235. 航研・長距離飛行世界記録機

Koken Long-range Reserch-plane (Japan)

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 「航研」すなわち東京帝国大学航空研究所は大正7年(1918年)に大学の付属研究所の一つとして設立された。設立当時は航空機の専門家は2〜3人しかおらず、しかも大正12年の大震災で建物は崩壊し、その後、目黒区駒場に研究所の建物が再建されたものの、なかずとばずの活動でしかなかった。

 そして昭和を迎え、当時の所長、斯波忠三郎が航空研究所の基礎研究を世に知らしめ研究者たちに自信をもたせるために、世界記録を樹立できる飛行機の製作することを企画したのである。 おりしも、そのころは世界で長距離飛行が盛んに試みられ、西風に乗って太平洋横断飛行に挑戦することが話題となっており、昭和6年(1934年)ハーンドン、パングボーンの両名が乗ったベランカ単葉機(ミス・ビードル号:青森県三沢航空科学館に航研機とともにレプリカがあります)が青森県淋代から北米ウェナッチまでの初の横断飛行に成功している。

小池繁夫氏 作画

 昭和6年東京帝国大学航空研究所・斯波忠三郎から文部省に「長距離機設計制作の計画」が提出され、翌年に帝国議会で当時としては破格の高額な25万円の予算が承認され、同年夏から計画が実行に移された。 機体は岩本教授、発動機は栖原教授の担当で研究所総動員で進められた。航研内の各主務担当は、機体全般は小川太一郎、主翼燃料タンクは山本峰雄、胴体尾翼は木村秀政、空気力学は谷一郎、発動機は田中敬吉、脚冷却排気は富塚清、気化器は渡辺一郎、燃料は永井雄三郎、空力設計は深津了蔵、プロペラは河田三治、操縦装置は佐々木達治、塗料を厚木勝基らが担当したと記録にある。

 この間、世界では次々と長距離世界記録が打ち立てられており、航空技術も急速な進展が見られた。機体設計は順調に進められたが、問題は機体や発動機を何処で作るかであった。当時のいくつかの飛行機製作会社は軍の需要を賄うのに必死であり対応が不可能であった。また費用的にも、試作前の研究開発費用を考えると、とても当初予算の25万円では不可能であり、民間よりその倍位の援助が必須となっていた。このように悩んでいたときに東京瓦斯電気工業(*)の松方五郎が製作に名乗りを上げたのである。この会社は木製軽飛行機の製作経験しかない工員数25名程度で、他からみても無理としか思えなかったが、ここに豊かな経験と情熱を持った技術者・星子勇やフランスのドヴォアチン飛行機会社での経験を持つ工藤富治らがいた。

(*)注記:「東京瓦斯電気工業」とは1910年に東京瓦斯の機械部門が独立して設立された。最初はガス器具の製造であったが、後に電気器具をも手掛け、さらに軍需産業にも参入して、爆弾の信管の製造から、後には軍用正式四屯自動貨車など試作製造し、「ちよだ省営バス」などを製造した。 航空機部門は1918年に初めて航空機用エンジンを開発し、のちに「神風」発動機を量産した。 機体では「小型旅客機 KR-1、KR-2」などを少量生産した。 自動車部門は戦前戦中に多くの軍用トラックを生産したが紆余曲折があって、戦後に現在の「日野自動車」の前身となっている。なお同社の八王子研修所にある博物館には航研機のスケールモデルが展示されている。 一方航空機部門は戦時政策のなかで「日立航空」となり、戦後は航空産業の全面禁止から再び東京瓦斯電気工業に改称し、さらに小松ゼノアになってグループの合従連衡に中に溶け込んでいった。

 
 昭和8年から設計は東京瓦斯電気工業の設計室で本格化していったが、余りにも未知の分野の技術領域であり、しかも人員が不足であったため計画は遅々として進まなかった。設計は一般設計構想から基本用件を定め、次に翼断面、主翼平面形状を決めて、模型風洞実験を経て補助翼関係を決め、その後、尾翼、胴体構造を決定していった。ここで発動機の選定が大きな問題であった。当初、航続距離を延ばすためにディーゼルエンジンを企図していたが、短時間に信頼性のあるものを開発することが困難であったことから、川崎製のBMW・型液冷V型12気筒715馬力を長距離飛行用に改良することになった。これに住友SW-4木製被包式2翅プロペラ(直径4.00m)を採用した。

 昭和10年になって、やっと具体的な資材調達から製作段階になった。長距離機は航続距離を延ばすために、揚抗比を大きくし、プロペラ効率をよくして、発動機の燃料消費率を小さくして、燃料を目一杯積み込むことが基本である。しかし、そのための金属加工の不慣れや工作器具の整備に多くの時間を費やし、苦難の連続であった。主翼のアスペクト比は揚抗比を改善するため9という大きな値とした。そして有害抵抗を極小化するため、主翼表皮は最上質のエジプト綿を用い、羽布塗料を11回も塗った上に鏡のように磨き上げられていた。そして「真紅の翼」と言われたように真っ赤に塗られていたが、これは不時着時に発見しやすい為であった。また脚は完全引き込み式とし、しかも脚孔は折り畳み開閉式の蓋で完全に主翼の形状が保たれるようになっていた。胴体外板の鋲はは当時初めての試みとして特殊な沈頭鋲が使われた。また操縦席も離着陸などの必要な時だけ風防を立てて上半身を乗り出す構造で、飛行中は折り畳んでしまい込み、空気抵抗を無くすようになっており、視界不良で操縦そのものも大変ではなかったかと思われる。

 機体が完成に近づいた昭和12年、操縦士として陸軍航空技術研究所より、藤田雄蔵少佐(手記を紹介しています)、副操縦士として高橋福次郎軍曹、機関士として関根近吉が派遣された。3月31日機体は完成し5月25日、羽田飛行場にて初飛行に成功し、その後、半年にわたって試験飛行が行われた。そして11月13日、第1回目の挑戦を行ったが脚の故障で失敗に終わった。翌、昭和13年5月10日、2回目も自動操縦装置の故障で断念することとなった。しかし応急修理の後、5月13日、3度目の挑戦で記録に向け、勇躍離陸したのである。(この日は金曜日!)

 飛行コースは、千葉県木更津の旧海軍飛行場を離陸して、千葉県銚子を経て群馬県太田の中島飛行機株式会社の本館上空で左旋回し、更に神奈川県平塚海岸の航空灯台を回って、木更津飛行場の基点に戻る1周401.759Kmの3角コースであった。
 木更津の滑走路は1,200m。離陸時の機体総重量は9,216Kg、燃料は5,822リットルを搭載していた。航研機は1.4mの向かい風のなか、早暁4時55分滑走を始め、滑走路を40mオーバーしながらも真紅の翼を空中に浮かべたのである。離陸を見守る技術者達のこみ上げる興奮と感慨は、現代の我々は経験しえないパイオニア達だけのものかもしれない。

  

 離陸後順調に飛行し、1周2時間余りで夜昼迎えること3度、62時間、5月15日、29周したところで天候が悪化し、機内照明が故障し、排気弁冷却送風機も故障したことから、藤田少佐は意を決して着陸したのである。昭和13年(1938年)5月15日午後7時20分。かくして総飛行距離11,651.011Kmの世界記録がここに樹立されたのである。また同時に10,000Kmの速度記録186.192Km/hが世界記録としてFAIによって承認された。なお、着陸時には燃料残が500リットルあり、更に1,200Kmの飛行が可能であった。

 しかし、この記録も昭和14年にはハインケルHe116型機が10,000Km速度記録を、サヴォイア・マルケッティS82PD型長距離機が12,935.770Kmの航続距離記録を塗り替え、航空技術の急進の程がうかがえる。
 航研機はただただ世界記録のために総てをそれに徹した機体であったが、これに参画していた木村秀政(元、東大教授、日大教授)は、さらに構想を広げもっと実用的で東京からニューヨークまで飛行できる機体に夢をはせていた。このとき朝日新聞社から紀元2600年記念事業として出されていた長距離機の案が航研に持ち込まれた。昭和15年(1940年)計画が公表され、早速技術諮問委員会が結成され、木村秀政が幹事の一人となり、基礎設計に取り掛かった。そして双発の本格的実用長距離機A-26が、機体は立川飛行機、発動機は中島飛行機荻窪製作所(ハ-115・後の「栄」)、プロペラは住友金属、降着装置は岡本製作所にてそれぞれ製作されることになった。A-26は全幅29.43m、全長15.30m、総重量16,725Kgの全金属応力外皮構造で流麗で見事なデザインであった。しかし昭和16年(1941年)太平洋戦争の勃発により悲しい運命をたどることとなる。

エプロン上のA-26機

 それにつけても惜しむべくは、航研機は終戦まで羽田に保存されていたが、進駐してきた米軍によりブルドーザにより海中に投棄されてしまったことである。 また昭和17年に完成したA-26は1機は昭和18年に3国同盟の親善目的で 戦時下をおして南回りでドイツまでの飛行(「セ号飛行」と呼ばれた)を試みたが、シンガポールを離陸した後、撃墜されたのかインド洋上で行方不明となってしまった。 一方、もう1機は昭和19年7月2日から4日にかけ、満州の新京〜白城子〜ハルピンの1周865Kmのコースで世界記録に挑戦し16,435 Kmを飛んで世界記録を作ったが戦時下で公認されなかった。残念ながらニューヨークまでの本当の平和な飛行が実現出来なかった。この機体は終戦まで甲府の玉幡飛行場に係留されていたが、米軍が本国に航空母艦で移送する途中に嵐に遭い、不運にも海中投棄されたと伝えられている。

 以上、戦前の航空機技術のパイオニア達の熱い思いを、山本峰雄、木村秀政 両教授の回顧録(昭和34年 酣燈社発行 日本傑作機物語)を参考に一部他の記録を交えて作成しました。少しでも諸先輩(敬称は略させていただきました)の残された功績と開拓者の志を広く知って頂ければとの思いで掲載させて戴きました。

 

 その後2007年1月スペイン・バルセロナの Fabio Pena さんから、終戦直後に横須賀湾で撮影した2つの写真を送っていただき、「この機体の名前を教えて欲しい」というメールでした。 ところが、それを見てびっくりしました。

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 なんと「A-26機」が航空母艦の艦首の甲板上に固定されているではないですか!(上の左側)  さらに艦尾側には中島の18試「連山」が!、更に、その前にもう1機、双発の大型機が固定されています。 

 初めはこの機体が何か分かりませんでしたが、これは立川の「キ-74」試作長距離爆撃機ではないですか。 

 写真の場所は横須賀、空母は USS BOGUE という小型の援護空母で、今まさに米国本土に輸送されるところです。A-26にとっては最後の姿です。

 この状態のBOGUE経歴はhttp://www.navsource.org/archives/03/009.htmに掲載されていて、これらの写真のオリジナル版が掲載されています。 そのページの横須賀での写真(右)を見るともう1機載せられているようです。  また、上左の写真のBOGUEの先には立派な戦艦が見え、更にその沖合遠くには航空母艦が2隻見えます。 この戦艦は何と日本海軍の旗艦にもなって、最後まで稼動状態で生き残った「長門」である。 しかし、その後アメリカの南太平洋での核実験の標的となり、2度目の実験にてマーシャル諸島のビキニ環礁に沈み、現在は観光ダイビングのスポットとなっている。

 このあと、7月には米国のRichard Hornefferさんが航研機に興味を持って、このページの英文ページの編集を手伝っていただきました。なかなか不思議な因縁です。

<参考リンク>                                   -   

★航研機 記録飛行の動画( You Tube )にアップされています。   2009.11

・挑戦の記録(@準備から離陸)  (A飛行ルートと着陸記録達成)  -

(B着陸後の機体、航研上空の祝賀飛行)- 

・山本峰雄サイバーミュージアム                       -

航研機の主要諸元

全幅:27.93m、全長:15.06m、全高:3.84m、全備重量:9,216Kg、
最大速度:245Km/h(S.L)
主翼:全金属骨組み羽布張り、最大翼弦:4.80m、上反角:2度、捻り下げ:2度
胴体:全金属製セミモノコック構造
主降着装置:内側引込式、主車輪:1.20×0.40m、尾輪:固定式(カバー付)

発動機:川崎BMW・型液冷V型12気筒 、排気量:42.4リットル
最高出力:715HP、重量:565Kg
燃料:エチル鉛添加航空ガソリン(オクタン価94)5,822リットル
潤滑油:290リットル
発動機回転数:1,800r.p.m、減速機:減速比0.62ファルマン型


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