更新記録と日記

Home

以前の更新記録と日記はこちらへ

2004/12/31

 先日は二日続けて忘年会、しかしよく飲むのもです。二日目の忘年会は恒例の拙宅でのピアノ忘年会。深夜まで濃密な会話が弾みました。

 先ほどNHK、BS2で「熱中時間」を放送していました。この番組は色々な事に熱中している人を紹介する番組なのですが、その対象が「紙相撲」「輪ゴム鉄砲」「ベーゴマ」等マニアック極まりないものです。そしてその入れ込みようも「紙相撲」は自宅2階に土俵を作成、「輪ゴム鉄砲」による「機関銃」と、とにかく凄いものです。さて先ほどの放送で「折り紙」マニアの紹介をしていました。折り紙といっても恐ろしく複雑にして精巧なもので作品を見ただけではどのようにして折り上げたのか解らないような作品です。12時間にも及ぶ作成時間を経て「風神」を折り上げる様子は圧巻でした。私も折り紙が結構好きで昔、複雑な工程の作品が掲載された本を探したものです。折り紙マニアの共通理念は「不切正方形であること」つまり一枚の正方形から切る事なしに造形することであります。これは反面折り紙の単純な抽象的な美的感覚(「折鶴」の美観)を見失う可能性も孕んでいるのですが、確かに切ったり貼ったりなしに出来るだけ複雑な作品を創り上げたいという欲求は魅力的です。これはピアノ一台の可能性の極限を見るゴドウスキーやソラブジの作品にも共通するものであるかも知れません。
 ここ10年近く折り紙の新しいレパートリーはほとんど増えていませんが笠原邦彦氏の傑作「悪魔」は今でも折る事ができます。久しぶりに折ったので少々雑な部分もありますが、この作品、正方形で折られており一切切り貼りしてません。白いほうの「悪魔」の5本の指まで折り出される精緻な設計をはじめてみた時は(小学生の頃ですが)ため息が出たものです。

 さて、2004年最後も音楽とは関係のない話で終わりましたが、来年もよろしくお願いします。

2004/12/25

 皆様クリスマスは如何過ごされたでしょうか。私は朝から晩まで仕事、夜中に一人ビールを飲んで寝床にもぐり込みました。いやはや不健康なクリスマスです。
 「結局のところ、諸君、何もしないのがいちばんいいのだ。意識的な惰性が一番!」(ドストエフスキー)
 この1年(正確には数年)で私も随分変わりました。マルっきり変わったといってもいいほどです。音楽に対する考え方をとってもそうです。実践に結びつくかというのがこれからの課題でしょうか。

 クリスマスにささやかな贈り物を。ショパン「スケルツォ2番(8.5M)」演奏はミハイル・プレトニョフ、シュヴェツィンゲン音楽祭におけるライヴ録音です(以前FMで放送されたもの)。数日で消去しますのでDLはお早めに。

2004/12/23

 2004年もあますところ一週間となりました。2004年下半期の読書について。

 HP模様替えにつき独立して読書コーナー(Books)を設けた影響で主に読み直しが多い半年でした。新しい本を読む時間が取れなかったのですが、その分再読して色々興味深かったこともあります。以前読んだ感想とは随分違う感想を抱いたものも少なくありません。人間の一生に読むことのできる量は多かれ少なかれ限界があります。世界中の全ての本を読破することなど不可能です。だからといって哲学書、文学的名作を読むべきで、そういう作品にのみ読書の意味がある、だとは思いません。読書は楽しみであり快楽です。面白いと思う本に出合える事が何より大事だと思っています。
 この半年は主にハイデガー関連の入門書、解説本がメインであったといえます。ハイデガーを理解したかといわれると困るのですが、独断と偏見で選ぶハイデガー理解への私なりの(おこがましいですが)ブックリストを挙げてみます。
 小阪修平「そうだったのか現代思想」。特にハイデガーについて書かれた本ではありませんが、ハイデガーに一章割かれており読みやすいです。言い方は悪いですが大雑把にハイデガーを知りたいという方に。
 古東哲明「ハイデガー=存在神秘の哲学」。読みやすさ、判りよさではお勧めです。しかし、やや楽天的な面もあり。「哲学者というよりは尊師(グル)」という表現は哲学が一種の「神学」であるという指摘のようです。私は特に最後の章で語られるニヒリズムについての言及が興味深かったです。
 スタイナー「ハイデガー」。基本用語を含め、ハイデガー入門ともいうべき本。ハイデガーを語る時に避けて通ることの出来ないナチスへの参与について批判的な指摘もあります。
 木田元「ハイデガーの思想」。「ハイデガーの思想にふれた」という感じの強い本。難解とされるハイデガーの用語についても詳細な読み込みがあります。「存在と時間」が前半だけの「未完」の本として、その本質的な問題に迫る本。巻末のブックリストではハイデガー自身の著作を「読みにくい」本と勧められない事が書かれています。
 木田元「ハイデガー『存在と時間』の構築」。主書「存在と時間」を読み解く、というより読み抜くために。
 ハイデガー「存在と時間」。 最後にやはり原典を。細谷貞雄氏の訳書。いきなり挑戦は無謀かもしれませんが良訳との定評があります。私自身は上記解説本を読んで挑んでも読むのに苦労しました。
 以上私が寄り道をしながら読んだハイデガー関連の本ですが、私個人の感想としてはハイデガーには最終的に「神秘的」なところがある、と感じました。このことはハイデガーの基本的な問い「存在とは何か」ということが関係しているかと思います。古東氏の本では「存在とは無根拠である」と言い切っています。無根拠であるが故「今ここにある奇跡」であると指摘されます。「私が私であること」、この自己同一性は深い問題であり、かつ、危険なものであると小阪修平氏は指摘します。ハイデガーのナチス関与の問題を含め深い問題であるといえるでしょう。

 この半年はあまり小説らしい小説を読んでいなかった反動でしばらく哲学関係から遠ざかりそうです(^^;

 急なことですが12月26日大阪野田阪神「遊音堂」にてカプスチン、西村朗、ファジル・サイの作品を演奏します。今年最後の演奏会でしょう。ご来場希望の方はメールして下さい。

2004/12/20

 18日土曜日は友人企画のクリスマスパーティーでピアノを演奏。私はとんでもない大崩壊してしまいましたが、皆さんソロ、連弾、デュオを楽しんでおられ、改めてアンサンブルの楽しさを実感した一時でありました。その後飲み会では翌日仕事ということもあり珍しく少々抑え目、終電前に同じ方向の人と帰りました。私にしては珍しい事です(^^;

 話しは前後しますが先日、東京の某出版社にお勤めの友人のご好意で出版カタログを送って頂き、その中から早速、橋爪大三郎「その先の日本国へ」、佐藤義之「レヴィナスの倫理」を送っていただきました。レヴィナスは前々から気にはなっていた思想家ですが随分難解そうで、私の頭には理解できるか疑問です。
 昔、大学の頃「近代和声法」の時間に先生がワーグナーのトリスタン和声だったかスクリャービンの神秘和音だったかの講義の際、これらのどのようにも取れるような音の動きを説明した後いきなり「語りえないことについては、沈黙しなければならない」とヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の有名な最後の命題を持ち出しました。初期ヴィトゲンシュタインは徹底的に哲学から「倫理」を排斥し哲学を抹殺しようとした極めて(その人生、人柄も)興味深い人物です。そういえばミシェル・フーコーの遺作「性の歴史」の2、3巻も倫理の問題へ移行したという見方もあるようです。倫理とは一体…。

2004/12/16

 Diskにカトリーヌ・コラールの弾くブークルシュリエフ「Archipel 4」をアップ。こういう作品を「美しい」と書くと賛否両論でしょうが、私は「美しい」と思います。

2004/12/15

  Diskにカプスチン「24の前奏曲」Booksに坂口安吾「街はふるさと」を追加。今日は猛烈に眠いので少々突っ込み不足かも知れませんが一応アップ。後日書き足しがあるかもしれません。

2004/12/14

 久しぶりにピアニスト紹介、イゴール・ジューコフを追加。彼の演奏するメロディア録音のスクリャービンソナタ全集、メトネル「協奏曲1番」は私のベスト盤です。

2004/12/10

 本日(9日)NHK、FMでクン・ウー・パイクのピアノリサイタルが放送されましたがその1曲目がソラブジの「芳香の庭園」でした。実に退廃的なしかし美しい響きの作品です。ソラブジの作品はその難解極まりない複雑なテクスチュアから非常に超絶技巧的混乱ともいえるイメージがついて廻るのですが実はその複雑な和声、対位法はあくまで独特の響きを作るものであって技術誇示のものではありません。ゴドフスキの真価をアムランが示してくれたようにパイクの演奏はその複雑さからは想像もつかないほどシンプルなラインを描いていました。爛熟しきったソラブジのこれらの作品、楽譜を見ると比較的簡単にそのシンプルなラインを把握できるのですが演奏は非常に非常に困難極まりないのが問題ですね。

 年末恒例の拙宅での忘年会に向け自室を何とか片付けようと苦戦していますが、もはや私の部屋ではLPがその首座を占めています。勿論新譜はCDしか出ないのでCDを買うわけですが、CD購入量より中古屋でLPを買う量が完全に上回っています。私がLPに何故拘るのかというのはいろいろな理由があるのですが、私がLPに拘る最大の理由はまぁ秘密ということで(^^;;;書くと色々問題がありますので(あくまで私自身の問題なのですが…)。しかしLPの魅力は本当につきません(SPはもっと奥深いのですが)。以前10月に拙宅で飲み会をした際コルトーのショパン「練習曲」のCD、LP、SPの聴き比べをしたのですが同じ録音とは思えないほどの違いでした。EMIのSP復刻LPの音の悪さはともかくCDとSPでも相当の差があります。LPでも友人が是非聴きたいとかけたピサロ、ワイルドによるラフマニノフ「チェロソナタ」の音のよさ(ノンサッチは録音が優秀)は改めて私が感心しました。弦楽器は特にLP、SP(ティボー、コルトーのフランク「ヴァイオリンソナタ」は絶品!)でその響き、まさに弦の振動を感じるような気がします。オタッキーさんが「CDはどうも規格品の音がするなぁ」と言うのにA.A先生が「LPがメインで凄い!」と大喜び、T大ピアノ会OBのM君が間宮芳生の「ソナタ」に「いい曲ですな」といってくれるのは、拙宅でのささやかな飲み会のホストとしてこれ以上の喜びはありません(^^先日来阪されたTさん、イギリスのNさん、パリのグチンスキー氏、東京のH君また来てね、などとパブリックなところで非常に個人的なことを書いてしまいましたが、本当にLP(SP)を聴きながら飲むのは楽しい。酔いつぶれるのがホストであるはずの私が一番というのが一番問題ですな(^^;;;

 Booksにフランツ・カフカ「父の気がかり」を追加。

2004/12/7

 さて久しぶりに音楽関係の更新を。爆裂系ピアニストとして一部から熱狂的支持を受けていたピアニスト、クズミンですが最近新譜も出て健在であるようなのでうれしい限りです。という訳でDiskにクズミン「アンコール集」をアップ。内容てんこ盛りの1枚です。

2004/12/3

 先日携帯電話がイカレたことは書きましたが、データは救済できませんでした。幸いメモリーカードにいくつかのデータが残っていたので完全になくなった訳ではないのですが、ここ3ヶ月ほどに登録した電話番号、メールは灰燼と化しました。バックアップはこまめにとっておくべきですね。

 さて、新しい携帯を買いに行った訳ですが…。「一番安いのを下さい」と言うのはなかなか恥かしいもんですね(^^;更に前の携帯を見た店員の吃驚した表情、ここまでぼろぼろになるまで使うやつがおるか、って顔でした。私は携帯には出来るだけお金をかけたくないのです。

 最近わりによく聴いているのがベルント・グレムザーによるラフマニノフのピアノ協奏曲2,3番。数多くある録音の中でもあまり目立たない(NAXOSですから)ものですが意外といい演奏です。

2004/12/1

 今年も余すところ1ヶ月、忘年会の季節です。年中飲んでいますが、飲む理由には事欠かない季節になりました。

 さて、先週は東京の友人を囲み泥酔、加古川ピアノの会で酔っ払い(こちらは会場が京都だったので少々マシ)と飲みながら、いつもながらの支離滅裂な話しぶりだったのですが、飲み会で隣になった女性とオタッキーさんと会話をしていて、ピアノの話しから二転三転、全然関係ない話しで大いに盛り上がりました。東京の友人とも、それこそテープでも残っていたら話しの進行方向は滅茶苦茶なもんです。そこから妙なことを思いついたのでここで私なりに話を大きくしてみたいと思います。

 対話、私のように次に喋ることを考えているような人間は論外としても、相手の話を聴く即ち「自我」と「他我」の相関関係、、つまり対主体同士によって成り立っている訳です。この主体というヤツはなんともケッタイなもので書き出すと切りがないのですが、まぁ「『自分自身』と思っているもの」ぐらいに考えておきましょうか。対話というものはこの主体という厄介なもの同士が話す訳ですがここに大きな問題があります。この主体というヤツは究極的には相手即ち対象を理解することは不可能であるということです。極端に言えば主体は本人だけであって、話し相手である人を「主体」として認識は不可能なのです。しかし我々は普通に会話が出来る訳ですからこんなことを考えることはまずありません。深夜に妄想をたくましくしている私ぐらいなのかもしれませんが、しかし会話というものは心が通じ合うものである、という一般的な見解は根源的なところではある主体が「そうである」と思っているだけであるというあやふやな考えな訳です。私自身で言えば音楽の話しもしますがまったく関係のない話のほうが圧倒的に多く東京の友人との会話も「知的、痴的、血的(血沸き肉踊ること)」というスリリングな(?)ものでした。相手の喋る話しに私の興味ない話もあり、勿論私も相手が興味のない話しをしている可能性があるのですが、それは相手の話しに積極的に興味を持って行くことしか解決方法はないわけです。逆にお互いのことを知りぬいた会話ができると仮定して、それが本当に面白い会話なのでしょうか。到底理解不可能な客体を相手にするから対話は面白いのではないでしょうか。リゾーム(根茎)のように次々と枝分かれし支離滅裂に話しが伸びていく、これが対話の快楽ではないでしょうか。快楽には論理はありませんよ(^^

 しかし、毎日くーだらないことばかり考えているとどうも生活がだらけていけません。明日はレコード市にでも行って気合を入れようかと思っています(反省してないか?)。

2004/11/30

 加古川ピアノの会演奏会、無事終了しました。久しぶりに京都に行き、楽しいひと時を過ごせました。ありがとうございました。

 携帯電話が完全に壊れてしまいました。かなりひどい状態だったのを、鞭打って使っていたのが悪いのですが。電源じたい入らないのでデータの救済はなるか?

2004/11/28

 先日東京の友人を囲んでささやかな飲み会、すっかりベロベロに酔ってしまいご迷惑をかけました。話は音楽、文学と縦横無尽、勉強させていただきました、九拝三拝です。

 Booksに中野好夫「スウィフト考」をアップ。今回はちょっと下品ですかも?

2004/11/25

 ソシュール学の第一人者、丸山圭三郎氏の「言葉・狂気・エロス」をアップ。芸術に興味ある方は必読の作品です。私は演奏家だけでなくリスナーにも一読をお勧めします。

 昨日の演奏会で青井彰氏がカプスチンの「24の前奏曲」の全音版を持ってこられていました。発売まで時間がかかりましたぁ。しかし一般的なレパートリーになるんでしょうか。かなり難しい作品ですよ、これは。

2004/11/24

 アマデウスでのライヴ無事終了しました。アンコールはFalossi「Fantasia su White Christmas de Berlin」とファジル・サイ「パガニーニ変奏曲」でした。聴きに来てくださった皆様ありがとうございます。

2004/11/23

 11月28日13時より京都、音楽空間ネイヴで加古川ピアノの会演奏会が行われます。詳細はこちら。京都でひっそりとかなり濃厚なピアノ曲が演奏されます。ちなみに私はヨーク・ボウエン「前奏曲」から数曲(プログラムの番号とは違う順番になります)、新見徳英「ACH!BACH」を演奏予定。

2004/11/21

 最近「難しい本を読んでますね」というメールを頂く事がありますが、難解な本は難解なりに魅力もあります。別に私が難しい本を理解して見識を広げている等という訳では全然ないのですが、理解する出来ない、とは別問題で魅力的な作家はいます。カフカ、阿部公房なんかはその最たる例ではないでしょうか。そんな訳でロラン・バルト「テクストの快楽」をアップ。いささか感傷的な文章ですがご容赦。好きな作家には甘いのです(^^;

 さて、今回バルトについて書いている時に思ったのですが、例えばカフカの「父の気がかり」のオドラデクや、内田百閧フ「梟林記」の隣家の殺人などさっぱり訳がわからないのに異様なリアリティを持って我々に迫ってくるものがあります。音楽でもブーレーズ、シュトックハウゼンはともかくケージや甲斐説宗等の作品は得体の知れないものなのですが、しかし、「何かがおこった」という音楽体験は「理解する」という次元を越えて迫ってきます。これが絵画や彫刻であるならば、作品の前に立っただけで戦慄を覚えることになるでしょう。先日のデュシャンのショックから抜け出てないのですが、「わかる」という事を突き詰めていけば、我々は所謂わからない作品、アヴァンギャルド、現代音楽に対し、バッハやベートーヴェン等を本当に「わかる」といえるのでしょうか。調性が人間の聴覚にとって安定し、安心感を与えるのは事実ですが、それと「わかる」こととは別問題です。むしろ、「わかる」こととは何か、もしくは根本的に「『わかる』という考え」を問い直してみるのも一興ではないでしょうか。

 閑話休題。
 アマデウスでの演奏会も近づいてきたので音楽関係の話も少し。
 今回ショパンの晩年の作品「幻想ポロネーズ」「バラード4番」を練習していて気が付いたことを書いてみたいと思います。
 まず、このこれらの作品にはショパンのエクリチュールの美しいことと、そして既に調性の解体への兆しが見えることが挙げられます。「エクリチュールの美しさ」というと大げさですがつまり楽譜が美しいのです。全体に素晴らしいのですが特に「幻想ポロネーズ」の9小節から22小節、以前も書いた記憶があるのですが「幻想ポロネーズ」の265小節の2拍目のAs、この音によってどれほどの表情をこの作品がえたか計り知れません。「バラード4番」の135小節から146小節にかけて、特に144小節の裏拍、クレシェンドのかかる部分の美しさはたとえようがありません。そして、バッハに既に見られた半音階による調性解体の予感。これはショパンでは更に顕著に現れています。かつてショパンが調性解体を予感させるという事をルトスワフスキが言っていたのを思い出します。ドビュッシーが全音階によって調性をぼかしましたが、ショパンはバッハと同じく半音階によって、ドビュッシーほど明確に調性を無くしませんでしたが、確実に調性解体へ進んでいます。
 今回の演奏とは直接つながりのない話ですが、そういった面を聴いていただけると幸いです。

2004/11/17

 私事ながら妹の結婚式などが重なり何かと多忙な数日間でしたが、やっとゆっくり更新が出来ます。

 さて前回予告していた「マルセル・デュシャン展」へ行ってまいりました。実に面白い展覧会でした。元々美術ことに造形作品は正直あまりその見所、勘所がよくわからないのですがデュシャンのほぼその人生の軌跡に沿った展示物と解説を見ていくと非常にすっきりとした印象を受けました。と同時に芸術の、これは美術に限らず音楽、文学等表現者のある種の限界点を感じたところもあります。既成芸術を否定し、伝統的絵画を捨て「レディメイド」の技法によるオブジェ等で芸術の新天地を開拓したと思われるデュシャン、それは大きな誤解である事は彼の「技法」が既に現代美術の古典になっていることから判ります。展覧会解説に於いても「デュシャンは『ずらす』こと」を目指したのです。破壊は新しい建物を構築してしまうのです。
 デュシャンについてはいずれ資料を揃えて一文書いてみたいと思います。

 さて展示物のお目当ては「大ガラス(彼女の独身者達によって裸にされた花嫁、さえも)」(東京版)だったのですが、この「未完成」の作品も非常に興味深いことを今回始めて知りました。まず、この作品には緻密な「設計図」があること。そしてその「設計図」に沿って製作すれば「大ガラス」を製作できること(現在世界に4点あるそうです。東京版はデュシャンの死後「未完成」の作品として「完成」されています)。設計図を見ると立体的なスケッチが残されているのですが実際の作品はガラスに封じ込められた平面的な作品というのも面白い発見でした。「複製はオリジナルと同じ価値がある」とデュシャンは言い、レプリカに自筆のサインをしたそうですがこれは来るべくアンディ・ウォーホル等ポップアートを予兆させる発言です。

 そして、それ以上に私を興奮させたのが「遺作」。以前に「ブルータス」の「猥褻か芸術か」で見たことのある作品ですが、実物を目前(文字通り「覗く」)にして倒錯的な眩暈すら感じるものでした。この「遺作」に触れられただけでもこの展覧会に行った価値はあります。

 展覧会後半のデュシャンに影響を受けた、もしくはオマージュはそれなりに面白いものではあるのですが、やはり前半のデュシャンを見た後では少々小ぶりに見えるのはしょうがないでしょうか。リチャード・ハミルトンとデュシャンの関係ははじめて知りました。

 さて、出口付近で今回の展覧会グッズを売っていたのですがバカバカしいと思いながらすっかり夢中になって買ってしまったのが「小ガラス」。こういうものに弱いのです、私は

 大阪のあと横浜美術館への巡回が決まっているそうです。関東方面の皆様。是非この機会を逃されないよう「覗き」に行かれることをお勧めします。

2004/11/11

 色々書きたい事があるのですがなかなか暇がなく聴きかえしたり資料を集めたりが出来ずにいます。書き上げたものも随分変換ミス、主語と述語のずれ、論旨の散逸(これはワザとか?)等問題がありますが、変換ミスの訂正程度にとめています。

 明日か明後日時間を無理やり空けて中之島に出来た国立国際美術館で行われている「マルセル・デュシャン展」に行きたいと思っています。お目当ては「大ガラス(東大所有の「東京版」)」な訳なのですが、私は芸術運動の中で最も好きな、というよりも憧れるのはダダイズムです。憧れる理由は恐らく史上最も平安な破壊活動であったという意味でです。これほど純粋な破壊活動があったでしょうか?前衛という古びた古城は今も巨大な姿を残していますが、ダダイズムはひっそりと取り残された影のようです。デュシャンがミュンヘンで大ガラスの試作を試みた1913年はくしくもフッサールが「純粋現象学と現象学的哲学のための諸概念」を著し、ストラヴィンスキー「春の祭典」がパリのシャンゼリゼ劇場で初演された年です。刺激的な時代です。私は美術、ことに立体作品、建築に関してはド素人ですが、この展覧会ははずせないと思っています。興味ある方は是非足をお運びください。

2004/11/8

 Booksに「ラ・ロシュフコー箴言集」をアップ。ニヒルな人間観察によってあまれた箴言集です。明日を明るく生きるための甘い「人生訓」ではなく辛口の一発です。

 ここ一週間ほどハイデガー関連の本をまとめて読んでいるのでが、やはり原本「存在と時間」は難解極まりない。しかしこの書物、元題は「Sein und Zeit」。英語で言えば「Being and Time」でしょうか。重要なキーワードの一つ「現存在」は「Dasein」。「そこにある」というようなドイツ語で決して難しい単語ではないようです。勿論その語に含めようとした概念はもっと深いのでしょうが。翻訳ではキーワードを専門用語に無理矢理日本語にあてるのですがいっそのこと、音楽用語のようにカタカナで「ダーザイン」なんてしてしまった方が判りよいのかもしれません。「p」は小さな音を表す記号です。「p」が増えれば更に小さくという関係を示します。これを「小さく」と楽譜に記した校訂は私の知る限りありません。確かに言語の記号性を考えると「対象化」してしまう危険は付きまといます。先日亡くなったジャック・デリダの著作の難解さもその辺にあるようです。しかし日本語になおすことによって余計に混乱してしまう事も十分考えられます。如何なもんでしょうか?

2004/11/7

 なにげに立ち寄った中古レコード屋で思わず「あっ」と声を上げてしまいました。噂には聞いていたカトリ−ヌ・コラール(ジャン・フィリップのお姉さんで早世された方)の弾くブークリシュリエフの「群島W」。不確定性の作品で一枚のレコードに4バージョンを収録。レーベルは意外に普通のフィリップス。しかも500円!即購入でした。しかし大阪にも意外なことろに意外なものがあるものです。チェックは怠れません…。さて内容ですが、さすがメシアンコクールの覇者だけあって難解になりがちのこの手作品を実に明快に弾いています。音楽のコントラストが実に美しい。すばやい音符が最高音部と最低音部で鮮やかに交錯する箇所など戦慄を覚えます。

 さてPianistにアール・ワイルド、Booksに谷崎潤一郎「」をアップ。今回はどちらも官能的?

2004/11/6

 Booksに稲垣足穂「ヰタ マキニカリス」をアップ。少々突っ込み不足のことろもありますが、足穂の硬質な文体に触れる事ができると思います(つまりは引用過多、手抜きですな)。

2004/11/5

 今回はBooksに伊藤潤二のホラーマンガ「うずまき」をアップ。まれに見る奇作です。マンガはあまり読まないのですがガロ系、アングラ系マンガは一時集中して読んだ時期があります。普通の少年誌、青年誌のマンガとは遠い世界ですが、カルチュラル・スタディーズというほどのものではありませんが非常に興味があったのです。元々私はB級テイスト、胡散臭いものが好きな人間なのでしょう。

2004/11/4

 Diskにエシュパイの「コンチェルト・グロッソ」をアップ。ジャズ系クラシックの傑作です。興味のある方は是非聴いてみてください。

 久しぶりにジュンク堂に行きましたが、先の更新でも書きましたが昔、高い値段で買った本がえらく安くになっていたりとかなりショックです。例えば講談社の「現代思想の冒険者たち」シリーズ。この本が出た頃は3、4千円で買っていたのですが1500円ほどの廉価になっての再発です。勿論1年ほど前に出ているので私のチェック不足なのですが。思想書は値段が高いのはいた仕方ないと思いますが、安く出すなら先に出せ、という感じでもあります。みすず書房勁草書房も文庫なんかださないでしょうなぁ。

2004/11/2

 読書の秋という事でBooksに橋爪大三郎「はじめての構造主義」をアップ。あと他の本も現在入手可能なものにAmazon.co.jpへのリンクを張りました。

 クロード・エルフェの録音を聴きなおしていますがどれも熱い演奏です。いずれDiskに紹介します。

2004/10/31

 Music 内にOther を追加。音楽に関するエッセイ、雑文です。さて今回は作曲者、演奏者、聴衆について。
 先日亡くなったジャック・デリダ氏。随分解説書を読んで挑んだ「根源の彼方に」でしたがさ〜っぱりわかりません。元々デリダは「自分の思想はこうである」等とは語るつもりも無かったのでしょうがそれにしても難解。ただ、彼がヨーロッパの思想、哲学に挑んだ姿勢は、私日本人には根本的なところで理解できなくとも、感銘を受けるところがあります。この文章は浅学を承知でデリダ氏に捧げる次第(迷惑か?)。

 追加の更新。実に悲しく残念な更新。フランスのピアニスト、クロード・エルフェが亡くなられました。享年82歳。相当前から心臓を悪くされて手術も数回受けているというのは聴いていましたがやはりショックです。心からご冥福をお祈りします。

2004/10/29

 Diskに間宮芳生「ヴァイオリン・ピアノ・打楽器とコントラバスのためのソナタ」を追加。

 本日は仕事がかたづかず青井彰氏のリサイタルに行けず、残念。東京公演もありますので東京方面の方は是非聴きに行ってください(11月29日18:30開演 会場:横浜みなとみらいホール 小ホール)。私も何とか聴きに行きたいのですが無理そうです。

2004/10/28

 毎日更新です。今回はPianistに高橋悠治氏、Diskに藤井一興氏のマルケヴィッチ「ヘンデルの主題による変奏曲、フーガとアンヴォワ」をアップ。譜例付きです。

 ところで先日のハワード・ブルーベックの「ジャズ・コンボとオーケストラの対話」、なんと日本で演奏されているんですね。2000年8月31日、新日本フィルハーモニー交響楽団ポップス・シリーズで日本初演(恐らく)。このHPをご覧の方で聴きにいかれた方がいらっしゃったら是非感想をお聞かせください。

 新潟をはじめ地震による被害の映像をTVで見るたび胸が痛くなります。関西人はもはや地震の恐怖は人事ではないからです。いたずらに恐怖心をあおる訳ではないのでしょうが地震学者の「どこでも規模の大きな地震が起こる可能性はある」などと言われるとヒヤヒヤします。
 被災地の方々には心よりお見舞い申し上げますと共に、亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。

2004/10/27

 Pianistにロジャー・ウッドワードポール・ジェイコブズベルナール・リンガイセンを追加。リンガイセンは褒めてんのだかけなしているのか判らないような文章ですが、あくまで「お気に入り」ということで。My favourite disksにハワード・ブルーベックの「ジャズ・コンボとオーケストラの対話」をアップ。

 連日更新が続いています。コンテンツを絞ったおかげで書きやすくなったのでしょうか。

2004/10/26

 Pianistにチャ−ルズ・ローゼンを追加。
 しかし、ピアニストという蛮族は多いです。次から次へと出てきます。その一人〃がそれぞれの魅力を持っているからまた凄いのですが。

2004/10/25

 いやぁ、サイト一新後まじめに更新しております。さてピアニストのコーナーにレーヴェンタールホロヴィッツを追加。本来ならこのコーナー推薦ディスクでも紹介するのがいいんでしょうが、音楽とは極めて個人的な体験、気になったピアニストがいたらアマゾン等でお調べください。自分で探した録音は良くも悪くも聴きこみますよ。

 久しぶりに新刊書店へ足を踏み入れました。大体が古本屋でしか本を買わない人間ですが、気になる本があるとは限らないので久々に本屋に行った訳です。結局1時間近くうろうろして買ったのが古東哲明「ハイデガー=存在神秘の哲学」。ハイデガー、フッサールというとどうも難解そうで(といっても原本に手を出すなんて大げさなものではなく解説本を)読む気ならなかったのですが最近小阪修平氏の本を読み返していて少し興味が起こったので一番読みやすそうなものを選んだ次第。思えば私がこの手の本に興味を持ったのが筒井康隆氏の「文学部唯野教授」を高校の頃に読んで以来、宝島新書「わかりたいあなたの現代思想」や「イラスト哲学入門」等名前からしてお気楽そうなものを読み出したのが始まりでした。実際はそんなに軽い読み物ではなかって随分悩んだのですが、少なくとも小阪修平氏や竹田晴嗣氏といったレベルを落とさず平易に解説してくれる方々を知っただけでも儲け物といったところでしょうか。ハイデガー、サルトルは一時古臭いといった風潮がありましたが最近また流行っているらしいです。私なんかはなんとなく軽妙にして洒脱なロラン・バルト(誤解なきように断っておくと本当は軽妙でも洒脱でもないのですが)のセンスが好きなのですが、実存、存在…世界、といったキーワードは21世紀の人間にとって流行の「自分探し」と相俟って復興しているのでしょうか?私なんかはハイデガーの「世界−内−存在」の解説を読んで吉本新喜劇のチャーリー浜のギャグ「君たちがいて僕がいる〜」を思い浮かべるような、なんともバチ当たりな人間なのですが…。
 ところで、「八木さんは一体いつ読書をしているのですか」と聴かれる事があります。昼間は働いたり、ピアノを練習したりしていて夜はレコードを聴いたりビデオで映画を見ているような生活ですから読書をする時間なんて作り出せないと自分でも思います。電車の中で読むといった方法もありますがなかなか集中できませんし、ちょっとコ難しい本ですと電車という時間的にも限られた状態では読めません。実はここ10年以上私が本を読んでいるところは風呂場です。湯に浸かりながら読書しているのです。あっという間に読める本からコ難しい本までほとんど風呂場で読んでます。最初は文庫本を恐る恐る持って入ってましたが今では単行本でも平気で持って入ります。「湯気でボコボコになるんじゃないの?」と心配されますが意外に湯気の影響はありません。むしろ気を付けなくてはならないのは自分の汗です。私は乾いたタオルを2枚持って入ります。1時間以上風呂に浸かっている事も珍しくなく冬場などはすっかり茹で上がってしまいます。
 日本の住宅というものは最近でこそ個人の部屋が出来ましたが、かつては便所と風呂場が唯一の個室でした。トイレにこもって読書というのは少々他人に迷惑がかかります(トイレでも読んでますが)。その点風呂場ではまったく他人の干渉を受けず集中して読書できます。この「風呂場が書斎」派は意外に多くダイエットのために半身浴中に雑誌を読むレベルから私のように「本は風呂場で読む」という極論派までレベルは違えども結構いるようです。最初の頃はついウトウトきて本を浴槽に落とす悲劇的アクシデントもありましたが最近ではそんなことはありません。唯本に挟んでいる「シオリ」がするりと落ちる事があります。しおり程度ですが中にはお気に入りのシオリもありこれだけは気を付けなければなりません(右図はお気に入りの新潮社ヨンダくんのシオリの裏表)。

2004/10/24

 トップページにも書きましたが神戸本町の喫茶アマデウスでベートーヴェンとショパンによるライヴを行います。お時間のある方は是非お越しください。

 心機一転、filmsに岡本喜八の問題作「ああ爆弾」を追加。

 リンクを整理しました。リンク切れのHPはできる限り検索等修正しましたが、いくつか閉鎖または移転先のわからないHPもありました。もしお気づきの方がいらっしゃいましたらお報せください。今までに書いてきた文章も編集してコンテンツに盛り込みたいと思いますが、なかなかうまくいかず…。毎度のことながら気長にお付き合いを。

2004/10/23

 かねてから考えていたHPの模様替えをしました。コンテンツ自体も随分書き換えたりしています。新生Piano Space これからもよろしくお願いします。
 HP内のリンクなど混乱しております、ご容赦。

 とりあえずfilmsに鈴木清順監督の問題作「悲愁物語」をアップ。

2004/10/21

 グレン・グールドについては膨大な量の書物や論文がありもはや音楽家ピアニスト・グールドと音楽現象としてのグールドとは別次元となってしまった感がありますが最近古い「ユリイカ」を読み返していて面白い事が書いてあったので紹介してみたいと思います。

 和田則彦氏によるGNPについて。GNPは氏の造語でGould's Noize Productionもしくはon Paradeの意。つまりグールドの録音に含まれるノイズ(典型は彼の歌い声)をめぐる小論。「しかし人さまざまで、一方にはGNPおタクとも言うべき、リスナー/コレクターも少なからず散在し(略)かく言う筆者とて、演奏・録音など、公的な醒めた批評基準(コンシェーマーズ・レポート向きの…)と同様かそれ以上の比重で私的なGNPコレクションにも没頭している次第」と書く氏のグールドへの切り口は楽しい限り。例えば多重録音によるワグーナー「マイスタージンガー前奏曲」中、6分13秒から多重録音がスタート、6分23秒から44秒までの2人のピアニスト・グールドと「声楽家」グールドとの競演などは「正にコンサートでは聴きえぬ、ドロップアウトの語利益であり「大収穫」と言えよう」。更にはブラームス「間奏曲集」でのグールドの椅子の出すノイズ、81年の録音「ゴールドベルグ」に混入する録音調整室の機械の操作音、更には15変奏における4分40秒から59秒の間にブラスバンド風の軽音楽が混入しているという指摘など正に「GNPおタク」の面目躍如たるところ。話題はラジオドキュメンタリーに進み「カクテルパーティー効果」にふれ、「GG(Glenn Gould)好きのGNP嫌い」果ては「GG嫌いのGNP好き」ともにグールドの残した録音を貪欲にしゃぶり尽くそうと締められています。

 わずか2ページながら上野耕路氏による「グールド的奏法入門」。これは非常に興味深いです。その後ケヴィン・バザーナ「グレン・グールド演奏術」なんて本も出版されましたがおそらくグールド奏法(ただ低い椅子を使用というレヴェル以上)実践法の文章はこの上野氏のものが初めてでは無いでしょうか?この「グールド的練習法」は実に面白いのですが、同時にピアノという楽器の可能性と限界を示唆する小論であると思います。興味のある方は「ユリイカ」1995年1月号を参照して見て下さい。

2004/10/15

 先日「美しい室内楽は?」というので少し盛り上がったのですが私の乏しい知識からいくつかお勧めを。 

 間宮芳生の「ヴァイオリン、ピアノ、コントラバスとパーカッションのためのソナタ」があります。おそらくCD化されていない作品ですが傑作です。1楽章はヴァイオリンとピアノによるバルトーク風の変奏。2楽章は全楽器によるブルース。3楽章はやはりバルトーク風のヴァイオリンソロによる間奏曲。終楽章は全楽器による即興的な「アフリカ」。瞠目すべきは2楽章のブルース。まんまジャズです。民謡を主題にしたジャズブルースですがこれがなんともかっこいい。現代音楽嫌いの方に是非聴いていただきたい1曲です。間宮氏の作品はどれも美しいのですが意外なほど演奏されません。三善晃氏と並んでピアノのうまい方ですのでやはり難しいのがネックでしょうか。

 シューマンのピアノ4重奏の3楽章、何故かグールド、ジュリアードカルテットの録音が残されていますがこれも美しい。フォーレのトリオの2楽章も美しい。ハイドン、モーツアルトの弦楽四重奏にもいい作品があります。ショパン、ラフマニノフのチェロソナタも外せません。楽器指定の曖昧なバッハの「音楽の捧げもの」のトリオソナタなど思いつきますが如何なものでしょうか(ちなみにブラームスはわざと外しています)^^;

2004/10/14

 あいついで興味深い人が亡くなりました。7月26日作家の中島らも氏、8月29日評論家の種村季弘氏、9月7日ピアニストの園田高弘氏、翌8日フランスの思想家ジャック・デリダ氏が死去されました。まだまだ現役で活躍できる方たちだったので非常に残念です。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 フランスから帰国中の大学の先輩のフルートの演奏会へ。バロックから現代作品まで幅広い曲目で楽しめました。中でもシェルシのフルートソロの曲が興味深かったです。シェルシは生前インタビューやポートレートを拒否し公的な写真が公開されていない作曲家です。グールドを髣髴とさせるエピソードですが、サラベールのカタログにも写真は掲載されていません。ポートレートを公開しない演奏家というものが存在するのかどうかわかりませんがもし存在するのであれば録音によってしか演奏活動ができない訳です。それはグールドの「コンサートは滅んだ」という言葉を思い出します。
 おっと、録音だけによる架空のピアニストといえば「ミヒャエル・ナナサコフ」氏がおりましたな。

2004/10/2

 昨日拙宅でピアノ好きの方の宴会を行いました。いやぁ、濃いメンバーで私が一番楽しませていただきました。ありがとうございます。

 子供のころLEGOブロックで遊んだ人は多いのではないでしょうか。「楽譜の風景」の不破さんもレゴの魅力をHPで書いておられます。私もLEGOが大好きなのですが(小学生の頃真剣に「レゴビルダー」に憧れた時期があります)、不破さんの指摘通り最近のレゴは専用部品が多く、あまり好きではありません。本来LEGOは抽象的なもので、想像力によっていくらでも可能性が広がるものであると思います。精密に再現したからといって良い訳ではないのです。私の手元にリプロポート(この出版社についても書こうと思っているのですが)から出版されたヘンリー・ヴィンセック著「レゴの本」があります。LEGOの歴史、魅力を余すことなく伝えた良書です。子供の作った作品から現代建築家が作った作品まで同等に扱われています。この本を見ていると、最近のLEGOがやや魅力不足になった理由がわかるような気がします。

 初期のレゴは箱のような形をしており今の形になるのに試行錯誤があったようです。1949年に発売された「オートマ・ビンディング・ブロック」(「お互いにしっかりつくブロック」の意)は今のレゴの原型ですがブロック内部に「チューブ」と呼ばれる円柱がありません。側面の切れ込みがばねの働きをして上部の凸(ポッチ)と噛み合う仕組みです。しかし「しっかりつく」という訳ではなかったらしいです。1958年にこの「チューブ」が取り入れられるとしっかり噛み合い離れなくなることにより多くの組み合わせの可能性が可能になります。上部に8個の凸(ポッチ)があるブロック2個ですと24通り、3つで1060通りの組み合わせがある、と書かれています。しかしレゴは最初から順風満帆だった訳ではなく、50年代にデンマークの業界紙に「プラスチック製のものは、美しい、丈夫な木製おもちゃにとってかわることは無いだろう」とも書かれたということです。今では考えられないことです。1969年には幼児用として「デュプロ・ブロック」が発表されます。これは通常のレゴのブロックの2倍の大きさのブロックで、通常のブロックとも連結可能のブロックです。以降様々なシリーズ(街、宇宙、汽車、船など)を発売し、今のレゴへと発展して行きます。

 最近のレゴはあまり好きではありませんが、レゴビルダーが作る作品はやはり素晴らしいものがあります。ここで使われるブロックは特殊な部品ではなく、普通の四角のブロックです。しかしその作り上げられた作品の完成度、美しさは専用部品をもって「リアル」に作られたものとは別格です。現代建築家もレゴによる作品を作っています。左写真はエリック・オーウェン・ペリーの「物理学者の家」という作品です。1965年にノーマン・メイラーがレゴを用いて都市を構想し、その作品は今でも彼のアパートに残っているそうです。

 レゴはやはり抽象的なものであって、想像力によってその魅力が生かされるというのが本当のところようです。最近ので製品が悪いという訳ではありませんが一昔前のレゴのほうが私は好きです。人形の顔一つ見ても、現在の製品は様々な表情描かれており、海賊は海賊らしく、スピルバーグはスピルバーグらしく作られています。昔のレゴは全て同じ顔です。しかし、子供が遊んでいるときその人形の表情は同じではないはずです。想像力というものは我々が思っている以上に大きなものであるといえます。このことを最近のレゴは少しずれてしまっているように感じるのは私だけでしょうか。私は熱心なレゴファンではないのであまり大きなことも言えないのですが、クラシカルなレゴの復活を願ってやまない今日この頃です。

2004/9/28

 月1回あるレコード市を覗きに行くとロシア・メロディア盤などが意外に多くついつい散財20枚近く買ってしまいました。とはいえこれだけ買っても8000円に満たないのですからまあいいか。今回の目玉はなんと言っても先日も紹介したジャン・ルドルフ・カールスの「メシアン、リストリサイタル」です(これは別にメロディア盤ではないのですが)。「鳥類譜」(どうも「鳥のカタログ」という訳語は好きになりませんね)から「イソヒヨドリ」、「嬰児イエス」から「喜びと精霊のまなざし」「沈黙のまなざし」、リスト「波をわたる聖フランシス」「ピアノ曲第2番」「暗い雲」「悲しみのゴンドラ1番」「狩(超絶技巧練習曲8番)という曲目。カールスのメシアンが凄いというのはかつてオタッキーさんから伺っていたのですが聴いてみると本当に凄い。「喜びと精霊」の促進力、迫力、緊張感は数ある録音の中でも出色の出来です。レコードに針を下ろして冒頭のユニゾンの間に挟まれる鋭い和音を聴いた瞬間から一気にカールスの世界に引き込まれます。現代音楽の演奏に最も欠かせない知と情のバランスが見事です。カールスのレコードはこれで3枚(ドビュッシーとシューベルト)になりましたがまだシェーンベルグのアルバムがあるようです。レコード屋のチェックは欠かせません(^^

 メロディア盤の方は「サミュエル・フェイベルグ作品集」が面白かったです。スクリャービン風の作風でソナタ2番、6、10番などを収録。演奏はタチヤナ・シェバノワ、ヴィクトル・ヴーニンといった「そのスジ」では有名なピアニストが弾いています。アゼルバイジャンの作曲家アミーロフのピアノ作品集。演奏はなんと発音したらいいのか判らないのですがゾカラブ・アディゲザール−ザーデとかいう人。民族色の強い作品ですが今ひとつインパクトに欠けるような感じでした。おそらく二度と針を落とすことの無い現代曲が数枚ありましたが詳細はめんどくさいので省略。

 興味深かったのは第6回チャイコフスキーコンクールとリスト−バルトークピアノコンクールの実況録音。技巧のレヴェルは上がっていると言われますがそれは「難曲を弾く低年齢化」という感じで実際60年代から70年代のコンクールの実況録音を聴くとその音楽的レヴェルの高さに驚かされます。ああいった大きな国際コンクールでは「弾ける」という事は前提であり、それ以上の才能とアピールが無ければ上位入賞は難しいのでしょう。

 サイト内を色々いじっています。音楽関連のページへのリンクが消えていますがそのうち整理します。

2004/9/27

 ロシアの重戦車ノコライ・ペトロフについて。長らく廃盤だった「パガニーニの主題による作品集」が復刻(?)されたようです。?つきなのは解説もジャケットもほとんどロシア語なので…。曲目はショパン「パガニーニの思い出」、シューマン「パガニーニ練習曲 作品10」、そしてその超絶技巧で悪名高いリストの「パガニーニ練習曲1838年版」。とにかく恐るべきテクニックと勢いと力で曲をねじ伏せるような圧倒的な演奏。リストはこれ以上の迫力を持って弾くピアニストはいないのではないでしょうか?アムランなら弾けば弾けるでしょうがペトロフの怒涛のピアニズムとは違いすっきりとしたものになってしまうでしょう。とにかくエグイ演奏がお好きな方にはお勧めです。なおこのCD、ピクチャーCDなのですがこれも強烈(右)。
 さてもう1枚。これは今年買ったLPの中でも大収穫の1枚間違い無しなのですがブルガリアの作曲家、ミンチェフ(ミンコフ)のピアノ協奏曲。これがまさに無茶苦茶な協奏曲。ペトロフの破壊的クラスターから鍵盤を突き破らんばかりの恐るべき打弦力を満喫できる1枚。何でも1988年の第3回レニングラード国際音楽祭のライヴ録音だそうでそれ以外はロシア語のため不明。ちなみにB面がバシュメット独奏によるエシュパイの「ヴィオラ協奏曲」というものいかにもな選曲。

 一柳慧、横尾忠則による伝説的LP「横尾忠則オペラを歌う」が限定復刻されるというニュースが。これはおそらく「あのジャケット、あの盤面」も再現されるようですので買いではないかと思います。詳細はBRIDGE INC. のHPをご覧下さい。

 リブロポートのお話はまた次回(^^;

2004/9/16

 暗譜の続き。

 前回(9/13参照)の「暗譜のコツ?」の中に「プロの技術にあてられる」という項について暗譜とは関係ないのでは、というメールが来ましたので、補足しておきます。プロ、中でもキャリアの長い人はスキーマの形成によって情報処理が明快に出来ている場合がほとんどです。実際に演奏家にちょっとした指示を受けただけで、驚くほどうまくなる人がいます。それは完全でなかった情報処理能力がプロの一言で、ある解法を見つけ出すからであると思います。それは言葉です。長期記憶の手続き的記憶は言語で表現できない記憶です。味や匂い、歩行、ピアノの演奏といった記憶は「これは〜である」という言い方には出来ません。しかし、それを無理にでも一度言語化することによって、記憶と情報処理にプラスになる事があります。人間の思考は言語によってなされるものということは以前に書きました(7/7参照)。つまり手続き的記憶を無理に言語化することによって記憶に定着しやすくなるのです。そして、スキーマの形成がなされたプロの演奏家はその感覚的、体感的なものを的確に言語で示唆する事ができる場合が多い。これはピアノに限ったことではなく、楽器の演奏や舞踏、スポーツ、自動車の運転など手続き的記憶がウェイトを占める割合が多いものに共通しています。初心者に「いい先生に習え」といいますが、これは事実でしょう。教え方や教育法は様々ありますが、このちょっとしたアドヴァイス(実はこれが最も重要である)によって記憶を整理する可能性は大いにあります。

 後、補足として
・書き込みをする
 を加えておきましょう。楽譜に書き込むことによって記憶しやすくなります。人間は記号(言語を含む)を覚える方が覚えやすいのです。

 最近非常にショックだったこと。社会思想社が倒産したらしく同社の「教養文庫」も全て回収になったようです。教養文庫というとなにやらお堅い名目が並びそうですが、当時文庫で小栗虫太郎、夢野久作、久生十蘭や「めりけん・じゃっぷ」、「世界映画史」など一癖ある文庫としてよく読んでしました。また「若い人への古典案内」シリーズは原文を基調とした現代語訳で、私は秋成の「雨月物語」の格調高い現代語訳で中学の頃読書に目覚めと言っても過言ではありません。同文庫の有名な作品ではキース・ベネディクトの「菊と刀」(私は未読)があります。左翼系の出版社ではありましたが非常に面白い本を安く提供していただけに残念です。三一書房や社会思潮社(ここも無くなった?)といった出版社は他では読めない作品を取り上げています。ただでさえ活字離れが進んでいるようですが一般に「売れない」本を出すことは難しいです。

 さて話が少し飛びますが先日「トリビアの泉」で世界最大の花「ラフレシア」についてやっていましたが、これを見て思い出したのが伝説的出版社リブロポートから出ていた荒俣宏氏監修のソーントンの「フローラの神殿」です。リブロポートについてはまた次回。

2004/9/14

 今週からNHK、FMで「シュヴェチンゲン音楽祭2004」が放送されてます。ベートーヴェンのピアノソナタが5夜連続放送されます。今夜(13日)はニコライ・デミジェンコのリサイタル。29番「ハンマークラヴィア」がメインでした。明日以降ベートーヴェンソナタ全集を録音しているアルフレッド・パール、バッハで有名なアンジェラ・ヒューイット、リリヤ・ジルベルシュタイン、マルク-アンドレ・アムランといった面々による演奏が放送されます。

 先日届いた楽譜の中にカプスチンのソナタ3番から10番が入っていました。楽譜の出版も予定されているカプスチンですがやはり難しすぎる(^^;ペトロフ、アムラン、ルデンコをもってして「とっても難しい」と言わしめたカプスチンの作品、演奏効果も素晴らしく傑作ぞろいなのですが、その難しさがピアニストへのレパートリーとして定着するのを阻んでいるような気がします。

2004/9/13

 暗譜のコツ、などとたいそうな大層な題名を付けてしまいましたが、これを読んで面白いように暗譜できるようになる訳ではありません。そんな方法があるなら私が教えていただきたい。

 さて、前回(9/7更新を参照)で人間の記憶には2つあって短時間だけ限定的に覚えている「感覚記憶」と普段は思い出していなくてもいつでも知識が引き出せる「長期記憶」があると書きました。更にこの「長期記憶」には「宣言的記憶」と「手続き的記憶」があり、この二つの相互によってピアノにしろスポーツにしろ言語活動にしろ上達していくという事を紹介しました。この「長期記憶」というヤツは必ず「感覚記憶」を通らねば形成できないのは言うまでもないことでしょう。視覚的、嗅覚的、刺激的、味覚的、触覚的…あらゆる事象は全てこの「感覚的記憶」から始まります。そしてこの感覚的記憶は反復することによって長期記憶へと変化します。英単語を覚えるとき何回も書いて読んで覚えた人がほとんどではないでしょうか。勿論一目見て全てを写真のように覚えてしまう超人的能力を持った人もいますが大多数の人は反復によって長期記憶を作り上げます。そして、長期記憶は知識が蓄えられた倉庫のようなものですから、新たに入ってくる感覚記憶を効率よく長期記憶に変える(所謂コード化というヤツ)働きもします。英語で例えるなら派生語、動詞の名詞形、形容詞形、副詞形などは元の一つの単語覚えていると比較的楽に覚えられます。そして近年の心理学では何より覚えようとすることに興味を持つ事が有効であるとされています。

 ところで、この「短期記憶」というヤツは精々7つほどのことを数秒から数分しか覚えていないという記憶です(ワーキングメモリなどといわれます)。つまり一度にたくさんのことを覚えようとすると大変な労力を必要とし、かつあまり効果が無いという訳です。言い換えるなら効率よく覚えよう(「長期記憶」に変えよう)と思うならまず短いものを対象にするといいということです。そしてその短く小さな有機体を「長期記憶」に貯蔵することによってスキーマを形成させる事が上達への必要条件であるといえます。

 以上のことを踏んで私なりの暗譜のコツを取り出してみましょう。

・暗譜用の楽譜は一つに決める。
・全曲を楽譜を見て演奏する。
・曲を細分化する。
・細分化した楽節を回数と時間を決めて暗譜に取り掛かる。
・心理的負担をなくす
・全曲暗譜した時点から楽譜を見て演奏する。
・暗譜しようとする曲を弾かない時間を作る。
・なによりも暗譜しようとする曲に興味を持ち、その作曲家に興味を持つ(好きな作曲家の好きな曲を取り上げる)
・プロの技術にあてられる。
・いろいろなことに興味を持つ。

 さて、一つづつ補足していきましょう。
 まず第1点「暗譜用の楽譜は一つに決める」、これは視覚的な記憶のためのものです。一つの作品を演奏するのにいろいろな楽譜を参考、研究するのは誠に結構なことですが、暗譜に関してはどれか一つ暗譜用に決めた方がよいです。各出版社段組が違ったり細部の音、表示記号が違ったりします。特に段組はページが変わる箇所が変わってきますので複数の楽譜を用いて暗譜すると視覚的な記憶が混乱します。
 「全曲を楽譜を見て演奏する」、これは所謂「譜読み」ですね。いくら短期記憶が少量しか覚えられないとはいえ、一つの曲を形成している細胞の一つである訳ですから全体を把握することは絶対必要です。勿論音符だけでなく表示記号などもしっかり読みます。
 「曲を細分化する」。「短期記憶」を定着させ「長期記憶」へとコード化するための準備作業です。この段階では所謂アナリーゼ、楽曲分析に相当する部分であると思います。人によっては譜読みをする前にアナリーゼをするという方もいますがそれは個人的な問題でしょう。ここでは個人の音楽的知識、和声、対位法、楽式等の知識があれば更に効率よく進める事ができます。
 ところでこの細分化に関しては面白い実験があります。プロと初心者に「最も意味ある最小の単位」と「最も意味ある最大の単位」に区切りを付けてもらいます。すると結果は「最小の単位」ではプロは初心者より細かく区切りをつけ、「最大の単位」ではプロは初心者よりも大きく区切りをつけるのです。これは達人といわれる人たちが非常に俯瞰的は視点で物事を捉えているにも拘らず、細部について非常にこだわりを持っているという事実を裏付けるような実験結果ではないでしょうか?
 「細分化した楽節を回数と時間を決めて暗譜に取り掛かる」。これは次の項目とも関わりがあるのですが、一度に覚えられる量は個人差はありますが限られています。特にピアノの演奏のような「手続き的記憶」の重要度が高いものは一度に大量に覚えられない。結局コツコツ覚えていかなくてはならないのです(この辺が譜読みの早い人は暗譜が苦手というのにつながっている)。それであれば一気に覚えようとせず、時間を決めて10回なら10回、20回なら20回、細分化された部分を反復練習してみる。最初は音を覚えるだけに集中しても構わない。それをクリアできれば更に表示記号を丁寧にさらっていく。勿論最初の段階から表示記号を守るのは当然のことですが「この小節のこの部分はppである」とかといった細かなことまで一気に覚えようとしなくてもいいということです。
 そしてこの「細密練習」は技術的な向上も得られます。技術的に難しい部分は誰でも反復練習します。難しい部分だけ自信ありげな演奏をお聞きになったことはありませんか?この「細密練習」は齎藤メソッドで有名な齎藤秀雄氏も一つの曲に恐るべき労力をかけ一日に数小節しか進まないような指導をされていたそうです。これによっていろんな曲を浅く沢山やるよりも良い結果が得られたということです。
 「心理的負担をなくす」。前項でも述べましたように今日はここまで完璧に覚えよう、等といった心理的な負担をかけないべきです。複雑で長い曲になると前日数時間かけて完璧に覚えたと思っていた箇所が今日は全然暗譜で弾けないということがあります。そんな時、今日も同じところを弾いて覚え直そうという心理的な余裕が必要です。私自身暗譜に関して自分の記憶力、頭の悪さを歯噛みし前日の努力が全て水泡と化したかのような苦痛を何度も(今でも)味わっています。そんな時は10回弾いて覚えられなきゃ20回弾こう、それでダメなりゃ50回弾こう、というくらいの軽い気持ちにならないと練習自体が苦痛となります。ただ無意識に指を動かす反復練習は何の効果も得られません。心理的に余裕を持って、じっくりと覚えるのが暗譜の早道であるといえるでしょう。
 「全曲暗譜した時点から楽譜を見て演奏する」。昔、映画「シャイン」を見ていると主人公がラフマニノフの協奏曲を練習中、先生が「速く覚えて」「速く忘れろ」というシーンがありました。これは暗譜した楽譜を「宣言的記憶」として読み上げるのではなく「手続き的記憶」を感情によってコントロールする段階を示唆しているように思います。人間の記憶はいい加減です。楽譜からの情報は覚えることによって強化され、更に新しい発見を齎します。それを確認するのは楽譜を見て演奏することです。暗譜できた、と思った時点で楽譜を見て演奏する作業は非常に重要です。私は、これこそがリヒテルの言うところの暗譜演奏の否定ではないかと思っています。
 「暗譜しようとした曲を弾かない時間を作る」。これはまた矛盾したようなことですが、スキーマ(9/7参照)を形成する段階では有効であるという実験結果が得られているようです。弾かないからといって放ったらかしにしておく訳ではなく、レコードを聴いたり、頭の中で曲を反復してみたり、鍵盤から離れて指の感触を考えてみる、所謂「肉体的」な面から曲を開放してみる段階です。この頃になると今まで聴いていたレコードから気が付かなかった所まで聴こえてきたり、楽譜から新たな発見があったりします。よく外国語の堪能な人の発言に「ある時点で突然視界が開けるような感じで理解できる瞬間がある」といいます。ピアノの演奏においても突然視界が開ける瞬間があります。これは暗譜という作業を経ていないと至れないところであると思います。
 「なによりも暗譜しようとする曲に興味を持ち、その作曲家に興味を持つ(好きな作曲家の好きな曲を取り上げる)」。これは前提的なことですが、よっぽどの事がない限り練習していくうちにその曲への共感が沸いてきます。曲への共感、それは作曲者への共感でもあります。これは楽曲分析、細密練習を経た後で得られる共感です。私はかつてマルク-アンドレ・アムランに「発表するしないは別として作曲はするべき。それは作曲家への共感につながる」といわれた事があります。小さな小品であっても作曲家がその細かな一音に込めたバランスを追随することは重要なことであり、また容易なことではありません。アムランの言葉は非常に示唆に富んでいると思います。
 「プロの技術にあてられる」。これだけは実際に体験しないと判らないことかもしれません。しかし、現在は雑誌、テレビもラジオも発達しています。プロの発言を聞き分けるべきです。私はクロード・エルフェを最も影響を受けたピアニストの1人であると思っています。私が実際に会ったエルフェは演奏家としては絶頂期をすぎていて、随分批評家からも叩かれたいたようです。しかし、エルフェという存在は私の演奏に影響を与えるには十分な存在でした。先のアムランしかり、プロフェッショナルの発言は示唆に富んでいます。それを妄信するのは危険ですが、少なくともキャリア、才能ともに優れた先人の言葉を聞き、更に読み解く事ができるのは良いことしょう。まして実際にその存在に実際に触れるのはこの上ない幸運であるといえます。
 「いろいろなことに興味を持つ」。ホロヴィッツがこのようなことを言っています。「音楽だけでは無くその当時の文学、絵画、詩に精通していなくてはならない」。現実問題それほどの教養を有することは相当の努力を用いなくてはなりません。しかし、好奇心という押さえがたい衝動を持つことは必要なことでしょう。ある作品、例えばモーツアルトのピアノソナタでもいい。その作品を弾くときモーツアルトが他にどのようなピアノソナタを書いているか、他にどんな作品を書いているか、その当時の他の作曲家はどんな作品を書いていたか、当時は貴族社会が翳り始めオペラがどのように変遷していたか?、そもそもソナタとはハイドン、バッハどのように形成されたのか?、しいては社会的背景(フランス革命はベートーヴェンには多大な影響を齎したがモーツアルトには?)、ゲーテは、シラーは?…疑問は山のように出てきます。その一つ一つに明確な回答を出すことは不可能に近い。しかも歴史は恣意的に作られたものであり、必ずも教科書に出ている事が正解であるとは言い切れません。ロラン・バルトではありませんがニュートラルな(対立項のどちらにも属さない)立場と好奇心、それが非常に必要であるのではないでしょうか?

 以上暗譜のコツについて脱線しながら書いてみました。到底コツとはいえないものですが、皆さん暗譜する際大なり小なり以上のことを踏まえて行っていたのではないでしょうか?これがベストの方法であるとは言いません。しかし大量暗記は絶対必要なものであることは確かです。私が一時チェスに凝っていた時、専門書を読むと、有名な対局を最初の一手からチェックメイト(王手)まで覚えているアマチュアはザラにいるという事が書かれていました。実際碁や将棋では名対局などはマニアであればみな覚えている。それは無規則な動きではなく対戦者同士の戦いの記録であり、知性の記録であるから意味ある動きとして覚えられ、その一手一手に感動さえ覚える訳です。私たちが対象としている音符、オタマジャクシもそうではないでしょうか?故井上直幸氏は「演奏する曲への感謝」という言葉を書かれていました。大仰な表現であると思いますが、暗譜という作業を経た状態であれば井上氏の発言も決して感情的に発せられたものではないものであると私は思います。一つの音符を書くことに作曲家が下した判断を我々は楽譜を通じて共感できるものであるからです。

2004/9/8

 最近毎日更新ですね。地震のせいでしょうか。この文章を書いているときもグラっときました。谷崎潤一郎は関東大震災から自身を避けて阪神に移ってきたのですが関西もうかうかしてられません。泉鏡花も地震嫌いだったはず。

 ところで、先日購入したLP「AVANTGARDE vol.2」があまりに面白いの紹介。本来ならレコード紹介に書くべきですが時間がないのでここで書きます。このLP、発売もとは意外にメジャーのドイツ・グラムフォン。例の黄色いトレードマークも入っています。しかし収録曲が凄い。カーゲル、シュネーデル、ツィンマーマンの室内楽(ピアノトリオ他)Koenig、Pongracz、Riehnの作品、シュトックハウゼンの「テレムジーク」「ミクスチュール」、ケージの「Atlas Eclipticalis」「Winter Music」「Cartridge Music」の同時演奏、更にはGruppe Nuova Consonanzaによる「Inprovisationen」という即興なのかそういう曲なのかよく判らない作曲者記名無しという曲がLP丸々一枚に収録されています。CD化されているものがあるのかないのか調べてませんがおそらく70年代発売されたろうこのLP、まだこれらの曲がバリバリの「ゲンダイ音楽」であった時代にこのような企画をだしたプロデューサーKarl Faustは凄い!
 どれも凄い(と言うか訳わかんないのですが)中でも強烈なのはGruppe Nuova Consonanzaの「Inprovisationen」。イタリアの作曲家による即興演奏集団らしいのですが、なんとメンバーにエンニオ・モリコーネの名前が。同姓同名の人かと思って調べてみましたがどうやら同一人物のようです。モリコーネはGruppe Nuova Consonanzaのために「PROIBITO PER 8 TROMBE」という作品を書いているそうです。LPの内容はというと「ニューシネマパラダイス」とは別世界。全編ギーコー、キュリキュリ、ボワーン、ガッシャーン、ヒュ〜といった即興が続くのは圧巻。ゲンダイ音楽が元気のよかった頃の取れたてピチピチの作品といった感じです。写真は急いで撮ったのでヤフーオークションのような雰囲気になってしまいましたが。
 拙宅で「AVANTGARDE」を聴きながら飲み会、なんてのにお付き合いくださる方いらっしゃりませんかねぇ?(^^;;

 暗譜のコツについて書こうと思っていましたがまた次回。

2004/9/7

 Elyse MacH女史の快作「Great Contemporary Pianists Speak for Themselves」を読んでいるのですがこれが面白い。ホロヴィッツが「(ツマンナイ)演奏のピアニストを聴くときは僕はどっちかだね。家に帰るか、寝ちゃうか」などと言いたい放題(でもないか?)。ピアニストに自由にお喋りください、というスタンスで書かれたこの本、邦訳があればさっさと読めるんですが…(^^;

 さて暗譜の話の続きなんですが、人間の記憶いうものは実にいい加減です。今見たことでさえ覚えていないのですから吃驚しますが(マジックはそれを利用しているんですが)、人間は大体4つか7つぐらいまでしか瞬時に覚えられないようになっているのだそうです。中には一目見ただけで全て覚えてしまうような超人的能力を持った人もいますが大多数の人は多くて10くらいしか記憶できないそうです。なぜかといわれると、そうなっているからだとしか答えようがないのですが、これは経験的にわかります。例えばはじめてかける電話番号などはぎりぎり覚えられる範囲の限界で(私には出来ないのですが…)、かけて相手と話し出したら今かけた番号はすっかり忘れているのが普通です。これを「感覚記憶」というらしい。一方自分の家の電話番号はいつも意識している訳ではないけれども思い出そうとすれば思い出す事ができます。これを「長期記憶」というらしい。この長期記憶には2種類あって「宣言的記憶」と「手続き的記憶」があります。「宣言的記憶」は所謂知識です。最近流行のトリビアではないですが、一行知識なんていうのはこれです。つまり「言葉(記号)で表すことの出来る」知識です。一方「手続き型記憶」はピアノの演奏や自転車の乗り方のように「言葉で表せない」知識です。単純に言えば暗譜演奏は楽譜(記号)を覚える(宣言的記憶)と演奏(手続き的記憶)の両方をさす訳です。

 さて、記号論で言うところの「スキーマ」という言葉あります。「枠組み」などと訳されるものですが、これは今までの経験、記憶によって我々の行動を判断するものです。例えばピアノで言えば結構長く弾いている人であればモーツァルトぐらいの作品なら初見である程度弾く事ができる。これは今までに弾いてきた「調性」のある音楽の和声感がスキーマを形成している結果であります。初見が早い人でも現代曲は初見で弾けない人がいます。これは今までに培ってきたスキーマから外れた作品(簡単に言えば調性のない作品)であるからだといえます。中にはいかなる作品でも初見で弾けるという超人的能力を持った人もいますがそういう人は少数の例外で大多数の人はスキーマによって無意識のうちに行動を判断しているのです。このスキーマは「スキーマ依存エラー」という事を犯します。少し捻った和音進行の箇所などでつい規範的な和音へ間違えて弾いてしまった経験はないでしょうか?これはスキーマが十分に形成されていると起こる間違いです。逆に言うとピアノのうまい人に見られる現象であります。

 つまり、長期記憶によって形成されたスキーマが大きければ大きいほど上達している状態にあるわけです。プロのピアニストは新しいレパートリーに対して恐れを見せません。それは今まで培ってきたスキーマによってカヴァーできる自信があるからです。ではどのようにすればスキーマが形成されるのでしょうか?それは「理論」と「暗記」によって形成されると思われます。和声を習っていない人でも長年ピアノを弾いていると大体和音がどう進行するか予想がつきます。これは経験的に「理論」(和声学)と「暗記」(様々な曲の演奏によるパターン化)によって生じた結果であるといえます(先ほどの例がそうです)。すなわち意識的に暗譜することはこのスキーマを形成するためには絶対必要なことなのです。

 ここで思い出されるがショパンの言葉「なるべくはやくから音楽理論を学ぶべきである」という言葉です。小さい子供は理論もなくそのまま覚えてしまいます。しかし、これには限界があります。何の音楽的理論(和声、形式、オーケストレイションなど)を知らずにマーラーの巨大な交響曲を丸暗記するのは無謀であり、無意味です。あくまでスキーマは「宣言的記憶」と「手続き的記憶」の相互によって形成されるのであってどちらか片方ではないのです。

  最も能率的な記号体系である言語を見れば納得していただけるでしょうか。英語を学ぶとき色々な方法がありますが、結局「理論」(文法)と「暗記」(単語、文章の暗記)によってスキーマが形成された結果「英語が使える」状態になります。「習うより慣れろ」という言葉がありますがこれも結局先の長年ピアノを弾いている人の例と同じ意味になります。だからといって文法も知らず英語で書かれた本を丸一冊暗記して英語が使えるようになるでしょうか(南方熊楠のような超人は例外です)。

 以上ざっと私の私見を書いてみました。非常に乱暴な書き方であるので読む方が読まれると稚拙な部分や大きく省略した部分もありますが如何でしょうか?。結論としては私にしてみれば暗譜無用論者はスキーマをまったく無視した発言であるといえます。先日も書きましたようにピアノがうまくなりたいなら暗譜する手間を惜しまないのが私の自論です。ただ暗譜演奏についてこだわる必要はないというのは、本番で譜面を見ようが見まいが演奏そのものには関係ないということです。

 しかし、当の本人が暗譜するのが嫌いだというので困ってしまうのですが…。次は暗譜の方法論について書いて見たいと思います。

2004/9/6

 先日ピアノ好きの方から「リヒテルは暗譜しなくてもいいと言っていますけど本当なんですか?」というようなことを聞かれました。暗譜については思うところあるのですがなかなか書く事ができずにいます。ここではリヒテルの言葉に対する私の考えを書いておきたいと思います。リヒテルのドキュメタリーを見ているとやはり暗譜についての問答が出てくるのですが、リヒテルははっきり「楽譜の全てを覚えられるかい?」と暗譜演奏を否定しています。 しかし、私は絶対暗譜はすべきだと思います。 少なくとも自ら表現者であると自覚するのであれば暗譜はするべきです。 ただ、暗譜演奏にこだわる必要はありません。暗譜しておいて楽譜を置いて演奏することを一概に悪いことであるとはいいません。リヒテルの言葉についてですが私がリヒテルの意見に追従しない理由の一つは私はリヒテルではないからです。リヒテルほどの驚異的な記憶力、キャリアを持った人間が老境にいたり記憶力の低下を悟り、暗譜演奏などするべきではないというのと、私がリヒテルが暗譜しなくていいといっているから楽譜を見ていいよ、というのでは根本的に問題が違います。楽譜を見て弾けるようになったから暗譜する手間を省くなどとはリヒテルは言っていないのです。リヒテルの言葉は老境に至った芸術家の自戒と諦観から来たものであることを忘れてはいけません。私の友人「ピアニストの苦悩」の山崎さんはこう書いています。「(楽譜を見て演奏する)そのようなことを言う人は、ピアノ演奏を分かってないか、本番に間に合わなかった言い訳だろうと思う」私もこの意見に賛成です。先日からマジック関連で恐縮ですが「不器用であるというのは練習をしない人の言い訳である」という警句があります。
もう一度言います。ピアノをうまくなりたいなら暗譜はすべきです。この理由は…。

 さて、肝心なところでなんですが地震が気になって書けません(^^:阪神淡路地震以降関西人はすっかり地震恐怖症になってしまいました…。

 また後ほど。

2004/9/5

 今月はもう行くまいと心に決めていたレコード屋ですがつい見るだけと入ったのがイケませんでした。ペンデレツキのチェンバロとオケのための「パルティータ」で超絶技巧チェンバロを披露しているブルーメンタール女史によるシマノフスキ「交響的協奏曲」B面には「練習曲」「変奏曲」なども収録、ジョン・マッケイブの自作を含む現代ピアノ曲集、ヒンデミット「組曲1922」シェーンベルグ「組曲」ストラヴィンスキー「ソナタ1924」というなかなか通なフランツペーター・ゲーベルスのアルバム、そして幻の名手ジャン・ルドルフ・カールスのドビュッシー「前奏曲集1,2巻」の4枚を購入。カールスのドビュッシーは以前CD化されたはずですが、ついLPを見ると買ってしまいます。
 ジャン・ルドルフ・カールスはメシアンコンクールで優勝し将来を嘱望されたピアニストですが現在はピアノ演奏をしていないようです。私はカールスのシューベルトのアルバムを持っていますがこれがまた素晴らしい。彼にはメシアンのほかシェーンベルグのアルバムも残されており是非聴いてみたいものです。
 ブルーメンタール女史のシマノフスキは予想以上によかったです。低音がよく鳴っています。「交響的協奏曲」はルービンシュタインに献呈された作品。楽譜は持っていたのですが聴く機会に恵まれずはじめて聴きましたがいい曲です。作曲家は得てして後期作品ではシンプルな作風に変わっていく事が多いです。これは単なる単純化ではなく「複雑さを極めた後のシンプルさ」(オタッキーさん)という言葉が言いえて妙です。ベートーヴェンの「ディアベリ変奏曲」における単純な和声による性格変奏を見るまでもなく作曲家の後期のスタイルは実にすっきりといています。しかし、弾きにくい。これはラフマニノフの「コレルリ変奏曲」を弾いたときに感じたのですが、技術的には初期から中期にかけての分厚い重厚なピアノ書法のほうが格段に難しいのですが、後期の作品は決して「シンプルであるから簡単」ではありません。シンプルであるとというのは思う以上に複雑なプロセスを経たものなのです。

2004/9/2

 演奏会のお知らせ。

 11月23日午後5時より神戸元町「喫茶アマデウス」にて演奏会を行います。曲目は以下のとおり。

 ベートーヴェン ソナタOp.31−2「テンペスト」
 ショパン 幻想ポロネーズ Op.61
       マズルカ Op.24−4 Op.59−3
       バラード4番 Op.52

の予定です。


以前の更新記録と日記

更新記録と日記 2004年上半期

更新記録と日記 2003年下半期

更新記録と日記 2003年上半期

更新記録と日記 2002年12月

Home