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◆ カナヤマ上杉謙信ガイドブック。
KANAYAMA’S UESUGI KENSHIN
GUIDEBOOK.
『 (Kjhh)41521
カナヤマ
上杉謙信
関連 年代順
出来事ブック。 』
■ パソコン(PC)、 携帯用パソコン(PC)、
タブレット端末(PC)(iPad、他)、
スマートフォン(iPhone、他)、
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インターネット向 電子書籍。
メ ニュー (目次)。
■ 次の項目から選んで、クイックして下さい。
□ 上杉謙信ガイドブック。
■ 上杉謙信と同時代近くの関係史料。
□ 武田信玄ガイドブック。
□ 織田信長ガイドブック。
□ 直江兼続ガイドブック。
□ 室町幕府ガイドブック。
ブック。
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◆ カナヤマ 上杉謙信
関連年代順出来事ブック。
■ 当ホームページの制作・著作権 TKKI カナヤマ。
◆ 上杉謙信 関連年代順
出来事ブックの内容 :
■ 初学者・初心者向 インターネット用
上杉 謙信ガイドブック。
■ パソコン(PC)、 携帯パソコン(PC)、
タブレット端末(PC)(iPad、他)、
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ウエアラブル端末、 スマートテレビ用
インターネット向 電子書籍。
■ この本1冊で (このホームページ1つで)、
上杉 謙信のこと(概略)
が、一通り、わかる。
■ 上杉 謙信は、 室町時代後期(戦国時代)、
安土桃山時代の、武将であり、 越後国 (えち
ごのくに、現・新潟県)の 戦国大名 、国主
であり、 関東管領 (かんとうんかれい) と
なり、 義(道理)を重んじ、 関東、 信濃国(し
なののくに、現・長野県)、北陸の各地に進軍し、
多くの勝利をおさめる。
■ 上杉 謙信 ガイドブック。
■ 初心者用 オンライン 上杉 謙信 ガイドブック
(要覧)。
■ 上杉 謙信 (うえすぎ けんしん) 関連
初心者向 インターネット用 オンライン
電子書籍 (ブック)。
■ 上杉 謙信 の 入門 ガイドブック。
■ パソコン、 PDA(携帯情報端末) 用
WEBサイト。
■ TKKI カナヤマ著 上杉 謙信ガイドブック。
□ 上杉 謙信ガイドブック へ 。
◆ (Kjhh)
上杉謙信 関連
年代順出来事
ブック (総合)。
◆ 上杉謙信 関連
年代順出来事
(詳細・各年)。
■ 上杉謙信 関連年代順
出来事 (詳細項目)。
□ 上杉謙信ガイドブック。
■ 上杉謙信と同時代近くの関係史料。
□ 武田信玄ガイドブック。
□ 織田信長ガイドブック。
□ 直江兼続ガイドブック。
ブック。
□ 室町幕府ガイドブック。
ブック。
■ 備考。
■ 当書籍では、 歴史の出来事の5W1H
(いつ、どこで、だれが、何を、なぜ、どの
ように) や、 歴史の出来事の流れ(原因
理由⇒事件勃発⇒経過⇒結果⇒原因理
由)に沿って、歴史(過去)の出来事を分か
り易く、説明している。
■ より理解を深めるために、 日本史辞典の、
北条氏康 (ほうじょううじ やす)、
織田信長 (おだのぶなが)、
今川義元 (い まがわよしもと)、
徳川家康 ( とくがわいえやす)、
豊臣秀吉 (と よとみひでよし)、
上杉景勝 (うえすぎかげかつ)、
の項目も参照してください。
■ 西暦・和暦の記載。
● この年代順出来事は、
西暦を先に、その後ろの( )内に和暦を記載し
ている。
● この年代順出来事に記載されている日付(年
月日)は、 一般の歴史書で使用されているの
と同じように、1872年(明治5年)以前は旧暦
(太陰太陽暦)を用い、 1873年(明治6年)
以後は新暦(太陽暦)を用いている。
◆ では、上杉謙信に関係する出来事を、年代順に、
見てみよう。
■ さあ、上杉謙信に関する様々な出来事を見て
みよう。
■ 歴史学の立場から、上杉謙信の生涯や真実
の姿を見てみよう。
■ 歴史学の立場から、上杉謙信の実像を見て
みよう。
● 歴史学の立場から、年代を追って、上杉謙信
の実像を見てみよう (歴史の物事には、虚像
と実像があるが)。
■ 日付は、一般の歴史書と同様に全て旧暦で
ある。
■ 現代も、過去の時代も、人間は、利害と感情
(友愛)と理性等で行動し、富、名誉、権力等
を手に入れるために努力する。
人類の歴史は、 平和と戦争の歴史で
ある。 人は、美しき者、平和を好む者であり、
人は、醜き者、争う者でもある。
□ 上杉 謙信ガイドブック へ 。
◆ 上杉謙信 関連
年代順出来事
(詳細・各年)。
■ 『 では、年代を追って、上杉謙信の行動
を詳しく見てみよう。 』
■ 1521年 (永正18年・大永元年)。
● 永正年号から大永 年号に改元。
大永年号:1521年ー1528年。
■ 1521年(永正18年 ・大永元年)に、
大永(だいえい、たいえい)年号に改元。
● 1521年(永正18年 ・大永元年)8月23日に、
和暦の「永正」(えいしょう、
永正元年・1504年〜永正18年・1521年) が、
和暦の「大永」(だいえい、たいえい、
大永 元年・1521年・ 8月23日〜
大永 8年・1528年・ 8月20日) に
改元される。
● TKKI カナヤマ著 上杉謙信ガイドブック。
■ 1521年 (大永元年) 11月。
● 武田 信玄(太郎)が誕生する。
■ 1521年(大永元年)11月に、 武田 信玄
(たけだ しんげん、幼名:太郎(たろう))が、
甲斐国(かいのくに、現・山梨県)の守護大
名、戦国大名、国主の武田信虎(たけだの
ぶとら)の子として、誕生する。
■ 1528年 (大永8年・享禄元年)。
● 大永年号から享禄年号に改元。
享禄年号:1528年ー1532年。
■ 1528年(大永8年・享禄元年) に、
享禄(きょうろく)年号に改元。
● 1528年(大永8年・享禄元年)8月20日に、
和暦の「大永」(だいえい、たいえい、
大永元年・1521年〜大永8年・1528年) が、
和暦の「享禄」(きょうろく、
享禄 元年・1528年・ 8月20日〜
享禄 5年 ・1532年・ 7月29日) に
改元される。
● TKKI カナヤマ著 上杉謙信ガイドブック。
■ 1530年 (享禄3年)。
● 上杉謙信(虎千代)の誕生。
■ 1530年(享禄3年)に、 越後国(えちごのく
に、現・新潟県)の戦国大名となる、上杉
謙信(うえすぎ けんしん、幼名:虎千代)が、
越後国(えちごのくに、現・新潟県)で、越
後国守護代の長尾為景(ながお ためかげ)
の子として、誕生する。
● 1530年(享禄3年)に、越後国の戦国大名と
なる、上杉 謙信(うえすぎけんしん、幼名:虎千
代)が、誕生する。 虎千代(とらちよ、後の
上杉 謙信)が、 越後守護代・長尾為景の4男
(又は3男)として、春日山城で、産まれる。
● TKKI カナヤマ著 上杉謙信ガイドブック。
■ 1532年 (享禄5年・天文元年)。
● 享禄年号から 天文年号に改元。
天文年号:1 532年ー1555年。
■ 1532年(享禄5年・天文元年)に、
天文(てんぶん、てんもん)年号に改元。
● 1532年(享禄5年・天文元年)7月29日に、
和暦の「享禄」(きょうろく、
享禄元年・1528年〜享禄5年・1532年) が、
和暦の「天文」(てんぶん、てんもん、
天文 元年・1532年・ 7月29日〜
天文24年・1555年・10月23日) に
改元される。
■ 1534年 (天文3年)。
● 織田信長(吉法師)が誕生する。
■ 1534年(天文3年)5月12日に、
織田 信長 (おだのぶなが、幼名(ようみょ
う):吉法師(きっぽうし)、生没年:1534年
ー1582年))が、
尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部の相当
地域)の、戦国武将、国人領主の織田信秀
(おだ のぶひで、生没年:1511年ー1552
年頃))の子として、誕生する。
● TKKI カナヤマ著 上杉謙信ガイドブック。
■ 1536年 (天文5年)。
● 信玄が元服する(成人となる)。
■ 1536年(天文5年)3月に、 武田信玄(太
郎)は、元服(成人)し、 室町幕府・12代将
軍の足利義晴(あしかがよしはる)の一字の
晴を賜り、武田 晴信(はるのぶ)と称す。
■ 1537年 (天文6年)。
● 豊臣秀吉(日吉丸?)の誕生。
■ 1537年(天文6年)に、 豊臣秀吉 (とよ
とみ ひでよし、幼名:日吉丸(ひよしまる)?)
が、 尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)
の、農民・足軽の弥右衛門の子として、誕生
する。
● 秀吉の誕生日は1536年 (天文5年)説も
ある。
■ 1542年 (天文11年)。
● 徳川家康(竹千代) が誕生する。
■ 1542年 (天文11年)に、 徳川家康 (とく
がわ いえやす、幼名:竹千代(たけちよ)) が、
三河国 (みかわのくに、現在の愛知県東部)
の、戦国武将・国人領主で岡崎城主の、
松平広忠 (まつだいら ひろただ) の子
として、 誕生する。
● TKKI カナヤマ 著 上杉謙信ガイドブック。
■ 1543年 (天文12年)。
● 謙信が元服する(成人となる)。
■ 1543年(天文12年)8月15日に、
上杉謙信(虎千代)は、元服(成人)して、
長尾 景虎 (ながおかげとら)と名乗る。
● TKKI カナヤマ著 上杉謙信ガイドブック。
■ 1546年 (天文15年)。
● 武田勝頼の誕生。
■ 1546年 (天文15年)に、 武田勝頼(たけ
だ かつより) が、 甲斐国(かいのくに、
現・山梨県)の戦国大名の武田信玄の子として、
産まれる。
■ 1548年 (天文17年)。
● 謙信が越後守護代となる。
■ 1548年(天文17年)に、 上杉謙信(長尾
景虎)は、 数え年19歳で、長尾家の家督を
相続し、 長尾氏の本拠地である春日山城
(かすがやまじょう)に入り、 越後国(えちご
のくに、現・新潟県)の守護代(しゅごだい)
となる。
■ 1550年 (天文19年)。
● 長尾政景が反乱を起こす。
■ 1550年 (天文19年)に、 上田長尾家当主
の長尾政景(まさかげ)が、 謙信(長尾景虎)
の長尾家の相続に不満を持って、反乱を起こ
す。
■ 1551年 (天文20年)。
● 謙信が長尾政景の反乱を鎮圧。
■ 1551年 (天文20年)に、 上杉謙信(長尾
景虎)は、 長尾政景の反乱を鎮圧する。
● 謙信の姉が長尾政景に嫁ぐ。
■ 1551年 (天文20年)に、上杉謙信(長尾
景虎)の実姉の桃 (もも、仙桃院(せんと
ういん))が、 長尾政景に嫁ぐ (政略結婚)。
● 謙信が越後を統一する。
■ 1551年(天文20年)に、 上杉謙信(長尾
景虎)は、 越後を統一し、名実共に、越後国
の国主となる。
● TKKI カナヤマ著 上杉謙信ガイドブック。
■ 1552年 (天文21年)。
● 謙信と信玄が
第1次川中島の戦いを行なう。
■ 1552年(天文21年)に、上杉謙信(長尾景虎)
と武田信玄(武田晴信)との間で、第1次川中島
の戦い (第1〜5回川中島の戦いの最初)が行
なわれる。
■ 1552年 (天文21年)頃。
● 信長の父・織田信秀の急死。
■ 1552年(天文21年)頃に、 勝幡織田氏
(織田弾正忠家)の、信長の父・織田信秀
(おだのぶひで、生没年:1511年ー1552
年頃)が、急死する。
その後の家督争いで、実弟の織田信行
(信勝)に勝ち、織田信長が、織田信秀の勝
幡織田氏(織田弾正忠家)の家督を継ぐ。
● 織田信秀の没年には、1551年(天文20年)
説、1549年(天文18年)説もある。
■ 1554年 (天文23年)。
● 甲相駿三国同盟が成立。
■ 1554年(天文23年)に、
武田信玄、北条氏康、今川義元の間で、互い
に婚姻関係を結び、 甲斐国本拠地の武田氏、
相模国本拠地の北条氏、駿河国本拠地の今
川氏の三者の甲相駿三国同盟 (こうそうしゅ
んさんごくどうめい、1554年ー1567年)が、
成立する。
■ 1554年 (天文23年)頃。
● 秀吉が信長に仕え始める。
■ 1554年(天文23年)頃に、豊臣秀吉(木下
藤吉郎)が、織田信長に仕える (家臣として
仕え始める)。
● TKKI カナヤマ著 上杉謙信ガイドブック。
■ 1555年 (天文24年・弘治元年)。
● 天文年号から弘治年号に改元。
弘治年号:1555年ー155 8年。
■ 1555年(天文24年・弘治元年)に、
弘治(こうじ)年号に改元。
● 1555年(天文24年・弘治元年)10月23日に、
和暦の「天文」(てんぶん、てんもん 、
天文元年・1532年〜天文24年・1555年) が、
和暦の「弘治」(こうじ、
弘治 元年・1555年・10月23日〜
弘治 4年・1558年・ 2月28日) に
改元される。
■ 1555年 (弘治元年)。
● 謙信の甥の上杉景勝(卯松)
の誕生。
■ 1555年(弘治元年)に、 上杉 景勝 (かげ
かつ)が、誕生する。
■ 1555年(弘治元年)に、 直江 兼続(なおえ
かねつぐ)が仕える主君となる、 上杉 景勝
(うえすぎ かげかつ、 幼名・長尾 卯松(うの
まつ)、後に直江 兼続が仕える主君・大名)
が、 誕生する。
● 1555年(弘治元年)に、 上杉 景勝は、
長尾 政景(ながお まさかげ)の次男であり、
上杉謙信(長尾景虎)の甥(おい)であり、
後の直江兼続の主君である。
● 長尾 政景は、上杉謙信の姉婿で上杉景勝
の父で、越後・坂戸城主(新潟県南魚沼市
六日町坂戸) である。
● 一方、上杉謙信(長尾景虎)は、数え年26歳
であった。
■ 1556年 (弘治2年)。
● 謙信の越後放棄と国外退去。
● 越後の国人領主たちが後を追
って謙信を連れ戻す。
■ 越後国各地の国人領主(こくじんりょうしゅ、
= 国衆)たちは自立心(独立心)が強く、越後
国の国主(こくしゅ)の謙信の命(命令)に従わ
ないことが多く、謙信は嫌気(いやけ)がさし、
1556年(弘治2年)3月に、家臣同士の領土
争いや国衆の紛争の調停などで心身が疲れ
果てて、上杉謙信(長尾景虎)は、突然、出家・
隠居すると宣言し、 1556年(弘治2年)6月
には、謙信(長尾景虎)は、 越後国(えちご
のくに、現・新潟県)の国主の座を放棄して、
春日山城(かすがやまじょう)をあとにし国外
の高野山(こうやさん)へと向かう。
● 1556年(弘治2年)に、慌(あわ)てふためい
た、越後国の国人領主たちは、 越後を逃亡し
た謙信を追いかけ、懇願し、服従を誓い、説得
し出家を断念させ、越後国主の謙信を越後国
に連れ戻す。
■ 1558年 (弘治4年・永禄元年)。
● 弘治年号から永禄年号に改元。
永禄年号:1558年ー15 70年。
■ 1558年(弘治4年・永禄元年)に、
永禄(えいろく) 年号に改元。
● 1558年(弘治4年・永禄 元年)2月28日に、
和暦の「弘治」(こうじ、
弘治元年・1555年〜弘治4年・1558年)
が、
和暦の「永禄」(えいろく、
永禄 元年・1558年・ 2月28日〜
永禄13年・1570年・ 4月23日) に
改元される。
■ 1559年 (永禄2年) 2月。
● 信玄が、徳栄軒信玄と称する。
■ 1559年(永禄2年)2月に、 武田信玄
(武田晴信)は、 出家して、「徳栄軒信玄」
(法号、法名)と号す(称す)。
■ 1559年 (永禄2年)。
● 信長が尾張を統一する。
■ 1559年(永禄2年)に。 織田信長は、
尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)
一国を統一し、 尾張国の国主(こくしゅ)
となる。
■ 1560年 (永禄3年)。
● 後に上杉景勝に仕える、
直江 兼続(与六)の誕生。
■ 1560年(永禄3年)に、 直江 兼続 (なお
えかねつぐ、幼名・樋口 与六(ひぐち よろく)
が、誕生する。
● 1560年(永禄3年)に、直江 兼続は、
越後の坂戸(さかど)城主 (現在の新潟県
南魚沼市六日町坂戸)の長尾政景(ながお
まさかげ)の家臣、 樋口 兼豊 (ひぐち か
ねとよ、樋口 惣右衛門(そうえもん))の長
男として、産まれる。
● 一方、その時、上杉謙信 (けんしん、長尾景
虎)は、数え年31歳であった。
上杉景勝 (かげかつ、長尾 卯松(うのまつ))
は、数え年6歳であった。
上杉景勝は、長尾政景の次男で上杉謙信
の甥(おい)であり、後の直江 兼続の主君で
ある。
● TKKI カナヤマ 著 上杉謙信ガイドブック。
■ 1560年 (永禄3年)。
● 信長が桶狭間の戦いで、
今川義元を敗死させる。
■ 1560年(永禄3年)5月に、織田信長は、
桶狭間(おけはざま)の戦いで、 今川 義元
(いまがわ よしもと)を破る。 今川義元は、
尾張の桶狭間で、敗死する。
● 家康が三河へ戻る。
■ 1560年(永禄3年)に、 義元の家臣して
信長と戦っていた、徳川家康(松平元康(ま
つだいらもとやす))は、 尾張より、松平軍
の兵を撤退し、三河国(みかわのくに、現・
愛知県東部)の岡崎城へ戻る。
その後、1561年(永禄4年)4月に、
家康は、今川氏から独立する。
● TKKI カナヤマ 著 上杉謙信ガイドブック。
□ 上杉 謙信ガイドブック へ 。
□ 日本史辞典の先頭ページへ。
■ 1561年 (永禄4年)。
● 謙信の小田原北条氏を攻め、
小田原城を囲む。
■ 北条氏攻め(小田原城攻め)。
● 1561年(永禄4年)に、 上杉謙信(長尾
景虎)は、 関東管領(かんとうかんれい)
の上杉憲政(うえすぎのりまさ)を擁して、
旧上杉氏家臣団の約10万人の大軍で、
北条氏康(ほうじょううじやす)を攻め、小田
原城を包囲する。
● 謙信が、山内上杉氏家督を
相続し、関東管領となる。
● 謙信が、上杉政虎と称する。
■ 1561年(永禄4年)閏3月16日に、
上杉謙信(長尾景虎(ながおかげとら))は、
鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で、
上杉憲政(うえすぎのりまさ)より、
山内上杉氏(やまのうちうえすぎけ)の家督
と関東管領職を相続(継承)し、
関東管領(かんとうかんれい)に就任し、
上杉憲政から一字の政を賜り、
上杉政虎(うえすぎまさとら)と称す。
■ 1561年 (永禄 4年)。
● 家康は織田方となり、今川氏
から独立する。
■ 1561年(永禄4年)4月に、三河国西部の
徳川家康(松平元康)は、 尾張国の織田
信長と和睦し、織田方となり、今川氏の今川
義元の後を継いだ今川氏真(いまがわ(うじ
ざね)と断行し今川氏から独立する。
■ 1561年 (永禄4年)。
● 謙信と信玄が、第4回川中島の
戦いで、戦い、引き分けとなる。
■ 第4回川中島の戦い。
● 1561年(永禄4年)8月に、 上杉謙信(上杉
政虎)の率いる上杉軍 と 武田信玄(徳栄軒
信玄)の率いる武田軍が、 信濃国(しなのの
くに、現・長野県)の北部の川中島で、衝突し、
第4回川中島の戦いが起こり、激戦となる。
第4回川中島の戦いでは、勝敗がつがず、
引き分けとなる。
● 謙信が、上杉輝虎と称する。
■ 1561年(永禄4年)12月に、上杉謙信(上杉
政虎)は、 室町幕府・13代将軍の足利義輝
から一字の輝を賜り、諱(いみな)を輝虎(てる
とら)と改め、上杉輝虎(うえすぎてるとら)と
称す。
■ 1562年 (永禄5年)。
● 信長と家康が同盟を結ぶ。
■ 1562年(永禄5年)1月に、徳川家康(松平
元康)は、 織田信長と清洲(きよす)同盟(織
徳同盟)を結ぶ。
■ 1564年 (永禄7年)。
■ 1564年(永禄7年)に、 上杉謙信(上杉輝
虎)の姉婿で上杉景勝(かげかつ)の父の、
長尾政景が、 舟遊びの最中、溺死する。
● 謙信が上杉景勝を養子の一人
とする。
■ 1564年(永禄7年)に、上杉謙信(上杉輝虎)
が、長尾政景の次男の、上杉景勝を養子とする。
● 謙信(上杉輝虎)が、 長尾政景の次男の、
上杉景勝を養子とする。
● 謙信と信玄が最後の川中島の
戦いを行なう。
■ 1564年 (永禄7年)に、上杉謙信(上杉輝虎)
と武田信玄(徳栄軒信玄)は、第5回川中島の
戦い (第1〜5回川中島の戦いの最後)を行う。
■ 1567年 (永禄10年)。
● 信長が美濃の斎藤氏を滅ぼす。
● 信長が尾張、美濃の2か国の
戦国大名になる。
■ 1567年(永禄10年)10月に、信長は、
美濃国(みののくに、現・岐阜県南部)の
斉藤氏を滅ぼす。
● TKKI カナヤマ著 上杉謙信ガイドブック。
■ 1568年 (永禄11年)。
● 信長が畿内に進出する。
● 信長の援助で、足利義昭が
室町幕府の将軍となる。
■ 1568年(永禄11年)9月に、織田信長は、
足利義昭(よしあき)を奉じて、上洛を果たし、
10月に、義昭を室町幕府の第15代将軍位
に就(つ)ける。
この戦いに、 家康は、信長へ援軍を
派遣する。
■ 1568年 (永禄11年)。
● 武田氏と徳川氏が今川領
に侵攻する。
● 北条氏は今川氏に味方し、
甲相駿三国同盟の甲相
同盟が破綻する。
■ 武田氏と徳川氏の今川領侵攻。
● 1568年(永禄11年)12月に、武田氏と
徳川氏は、共同で、今川領に侵攻する。
その後、1568年(永禄11年)12月
に、武田氏は今川領だった駿河国(する
がのくに、現・静岡県中部)を領有し、
1569年(永禄12年)5月に、徳川氏は、
今川領だった遠江国(とおとうみのくに、
現・静岡県西部)を領有する。
■ 1568年(永禄11年)12月に、北条氏の
北条氏康は、今川氏の今川氏真に援軍を
送り、武田氏の武田信玄と敵対し、甲相駿
三国同盟の甲相同盟が破綻する。
● 信玄が駿河を領有する。
■ 1568年(永禄11年)に、 武田信玄
(徳栄軒信玄)が、 駿河国(するがのくに、
現・静岡県中部)を占領する(領有する)。
● 1568年(永禄11年)12月に、今川氏真
(うじざね)が、駿河国を離れ、 遠江国(と
おとうみのくに、現・静岡県西部)の掛川城
(かけがわじょう)へ逃れる。
■ 1569年 (永禄12年)。
● 謙信が宿敵だった北条氏と
同盟を結ぶ。
■ 越相同盟。
● 1569年(永禄12年)3月に、 上杉謙信
(上杉輝虎)は、 武田氏の武田信玄を牽制
(けんせい)するため、 宿敵であった北条氏
の北条氏康(うじやす)と同盟を結ぶ。
● 家康が今川氏を滅ぼす。
● 家康が遠江を領有する。
● 家康が三河、遠江の2か国の
戦国大名となる。
■ 1569年(永禄12年)5月に、 戦国大名として
の駿河今川氏が滅亡する (今川氏の統治
権の喪失)。
今川氏真(うじざね)が、 徳川家康と
和睦し、遠江国の掛川城を開城する。
■ 1569年(永禄12年)5月に、徳川氏は、
今川領だった遠江国(とおとうみのくに、
現・静岡県西部)を領有する。
■ 1570年 (永禄13年)。
● 信長が越前を攻め、敗戦する。
■ 1570年(永禄13年)4月に、織田信長は、
織田軍を、越前(えちぜん)に侵攻したが、
その後、信長の妹婿の北近江(きたおうみ、
現・滋賀県北部)の浅井長政(あざいながま
さ)に背後をつかれ、 京(きょう、京都)へ
逃れる。
■ 1570年 (永禄13年・元亀元年)。
● 永禄年号から元亀年号に改元。
元亀年号:1570年ー 1573年。
■ 1570年(永禄13年・元亀元年)に、
元亀(げんき) 年号に改元。
● 1570年(永禄13年・元亀 元年)4月23日に、
和暦の「永禄」(えいろく、
永禄元年・1558年〜永禄13年・1570年)
が、
和暦の「元亀」(げんき、
元亀 元年・1570年・ 4月23日〜
元亀 4年・1573年・ 7月28日) に
改元される。
■ 室町時代後期の各年号。
暗記法: 永大享天弘永元天
(えいだいきょうてんこうえいげんてん)。
● 永正(えいしょう)年号: 1504年ー1521年。
● 大永(だいえい)年号: 1521年ー1528年。
● 享禄(きょうろく)年号: 1528年ー1532年。
● 天文(てんぶん)年号: 1532年ー1555年。
● 弘治(こうじ)年号: 1555年ー1558年。
● 永禄(えいろく)年号: 1558年ー1570年。
● 元亀(げんき)年号: 1570年ー 1573年。
● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。
● TKKI カナヤマ著 上杉謙信ガイドブック。
■ 1570年 (元亀元年)。
● 謙信は、北条氏康の子の北条
三郎を養子の一人とする。
■ 1570年(元亀元年)4月に、 上杉謙信(上杉
輝虎)は、 北条氏康の男子(七男)の、北条三
郎を養子とし、その後、景虎という名を与える
(上杉三郎景虎)。
● 信長は姉川の戦いで、
浅井・朝倉氏に勝利を得る。
■ 姉川の戦い。
● 1570(元亀元年)年6月に、織田信長は、
近江国の姉川(あねがわ)で、浅井・朝倉
連合軍を破る。
この戦いに、家康は、信長と共に参
戦し、信長を助ける。
● 信長と石山本願寺との戦いが
始まる。
■ 石山(いしやま)合戦の始まり。
● 1570年(元気元年)9月に、本願寺(一向
宗)の石山本願寺は、織田信長に対抗する。
■ 本願寺と織田信長との戦いの石山合戦
(1570年ー1580年)が、始まる。
● 謙信は、不識庵謙信と称する。
■ 1570年(元亀元年)12月に、 上杉謙信
(上杉輝虎)は、出家して、「不識庵謙信」
(法号、法名)と号す(称す)。
● (注意) 戦国武将の出家は、 欲望を捨
てる、俗世を捨てるという意味ではなく、
仏の心持ちをもち、新たに心を入れ替えた
ことを一般の人に示すパーフォーマンスで
ある。
■ 1571年 (元亀2年) 9月。
● 比叡山・延暦寺を 焼討ちに
する。
■ 1571年(元亀2年)9月に、 織田信長は、
浅井氏・朝倉氏に味方する比叡山・延暦寺を
焼討ちにする。
● TKKI カナヤマ著 上杉謙信ガイドブック。
■ 1571年 (元亀2年)。
● 北条氏康が死去し、北条氏政
が小田原北条氏を継承する。
■ 1571年(元亀2年)10月に、 北条氏康
(ほうじょううじやす)が、死去する。
小田原北条氏(= 後北条氏)は、氏康
の子の北条氏政(ほうじょううじまさ)が継
承する。
● 北条氏政は、信玄と同盟を結
び、謙信との越相同盟を破棄。
■ 甲相同盟締結、越相同盟破棄。
● 1571年(元亀2年)12月に、 北条氏政は、
外交方針を転換し、 信玄と甲相同盟を結び、
同時に、謙信との越相同盟を破棄する。
北条氏政と上杉謙信との関東をめぐる
戦いが始まる。
■ 氏政の甲相同盟締結・越相同盟破棄で
信玄の西上作戦の環境が整う。
● 氏政の甲相同盟締結によって武田領の東方
の北条氏の脅威がなくなり、 また、氏政の
越相同盟破棄により北条氏政と上杉謙信の
戦いが始まり武田領の北方の脅威もなくなり、
武田信玄は、 武田領の西方の徳川氏や織
田氏の領国を侵略し、上洛できる西上作戦の
環境が整う。
● TKKI カナヤマ著 上杉謙信ガイドブック。
■ 1572年 (元亀 3年)。
● 信玄は、上洛を開始し、
織田氏・徳川氏を攻める。
■ 1572年(元亀3年)10月に、武田信玄
(徳栄軒信玄)は、 上洛の軍を起こす
(上洛を開始する)。
● 家康は、三方が原の戦いで、
信玄に大敗する。
■ 1572年(元亀3年)12月に、 遠江 国(とお
とうみのくに、現・静岡県西部)の三方が原
(みかたがはら)の戦いで、 徳川・織田連合
軍は、 武田信玄(徳栄軒信玄)の武田軍に
大敗する。
● TKKI カナヤマ著 上杉謙信ガイドブック。
■ 1573年 (元亀4年)。
● 足利義昭は、信長に敵対する。
■ 1573年(元亀4年)2月に、 足利義昭 は、
武田氏、朝倉氏、浅井氏、本願寺と協力して、
信長討伐を謀(はか)る。
● 信玄が、急死する。
■ 1573年(元亀4年)4月に、 武田信玄(徳
栄軒信玄)が、上洛途中で、死去(病死)する。
● 武田勝頼が武田氏を継承する。
■ 1573年(元亀4年)4月に、武田信玄(徳栄軒
信玄)死後、 武田勝頼 (たけだかつより)が、
武田氏の家督を継承する。
● 室町幕府が実質上滅亡。
■ 室町幕府が実質上滅亡。
● 1573年(元亀4年)7月に、織田信長が 、
足利義昭を京(きょう、京都)から追放する。
● 織田信長は、信長を裏切った、足利 義昭
(よしあき)を京(京都)より追放し、室町幕
府を実質上滅ぼす。
■ 1573年 (元亀4年・天正元年)。
● 元亀年号から天正年号に改元。
天正年号:1573年ー 1592年。
■ 1573年(元亀4年・天正元年)に、
天正(てんしょう) 年号に改元。
● 1573年(元亀4年・天正 元年)7月28日に、
和暦の「元亀」(げんき、
元亀元年・1570年〜元亀4年・1573年)
が、
和暦の「天正」(てんしょう、
天正 元年・1573年・ 7月28日〜
天正20年・1592年・12月 8日) に
改元される。
■ 1573年(元亀4年)7月に、織田信長は、
元号を元亀から天正へと改めることを朝廷
に奏上し、これを実現させる。
■ 安土桃山時代の各年号。
暗記法: 元天文慶
(げんてんぶんけい)。
● 元亀(げんき)年号: 1570年ー 1573年。
● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。
● 文禄(ぶんろく)年号: 1592年ー 1596年。
● 慶長(けいちょう)年号: 1596年ー 1615年。
■ 1573年 (天正元年)。
● 信長は、朝倉・浅井両氏を
滅ぼす。
■ 1573年(天正元年)に、織田信長は、朝倉・
浅井両氏を滅ぼす。
● 1573年(天正元年)8月に、 信長は、
越前に行軍し朝倉軍を破り、朝倉義景を自害
させ、 9月に、北近江の小谷(おだに)城を
落とし、浅井久政・長政父子を自害させる。
小谷城落城前、信長の妹のお市と娘
3人は、落ち延びて、信長が引き取る。
信長は、 越前と北近江を領土とする。
■ 1573年(天正元年)に、 豊臣秀吉(羽柴
秀吉)は、 浅井氏滅亡後、その旧領の北近
江三郡の経営を織田信長より任される。
その後、北近江(きたおうみ)の長浜
城の城主(城代)となる。
■ 1575年 (天正3年)。
■ 1575年(天正3年)に、 上杉謙信(不識庵
謙信)が、直江 兼続 (樋口兼続)を重用する。
■ 長篠の戦い。
● 1575年(天正 3年)5月に、信長・家康連
合軍は、 三河・長篠(ながしの)で、 武田
勝頼の率いる軍に大勝する。
■ 1575年(天正3年)8月に、信長は、越前
に侵攻し、本願寺門徒の軍を破り、 再び、
織田領にし、越前を柴田勝家に経営させる。
■ 1576年 (天正 4年)。
● 謙信は、本願寺、武田氏と提
携して、信長と対抗する。
■ 1576年 (天正4年)に、上杉謙信は、
織田信長との同盟を破棄し、本願寺顕如と講
和し、 武田勝頼とも和睦して、謙信を盟主
とする、 反信長包囲網を築き上げる。
■ 1577年 (天正5年)。
● 謙信は、手取川の戦いで、
信長軍を破る。
■ 手取川の戦い。
● 1577年(天正5年)9月に、信長軍は、
北陸で、 上杉謙信(不識庵謙信)の率いる
上杉軍に敗れ撤兵する。
● 1577年(天正5年)9月に、手取川の戦いで、
謙信(不識庵謙信)は、 柴田勝家の率いる
織田軍を、越前国(えちぜんのくに、現・福井
県東部)で、破る。
● TKKI カナヤマ 著 上杉謙信ガイドブック。
■ 1578年 (天正6年)。
● 謙信が急死する。
■ 1578年(天正6年)に、 上杉謙信(不識庵
謙信)が、死去(病死)する。
● 謙信死去後、御館の乱が
始まる。
■ 1578年 (天正6年)に、 上杉謙信(不識
庵謙信)の有力継承候補者の2人の養子の、
上杉景勝(うえすぎかげかつ) と、 上杉三
郎景虎(うえすぎさぶろうかげとら)との間に、
上杉氏の家督相続をめぐって争う、越後の
内乱である、御館の乱(おたてのらん、1578
年〜1579年)が起こる。
● 1578年 (天正6年)の上杉謙信の死後、
上杉謙信の領国の上杉領の国人領主(国衆)
たちは、 上杉景勝方に味方するか、上杉三
郎景虎方に味方するか、争い、上杉領内は、
内部分裂し、混乱する。
● 上杉景勝は、武田勝頼と同盟
を結ぶ。
■ 1578年(天正6年)に、上杉景勝は、
武田氏の武田勝頼と甲越同盟を結び、武田
氏の菊姫を、景勝の正室夫人にむかえる。
上杉景勝は、 御館の乱(おたてのらん、
1578年〜1579年)で有利となる。
● TKKI カナヤマ著 上杉謙信ガイドブック。
● 強大な信長軍の上杉領侵攻
開始。
■ 1578年(天正6年)に、 強大な信長軍は、
北陸地方の、上杉領の能登、加賀の攻略を
開始する。
● 織田水軍が、毛利水軍を破る。
■ 1578年(天正6年)11月に、 織田水軍が、
鉄甲船を用いて、毛利水軍を破る。
■ 1579年 (天正7年)。
● 信長が安土城を完成させる。
■ 1579年(天正7年)に、 織田信長は、
五層七重の豪華絢爛(ごうかけんらん)な
天守をもつ安土城を完成させる。
● 上杉景勝が、御館の乱で、
勝利を得る。
■ 1579年(天正7年)に、 御館の乱(おたて
のらん)で、 上杉景勝は、武田氏の後ろ盾
を得て、戦いを有利にすすめ、 上杉氏継承
有力候補者の上杉三郎景虎は、自害(自刃)
する。
● 上杉景勝が、越後の国主
となる。
■ 御館の乱(おたてのらん)で、上杉景勝が、
上杉三郎景虎に味方した勢力に大方勝利
を得る。 そして、上杉景勝が、御館の乱
で内部分裂し弱体化した上杉氏の家督を
継承(相続)する。
そして、上杉景勝が、越後国(えちご
のくに、現・新潟県)の上杉氏の家督を継
承し、上杉謙信の後継者として、御館の乱
で弱体化した上杉氏の当主となる。
■ 1580年 (天正8年)。
● 信長が、一向宗の、石山
本願寺を屈服させる。
■ 1580年(天正8年)に、 織田信長は、
本願寺(一向宗)の、石山本願寺を屈服
させる。
■ 1582年 (天正10年)。
● 強大な織田軍に攻められ、
上杉氏が滅亡の危機。
■ 1582年(天正10年)に、 越後国の大名の、
上杉景勝は、強大織田軍に攻められ、 御館
の乱で弱体化した越後の上杉氏は 滅亡の
危機を迎える。
● 強大な織田軍に攻められ、
武田氏が滅亡する。
■ 1582年(天正10年)2月に、織田信長は、
武田領への攻撃 を開始し、 3月11日に、武田
勝頼を討ち取り(天目山の戦い)、戦国大名の
武田氏は滅亡する。
● 家康が駿河を領有する。
■ 1582年(天正10年)2月に、 織田軍に協
力して、 徳川軍も、武田領の駿河に侵攻し
て、駿河国(するがのくに、現・静岡県中部)を
占領する。
家康は、同年に、この戦功により、 織田
信長から駿河国一国を与えられる。
■ 1582年 (天正10年)。
● 信長が中国地方出陣前に、
茶事で、京に一時滞在。
■ 1582年(天正10年)に、 1582年(天正10
年)5月に、織田信長は、明智光秀に、備中国
にいる秀吉軍への援軍を命じ、 一方、信長は、
6月上旬後半の自身の中国地方行軍予定前に、
6月上旬前半に京(きょう、京都)で茶事(ちゃ
じ)で茶会(ちゃかい)を開くため、安土城から、
名物茶器を携え、京へ上洛するため、信長は、
5月29日に安土城を出て、5月29日に京の
本能寺に到着し、京に6月上旬前半まで滞在
する予定であった。
● 本能寺の変で、信長死す。
■ 本能寺の変。
1582年(天正10年)6月2日未明に、明智
光秀が、 6月1日の本能寺での茶会の翌日
に京(きょう、京都)の本能寺にいた織田信長
を攻め、自害させる。 信長、数え年49歳で
死す。
● 本能寺の変で信長が死去し強大
な織田軍が侵略を中止し、上杉
氏が滅亡の危機を脱する。
■ 1582年(天正10年)6月2日に、織田信長
が、本能寺の変で、自害(自刃)する。
越後を攻めていた強大な織田軍が、頭領
の信長を失い、越後国への侵入を中止し、
御館の乱で弱体化した上杉氏は、滅亡の危
機を脱する。
● TKKI カナヤマ 著 上杉謙信ガイドブック。
□ 上杉 謙信ガイドブック へ 。
『 あなたのハートには
何が残りましたか? 』。
以 上。