谷崎潤一郎著

 

 私は谷崎潤一郎が大好きである。その耽美的、倒錯的な世界も好きなのだが、それ以上に谷崎は文体のスタイリストであり変幻自在の文体を使いこなしているからである。例えば「人魚の嘆き」。日本語にこれほどの漢語があったのかと思われるような文体。泉鏡花が当時の文人をもって総ルビでなければ読めなかったように、我々はこれらの漢語を十分に咀嚼しなければならない。かと思えば「春琴抄」。「春琴、ほんとうの名は鵙屋琴、大阪道修町の薬種商の生まれで没年は明治十九年十月四日、墓は市内下寺町の浄土宗の某寺にある。」谷崎の耽美的代表作がこのような冷徹な文体によって綴られているである。「春琴抄」は美的観念を圧縮されたかのような中篇である。そこには冷静な視線があり過剰な耽美的表現は極力抑えられている。それ故に我々の耽美的、官能を刺激するのである。代表作「細雪」にしても実に他愛ないエピソードの羅列、それが滅び行くブルジュワと聖女雪子を中心とする華麗な世界を創りあげるのである(「細雪」が雪子の下痢で終わるのをご存知でしょうか?)。以後「瘋癲老人日記」に至るまで様々な文体を駆使して独自の美的感覚世界を造りあげたと云うのが私の谷崎観である。

 さて本作「卍」は女性間の同性愛、レズビアニズムを扱った問題作であるが、谷崎はその女性間の愛情を大阪弁(実際はどこにもない谷崎によって造られた関西弁)を駆使して描き出した作品である。一人称体の関西弁で独白される女性間の愛憎劇。谷崎はこの軟体動物のように絡みつく関西弁でなければこの耽美的でエロティックな作品を構成できないと確信している。本作品に具体的な性描写は出てこない。しかし、この関西弁の絡みつくような粘着質な文体によって我々の想像力は大いに震わされるのである。

 「ただ両方が憎々らしいくらいな激しい眼つき片時も外(そ)らさんと相手の顔そそいでましたわ。わたしはとうど思い通りにしてやったと云う勝利のほほえみを−冷ややかな、意地の悪いほほえみを口元に浮かべて、身体に巻きついてるものをだんだんに解いて行きましたが、次第に神聖な処女の彫像が現れて来ますと、勝利の感じがいつのまにやら驚喜の声に変わって行きました。「ああ、憎たらしい、こんな綺麗な体してて!うちあんた殺してやりたい」わたしはそう云うて光子さんのふるえる手頸しっかり握りしめたまま、一方の手エで顔引き寄せて、唇持って行きました。すると光子さんの方からも、「殺して、殺して、−うちあんたに殺されたい、−」と、物狂おしい声聞えて、それが熱い息と一緒に私の顔いかかりました。見ると光子さんも頬に涙流れてるのんです。二人は腕と腕とを互の背中で組み合うて、どっちの涙やら分からん涙飲み込みました。」

 関西弁(繰り返すが谷崎によって創り上げられた関西弁であるが)でなければこの官能は表現できないであろう。文体、これは作家の性癖のようなもので、ある種の共通項がありおなじ作家の作品には共通するものである。しかし谷崎は描きたい題材が描ききれる文体に拘った作家である。後年の「鍵」「瘋癲老人日記」のカタカナによる老人の日記、特に私は若輩ながら「瘋癲老人日記」の老いをこれほど開きなおった谷崎に憧れさえするのだが、この文体のスタイリスト谷崎の中でも私が特に好きなのは「卍」である。

 なお本作品は数回、映画化されている。中でも岸田今日子と若尾文子のレズビアン、それに船越英二、川津祐介が絡んでくるいう大映映画ファンならご存知の濃密な作品(「卍」1964年)が有名である。増村保造の手腕は素晴らしいがやはり原作のアクの強さがきつい。話は逸れるが市川崑による「」は傑作である。これは原作と敢えて違う視点に移したした市川崑の手腕であろうか。中村鴈治郎、京マチ子、叶順子、仲代達矢、全てが最高である。これは原作と離れているが傑作には間違いない。

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