ラ・ロシュフコー箴言集

ラ・ロシュフーコー伯フランソワ6世著

 

 私はアフォリズム、箴言集や辞典、散文集が好きだ。スウィフト「奴卑訓」、フロベール「紋切り型辞典」、ビアスの「悪魔の辞典」、バルトの「テクストの快楽」等は眠る前によく読む私の睡眠導入書である。これらの本に共通していることは並んでいる文章が前後の文章と相関しないで、どこでも好きなところが読める「開かれた本」であるということである。これが普通の小説だったらそうはいかない。買ってきていきなり真ん中のページから読み出す人はいないだろう。星新一等のショートショートなら可能であろうが、それでもやはり最初から読んでいくのではなかろうか。本書「ラ・ロシュフーコー箴言録」は中でも私の最も好きな本の一つである。

 「我々の美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない」

 第4版以降冒頭を飾るこのエピグラフにロシュフーコー伯の人間性への深い疑惑を感じさせる。ロシュフコー伯の箴言の魅力はその明快さにある。読んでいると矛盾する箴言もあるのであるが、一定の法則性を持たずに羅列されたアフォリズムはその一つ一つが完結しており読んでいて楽しい。そのニヒリズムは彼の人生(詳細は岩波文庫解説を参照してください)からくるのであろうが、その徹底した人間性への深い亀裂は「人生訓」のような甘ったるい気休めなんかとは比べようもなく刺激的である。
 例えば「恋」。

 「恋はその作用の大部分から判断すると、友情よりも憎悪に似ている。」(72)

 「愛の喜びは愛することにある。相手に抱かせる愛情によってよりも、自分の抱く情熱によって幸福になるのである。」(259)

 「恋人同士がいっしょにいて少しも飽きないのは、ずっと自分のことばかり話しているからである」(312)

 「情熱はいずれもわれわれに過ちを犯させるが、恋は中でも最も滑稽な過ちを犯させる。」(422)

 いいですなぁ、実に。ちなみにビアス「悪魔の辞典」では「患者を結婚させるか、あるいはこの病気を招いた環境から引き移すことことによって、治すことができる一時的な精神異常。(略)この病気は時に命取りになるが、患者の場合よりも、医者の場合がそうしたことになり易い。」(「Love」)。如何です?読みたくなってきませんか?

 「すぐれた面を持ちながら疎んじられる人がおり、欠点だらけでも好かれる人がいる」(155)

 ロシュフコー伯の時代は貴族が匿名でその文才を競った時代である。これらの箴言は一種の言葉遊び、レトリックであったのかもしれない。しかしルソー、サルトルをして苛立たせた人間への洞察力は優れたものである。しかし中にはこんな美しい箴言もある。

 「友を疑うのは友に欺かれるよりも恥かしいことだ。」(84)

 ただ、素直に頷けない箴言もない訳ではない。

 「太陽も死もじっと見つめることはできない。」(26)

 これは少なくとも現代思想を少しでも齧った人には抵抗があるのではないだろうか。ハイデガーに限らず、「死」は人間にとって「交換不可能」なものでありそのことから目をそらして生きているのが人間だからである

 さて、私はこれらの箴言をもってして自分の人生をより良く変えていこうだとか、人間性を高めようなどとは一切思わない。ただ、人間の不完全性、罪深さ(というと宗教的になってしまうがちょっと違う)をありのまま受け入れるしかないという事実を認識すべきだと思うのである。ニーチェは「ニヒリズムは戸口に立っている。全ての訪問者のなかでもっとも気味悪いこのものはどこから来るのであろうか」と書いている。無論ロシュフコー伯の時代の考え方(エピステーメー)とニーチェ、現代人の考え方とは違うのだろうが、近代以降至高の存在であるはずの「人間」を疑う視線は、この箴言集の中核ともいえる「自己愛(アムール・プロブル)」への批判を見れば明確であるといえよう。人間とはかくも不完全なものなのだ。

 「物事をよく知るためには細部を知らねばならない。そして細部はほとんど無限だから、われわれの知識は常に皮相で不完全なのである。」(106)

 本書は岩波文庫の年譜、解説を付した訳がある。本稿の引用部分は岩波文庫から引用させて頂いている。()内は箴言の番号である。

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