更新記録と日記
2004年上半期

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2004/8/29

 音源がいっぱい増加。面白そうなものを少し紹介。

 スルタノフのホロヴィッツものを中心としたCD。プライヴェートの音源だそうです。病気のため演奏活動を中断しているスルタノフ、このCDの売り上げはスルタノフに寄付されるそうです。彼の復活を願ってやみません。久しぶりにMKからペトロフの「パガニーニによる曲集」が。ショパン「パガニーニの思い出」シューマン「パガニーニ練習曲」リスト「パガニーニによる超絶技巧練習曲(初版)」とペトロフならではの曲目。CD盤面がペトロフのピクチャーCDになっていて吃驚。エリック・ハイドシェックのミシェル・ミルレの「24の前奏曲」、ハイドシェックに献呈された現代作品です。今注目のアンデルジェフスキの「ショパン作品集」など。

 中古レコード屋でメトネルのソナタ回想とピアノ五重奏のLPを購入。ピアノはヴィクトリア・ポスニコワ。ピアノ五重奏は傑作です。シチェルバコフ盤ではじめて聴いて以来大好きな室内楽の一曲です。終楽章は盛り上がります。
 さらに行くと散財するのは判っているのですがレコードセールの情報を聞きつけて覗きに行ってやっぱり散財。グラムフォンの「アヴァンギャルド2」(シュトックハウゼンの傑作「テレムジーク」を含む)、ロジャー・ウッドワードのバラケ「ソナタ」を含む現代作品集。ニコエイエワの「チャイコフスキー小品集」、「ノルウェー現代ピアノ曲集」(BibaloとMortensenという人のソナタが収録されています。レーベルは意外フィリップス)、ブレンデルのVOXにおけるリスト作品集(3LPで700円!「呪い」が収録されています)等など。
 グラムフォンの「アヴァンギャルド」は残念ながら外盤です。邦盤だと結構分厚いブックレットが着いていたのですが。「テレムジーク」は単品でLPを持っていたのですがつい買ってしまいました。尚「テレムジーク」は現在CD「音の始源を求めて:塩谷宏の仕事」(廃盤?)に収録されています。

2004/8/27

 先日届いたオグドンのドキュメンタリーDVD、これは凄い。久しぶりに興奮しました。オグドンの残された録音は不調ななものも多くEMIに於けるラフマニノフなどはファンでもかなりつらいものがあるのですが、このDVDに収録された演奏を見ると我々の想像を超えたまさに「怪物」というに相応しいピアニストであったが事がわかります。ラフマニノフくらいは所見で弾きこなせるほどのテクニックと知性を持ち合わせたピアニストだったのでしょう。彼が精神を患い演奏活動が制限され、悪いイメージがついてしまったのは残念であるとしか思えません。分厚い音、的確な作品把握、どこをとっても鬼才の名に恥じない天才ピアニストだったことは想像に難くありません。DVD中ソラブジの作品を演奏解説するシーンでも恐るべき演奏を披露しています。あの巨大(というか誇大妄想症的)作品「オーパス・クラヴィチェンバリスティクム」を完全に自分のものにしてしまっています。
 補足。チャイコフスキーコンクールに於いて同時1位であったオグドンとアシュケナージ。方や世界のオーソドックス、オグドンはソラブジをはじめアングラへ、光と影の2人といったイメージが強いのですが、オグドンとアシュケナージは仲がよかったようです。オグドンのオリジナル曲「主題と変奏」はアシュケナージに捧げられており、2人の友情が続いていたようです。アシュケナージも実際よりも過小評価(これでも!)されているピアニストであると思います。棒ばかり振らずにもっとピアノ練習してね(^^;

 以前に買ったきりになっていたJames F. Cookeの「Great Pianists on Piano Playing」を読んでいます。私のインチキ英語ではさすがにすいすい読みきれず辞書を片手に読んでいますが実に面白い。前世紀の黄金時代を築いたピアニストの示唆にとんだ発言は参考になります。ゴドウスキーのテクニック、メカニックについての意見などは当たり前のことながら、実に的確です。ゴドウスキーの「ショパンによる練習曲」の編纂も決して技術誇示の作品ではなく「ピアニスト」のための作品である事がわかります。「頭を使え」といったのはマジック界の長老であったダイ・バーノンですが、ゴドウスキーも「テクニック」ついて「頭を使え」と書いています。

 先日CSで寺山修二の「草迷宮」のデジタルリマスター版が放送されました。かつてぼろぼろのフィルムで映画館で見たのですが、きれいな映像で見ても実に古臭い。反論異論を覚悟で書きますが、寺山修二の詩作、劇作家としての才能はともかく映像作家としての寺山修二は決してレヴェルの高いものではなかったと思います。残された長編短編、代表的なものは大体見ていますが、はっきり言って退屈です。アイデアはそれなりに面白いのですが長すぎるのです。前衛実験作は短いものが多い。マン・レイ、ルイス・ブニュエル挙げるまでもなくイメージの強烈な凝縮は時間が長ければ長いほど散漫になり退屈します。映画に限らず、表現にとって一番恐ろしいことは退屈です。
 映像作家としての寺山修二の本質を議論してもよいのではないかと思います。

2004/8/23

 承前、マジックとピアノについて。

 マジックの歴史を見てみるとその発展(特に20世紀以降)がアマチュアによって成されています。プロマジッシャンは自分で本など書きません。専ら技術、技法にこだわり、それを体系化しようとするのはアマチュアでした。奇術の古典といわれる解説書は2,3の例外を除いてほとんどがアマチュアかセミプロによって書かれたものです。カードマジックの古典「スライト・オブ・ハンド」の著者エドゥイン・サキやダイ・バーノンの手法を紹介したルイス・ギャンソンなどがアマチュアマジッシャンの代表格であり、彼等によってプロの技法が解説されたのでした。ピアノの世界でもアマチュアによる作品発掘、演奏などは珍しいことではありません。またプロのピアニストがアマチュアに示唆を受けることも珍しいことではなくなりました。

 しかし、アマチュアとプロの発想には大きな違いがあります。アマチュアはえてして技法に心酔しがちです。優れたマジックの解説者である松田道弘氏はその著書の中で「アマチュアは自分のアイデアにいったん惚れこんでしまうと、手続きの煩雑さなどは気にかけません。(中略)サービス精神、トリック魂がアマチュアの真骨頂です」と指摘されています。簡単に言えば同じ効果を得る為に難しい技法を使うかより単純な技法を使うかというようにいえるかもしれません。プロマジッシャンは同じ効果なら間違いなく確実に出来る単純化された方法を選びます(それが「簡単」であるかどうかは別問題)。これは恐ろしい難曲を弾くよりも大衆はトルコ行進曲をさらりと弾いた方が喜ぶことをプロピアニストが本能的に嗅ぎ取っていることと共通するところです。以前知り合いのピアニストとお話をしていて「ゴドウスキー等の作品が忘れられたのにはやはりそれなりの理由がある」という事を言われて非常にショックを受けた事があります(私は根っからのゴドウスキー好きです)。しかし、反面それは事実であるといえます。ゴドウスキーはピアニストとしてはプロでしたが作品の発想自体はアマチュアのそれです。勿論ゴドウスキーの魅力はその馥郁たる和声や音のアラベスクにあるのですが、根本的な発想はやはりアマチュア精神に貫かれています。

 プロとアマチュアが相容れないかというとそうではありません。松田氏はこうも書いています。「主義に殉ずるという言葉がありますが、アマチュアのマニアの場合は。趣味(趣向)に殉ずるという潔癖さがあります。このひたむきな純粋性と実験精神が、カード奇術を成長し進歩させてきたこともまちがいないのです」。ピアノの世界でもこのことは変わりないでしょう。私自身、アマチュアのマニアの方からどれほどの影響を受けたか知れません。故武満徹氏は「精神の柔軟さ」を音楽に最も必要なものであるといっていました。このプロとアマチュアの幸福な相互関係が音楽にも必要であることはいうまでもありません。

 イギリスからオグドンのドキュメンタリーDVDが到着。オグドンによるソラブジの「オーパス」の解説演奏が見れます。英語力の弱い私にはすいすい見れる訳ではありませんが強烈な映像です。

2004/8/22

 私の趣味の一つにマジックの研究があります。マジックつまり奇術、手品です。マジックといっても大掛かりなイリュージョンから目の前で行われるテーブルマジック(クロースアップマジック)までたくさんあるのですが、私が研究しているのはほとんどがカードマジック(トランプの手品)です。何故「研究」などという言葉を使うのかというとマジックのタネ、原理を理解してもあまりに高度の技術を用いるものが多いので、私には実演不可能のマジックの方が多いからです。えてして素晴らしい効果を持つマジックは高度のテクニックを要します。つまり下手なので人前でやる気が起こらないのです(^^;

 さて、なんで急にマジックの話を持ち出したかというとマジックとピアノは非常によく似ているからです。指先を使うというようなところではなく、根源的な問題が共通しているようです。
 マジックをしない人には手品はタネがわかれば出来るものだと思いがちです。もし非常に高度の技術を要するのであれば練習によって克服すればそのマジックを「実演」できると思います。しかし、実際にマジックをやってみるとそうでない事が判ります。タネも技術もクリアしても「演者にあった演出」が加わらなければ全然エンターテイメントにならないのです。「技術」だけではマジックにならないのです。これはピアノを弾かない人が「楽譜が読めて指が動くのに弾けない曲がどうしてあるのか?」という疑問と同義のもでしょう。
 私が思うピアノ(音楽)とマジックの共通項は次のようなものです。

1 最初に基本的な技術が必要。マジックではカードやコインの扱い。ピアノではスケールやアルペジオ、跳躍等の基本的な技術。

2 基本となる演出がある。マジックではタネの扱い方、見せ方。ピアノでは楽譜、楽譜に記された記号。

3 技術と演出をあわせ、自分自身のものにする。

 実際ピアノを弾いていて上記の2までで止まっていることを実感する瞬間があります。つまり間違いもなく楽譜どおりに弾いているのですが、自分にあった演出、言い換えれば「聴かせ方」まで行っていない状態です。現代思想のキィワード「ディスクール」ではありませんがまさに「どのように語られたか(演奏されたか)」という問題です。マジックにおいても基本的な原理と演出は整っていても「演者による演じられ方」(どうも言い回しが思想書のような不自然さになるのはご容赦を)によって全然違うものになります。実際Mr.マリックの演じているマジックのいくつかは私も出来ます。しかし私のマジックはあんまり見ても感心されないと思います。マリックのマジックの素晴らしさは超能力風の独自の演出と硬く結びついているがために得られるものなのです。プロのマジッシャンがレパートリーとしているものは勿論高度の技術を用いるものなのですが、それはマジックの数多い技法の中で「最高難度」のものではありません。あくまで出来る技術ではなく「使える技術」が必要なのです。また、プロマジッシャンの行っているものは初心者が行うような簡単なタネのものも多くあります。しかし、一流のマジッシャンの手にかかるとタネを知っていても引っかかってしまいます。プロのピアニストは簡単な作品でも人を感動させる事ができます。これは上記3の段階に至ってこそ成し得ることです。

 まぁマジックは趣味で「研究」しているものなのでそれで十分なのですがピアノはそうはいってられません。
 「どのように弾いたか」という問題はおそらく巨匠から私のような若輩者まで共通の問題でしょう。この難題を解く鍵は結局上記の1と2を徹底的に掘り下げることによって克服していくものなのでしょう。

 ところで、マジックとピアノの共通項がもう一つあります。それは、アマチュアのマニアによって作品が発展、発掘されていったところです。この話はまた後日。

2004/8/17

 大阪の某CD屋(一応新譜屋)でBISレーベルの980円叩き売りを見かけ以前から気になっていたチェレプニンの交響曲及びピアノ協奏曲のCDを3枚購入。チェレプニンは日本にもゆかりのある作曲家で故松平頼則氏などに多大な影響を与えています。作風は徹底したモダニズムに貫かれ洗練された書法が魅力です。中国、日本に題材をとった曲もあり親しみやすい反面、そのあまりに徹底した洗練さが土俗的なリズムさえも整理されきった印象を与えるかもしれません。私はこういうアイデアとテクニックに長けた作品は嫌いではないのです。交響曲1番の2楽章でのパーカッションによる楽章など聴き所は多いです。ピアノ協奏曲のソリストは小川典子さん。彼女の透明で硬質な音もよく曲にあっていると思います。

 ところで、大阪フィルハーモニー交響楽団来年の1月リーバーマンの「ジャズバンドとオーケストラのための協奏曲」が演奏されます。日本初演?

2004/8/11

 先日大阪の中古レコード屋でアルブライトの「スウィート・シックスティズ」を見つけたので購入。ボルコムとの合作「Brass Knuckles」等も収録されています。アルブライトは自作曲も少なくなく、「ラグソナタ」などが有名でしょうか。

 ところで関西在住の青井彰氏がこの秋カプスチン「古典組曲」「24の前奏曲」ベートーヴェン「ディアベリ変奏曲」という前人未到ともいえる演奏会をされます。カプスチンの前奏曲全曲演奏はおそらく本人以外の演奏では世界初ではないでしょうか。私も大阪公演(10/28於ザ・フェニックスホール)には馳せ参じたいと思っております。

2004/7/19

 しばらく音楽とは関係ない話が続いたので久しぶりに音楽の話を。

 私は普段聴く音楽はほとんどがピアノ曲です。趣味で聴くものもありますが必要に迫られて聴いているものが大半です。勿論いやいや聴いている訳ではありませんが純粋な楽しみとは少し違い、勉強のためといった色合いがどうしても濃くなってしまいます。ですから、ピアノ以外の作品室内楽やオーケストラ作品は聴くようにはしているものの少なくなってしまいます。中でも声楽、オペラといったジャンルは聴く事は聴くものの手薄なジャンルであります。その中にあって、唯一といっていい歌手がいます。それがキャッシー・バーベリアンです(クラシックに限らなければ元祖スィングルシンガーズのクリスチャンヌ・ルグランとかジュリー・アンドリュースもいるのですが)。キャッシー・バーベリアンについてはイタリアの作曲家ルチアーノ・ベリオの奥さんであったとだけ記しておきましょう。
 彼女の最も有名な作品はベリオのセクエンツァVでしょう。この作品はベリオ−バーベリアンという関係なしでは生み出されることのなかった作品です。人間の「声」のもつ魅力をここまで引き出したのはベリオの作曲技量だけではなくバーベリアンの存在なしでは考えられません。無意味な母音と子音の発声や撥音、喘ぎなどを駆使したこの傑作は近年カウンターテナーによって上演される機会が多いようですが元々は女声のためのものです。ダダイズムにおけるフーゴ・バルの「音響詩」、ラウール・ハウスマンの「視覚、音声詩」、更にはクルト・シュヴィタースの「原音声によるソナタ」など先駆的作品はあるものの(残念ながら私はこれらの録音を聴いた事がありません)ベリオのセクエンツァVではバーベリアンによってほとんどバーベリアンの作品となってしまったような感があります。特にヴェルゴ・レーベルの録音では舞台を移動する歌手の動きを録音によって編集しておりその録音自体が一つの「作品」であるようです。同じくベリオの「ヴェサージュ」をはじめて聴いたときの戦慄はセクエンツァVに匹敵します(くしくもそのLPの裏面は元祖スィングル・シンガーズ、ニューヨークフィルによる「シンフォニア」)。この作品はバーベリアンの声をサンプリングし加工して作られたまさにベーベリアン−ベリオという作品なのですが、あまりに「ポルノ的」という理由で放送初演を見送られた作品でもあります。演劇を学んだこともあるバーベリアンにとっては「声の表情」の使い分けなど当たり前のように出来たのでしょう。
 バーベリアンの恐るべき才能は現代音楽だけでなくバロック以前モンテヴェルディに始まり自作の最新作、更にはビートルズまでを含む広大なレパートリーを押さえているところでしょう。独ヴェルゴや伊アウラのCDではまさにごった煮状態でモンテヴェルディ、ドビュッシー、ケージ、ブゾッティ、ヴァイル、ビートルズ、自作と何でもござれといった状態です。しかしバーベリアンの嗜好と言うか傾向は人間の声の魅力を引き出せる作品のみに焦点が当たっているのは一目瞭然でしょう。逆に言えば彼女自身が自由に出来ない作品は避けられているのです。例えばモーツァルト。あの奇跡的なモーツアルトのアリアをバーベリアンが歌えばと思うのですが、作品の様式と彼女の声質からは相容れなかったのかもしれません。現代の作曲家ではメシアンが抜けています。大曲「ハラウィ」などメシアンには優れた声楽曲が多数残されていますが彼女のレパートリーには入っていないようです。
 しかし実際彼女のCD、LPは聴いていて本当に楽しい。ベリオの「キャッシー・リサイタル」にしても「ヴェサージュ」にしても現代音楽が如何に演奏者と結びついたものかということを思い知らされます。これは決して現代作品に限ったことではなくかつてはモーツアルト、ベートーヴェン、ショパン、リスト等は自分のために曲を書いていた訳ですから別に新しいことではないのですが、高橋アキさんの弾くクセナキス、ケージやシュトックハウゼンを弾くチュードアなどを聴くと作曲とはある特定の演奏者を想定していたと思わざるを得ません。我々演奏者は「如何に演奏するか」という点から始まります、作曲家は「誰に演奏されるか」という点から出発するのかもしれません。その時代のヴィルトーゾと知遇を得た(またはその演奏能力を持った)作曲家はその演奏家のために素晴らしい作品を書き上げるのかもしれません。
 ところでバーベリアンの自作曲では「ストリプソディ」が一番のお勧めです。この作品はマンガの主人公たちの発する音声によって組み立てられた作品です。「ストリプソディ」とはストリップは駒割りマンガ、それにラプソディを加えた造語です。ここではスーパーマンやスヌーピー、ターザンの雄叫びが聞かれます。ロベルト・ツァマリンが製作した楽譜も素晴らしい。日本の音大の声楽科の卒業試験で「ストリプソディ」が歌われる日を願ってやみません。

 7月31日大阪野田阪神の遊音堂さんでバッハの「イタリア協奏曲」とカプスチン「ソナタ1番」4楽章を演奏します。お時間のある方は是非聴きにいらしてください。

2004/7/12

 昨日書いたミステリー云々で坂口安吾の名前を挙げたので、坂口安吾について少し。

 私が高校生の頃ちくま文庫から坂口安吾全集が刊行され始めました。坂口安吾といえば「白痴」ぐらいしか知らなかったのですが何故か本屋で配本1巻を買ってすっかり安吾ファンになってしまったのでした。坂口安吾というと戦後のドヤ街をランニング姿で一気に駆け抜けたようなイメージあるのですが初期にはコクトーの翻訳を手がけたりフランス文学との関わりがあったりと随分イメージが変わりました。初期の傑作「風博士」は坂口安吾のイメージとはかけ離れた作品で狂喜したものです。安吾の作品には「桜の森の満開の下」のような幻想譚にしても「金銭無常」「白痴」「ジロリの女」にしても根底に一種の「ファルス」(道化)があります。私は言葉が悪いのですが安吾のこの「アホくささ」が好きなのです。中絶した長編「火」においても、静かな炎のような「街はふるさと」にしてもこの「アホくささ」が作品をより深めているような気がします。「現代忍術譚」はインチキ会社がインチキ新興宗教に乗り込む話ですがほとんどノリは「吉本新喜劇」です。この作品の最後の一行「まずはメデタシ」は安吾の作品を集約したような一文です。「イノチガケ」「勝負師」のような論理的思考が優先したような作品でもこの感じは漂っています。一方で安吾という人は本当にやさしい人だったのではないかと思うような作品もあります。「アンゴウ」では戦災で死んだ子供たちの「アンゴウ」を読み解いた父親を描いてますが本当にやさしい小品です。
 坂口安吾は常に大衆を意識し、大衆の娯楽に奉仕することを考えた人だそうです。エンターテイメントであることと芸術的である事が相反することではないという確信があったのでしょう。中期以降に書き溜められたミステリー(中絶「復員殺人事件」を含む)もその延長線上にあるのでしょう。私は文学の研究をしたことなどありませんが、坂口安吾の作品は本当に「面白い」小説であると思います。

 大衆を意識する、ということは芸術家(というのが大げさならば「表現者」)にとって非常に重要なことなのではないかと思います。これはプロフェッショナルになればなるほど強く意識するのではないでしょうか。それは大衆に迎合することではないのです。ホロヴィッツがメトネルをあれだけ手放しに賞賛しておきながら結局大規模な作品はレパートリーに入れなかった(入っていたが放棄した)のはこのあたりの事情があったのかと思います。この周辺の話は別に書いてみたいと思います。

2004/7/11

 本の話を少々。

 趣味の部屋で中井英夫「虚無への供物」や小栗虫太郎「黒死館殺人事件」を取り上げたり、過去に紹介した本もウンベルト・エーコ「薔薇の名前」久生十蘭、橘外男等とくればすっかりミステリーファンだと思われがちなのですが、私はミステリーファンではありません。いわゆるミステリー、推理小説というジャンルの作品を私はあまり好きではないのです。理由は色々あるのですが、反対に私が好きなミステリーの基準をあげてみましょう。

・ 物語全般に一種のムードがある
・ 犯罪は突拍子もなく不可能犯罪
・ トリックのよしあしを問題としない
・ 論理的解決の後のパラドックス

といったところでしょうか。一つ目の基準が私の判断基準といってもいいのですが、これはその小説家の作家性に関わっています。代表格は江戸川乱歩です。乱歩という人は日本の推理小説の草分けのような存在でありながらいわゆる「本格推理」が極めて少ない。パッと思いつくだけでも「化人幻戯」「十字路」ぐらいでしょうか。私が好きな乱歩の作品は初期の幻想犯罪譚とでも言うようなもので「白昼夢」「押し絵と旅する男」「鏡地獄」といった作品です。本格推理では横溝正史の金田一ものの初期の作品が好きです。二つ目と三つ目は矛盾するようですが要は犯罪トリックに重きを置かないということです。小栗虫太郎「黒死館」「後光殺人事件」等はとんでもない奇怪な犯罪ですが読めば実行不可能、犯罪の空中楼閣といった作品です。四つ目はスリラー要素の加味でしょうか。横溝正史は全体を暗い日本の因習二纏わりついた奇怪な犯罪が起こりますが最後は金田一の合理的解釈によってそういった要素は全て犯罪のカモフラージュであった事が明かされます。これは推理小説であれば当然のことなのですが一つ目のムードが壊されてしまいます。パラドックスによる終結部で傑作だったのがディクスン・カー「火刑法廷」です。

 例外的に好きな作品も勿論あります。例えばチェスタートンの「ブラウン神父」シリーズ、エラリー・クイーンの「チャイナオレンジの秘密」等がそうです。しかしこれらの作品も手品趣味という点では二つ目と三つ目を満たしているような気がします。クイーン「九尾の猫」坂口安吾「不連続殺人事件」等も大好きな作品ですが、特に安吾はトリック云々よりも安吾にしか書き得ない戦後の慌ただしい人間像が最大の魅力であって一つ目の「ムード」が勝っています。

 昔のサザエさんに深夜フネさんが猿轡をされているマスオさんを見つけて仰天していると傍らで一心に本を読んでいるサザエさんが「犯人を知ってるっていうんですもの」なんてのがありましたが、もし私がサザエさんの立場ならマスオさんのことは気にしないでしょう。私の興味は犯人でもトリックでもなくその作品が面白い作品かどうかということなのです。
 優れたマジシャンは誰でも知っているようなタネで見事に見ているものを引っ掛けます。つまりマジックはタネが命ではないのです。ミステリーもトリックや犯人が全てではないのです。もしトリックや犯人を知ってしまってから呼んだのでは面白くないミステリーがあるのならそれはその作品に魅力がないのではないでしょうか。

 「世の中にはよい小説と悪い小説しかない」とは誰の言葉か思い出せませんが結局この一言に還元されてしまうのでしょう。
 お勧めのミステリーがあれば是非御教授ください。

2004/7/9

 更新だけは続いてます(^^;

 「美は反復を求める」と書いたのはラブレーですが、フランス人文主義とスティーブ・ライヒに代表されるミニマルミュージックを並べるのは少々乱暴でしょうか。ご存知のとおりミニマルミュージックはある一つの音形を繰り返し、変化していく作品を一般的にさします。絶え間なく続けられ徐々に変化していく音楽は我々の感覚を麻痺させ麻薬的な幻惑間を誘い出します。シュトックハウゼン門下の俊英によって結成された「クラフトワーク」あたりのテクノミュージックの前身も多分にミニマルなにおいがします。日本では鬼才巻上公一の「ヒカシュー」(傑作!!)がクラフトワークの「モデル」を録音しており、YMO、プラスチックスなどは周知のところであります。ミニマリストはどちらかというとクラシカルな感じよりもポピュラーに近いイメージがあります。それはまだ難解極まりない現代音楽シーンにおいて独特の「聴きやすさ」を持っていたためなのかもしれません。日本ではケージ門下の一柳慧氏が「ピアノ・メディア」という傑作を書いています。この作品はクラシックを聴かない人に(むしろ聴かない人の方から)「かっこいい」といわしめす快作です。全音ピアノピースに入っていますので興味のある方はトライしてみてください。ややヒーリング系では佐藤聡明、平石博一、藤枝守各氏がお勧めです。特に平石氏の作品はピアノを弾いていて極左的な幸福感に浸れます。ピアノ作品では「光る舗道」「風光るとき」などの作品があります。純粋にミニマルではないのかもしれませんがエミール・ナウモフの「袋小路」。この作品も弾きにくい作品ではありますが独特のノリがあります。ナウモフはLP時代からストラヴィンスキーの「火の鳥」や最近ではオケとピアノのための「展覧会の絵」などを発表し自作も多数あります。そのほとんどはショットから出版されています。
 ところで私はこれらのミニマルな作品を聴くと決まって一つのイメージがわきます。英国の鬼才ブリジット・ライリーの諸作品です(右図)。色彩的な作風に変わってからよりも「震え」「炎」等のモノクロームな作品に重なります。

 私はこれら20世紀の作品を聴いていると突然ベートーヴェンやバッハを聴きたい衝動に駆られます。これは20世紀の諸作品よりもバッハ。ベートーヴェンの方が優れているというような感じではないのですが、なにかバッハやベートーヴェンの作品に骨格が非常に単純であるのがクラシック作品を「知っている」ために喚起されるためなのかもしれません。昔バッハの平均率1巻2番の前奏曲をノンレガートで速く弾いていると友人に「マイケル・ナイマンの曲?」と聞かれて閉口した事がありますが、今から思えばそれはそれであながち見当はずれでないような気もします。スーカス・フォスは武満徹にストラヴィンスキーとライヒの違いについて両者の「愛の深さの違い」を指摘していました。そういえばヴェーベルンを「バッハ以前の音楽に対する愛情が深い」と指摘したのはグレン・グールドだったでしょうか?

 最近アンデルジェフスキのバッハ、ベートーヴェン等にはまっています。「ショスタコーヴィチのようなバッハ」などと言われる演奏ですが実に考え抜かれた知的な演奏。名前はよく聞いていたのですがこんなに面白い演奏をする人だとは思っていませんでした。

2004/7/7

 ピアノの演奏法について思うところを体系的でなくても書いておきたい、と思って書き始めた「ピアノ演奏方覚書」ですがあっという間に暗礁に乗り上げほったらかしになってしまいました。これは私の実力不足でもあるのですが、同時に文章で出来ることの限界を感じたためでもあります。清水義範氏の短編「取り扱い説明書」の中にやはり文章でものを説明するのには限界があるのではないかと書かれています。氏はちょうちょう結びを例に挙げて、実際に目の前でやって教えれば誰でも出来るのだが、これを文章で説明しようとなると「ここでちょっとやってみる気が起こらない」程難しいことであると述べています。ピアノであれスポーツであれ実技を伴うものは文章で説明することはちょっと不可能に近いところがあります。例えばピアノを弾くときの手の構え。一般に言われる「卵をつかむような」という表現は一面では当たっています。しかし全然違う結果になる可能性もある文章です。我々はその手の置き方一つをとっても「肩から指にかけて自由に」とか「自然に指を伸ばし」とか「指は軽く曲げ力を抜き」とか挙句の果ては「心を込めて」とか「すんだ美しい音で」などとかえって読者を混乱させるような表現を多用してしまうのです。すんだ美しい音を出すために「すんだ美しい音を出しなさい」とアドヴァイスするのはナンセンスの極みです。実際にレッスンで実演してみてもなかなか伝わらない微妙なニュアンスを文章で表すのは不可能なのでしょうか?文章を補うような形で譜例や写真を使うという方法もあります。しかし、これも限界があります。現実、私が今までに書いたところでも「理屈はそうだが」というような箇所が多々あります。「音は浮き立たせてがPPの中で」なんていう文章は実に不可解。挙句の果ては譜例に強弱記号を振り分ける始末。これはシュナーベル、グレンジャーに倣ったのですが果たして成功しているものかどうかは疑問です。

 人間は言語によって思考します。中には超感覚的な思考をされる方もいらっしゃるようですが、思考というものは通常「言葉で考える」ものです。つまり体感的、抽象的なものを人間が自分の中に取り込む際には一度「自分の言葉」に置き換えられているわけです。例えばいつもミスをする箇所があるとします。どうしても跳躍ではずす音がある。うまくいったときの感想を自分なりに考えて見ます。例えば「肘から動かす」とか「鍵盤から手を上げずに平行に動かす」とか。あるいは「自分が思っている箇所より一音下を弾く」なんて感想を抱く人もいるかもしれません。私はこの「言葉で意識する」という作業を通さなくては人間はどうしても理解できないのではないと思います。たとえそれが優秀な教師によって目前で演奏され「このようにするのだよ」といわれても必ずある一定のイメージを言語化しているはずです。逆に言えばそれが出来なければ演奏に限らず実技というものは上達しないのではないかと思います。
 しかしこれは非常に個人的な体験です。先の「手のポジション」にしても実際色々な言葉を並べてみても個人の感想は違うものでしょう。その感覚をうまく引き出していけるのがよい教師なのではないかと思います。
 今後どのように書き進めていくかは未定ですが、演奏を「言葉で考える」という契機になるような文章が書ければいいな、と思いつつやはり無理かという憂鬱感が‥(^^;

 さてビールのおいしい季節になりました。年中飲んでるんですが夏のビールは最高です。飲み会で日ごろの憂さを晴らしたいものです。

2004/7/5

 2004年も半分すぎました。上半期の印象に残った本を紹介したいと思います。

 まず、ロレンス・スターンの「トリストラム・シャンディ」。これはケッサクです。私の読書暦の中でもベストテンに入る一作。「小説」の黎明期にこのような狂い咲き的ケッサクが現れた事が驚異です。ストーリーも何もありません。とにかく読んで頂きたい一作。
 「ロリータ」で有名なウラジミール・ナブコフの奇っ怪な「青白い炎」。これも実験小説の白眉です。架空の詩人の架空の詩の架空の注釈。これらが織り成す複雑な波。原文の方が読みやすいということですが、翻訳でもその実験的雰囲気は充分伝わってきます。実は代表作「ロリータ」は未読なのですが‥。ジョイスも文庫化され20世紀の異色文学が文庫で読めるとはありがたい時代です(プルーストの「失われた時」が文庫で読める!)。ただ1,000円を越す文庫には少し抵抗があるのですが(^^;
 中島敦の「書簡(南方から家族に当てて)」。中島敦といえば「山月記」に代表される格調高い中国の故事に纏わる小説で有名ですが、大らかな雰囲気の「南洋譚」や哲学的思索「かめれおん日記」等様々な作風の作品を残しています。この書簡は文学作品ではありませんが、一人の父親が家族(主として息子)に当てて書いたやさしさに満ちた記録です。時に息子からの返信の文法の間違いを叱り、その日に食べたみかんとばななのおいしさを書き、火山に纏わる故事を教えたりします。船上でみたイルカの飛び跳ねる姿を息子に書き送る中島敦は教科書の中の人物とは別人のようです。「ぼくから十メートルくらい、はなれた所で 三匹そろって一どに、とびはねました。いるかは とても ふざけんぼ ですよ。」
 松田道弘「トランプ・マジック」。随分前に古本屋で買ったきり読んでなかったのですが、読んでみると単なる種明かしの本ではなくマジックの「見方」の面白さを伝える好書。この本の中にあるマジックを3つできれば大抵の人はびっくりします。松田氏には「遊びの冒険」という5巻からなるマジック解説の名作もあるのですが現在は絶版。専門書とはいえ残念です。現在でも入手可能なものでは「メンタルマジック事典」がお勧め。オカルト好きから超能力否定派まで幅広く読んで頂きたい本です。
 丸山圭三郎「ソシュールの思想」。ソシュール研究の第一人者丸山圭三郎氏によるソシュール入門というべき本。これも入手したのは相当前ですがやっと読破しました。勢いに乗れば(少なくとも前半は)一気に読める面白さ。高校の頃読んだ筒井康隆の「文学部唯野教授」の衝撃を思い出しました。世界観を逆転するような思考を編み出した人物が実に地味な人物であったかというのは驚きです。この後レヴィ・ストロースの「悲しき熱帯」につながっていくとは誰も予想だにしなかった人物です。ジャック・デリダなんかは読んでもさっぱり解らないので敬遠しているのですがロラン・バルト、ミシェル・フーコー等は解らないなりに感応する部分もありまだ読む気になります。解説本だけ読んだだけでで原本に当たってないジャン・ボードリヤールは最も興味がある一人なのですがなんせ原本(勿論翻訳)ですらさっぱり解らないもので‥。
 ポーリーヌ・レアージュ、澁澤龍彦訳「O嬢の物語」。これはおそらくポルノ小説でしょう。しかし官能描写はほとんどありません。官能描写をはじめから放棄しているのです。故澁澤龍彦氏の硬質な文体であたかもシュルレアリズムのオブジェのような無機的なエロティシズムを編み出しています。シュルレアリズムの作家、特にハンス・ベルメールやマン・レイ、ルネ・マグリット等の作品には非常にエロティックな題材が用いられています。しかし実際彼らの作品からは官能の香りは漂っては来ません。むしろ(主として)女性を無機質な一つの物体、オブジェのように描かれています。女性を物体のようにとは差別的偏見ではと思われる方もいるかと思いますがこれらの作品は女性蔑視ではありません。そこには性の聖性、すなわち官能を拭い去ったギリシャ彫刻と同等のエロティシズムを現代によみがえらせているのです。サドの小説では性を一つの制度とし、ありとあらゆる放蕩の限りを描き出し人間の欲望を抉り出しました(私自身はサドは先のスターンと同じく狂い咲き的才人と思っていますが)。そこでも人間は一種の標本の如く扱われ官能とは程遠いものでした。レアージュ(匿名作家ですが)の「O嬢」において最終章「ふくろう」では戦慄を覚えるシーンがあります。パーティーの客の中に、今で言うボディーピアスを施されふくろうの仮面をつけたO嬢が連れ出されるシーンです。ここではO嬢は一つのオブジェでありベルメールの「相互手淫の卍」やマグリットの「陵辱」、マン・レイの諸作品を連想させます。そしてエロティシズムは死と結びついています。我々東洋人にはないエロティシズムの論理、バタイユが描き出した世界を垣間見る事ができるような気がします。バタイユも徹底的にエロティシズム、強いてはヨーロッパを批判した人物です。本当の所私は「O嬢」を読み抜いた訳ではないと感じます。

 しかし節操がないとはこういうことを言うのでしょうか(^^;何でも首を突っ込みたがる性格だけは直りません。

2004/7/3

 先日書いたチモフェーエヴァのLP、これがなかなかよかった。ベートーヴェン「エロイカ変奏曲」バルトーク「ソナタ」シューマン「アレグロ」スロニムスキーの小品という曲目をパリッと弾ききっています。私は大体辛口の女流ピアニストが好きでアニー・フィッシャーなんかはよく聴くのですが、チモフェーエヴァのこの録音もしばらく聴き込みそうです。

 暗譜について書こうとしてますが、あまりに常識的なことになってしまうのが‥。労を多くして結論が当たり前というのは如何なものでしょうか。現実というものは得てしてそういうものではありますが。人間の記憶とは実にいい加減です。今目の前で見たことさえ覚えていると思っているだけなのです。しかし逆に言えば演奏家はそれを利用して演奏を組み立てているともいえます。ピアノのように物理的に音色の変化しない楽器はヨゼフ・ホフマンが言うように「濃淡の陰影」しか表現できません。それによって聴衆の耳を騙す(言葉は悪いですが)ことが最大限に出来る演奏家は名演奏家と呼ばれる人たちです。よく「鍵盤の魔術師」というような表現が使われますが、あながち間違いでもないようです。マジシャンは目を騙しますが、音楽家は耳を騙すのです。しかし騙すという表現は少々気が引けます(^^;

 図形楽譜の傑作は何か?と思いつく作品を色々考えていたのですが、私はキャッシー・バーベリアンの「ストリプソディ」が相当のケッサクではあるまいかと思います。これほど図形譜と演奏が一致した作品も少ないのではないでしょうか?最も本作はバーベリアンとロバート・ツァリマンの共作でありますが、武満と杉浦康平による「コロナ」もあるわけですし。惜しむらくは声楽作品であるということ。まぁ度胸さえあればやってできない訳でもなさそうですが。「ア〜ア・ア〜〜〜ア〜ア・ア〜〜〜!!」

2004/6/30

 何気なく立ち寄った中古屋で2枚ほど購入。一枚はまだ天才少女だった頃のチモフェーエヴァのベートーヴェン、バルトーク、スロニムスキー等の作品集。もう一枚(正確には3枚組み)はチャールズ・ローゼンのバッハ作品集。収録曲は「フーガの技法」「3声、6声のリチェルカータ(音楽のささげものより)」「ゴールドベルグ変奏曲」という強力な3作品。このLP少し変わった盤組みになっていて1枚目のLP、A面が「リチェルカータ」2曲とフーガの技法、B面はなんと「ゴールドベルグ」の最終面。2枚目もA面はフーガの技法の続きBはゴールドベルグの真ん中あたり、3枚目A面でフーガの技法はおしまいでB面がゴールドベルグの冒頭となっています。連続して聴くためには6回LPを交換しなければならないという‥。昔あった複数のLPを連続してかける機械に乗せれば自動的に1,2,3枚目のA面が再生され、全てを逆面にリバースすると「ゴールドベルグ」そのままかけられるためか?

 羽田健太郎氏といえば「渡る世間」と「題名のない音楽界」ですが、最近羽田氏のオリジナル作品の楽譜を入手。すっかりはまっています。恥ずかしいほどにかっこいい「熱いあやまち」、氏のお気に入りでもある「孤独のワルツ」、クラシカルな装いとポピュラーの軽さを併せ持った作品にはまっています。

 すっかりほっぽっているピアノ演奏方のコーナーですが現在「暗譜」と「プログラム」について執筆中。完成はまだまだ先になりそう。少しづつアップしていきます。

 7月最後の方で久しぶりに人前でカプスチンの作品を弾くことになりそうです。詳細は後ほど。

2004/6/17

 遊音堂でのライヴも何とか無事終了しました。アンコールはマルチェロ=バッハ「アダージョ」、コンフリー「Dizzy Fingers」、モーツアルト「トルコ行進曲」でした。聴きに来てくださった皆様、ありがとうございます。

 さて、すっかり気を抜いて映画を見てきました。久しぶりのロードショウ、ヴォルグガング・ピーターゼンの「トロイ」です。賛否分かれる作品ですが私が見たところでは可もなく不可もなくといったところでしょうか。前評判では阿刀田高氏が「ブラッド・ピットのアキレスは甘い」等と書かれてましたが、あれはあれでいいと思います。映画はフィクションをどれだけ面白く見せるかにかかっている訳ですから例えアキレスが女であるという珍解釈であれ映画として面白ければ問題ないのです。ただギリシャきっての猛者といったアキレスではなくその動きは忍者のそれであったことは特筆すべきことではないでしょうか。ピーターゼン監督がどれほど日本映画を見ているかは知りませんが重厚より身軽さを強調した動きは最近作の忍者の動きです。冒頭アキレスを迎えに行った使者の言葉「あなたは女神の息子武具など不要では」を受けて「不死身なら兜など不要だろう」というシーンでこれは神々の物語ではなく人間の物語であるということを表明しています。エリック・バナ演じるヘクトルとの対決も実に素晴らしい出来です。しかし映画としてのさすがピーター・オトゥール演じるプリアモスとの対決シーンが最も緊張感あふれるシーンであったといえます。政治的な科白はあえて抑えられたシナリオのようですがアキレスが敵方プリアモスに「あなたはここの王より偉大です」というのは深読みしようとすれば深読みできる科白ではあります。
 私が最も不満だったのはオープニングのメインタイトルです。メインタイトルはその映画の顔です。極端に言えばメインタイトルがいいというだけでベストに入る映画すらあるのです。ソウル・バスの革新的なメインタイトルは期待していませんでしたがかなり期待はずれでありました。 

2004/6/3

 気がつくと1ヶ月ぶりの更新。少々反省しています。遊音堂での演奏会も近づき落ち着かない日々を送っています。

 Zez Confreyの「Ragtime,Novelty & Jazz Piano Solos」の楽譜にはまっています。1921年の有名な「Kitten on The Keys」に始まり329ページ収録曲90曲になるコンフリーの集大成という楽譜です。中でも興味深かったのが彼の編曲による「ユーモレスク」「花の歌(ランゲ)」、クラシック作品(?)「ファンタジーニ短調」です。そして「Piano Sketch Of A Symphony Orchestra」。副題に「Little Story of Tchaikovsky」とあるように冒頭交響曲6番の4楽章から始まり次々とチャイコフスキーのお馴染みのメロディーが出てきます。途中からはピアノ協奏曲1番も登場。窓を開けての演奏は少々恥ずかしい逸品です。この手の作品がお好きな人にはお勧めです。

 最近CD屋や中古屋に行く時間も取れないのですが、久しぶりにメロディアのギレリスの録音をゲット。50年代の録音で一部で熱狂的に迎えられているウラディゲロフの作品やバルトーク、スメタナ等が収録されています。一緒にゲットしたエシュパイのコンチェルトグロッソとピアノ協奏曲2番(ピアノはクライネフ)もジャケットがエシュパイの顔でかっこいい!曲自体はCD化されているんですけどね。

 家にあるSP盤を何枚かクリーニング。といっても水洗いしただけなんですが。その後にイボタ蝋を塗るとよいのですが乾燥後普通に聞いています。パハマンのショパン、コルトー、ティボーのフランク「ヴァイオリンソナタ」を聴きましたがLPやCDで復刻されたものとは随分印象が違います。懐古趣味といわれればそれまでなのですが、CDのデジタル、LPの33回転、SPの78回転、それぞれに特性があるような気がします。しかしなんせフランクの一曲だけでも4枚。コルトーのショパン練習曲で全24曲6枚ととにかく数と重さがあるので、聴くだけで一苦労です。しかし逆に考えればSP時代の人はレコードをかける事の労力を含めて鑑賞していたわけです。おのずと真剣に聴いたことでしょう。今のように買ってきて機械に入れてボタン一つで長大な交響曲が聴けるのとは訳が違います。私の持ってるSP盤の中でも最もでかいのがベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」ですが、これなんか11枚半あります。レコードホルダーを持ち運ぶも一仕事です。現在は音楽が手軽に聴け、氾濫しています。その代わり「聞き流す」ことが多くなったのではないでしょうか。一回一回真剣勝負というの疲れはするのですが‥。

 先日DVDでヒッチコックの作品を結構見たので、その流れでイタリアのジャーロ(犯罪モノ)映画、マリオ・ヴァーバ、ダリオ・アルジェント等を見たのですが、いやぁ、やっぱりヒッチコックはすごいなぁと思いました。何がすごいかというと観客をだますのが。このことはいずれゆっくり書こうと思っています(いつになるのやら‥)。

 映画関連ではカンヌ映画祭で是枝裕和監督の「誰も知らない」に主演をつとめた柳楽優弥君が史上最年少で最優秀男優賞を受賞しました。14歳というとフランソワ・トリュフォーの「大人はわかってくれない」のジャン・ピエール・レオーも当時13,4歳だったはずです。今見ても「子役」というのを躊躇うような演技ですが柳楽君はどうでしょうか。少し気になります。

 ハリウッドは同時多発テロ以来ネタに困っているというのは聞いてましたがヴォルグガング・ピーターゼンが「トロイ」を撮ったのもその影響があるのでしょうか?映画スターのあり方が昔と違う現代においてオールスター史劇は無理があるのですがCGを使いトロイ戦争を再現したそうです。映画は無声時代から「十戒」等の史劇がありトーキー、カラーとなりワイドスクリーンでは広い画面をフルに使い雄大な映像を撮りました(確か最初のシネマスコープは20世紀フォックスの「聖衣」だったはず)。70ミリシネマスコープの映像の迫力は劇場で見ると圧倒されます。かつて日本最後のシネラマ画面があったOS劇場でみた「2001年 宇宙の旅」(勿論再映)は15年以上たった今でも覚えています。実際のところカメラ3台の「シネラマ方式」で撮られた作品はそう多くなく「大いなる西部」が代表作です。両親に聴くとシネラマ方式でジェットコースターの先頭からの風景を撮影した「これがシネラマだ!」といった作品が流れていたそうです。ところで、私が見た中でお気に入りの史劇は少々過激な「スパルタカス」。監督はキューブリック(公開当時はカブリックと表記されてた)、原作ハワード・ファスト、脚本はハリウッド・テンのドルトン・トランボ、製作兼主演カーク・ダグラスというハリウッド史劇の極北にあるような問題作です。ヒッチコック映画でお馴染みのソウル・バスによるメインタイトルも必見。

 しかし、いつ練習してるんでしょうな‥(^^;

2004/5/7

 高橋アキさんの演奏する甲斐説宗「ピアノのための音楽(T)」を入手しました。ずっと探していたレコードなので感動しています。併録は武満徹「ピアノ・ディスタンス」、T.シコルスキ「ピアノのためのソナント」、J.フリッチュ「ピアノ曲1番」。シコルスキとフリッチュは初めて聴く作品でした。演奏は相変わらず素晴らしい。テクニックは勿論、音のクリアさ、特殊奏法での確信に満ちた音。現代作品をこれだけ魅力的に弾く人はそういないだろう。怜悧に精確に演奏するというのも現代作品の演奏の切り口ではありますが、高橋アキさんの演奏はそういう言葉を意識させない魅力があります(かといって高橋アキさんの演奏が正確さを欠いているわけではありません。念のため)。

 先日「トリビアの泉」でジョン・ケージの「4分33秒」とサティの「ヴェクサシオン」が紹介されたそうです。その筋では有名曲ではありますが。プレピアド・ピアノやシュトックハウゼンの「ピアノ曲XI」、ブゾッティの作品なども出せば出るかもしれません。

2004/5/3

 久しぶりの更新です。演奏会もひと段落してと思いきや、次から次へと弾かなくてはならないものが‥。

 最近ヒッチコックの映画をまとめて見直したのですが、知っている作品でもつい引き込まれてしまう面白さです。DVDの特典映像も興味深く、なかでも「フレンジー」の音楽がはじめヘンリー・マンシーニだったとか、「引き裂かれたカーテン」のバーナード・ハーマンによるオープニングシーンなど初めてみたものも結構ありました。「めまい」がデジタル補修され驚くほどきれいな映像なのにも吃驚しました。できれば劇場で見てみたいものです。

2004/3/23

 4月10日午後6時より神戸喫茶アマデウスで演奏会を行います。


リャードフ  前奏曲Op.11-1
ラフマニノフ  コレルリの主題による変奏曲op.42
ムソルグスキー  展覧会の絵

ラフマニノフの暗譜がなかなか大変でした。お時間のある方は是非ご来場ください。

2004/3/4

 アカデミー賞においてニュージーランドの鬼才ピーター・ジャクソン監督の「ロード・オブ・ザ・リング」が11部門受賞しました。これを記念して映画の小部屋にピーター・ジャクソン監督の初期作品を紹介します。一部グロテスクな画像もありますのでそういうのが弱い方は見ないで下さい(^^;これから3回にわたり「バッドテイスト」「ミート・ザ・フィーブルズ」「ブレインデッド」の3作品を紹介予定。どれもB級テイスト全開の作品ですが、サービス精神に満ち満ちた作品です。

2004/2/22

 デニス・マツーエフのリサイタルへ行く。彼の演奏は去年ガーシュイン「ラプソディー・イン・ブルー」とラフマニノフのピアノ協奏曲3番を聴きましたが今回はソロ。結果から言うとまさに満腹という演奏会でした。プログラムは
 リスト ダンテソナタ、メフィストワルツ1番
 ストラヴィンスキー ペトリューシュカ
 ビゼー=ホロヴィッツ カルメン変奏曲
 ロッシーニ=ギンズブルグ 「セビリヤの理髪師」より“カヴァティーナ”
 リスト ハンガリー狂詩曲 第2番(カデンツァ:マツーエフ)
というなんとも見る人が見るとたまらない曲目。ダンテソナタ、メフィストワルツは「速いところはよりはやく、ゆっくりなところはよりゆっくり」というようなその手の演奏が好きな人にはたまらない演奏。後半ペトリューシュカは少々ミスも目立ちましたがそんなことは問題ではありません。おそるべきスピード感で弾ききり、跳躍に入るとさらに加速するほど。後半3曲はもう何も言うこともないでしょう。カルメンは色々音を足しての演奏でしたが、特筆すべきはホロヴィッツの呪縛から完全に開放されていたこと。ギンズブルグは目にもとまらない連打の応酬。リストのハンガリー2番はバキバキ凄いのですがなんと言ってもマツーエフ自身のカデンツァ。アムランのカデンツァが普通に聴こえます(^^;アンコールはチャイコフスキー「四季」から「秋の歌」「トロイカ」、ラフマニノフ前奏曲23−5、スクリャービン練習曲8−12、マツーエフ自編のガーシュイン「ポギーとべス」の即興とてんこ盛り。最後にはお客さんから「ウォー」と叫びが起こり、ビックリしました。これほどピアノの演奏会でお客さんが熱狂したのを見るのは初めてです。
 彼の演奏の素晴らしいところは客が自分になにを求め、自分がどう答えなくてはならないかを理解しているところです。誰もマツーエフにバッハやベートーヴェンの深遠な音楽を求めていないのです。それを彼自身も理解し、華麗なショーピースや超絶技巧をふんだんに盛り込んだ曲を弾いているのです。このことは彼が音楽的な演奏をすることとは別問題で、彼の演奏は派手で難曲が多いですが音楽的です。なんとも得るところの多い演奏会でした。

 終演後はオタッキーさんと韓国料理屋で興奮さめやらぬ飲み会。相変らずよく飲むものですなぁ。

 ところで、ジャック・タチの「プレイタイム」が邦盤DVDで発売されるようです。それに加えて「パラード」「僕の叔父さん」「僕の叔父さんの授業」なども発売の予定。短編「僕の叔父さんの授業」が好きなのでこのための買おうかとまよってます。

2004/2/20

 世の中には思いもよらないことが起こるものだと思うこのごろ。

 ホロヴィッツの1986年レニングラードライヴを購入。なかなか聴き応えがあるのですが、クライスレリアーナが一つのトラックに入っていたり、少々気になる点もないわけではありません。たまに変わったトラックわけのCDを見かけますがどういうわけなんでしょうか?

 4月10日神戸喫茶アマデウスで演奏会を行います。詳細はまだ未定ですが、多分ラフマニノフ、ムソルグスキーの作品を演奏予定。詳細決定しましたらお知らせします。

2004/2/6

 演奏会情報を追加。2月15日神戸クレオールで行われる加古川名曲鑑賞会の特別演奏会。この演奏会は会員のみの非公開らしいですが興味のある方は私のほうまでメールしてください。午後3時からの予定。曲目の方は

 西村朗 法悦の鐘
 中畑貴喜 R.Y.のための5つのバガデル
 ケージ TVケルン
 ムソルグスキー 展覧会の絵

何でもありという感じですが。 

2004/2/2

 遊音堂での演奏会無事終了しました。足をお運びの皆様ありがとうございました。ちなみにアンコールはバッハ(ワイルド編)「プーランク頌」、シチェドリン「フモレスケ」、ファジル・サイ「パガニーニ変奏曲」、ローゼンブラット「ファンタジー」。更にクレジットしていなかったのですがムソルグスキーのラスト2曲はホロヴィッツ編による演奏だったりしました。

 その後の飲み会はオタッキーさんをはじめ、5人だったので少々さみしいかなと思いましたが結局夜を徹しての異常な盛り上がり。私はさすがに3時過ぎにダウン、中座させていただきました(私が飲み会を中座するのは記憶にある限りでは2回目?)。皆様ありがとうございました。

 飲み会の席上ではデュオリサイタルの企画、次々回演奏会のプログラム、室内楽の予定(カプスチン、オルンスタインのピアノ五重奏の日本初演なんて無茶な話も)等など、ここではとても書ききれないような‥。

 早速これからの演奏会の予定をアップしておきました。練習しないといけないんですがなぁ。

2004/1/30

 演奏会前日です。恒例の現実逃避ネタを。

 年末に演奏会で聴いたバリオスの「最後のトレモロ」実にいい曲です。何かいい録音がないかなぁと思っていたらディスクユニオンでジョン・ウィリアムスのLPを購入。バリオスの作品はどれもいい曲です。ギター曲は超有名曲や武満やヴィラ・ロボスの数曲をのぞいてほとんど知らないのですが、まだまだいい曲があるのでしょう。

 大阪の某レコード店でレコード半額の情報を得て早速物色。アミーロフの弦楽オーケストラのための交響曲「ニザミ」、交響的ミューガム「ギュリスタン」、モーリス・ルルー指揮、メシアン「トゥーランガリア交響曲」、イゴール・ジューコフによるチャキコフスキーピアノ協奏曲2番、われらがミヒャイル・ポンティのプロンザルド、ゲッツのピアノ協奏曲をゲット。アミーロフの作品「ギュリスタン」はピアノとサックスが入る曲、4枚とも協奏曲系になってしまったのは偶然です。アミーロフの作品聴いてるとどこかで聴いたことあるなぁ、と思い念のためレコードラックを調べると1枚発見。同じ「ニザミ」が入ってました。こちらはアゼルバイジャン室内オーケストラ、ナジム・ルエザフ指揮、今回買ったのはソビエト放送交響楽団ロジェストヴェンスキー指揮です。いやぁ威勢のいい曲です。ポンティはCDにもなってるんですが、10年程前中古レコード屋で見かけた時悩んで結局買わなかず、数日後思い直して買いに行くともうなくなっていた盤で、ことさら珍しいレコードでもないのですが気になっていたものです。曲は別にどうってことないロマン派の曲なんですが。ルルーの「トゥーランガリア」は世界初録音ということです。昔の箱ものLPのポイントの豪華解説はメシアンの譜例つき解説(別宮貞雄訳)に別宮貞雄のメシアン評、藤原義久のオンド・マルトノ解説といたせりつくせり。メシアンの自筆譜も出ていますが美しい楽譜です。

演奏会前にこんなことをしてていいのですかね。

2004/1/21

 先日オタッキーさん、西村さんらを招いて拙宅で新年会をしました。西村さんとレコードを聴いているとオタッキーさんが到着。入ってくるなり「おっ、ツィンツァーゼの前奏曲」さすがです。なべを囲みながらこの日のBGMは、ツィンツァーゼ「24の前奏曲」、中村攝「スフィア」、ペトロフによるショパン、スケルツォとスベトラーノフピアノ協奏曲、ジェフスキによるシュトックハウゼン10番、コルトーのSP盤によるショパン練習曲、ボシャンスキーのショパン変奏曲等など。濃いですなぁ。これがまた全て私のLPなんで二度ビックリなんですが(^^;

2004/1/17

 昨日クラシック音楽家振興会推薦コンサート、無事終了しました。なかなか好評だったようでホッとしています。ご来場の皆様ありがとうございました。

 少々前ですが和田弘さんが死去されました。私は一時マヒナスターズをはじめムード歌謡のLP、EP盤を集めてた事があり神戸のレコード屋に足繁く通っていたものでした。マヒナスターズといえば「愛して愛して愛しちゃったのよ」「お座敷小唄」ですが他にもなかなかいいものがあります。最近はあまりその方面はチェックしていないのですが、江利チエミ、東京キューバンボーイズ等はたまに中古屋で見かけると気になります。

2004/1/15

 少々おそいですが明けましておめでとうございます。今年もぼちぼちやってまいります。

 さて1月31日大阪野田阪神の遊音堂さんで演奏会を行います。曲目は

カプスチン 変奏曲
一柳 慧 タイム・シークエンス
西村 朗 星の鏡
ショパン バラード1番
ムソルグスキー 展覧会の絵

です。入場料2,000円となっております。


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