- 1928年(昭3)日本政府は朝鮮半島や大陸への航空路線を確たるものとするため「日本航空輸送株式会社」を設立し、それまで民間で自由に行われていたものを、官営で一元的運営を図った。 創立された日本航空輸送株式会社は、その使用機材を当時欧米で大好評であったフォッカー機を採用することとなった。 なお、この会社名は更に1938年(昭13)には東南アジアへ路線の進出など国威向上をも狙って「大日本航空株式会社」に改組している。
- 日本航空輸送では、国内線にはアメリカ、アトランティック・エアクラフト製のスーパーユニバーサル(単発機)を運用し、一方満州・大連・台湾線などはオランダ製のフォッカーF-7b(3発機)を運用機材として、まづ6機を輸入した。
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- これら内の1機が上のイラストのJ-BAXO機である。遠くに管制塔を望む羽田空港である。(羽田空港は1931年に開港した。それまでは立川飛行場を東京の空港としていた) 本輸入機の発動機は中島で国産化していたジュピター6型を装備したが、以降の後期型では機体も中島で国産化され発動機も「寿」2型を装備した。
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オリジナル設計開発のフォッカー社は、インドネシア生まれのオランダ人アントニー・フォッカーによって1910年にドイツのベルリンに設立された。 第一次世界大戦でリヒトホーフェン(通称レッドバロン)の乗機として有名な3葉のフォッカー
Dr.Iなどの戦闘機を製作し一躍有名となった。
しかし第一次大戦での敗戦によりドイツでは航空全面禁止となって航空機製造が困難になると、1919年に新天地オランダに新しいフォッカー社を設立した。 そして旅客機の分野に目標を変えフォッカー 3Mなどの製造を開始した。
その後、アントニー・フォッカーは1922年にアメリカ合衆国に移住し、1923年にはアトランティック・エアクラフト・コーポレーション・オブ・アメリカ(AAC)を設立した。 AACは、実質フォッカー社の北アメリカ支社ともいえる企業で、ニュージャージー州のテターボロ空港を拠点に航空機製作を開始した。
1926年にはAAC初の自社開発機としてフォッカー・ユニバーサルを初飛行させた。 ユニバーサルは、燃料タンクを内蔵した高翼単葉の木製主翼に、開放式の操縦席を持つ実用的な設計であったが、旅客がわずか4名だけであったため、本機の拡大・改良型が求められスーパーユニバーサルとなって1928年3月に初飛行し本格的な生産が開始された。
オリジナル機の緒元は 全長:11.09 m、全幅:15.43 m、翼面積:34.4 u、自重:1,720 kg
エンジン: P&W ワスプB 空冷星型9気筒エンジン 450馬力、最大速度:248 km/h
かように、フォッカーとはドイツ、オランダ、アメリカと多国籍であり、このスーパーユニバーサルは世界各国で使用され、また日本では中島で生産されたこともあり、運用機数は日本が最多であった。
また派生型として民間用で水上旅客機(以下のイラスト)も作られた。

また、日本では前述の日本航空輸送株式会社での民間運用の他に、陸軍では患者輸送機、練習機、そして海軍では陸上偵察機等として採用された。(下のイラスト)
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