(精神的に)タフすぎてそんはない
精神的にタフというのは、他人から受ける痛み、すなわち人間としての未熟さを、どれだけ許容できるかということだと思うんですよ。
でもそれじゃあ、タフな人は、他人から苦しめられるだけで、すげー損してるじゃないかと思いたくなるわけですが、そこはそれ。
タフな人は、他の誰かを苦しめることが、どれだけ苦しむ当人にとって嫌で、意味も全く無いということを、己の身をもって知っているので、むしろ、そういう負の連鎖を自分のタフさで止められるという事実が単純に嬉しく、自己満足さえ感じているわけですよ。タフだからこそ味わえる自己満足。
でも、そういうタフな人に対して、「それっておかしいよ。他人に傷つけられるだけ傷つられておいて、それでいいだなんて、おかしいよ。そんなの耐えるべきじゃないよ。かわいそうだよ」と思う人は多いと思います。特に、別に精神がタフでもなんでもない、心に余裕のない人にとって、そういう人の境遇を自分と照らし合わせてみるのは、ちょっとキツいですから。
しかし、タフな人にとっては、そう思ってくれる人の心の優しさが、むしろどんな痛みにも勝るほどに嬉しいものなので、かえって「これからも頑張ってタフでいよう」と思うきっかけになったりするわけです。
もっとも、そのタフな人が聡明であれば、その手の優しさは「自分がそういう身になったらイヤだ」という自己愛から来ていることだって見抜けるでしょうけれど、それでもなおタフな人は、その気持ちが嬉しいと思えるはずです。
そもそも「他人」というのは、「自分」を構成するために決して欠かせないものなわけでして。だから、そこんところをきちんと認識したうえでの「自己愛」は、他人にとっても心地よいものなのです。
つまり、精神的にタフな人は、そういうレベルの自己愛を身に付けているので(自覚のあるなしに関わらず)、それを欺瞞とか偽善という風に嫌悪したりせず、素直に自己愛の恩恵を受け入れられるわけです。自分の中の自己愛も、他人が見せる自己愛も(たとえそれが回りを傷つける類の未熟な自己愛であっても)まとめて全部。それも、傍から見るとわからないくらいのさりげなさで。
たとえば俺なんかは、とてもとても精神的にタフとは言い難く、かなりあっさり他人に傷つけられますし、その影響で、自覚なしに他の誰かを傷つけたりもしているのでしょうけれど、それでもなお、それなり以上に日々を楽しく過ごせているのは、たぶんどこかで、そういう精神的にタフな人が、大いなる自己愛をもってその嫌連鎖を断ち切ってくれているからなのでしょう。
そういう人たちは別に、俺のことを思ってそうしてくれてるわけではないんでしょうけれど、単に、人同士で傷つけあうよりは、互いに楽しみあった方が、自分にとって良いと知っているだけなんでしょうけれど。それでも俺は、そういう人たちが受けている痛みを思うと、ちょっぴり居たたまれなかったりしますし、その大きな自己愛に、俺を取り込んでくれたことを、感謝したいと思ってます。
この世界にとって確実に「とく」な――すなわち、世界を自分の中に取り込める、姿さえ見えないタフな人たちに対して。