068. ルバッスール PC.8 白い鳥 号 長距離記録機[フランス]
      LEVASSEUR PC.8 L'Oisean Blanc Long Range Plane[FRANCE]

 
全幅:14.60m、全長:9.75m、翼面積:60.5u、
発動機:ローレン・デイートリック水冷W型12気筒 450馬力、
総重量:5,030kg、最大速度:200km/h、巡航速度:160km/h、
航続距離:7,170km、乗員:2名、
初飛行:1927年4月
 
Illustrated by Shigeo KOIKE , イラスト:小池繁夫氏  2003カレンダー掲載

 第一次世界大戦で飛行機は目覚しい発展を遂げたが、大西洋の横断は新たな技術的課題の克服が必要であった。 最初は不時着を想定し飛行艇での挑戦であったが、アメリカ海軍の命によりカーチスNC飛行艇3機で挑戦し、その内1機がやっとのことで最初に成功した。 とすると次には無着陸横断が目標となったが、多くの大空の冒険者たちが挑戦しては挫折していた。

 1919年6月にジョン・アルコックとアーサー・ブラウンの両名が大戦終結直前に完成した新鋭双発複葉爆撃機ビッカース・ヴィミーの改造機に乗って、カナダの東海岸ニューファンドランド島から北大西洋を越えた3,000Km先のイギリスを目指し離陸した。途中、無線機は壊れ、コンパスと速度計だけの航法で霧に中を飛ぶことになり、北極圏ではエンジンのキャブの凍結や速度計測のピトー管の氷結に悩まされ、最後は何とかアイルランド・クリフデンの湿原に頭を突っ込んだ形で不時着し、なんであれ、ともかく大西洋無着陸横断に成功した。 成功した彼らに英国王ジョージ5世からサーの称号が与えられたが、それは搭載したエンジンがロールスロイス・イーグル350馬力エンジンであったからかもしれない?

 大西洋横断に成功すると、今度はニューヨーク・パリ間6,000kmの飛行にオーテイク賞として25,000ドルの賞金がかけられ、世界の注目イベントとなった。ここでも多くの飛行家が挑戦したが、6,000kmという距離は容易なものではなかった。1927年5月ニューヨーク〜パリ間の無着陸横断飛行に、最初に成功し、ニューヨークのホテル王レイモンド・オーテイクが提供した賞金を獲得したのは、もちろんチヤールス・リンドパークである。 彼は無名の郵便飛行士であったが、勿論ライアンNYP-1の機体とライト・ホワールウィンド5型・エンジンの信頼性もあるが、それ以上に飛行経験と航空機の技術知識および航法に関する高い見識があって計算された飛行計画で成功したものである。

 リンドパークに先だつ1ヶ月前、1927年4月、リンドバーグとは逆のコースでパリからニューヨークに向かって飛びたった飛行機があった。それがこの画のルバッスールPC.8「白い鳥」号である。 パイロットは、この名機カレンダーシリーズの1997年版に登場した、憫博(どくろ)マークのニューポール24戦闘機でエースとなったシヤルル・ナンジエツセ、そして航空士はフランソワ・コリだった。

 オワゾー・ブランという機体はフランス海軍が使用していたPL4艦上雷撃機を改造したもので、胴体幅を拡大し直列配列(前後)のコクピットを並列にして、その周りに大量の燃料を搭載できるようにしたものである。 機体構造は、万一、不時着水したとき滑水できるような機体の底面の形状をしており、かつ水上に浮いていられるようになっていた。 それまでもニューヨークを目指して飛び立とうとした挑戦者も多かったが、大量の燃料搭載で重量過多となり、ことごとく離陸に失敗していた。

 1927年5月8日、彼等が乗った飛行機は、パリ・ルブージエ空港を見事に飛び立つと、空気抵抗を減らし、かつ不時着水時の安全性も高めるため、車輪を切り離し、やがてノルマンデイ海岸のエトルタの上空を高度200mで通過すると、そのまま大西洋上を西に向かって飛び去った。

 地球の風は基本的に西から東に向けて吹くから、パリから西に飛ぶのは、ニューヨーク発に較べれば明らかに不利なのだが、燃料容量4,025リットルは、それを見込んでも十分のはずだった。

  だが、アイルランドの上空や悪天候のカナダ・ノバスコシア上空を西に通過する飛行機を見たという報告もあったのだが、その後に大捜索が行われたにもかかわらず、大西洋上に出てから後の、「白い鳥」号の消息は確認されていない。 重量軽減を優先して無線機も積んでいなかったため連絡のしようも無かった。 現在、その挑戦の証として、離陸直後に切り離された「白い鳥」号の車輪だけが、現在、ルプールジェ空港の航空博物館に展示されている。
    

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