105.マッキM.67 シュナイダートロフィー・スピードレーサー [イタリア]
MACCI M.67 Schneider Trophy Speed Racer [ITALY]

全幅:9.98m、全長:7.62m、総重貴:2,180kg、最大速度:584km/h、
発動機:イソッタ・フラスチーニ Asso750(800)水冷W型18気筒1,400/1,800馬力×1、
乗員:1、初飛行:1929年8月

Illustrated by Shigeo Koike , イラスト:小池繁夫氏

 1913年モナコの海岸(地中海)で第一回のシュナイダートロフィーレースが開催された。このレースはフランスの兵器メーカーのシュナイダー2世が水上機の性能と耐久性向上を図るために提唱し、豪華なトロフィーと多額の賞金を用意してフランスの航空クラブ(1998年カレンダー掲載)に委託し、世界に参加を呼びかけたものである。

 レースは水上機による国際速度競技で周回コースでの平均速度を競うものである。第1回の優勝はフランスのドベルデュサン・モノコック機でトロフィーが「預託」された。というのも優勝者には次回のレース場の選定と開催日時などの決定権が与えられ、連続3回優勝した国が最終的な栄誉が与えられ、永遠のトロフィーホルダーとなるのである。ところが第1回・第2回が行われた翌1914年〜1918年の間は第1次世界大戦のため中断された。 1920年に再開された第3回は天候に恵まれず、霧のため完翔できず全機失格となった。

 続く第4回・第5回はイタリアが連続優勝しトロフィーを持ち去ったが、第6回はイギリスがイタリアの3連勝の夢を打ち砕いた。そして第7回と第8回は何とアメリカが連続優勝した。その第8回は米国のボルチモアで開催された。このレースでの優勝はカーチスR3C−2を駆ったジェームス・ドーリットル陸軍中尉であった。そう彼は1942年4月太平洋上の空母ホーネットから飛び立った16機のB−25双発爆撃機による初の日本本土(東京)奇襲空爆作戦の指揮官ドーリットルその人である。

 そして1926年の第9回はアメリカの3連勝制覇が懸かっていた。イタリアの独裁者ムッソリーニは全ての力を投入してでもアメリカの3連勝を阻めと命令を下した。イタリアが雪辱を果たして優勝。トロフィーの争奪は各国の威信を掛けた熾烈な戦いとなっていった。イタリアのマッキ社の主任設計者マリオ・カスエルディは張線で支持した薄い主翼・細い胴体・短い双浮舟に表面冷却器を使ったエンジンという全く新しいスタイルのM39を創り出し、天才パイロットと言われたマリオ・ベルナルディが操縦して雪辱を果たし、その大勝利にイタリア中が沸いたのである。そして翌1927年の開催地をベネチアとして各国を迎え撃つことになったが、イギリスはミッチェル技師設計のスーパーマリンS5で挑戦し、航空母艦イーグルで出場機とメンバーを送り込むほどに力を入れ、イタリア勢を粉砕してトロフィーとともにイギリスはサウサンプトンに凱旋した。

 第11回レースは2年後1929年にイギリスのワイト島カウズで開催されることとなった。イタリアはトロフィー奪還を図るべく、新開発のエンジン・瞬間的には1800馬力を発生するイソッタ・フラスチーニW型18気筒エンジンを載せたマッキM67(上のイラスト)を開発し、その夢を懸けた。 しかし1号機はテスト飛行中に墜落して失い、残る2機でレースに挑戦した。 しかし期待に反して2機ともエンジントラブルで途中でリタイアしてしまった。 期待が大きかっただけに失望も大きかった。イギリスは新開発のロールス・ロイス V12気筒1900馬力エンジン搭載のスーパーマリンS6Aで2連勝となり、次回に王手をかけた。(このS6Aはサウサンプトン航空博物館に保存展示されている)

 第12回は1931年9月同じくイギリスのカウズで開催されたが、アメリカは世界恐慌のの煽りで国家予算が付かず参戦を断念した。イギリスでは個人資産家からの援助を得たことから、エンジンを 2350馬力にパワーアップしたS6Bの開発に取り組んだ。 一方イタリアは国からの予算援助をとりつけ、二重反転プロペラを1500馬力のエンジン2基で駆動する「究極のレーサー」といわれたマッキMC72でトロフィー奪還を狙った。 しかしギリギリのところで完成に至らずレースに間に合わなかった。そのため第12回レースはイギリスの2機だけの挑戦者の居ない寂しいものとなってしまった。 レースの結果は平均時速k 547.30m/h、最高時速655.00km/hであった。 しかし、その後も調整整備を繰り返したマッキM72は1934年に真価を発揮し、最高時速709.209km/hをマークし、これは不滅の大記録(現在もレコードホルダーである)を打ち立てたのである。 マッキの歴史の中でM39とM72は永遠の栄光に輝いたが、M67は悲運の翼で終わった。 1913年第1回の優勝機ドベルデュサンの最高速度が160km/h、その後約20年で約700km/hまで航空技術は大飛躍をしたのである。  (2001年カレンダー掲載)


 



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