August 27, 2004. Fri. くもり
無頼派まで何マイル?
書評を書いた某文芸誌の編集者さんから電話で、
「急いで書いていただいたのに申し訳ないんですが……誌面の調整の関係で、この原稿の掲載は来月号になります」
との連絡が。
……………。
この原稿の締め切りが何と8月13日で、しかもぎりぎりまでかかったため、夏コミにも行けなかったのに……(しくしくしく)。
……じゃあ、一ヶ月も間があったんじゃないですか……(しくしくしくしくしく)。
思わず、
「じゃ、書き直させてくださいっ☆ っていうか、枚数増やしてくださいよっ! あれじゃ短すぎますって! こっちはあの評論が評している元ネタから10冊以上読み込んで書評書いてるのに、あんな枚数制限じゃとても書ききれないですよっ!」
と言いたくなったのですが、反射的に。
「はい、お世話になっております。それでは了承しましたので、宜しくお願いいたします〜」
と飼い慣らされたウサギのように、従順な返事をしている自分に気がつきました。
さらに。
別の学術系出版社から、今度私の論文が掲載される学術雑誌用の原稿のゲラがあがってきたのですが。
……締め切りの指示書がついてませんでした(明らかに、編集者さんのミスです……)。
思わず。
「締め切りがいつか分からなかったんで〜(テヘ☆)」
と言って、じっくりゆっくりまったり見直そうかとも思ったのですが。
……反射的に電話で締め切りを確認している、忠犬のように従順な自分がいました。
無頼派になるには、まだまだ修行が足りない模様です……(涙)。
August 26, 2004. Thu. くもり
一野球ファンとして……。
アテネ五輪では、野球はなんとか銅メダルでしたね。
でも。
私といたしましては。
……ここまで落ちたならばいっそカナダに負けて、メダルなしになってくれたほうがいいかな〜、と思っていました。
「長嶋ジャパン」のファンのみなさまには申し訳ないんですが(^^;。
今回の日本野球チームは明らかに相手の研究不足、人選ミスを含めた「作戦負け」だと思いますし。
長嶋監督にこだわらず、最初から「勝つため」の監督や選手選びをしていたらもっと楽に勝てたはずだと思いますから……。
そういうわけで、いっそメダルなしになって帰ってきて、日本の野球界がもっと真剣に五輪チームについて考え直すようになってくれたほうがよいのではないか、と考えた次第です。
「野球というスポーツの魅力」を普段野球を見ない人たち、とりわけ海外の野球があまり盛んではない国の人たちに知らしめるためには、オリンピックでいい試合をするのが一番だと思いますし。
もっとオリンピックを野球の魅力を伝える場として真剣に考えてほしいな〜、と思うんですよ、一野球ファンとしては(^^;。
それにしても、この日本野球界のいつまでたっても「長嶋頼み」な体質、何とかならないでしょうかね〜。
長嶋氏自身はとくに嫌いではないというか、むしろ素晴らしいスター選手であった方だと思いますけれども。
しかし。
……病気療養中ならば、なぜ代行を立てないんでしょうか?
やはり、「長嶋」の名が冠していないと、スポンサーがつかないからでしょうか……?
ベンチに張られた「3」を書かれた日の丸が、何だか寒々しいというか痛々しい印象を受けたのは私だけでしょうか。
ちなみに当地での監督登録は、中畑コーチになっていたのだそうです。
ですから、あのチームは実質上「中畑ジャパン」だったわけですが(^^;。
でも。
……ギリシャのテレビ局は、事あるごとに大野投手コーチを映していたのがちょっと気になりましたね。
中畑が監督に見えなかったのでしょうか(^^;?
また、他の競技を見て野球を見ると。
つくづく、野球選手ってめぐまれているんだな〜、と思います。
億のつく年俸をもらっている選手がごろごろいて、銅メダルですからね……。
あの過酷な猛暑の42.195キロを走って優勝した野口選手は、失業中監督が養っていたそうですし。
彼女はあんなすさまじいレースを勝てるようになるまでどれほどの犠牲を払い、どれほどの努力をしたのだろうと思うと、三振で帰ってくる某五億円プレイヤーが何やら非常に見苦しく見えてきたりして……(^^;。
実際問題、現在野球界はごたごたしていて、私はいつものように勝敗を楽しめません(涙)。
人気スポーツの座にあぐらをかいているうちに、日本のプロ野球はめちゃめちゃなことになってしまいました。
でも選手会も、結局は自分たちの利害にしか目が行っていないように見えますし。
少しは自分たちの年俸を抑えても、野球界全体の復興を考えようなんてことを言い出す選手はいないもんでしょうかね〜(しみじみ)。
August 25, 2004. Wed. くもり
ここまでのアテネオリンピック雑感
アテネ五輪では女子レスリングが二つの金メダル獲得で、これで日本の金は15個になった訳ですが。
ここまでの雑感。
……個人技の強さが、目立ちますね。
強いのは、柔道、体操、マラソン等々で。
逆に今回の五輪では、サッカーやソフトボールといった団体競技は振るいません。
これはいったい、どういうことなのでしょうか?
私見では、第一にやはり所得格差の広がりに応じてソーシャルキャピタル(まあ、単に貨幣換算される資本に留まらない、人脈や練習施設および練習環境などの「総合的な資本」ですね)にも格差が生じたこと、第二に選手個々人のメンタリティが変わったこと、第三に、にもかかわらず指導者層やそれぞれの種目の機構などの「頭脳」は旧態依然としているため、監督の力量が問われる団体競技はいまだ振るわないのではないか、ということ、以上三点の理由が考えられます。
第一の点は、体操やレスリングなどの選手が「二世」ないしは実家が道場の経営者であったり、あるいは親の趣味(笑)で幼児期から練習をさせられたり、と練習に関する環境に恵まれている人が目立つこと。
それから、とりわけ水泳の北島選手や柔道の谷選手などは典型的ですが、企業ぐるみで「チーム」を組んでいる選手が強いこと、などによります。
第二の点は、これはもう言うまでもないことでしょう。日本人全体の志向が合理的・科学的になってきたことは(もちろん個人差はありますが)明らかでしょう。
ちなみに。
私は「日の丸のために」と泣きながらメダルを取るよりも、金を取って「取っちゃいました」と言って戯けてみせるような選手のほうが断然好きです。最近はそういう選手の割合が増えてきて、見ていて気持いいですね。
「お国のため」という重圧感が減少したこと、そして「自分のため」と公言することに何ら抑制がかからないどころかむしろ当然のものとして受け入れられるようになったこと、これは大きいです。
ただ。
こうした彼ら/彼女らの個人的な「成果」も、ひとしく国威発揚の道具にされてしまいかねない側面もあり、注意が必要だとは思うのですが(^^;。
またぞろ、「構造改革の成果」のネタにされそうですし……。
また、第三の点に関しましては、一世代めぐらないと変わらないかなぁ、と考えます。
どうも「上」の旧世代の方たちというのは、いまだに人付き合いは「対面主義」を重視する感覚が抜けていないのではないか、と思うんですよね。
つまり、顔を見合わせて「知っている」相手を贔屓してしまうという……。
代表選手選びなども、監督と面識が合って「馬が合う」選手から選ばれてゆくように見受けられます。
もっと冷徹に、「データ主義」(=真の意味での実力主義)になるべきだと思うんですけどね、こういうものは……。
今日の社会の特徴として、情報通信技術の進展にともなう「共在関係」の変容をあげたのはZ.バウマンですが、日本人のある世代以上は「これ」について抵抗感があるようですね(^^;。
つまり、「会って話す」「顔を見て話す」ことが何より大切であるという。
この感性から、ネット上のコミュニケーションの発達こそが、若者のコミュニケーション能力低下の要因である、という論調が出てくる訳なんですが……。
たしかに実際に会って話すと、人は言葉だけでは伝わらない多量の情報を交換することが可能です。
でも。
……目の前にいて話しているがゆえに、見えなくなるものだってあるのではないでしょうか?
たとえば相手のヴィジュアルイメージや、両者の権力関係に惑わされてしまって、かえって言語化された純粋な「意味」や会話の「内容」についての意識が希薄になることだってあるのではないでしょうか?
その意味では「会えば分かる」、さらに「対面的コミュニケーション(=パーソナル・コミュニケーション)こそがリアルである」との考え方に、私は疑問をもっています。
もちろん、これは対面的コミュニケーションの「効用」を軽んじるものではありません。
私が問題視しているのは、対面的コミュニケーションのあまりの重視なのです。
これが変わらない限り、日本の社会は根本的には変わらないでしょうね(^^;。
それから、話は変わりますが。
個人的には、サッカーのなでしこジャパンに頑張って欲しかったなぁ(^^;。
普段フリーターをやっているような選手たちが多数だそうですし、ここでメダルを獲得して知名度を上げて、スポンサーが大勢つくなり、女子リーグがもっと盛んになるなりしてくれたらよかったのですが。
つくづく、スポーツの世界は男性優位ですね。
オリンピックの個々の競技を見ると、活躍している女子選手は大勢いるわけですが。でも。
男性ならば野球やサッカー等の人気スポーツにはプロリーグがあって、上手くすれば億単位の年俸を獲得できるのに対し。
興行的に「儲かる」女子スポーツリーグってあまり聞きませんよね。
もちろん、女子選手が「稼げる」分野だってあるでしょうけれども、総数が少ないように思うのです。
いきおい、活躍するとテレビタレント化する女子選手が多いのも、仕方ないのかもしれません。
しかも、女子スポーツの監督やコーチは男性指導者というのがまだまだ多いですし。活躍しても引退した後、指導者になれる可能性もあまり高くはないのでしょうか……。
August 23, 2004. Mon. 雨
いい湯だな♪
温泉に行ってまいりました♪
青森の蔦温泉、青荷温泉、酸ヶ湯を梯子して入ってきました。
いや〜、極楽極楽♪
どれもこれもいいお湯でした。
現在、慢性の肩こりが消えてシアワセです。
今回は、夫と義母と義妹の四人で家族旅行でした。
知る人ぞ知るランプの宿、青荷温泉に泊まったのがメインで(^^;。
……良かったです(しみじみ)。
文字通り電灯もなし、ケータイも圏外の宿で。
ひたすら滝の音だけが聞こえてきたのですが(目の前が滝のロケーションの離れを取れたので(^^;)。
お湯質が素晴らしく、そして電気がついていないだけに、夜は満天の星空がもう、言い知れぬ美しさでした。
しばらくお義母さんと義妹と三人で、星を堪能しながら露天に入っていたのですが(お義母さんの誕生日祝いに、旅行をプレゼント企画だったもので)。
夫は孤独であったらしく、ブツブツ言っていました。
……義弟かお義父さんを連れてくればよかったかしら、と思った次第です(^^;。
August 18, 2004. Wed. 晴れ
「イリスのアトリエ」クリアしました♪
というわけで、クリア後感想です。
例のごとく、ネタバレにはご注意ください。
と、いうか。
実は今回、途中からプレイ日記をつけるのを止めてしまっているのですが(汗)。
それには訳があります。
……………。
ごめんなさいっ!
私的に、ダメでしたこのゲーム……(涙)。
いや、ならばなぜクリアしたのかと問われれば、「それは一度始めたものごとは、たとえゲームであろうが何であろうが、きちんと終わらせてから次のことにとりかからないと気持ちが悪い」という、貧乏性なこの性格が悪いんですが(^^;。
さて。
このサイトは基本的には「アトリエファンサイト」であり、こちらにお寄りいただく方も、大多数はアトリエ好きな乙女の皆様だと思っております。
そして。
そういった皆様を敵に回すような意見を、述べたくはないのですが、しかし。
一方、本サイトは誰に強要されて作ったわけでも、お金をもらって書いている訳でもない、私の趣味の趣味による趣味のためのサイトです。
したがって、趣味を追及することのみを目的としたサイト!
しからば。
……嘘を書きたくはありません(きっぱり)。
と、いう訳で。
……あのゲームが大好きで、批判的な意見はノーサンキューという方には、申し訳ないのですが下記の文章はお読みにならないことをお薦めいたします(汗)。
え〜。
「イリス〜」なんですが。
私にとってダメな要素は大きく二つあります。
その第一にして、最大のもの。それは。
……魂が入ってねぇッ!
と、いうものでした。
何度も申し上げますが、あのゲームがお好きな方には申し訳ございません。
もちろん、開発スタッフの方々は魂を込めて製作なさったのだろうとは思います。
また、十分堪能できたという方もいらっしゃるだろうとは思うのです。
でも。
私には。
……届かなかったのです(涙)。
いろいろと、意見をおっしゃる方はいるでしょう。
ゲームバランスがどうの、雑魚敵が出すぎだの、ストーリー構造がどうの、アトリエの名を冠したことについての賛否だの……。
でも。
いいんです。
私としては、極論すれば。
そんなものがぶっ壊れていようが、破綻していようが、体裁をなしていなかろうが。
魂が入っていれば、そんな細かな「ほつれ」みたいなもの、気にならないんです。
一番まずいのは、このゲーム、一応きちんと体裁が整っていて(なんだか、オーソドックスなエニックス系のゲームのスタイルを素直に受け取っていますね)なおかつ魂が入ってないってことでしょうか?
「仏作って魂入れず」みたいな……。
私はゲームだけではなく、小説、映画、漫画、アニメその他もろもろの「物語」とは、生き物だと思っているんです。
この生命力が感じられないものは、すべからく好きにはなれません。
この意見は、自戒を込めて言っております。
私も、たまにやってしまうことがあるんですよ。「体裁ばかりで、魂の入っていない」論文を書いてしまって。
で。一応体裁は整っているので審査には合格するんですが。でも。
……分かる人には、分かってしまうんですね、そういうのって。
抽象的な意見で申し訳ないのですが、たとえばそういう生命力のなさは、ストーリー構造とキャラの台詞のかみ合わせの不具合として現れたり、プレイヤーを横に置いて行ってしまう展開として現れたり、強すぎる雑魚敵大量発生現象として現れたり、その雑魚敵が横に重なっていて陰になった敵が見えなかったり、雑魚にもかかわらず妙にGutsの発動率が高い上に主人公の「逃げる」コマンドの成功率が低いといった「指摘」として現れてしまうと思うんですよね。
ユーザーの意見は、いろいろあるとは思うんですよ。
ゲームをプレイした人間の意見というのは、主観的な意味世界を反映したものです。
したがって、Aさんが「面白かった」要素が、Bさんにはダメ要素だったりします。
重要なのは、細部に関するダメ出しを「調整」するよりも、なぜその細部がユーザーにとって「気になる」のかを構造解明することだと思うんですよね、私は。
さらに言えば。
イリスに関しては、この細部と全体とのかみ合わせがすべての領域に渡ってばらばらでした。有機的に繋がっていない印象なんです。
たとえば、キャラの台詞とストーリー展開速度のかみ合わせ、ストーリーの「本筋」とサイドストーリーの配合具合のかみ合わせ、シリアスな部分とギャグ要素のかみ合わせ、雑魚敵とボスキャラの強さのかみ合わせ、主人公の歩く速度と雑魚敵出現率のかみ合わせ、etc。
客観的に考えるならば。
たしかに、狙いはいいですし、キャラの設定もいいです。
少々同人要素を真面目に受け取って「勉強」しすぎたかな〜、というきらいはありますけれども(^^;。
蛇足ながら、本家のゲームメーカーが同人要素をまともに受け取りすぎると、私は結構ひいてしまいます。なんだかこの「温度差」もまた、「イリス〜」の垢抜けなさ(これも、必ずしも悪くない場合もあるのですが)に通じるものがあると思います。
これをやって成功するには、相当なセンスが必要だと思うんですよ。今のところ、これをやって成功しているキャラゲーのキングは、サモンナイトシリーズだと思うんですけれども(^^;。
閑話休題。
私にとって、このゲームがダメだった第二の理由、それは。
……生死の問題をあまりに軽く(というか、雑に)扱っている。
というものでした。
このゲーム、ホムンクルスという「限定づけられた生」を中心に展開しています。
また、失われた魔法の技術やすでに亡くなった主人公のお祖母さんの逸話、さらには魔法屋ビオラのサイドストーリーも絡み、ことごとく生死の問題が顔を出します。
でも。
これらの扱いが。
……軽い。
重々しく扱えばよい、というのではありません、念のため。むしろストーリー展開上も、みんな深刻に扱っていますよね。
でも。
表象としての深刻さと、作り手が生死の問題を根底から見据えているかはまた、別問題だと私は思うのです。
話は逸れますが、最近こうした生死を扱う「重い」ストーリーが流行っていますよね。「冬ソナ」しかり、「セカチュウ」しかり(^^;。
二つとも、きちんと見たり読んだりしていないので作品の良し悪しは言えませんが、ただ現象面に即して言うと。
ひとところは「それって笑えるの?」が評価の中心であったある種のものが、「それって泣けるの?」に摩り替わったのではないかと。
そんな気がしてなりません。
この辺りの分析は書き始めると長くなるので、この辺でやめますが(^^;。
で。
話は元に戻って「イリス〜」における生死の取り扱いの軽さなんですが。
要するに、ストーリー全体が生死の問題を根底から受け止めて展開しようという意志が希薄であるにもかかわらず、キャラ設定が生死の問題を重々しく身に受けているため、その間に齟齬というか唐突感が浮き上がってくるように思うのです。このせいで、リイタの「自殺未遂」やビオラの「死ぬかもしれない」発言が、何やら電波系リスカ少女のように見えてきて、私としてはイタかったですね(涙)。
もちろん、開発者側はそんな意図はないでしょう。極めてまともにストーリーを考えた結果であろうと思います。
ドラマツルギーの基本は、「分裂」と「欠如」です。
RPGというのは、結構小説以上に素朴なストーリー構造をしている場合が多いので、たいてい主人公は「失われたもの(欠如)を取り返しにゆく」か、「分かたれたもの(分裂)を乗り越える、ないしは統合する」旅に出るものなんですが(^^;。
その意味で、生/死、人間/ホムンクルス、人間世界/マナの世界の分裂を描き、限定された生というテーマを中心軸にすえたという点は王道といえるでしょう。
しかし。
それだからこそ、あまりにも生死の問題が軽く扱われていることに疑問が湧いてくるのです。
また少々話は逸れますが。
よく、「物語の中で人を殺すことについてどう考えるのか?」といった類の議論がありますよね。
それに対して、「ストーリー展開上必然性があればよい」というのが大勢を占める意見だと思います。
私も、それについては異論はありません。
しかし、それ「だけ」では足りない、とも思うのです。
大仰な言い方で申し訳ないのですが、ストーリーの中で人を殺す場合、作り手はその生死の問題を引き受けるだけの度量がなければならない。
私は、そう思っています。
そういえば以前、手塚治虫作品について云々言った覚えがあるのですが。
手塚のもっとも特筆すべき点は、稀代のストーリーテラーであったこと以上に、生死や善悪といった重い課題をその重さのままにストーリー上に引き受けようという意志を貫いた点にあると思うのです。
「ストーリー展開上の必然」は、たしかに重要です。
しかし、私たちがすべからく死すべき存在者であるということは、物語以上に必然的なのです。
誰もが、それを忘れて今日も生活していますけれども(^^;。
この死の必然性への意識を、ハイデガーは「先駆的覚悟性」と言いました。
そしてこれをもって生きる人間こそが「本来性」を有しているのである、とも。
その意味で、「他人事として死」がただただエンターテイメントとして消費されてゆくことに、私は少々疑念を抱きます。
もちろん、たかがゲームの話でここまで大仰に考えるのは、少々お門違いかもしれません。
でも、近年、死や善悪の問題について基底から考えたエンターテイメント作品が少ないように思うのです。
死や善悪(そして暴力)を取り扱った作品は、こんなに多いのに。
その意味を問い直すような作品が少ない。
お説教じみていたり、深刻めいていればよいという問題ではありません、念のため(^^;。
少々話が逸脱しすぎました。すいません。
最後に、「イリス〜」の良かった点ですが。
音楽は本当に、出色の出来でした。
音質といい、転調の加減といい、これは一線級であったと思います。
声優さんも良かったです。
ただ。
声優さんが上手いと、かえってシナリオの作り方の問題点が浮上してしまうような……(イヤ、モウイウマイ)。
以上、言いたい放題で不快に思われた方には、どうもすいません。
ただ、今後もこういう感じであるならば、大好きなアトリエではありましたが、もうこのシリーズは買わないだろうなぁ、というような予感が……(^^;。
The world in this trivial DIARY: nothing is new under the sun
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