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November 30, 2003. Sun.
ようやく、
バイトでやってる講義が一段落しまして、また次を待っている状態でございます〜(へろへろ)。
……脚が棒のようですな〜。
さ。
来週からも、頑張ろう……。
これで、あと三日は思いっきり論文に取り組めます。

しかし、問題が……。
さきほど論文を夫に見せたところ、思いっきりなダメ出しをいただき、今日も寝るわけにはいきません……。
思うんですが。
これは新婚生活ではありません。
……院ゼミ合宿生活エンドレスヴァージョンです……(涙)。
結婚式を挙げなかったので(二人とも、そういうものに時間とお金をかける気が起きなかったもので(^^;)、現在、友人知人からは、ちらほら、「おめでとう」と言われるのですが。
あの。
……この状況、何かめでたいですか(号泣)?

しかも。
夫は、ものすごいキレイ好きなんですよ。
ガサツな私が悪いのかもしれませんが。
なんかもー、常に本やら資料やらを、整頓しながら歩いているような人でして。
「部屋の中が整頓できない人間に、頭の中身が整理できるはずがない」
とのことで。
……耳の痛い話でございます〜。
だもんですから。
当然、埃とか、ゴミとかの類が大嫌いなんですよね〜。
常に、ガムテープで、絨毯とかを、ぺたぺたぺたぺた、あんたどこの専業主婦よ、ってな感じに、掃除しながら歩いています。
最近、彼が「生きてるホウキ」、ないしは「生きてるゴミ箱」に見えてきました。

部屋の中をとっちらかして、まったりダラダラしていると怒られるものですから、私も掃除が大変です(涙)。
先日は、朝起きたら、リビングで彼が例のごとく、ガムテープで絨毯をぺたぺたしながら、
「おまえが昨日ゲームをしながら喰い散らかした煎餅のくずが、ここにも、ここにも、ここにも!(←ゲーム+お煎餅+日本茶=私の至福の時間です)」
と、ぶつぶつぶつぶつ言っているのを見て。
つい、うっかり。
「あなたを見ていると、亡くなった母を思い出すわね〜(←ガサツな娘とは大違いの、キレイ好きな人でした)」
と、しみじみ言ったところ。
「……いいから手伝え!」
と、怒られました……。

まあ、埃が嫌いなのには、別の理由もあるんですよ。
彼は、慢性気管支炎気味でして。身体がとくに弱い訳ではないのですが、っていうか、むしろ殺しても死ななそうな人なんですが(^^;、ただ、汚い空気がものすごく苦手だったりするんです。
そんな訳で。
清潔にしていることはもちろん、部屋には空気清浄機が置いてあります(必需品です。これを置いておかないと、本が多くて埃が溜まりやすいので、つらいらしいです)。
気管支が弱いので、彼は煙草の煙も大嫌いです(酒はザルなんですがね〜。いくら飲んでも酔いません。不思議な人種です)。
「煙草を吸う人間は、頭がおかしい。あんな明らかな発癌物質には、もっと税金をかけてしかるべきだ」
と、しょっちゅう言っています。
ちなみに、うちの研究室には、煙草を吸う人が多いんですよ。先輩でも、後輩でも。
当然、
「あいつらはバカだ! 勝手に吸ってガンになるのは自由だが、なんで俺までバカの嗜好品の煙を浴びなけりゃならないんだ!」
と、常に怒っております。
ちなみに、私も昔吸ってました(^^;。
横でけほけほ言ってつらそうな顔をしている彼を見て、内心、「ザマーミロ……(クックックッ)」と思いながらスパスパやっていた覚えがあるのですが(いや、いつも説教くらってムカついてたもので(^^;)。
そういえば、私が喫煙者だったころ、彼は、よく横でぶつぶつ言っていましたっけ。
「やめろとは言わないが、煙草と肺ガン、口腔ガン、咽頭ガンとの因果関係は云々……」
「やめろとは言わないが、アメリカでの煙草の害についての訴訟の状況は云々……」
「やめろとは言わないが、ニコチンが人体に及ぼす悪影響の例は云々……」
「やめろとは言わないが、発ガンのトリガーとしての煙草の働きは云々……」
ブツブツブツブツブツ、ネチネチネチネチネチネチ、クドクドクドクドクドクド、延々と言われ続け(←ときどき、この人のこういうしつこさは、驚嘆に値するような気がします……)、二年程が経過した、ある日のことでした。
私は、ある日突然、煙草が吸えなくなりました。
吸わなくなったのではなく、身体がまったく受けつけなくなってしまったんですよ。以来、一本も吸ってません。っていうか、真剣に吸えなくなってしまいまして……。
今考えても、ものすごく不思議です。思うに、ものすごいサブリミナル効果があったのではないでしょうか?
それ以来、全然平気だった他人の煙草の煙まで、ダメになってしまいました。目も痛いし、喉も痛いし、頭まで痛くなっちゃうし……(涙)。
全然やめる気はなかったので、なんか、「負けた」みたいで、ちょっとくやしいですね〜。



November 28, 2003. Fri. くもり
最近、
忙しいです……(涙)。
忙しいのは慣れているのですが、疲労のあまり打ち間違えが多かったりして、いつもより能率が上がらないのが非常にまずい感じです。
さきほども、ザールブルグ市民課の新聞担当者様にメールで第二話の推敲版をお送りしたのですが、「市民新聞」と打とうとして、「死因新聞」と打ってしまい、我ながら呆れつつ苦笑しておりました(^^;。
論文の締め切り+文部省その他への提出書類+最近夫に勉強を見てもらっているので、その分のテクスト解釈+バイトでやっている講義の予習+バイトの方の納入原稿の締め切り、がありまして、凄まじい状態です。
そーいや。
研究室の先輩と結婚したのはよいのですが。
「せっかくだから、毎日勉強をみてやろう♪ 」
と言われ(というわけで、論文や課題の他に、テクスト解釈の基礎的なおさらいをやっております……)。
それは大変にありがたい申し出ではあったのですが。
あまりにもありがたすぎて。
最近。
……寿命が縮んできたような気がします……(涙)。



November 23, 2003. Sun. 晴れ
戦利品(?)
バイトの帰りにゲーセンに寄って、ピンキーのヌイグルミを取りました☆
実は。
頭がでっかくて、バランスが悪く、何度トライしてもダメだったので、諦めて帰ろうとしたんですが。
ですが。
え〜、あんまりおっきな声では言えませんが(^^;。
ちょうど機械の調子を見ていた店員のお兄さんが、こそっとケースの鍵を開けてくれ、さきほど私が取り損ねたヌイグルミを取りやすい位置に置いてくれたんですよ。
「どうぞ、これなら転がせば取れますよ☆」
と言ってですね〜(^^;。
や〜、私があんまり必死の形相で取ろうとして取れなかったんで、哀れに思ったんでしょうかね〜?
まあ、とにかく。
……店員のお兄さん、ありがとうございましたm(_ _)m。
ってなわけで。
とりあえず、記念撮影です☆



可愛いんですが、なんかたくらんでそうな顔ですね〜(^^;。



November 22, 2003. Sat. 晴れ
ニュースからです。
福岡県の中学校で、体育館完成の記念講演として、数学者の秋山仁を呼んだつもりが。
手違いで、なんと、元ダイエーの秋山幸二が呼ばれてしまう事件が起きたそうですね……。
呼ぶつもりだったのは、数学者。
呼ばれたのは、元プロ野球選手。
そんな。
……秋山って姓しか共通点がなくって、なんで間違えられるんでしょうか(そのほうが不思議です)?

でも。
さすがは秋山。
この「代打」はばっちりだったみたいで(^^;。
無事に講演を終えたらしいですね。
生徒たちにも、好評だったそうなんですが……。
ちなみに、私も現役時代の秋山選手のファンでしたので(走攻守そろった名選手でした)、そういう間違いだったら嬉しいかもですが(^^;。

秋山幸二本人の話は。
「到着したときに学校の雰囲気がいつもと違っていて『どうしたのかな』と思っていた。演題も事前に聞いておらず、秋山仁さんを紹介する張り紙もあり、『俺が話さないほうがいいのかも』と思ったが、学校的の立場もあり最終的には引き受けた。結果的に子供たちにも喜んでもらえたかな、という感じです」
とのことで。
それから、間違えて手配をした担当者には、
「いつから俺は数学者になったんだ」
と苦笑いしていたそうなんですが。
や〜、でも、あんな有名選手だった人なのに。中学校の立場があるからって、そのまま講演を引き受けてくれるなんて、いい人ですね〜……。



November 20, 2003. Thu.
マントラ
現在、一応新婚なのですが(^^;、何一つ新鮮味がありません。
夫も私も複数締め切りに追われ、凄まじい状態です。
夫は、論文を書いていると、ブツブツブツブツ、今書いている論文の内容を口の中で言い続ける癖があります。
これは。
自室だけではなく、考え事に「入って」しまうと、電車の中なんかでもやってしまう癖でして(^^;。
で。
締め切り前。
家中には、マントラのように、夫のブツブツ声が響き渡っていくんです……。
はっきり言って、これだけでもかなり不気味なんですが。
しかし。
昨日の夜。
夫が論文を打っているときのブツブツ声が、いつもと、「ちょっと違う」ことに気がつきました。
何て言うんでしょうかね。
こう。
リズミカルなんです。
これは、どこかで聞いたことがあるような……?
しばらく聞いていて。
私は、はた、と気がつきました。
これ。
……アンパンマンのテーマソングだわ……。

深夜。
パソコンの横に専門書を積み上げて、眉間に皺を寄せて論文を打ちながら、「アンパンマンのテーマソング」をブツブツ歌う夫の図は。
こうやって書いてみると、ちょっと愉快ですが。でも。
実際に見ると。
……底冷えのする恐さがありました……(涙)。



November 19, 2003. Wed. 晴れ
さてさて、
日記ネタの続きなんて、気にしていらっしゃる方は少ないでしょうけれども。
15日に書きました、「ゴスロリ家族殺傷事件」の雑感の続きでございます。ちょっと旬を過ぎちゃったでしょうか(^^;。

第二の、報道のされ方の問題を、私は三点挙げましたね。
(1)「ゴスロリ」に代表されるサブカルチャーの問題と、精神病理、および犯罪の問題が一緒くたに扱われていること。
(2)(1)と関連して、少年少女の趣味嗜好の問題が、ことさら強調されて報道されていること。
(3)新聞にしろテレビにしろ、(1)、(2)の問題を指摘した後に、おさだまりの「リアルとヴァーチャルの区別がつかなくなった」とか、「少年期にありがちなもの」という陳腐な一般論で締めくくられていること。

で。
(1)に関連しまして。
以前も書きましたが、サブカルチャーと精神病理や犯罪の問題が一緒くたに扱われている、というこの問題。
結構、重要だと思うんですよ。
単純に、「(学者の偉い)オジサンは、若者文化が分からない」っていう素朴で陳腐な結論はとりあえず置いておくにしても。
若者文化、つまりサブカルチャーやカウンターカルチャーと言われるものって、国や社会が認める「(大きな)文化」より下位にあるものと位置づけられていますよね。
しかし。
こうしたサブカルチャーやカウンターカルチャーは、こうした「大きな文化」(と、仮に呼びます)、への対抗意識や、それを打ち壊そうというコンテクストによって貫かれています。
なぜならば。
ブルデューの指摘を待つまでもなく、こうした「大きな文化」は、国家や政府といった大きな権力に親和的なものであり、とりわけ若者にとって、自分たちを抑圧する対象でもあるからです。
「大きな文化」の一番の特徴は、何でしょうか?
答え。
それは、「教科書に載っている」ということですね(^^;。
あるいは、「叙勲の対象になる」でもいいです。
とにかく。
こうした「大きな文化」は、国や政府の権威を裏打ちするのに好都合なものであり、そして、そうした文化に通じていることを、通常、人は「教養がある」と言います。
そうなんです。

ここからが重要なんですが(^^;。
たとえば、卑近な趣味丸出しですいませんが。
「リリーのアトリエ」と「リリーのアトリエプラス」では、どの点が違い、どのような数値を上げればヴェルナーの追加イベントが見られるのか、とか。
あるいは、スミス時代とエレクトロニック時代とザザ時代のジョニー・マーのギターや編曲の差異は何であるのか、とか。
「子連れ狼」作画の小池一夫は高橋留美子の師匠で、そのせいか、高橋留美子の漫画には、なぜか現代ものでもギャグとして「暴れ馬ネタ」が登場し、その馬の動きの描写が妙に上手である、とか。
そういった知識は、ですね。
教養にならないんですよ……。代わりに、「ヲタク」って、言われてしまうんですね〜、これが(私としては、こんなごくごく凡庸で常識的な話をしただけで、なぜヲタクよばわりされるのかが謎ですが。だって、詳しい方って、もっと詳しいでしょう(涙)?)。
でも、こういった、ゲームやロックやコミックではなく。
イエナ大学時代の初期ヘーゲルと後期ヘーゲルの違いとか。
いわゆる転回(ケーレ)以前と以降のハイデガーの思想的基軸の違いとか。
ピカソの「青の時代」「ばら色の時代」「前キュビズム時代」「分析的キュビズム時代」「総合的キュビズム時代」、それぞれの作品名と特徴の差異とか。
世界的名作とされるプルーストの『失われた時を求めて』も、最初の第1編「スワン家のほうへ」には版元がつかず、1913年に自費出版されていたとか。ようやく1919年に発表された第2編「花咲く乙女たちのかげに」がゴンクール賞を受賞したものの、プルースト自身は第5編「囚われの女」の校正の段階で亡くなってしまったため、以下は死後出版であることとか。
こういった知識は、「教養」になるんですよね。
この手の話は、ゲームやコミックの話より高尚そうですか(^^;?
でも、私の中に、分け隔てはありません。カフカもプルーストもベールイもドストエフスキーも太宰も大好きですが、アトリエもメガテンもパワプロも信長も、大好きなんです。それから、中学生まで作曲理論の勉強をしていたため、クラシックの文法を非常に愛していますが、同時に、ロックも心の底から愛しております(^^;。

しかしながら、客観的に「趣味」をめぐって。
この「高尚そう」って感覚の違いって。
……どこから来るんでしょうね?
私は、文学も絵画も哲学も好きですが、ゲームもロックも漫画も大好きな人間です。「好き」の間に、分け隔てはありません。
でも。
だからこそ、思うんですよ。
たかだか趣味の違いが、人間性の良し悪しまで判断されてしまう材料となる、この状況って、いったい、何? と。
で。さらに。
いわゆるサブカルチャーの側の作り手の方々は、もしかしたら、こうした「高尚そう」な「大きな文化」に、抑圧や圧迫感を感じてはいらっしゃらるのではないか、と。

文化の問題は、世代間の意識格差の問題でもあります。
「権力」に近い側の人間は、どうしても、「下位の」文化を嫌います。
で。
貶められた、「下位の」文化は、どのようにして、この権力を揺るがせる様なプロジェクトに着手するか。
それは。
「大きな文化」が肯定する物語、つまり、「教科書的な文化」への反逆を試みる、と私は考えるのです。
話は、ようやく元に戻ってまいりましたが(^^;。
要するに。
「ゴスロリ」(関係ないですけど、何で日本ではゴシックがロリータ・ファッションと親和してしまうのでしょうね? 音楽では、ゴシックって、結構前からありましたけど…)に代表される、サブカルチャーの「美学」って。
死の匂いと、関連していますよね?

で、思うんです。
ああ、「死」くらいしか、若者の閉塞感を打ち破ることができる「共通の」キーワードが、ないんだな〜って……。
「刺激」が、「死」の匂いでしか味わえないのでしょうか……。
このことが、いいか悪いか、趣味に合うか合わないか、の判断は、申し訳ありませんが、保留させてください(涙)。
ただ、ちょっと書かせていただきますと。
私にとって、死の、とりわけ家族の死のイメージというのは、非常に身近なものなんです。
私は、交通事故で母親を亡くしました。
顔や腕が半分以上壊れた母親の死体をキレイに直したり、お化粧したり、といったことも経験しました。
こういう話を嫌いな方には、本当に、本当に申し訳ありません。
でも、私は、このため、ファッションとして死を取り上げる気分にはならないのです。
だから、不快に思う方がいらっしゃったら、本当にすいませんが。
でも、お断りしておきます。私は、母が大好きでした。こんなにも大好きな人の最後を、こういう風に迎えなけれなならないのか、と、ずっと考えました。
一年ぐらい、失語症になるくらい、言葉が出ませんた。何も書けませんでした。
ああ、「世界についての愛情と言葉とはこんなにも結びついているのか」と、そんなことを考えた次第です。

で、(2)、さらに(3)なんですが。
なぜ、ことさらに彼らの「特異性」がとり上げられなければなければならないのか。
それから。
さらに問題なことに。
なぜ、新聞は。
「リアルとヴァーチャルの区別がつかなくなった」との言葉でお茶を濁すのか。
ここからは、私見すぎて申し訳ないんですが。

あの。
誰も言ってないですけど。
「リアルとヴァーチャルの区別がつかなくなった」って、書き換えると。
「大きな文化(つまり、権力の側にとって都合の良い文化)を共有できないから、ミクロな文化に走った」(さらに、そこから出られなくなった)って言っても、良いのではないでしょうか?
実は、私。
「リアルとヴァーチャルの区別がつかなくなった」
という言説が現れるその場に。
……今日のわれわれも文化状況が垣間見られるような気がして、ドキドキしながら、新聞を読んでいるんです、毎日。
「大きな文化」とは、「大きな物語」って言い換えてもいいんですけどね(^^;。
たとえば、フリーターや新卒離職者、引きこもりや自殺者の増加など、日本の社会は、近年「大きな文化」「大きな物語」に拒絶反応を示す人たちが増えていることを現す現象で満ちているわけですが。
これって。
ああ、もはや「大きな文化」がもたらす「大きな価値」が、多くの人々の生の意味を裏打ちできなくなってしまったことの現れではないかな〜、と私は思うんです。
さて、こんな状況で。
新聞は、さらには「大きな文化」は、今、何を守ろうとしているんでしょうか?
そこを、読むのが寛容ですね☆
つーわけで。
これ以上書くと、冗長になっちゃうんで、今日はこの辺で。
今後も、いろいろと分析して行こうと思います(^^;。



November 18, 2003. Tue. 晴れ
……ヨーデル……。
15日の日記の続きを書こうと思ったんですが。
しかし。
バイトから帰ってきたら、郵便にて。
……出版社さんから、とても丁寧な文体で、恐ろしい論文督促のお手紙が来ていました。

……………。

……よ〜ろれっいっひ〜♪

気がつくと、頭の中を、勝手にヨーデルが鳴っていました。

と、いうわけで。
現在、錯乱しながら書いています(涙)。

アルカイダが、日本を標的に名指しして、それもかなりおっかないのですが、締め切りもおっかないです。
たすけてください(号泣)。



November 15, 2003. Sat. くもり
なんか最近、
日記の内容が、ニュース関連ばっかりで申し訳ないんですが(^^;。
引き続き、ニュースからです。

最近新聞やら週刊誌やらで騒がれている「ゴスロリ家族殺傷事件」(って言うのもどうかとは思うんですが(^^;)なんですけどね、雑感です。
気になった点が、いくつかあるんですよ。それはまず第一に、大きく加害者本人たちの問題と、報道のされ方の二つに分かれます。
第一の、加害者二人の問題としましては。
(1)供述が二点、三点すること。少年と少女の供述が食い違っていること(この二つについては、あまり追及がなされていないようですが)。
(2)端的な「目的」が曖昧であること。また、二人と家族との間のコミュニケーションのかたちが、まったく見えてこないこと。
(3)少女が作っていたwebサイトと事件との関連性について、少女が「あれは虚構」と言い切っていること。
の、三点が。

第二の、報道のされ方の問題としましては。
(1)「ゴスロリ」に代表されるサブカルチャーの問題と、精神病理、および犯罪の問題が一緒くたに扱われていること。
(2)(1)と関連して、少年少女の趣味嗜好の問題が、ことさら強調されて報道されていること。
(3)新聞にしろテレビにしろ、(1)、(2)の問題を指摘した後に、おさだまりの「リアルとヴァーチャルの区別がつかなくなった」とか、「少年期にありがちなもの」という陳腐な一般論で締めくくられていること。

以上、まず箇条書きにしてみたんですが(^^;。
まず、「加害者二人の問題」なんですが。
(1)の供述が二転三転すること、および少年少女の発言が微妙に食い違っていることについて、あまり誰も追及しないように思われますが。
これって、見過ごしていいんでしょうか? なにしろ、計画殺人の共謀者同士なわけですから(ただし実際には、少女のほうは幇助ということになるようなんですが)。そして連日「計画」を練っていたそうですし、少女のほうは、少年を「自分を唯一分かってくれる相手」と言っているほどなのですから。
当然、そこに緊密なコミュニケーションがあった、と仮定するのが普通ではないでしょうか? そうであるならば、この二人の供述は、なぜ食い違うのでしょうか? 単純に、少女側の弁護士の入れ知恵である、と仮定するにしても、少々不可解です。
ここから関連して、(2)の問題です。家族を全員殺して、二人で同棲して、後、心中しよう、と。このストーリーは、一見殺人オプションつきの「ロミオとジュリエット」であり、近松作品の道行きであり、ある意味、非常に古典的なお話です。
しかしながら。
この二人は、別段交際を反対されていた風でもないんですよね。ただ、同棲は反対された、との話も小耳に挟みました。たしかに、「同棲を反対された」→「家族を殺す」という図式は、シンプルですし、分かりやすいですよね。
しかし本当の原因は、その「同棲反対」ではないような気がするんですよ。これも、直感的に感じたことで、申し訳ないんですけど(^^;。
いえ、本当に同棲がしたいのであったならば、家出をしてでも一緒になったのでしょうけれども、そういう「生活へと向かう強さ」みたいなものが、まったく感じられないんですよね、このカップルは。なぜならば、私見では、この「平凡な生活」こそが、このカップルのもっとも忌避するものであったように思われるからです。これ、私としては、ポイントなんですが(^^;。
独断と偏見で言えば、この二人にとって、「殺人→同棲→心中」という物語は、外部の人間が考えるほど強固なものではなかったのではないでしょうか?
むしろこの物騒な物語は、平凡で健全な市民社会的な道徳観への嫌悪、倦怠に対して風穴を開ける「スパイス」であって、「メインディッシュ」ではなかったように見えるんですよ。だからこそ、大人たちはこの事件に対してある種の混乱を覚えるのでしょうけれども。
さらに、他の尊属殺人事件と比較してみた私見ですが、これほどまでに「家族像」が見えてこない家族殺人事件も珍しいのではないでしょうか?
もちろん、加害者が少年であり、なおかつ生き残ったお父さんや弟さんに対する配慮、ということもあっての報道規制なのかもしれませんが、それにしても。
……家族を殺す、というのはそこに何らかのどろどろとしたストーリーが潜んでいるはず、という期待は、すべて、ものの見事に外されているように見えるんです。

私がこの事件と対照的な例として思い浮かべたのは、二つの「金属バッド殺人事件」です。この二つの事件は、家庭内殺人事件としては、それぞれの時代を象徴していると言い得るものです。
まず、1980年に起こった、「予備校生金属バッド殺人事件」のほうを見てみましょう。
この事件は、当時の世情と相まって、センセーショナルを巻き起こしました。
「金属〜」の加害者は、20歳の浪人生。父は東大出の某社支店長、母もお嬢様育ち、兄は早稲田大学を卒業して、大手企業に就職、という家庭で。
精神的に不安定な状態にあったこの加害者は、両親から勉強をさぼっているところを見咎められ、「出て行け!」とか、「ダメな子ね」などと一斉にののしられ、思いあまって金属バッドで両親を滅多打ちにして殺害してしまった、というものです。
さらに、もう1件。今度は、ここから時代は16年経った、1996年の「金属バッド殺人事件」についても言及しましょう。
この事件の加害者は、今度は父親のほうでした。偶然ですが、この家庭も父親は東大卒です。しかしながら、上述した80年の金属バッド殺人事件の父親と違って、この父親は、非常に優しく子どもに対して暴力をふるわない方だったそうです。
それが、14歳の息子の暴力に耐え切れず、金属バッドで殺害してしまった。やっぱりこの事件も、大センセーショナルを巻き起こしました。いわく、父権の失墜や家族の崩壊、家庭内暴力、荒れる中学生、といったタームで……。
暴力反対、平和主義、民主主義憲法、そういったものをまっすぐに受け止めて生きてきたこの父親は、戦後まもない1946年ころの生まれで、いわゆる典型的な「団塊の世代」でした。
これに対して、一番目の「予備校生金属バッド殺人事件」の父親は、80年当事で46歳ですから、1934年生まれですね。11歳で終戦を迎えたことになります。この年齢まで、いわゆる教育勅語にのっとった軍国教育を受けた、というのは、精神性に大きな影響を与えていると思うんです。
そして、二番目の加害者になった父親のほうは、こうした軍国主義的なるものに、多大な反省を強いられた教科書で育った最初の世代です。ですから、ほんの10歳程度の違いであっても、この双方の父親同士には、その精神性に大きな違いがあったように見られるんですよね。
ちなみに。
同じ東大でも、予備校生に殺された父親のほうは経済学部出身、息子を殺害してしまったほうの父親は、倫理学を専攻していたそうです。このあたりも、非常に象徴的なんですけど。

さて。
二つの事件は、第一のものは子が親を、第二のものは親が子を殺害しました。
それは悲しいく凄惨な背景をもっていますが、しかし。
どうでしょう、みなさん。
この二つの事件、自分がやるかどうかということは横に置いておいて、愛憎関係のストーリーが、「分かる」と思いませんか(^^;?
そうなんです。
今述べてきた、二つの凄惨で悲しい家族内殺人事件に比べ。
例の、「ゴスロリ家族殺傷事件」なんですが。
……ストーリー構成、分かりづらいんです。これがポイントですね。 
いえ、本当に被害者の方にはお気の毒なんですけど、でも。
家族に刃物をふるわれる、あるいはふるう、というのは、人間にとって、ある意味もっとも悲しくも情念のこもった行為ではないでしょうか。
しかし、この事件には、そういった家庭内の愛憎劇の臭いがしません。
私は、この愛憎関係も含めた「ストーリー構造が曖昧」ということと、上述した「加害者二人の問題」三点は、密接に関係している、と私は考えます。
結論から言えば、この二人にとって、本当は殺人なんか、どうでも良かったのではないか、と私は考えるんです。
もちろん、遊びで殺人計画ごっこをしていたわけでもないのでしょう。計画していたときは、「その世界」にどっぷりはまり込んでいたのであろうと思います。
しかし、「現実に」それをやるかどうかは、実はどうでも良かった。むしろ、その計画を二人で共有することこそが、重要だったのではないでしょうか?
恋愛というのは、ある種の異常事態でもあるわけで、そこには日常性を越えたドラマが要請されます。この二人にとって、恋愛のスパイスとして非日常を味わうドラマが、「家族殺し」だったのではないでしょうか? 私見では、どのようなタイプのドラマを共有し得るのか、というのが「相性」というやつの本質に横たわっているのではないか、と思うわけですけれども(^^;。
まあ、そんな戯言は置いておきまして。
ただ、「計画」は「実行」される必要があります。
おそらく、彼のほうが、より「リアルなドラマ」を求め、彼女のほうが、それほどでもなかった、と私は推測します。
つまりですね、このドラマ。ヒーローとヒロインがもっていたシナリオが、食い違っていたんですよ。どうりで、(1)で指摘したように、証言も二転三転するわけです。
台詞回しは一緒でも、おそらくト書きが違っていたんじゃないでしょうかね?
(2)で、二人と家族との間のコミュニケーションのかたちが見えない、と私は述べましたが、さらに付け加えるならば。
この二人。
……二人の間のコミュニケーションも、実は成立してはいなかったのではないでしょうか(今のところ、誰もこんなこと言ってないみたいですけど(^^;)? いや、彼女のほうは、彼のことを「本当の自分を全部分かってくれる人」という風に言ってはいるのですが。しかし。
communication の語源は、ラテン語のcommunicatinem(共有)です。このラテン語は、communicare(ほかの人と分かち合う)の過去分詞の語幹からできた、動作を表す名詞です。さらにその語源は、communis(共通の)で、ここから、communicate(多くの人々に共有のものとする、分け与える)という語が生まれました。
しかし、残念ながら、この二人の間に事態やストーリーの「共有」は、なかったような気がするんです。
「寄り代」であったであるらしき、webサイトについても、(3)で指摘したように、彼女は「虚構」と言い切ってしまっています。
それでは、二人は、いつも何を語り合っていたのでしょうか?
通常、二人の人間の間の会話は、舞台用語では「ダイアローグ」(対話)と言います。
これに対して、他の登場人物なしに、たった一人で登場した人物が台詞をしゃべることを、「モノローグ」(独白)と言います。
通常の舞台は、「ダイアローグ」と「モノローグ」、さらには他人がいつつも独白する「傍白」が巧妙に絡み合って成立しています。
しかし。
この事件。
……登場人物は、すべて、「モノローグ」ばかりで「ダイアローグ」がいっさいないように見えるんです。被害者となった家族と加害者たちとの「ダイアローグ」も、さらには、この二人の間の「ダイアローグ」も。であるからこそ、ストーリー構造が曖昧なのでしょう。このドラマはその意味で、どちらかというと、不条理演劇のような様相を呈しています。
さて。
蛇足ながら。恐ろしいことですが、webサイトという表現形式も、非常にモノローグの色彩が強いのです。
このことを簡単に、「リアルとヴァーチャルの区別がつかなくなった」というのは、少々陳腐な結論ではあるのですが(^^;。
なぜならば、そこには、「リアルとは何か」「ヴァーチャルとは何か」という命題への回答がなされておらず、そうである以上、単なる印象批判、ないしは言葉遊び、さらには責任回避へと、突入してしまっているように見えるからです。

というわけで、今日はこの辺で。
実は管理人、論文が詰まって、気分転換に日記を書き始めたのですが、長くなりすぎてしまいました(^^;。
続き、第二の、報道のされ方の問題については、また後ほど。



The world in this trivial DIARY:
nothing is new under the sun





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