父の気がかり

フランツ・カフカ著
池内紀訳

 

 フランツ・カフカ、この作家は私の母が好きだったため家の本箱に無造作に並んでおり、幸か不幸か中学の時にそのほとんどの主書は読んでしまった。「変身」を読み混乱し、「城」「審判」で(文字通り)廻り回って苦労して、そして岩波文庫から当時出たばかりの池内紀氏の訳による「カフカ短編集」を読んだ。これとほぼ同じ頃、福武書店(現・ベネッセコーポレーション)から長谷川四郎訳の「カフカ短編集」の文庫版も出て早速買って、私の中学時代はカフカ一色といっていい感じだった。
 実のところ私は当時からカフカの魅力そのものはそんなに変化していない。カフカの小説はまず面白いのである。存在の不条理であるとか、ドゥルーズ=ガタリの「アンチ・オイディプス」などの分析以前に「とびきりたのしい『おなはし』」であり「大人のためのメルヘンであり、その種のおなはしがいつもそうであるように、少なからず風変わりで、残酷で、謎にみちている」(岩波版、池内紀氏の解説)それがカフカが私を魅了する理由である。中学の頃の私はその「大人のメルヘン」を読む倒錯に酔い、それは今の私もそんなに変わっていないのだ。

 カフカの小説にはいつも不思議な感覚が付きまとう。「アンチ・オイディプス」風にいえばザワザワ、ガサガサしたカンジである。例えばこんなシーン。

 「お父さん、お母さん、ぼくはいつもあなた方を愛していました」
 そして手を放した。
 この瞬間、橋の上にとめどない無限の雑踏がはじまった。(「判決」)

 そっと打ち明けている具合であって、実際そのつもりらしく、つづいて私の顔をのぞきこみ、こちらの反応をたしかめようとする。よろこばしてやりたいものだから、私がわかった、わかったというふうにうなずくと−すると床にとび下りて、小おどりしはじめるのだ。(「雑種」)

 感覚的にまさにグレゴール・ザムザ「虫」がガサガサするカンジである。大体、カフカの作中人物は大変な状況にあっても動じず、むしろ普段の生活をおくれない事を心配し、朝、寝過ごして遅刻することを焦る我々よりも落ち着いているのである。「変身」のザムザは虫になったことなど微塵も驚かず家計を支える己を憂いている。例えば「虫」になる事が病気(肺結核)になることのメタファーである、といった解釈、それはそれで一つの読み方であるかもしれない。しかし、カフカの作品に一貫している悲壮感のなさ、これはカフカのカフカたらしめているところであろう。カフカの作中人物はソワソワしていても決して悲壮感にくれることはないのである。その典型的な例はグレゴール・ザムザ「虫」である。

 本作「父の気がかり」では「オドラデク」という奇妙な生物が現れる。この名前、その存在自体がザワザワしたカンジである。

 「一説によるとオドラデクはスラヴ語だそうだ。言葉のかたちが証拠だという。別の説によるとドイツ語から派生したものであって、スラヴ語の影響を受けただけだという。どちらの説も頼りなさそうなのは、どちらが正しいというのでもないからだろう。だいいち、どちらの説に従っても意味がさっぱりわからない。(略)

 オドラデクときたら、おそろしくちょこまかして、どうにもならない。(略)

 オドラデクは笑う。肺のない人のような声で笑う。枯葉がかさこそ鳴るような笑い声だ。」(「父の気がかり」)

 この僅か3ページの小品にあらわれるオドラデクいう生物、最後まで何なのかわからない。「糸巻きのよう」であるらしい。しかし、その存在感は十分過ぎるほどである。ひるがえって「私」という存在をこれほど現実的(レアール)に表現できるだろうか?

 「自分が死んだあともあいつが生きているかと思うと、胸をしめつけられるここちがする。」(「父の気がかり」)

 カフカの作品には動物、奇妙な動物があらわれる。しかしその存在感は絶大である。人間のありよう、などという分析はあえて書かずともよかろう。カフカは「大人のためのメルヘン」である、これがカフカの作品を深いものとしている最大の理由なのではあるまいか?

 本稿の引用はすべて岩波文庫版「カフカ短編集」(池内紀訳)からとらせて頂いている。

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