テクストの快楽

ロラン・バルト著

 

 ロラン・バルトは中途半端な人である。言葉が悪ければニュートラルな人と言おうか。文芸評論家、構造主義者、著述家、社会評論家、先生、思想家…?バルトにはいつもはぐらかされる。長いのか短いのか、64年という人生を交通事故(事故?自殺?)であっさりと逝ってしまった。性癖はゲイ、男でもなく女でもない。晩年は太るのを気にしていたそうだが残されたバルトの写真は太ってもいず、痩せてもいず、険しい顔でもなく笑っているのでもない。生前最後に出版された「バルト自身による、バルト」(邦訳「彼自身によるロラン・バルト」)にはこうある。
 「ここにあるいっさいは、小説の一登場人物によって語られているものとみなされるべきである」

 バルトが残した著作は多く多岐にわたる。また「記号論」による文芸批評、社会批評からは「テクスト」「エクリチュール」「表徴」といった用語を生み出した。ここでこれらの用語の解説をする気はないが、読まれるもの、本でも楽譜でも絵画でもファッションでも社会でも、それらを「テクスト」として扱うということは知っておいてもらいたい。「テクスト」はテクスチァ(織物)から派生した言葉である。織物には縦糸、横糸があり、そこには様々な(作者さえ知らない)ものが織り込まれている。私たちは「テクスト」から一つの意味を読み取るのではなくその「織物」を味わうのである。
 「『テクスト』は『織物』という意味だ。しかし、これまで、この織物は常に生産物として、背後に意味(真実)が多かれ少なかれ隠れて存在するヴェールとして考えられてきたけれど、われわれは、今、織物の中に、不断の編み合わせを通してテクストが作られ、加工されるという、生成的な観念を強調しよう。この織物−このテクスチュール(織物)−の中に迷い込んで、主体は解体する。自分の巣を作る分泌物の中で、自分自身溶けていく蜘蛛のように。新語を好むならば、テクストの理論をイフォロジーhyphologie と定義することもできよう(hyphologie とは織物と蜘蛛の巣のことだ)。」

 本書「テクストの快楽」は100ページほどのバルトの著作の中では「軽く」書かれたものであるようだが、決して「軽く」読める本ではない。しかし、この本はなんなのだろうか?読書の手引き?文芸評論?エッセイ?
 はっきり申し上げると私はこの「テクストの快楽」を読んで、意味が分かるということなどはない。ただ、バルトが書くことを、慎重にしかし楽しんで彼の抜群のセンスでもって書いていることを想像するだけである。
 「私がこの文、この物語、あるいは、この語を楽しみながら読むのは、それらが楽しみながら書かれたからである(この快楽は作家の苦吟とは矛盾しない)。しかし、その逆はどうか。楽しみながら書くことは、私に−作家である私に−読者の快楽を保証してくれるだろうか。全然しない。このような読者は私が探さなくてはならない(《ハント》しなければならない)、どこにいるのかも知らずに。その時悦楽の空間が創られる。私に必要なのは相手の《人格》ではなく、空間だ。欲望の弁証法の可能性、悦楽の予見不能の可能性だ。ゲームは行われなくても遊びはあるだろう」
 読書が偶然の出会い(恋人のように)であるならば私は間違いなく《ハント》されたに違いない。

 本作は「断片形式」で書かれている。短い文章がそれぞれにインデックスが付されそれがアルファベット順という秩序(なんという無秩序)によってならんでいる。論理的発展を拒み文章と文章は織物のように錯綜する。「読まれ方」は様々だろうが私はいつも断章を無作為に、しかし噛む様にバルトの文章を読んでいる。
 「早読みをしないこと、はしょらないこと、ゆっくり食べること、丹念に摘みとること、現代作家のものを読むには、昔のような読書のひまを再び見出すこと、すなわち、貴族的な読者になることだ。」

 最後に解説めいたことを書くのは興ざめだが、「テクストの快楽」の訳者沢崎浩平氏の「あとがき」から抜き出してみたい。
 「(略)今ここで本書のわかりやすい解説を加えるのが(それが可能だとして)、本書の趣旨にかなうかどうかはわからない。ただ、詩や絵画についてなら、わかる、わからないはもはやそれほど問題とされないのに、論文、あるいは、それに類したものに対しては、やはりわかろうとする我々の性向は根強い(略)」
 「そもそもわかるとは何かということが問題なのであるが、もしそれが、バルトの論理の展開の跡を辿ることができ、《テクスト》について、または《快楽》について、何らかの結論的な(唯一の)解答に到達できることを意味するならば、バルトは決して読者にそのような読み方、わかり方を期待していないといえる」

 バルトは最後まで私をはぐらかす。バルトの著作の大半は難解である。読んでもわからない。しかし私はバルトが好きだ。あの言い回し、センス、断章形式等等。バルトに《ハント》され振り回されるのが楽しいのだ。こんな「読み方」は間違っているのだろうか?
 バルトはこう言う。
 「テクストに対しては、全然形容詞的でない、これだという評価を下せない。更に言えば、私にとってはこれだということだ。この《私にとって》は、主観的でも、実存的でもなく、ニーチェ的だ《……実際、いつも同じ質問だ。これは私にとってなんであるか……》」

 本稿の引用は「彼自身によるロラン・バルト」を除き、みすず書房版、沢崎浩平訳「テクストの快楽」からとらしていただいている。

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