に転落してしまった」と回述していおり、倒産寸前にまでなった。 そして伊藤は「民間航空界の将来は、経済的な飛行機で大衆化を果たさねばならない」と考え、軍用クラス以下の軽飛行機、グライダーに注力していった。
 
 この様に多くのベンチャーたちが生き残れるのは限られた分野の飛行機だけとなり、それに特化するか、あるいは自然消滅の道しかなかった。そのため、航空産業として勝ち残ったのは、富国強兵の方針の下に、初めから軍の需要にターゲットを絞って、開発と市場開拓を進めた中島飛行機と、潤沢な資本の財閥系の飛行機製造会社だけになっていった。

 伊藤音次郎は1930年(昭5)には、稲垣知足が調査してきた欧州での民間航空事情に日本の民間航空も倣うべく、日本飛行倶楽部を設立(敢えて奈良原を会長に推挙した)に尽力した。 また、更にはグライダーの製作を通じ日本帆走飛行連盟に協力、戦前の民間軽飛行機の普及に貢献した祖として高く評価されている。 

 1915年(大4)創業の伊藤飛行機研究所(練習所)から、1921年の株式会社伊藤飛行機研究所を経て、その終焉となる1938年(昭13)年までに、製作した飛行機は50種以上になり、他に陸軍払い下げ機の改造9機種、海軍の同様が18機種があり、外国機の修理・使用機を含めると更に大きな数字となり、また滑空機(グライダー)も15機種200機以上になり、研究所の練習部における操縦訓練では200人近い人材を卒業させた。

 戦後は農地開墾に従事し農場経営を千葉県成田で行っていたが、1971年に没している。(その名を「恵美農場」という。現成田空港B滑走路のど真ん中にあった。あたかも成田空港は氏を偲ぶ運命的なモニュメントかも・・・) 伊藤は若い頃から克明な日記を残しており、民間航空歴史の貴重な資料であり多くの書物で部分的に紹介されている。(平木國夫氏著作の「空気の階段を登れ」は伊藤の日記をベースとした航空歴史小説である)

 民間航空発祥之地稲毛の記念碑

 彼らが初期に活躍した千葉県稲毛の干潟であったところの現・稲岸公園には民間航空発祥之地記念碑が建てられている。 下左の写真を見ると、広いことは分かるが、潮が乾ききらない中での滑走は容易ではなかったのでは?  そして、稲毛の民間航空の歴史は稲毛民間航空記念館にて詳しく語られ、奈良原式4号機「鳳」号のレプリカが、静かにこの熱い飛行機への思いを物語っています。 千葉県界隈には現在も民間の大利根飛行場、関宿滑空場、などがあり、今なお大空に夢見る人達のメッカかもしれない。(大利根飛行場には日本モーターグライダークラブがあり、代表の中澤愛一郎・通称 愛さんをはじめ、このページで紹介した伊藤音次郎を彷彿とする人たちが集っている)

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      未だ濡れた稲毛の干潟での操縦練習(隼号改修機)           稲毛の土手の伊藤飛行機研究所
 
 伊藤音次郎に関して、下段に紹介の参考文献で、平木國夫氏の著作でとくに詳しく紹介されています。その人物像がよく分かるので、是非ご覧ください。
 また、木村秀政教授の監修した「日本傑作機物語(1959年発行)」では、その冒頭に伊藤式・恵美号が選ばれ、伊藤音次郎が回顧録を記している。
 木村教授は、その本の中で「伊藤さんは自身で設計し製作し、飛ばされたわけですが、非常に堅実な、派手なところのない方で、飛行機にもそれがよくあらわれています。当時の飛行機関係の方には、ずいぶん向こう見ずの人が多かった中で、着実さという点でずば抜けていました。水上機でも恵美号が最初に成功したんです。フロートの構造なんか、水圧のデータもなしに、よく成功したものだと思いますけれども、技術者としてのカンが優れていたんでしょうね」と云われている。

  稲毛の同志たち

 1910年代に稲毛に集った飛行家たちは最初の奈良原に伴った白戸栄之助(右写真)、伊藤に続いて、玉井清太郎梅田勇蔵都築鉄三郎星野米三野島銀造岸一太らが利用した。 玉井清太郎は玉井式1〜5号で成果をあげているが、羽田に移動して羽田飛行機研究所とその飛行学校を開設して活動した。 また伊藤と永く交友した白戸の場合は、1916年に寒川へ移って白戸飛行場を開設して活躍した。 彼は飛行家であって自ら開発設計するのではないが、白戸式旭号(1915)から始まって、イスパノスザ220馬力を搭載の白戸式37型、1922年最後の40型まで数多くの高性能機体を手がけた。そして、1923年相次ぐ墜落事故で愛弟子の2名を亡くしたこともあって、航空界からの引退を決意した。 最後まで稲毛に留まって頑張っていたのは伊藤音次郎のグループであった。

 

 

 

←白戸式31型 1920年製作。 ルローン120馬力を装備の複座複葉練習機で白戸飛行場が閉鎖されるまで、練習・宣伝・遊覧飛行に活躍した。カウルの中で星型ロータリーエンジンのシリンダー自体が回転していることが分かる。胴体のマークは白戸の紋章。

   本ページは2007.1制作

参考文献 日本民間航空史話 日本航空協会
日本航空史 明治大正編    〃
日本の航空史(上) 朝日新聞社
日本傑作機物語(監修:木村秀政・郡竜彦 1959) 酣燈社
日本航空機辞典(1989) モデルアート社
飛行機100年の記録(1970) 読売新聞社
黎明期のイカロス群像/平木國夫(1996) グリーンアロー出版
富国強兵の遺産(1997) 三田出版会
空気の階段を登れ/平木國夫(1969) 三樹書房(復刻版)

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15/Sept/2009 〜