更新記録と日記
2003年上半期

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2003/8/10

実に約2ヶ月ぶりの更新。にもかかわらずいつ間にかカウンターが5万を超えてます。という訳でこちらをご覧下さい。わが国が世界に誇るべきピアニストの音楽史に残る偉業です。 気がつくと一つ年をとっていました。仕事が山積みで何から手をつけていいのか‥。

2003/6/17

テレビで「ミニミニ大作戦」のCMが。リバイバル上映か?と思ったらリメイクのようです。私にとってはクインシー・ジョーンズの音楽とマイケル・ケインの軽妙なピーター・コリンソンによる69年製作の「ミニミニ大作戦」だったわけなんですが、この映画もふざけたのりで私の大好きな映画です。イタリアの(確かトリノのはずだったと思いますがリメイク版のHPではヴェニス)古都を所狭しと走るミニクーパー、最後の「いい考えがある」に至るまで私好みの作品です。この作品を見てマイケル・ケインのファンになりました(大作だけでなく「マペットのクリスマスキャロル」に出演しているあたりがいかにも彼らしい)。私は結構イギリスの映画やTVドラマが好きなんです(御多分に漏れずモンティ・パイソンファンです)。71年に製作された「ボーイフレンド」も一時はまりました。なんせ監督がケン・ラッセル、普通の作品な訳がないです。マーラー、チャイコフスキー、リスト(ピアノ好きは必見「リストマニア」)を映画化してますが、勿論伝記映画なんてものじゃありません。「マーラー」の中でもリストの娘コジマとのおかしなミュージカルシーンは爆笑もの。「白蛇伝説」にいたってはホラーなのかコメディなのかどこまで本気かわからない怪作でした。たぶん「ミニミニ大作戦」リメイク版は見に行かないと思いますが(^^;

2003/6/10

 

アマデウスでの演奏会、何とか終了しました。今回は初めてリサイタルという形で行い大勢の方に聴いていただき感謝しております。足を運んでくださった方に心からお礼申し上げます。
 なおアンコールはマルチェロ「アダージョ」(バッハ編)とプーランク「エディット・ピアフ頌」でした。 というところで随分気が抜けてしまっているのですが、少し反省を。リサイタルで必要なものは何か?ということで今回痛感したのが「体力」です。まず体力がなければだめですね。リストのソナタ、練習で何回も通して弾いているのは当然ですが、一回の演奏での燃焼度を考えれば、体力勝負になります。しかも、今回は1曲だけではなく前半にやはり40分近く弾いているわけで、それらも決して力を抜いて弾いているわけではないわけですから。とはいえ、力配分は必要なわけで一から十まで力んでやってると最後まで持たないわけです。まぁ当たり前のことなんですが実際にやってみないとなかなかわからないものです。

2003/6/2

 

アマデウスのライヴまで一週間を切りました。恒例の演奏会直前、現実逃避ネタを(^^; 今から35年前澁澤龍彦が編集し、たった3号(4号まで出たが編者が違う)で消えた伝説の雑誌「血と薔薇」が復刻されました。1号冒頭から「男の死」と題され三島由紀夫が「聖セバスチャンの殉教」に扮しているという時点でこの雑誌のほぼ全てを語っているといっていいでしょう(ちなみに三島は「仮面の告白」以来の本懐を遂げたのか翌年割腹自殺)。今見ると写真なんかは少々古さを感じさせますが、澁澤龍彦をはじめ三島由紀夫、稲垣足穂、埴谷雄高、松山俊太郎、吉行淳之介、種村李広、高橋睦郎、生田耕作、塚本邦夫、横尾忠則等々その筋のまさに「超」豪華な執筆者陣に戦慄が走ります。おそらく発売当時も澁澤龍彦のファン以外にはほとんど売れなかったのではないかと想像できますが、今回の復刻もどうでしょうか? 阪神百貨店で行われている「世界の書籍展」に行ってきました。私は昔古書収集に興味があったので実に興味深いものでした。中でもギュスターブ・ドレ(最近の横尾忠則がコラージュによく使っておなじみ)の版画によるダンテ「神曲」の原本が見れたのが収穫でした。ドレは聖書にも多くの版画を残しておりその美しい図版は復刻によってみる事ができます。ちなみに復刻はおなじみのDover
 この展覧会無料とはいえ平日の昼間に凄い人でそんなに多くない展示物を見るのに時間がかかりました。何でかなぁと思っていると最後に池田大作氏の自筆原稿の展示が。なるほど。

 

2003/5/16

ひそかに更新。

喫茶アマデウスにてピアノリサイタルを行うことになりました。リストの大曲「ソナタ」を演奏します。

さて表題のカプスチンの「24の前奏曲」。CDも発売されているのにまだ買ってなかったの、と怒られそうですがCDでは原盤LPをゲット。CDがでる前に探していたLPが今頃到着したわけです。ジャケットのカプスチンが少し若いですね。

2003/3/18

 一柳慧氏のピアノ曲による演奏会へ。高橋アキさんによる「ピアノ・メディア」「タイム・シークエンス」を聴く。

 このHPもなんとなく更新してきましたが、ここらで少し休みたいと思います。気が向いたら更新しますので、それでは。

2003/3/13

 日本人でおそらく初めて(?)メシアンの「みどりごイエス」全曲演奏をされた西村さんのHP「オリヴィエ・メシアンに注ぐまなざし」を追加。

2003/3/8

 最近きいたCDから。

 グレン・グールドが製作したラジオドキュメンタリー「孤独三部作」を収録した3枚組み。「北の理念」「遅れてきた者たち」「大地の静かな人々」の三作が収録されています。「対位法的」に作られたこのドキュメンタリーはインタビューが重なり、ぶつかり合う異様なもので、彼の北への−孤独への−志向が伺えます。

 ポンティ未編集ライヴ。恐るべき打鍵力の白熱ライブです。ピアノが傷むのではないかというほどの打鍵力で圧倒されます。スクリアビンのソナタ5番の冒頭では音がつぶれてほとんどクラスター化してますし、ペトリューシュカではまさに「自分の一歩前を走っている」様な演奏。ポンティは最近脳梗塞かで倒れられたということですが、この演奏スタイルならそうなることも予測できたか?

2003/3/4

 土、日と東京へ。とはいうものの音楽関係はほとんど行けず何とか数件レコード屋を回ったのみ。東京の友人にも連絡する暇がなく帰ってきました(^^;

 とはいうもののプレシャコフのデュカ2枚、ジャッドのリスト作品集、Schmalfussのシマノフスキのソナタ1番、2番などをゲット。プレシャコフのデュカはちょっと聴いた限りなかなかいい演奏のようです。デュカの大曲ソナタ、ラモー変奏曲、ショーソン、ダンディのソナタが入っています。吉祥寺の某レコード屋で旧ソ連メロディア盤を一枚購入。A面バッハの「ブランデンブルグ協奏曲6番」はともかくB面が芥川也寸志の作品。邦人作品もメロディアで録音されたのかと少し驚きました。

 先週近所のホールでオール クセナキスというなんとも凄い演奏会があり何とか時間を作って行ってきました。聴けたのは3部構成のうちの2部だけだったのですがいった甲斐がありました。高橋アキさんの「ミスツ」もやや危ない箇所があったものの、それ以上に本当に曲を理解し、曲への愛を感じる演奏に感動しました。終演後楽屋へたずねると、高橋アキさんとオタッキーさんの爆笑トークが…(^^;

 最近クロード・エルフェ、ロジャー・ウッドワードファンの方からメールを頂いたのですが、こういった日本では少数派のファンの方と知り合いになれるのは細々とでもHPを続けていく活力になります。エルフェは最近は心臓病などですっかり演奏の質が落ちたといわれていますが、そのことによって彼の過去の演奏が否定される理由はどこにもありません。かつてLPに録音したブーレーズやジョラス、バラッケといった同時代の音楽からベートーヴェン、ドビュッシー、ラヴェル、アルベニス(「イベリア」全曲)といったクラシカルな作品に見せた切れと洞察力を改めて再評価したいです。

2003/2/18

 親知らずを抜きました。谷崎の「白日夢」ではありませんが長時間他人に口の中を触られるのはなんとも不安です。鉗子でやっと親知らずが抜けた時はほっとしました。しかし、私の親知らず横向きにはえて来て、奥歯を圧迫し顎関節までおこしたのですが、症状が改善されればいいのですが。

 今日は憂鬱な半日でしたが土曜、日曜はオタッキーさん、西村さんを囲んでピアノ三昧な時間をすごしました。西村さんはメシアンの「みどりごイエス」の全曲演奏を果たされた方です。メシアンの演奏について面白い話がいろいろ出ました。

 私は演奏会ではアンコール曲を本編そっちのけで結構弾きたがる方なんですが、プロのピアニストはアンコールをどのように考えているのか興味があります。私の場合10曲ぐらい用意しておいてその時の雰囲気で4、5曲弾きます。有名、無名曲色々ですが「面白い」「短い」という事が選択の基準です。以前あるピアニストにアンコールについて聴いたとき、アンコール曲は特別用意していないといってましたが、その人でもその日のアンコールは7曲も弾いていました。ゼルキン(親父の方)の伝説のようにアンコールで「ゴールドベルグ」を弾くのはいかがなものかと思いますが、本プロが主張を持った一つの世界であるならば、アンコールもそれと同様、以上に重要なものであると私は思っています。

2003/2/11

 ピアノを教える仕事をしていて時折疑問に思う事があります。ピアノがうまくなるとはいったいどういうことなのであるか、言い換えれば演奏とは何かということです。ピアノの技術論は複雑なようで実のところ単純なところがあり、複数の対立を「枠組み化」することによって技術的な問題は随分クリアする事ができます(勿論それなりの練習を必要としますが)。それはそれとして、例えばある作品において「弾けるようになる」「作品を理解する」ということは根本的にどういうことなのかという問題です。

 私たちは常識的になんとなく事象(音楽でもものでも世界でも)を定義しある観念で捉えていますが、こういったものの見方は現在では記号論や構造主義によってすでに解体されています。全ては関係の中にありそれ自体では存在し得ないということは、音楽をやっていると自然に入って行くところがあります。例えばひとつの音はその単音では存在の意味を持たず調性、形式の中で関係づけられることによってその「意味」が生成されるわけです。つまり、作品も様々な作品、様式、演奏によって意味を生じているのです。しかし、「科学的」といわれた構造主義もその分析の突き詰めた先には「それだからどうした」といったところがあり、和声や対位法、音楽の理論などによって分析されつくされた作品から「何がわかったか」ということはそれほど単純なことではないようです。
  中島敦の「文字禍」に次のような箇所があります。

 おかしな事が起こった。ひとつの文字を長く見詰めている中に、何時しか其の文字が解体して、意味のない一つ一つの線の交錯としか見えなくなってくる。単なる線の集まりが、何故、そういう音とそういう意味を有つ事ができるのか、どうしても解らなくなって来る。

 ある瞬間、1オクターブを12に分割した音の集合体が調性というシステムの中で構成されるのを「意味のない一つ一つの線の交錯」と感じることは音楽をやっている人には経験があるのではないでしょうか。そんな時、訳のわからなかった現代作品が恐ろしく明快になったり、モーツァルトが非常に不自然に感じられたりした経験が多かれ少なかれあると思います。ロラン・バルトの「テクストの快楽」という本は私の好きな本なのですが、(バルトをあまりに明快にこうだと言い切ることは価値がないことですが)要は作品(テクスト)は様々な読まれ方の可能性をもち、読者(視聴者)の参加が必要云々、といったような事が示唆されているのは、ある種、私にとって救いのようなものです。

 最近サルトルがまた流行っているそうですが、サルトルやメルロ=ポンティの実存主義は構造主義によって厳しく批判されましたが、一方で非常に私たちの感覚にリアルに感じられるのも事実です。特に最近メルロ=ポンティの精神と身体についての考え方に興味があります。「意識とは原初的に<われ惟う>ではなくて<われ能う>である」(「知覚の現象学」)

 まぁ、結局のところ取り留めのない考えで、「だからどうした」といったところなのですが。

2003/2/7

 アメリカの作曲家ルー・ハリソンが85才で亡くなられたそうです。ケージとともにアメリカ実験音楽を代表する人でしたが、氏の作品はケージのものよりも更に東洋的なものがあり我々日本人にも受け入れやすい面があります。ご冥福をお祈りします。

 夭逝した作家中島敦の作品をまとめ読み。残された作品はちくま文庫全集3巻に収められたものの他若干の翻訳があるのみとわずかながら、いい作品が多いです。中島敦というと中国の故事に材を得た作品を思い浮かべますが、それは学校教育のせいでしょうか(芥川の王朝ものもそんな感じか)。南洋もの、エッセイ的小説など少ない作品の内容はどれも多様です。現象学ばりの「カメレオン日記」、南洋からの子等に宛てた書簡など今回初めて読んだものもなかなか面白かったです。

 私は気になった作家や作曲家、演奏家などは基本的に気になったときにまとめて読んだり見たり聴いたりします。作家であれば全集を買うとか、作曲家であれば手に入る限りの楽譜を見るとか作品を聴くとか、演奏家であれば聴ける限りの録音を聴くといった具合です。勿論経済的に問題がありそう出来ないこともありますが、可能な限りそうしています。そうしなければ私の貧弱な想像力では2,3の作品に当たっただけでは全体像がつかめないからです。逆にピアノで弾こうとしている作品に関しても同曲の録音、演奏を出来うる限り聴くようにします。他人の演奏を真似するわけではありませんが、様々な人の解釈、演奏を聴くことによって方向が見えてくる事が多いように思います。結果として良いか悪いかはわかりませんが。

2003/1/31

 少々古い話で恐縮ですが遅ればせながら西村朗の大曲「ヴィシュヌの化身」の楽譜を入手。ヒンドゥーの神ヴシュヌの化身Avataraに基づく全6曲、80分を要する大曲です。献呈、初演は高橋アキさんによって行われています。ピアノの扱いは初期の「トリトローペ」や「法悦の鐘」を思わせるところがあります。ゴンゴン最低音部で鳴らされるリズムはなかなか気持ちいいです。

 先ごろBSで放送されたポリーニの演奏を身を入れてみました。正直言ってあまり感心できませんでした。私は割りにポリーニは好きなピアニストなのですが、この演奏はなにやらポリーニの老いと疲れが感じられ少なくともポリーニの魅力を満喫できる内容ではなかったと思います。肉体と精神が噛み合わず空回りをしているような印象を受けました。特にショパンの「前奏曲集」では顕著に感じられました。技術的な衰えはともかく音楽が生き生きとこちらに伝わってこないのです。結構この演奏を褒めている人が多いのでビックリなのですが、良さを聴き分けられないのは私の耳が悪いのかもしれません。ポリーニと親友でもあった夭逝したディノ・チアーニもドビュッシーの「前奏曲集」を録音していますが彼がもし生きていたならばどのような演奏をしたのだろうかと考えてみたりしました。

 近く大阪で中古レコード市があるらしいのですが、行くと散財してしまいそうで…。

2003/1/27

 久しぶりに音楽の話。

 皆さんはレオ・オルンスタインという作曲家をご存知でしょうか。一部の支持者をのぞいてほとんど知るところの少なかった作曲家ですが自身優れたピアニストであったため素晴らしいピアノ作品が多数残されています。1982年生まれ、2002年に死去というおそるべき長命な作曲家ですが、晩年の作風も力尽きることなく、若々しい作品となっているのも凄いです。
 彼の作品を弾いてみると不協和音の連続や、クラスターによる激しい表現などが目に付きますが(初期の「飛行機上での自殺」等)、調性によるきわめて美しい作品も多数あります。例えば、17曲に達するワルツ、16曲の「Metaphor」、技巧的なタランテラ、ソナタなどは大変弾き応えのする作品です。またピアノ五重奏を始めヴァイオリンソナタ、2曲のチェロソナタ、サックスとピアノのための「バラード」等の室内楽も(ピアノで音をひろう限り)聴き栄えのする作品が多いようです。
 ただ、やはり彼の作品はカプスチンと同じく作品の難しさゆえになかなか一般的なレパートリーに入りにくいようです。私も「タランテラ」「ソナタ4番」などは演奏会で取り上げる事ができればと思いますが、作品の難しさがネックで準備に相当時間がかかるように思います。(ヴァイオリンソナタの伴奏部の難しさは仰天ものかも)。しかし比較的弾きやすいワルツや小品もあります。

 譜例はソナタ4番2楽章の冒頭部分。本当に美しい!!

2003/1/20

 アマデウスのライヴが終了しました。アンコールはバッハ/ワイルド「プーランク頌」、カバレフスキー「24の前奏曲」から2番でした。

 今日はピアノを離れ大阪を友人と大阪で回転寿司を食べました。脈絡なく流れてくる寿司を客が選択して食べる(注文するのではない!)この極めて不思議な形態をロラン・バルトが見たらなんと書いただろうかなどと、くだらないことを考えながら食べてました。

 先日FMでマルク・アンドレ・アムランのリサイタルを放送していました。私はFMが割りに好きで、19時の「ベスト・オブ・クラシック」や白石美冬さんの「現代の音楽」なんかはよく聴きます。映像メディアが主流の現在耳からだけの情報は時代遅れなものなのかも知れません。しかし、海外のライヴ演奏や国内外のリサイタル等FMでは貴重な演奏が放送されています。これを見過ごすのはもったいないというものではないでしょうか。

2003/1/17

 アマデウスのライヴまで後1日。今回はベートーヴェン、ドビュッシー、カプスチンと時代も表現もまったく違う作品ですのでその弾き分けをはっきりしないといけません。

 年末の大掃除で買ったきり読んでなかった本を数冊読破。中でも竹田青嗣氏の「現代思想の冒険」はわかりやすく現代思想の問題点を抉り出し面白く読めました。詳しいことは読んでいただければ解るのですが、「いかに難しい理論、哲学でも本来根本的な根は単純な問題に帰結する」とする著者による解説は非常に好感が持てます。「どれほど思想についての広く深い知識をもっていようと、そのことは、自分で自分なりに考えてみることとはほとんど関係がない、ということ。なるほどひとはその分野でその知識をいくらでも深めてゆけるが、それはたいてい、一定のものの見方のパターンに従って掘っているだけにすぎない場合がほとんどなのだ。」
 私たちは社会生活だけでなくあらゆるものを自分なりの尺度で測っていると信じ込んでいますがたいていの場合その「ものの見方」は現在の社会、教育によって形成されたものであるといえます。普段まったくそういうことに無反省に暮らしているわけですが、何かしら表現を志すものにとっては重要な問題であるかと思います。グールドが繰り返し書いた「演奏には何か新しい事が起こらなければならない」というのもそういうことのひとつでしょう。「こうでならなければならない」という考えは精神の硬直状態に他なりません。しかし一方で、ものには「それらしさ」というものがあるのも事実です。ベートーヴェン、ドビュッシーとは明らかに違うものであるということは明白であり、また「それらしい」演奏があるわけです。まさか「真理」などという言葉を持ち出すわけではありませんが、少なくとも複数の人間が「らしい」と認識する共通項が存在するらしいです。それが何かというのは答えられないですしまた、愚問であるかもしれませんがそういった問題を含めて考えることは無駄ではないと思います。

 ところで随分昔フランスの批評家ロラン・バルトにかぶれて彼の著作、解説本をよんだのですが(勿論すらすら読めるほどの知性を持ち合わせていないのですが)、私にとって一貫して彼の魅力は文章にありその「ものの見方」にあるといえます。澁澤龍彦氏が「ロラン・バルトの構造主義などは興味がないが彼の取るに足りないことをことさら重大事のことのように取り上げる視点が好きだ」というのは極端にしてもそのセンスのよさは誰もが認めるところでしょう(ちなみに澁澤龍彦が指摘したのはサドが獄中でサングラスを所望したというエピソード)。バルトの日本論「象徴の帝国」や読み方のススメ(?)「テクストの快楽」、断片形式による「バルト自身によるバルト」などは読み物のとしても最高に面白い作品であるのではないかと思っています。ちなみにゲイだった彼は交通事故で不慮の死を遂げましたがそれもいかにも彼らしいような気がします。

 寺山修二は思想や文学もはやりすたりがあり流行の思想をポケットにいれ古くなれば捨てればいい、と書きましたが私の斜め読みの思想も薄口の水割りみたいなものですな(^^ゞ

2003/1/9

 来る1月18日(土)17:00より喫茶アマデウスにてライヴを行います。演奏曲はベートーヴェン「ピアノソナタ第23番ヘ短調『熱情』Op.57」、ドビュッシー「喜びの島」、カプスチン「変奏曲」です。

 なかなか練習や仕事が忙しくてHPの更新もままなりません。等と言いながら最近すっかりチェスの魅力に取り付かれています。不世出のチェスプレーヤー、ボビー・フィッシャーの「チェス入門」を片手に毎晩1時間はチェス盤をにらんでいます。とても趣味といえるほどのものではありませんがいずれその魅力についても書いてみたいと思います。

2003/1/6

 少々遅いですが明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。

 ロンドンのヴィグモアホール(ピアノ好きにはおなじみの会場ですね)のサイトがなかなか面白いです。岡田博美さんや小川典子さんの名前も見えます。ホール内を見ることもできます。一度は行ってみたいホールです。


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