283. 川西 輸送飛行艇/九七式 飛行艇  日本/海軍     

    KAWNISHI Transport Flying-boat / Type 97 Patrol Flying-boat [JAPAN]


全幅:40.0m、全長:25.6m、総重量:17,000kg、
最大速度:340km/h 4,000m、発動機:三菱「金星」46型1,070馬力×4、
(97式大艇武装:機銃7.7mm×4、20mm×1、爆弾800kg×2)、
乗員:8名、乗客18〜20名(輸送機型積載量5,290kg)、
航続距離 4,800〜6,080km
初飛行:1936年7月 14日
                                              Illustrated by KOIKE, Shigeo , イラスト:小池繁夫氏

 海軍では昭和の初め、この分野で最も進んでいた英国のショート社に新しい哨戒飛行艇の設計を発注し、川西航空機にて90式2号飛行艇として生産していた。この機体はロール・スロイスH-10バザード水冷V12気筒を3基搭載した複葉大型飛行艇であった。この製作に当ってショートの技術者10名が来日し、川西の技術者と議論を重ねており、その後の川西の飛行艇に多大なる影響を与えた。

 しかし川西の若い技術者達には、ショートの技術者の英国的保守性にあきたらない点が多かったという。この技術者も昭和7年に去った翌年の1933年(昭8)、日本海軍は川西に大型哨戒飛行艇の基礎研究を発注した。3月から12月にかけて川西側と海軍側で議論を重ね、大型飛行艇に必要な具体的な技術問題が明らかとなるとともに、基本的な構想が見えてきたのである。

 長大な航続距離を得るための大きなアスペクト(縦横)比の主翼構造がまず研究課題となった。主翼は一般的に曲げに対する強度と捩りに対する強度を確保しつつ、いかに軽量に設計するかにあり、その解決策として2本の主桁構造と上面波板(なまこ板と呼んだ)を用いた独特の波板主翼構造を編み出していった。

 飛行艇にとって艇体は次ぎに重要な設計要素であり、空力と水力の両理論を基に両立する強固な形を作り上げねばならない。艇体の形が空力的に良くても、水の抵抗が大きくなると離水できなくなる。その当時川西に研究用の水槽(長さ90m)が完成し80種類もの模型を製作して一つ一つ詰めていったのである。

 これらの成果を踏まえ、1934年(昭9)に海軍は川西に大型飛行艇の試作命令を発した。その内容は9名の乗員と哨戒兵器を搭載して、航続距離2,500浬、巡航速度120ノットで発動機は金星4発と定められていた。

 これは当時の先端飛行艇であった米国のシコルスキーS-42を上回る画期的な大作となるものであった。川西では橋口義男技師の統括で、菊原静男技師を設計主務者として1934年(昭9)11月に設計を開始した。

 まず主翼は単葉と決めていたので、次ぎに発動機の位置が重要となる。プロペラが水上で水の飛沫をたたくことを避けるためには発動機を水面から相当高いところに置きたい。しかしナセルの空気抵抗を考えると翼の前縁の前に置きたい。また主翼も軽量化の視点から片持ちではなく主桁構造を左右通したものとしたかった。こういったことから、主翼を艇体の上方に3角型の支柱で支えるパラソル型の独特で「鶴の舞」のような優美なデザインが生まれたのである。

 小池繁夫氏の97大艇の画は澄みきったブルーの大気の中を悠然と飛ぶというより正に浮かんでいる艇そのもので吸い込まれるような感動を覚えます。

 1号機の初飛行は昭和11年 海軍きっての名パイロット近藤勝次操縦士によって行われたが、離着水性能の決め手となるステップ(艇体底の段差)位置だけが500mm後方の延長する要望が出ただけで概ね満足される結果であった。

 試作は4機作られ当初は発動機に中島の「光」(9気筒770馬力)が搭載されていたが出力不足は否めず、後に三菱の「金星43型」(14気筒900馬力)に換装された。テスト飛行では、とくにアスペクト比の大きい主翼を用いただけに翼幅40mの機体でありながら胸のすくような上昇力を発揮したという。そして1935年(昭12)制式機として採用され「97式飛行艇」と命名された。その後、1943年(昭18)に二式大艇に代わるまでの6年間に215機が製作された。この内36機が兵装を取り除き内部の艤装を改造して輸送専用機となり、海軍が20機、大日本航空が18機使用した。画はその中の大日本航空の「綾波号」である。

 初めは「波」の名が使われていたが、後には「巻雲」「白雲」など雲の名が使われた。一般には「川西式四発飛行艇」という名で親しまれ、南方航路ではサイパン〜パラオ、サイゴン〜バンコック線などで活躍した。乗員は機長、正操縦士、副操縦士、通信士2名、機関士2名、給仕1名の8名で運用した。機内には10席のソファシートと折畳式の2段ベッドがあり上段を折りたたむと下段は6〜10名分のシートとなった。

 海軍では大戦が始まったときには2式大艇が完成していたので、97大艇は専ら後方任務、兵員や物資の輸送に使われた。 南方の島々にはその周辺に珊瑚礁が発達しており、その数キロに及ぶ内海は外洋の波に対し天然の防波堤となっていたので、どちらの方向にも離着水できる絶好の水上飛行場であった。

 日華事変のころは哨戒任務にも使用されたが、その後は速度が遅く、敵機に出会うとその運命は決定的であった。 

 やはり飛行艇は武器としてではなく、平和な海の上を優雅に舞う姿が似合うのである。 
 私はこの「川西輸送飛行艇」に「翔鶴・飛行艇」とでも名付けたい。(空母みたい?) そして、この翔鶴?号が戦前の日本の航空機の最高傑作ではないかと思う。 実はこのイラストは富士重工業のカレンダーではないのですが、自分の好きな飛行機だけに、敢えて掲載させていただきました。
 

 この97大艇で得られた大型飛行艇の独自の技術は、更に発展し世界に類をみない最優秀飛行艇として、2式大艇を完成させた。

 この当時の海外の4発以上の飛行艇といえば英国ショートのSUNDERLAND Mk1、米国CONSOLIDATED PB2Y-3 CORONADO、独のBLOHM UND VOSS Bv222A(6発)くらいしか見当たらないのである。この傑出した飛行艇の技術は戦後の新明和のPS-1(US-1)飛行艇に引き継がれていった。

 川西飛行機は、関西の富豪:日本毛織の社長川西清兵衛が出資して起した飛行機会社であるが、当初は中島飛行機に出資し中島知久平を支援していたが、1918年(大7)年経営方針の摩擦が生じ袂を分けて独自に業を起したのであった。中島とは異なる独自の技術を磨き、97式飛行艇など日本の誇るべき技術を完成させた。戦後は新明和工業株式会社としてPS-1飛行艇を開発した。



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