180. シコルスキー S42B 旅客飛行艇 [アメリカ]          

         SIKORSKY S42B PASSENGER FLYING BOAT [U.S.A.]


全幅:36.02m 、全長;20.73m、総重量:19,050kg 、
最大速度:303km/h/2,134m 、巡行速度:230km/h
発動機:P&W R1860ホ一ネット750馬力×4 、
乗員/乗客=4/28〜32名
初飛行:1934年3月29日
 
                               Illustrated by KOIKE, Shigeo  , イラスト:小池繁夫氏 1993年カレンダー掲載

 「飛行機を包む大気の雰囲気を伝えるために、作品の背景となる土地・地域の下調べは大切にします」と小池さん。 この作品でシコルスキーS-42Bが飛ぶことになったのはマニラの空。亜熱帯地方の昼下がり、色彩を奪つてしまいそうな強烈な陽光を感じる作品だ。

 さて、 第一次大戦が終わり、欧米の豊かな人たちの世界旅行が盛んになりだしたころ、空の旅は「飛行船」であった。 ゆったりとして、豪華で、そして安全な空の旅としていたが、1937年ツェッペリン飛行船会社のヒンデンブルグ号の着陸寸前の悲劇的大火災事故は、飛行船の旅行を過去のものにしてしまった。 その飛行船に代わって俄に注目されたのが飛行艇であった。 

 ★ここで民間航空輸送の飛行艇について、両大戦間の歴史を紹介しよう

 この飛行艇の分野でも先行していたのはドイツであった。 その元祖はドルニエ・ワール飛行艇(下の写真は日本に輸入されたワール機)である。 このワール飛行艇で1925年にはアムンゼンが北極飛行をしたり、その後も大西洋横断飛行、南大西洋横断飛行、世界一周飛行などをおこなって安全性が広くアピールされた。
   ★ドルニエ・ワールの小池さんのイラストもご覧ください(ここをクリック

 飛行艇は陸上飛行場の無い地域への民間航空路開設には有用な存在であった。 ルフトハンザ航空はワール飛行艇でベルリンから地中海への航路に活用し、さらに1934年にはドイツ〜南米の定期航路を開設した。 また日本でも1921年川西によって設立された日本航空(今のJALとは無関係)において大阪〜福岡便、更には上海便にも使われた。

 1930年代、飛行機は急速に発達したとはいえ、一般の人たちの旅行手段としては、ある種の覚悟が必要であった。 その点、飛行艇は、一定の広さの水域さえあれば、海でも湖沼でも河川でも、何処でも離着水でき、故障や天候急変のときは着水して安全な湾や入江に退避できるという安心のイメージが持てた。また墜落しても硬くない水の上で安心という心理が働くが、墜落したときは陸上でも水上でも結果は全く変わらないのが現実である。

 しかも現実の離着水ではボートや流木などの障害物との衝突のリスクはたいへんなものであった。 また機体設計では、着水するための艇体は安定性の確保から幅が広く頑丈な強度が必要で、機体は重く空気抵抗の大きい形状になり、性能が犠牲となった。 ドイツが国威をかけて開発させた、まるで汽船を思わせる大型の150人乗りドルニエDox飛行艇は結局モノにならなかった。

 次に飛行艇で名声を得たのは海運帝国イギリスである。本国と世界に広がる植民地を結ぶ交通手段として飛行艇に着目し、その代表格がショート・ブラザース社の飛行艇である。ショート社はインペリアル航空との結びつきを強くして、そのニーズに応え1928年ショート・カルカッタ飛行艇を開発し、地中海路線で活躍した。 とはいえ例えばロンドンからペルシャまで行くには陸路と陸上機と飛行艇を乗り継いで10日間を超える長旅であった。

 イギリスは大英帝国連邦の全てを、より短時間で結ぶ飛行艇のニーズに応えショート社は1936年近代的なCクラス飛行艇カノバス号を開発した。この機内は乗員数の割りに広く取れることから、ゆったりしたソファーがあり、さらにプロムナードデッキにプロムナードラウンジがあるなど大英帝国を象徴する豪華な設備が売り物であった。 これによりアフリカ・インドさらにオーストラリア路線を確立し、また豪州地域ではカンタス航空が重用した。このCクラスは42機が作られた。その後は更に長距離型の開発を行ったが第二次大戦の勃発により全て軍用になってしまった。

 

 最後に登場するのがアメリカである。その中でもパン・アメリカン航空とシコルスキー飛行艇は重要な役割を果たした。 パンナムが飛行艇を使い始めたのは、ロシア革命からのがれて亡命してきた航空機設計家のイゴール・シコルスキーがS−36という飛行艇を1927年に開発し、パンナムに短期貸与したことから始まる。

 S-36はカリブ海で試用され好評であったことから、パンナムはそれを改良したS-38飛行艇を1928年一気に39機も発注した。 これによってカリブ海からさらにブラジル、アルゼンチン、チリのサンチャゴへと足場を広げた。

 さらにパンナムはブラジルアルゼンチン路線で競合のエアラインNYRBAを買収して傘下におさめ、南米の海岸地域を一周する航路を独占し、パンナムの経営の基礎を築いた。そこでパンナムは太平洋・大西洋路線の拡大を目論見、次世代の航続距離2500マイル(約4000km)以上の長距離大型飛行艇の要求仕様を提示した。 これに応えて、シコルスキーは高速性を重視したS-42Bを提案し、ライバルのマーチン社は1年遅れでペイロード(乗員数)を重視したM-130を提案した。

 S-42Bは、島伝いに太平洋、大西洋を横断する定期航空路開設へ期待され、太平洋路線開拓の初期の調査飛行では活躍したものの、2500マイルの長距離飛行には乗客を12名に抑えざるを得ず、太平洋路線では使えなかった。 そのため中距離路線が主力となりカリブ海での路線や、マニラ〜香港間の定期空路で使われ"ホンコン・クリッパー"の名で使われた。 

 シコルスキーは、その後S-42を小型化した双発の水陸両用のS-43飛行艇を開発し、アメリカのみならず欧州のエアラインでも多様な使われ方をした。 また大型4発飛行艇では海軍向け哨戒機の試作をベースとしたS-44を開発している。 シコルスキーといえば、普通はヘリコプターを直ぐに連想するが、最初は大型輸送機・爆撃機の設計を手がけ、その後に飛行艇のトップメーカーとなった。ヘリコプターは第二次大戦中に開発を始め、花開くのは戦後である。

 一方のマーチンのM-130は主翼のサブフロート方式ではなくドルニエと同じ胴体側面のスポンソン方式をとり、その中を燃料タンクとした。そして広い機内にはベッドやラウンジを設けゆったりと空の旅を楽しめる仕様であった。そして"チャイナ・クリッバー"の名が与えられ、ハワイ経由で東アジアへの航路に使われた。(右写真がM-130)

 さらにパンナムは大西洋・太平洋の定期横断航路を充実させるため、より大きな足の長い飛行艇を要望した。これに応えたのが小さな水上機から始まる歴史を持つボーイングであった。 その機体はボーイング314で、ライトサイクロン1500馬力を4基装備し、機内は総2階で豪華客船のような装備で最大74席、食堂は4人がテーブルで向い合って座れた。 そして航続距離は7200kmを誇る、当時世界最大の航空機であった。 1号機は1938年に完成、パンナムへの引渡しは1939年であった。 ボーイング314は"ヤンキー・クリッバー"の愛称で「究極の飛行艇」と言われ、パンナムの大海原での航空路の主導権を確実なものとしたが、第二次大戦が始まり全ての民間航路は事実上停止状態となった。

 

 忘れてはならない日本は水上機・飛行艇技術は世界に誇るものがあった。 とくに飛行艇と称するものは川西航空機の独壇場であったが、その元祖は上で述べたドルニエ・ワール飛行艇を起源とし、英国ショート社に発注したシンガポール級の複葉3発飛行艇(九○式2号飛行艇:哨戒機)の国産化を通して基礎技術を取得した。 

 そして独自の進化を続け完成した川西大型輸送飛行艇(97式飛行艇)は、米国のS-42とは対照的で、実に日本的な優美で素晴らしいデザインと思う。 戦前の大日本航空で18機使用し、「巻雲」「白雲」などの名前が付けられ、南方航路のサイパン〜パラオ、サイゴン〜バンコック線などで活躍した。

  
---主な参考文献------------------------------          
「飛行艇の時代」 帆足孝治著 イカロス出版 2005.9発行 ¥1700
  「世界の海を渡った豪華絢爛の翼」のサブタイトルで、その復権を願い
  ながら飛行艇の盛衰を振り返っている。まるで自分が飛行艇で世界の
  海を旅している気持ちになります。 是非ご覧ください。
「世界航空機文化図鑑」 R.G.グラント著 東洋書林

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