作曲者・演奏者・聴者
 
  我々が普通ピアノを弾いたり、聴いたりすることは別に何の疑念も無く行っています。しかし、我々は一体何を弾き、何を聴いているのでしょうか?このことを少し考えてみたいと思います。

 例えばベートーヴェンのソナタを弾くとしましょう。作曲者はベートーヴェンです。演奏者がベートーヴェンの書いた(印刷された)楽譜を読みます。それを聴者(変な表現ですが)が受け取ります。それによって聴者は感動したり、退屈したり、呆れたりします。この関係は至極当たり前のことですが、いくつかの大きな問題があります。まず、作曲者が書いた(印刷された)楽譜。これは一体どういう存在なのでしょうか?そして演奏者が行う楽譜の読み取り、演奏。更に聴者が受け取るもの。私は当たり前のように行っている演奏がひどく曖昧に感じる時があります。隙間が空くといってもいい。常識的に考えてみましょう。作曲者が頭の中でイメージしたものを楽譜にします。そして演奏者が楽譜をもとにそのイメージを演奏によって音に還元します。それを聴いた聴者が作曲者の描いたイメージを想起し感動を覚えたりする訳ですが、それほど事態は簡単なのでしょうか?
 まずここでは楽譜というものが作曲者のイメージ、思考の「代理」であり、それを読み解く演奏者は言ってみれば聴者との橋渡しをする役です。そこで演奏者が「読み違い」をしたとすると聴者には正しく作曲者のイメージ・思考は伝わりません。この場合演奏者は間違いを犯したのでしょうか(勿論ここでいう「読み違い」は音の間違いとかいうレベルではありません)。演奏者は自分の感情を表現するのだという意見があります。それはそれでいいのですが、それでも作曲者の代理「楽譜」をもって演奏者の感情を聴者に伝える。根本的な問題はあまり変わってないように感じます。
 そもそも楽譜とはなんなのでしょうか?作曲者の思考、思想の「代理」であるのしょうか。こういう風に考えると誰が正しく読み取ったかという問題がおこり必ず演奏者は正統と異端に分かれます。作曲者の意図にそぐわない演奏(解釈といっていい)は異端です。実際異端児というのはいつの時代にもいて問題を提起します。もし作曲者の意図する思想の「代理」が楽譜であるなら、楽譜自体には意味が無いわけです。まず前提として作曲者の思想が存在するからです。
 聴者に問題はないでしょうか。上記の例で言うならば聴者は完全に受身であり「演奏」の解釈者です。だまって座っていれば作曲者→演奏者と受動的に受け取るだけです。
 話は飛びますが1950年代以降図形楽譜や偶然性の音楽が流行りました。私には図形楽譜の演奏というのは非常に大変な作業なのですが逆に一つの記号としてとらえるなら5線譜と基本的には同じはずです。ただ、私には図形楽譜というものは非常に重いもので、ジョン・ケージによってなされた最大のヨーロッパへ音楽の批判であるのではないかと思います。なかなかうまく言えないのですが、最初に書いた作曲者の思想を聴者に伝えるために演奏者がいることを真っ向から批判した−それはヨーロッパ音楽がシェーンベルグに至り12の音からなるオクターヴによる作曲法の極地まで行ったため表れた現象のような気がします。最初はプレピアド・ピアノ(ピアノの弦の間にものを挟み音を変えたピアノ)の始まりどんどんエスカレートして行き図形楽譜や偶然性の音楽に至ります。
 先ごろ(2004年10月)亡くなったジャック・デリダ氏は難解を持って知られる思想家ですが彼のキーワードに「脱構築」というものがあります。伝統を破壊しても残るものは瓦礫の山、下手をすれば新しい伝統という伽藍を構築しかねません。破壊ではなく「ずらすこと」。これがデリダ氏のとった戦略であったそうです。
 作曲者、演奏者、聴者の関係について私は明確に答えを出すことは出来ません。これからも出来ないと思います。ただ、お互いが対立しあったものではなく絶えず相関することによってしか本当の音楽の場は作り出せないのではないかと感じるわけです。

 なんともとりとめの無い文章になってしまいましたが、皆様のご意見ご感想いただけると幸いです。

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