040.サボイア・マルケッティS-55             
      「サンタ・マリアII世」飛行艇 [イタリア]

SAVOIA MARCHETTI S-55 "SAINT MARIA" FLYING BOAT [ITALY]
 

初飛行:1924年8月
全幅:24.00m、 全長:16.50m、 総重量:8,250kg、 最大速度:280km/h/SL、
発動機:イソタフラスキー「アッソ V12」750馬力×2、
乗員:6名

Illustrated by Shigeo Koike , イラスト:小池繁夫氏

 「フォルムはあまり良くない。でも、何ともいえず魅力的」。小池氏はこう言うけれど、このフォルム にひかれる人は少なくないのでは?  また、一見して「イタリアのデザインだ!」と感じる人も多いに違いない。

 ユニークな双胴形式(主翼中央部の前線に操縦席があるのも面白い)、いかにも浮揚感を感じさせる洗練されたフォルム。S-55は第2次大戦前、数々の長距離飛行に成功したイタリアの代表的飛行艇と言える。

 S-55原型は一連の航続時間と航続距離の記録を樹立しているが、本来は軍用の雷撃機で、2つの胴体の間の主翼の下に魚雷や爆弾が装着された。コクピットはその真上の主翼上側にあり、燃料タンクや無線機、銃座などは両方の胴体にあった。最初イタリア空軍はこの正統ではないカタチに抵抗があって、なかなか制式採用にならなかったが、1925年正式に発注しその実性能に満足して翌年には170機も生産された。

 軍用以外に民間用があり9〜12名の客席があり1932年まで地中海路線で運用された。

 この作品のサンタ・マリア号は、1927年にフランシスコ・デ・ピネド大佐以下4名が乗り組み、イタリア・サルディニアのエスマス水上機港を出発し、西アフリカ〜南米〜そしてアメリカ・ニューオルリンズへと飛んだ。 ニューオルリンズでは燃料補給時の一人の見物人の不注意からタバコの火の引火で焼失するという不運に見舞われた。 そこで、帰路は代替機を使用することとなったり、不時着水時に船に曳航されたりしたのだが、このコースで4つの大陸横断と大西洋周回飛行を成し遂げた。実際には、着水51回、193時間、48,230kmを飛行の大快挙と言ってよい飛行だったことは間違いない。 

 また、1930年と1933年の2度イタロ・バルボの指揮で編隊でもって大西洋の横断飛行に成功している。 とくに2度目の1933年はイタリア空軍10周年事業としての飛行である。

 この年、アメリカ・シカゴでは市創立100周年を祝って「世紀の世界進歩博覧会」が開かれていた。1933年7月15日の夕刻、博覧会会場の空にユニークなイタリア・デザインのS-55X飛行艇24機(途中で1機が失われた)の大編隊が五大湖の一つミシガン湖上空から現れた。 3機づつ8組の大編隊飛行は観客の度肝を抜くエンターテイメントであったことが容易に想像される。イタリアのオルベテロからアイスランドを経由して9,200kmを15日間かけて飛来、ミシガン湖に着水し、湖上を一直線に隊列を組んでタキシングしながらシカゴ湖畔に到着したのである。

 将軍バルボは大歓迎を受け、市内をパレードし晩餐会に招待され、シカゴの大通りに彼の名が冠されたほどであった。 この飛行はイタリアに台頭するファシスト政権の格好の宣伝となったが、アメリカ国民はどれほど意識したであろうか? 

 バルボはそれまでイタリアの航空相の地位にあってイタリアの航空の近代化に大きく貢献していたが、独裁者ムッソリーニは、シカゴで国際的な喝采を受けたバルボに嫉妬心を燃やし、バルボを植民地であったリビアの提督に左遷した。 すると今度は、バルボが1939年ムッソリーニとドイツ・ナチ政権との連合に反対し、英国との友好関係を主張したとの話である。 そして戦火の中で1940年彼の搭乗機が味方の砲撃を受けて墜落し不慮の死をとげている。

 なお、この大飛行の名声から、今日でも大編隊飛行のことを「バルボ」と言うらしい。

 この作品の、透き通る地中海の大気、光と陰、あたかも吸い込まれるような見事な描写ではないでしょうか。

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