言葉・狂気・エロス

丸山圭三郎著

 

 ソシュール研究の第一人者と知られる丸山圭三郎氏であるが晩年はその豊富な知識と記号学的分析、芸術全般に対する好奇心から独自の社会批評を展開した人物である。氏の著作は概して読みやすいものが多いように思う。しかし、ソシュールを独自に読み抜いた氏の思想は、決して安易なものではない。1993年60歳という若さで急逝されたがその死は惜しみても余りあるものがある。

 さて、本作は講談社現代新書に先に上梓された「言葉と無意識」の続編であるが、読みやすさは本書の方が読みやすい。勿論先に「言葉と無意識」を読んでからのほうがいいのだろうが、本作を先に読んでもよいであろう。副題に「無意識の深みにうごめくもの」とあり、「狂気と芸術とエロティシズムに通底する言葉の深層風景を、欲動の視点から捉えなおした試み」(あとがき)であるという。扱われている素材は1990年初頭の風俗で少々古く感じるのは否めないが、だからといって本書の存在が古びたという訳ではない。

 こういう書き方は避けるべきであろうが、本書のテーマは一言で言えば「自由」である。そしてその「自由」であることの難しさ、それが本書の基本的なテーマである。我々は「自由」に生きていると思い込んでいるが、決してそうではない。言葉による束縛、社会体制、無意識等からそれを立証していく。ここで注意しなければならないのが、「自由」に対して「不自由」があるのではないという点であろう。フロイトとサルトルの例を挙げて解説される二項対立による「アンチ〜」は結果としてその相反する観念を元としており結局は同じ土俵にいることなのである。そこにはどちらか一方を選択する「片道切符」でありその先には「停滞、硬直化」が待っているのある。ここではアンドレ・ブルトンの「自動記述法」も「片道切符」と斬られる。
 「近代的自我とは、日常という虚構において硬直したエゴにすぎず、私たちの意識と身体の奥では、無限の可能性に開かれた複数の〈自己〉が息づいている。」
 「相関的、共時的審級のいずれかに立つのではなく、二つのヴェクトルをもつ同一の円環運動をとらえることによって、初めて形而上学の陥穽から逃れることができるだろう」

 最も恐ろしい狂気、それは「表層意識から深層意識へおりるすべを知らず、そもそも硬直した既成の価値体系に閉じこもって自己懐疑の回路を断ち切っている人びと」であり、これは我々「一般人」のほとんどがこの「第三の狂気」であるといっても過言でない。ハイデガーのいう「ダスマン(「世人」と訳される)」は自らの存在を忘れており、その「忘れていることすら忘れている」ことであったが、「第三の狂気」も常識、社会、既成概念が停滞、硬直化した状態に他ならず、「正常」であることがある種の異常さである浮き彫りにしている。

 本書では幅広い例(シュレーバーの症例、フロイト、ラカンの学説、音楽、美術、文学、能楽等)を挙げて狂気と芸術を検討していく。
 「芸術家と思想家は、たとえその行動が狂気と紙一重に見えても、必ずや意識の深層から表層の日常へと立戻り、この制度化された現実をくぐりぬけて再び制度以前の文化発生の場へと降りていく、絶えざる〈生の円環運動〉をくりかえす強靭な精神力を保っている人びと」と書く氏であるがこの「円環運動」は本書の通奏低音となっているといえる。故武満徹氏とも親交のあった丸山氏は音楽に関してもこの絶えざる「円環運動」、それは作曲家だけでなく演奏者、聴者にも必要であると説く。「信号読解」、一つの答えに至る「読み方(レクチュール)」は停滞と硬直化でしかない、また作家、詩人、音楽家、思想家は一つの「意味志向」はあるがそれは「マグマのような状態」であり、それらのマグマが言葉にされた時「はじめて意味として存在を開始する」のである。そして「文学は読まれ、絵画は見られ、音楽は聴かれることによって、その都度新しい意味が生み出される」。

 本作は少なくとも芸術に興味のある向き、それは創造的立場からだけでなく、見る側聴く側所謂「読み方(レクチュール)」においても示唆に富んだものであると思う。、是非一読をお勧めする作品である。

 本稿の引用は全て講談社現代新書「言葉・狂気・エロス」からとらせていただいている。

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