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KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK.
カナヤマ 日本歴史 辞典
日本語版
見出し語 『 よ 』。
No.2050。
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□ 日本史 辞典 (総合)。
□ よ ● 事柄順。
〇 よど 淀殿。
(よどどの)。 《人名》。
(= 茶々 ちゃちゃ、 淀の方 よどの
かた、淀君 よどぎみ)。
(1567年?〜1615年)。
○ 豊臣秀頼の生母。
○ 豊臣秀吉の側室夫人。
○ 浅井三姉妹(茶々、初、江)
の一人。
○ お市(織田信長の妹)と浅井
長政との間の娘。
■ 淀殿 (よどどの、= 茶々(ちゃちゃ)、
淀の方(よどのかた)、淀君(よどぎみ ))、
生没年:1567年?〜1615年) は、豊臣
秀吉の側室夫人であり、 豊臣秀頼の生母
であり、 浅井三姉妹(茶々、初、江(ちち
ゃ・はつ・ごう))の一人であり、 お市(織田
信長の妹)と浅井長政との間の娘である。
■ 淀殿(茶々)は、 1573年に浅井長政
の小谷城(おだにじょう)で、 1583年に
柴田勝家の北庄城(きたのしょうじょう)で、
1615年に豊臣秀吉の豊臣大阪城で、3
度、落城を経験した。
● 1573年に、小谷城 (おだにじょう)は、
織田信長配下の秀吉に攻められて、落城し
た。 その際、浅井長政は、小谷城で自害
し、 長政の妻子のお市と浅井3姉妹 (茶
々、初、江)は小谷城から落ち延びた。
● 1583年に、北庄城 (きたのしょうじょ
う)は、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)に攻められ
て、落城した。 その際、お市と柴田勝家
は北庄城で自害し、お市の子・浅井3姉妹
(茶々、初、江)は北庄城から落ち延びた。
● 1615年に、豊臣大阪城 (とよとみお
おさかじょう)は、 徳川家康に攻められ
て、落城した。 その際、茶々(淀殿)と豊
臣秀頼は豊臣大阪城で自害し、江と徳川
秀忠との間の娘の千姫(せんひめ)は豊臣
大阪城から落ち延びた。
■ 浅井長政(あざいながまさ)とお市(おい
ち、小谷方(おだにのかた)、織田信長妹)と
の間の子の浅井3姉妹は、茶々、初、江(ち
ちゃ・はつ・ごう)である。
茶々(ちゃちゃ)は、 淀殿(よどどの)と
も呼ばれ、 豊臣秀吉・側室夫人となり、 豊
臣秀頼(ひでより)の生母となる。
初(はつ)は、 常高院(じょうこういん)
とも呼ばれ、 京極高次(きょうごくたかつぐ)・
正室夫人となる。
江(ごう)は、 江与(えよ)、崇源院(す
うげんいん)とも呼ばれ、江戸幕府・第2代
将軍・徳川秀忠・正室 夫人となり、 江戸幕
府・第3代将軍・徳川家光の生母となる。
(⇒ 織田信長)。
(⇒ 小谷城、北庄城、豊臣大阪城)。
〇 よど 淀殿(茶々) 関連出来事
■ 『 現在は、過去の成果であり、
未来は、現在の成果である。 』
■ 上位のWEBサイト。
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◆ 日本史辞典。
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■ 淀殿
(よどどの) (淀の方) (茶々)。
■ 淀殿。
■ 生没年 :1567年(永禄10年)?〜1615年(慶長2
0年)。
● 生年には、1569年説、1566年説 もある。
■ 名称 : 淀殿 (よどどの)。
● 別名 : 茶々(ちゃちゃ)、 淀の方(よどのかた)、
お茶々(おちゃちゃ)、 淀君(よどぎみ)、 菊子(きくこ)。
● 生涯にわたり通した名 : 茶々(ちゃちゃ)。
● 1589年より、 「淀の方」 (よどのかた)。
● 正式名は、浅井 茶々 (あざい ちゃちゃ)。
(注意) 前近代 日本・家父長制では、夫婦別姓。
■ 豊臣秀吉の 側室(夫人)。
■ 豊臣秀頼 (豊臣家の当主) の生母。
織田信長の姪(めい)。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
詳細)。
□ 小谷城 画像アルバム No.1。
■ 淀殿 (よどどの、= 茶々(ちゃちゃ)、淀の方(よどの
かた)、淀君(よどぎみ))、生没年:1567年?〜161
5年) は、 豊臣秀吉の側室夫人であり、 豊臣秀頼
の生母であり、 浅井三姉妹(茶々、初、江(ちちゃ・は
つ・ごう))の一人であり、 お市(織田信長の妹)と浅
井長政との間の娘である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 淀殿は、 織田信長の妹・お市(おいち) と近江(お
うみ)の戦国大名・浅井長政 との間に生まれた、3人
(おえよ)、崇源院(すうげんいん)) の一人で、長女。
江戸時 代初期 の女性である。
■ 浅井3姉妹。
妹は、茶々、初、江(ちちゃ・はつ・ごう)である。
茶々(ちゃちゃ)は、 淀殿(よどどの)とも呼ばれ、
母となる。
初(はつ)は、 常高院(じょうこういん)とも呼ばれ、
京極高次(きょうごくたかつぐ)・正室夫人となる。
江(ごう)は、 江与(えよ)、崇源院(すうげんいん)
とも呼ばれ、江戸幕府・第2代将軍・徳川秀忠・正室 夫
人となり、 江戸幕府・第3代将軍・徳川家光の生母と
なる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 淀殿(茶々)の乳母(うば) は、 大蔵卿局 (おおくら
きょうのつぼね、大野治長の母)、 饗庭局 (あえばの
つぼね)、 大局 の3人である。
■ 淀殿(茶々)は、 美貌の持ち主であった と言われ
ている。
■ 淀殿(茶々)は、 大阪夏の陣(大阪の陣)で、自刃(じ
じん、自害)する。 遺体は見つからず。
■ 淀殿(茶々)は、 豊臣秀吉の側室(妻)で、 豊臣秀
頼 (豊臣家の当主) の生母 である。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 淀殿(茶々) は、 近江(おうみ)の戦国大名、浅井長政の長女 で、
織田信長の姪(めい) である。
■ 淀殿(茶々)の生母、お市 は、 戦国一の美女と謳(うた)われた
美女 であり、 その長女・淀殿(茶々)も、 母の面影を受け継いで、
美貌の持ち主であった と言われている。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 淀殿 (よどどの、茶々) は、 豊臣秀吉の側室夫人で、 豊臣秀頼
(豊臣家の当主) の生母 である。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 淀殿 (よどどの) は、 茶々(ちゃちゃ)、 お茶々(おちゃちゃ)、
淀の方(よどのかた)、 淀君(よどぎみ)、 菊子(きくこ) とも呼ばれ
る。
● (注意) 淀殿という呼称は、文献にはなく、後世の人が付けた名で、
当時は、 「淀の方」 (よどのかた) (通称) と呼ばれていた
■ 淀殿 (よどどの) が、 生涯にわたり通した名は 茶々(ちゃちゃ)
である。
■ 淀殿 は、 1589年より、 「淀の方」 (よどのかた) と呼ばれた。
● 淀殿 は、 豊臣秀吉より、 京都南部の、淀(よど)にある、 淀城
(よどじょう)を与えられ、 住んだことから、 「淀の方」と呼ばれた。
● 地名を用いて人名を表す場合には、 「殿」や「方」という敬称を付け
るのが古来よりの慣(ならわ)し である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 淀殿 の正式名 は、 浅井 茶々(あざい ちゃちゃ)、 浅井 菊子
(あざい きくこ) である。
■ 淀殿 の別名の、 菊子 (きくこ) は、 朝廷より賜(たまわ)った
名 (朝廷より従五位下を賜った際に授かった名) で、 公の場面で
のみに使用した。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 淀殿(茶々) は、 戦国時代(室町時代後期)、安土桃山時代、江戸
時代初期の女性 である。
■ 淀殿(茶々) は、 織田信長の妹・お市 と 近江(おうみ)の戦国大
名・浅井長政 との間に生まれた、3人の娘 (浅井三姉妹)、(茶々(ち
ゃちゃ、淀殿)、 初(はつ、常高院)、 江(ごう、督(ごう)、お江与、崇
源院)) の一人で、 長女 である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 淀殿(茶々) は、浅井長政(近江(おうみ)の戦国大名)の長女 で、
織田信長の姪(めい) である。
● 淀殿(茶々) は、近江国(おうみのくの、現在の滋賀県)の生まれで、
父は、浅井長政で、近江の戦国大名、 母は、お市で、織田信長の妹
であった。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 淀殿(茶々)の乳母(うば) は、 大蔵卿局 (おおくらきょうのつぼ
ね、大野治長の母)、 饗庭局 (あえばのつぼね)、 大局 の3人
である。
■ 淀殿(茶々) は、 美貌の持ち主であった と言われている。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 淀殿(茶々) は、 1615年の大阪夏の陣で、自刃(じじん、自害)す
る。 遺体は見つからなかった。
◆ 淀殿 (茶々) が登場する、興味深い、
ドキュメンタリー、ドラマ、映画。
★ 淀殿(茶々) が登場する、興味深い関
連ドラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画 は、フィクションです。
歴史のドラマ、映画は、歴史的事実(史実) と
架空の出来事 が、混じって、描かれています。
また、 現代風にアレンジしてあります。
■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。
(NHKテレビ・2016年大河ドラマ)。
■ 日本の安土桃山時代や江戸時代初期
の時代を描く。
● ドラマで「淀殿(茶々)」 (よどどの(ちゃ
ちゃ))を演じる女優 :
竹内 結子 (たけうち ゆうこ)。
■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』
(日本の2011年 NHK大河ドラマ)。
● 淀殿(茶々)を演じる女優 : 宮沢 りえ。
■ 『 天地人 (てんちじん) 』
(日本のNHK2009年大河ドラマ)。
● 淀殿(茶々)を演じた女優 : 深田 恭子
(ふかだ きょうこ)。
■ 『 寧々〜おんな太閤記 (ねね
おんなたいこうき) 』
(テレビ東京・2009年制作・テレビドラマ)。
● 淀殿(茶々)を演じた女優 : 吹石 一恵
(ふきいし かづえ)。
■ 『 茶々 天涯の貴妃 (ちゃちゃ て
んがいのおんな) 』
(日本の2007年制作・東映映画)。
● 淀殿(茶々)の、1573年の小谷城(おだ
にじょう)落城から1615年の大阪城落城
までの半生が描かれている。
● 淀殿(茶々)を演じた女優 : 和央 ようか
(わお ようか)。
◆ 淀殿(茶々) 関連出来事
(年代順・詳細)。
(よどどの(ちゃちゃ)かんれんできごと
(ねんだいじゅん・しょうさい))
■ 淀殿(茶々)関連出来事(年代順・詳細)。
■ 淀殿 (よどどの、茶々) の生没年は、 1567年(永禄10年)?
〜 1615年(慶長20年) である。
● 淀殿 (茶々)の生年 については、 1567年説、 1569年説、
1566年説 がある ( 注釈 A )。
◆ 織田信長と浅井長政の同盟。
■ 近江(おうみ、現在の滋賀県)の戦国大名の、浅井長政 は、156
4年、織田信長と同盟を結び、1567年(永禄10年)、同盟を強固に
するため、 織田信長の妹のお市と政略結婚した。 しかし、後に、
1570年(元亀(げんき)元年)、信長が、浅井氏と関係の深い朝倉義
景を攻めたため、 浅井長政 は、信長と決裂し、1573年(天正元
年)に、戦い、敗れて、自害し、浅井氏は、1573年に、滅亡した。
@ 1564年(永禄7年)の、浅井家と織田家の同盟は、「 同盟がある
限り、織田方は朝倉方に進軍せず、どのような事態でも朝倉方に進軍
する時は必ず一報をいれる」 という条件を付した同盟であった。
A 1570年(元亀元年)に、信長は、長政と交わした「朝倉への不戦
の誓い」を破り、徳川家康と共に、越前の朝倉方の城を攻め始めた。
浅井は、朝倉との同盟関係を重視し、 織田・徳川軍を背後から急襲
した。 信長は、苦戦しながら、近江(おうみ)を脱出した(金ヶ崎の退き
口)。
B 1573年(天正元年)、信長は、北近江に攻め寄せ、 小谷(おだに)
城を囲んだ。 お市は、 長政と運命を共にする覚悟であったが、長政
に諌(いさ)められて、 お市は、茶々(淀殿)ら3人の娘(浅井三姉妹)
を連れて、 小谷城を脱出し、 信長の元へ落ちのびた。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 茶々(淀殿)の父・浅井長政が、母の兄・織田信長に敵対する。
● 1573年(天正元年)に、 浅井長政の小谷城が、織田信長(配下の
豊臣秀吉)の軍勢に攻められ、 落城すると、 茶々(淀殿)ら3人の娘
(浅井3姉妹) は、母・お市と共に、城を落ちのびる。
● このとき、 父・浅井長政、祖父の浅井久政は、自害し、 長政の先
妻の子で腹違いの兄の万福丸は、 捕らえられ、 信長の命で秀吉に
より処刑される。
■ その後、 茶々(淀殿) は、 叔父の織田信包のの庇護の下(もと)
におかれ、 尾張 または 伊勢 で暮す。
● その後、 お市と3人の娘は、1573年より1582年までの約9年間、
織田信長の 弟の、織田信包(のぶかね)の庇護(ひご)を受け、清州城
(きよすじょう) または 安濃津城 (あのつじょう、津城(つじょう)) に
て、平穏に過ごした。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1582年(天正10年)に、本能寺の変で織田信長の死去後、 母・
お市が、 織田家重臣の柴田勝家と再婚すると、 茶々(淀殿)ら3人
の娘(浅井三姉妹)は、 母・お市と共に、 北庄城 (きたのしょうじ
ょう、現在の福井市にある) へ移る。
■ 1583年(天正11年)4月に、 柴田勝家の北庄城 が、豊臣秀吉
の軍勢に攻められ、 柴田勝家と母・お市が自害し、 落城時、茶々
(淀殿)ら3人の娘(浅野三姉妹)は、 逃がされ、 城を落ちのびる。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1583年(天正11年)の北庄城落城時、 母・お市は自害し、 北
庄城落城後、 茶々(淀殿) は、以後、羽柴家(豊臣家)の庇護(ひご)
を受ける。
● その後、 茶々(淀殿)ら浅野三姉妹(お市の3人の娘) は、織田
長益、 京極龍子 らの後見のもとにいた。
● 浅井三姉妹 は、織田長益の後見のもとに、近江(おうみ)で暮らし、
その後、京極龍子の後見のもとに、聚楽第(じゅらくだい)で暮らす。
● 織田長益 (おだ ながます、有楽斎(うらくさい)) は、 織田信長
の弟で、 織田氏の血筋で、 豊臣秀吉の御伽衆 (おとぎしゅう、政
治・軍事相談役)であり、 京極龍子 (きょうごく たつこ、竜子) は、
龍子の母が 浅野久政(浅野長政の父)の娘の京極マリアで、 浅野
氏の血筋で、 豊臣秀吉側室・松の丸殿であり、 浅野三姉妹を後見
した。
■ 1588年(天正16年)に、 茶々(淀殿) は、 父・浅井長政と母・
お市の仇(かたき)の、豊臣秀吉の側室となる。 大阪城へ入る。
● 黒百合事件 (くろゆりじけん)。
大阪城では、 珍しい黒百合(くろゆり)の観賞をめぐり、 寧々(ねね、
秀吉正室)と 茶々(淀殿、秀吉側室)の仲 が 決定的に悪くなる。 以
後、一生、2人の不仲 は、 戻らず。
■ 1589年(天正17年)に、 茶々(淀殿) は、 秀吉の男子、 鶴松
(つるまつ) を生む。
● この懐妊・出産を喜んだ秀吉から、淀城を賜(たまわ)り、 以後、茶
々は、「淀の方」 (よどのかた) と呼ばれるようになる。
● その後、 淀殿(茶々)は、 鶴松を、秀吉の正室夫人のねね( おね)
に預け、 ねね(おね)が、鶴松を引き取り、育てる。
● 安土桃山時代には、 側室夫人が産んだ、世継ぎの子を、正室 夫人
が育てる という武家のしきたりがあった。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1591年(天正19年)に、 秀吉の正室の寧々(ねね)の元で育てら
れていた、 鶴松 (淀殿(茶々)の男子) が、 病気で、死亡する。
■ 1593年(文禄2年)に、 淀殿(茶々)は、 秀吉の男子、 拾 (ひ
ろい、秀頼(ひでより)) を生む。 秀吉の許しを得て、 自分の手元
で、育てる。
● 今回は、 淀殿(茶々)は、 拾(秀頼)を、秀吉の正室夫人のねね
(おね)に預けず。
■ その後、拾 (豊臣秀頼) は、 伏見城で、育つ。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 淀殿(茶々)の生んだ、 拾(ひろい、豊臣秀頼) は、 秀吉の子で
はないという説 がある。
● 秀吉は、好色で、 ねね、淀殿(茶々)、16人程の側室、その他の
多くの女性を愛した。 しかし、 秀吉は、子供に恵まれず、 子供は
少なかった。
秀吉の子は、男子3人女子1人 (秀頼、鶴松、 長浜城主時代の1
男(羽柴秀勝)1女) で、 秀頼以外の子 は、 早世 (夭折(ようせ
つ)、幼少で死亡) であった。 秀吉は、子供ができにくい体質であっ
たと言える。
■ 豊臣秀頼 (幼少の名、拾(ひろい)) は、 秀吉の子であったと言
える。
● 成人した秀頼 は、大柄・長身でハンサムで、 小柄でハンサムで
ない秀吉とは似ていなかった。 しかし、 母方の淀殿(茶々)の祖父母
の、浅井長政やお市は、 長身で、美貌であり、 隔世(かくせい)遺伝
であり、 母方・父方の祖父母の遺伝とも考えられる。 秀頼は、秀吉
の子であったと言える。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
● 豊臣秀頼 は、 大野治長の子、 石田三成の子 ではない。
豊臣家家臣の、大野治長 (おおのはるなが) は、 茶々(淀殿)の
乳母(うば)・大蔵卿局の男子 で、 茶々(淀殿)と共に、大蔵卿局の
元で一緒に育って(乳兄弟で)、 茶々(淀殿)と親密な関係 であるが、
また、 茶々(淀殿)が大野治長と密通するという話は江戸時代に噂と
して記録された話、俗説であり、 推測の域を出ない。
また、 豊臣家家臣の石田三成 は、 淀殿の拾(秀頼)懐妊時、朝
鮮に出兵しており(文禄の役で)、 可能性はない。
■ 1598年に、秀吉が死去すると、 秀吉の遺言により、 淀殿 (茶
々)と豊臣秀頼 は、 伏見城より、 大阪城の本丸に移る。
● 1598年に、豊臣秀頼 が、 豊臣家宗家の当主となり、 淀殿(茶
々)は、 幼い豊臣秀頼の後見人となる。 淀殿(茶々) は、 大蔵卿
局 (おおくらきょうのつぼね、淀殿の乳母(うば)の1人、大野治長の
母) や 饗庭局 (あえばのつぼね、淀殿の乳母の1人) を重用(ち
ょうよう)する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 淀殿(茶々)が推(お)す三成派の豊臣家臣団 と 寧々(ね
ね)が推す家康派の豊臣家臣団 とが、豊臣家内で対立する。
● 豊臣秀吉死去後、 1598年より、淀殿(茶々、秀吉側室)の信頼する
石田三成の主導する三成派の豊臣家臣団 と 寧々(ねね、秀吉正室)
の信頼する徳川家康の主導する家康派の豊臣家臣団 が 豊臣家内で、
対立し始める。
■ 1599年に、淀殿 (茶々、近江出身) が信頼する、石田三成をはじ
めとする近江派 (おうみは、近江出身の武将)の豊臣家臣 が、 豊
臣家で、 大きな勢力となる。
■ 1599年に、秀吉の正室の寧々(ねね) は、 淀殿(茶々)が信頼す
る、石田三成をはじめとする近江派の豊臣家臣に対抗して、 徳川家康
に、 石田三成をはじめとする近江派の豊臣家臣の勢力を 減少させる
ように依頼し、 豊臣家の将来を託す。
● 1599年(慶長4年)に、 寧々(ねね) は、 豊臣家の家臣で大老の
家康を擁して、 石田三成派の豊臣家臣を牽制(けんせい)するため、自
分の住む大阪城の西の丸を引き払い、 家康に引き渡し、 孝蔵主など
わずかな女中達を引き連れて、 京都・三本木の屋敷 に移り住む。
● 寧々(ねね) は、 化粧料として、大名並みの1万5000石にものぼ
る広大な領地を徳川家から認められ、 北政所(きたのまんどころ)とし
ての品位を保った。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1600年に、 関が原の戦い。 豊臣家の家臣団の間の戦い。
● 豊臣家臣団の間に、 徳川家康派と石田三成派との内紛が起こり、
戦争となり、 徳川家康派の豊臣家臣団 が、 戦いに勝つ。
● 勝利後、 家康が、大阪城に出向き、 家康の主君の豊臣秀頼とそ
の後見人の淀殿(茶々、秀頼の生母)に、 徳川家康派の豊臣家臣団
の戦争の勝利を報告する。
● 戦後処理で、 豊臣家大老の家康 は、 豊臣家の主君(豊臣秀頼)
の許しを得ず、 全国の大名の所領を、勝手に、処理(移動分配)する。
家康 は、 豊臣家宗家の所領も、 処理(分配)し、 豊臣家宗家
は、 65万石の一大名へ転落する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 徳川家康の裏切り。
■ 1603年に、 豊臣家の家臣で大老の、徳川家康が、 主君の豊臣
家の許可を得ず、 勝手に、 征夷大将軍となり、 徳川家が 江戸幕
府を開く。
● この出来事に、 淀殿(茶々) や 寧々(ねね) が、 豊臣家への
裏切りと、驚く。
しかし、 関が原の戦いで負けて家康に許されて(領地)減封となっ
た石田三成派の豊臣家臣団 や 関が原の戦いで勝って家康より(領
地を)加増された徳川家康派の豊臣家臣団 は、 この出来事に驚く
が、 豊臣家に代わり、 徳川家を主君とすることに、 已(や)むを得え
ず、同意する。
● 結果、 徳川家が、 豊臣家に代わって、 日本を支配する。
■ 徳川家康が、豊臣家を滅亡させる戦略をねる。
■ 1611年(慶長16年)に、 京都・二条城で、家康が、 成長し立派
になった、豊臣秀頼に会う。
● 会見時、 家康は、 立派になりカリスマ性をもつ豊臣秀頼に驚き、
内心で、 全国の豊臣恩顧の大名が立派になった豊臣秀頼に将来参
陣し徳川家の支配がひるがえることを恐れて、 豊臣秀頼を排除する
決心をする。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1614年(慶長19年)に、大阪冬の陣がおこる。
豊臣方と徳川方との戦争。
● 1614年に、徳川家康が、 豊臣家の寺の方広寺の鐘に、 「国家
安康」 (家康を2つに裂(さ)く) という呪い文ありという言いがかりを
つけ (方広寺鐘銘事件)、 それを許すために 豊臣家に 「 秀頼
江戸参勤、 国替え(大阪城明け渡し)、淀殿(茶々)人質」、のどれか
の条件を要求し、 豊臣家を怒らせ、戦争を引き起こさせる。
● 経過と結果。 豊臣方の軍と徳川方の軍が戦うが、 大阪城の周囲
の堀(ほり)に阻(はば)まれて、 徳川方の軍が勝てず。 徳川家康は、
この事態を打開するため、和議を申し出る。 そして、 大阪城の本丸
を残し、二の丸、三の丸を破壊し、周囲の堀を埋めるという条件で、16
14年12月に、 和議が成立する。 ここに、戦いは、一旦中止となる。
● 和議が成立すると、 徳川家康 は、 徳川方に工事を急いで進め
させ、大阪城の本丸を残し、二の丸、三の丸を破壊し、 大阪城の周囲
の堀を埋めさせた。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1615年(慶長20年)に、大阪夏の陣がおこる。
豊臣方と徳川方との戦争。
● 1615年に、 徳川家康 は、 浪人が退城しない事に不審感を抱
(いだ)き、 更に、大阪城内の浪人の解雇(総追放) や 豊臣家の移
封 (国替え、大阪城明け渡し) を豊臣方に要求し、 豊臣方がそれ
らを拒否し大阪城周囲の堀や塀(へい)を復旧させ始めると、 その和
議条件の違反を理由に、1615年4月に、 戦争を再開する。
● 経過と結果。 1615年に、豊臣方は、奮戦するが、 豊臣方の本
拠地の大阪城は 本丸のみで堀のない裸城(はだかじろ)のため、遂
に、徳川軍に侵入され、1615年5月7日に、 炎上し、消滅する。
1615年に、大阪城にいた、淀殿(茶々)と その子、豊臣秀頼
(享年23歳) は、自害する。
但し、2人の最期を目撃した者はおらず、また、2人の遺体も確
認されなかった。
◆ 淀殿 (茶々)の生年。
■ 淀殿 (よどどの、茶々) の生没年は、 1567年(永禄10年)?
〜 1615年(慶長20年) である。
● 生年については、 お市が長政に嫁いだのが1567年(永禄10年)
であるため、 また、浅井家の記録である「浅井三代記」に茶々の誕生
に関する記録が全くないため、 長らく、1567年と推測されてきた。
● 生年については、1567年説、1569年説、1566年説 がある。
生年については、長らく1567年(永禄10年)と推測されてきた。
近年では、1569年(永禄12年)誕生説も有力になっている。 また、
一説では、1566年(永禄9年)生まれの説もある。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1566年(永禄9年)生まれの説。
● 1566年(永禄9年)誕生説をとると、 茶々(淀殿) は、浅井長政と
の間の娘ではなく、 お市の連れ子であったということになる。
● 江戸時代に書かれた「翁草」に、 茶々が1615年(慶長20年)の
大阪の夏の陣で死亡したとき49歳だったと記されており、 また、「浅
井家家譜大成」によると、 1567年(永禄10年)以前は、信長と長政
は面識が全くなかったとある。
● お市の生んだ長女の茶々(淀殿) は、通説では、浅井長政との娘で
あるが、 茶々の生年がはっきりしないため、また、浅井家に茶々の誕
生の記録が全くないため、 一説では、お市は当時では晩婚なため、茶
々はお市の連れ子という説もあり、 お市が長政以前に嫁いでいた可
能性もある。 茶々は、お市が長政に嫁ぐ前に生まれたとも言われ、長
政の実子ではないとも言われている。
● 通説では、 お市は、織田信長の妹であるが、 一説では、お市は、
信長の妹ではなく、 信長の従妹(いとこ、信長の叔父・織田信光の娘)
または、 信長の従兄弟(いとこ)・織田広良(與康)の娘 とも言われて
いる。 また、一説では、長政に嫁ぐ前は、 お市は信長の愛妾であり、
茶々は、信長の娘という奇説まである。
『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』
以 上