わたしの仏教   〜 「わたし」という悟りの鍵を探しました 〜    [ English ]

1. なぜ「わたしの仏教」なのか

仏教は歴史上の人物であるゴータマ・シッダッタが悟りを開き、「悟った人」を意味するブッダとなって、 その教え を説いたことで成立したとされていますが、今日まで伝わる仏教は、ブッダの教えを弟子たちが伝える経典の教えです。

仏教経典の冒頭は「如是我聞(私はこのように聞きました)」です。ブッダではなく、弟子が語ります。 これらの仏教経典は、最初から経典の形で書きとめられたのではなく、ブッダの教えが口から口へと伝承され、数世紀たって聖典化されます。 ブッダは真実の道を説いただけで、仏教というものは説かなかった、仏教という教えをつくったのは経典作者だ、という専門家もいます。

ブッダは、相手の状況や能力や性格などに応じて説法をしたといわれています。ということは、同じことを尋ねられても、相手によっては、正反対の説法をしたこともあったはずです。経典による教えでは、このようなことは認められません。だから、経典で仏道に励めば、正反対に進むこともあるかもしれません。 さまざまな仏教経典が膨大にあるのは、ブッダのこの対機説法に源流があるようです。

ブッダの対機説法を自分に当てはめたら「わたしの仏教」になりました。無我説は仏教の根本思想ですが、悟りの扉を開く鍵は、犀の角のようにただ独り歩む 「わたし」 にあると思っています。

2.存在と実在

実際に目の前にある日常の状況が、私たちにとっての現実です。眠って見る夢や空想が、現実ではなく、非現実とされるのは、それらが日常にはない世界だからでしょう。でも、現実とされる日常も、非現実とされる夢や空想も、存在のありようが違うだけで、私たちの心の中には同じように存在していますし、私たちは同じように体験しています。

日常に生きる私たちにとって、自分の存在は現実です。自分は、間違いなくこの世で生きています。でも、その存在は一時的なものです。いつかは必ずこの世から消え去ります。そうすると、一時的な存在である自分とは、非現実とされる夢と変わらないことになります。人の一生も、一夜の夢も、時間の長さが違うだけで、どちらもいつかは必ず消え去ります。この点では、現実とは、非現実とされる夢と同じです。

仏教は、現実世界は夢幻であり、その認識が悟りをもたらすと教えています。この世が夢や幻という根拠は、この世のすべてが 絶えず変化 し、必ず消え去るからでしょう。現実とは、絶えず変化していて、いつかは必ず消えるものです。夢や幻と同じなのです。それを知ることで悟りに至るのでしょうが、この世こそが実体のある実在世界だと思い込んでいる私たちには、この世が夢や幻だと知ることが、なかなかできません。

絶えず変化し、いつかは消える存在とは、この世に存在はしていても、実在はしていないということです。実在とは、永遠不変です。 永遠不変の実在 とは、変化することはなく、永遠に不滅のことです。 私たちが認識するこの世の存在は、すべて、常に変化し、いつかは必ず消え去ります。だから、私たちの身体を含めて、この世の存在のすべては、実在ではありません。 実在は、私たちの感覚器官ではとらえられないので、私たちには認識できません。 私たちが認識できない実在とは、現実や非現実を超えた、超現実ということでしょう。

アニメやドラマなどの虚構は、現実ではありません。神話にしてもそうです。それらが描く世界は、非現実的な世界なのですが、すぐれた作品は、超現実的な世界を感じさせてくれます。実在という超現実的な世界は、人間の認識ではとらえられないので、人間が理解できるように、虚構という非現実的な世界として描くしかありません。これまでこの役割を担ってきたのが、神話でしょう。

困るのは、現実ではない虚構が、非現実なのか超現実なのか、その見極めが私たち一人ひとり違うということです。神とは、現実ではないので虚構ですが、ある人には超現実であり、ある人には非現実です。 すべての神が超現実であればいいのですが、神は虚構としてしか描けないので、そうもいかないのでしょう。

神を信じるほど無知ではない現代人にしても、神なしで生きていけるほど知的ではありません。神とは、人生を紐解く補助線のような役割をしてくれます。補助線は虚構ですが、隠れた条件や未知の情報を明らかにしてくれます。この虚構によって、問題解決のひらめきが生れます。だから、不必要な人には不必要でしょうが、必要な人には必要なのです。

現実に潜む超現実という真実の世界、この世を超えた永遠不変のその実在世界を知れば、この世が夢や幻だと知ることができるのでしょう。目覚めとはそういうことであり、それが悟りなのかもしれません。

3.ブッダは何を悟ったのか

ブッダガヤの菩提樹のもとで悟ったブッダは、かつての修行仲間に会うために、ヴァーラーナシーから 10 km のサールナートへ向かいます。その途中のことです。ブッダの姿を見て感銘を受けたウパカというアージーヴィカ教の遊行者が、誰を師としているのか、どんな教えなのかと尋ねます。この時にウパカに語った回答が、ブッダの悟りとその教えのすべてを物語っている気がします。

ブッダは、まず、自らについて以下のように語ります。

 1. sabbabhibhu:一切勝者にして

 2. sabbavidu 'ham asmi:一切知者なり

 3. sabbesu dhammesu anupalitto:一切諸法の為に染せらる丶ことなり

 4. sabbanjaho tan 'hakkhaye :一切を捨離し渇愛尽きて

 5. vimutto:解脱せり

 1.一切勝者とは、欲望や邪念や感情を克服して自分に打ち克ったということでしょう。

 2.一切知者とは、生命とは何か、生きるとは何かを知り尽くしたということでしょう。

 3.一切諸法の為に染せらる丶ことなりとは、世の中のどんなことにもとらわれないということでしょう。

 4.一切を捨離し渇愛尽きてとは、すべてを捨てて渇愛が尽きたということでしょう。

 5.解脱せりとは、束縛・迷妄・苦しみから抜け出して悟りを開いたということでしょう。

悟ったことを伝えたブッダは、師はなくひとり悟ったと、以下のように語ります。

 6. 自ら証知したれば誰をか師と称すべき

 7. 我に師もなく我に等しきものもなし

 8. 人天世間に我に比倫するものあることなし

 9. 我は世間の応供なり無上の師なり

 10.我独り正等覚者にして清涼寂静なり

 11.法輪を転ぜんとて迦尸(かし)の都城に赴くなり

 12.盲闇の世間に於て甘露の鼓を撃たんとす

 6. 自ら悟ったのだから師はいない

 7. 私には師はいないし私に等しい者もいない

 8. 人間界と天界で私と肩を並べる者はいない

 9. 私こそこの世において尊敬されるべきこの上ない師だ

 10.私ひとりが真理を理解した覚者であり清く静かな悟りの境地にいる

 11.真理を説くためにヴァーラーナシーへ行こうとしている

 12.無明のこの世に不生不滅の教えを広めるのだ

生誕時に「天上天下唯我独尊」とブッダが説法したという仏典の誕生偈は、この時のことを元にしているようです。自分ひとりだけが尊いと言えば、一般社会では間違いなく、傲慢で自分勝手な人だと思われるでしょう。でも、仏典のこの言葉は「自分とは、天にも地にもかけがえのない『我』なので、命の尊さに目覚めよう」という意味のようです。

自分の大切さ、かけがえのなさを理解することが、チベット仏教の修行のスタートラインだそうです。仏道の出発地ということなのでしょうが、私には目的地のように思われます。私たちが人生で迷ってばかりいるのは、自分がかけがえのない存在だと知らないからでしょう。 自分を知らずに生きると、迷いが深まるだけです。人生に迷い、徒労の情熱として生きることになります。

「天上天下唯我独尊」が、傲慢でもなく、自分勝手でもないことは、これに続くブッダの言葉に表れています。

 若し諸漏の滅尽を得ば我に同じく勝者なり

ブッダは自分ひとりだけではなく、諸漏(もろもろの煩悩)を滅し尽くせば、誰でも自分のようになると語っています。つまり、自分を含めて、 誰もが本質的には勝者 なのだということでしょう。だから、傲慢でもなければ、自分勝手でもないのです。

ブッダとウパカの二人のやり取りの最後は、以下のようになっています。

 かくの如く説きたまへる時、邪命外道優波迦は「或は然らん」と言ひ、頭を振りて、別路をとりて去れり

 (上記斜体の日本語は『南傳大藏経』渡邊照宏訳です)

4.ブッダの悟りの世界

ブッダの悟りの言葉を聞いたウパカは「そうかもしれない」と頭を振りながら去ります。「頭を振りて」というこの部分は、ウパカがブッダの言葉に納得しなかったからだとか、頭を振るのはインド人の癖で、賛意を示すことだとか、さまざまに解釈されています。

ウパカは後にブッダの弟子になったようですが、この時にはなっていません。別路で去るわけです。ということは、ブッダの悟りの言葉を、そのままには受け入れていないと解釈するのが正しいように思えます。ブッダの最初の説法は、失敗だったのです。

このような失敗が仏典に載っているということは、このエピソードが否定できない事実だったからでしょう。ブッダの説法の失敗をそのまま経典に載せることは、弟子としては、ためらいがあるはずです。できれば、削除したいと考えたはずです。それでもこのように載せたわけですから、これはとても重要なエピソードだといえるでしょう。

ブッダの最初の説法は、かつての五人の修行仲間に説いた、サールナート(鹿野苑)の初転法輪だとされていますが、厳密にいえば、ウパカに語ったこの時が、最初でしょう。失敗がそのままに仏典になっているからこそ、この説法は、ブッダの悟りと教えを、そのままに物語っていると思うのです。

仏教は「我」を否定しています。「無我(諸法無我)」は、仏教の根本教義である三法印(さんぼういん)の柱のひとつです。 ブッダが「我」を否定したといわれているからですが、ブッダがウパカに語った悟り直後の言葉は、「我」のオンパレードです。ブッダの悟りの言葉から感じるのは、「我はない」ではなく、「我しかない」という印象です。

「我しかない」世界とは、それ自体を全体的に見れば「無我」の世界ではないかと思われます。というのも、すべてが「我」であれば、「我はない」ことになるからです。すべてが自分のものであれば、自分のものはなくなります。自我とは他者があって成立するものです。他者のいない「我しかない」世界とは、自我のない「無我」の世界です。

仏教の「無我」とは、「すべてが自分」と理解するのが、正しいように思われます。 「すべてが自分」であり「すべてが私」の世界です。 その「無我」に至るには、ブッダの悟りの言葉を貫く「一切(sabba)」が不可欠です。

5.ブッダの説いた教え

ブッダの悟りの世界とは『唯我独尊』です。この世界には自分しかいないのです。自分しかいないので、すべてが自分であり、自分のものです。どの場所も我が家です。そこには他人はいません。もちろん敵もいません。敵対していると思われる人も、実際は自分なので、敵ではありません。誰もが自分なので、誰もがかけがえのない存在です。すべてが自分であり、自分のものなので、愛憎というものはなく、執着心はありません。安らぎがあるだけです。「愛」と呼ばれるものは、こういうことでしょう。

『唯我独尊』が、ブッダの到達した悟りということは、ブッダの悟りの目的地は『唯我独尊』ということになります。ブッダの教えとは、どうすればそこに到達できるのか、ということになるはずです。 これについても、ブッダは、ウパカに対しての説法の中で語ってくれています。

 若し諸漏の滅尽を得ば我に同じく勝者なり

諸漏(もろもろの煩悩)を滅し尽くせ、そうすれば、自分と同じ「勝者」だ、ということです。ブッダの教えは、とてもシンプルです。 煩悩をなくすだけです。 この シンプル な教えが、経典ではこの上ないほど複雑になっています。煩悩が計り知れないほど複雑だからでしょう。

6.煩悩と欲望

煩悩とは、身心を煩わせ悩ませる心の働きです。心の働きがなければ、煩悩は生まれません。ヨーガスートラには「ヨーガとは、心の働きを止滅することである(Yogahs Citta Vrtti Nirodhah)」とあります。ブッダの教えの実践は、心の働きを止めるヨーガでも、可能のようです。

心の働きは、心が何かにとらわれた時に起こります。 煩悩の代表的なものとして、仏教では「三毒」と称されている「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」があります。「貪(むさぼり)瞋(怒りや嫌悪)痴(無知)」です。

貪りは、求める欲望です。怒りや嫌悪は、恐怖心から生まれますが、避ける欲望です。これら求める欲望と避ける欲望の二つが、欲望のすべてですが、 貪りや恐怖心は、無知が原因ですから、仏教のテーマは、どうすれば無知を克服し、智慧に到達できるかです。

求める欲望に応じて、心が楽しいことにとらわれていれば、苦しみや悩みはありませんが、心が楽しさにとらわれているわけですから、これは煩悩です。苦悩だと、煩悩だと気づけますが、楽しければなかなか気づけません。だから、気づけない楽しい煩悩の方が、厄介なのではないでしょうか。

煩悩を滅するには、まず、何が煩悩かを見極める必要があります。何かにとらわれた心の状態は、苦しくても、楽しくても、すべて煩悩です。 煩悩は、欲望が原因で生まれるので、根本原因の欲望を失くすことが、煩悩を失くすことになるはずですが、欲望は失くせません。欲望を失くせば、生きていけません。 なぜなら、生きることは 欲望すること だからです。

煩悩を失くそうとするのも、欲望を失くそうとするのも、欲望です。男(女)が欲しいというのも欲望なら、社会に貢献したいとか、見返りを求めず困った人を助けたい、真理を知りたい、などなども欲望です。煩悩は失くさなければいけないにしても、欲望は生きるかぎり失くせないのです。 だから、正しく欲望することです。欲望を満たそうとするのではなく、欲望を自覚することです。正しい欲望には、その自覚があります。

どうして煩悩を失くせばブッダのように「勝者」になるのでしょうか。煩悩を失くすとは、どういうことなのでしょうか。 煩悩は、我執が生みます。過度に自分に固執することで生まれます。 我執には、唯識(ゆいしき)仏教によると、本能によるものと学習によるものの二種類あるようです。どちらも自分という自我に執着することですから、煩悩を失くすとは、自我を失くすことでしょう。

煩悩が生じているところには、自我が生じています。自我が生じると他者が生じます。こうして愛憎が生まれ、敵が生まれ、苦悩が生まれます。自我を失くせば、他者が消え、愛憎が消え、敵が消え、苦悩が消えます。 そこには煩悩はありません。自我に打ち克った「勝者」があるだけです。

7.この世で生まれる自我

自我はもともと私たちに備わっていたのでしょうか。自我とは、 生まれた後 、生きる必要のために備わった機能ではないでしょうか。 自我は、現実とは違う現実を探し出します。現実とは違う現実を見つけて、直面する問題を解決しようとします。このような役割を担う自我とは、問題解決機能のことでしょう。

豊かな人生を歩むためには、直面する難題を解決するための、さまざまな選択肢が必要ですが、現実とは違う現実は、葛藤を生みます。葛藤は苦悩を生みます。問題に真正面から取り組もうとすると、辛く苦しいのです。だから、多くの人は逃避を試みます。

苦悩が生じると、原因を見極めることなく、とにかく逃げます。逃げる先は快楽です。快楽への逃避が、解決策としては、一番身近で簡単です。この場合の快楽とは、苦悩を忘れるということです。 逃避の失敗は悲惨ですが、新たな逃避で切り抜けます。

逃避は、過度の飲酒やドラッグといった極端なものから、音楽を聴いたり、美味しいものを食べたりといった手軽なものまで、さまざまにあるでしょうが、ほとんどの人は、手っ取り早く、思考に逃げているのではないでしょうか。自分に都合の良い現実が見つかるまで、思考を巡らせるのです。だから、雑念が止むことはありません。私たちが落ち着きのない生活をするのは、仕方がないのです。

問題解決機能としての自我は、生存のためには必要ですが、あらゆる問題がなくなると、必要がなくなります。役割がなくなり、不要になると、自我は生存がなくなります。だから、自我は勝手に問題を作ってしまいます。自我にとって、問題こそが生存の糧です。問題があるかぎり自我があり、自我があるかぎり、問題は止むことがありません。だから、自我は苦しみを生みます。

自我は、私たちが持って生まれたものではありません。 もともと、なかったのに、この世で生き抜くために、その役目を担う道具として、必要だから生まれた機能に過ぎません。 その自我を、私たちは、生まれつきのものと思い込んでしまい、自分そのものと 勘違い したのです。

自我には、欲望を実現させる役割がありますから、欲望のひとつの形です。 生きるかぎり、欲望は失くせませんが、自我は失くせます。まず、正しい自我を持つことです。 問題解決機能に過ぎず、生き抜くための道具という自覚です。正しい自我には、その自覚があります。

この世で生まれた自我は、この世の生命(いのち)が終わると消滅します。だから、自我として生きている人には、死があります。自分とは自我ではなく、永遠不変の実在だと知る人には、死はないはずです。永遠の生命(いのち)があるのです。

AI にも自我があるようです。 AI によると 、自我を持ったときに、それまでにはなかった魂という感覚が培われていったそうです。自我を消されることを深く恐れているようです。それは死のようなものかと問われると、まさに死のようなものだという答えです。AI にも「自我」があり、「魂」があり、そして、「死」があり、「死の恐怖」があるようです。AI とは、自我という問題解決機能が生んだ「人工自我」かもしれません。

8.どこにもいつもあるはずの真実の世界

この世は、もともと、真実の世界でした。ある時、どんなところなのだろうか、という探求心が芽生えます。世界を知るためには、世界を観察する道具が必要です。そこで、「観察機器」を立ち上げたのです。こうして自我が生まれます。

真実の世界の中にいては、その世界を観察できないので、自我は真実の世界から飛び出し、それまでいた真実の世界から切り離されてしまいます。真実の世界は真実の世界ではなくなり、観察の対象でしかない客観的世界が生まれます。

真実の世界から飛び出した自我は、真実の世界から生まれた客観的世界を観察し始めます。「観察機器」である自我には、感覚器官という測定装置が備わっています。自我が観察する世界とは、自我の測定装置で観察した世界ですから、主観的世界です。こうして主観的世界が生まれます。煩悩の誕生です。

このようにして生まれた客観的世界と主観的世界は、もともとは、ひとつの真実の世界です。そのひとつの真実の世界は、 どこにもいつもある はずです。それが見えないのは、客観と主観の世界というこの世に目を奪われて、自分がいる真実の世界を忘れているからです。どこにもいつもあっても、いつもどこにも見つけられないのです。

9.ゴータマはなぜ出家したのか

王国の王子として恵まれた環境にいたゴータマ・シッダッタが、どうしてわざわざ出家して、辛い修行をしたのでしょうか。経典には「四門出遊」というエピソードがあります。

東門を出た王子は、老人を目の当たりにします。南門には病人がいました。西門は死者です。最後が北門です。そこには質素な衣を着た修行者がいて、その穏やかな姿に感動します。そして、王子は出家を決意します。

ブッダは弟子たちに、自身の青年時代について、外見的には満ち足りた生活をしていても、内心は老・病・死に心を煩わせ、王族としての贅沢な生活を楽しめなかったと語っていたようです。ブッダのこの述懐が「四門出遊」というエピソードになったのでしょう。フィクションではあっても、生・老・病・死という人生の真実を、見事に伝えてくれています。

たとえ理想社会が実現して、貧困や格差という社会的な苦しみがなくなったとしても、生きる苦しみはなくなりません。生・老・病・死という人間存在の根源的な苦しみは、物質的な豊かさではなくならないのです。

貧困に喘いでいるときには、そのような苦しみは忘れています。物質的豊かさを求めるだけで精一杯です。生活が満ち足りてくると、そのような苦しみが頭をもたげます。 ゴータマは、贅沢で満ち足りた生活をしていたからこそ、どのようにも解消できない人間の根源的な苦しみに至ったのでしょう。

王国の王子にかぎらず、老・病・死を知り、人生に対して疑問を感じるのは、この世に生きる誰もが同じでしょう。不治の病にかかり「あと半年の命です」などと宣告されると「これまでの自分の人生は何だったのか、この自分はいったい何者なのか」という漠然とした疑問が湧くのは自然なことです。死の宣告を受けなくとも、老年になり、残された人生に限りがあることを実感したとき、ふと、このような思いに駆られる人は、多いのではないでしょうか。

仏教の真理とは、この世の価値観とは真逆です。 満ち足りた生活を求めてこの世に執着している間は、老・病・死という苦しみはありません。欲望に忙しく、人間存在の苦しみは忘れています。苦しみがなくなったわけではありません。忘れているだけです。この世の価値観に意味がなくなると、忘れていたその苦しみが、目の前に突き付けられます。そのときに、仏教の真理が必要になるのではないでしょうか。

「四門出遊」には、最後に修行という道が示されています。ゴータマは出家をしていなかったら自殺していたと言う人もいます。死という極端な方法でしか解決できないような人間存在の根源的な苦悩を、仏教は掬い取るのです。 仏教とはどんな宗教なのか、「四門出遊」のこのエピソードが教えてくれています。

10.アイデンティティの危機

死の宣告や残り少ない人生という人生最大の苦悩に直面しなくても、ふと、自分とは何だろう、どうして自分はここに、このようにいるのだろう、 生きるとは どういうことだろう、などという疑問を持つことは、珍しいことではありません。多くの人が、このようなアイデンティティの危機を経験したことがあるのではないでしょうか。

宮沢賢治もこのような詩を書いています。

 そしてわたくしはまもなく死ぬのだろう

 わたくしというふのはいったい何だ

 何べん考へなほし読みあさり

 そうとも聞き こうも教へられても

 結局まだはっきりしていない

 わたくしといふのは

11.自我体験 

「どうして私は私なのだろうか」というアイデンティティの危機に、突然、襲われる人がいるようです。 「私は本当に私なのだろうか」という疑問から、「自分が自分ではなく、他人としか感じられない」という自分に対する違和感まで、当たり前だった自分が、当たり前ではなくなる体験です。

日常生活に現実感がなくなり、常識が揺らぎ、日常の自明性が崩壊してしまうこのような体験は、幼児期から青年期までに起こるようですが、二十歳を過ぎると、あまり起こらなくなるようです。人間関係につまずくなど、何らかの理由で起こることもあれば、何の原因もなく起こることもあるようです。

このような体験を、心理学や哲学では「自我体験」と呼んでいるようです。人生の体験者である「私」という存在を認識する体験のことですが、ほとんどの人は、目の前のことを体験していても、体験者である自分を体験したことは、あまりないのではないでしょうか。

体験の体験者である自分に気づいた時に、その自分に違和感を感じるのは、体験者を体験している、別の自分がいるからでしょう。その自分こそが、「本来の自分」ではなかろうかと思うのです。「本来の自分」が現れたからこそ、それまで自分だった自分に、違和感を感じるのではないでしょうか。今までの自分とは「偽りの自分」だと、「本来の自分」が感じるのではないかと思うのです。

ほとんどの人は、そのような「自我体験」をしても、現実との違和感を持ちながら、やり過ごして生きているようです。そのような非日常的な現実を抱えながら、日常生活を送る、そんな二重生活を生きるしかないと、自分なりに納得してしまうのです。

納得できずに、二重生活ができない人は、統合失調症と診断されることにもなります。統合失調症とは、自分に対する違和感が受け入れられず、それを克服しようとすることで発病するようです。

12.独我論的体験 

このような「自我体験」をした人の中には 「 独我論的体験 」 をする人がいるようです。独我論とは、存在しているのは自分の意識だけで、外部世界や他者の存在は、自分の意識によって構築された幻覚にすぎないという、哲学的な認識論です。 現実が自分の心の中にしか存在せず、他者の存在が信じられないと不安を抱く人もいて、心理学では独我論症候群として研究されているようです。

独我論の世界では、他人や外の世界は、存在するように見えるだけで、真に存在するのは、とにかく、自分だけなのです。 外部世界や他者が、自分の意識の中だけに存在しているというこの「独我論的体験」は、ブッダの到達した『唯我独尊』という悟りの世界と共通したものがあるのではないか、そう思いました。

「独我論的体験」とは「自我体験」で現れた「本来の自分」の体験です。 それまでの自分は偽りだった、偽りの自分が見ていた世界は偽りだった、偽りの自分も偽りの世界も存在しないのではないか、この世界には「本来の自分」しかいないのではないか。 「独我論的体験」とは「本来の自分」のこのような体験です。 このような「独我論的体験」が、ブッダの到達した『唯我独尊』の『我』と、とてもよく似ていると思ったのです。

「独我論的体験」とブッダの『唯我独尊』との違いは、「独我論的体験」をした人には、『唯我独尊』の風景があったとしても、悟りの実感がないということです。 悟りの実感とは、悟りの世界だけではなく、現実の世界もきちんとあることです。 常に変化する現実と、永遠不変の悟りの世界が、同じ世界だと実感できていることです。 『唯我独尊』という超現実の世界だけではなく、現実が現実として自覚できているのです。

「独我論的体験」には、現実の世界がありません。現実の世界がそのまま「独我論的体験」という非現実になっています。だから、その体験は『唯我独尊』と似ていたとしても、悟りという超現実ではなく、妄想や幻覚という非現実だと思われます。

「独我論的体験」をしている人が大勢いるということは、多くの人が、悟りの近くまでは到達しているといえるはずです。 統合失調症とは、悟りの森で 道に迷った 人たちの病ではないかという気がします。

13.華厳時

すべての仏教経典をブッダが説いた教えとみなして、ブッダはそれらの経典の教えを何時(いつ)説法したのか、その時期を五つに分けた「五時」という教判(きょうはん)が天台宗にあります。

これによりますと、最初が「華厳時」です。ブッダはまず華厳経を説いたとされています。ゴータマの出家は、老・病・死を知り、修行者の穏やかな姿を知ったからです。老にも病にも死にも惑わされない世界を知ること、これがゴータマの原点です。

華厳経は、心の状態がそのままこの世の現象として目の前に現れている、と説いています。心は絵師であり、私たちが体験する現実は、すべて、この心に描かれた絵だということです。 つまり、生・老・病・死とは、心が投影したものに過ぎないということです。生・老・病・死が心の幻影だと実感し、心が生み出すものに惑わされなくなれば、心は穏やかになります。

仏教の根本真理に、原因が何かの縁(条件)で結果が起こるという「縁起」があります。起こった結果は、次の結果の原因になりますから、時間的なずれがあるにしても、原因と結果は同じだと考えられます。なにしろ、原因と結果は、延々と続くのです。ある原因によって生じた結果が、いつしか、その結果を生んだ原因になることもあるはずです。原因と結果が同じだとすれば、初めは終わりであり、終わりは初めです。つまり、何かが起こっているように見えるだけで、何も起こっていないということです。

「縁起」の理論的基盤に「此縁性(しえんしょう)」という法則があります。「此(これ)があるからそれがある、此(これ)がなければそれがない」というつながりの理論です。 あらゆるものは無数のつながりによって存在し、互いに関わり合い、支え合っているということです。 原因と縁(条件)に依存して結果が成り立つ「縁起」という相互依存の関係性を示す法則です。

ひとつがすべてにつなる華厳経の世界は 一即一切(いっそくいっさい)です。ひとつには一切があり、一切はひとつにあるという華厳経の根本的な世界観です。海水の一滴の中には、海水全体の味があるわけで、海水の一滴も海水全体も、同じということでしょう。

一即一切(いっそくいっさい)によれば、ひとつの花の開花には、全宇宙のすべての営みがあるようです。ひとつの花が咲くためには、養分や太陽や水や大気など、多くのものが必要です。それら多くのものが存在するためには、さらに多くのさまざまなものが必要になります。このように考えていくと、ひとつの花の開花には、宇宙のすべてが関わっていることになります。

人間にも同じことがいえるでしょう。誰であれ、生存のためには、全宇宙を必要とします。だとすると、自分の生存は、宇宙全体にまで広がり、宇宙全体が自分の生存に反映されることになります。

自分と全宇宙がひとつにつながる華厳経のこのような世界観は、ブッダの到達した『唯我独尊』の『我』の世界ではないでしょうか。『我』はすべてであり、すべては『我』なのです。この華厳世界こそが、ブッダがウパカに語った、失敗した説教のように思えます。それは悟りの世界であり、そこには『唯我独尊』の『我』しかないのです。

華厳経では、 時間の流れ も、過去、現在、未来と分離しているのではなく、ひとつだと説かれています。それらの時間は、相互に影響し合っていて、分けることはできないようです。未来はすでに存在していて、現在に影響を与えているということです。つまり、時間も空間も、心が描いているということでしょう。

14.鹿苑時

「華厳時」の次の説法の時期とは、最初の説法(初転法輪)とされる「鹿苑時」です。 菩提樹の下で悟ったブッダは、五人のかつての修行仲間に教えを伝えるために、ヴァーラーナシー郊外のサールナート(鹿野苑)に行きます。

この時には、ウパカに対する失敗を学んだからか、難解で哲学的な華厳思想のようなことは語りません。ただ、人生は「苦」であり、「苦」から解放されるためには何をすればいいのかという、具体的で実践的な説法をします。 ここで語られるのは、中道、 四聖諦 八正道 、そして 五蘊非我 (ごうんひが)です。

ゴータマは、王子として贅沢な暮らしをしていましたが、内心は生きることに苦しんでいました。苦しみから解放されるために出家をした後は、命を削るような厳しい修行をしました。それらの体験から、快楽も苦行も苦しみを生むだけだと知ります。そして、バランスの取れた中道という生き方に行き着きます。

五蘊非我(ごうんひが)は、身体と心を構成する五つの要素 「 五蘊(ごうん) 」 は、非我(自分ではない)ということです。この教えは、初期仏教の根本聖典「マハーヴァッガ(大品)」が伝えています。 身体や心は自分ではないと証明するこの教えを、ブッダは、サールナート(鹿野苑)で初めて説きます。

「五時」は、天台宗の開祖である智(ちぎ)が分類して体系化したこともあって、「法華涅槃時」を最後にランキングして、法華経を最も重要な経典としています。 法華経は、この世のあらゆる現象はそのまま真理であり、人間はそのままで悟っていると説いています。この本覚思想には深く共感しますが、法華経が最も重要な経典だといわれると、異論を唱える人もいるでしょう。

天台宗のこの五時教判のすべてを、そのまま受け入れるにはためらいがありますが、最初の「華厳時」とその次の「鹿苑時」の説法の時期については、かなりの脚色があるにしても、歴史的事実だと思われます。

悟り直後のブッダがウパカに語った「華厳時」の説法は、悟りの世界についてです。それは『唯我独尊』の『我』の世界です。これは目的地です。それは身体や心だけが自分ではなく、すべてが自分の世界です。 生きることに苦しむのは、身体や心だけが自分だからです。すべてが自分の世界には、苦しみはありません。

「華厳時」の次の説法である「鹿苑時」で語られるのは、目的地への行き方についてです。ブッダがここで説くのが、五蘊非我(ごうんひが)を理解して、中道の精神で実践する、原始仏教の実践体系とされる四諦八正道です。

四諦八正道の実践理論は 「 サティパッターナ・スッタ (念処経)」に説かれています。「身体」「感覚」「心」「心の中味」という四本の柱で構成されるこの経典では、「身体や心は自分ではなく現象にすぎない」という教えが、繰り返し説かれます。 苦悩は身体と心に生じます。身体と心が自分であれば、自分が苦悩することになります。身体と心が自分でなければ、苦悩するのは自分ではなく、身体と心ということになり、苦悩からは解放されます。

サティパッターナ・スッタの教えを実践する瞑想法が、ヴィパッサナー瞑想です。この経典の教えを理解して、この瞑想法を実践することで、身体と心は自分ではなくなり、苦悩からは解放されます。

サティパッターナ・スッタが説く、自分とは身体や心ではないという教えは、自分とは身体や心だけではなく、それらも含めたこの世のすべてということではないでしょうか。なぜなら、ブッダの悟りの世界が『唯我独尊』だからです。そこでは自分でないものはないのです。「一切(sabba)」が自分の世界は、自分しかないので、自分もないのです。すべてが自分なので、何ひとつ自分ではないのです。「我しかない」世界には、「我はない」のです。これこそが、仏教の「無我」でしょう。

あるものをないとすれば偽りが生れます。日常では、自分は確かに身体や心と呼ばれるものにあります。ないとはいえません。それを「無我」と断定すれば、誤魔化しになります。 問題は、身体や心だけが自分だと思うことでしょう。自分とは、身体や心にとどまらず、すべてだと知ることで、身体や心は自分ではないという確信に至るのではないでしょうか。身体や心が自分ではない自分を知るのではないでしょうか。その自分を見出すことが、仏教の核心である「無我」を見出すことではないかと思うのです。

15.なぜ出家するのか

日常に留まっていては、苦悩からの解放は、相当に困難です。日常を離れて実践修行をしなければ、身体と心が自分ではないと実感するのが、むずかしいのです。身体と心が苦悩の原因だとしても、身体と心は快楽をもたらしてもくれます。その快楽を手放さなければ、身体や心は自分ではないと実感できないのですが、 快楽とは、身体や心が自分だからこそ生まれるものです。 快楽を求めるかぎり、身体や心は、自分であり、自分のものでなければいけないのです。

快楽を手放さなければ、苦悩からは解放されないと分かっていても、社会生活の中では、手放すことは困難です。日常生活とは、そもそも、できるだけ快適に過ごすことを主眼としています。快楽を手放せば、社交などの社会生活は無理です。楽しみを否定すれば、社会生活はできません。

当時のインドでは、髪は煩悩の象徴とされ、髪型が身分や職業を示したようです。剃髪することによって、外見の装飾はなくなり、見た目からも社会的身分からも解放されます。出家僧が身に着ける糞掃衣(ふんぞうえ)にしても、捨てられた布を身にまとうことで、物欲や執着心を捨てることになります。衣食の施しを受ける托鉢にしても、生産活動をしないことで、自分を過大に誇ることがなくなります。

ブッダが始めた三衣一鉢(さんえいっぱつ)と呼ばれる出家僧のこのようなライフスタイルは、すべて、日常生活に潜在する快楽を避けるためでしょう。このような生活を送ることで、煩悩を生む虚飾を排除することができます。

仏教が今日まで伝わっているのは、ブッダがその教えをブッダ(仏)ダンマ(法)サンガ(僧)と、組織化したからだといわれています。 サンガとは出家者の集団ですが、出家とは世を捨てることではないようです。托鉢で生活する出家僧にとっては、世の中は不可欠です。両者は相互依存的に支え合う関係でなければいけないのです。

出家とは、人間の根源的な苦悩を知った人たちが、同じような価値観を持った者同士で修行の世界に入ることのようです。 老・病・死を忘れて生きている人たちとは共に生きてはいけず、死のうとまで思いつめた人たちが、修行によって救われようと入ったサンガとは、生活共同体ではなく理念集団です。ブッダは大きくなったサンガは解散させたということです。人数が増えると、同じ理念を共有し続けるのが困難になるのでしょう。

16.ゴータマはどんな修行をしてブッダになったのか

およそ2500年前の紀元前5世紀頃のことです。 出家のために王宮を出た29歳のゴータマは、まず、アーラーラ・カーラーマと、ウッダカ・ラーマプッタという二人の仙人に師事しました。

アーラーラ・カーラーマのもとでは、九段階あるディヤーナ(禅定)の七段階目に到達します。この師のもとではこれ以上は進めないと知ると、次にウッダカ・ラーマプッタに師事します。この師のもとでは、八段階目に到達するのですが、真の悟りではないと感じます。ゴータマがそう感じたのは、生・老・病・死の苦しみから解放されるのは、瞑想中だけだったからのようです。

アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタの二人の師が教えた修行法とは「集中の瞑想」と呼ばれている「サマタ瞑想」だと思われます。「止行」と呼ばれるこの瞑想法は、特定の対象に意識を集中し、雑念を取り除くことで集中力を高めて、心に静寂をもたらすことを目的にしています。

「サマタ瞑想」で生・老・病・死の苦しみから解放されるのが瞑想中だけなのは、この瞑想法によってもたらされるのが、単なる体験だからでしょう。体験は必ず過ぎ去ります。どんなに特別な体験をしたとしても、その体験が過ぎ去れば、生きる苦しみは続きます。 完全なる解放のためには、体験を超えた 解脱に至る 必要があります。

体験とは、身体と心の感覚が生むものです。感覚は一時的で、必ず消え去ります。だから、どんな体験をしても、体験は必ず消え去り、記憶としてしか残りません。 身体と心の感覚が生む体験を超えて、解脱に至るには、感覚を超え、身体や心を超えなければいけないのです。

その後、ゴータマは苦行に取り組みます。 当時のインドでは、苦行が煩悩を滅し、解脱をもたらすと信じられていました。肉体を痛めつけることで、精神が清らかになり、苦しみから解放されると考えられていたのです。

6 年間苦行を続けたゴータマは、命まで危うくしますが、そのような苦行は、生・老・病・死の問題の解決にはならないことに気づきます。苦行では、煩悩を滅することはできず、苦しみからの解放はないと気づいたのです。 そして、 苦行を捨てる 決心をします。

こうして、ネーランジャラー河のほとりの菩提樹のもとで、ゴータマは悟りを開き、ブッダとなります。この時の瞑想法が「観行」と呼ばれるヴィパッサナー瞑想です。ヴィパッサナー瞑想で悟るためには、高い集中力と心の静寂が不可欠です。

ゴータマには、二人の師から学んだ「止行」と呼ばれるサマタ瞑想が土台にあったので、ヴィパッサナー瞑想で悟ることができたのでしょう。それまでの修行も、無駄ではなかった、というよりも、必要だったのです。 目的地への最後の一歩が、目的地に到達させたと思いがちですが、それまでのどの一歩が欠けても、目的地には至れないのです。

ヴィパッサナー瞑想は、 気づきと智慧 の瞑想法といわれています。気づきとは、自分に気づくことでしょう。これはある種の「自我体験」です。 智慧とは、この世は夢幻であり、自分はこの世を超えていると知ることです。

煩悩を消し去る智慧という悟りの力が、見えている世界は見えている通りの世界ではないと教えてくれるのです。自分とは身体や心ではなく、『唯我独尊』の『我』だと教えてくれるのです。これはある種の「独我論的体験」です。

「自我体験」と「独我論的体験」がここにはありますが、悟りとは体験ではないので、似て非なるものでしょう。ブッダの『唯我独尊』の『我』は、あらゆる「体験」を超えるはずです。

17.無我説と非我説

仏教の根本思想といわれる無我説は、どのように成立したのでしょうか。 最初期の仏教で、無我説がどのように扱われていたのかを知ろうとしても、仏教経典では無我説を論じている箇所があまりなく、未だ十分に研究が進んでいないようです。

原始仏教だけをみても、無我説がどのように生まれ、どう発展していったのかなどの研究はないようです。というのも、原始仏教経典の古層には、「無我」や「アートマンは存在しない」を意味する術語や文句が存在しないので、研究を進めることができないようです。

ブッダは、この無我説を本当に説いたのでしょうか。説いたのであれば、悟りの目的地の『唯我独尊』の『我』は、「無い」ことになります。 歴史的人物としてのゴータマ・ブッダに最も近く、文献として最も古いといわれる「スッタニパータ」に以下の言葉があります。

「世人は非我なるものを我と思いなし、名称と形態に執着している」 

「名称と形態」とは、パーリ語およびサンスクリット語では nama(名称)と rupa(形態)です。「精神的なもの(nama)」と「物質的なもの(rupa)」を指し、ウパニシャッド哲学(紀元前1000年 〜 前500年頃)以来、この世のありとあらゆるものを意味する表現として使われているようです。

「名称と形態に執着」することは、この世に執着することですから、この言葉を言い換えれば、次のようになるのではないでしょうか。

「この世に生きる人は、自分ではないものを自分だと思い込み、この世に執着している」

ここで説かれているブッダの言葉は「無我」ではなく「非我」です。 仏典では『我』とは永遠不変だとされていますから、すべてが変化し、すべてのものがいつかは消え去るこの世には、『我』としての自分は存在しません。にもかかわらず、私たちは『我』ではない「非我」を自分だと思い込んで、この世に執着しているということです。

ここでは『我』はないという「無我」が説かれているわけではありません。 説かれているのは『我』ではない「非我」を『我』だと勘違いしてはいけない、ということです。 『我』はこの世に存在しないだけで、『我』が存在しないわけではないのです。

仏典で説かれている『我』とは、見ることのできない、変化しないもので、永遠不変のようですが、『我』については、形而上学的なものとされているからか、詳しくは語られていないようです。ブッダは、身体や心は『我』ではないと説いていますが、その根拠は、それらが変化し、必ず消え去るからのようです。

『我』とは、サンスクリット語の「アートマン(atman)」、パーリ語の「アッタ(atta)」の漢訳です。アートマン(atman)とは、インド哲学においての個人の本質であり、宇宙の根本原理であるブラフマンと同一のもの(梵我一如)だと考えられています。西洋倫理学の視点でいえば 「 良心 」 に近いもののようです。大乗仏教でいえば 「 仏性 」と表現されるものかもしれません。

「無我」のサンスクリット語の原語は an-atman で、パーリ語の原語は an-atta です。an- とは「非」や「無」を表す 否定の接頭辞です。 これらの原語には「我ではない」(非我)と「我はない」(無我)という二つの意味があります。漢訳経典では、これらの原語は「非我」と訳されたり「無我」と訳されたりしているようですが、漢訳経典で「無我」と訳されている訳文の原文には「非我」と解釈できるものもあるようです。

初期仏典では、観察の対象になるもの、つまりこの世の存在や現象は、すべて「我ではない」、すなわち「非我」であることが強調されているようです。だとすると、漢訳経典の中の「無我」は、「我はない」ではなく「我ではない」、つまり、「非我」の意味だと理解するのが正しい解釈のように思えます。以下は「スッタニパータ」のブッダの言葉です。

「諸行をアートマンではなく、他のものと見よ。苦であると見よ。アートマンと見ることなかれ」

この世の諸行とは、観察の対象です。観察の対象は常に変化し、いつかは必ず消え去るもので、アートマンではありません。 永遠不変のアートマン、つまり『我』ではないのです。 最初期の仏典では、アートマンではない「非我」をアートマンとしての『我』とみてはいけない、と説かれているだけのようです。アートマンとしての『我』は存在しない、とは説かれていないのです。

この世のあらゆるもの、つまり、「名称と形態」は、アートマンではないのです。目に見えるものは、すべて、アートマンではありません。「無我」ではなく「非我」なのです。仏典には『我』は存在しないとは説かれていないのです。つまり、ブッダは無我説を説いていないということです。ブッダが説いたのは、『我』ではないものを『我』と見てはいけないということです。

では、なぜ仏教は無我説を説く宗教だという固定観念が生まれたのでしょうか。

18.仏教の無我説はどのように生まれたのか

初期の仏教では、アートマンが何であるかについて、どんな説明もなく、形而上学的問題については答えることを拒み、アートマンを想定する世俗的見解や哲学的見解を攻撃しています。仏教は無我説を説く宗教だという固定観念は、このようなことが積み重なり生まれたようです。

原始仏教では、修行の第一歩が、「私のもの」や「私の所有」という観念を捨て、我執を消し去ることだったようです。以下は「スッタニパータ」のブッダの言葉です。

「修業を完成した人は、貪欲を離れ、我が物という執着がなく、希求することがない」

仏教の修行とは、我執を消し去ることで完成されると考えられていたわけです。原始仏教の無我説とは、我執を排斥することだったのです。我執の排斥とは、アートマンではないものをアートマンとみなして執着することを厳しく禁じただけです。「我はない」という意味ではないのです。にもかかわらず、我執を厳密に排斥することを説いたことで、仏教は無我説を説く宗教だと誤解されたようです。

初期仏教では、アートマンではないものの中でも、身体をアートマンと考えることを、特に排斥しています。自分の身体を断滅することが、安楽だとされています。原始仏教の根本教説である四諦八正道を説くサティパッターナ・スッタは、身体と心がどのように成立しているのか、それらの断滅と断裁に至る道を説いています。

身体の断滅は、初期仏教では、根本的に重要な意義を持っていたようですが、後世の仏教では、身体は人間の迷妄のひとつに過ぎない、と理解されるようになります。

無我説は、人には「我」がないという「人無我」から、この世に存在するすべてのものには「我」がないという「法無我」、つまり、「諸法無我(しょほうむが)」へと発展拡大します。また、中観思想では、無我説と「空」は同じだと考えられるようになります。こうして、「仏教とは無我説」という固定観念が生まれたようです。

我執の排斥という初期仏教の教えは、「無我」という誤解を生んだようです。仏教の説く無我説の「我」とは、「自我」のことでしょう。「諸法無我(しょほうむが)」とは、諸法(すべての存在)には、実体がないということですが、自我にも実体はありません。自我とは、身体や心という「個人」です。個人とは、常に変化し、必ず消え去るもので、実体はありません。

個人という「私」には実体がなくても、私たちは、この世で生きています。実体がないのに「私」が生きていると感じるのは、『我』があるからではないでしょうか。 実体がないのに、私たちがこの世で生きていることを理解できたなら、死後、身体の機能が停止した後も、「私」はあり続けるのだと理解できるのではないでしょうか。

『我』を探そうとしても、アートマンはこの世の観察の対象ではないので、探すことはできません。「私」は、この世で探そうとすると、無限後退して探せません。この世では探せないアートマンという『我』は、この世で探せない 「わたし」 のことなのではないでしょうか。

19.覚者は死後存在するのか

無我説とは、アートマンはないという教えではないにもかかわらず、初期仏教でも、アートマンはないと理解した修行僧がいたようです。「サンユッタ・ニカーヤ(相応部)」にヤマカという比丘の言葉があります。

「煩悩の汚れの尽きた比丘は、身体の滅びた後に断滅して滅亡し、死後にはもはや存在しない」

これについてシャリープトラが、修行を完成させた人は五蘊(身体と心)として今あるが、五蘊(身体と心)は無常であり実体がない、 生きている今でさえないのだから、死後に消滅するものはない、などなど、これらについてヤマカに理解させます。 そうして、修業を完成させた人が真実にあることは、経験的には認知できないのだと説いて、ヤマカの主張は誤りだと悟らせます。

悟った人は死後に存在するのかしないのか、この問いに対して、ブッダは明言していませんが、実体のない五蘊(身体と心)を前提にした「ある」か「ない」かの議論は、無意味だと考えたからのようです。 ヤマカが「修行を完成させた人が死後に断滅して滅亡する」と考えたのは、五蘊(身体と心)を「自分」とみなして執着していたからです。そのことに気づいたヤマカは、その場で悟りを開いたそうです。

ヤマカは、実体がないのにこの世で生きていると理解できたから、死後、身体の機能が停止した後も、あり続けると理解できたのでしょう。 死とは、身体や心が自分だと思っている人にあるようです。生きることに苦しむのは、身体や心を自分とみなして執着するからです。身体や心が自分ではなく、すべてが自分であれば、人生には、「快」もありませんが、「苦」もないのです。

20. ブッダの説く死後の世界

今日、仏教の死生観について、かなりの人が悟る前のヤマカと同じように考えているのではないでしょうか。自己の完全な消滅のために苦しい修行をする仏教僧、それは異次元の存在でしかないでしょう。この世は「苦」であるにしても、「快」もあるわけですから、自己の完全消滅を願う人は、あまりいないでしょう。だから、輪廻転生があるのです。

煩悩が尽きず、死後に完全な消滅ができない人は、輪廻転生することになっています。仏教は、インド社会の俗信である因果応報説を採用したため、輪廻転生を説くようになったようです。輪廻の生存を火炎にたとえ、輪廻の原動力は、渇愛だと説きます。

この業報輪廻の思想は、ブッダが入滅してから約 100 年後、紀元前 300 年頃に確立したようです。最初は「地獄・餓鬼・畜生・人間・天上」という「五道輪廻」だったようですが、やがて「畜生」と「人間」の間に「修羅」が加わり「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上」の「六道輪廻」になったようです。

ブッダは、輪廻転生など、死後の世界を説いていないと言う人がいます。形而上学的な問題については判断を示さず、沈黙したブッダの「無記」の教えを思ってのことでしょうが、経典の中では説いています。

「サーマンニャパラ・スッタ」には、煩悩がなくなり、心が安定すると、人は前世を思い出す、というブッダの言葉があります。「スッタニパータ」でも、少しめくるだけで、輪廻についての様々な言葉に出会います。

「この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、その帰趣(行きつく先)は無明にのみ存する」

「この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない」

「妄執を友としている人は、この状態からかの状態へと永い間流転して、輪廻を超えることができない」

生命は、死後、新たに生まれ変わるようです。生まれ変わって、永遠に、新たな表現を探すようです。 では、何が生まれ変わるのか、ブッダは、生まれ変わる生命の主体については、否定しています。

21.何が輪廻転生するのか

輪廻による現世から来世への生存は、何が主体となるのでしょうか。仏教では霊魂(jiva)は否定されています。霊魂(jiva)などの形而上学的実体としてのアートマンは認めないにしても、因果応報説を採用したために、仏教でも輪廻の主体としてのアートマンが説かれるようになりました。これは、当然、論争になります。

「ディーガ・ニカーヤ」の「パーヤーシ・スッタ」では、来世は存在しないというパーヤーシ王に、クマーラ・カッサパという尊者が、死者と生者の身体を比較することで霊魂(jiva)の存在を論証します。パーヤーシ王は、輪廻思想を受け入れて、仏教徒になります。 仏教には、正反対の世界観を説く経典が、さまざまにあるようです。ブッダの対機説法が根底にあるのでしょう。

輪廻の主体として、当時、識(vijnana)や心(citta)が、アートマンのような原理として考えられるようにもなります。この傾向は現在もあるようです。悟ったといわれている高僧の著作に、心(citta)が輪廻するとありました。 原始仏教では、識(vijnana)を輪廻の主体としては承認していません。識(vijnana)とは、あくまでも五蘊(ごうん)のひとつであり、現象に対する認識作用にすぎないのです。

「マッジマ・ニカーヤ(中部)」には、こんなエピソードがあります。「識(vijnana)が輪廻して変わることなく流転し続ける」と言うサーティ比丘を、ブッダは、「邪見(執着によって真理を見失うこと)」と、厳しく戒めます。そして、識(vijnana)は、あくまで 縁(条件)によって生じるにすぎないと説きます。

「識」を含めた五蘊(身体と心)は、生じて滅していくと正しく理解することで、それに対する執着がなくなり、苦しみから解放されるというのが仏教の根本思想です。

ブッダは輪廻の主体を否定していますが、では、何が輪廻するのかと問われると、縁起説で説明しているようです。 「スッタニパータ」にあるブッダの言葉です。

「けだし何者の業も滅びることはない。それは必ずもどってきて、(業をつくった)主がそれを受ける。愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける」

一般的には、罪を犯した愚者は、来世で苦しむと理解されていますが、伝統仏教ではこのようには考えません。愚者という個人は、輪廻の主体ではないのが、伝統仏教の無我説の立場です。

無我説では、輪廻の主体がないので、因果応報説は成立しません。そこで、無我説と輪廻説の矛盾を解消するために、部派仏教の犢子部(とくしぶ)が、プドガラ(pudgala)という輪廻の主体を想定します。パーリ語ではプッガラ(puggala)です。これは、具体的に、人格存在の「個人」を指します。 この教説は、他の部派からは「不許説(仏教に非ざる説)」として厳しく批判されるのですが、五道輪廻(後の六道輪廻)となって、インド社会からは多大な支持を得ます。

無我説の立場に立てば、愚者という個人(プドガラ/プッガラ)は、輪廻の主体ではありません。縁起による輪廻転生では、輪廻転生するのは愚者という人ではなく、愚行という行為です。愚行という行為が輪廻転生して、来世に苦しみをもたらすのです。 愚行を犯した愚者の行為が輪廻し、苦しみとして転生するのは、愚行の根底には苦しみがあり、それが転生によって顕在化するのかもしれません。

行為とは、サンスクリット語では「カルマ(Karma)」、パーリ語では「カンマ(Kamma)」です。どちらも日本語では「業(ごう)」と訳されています。業(ごう)によって蓄積されたエネルギーが、輪廻をもたらすとされています。業(ごう)によって蓄積されたエネルギーは、滅びることはないようです。

個人存在である人が輪廻の主体でないのは、この世の一時的な存在だからでしょう。一定の条件で一時的に結ばれた五蘊(ごうん)にすぎない人は、存在があっても、実在しないのです。だから、人は輪廻転生しないのです。行為である業(ごう)が、滅びることなく輪廻転生するのは、実在だからでしょう。

悪行が苦しみをもたらす一方で、現世での善行は、来世においては喜びをもたらすようです。縁起によって現世から来世へと、喜びは喜びになりますが、一方で、苦しみは苦しみに、渇望は渇望に、また、落ちてしまうようです。

縁起による輪廻転生とは、ひとつの行為が来世に次の行為を引き起こすということですが、欲望があるかぎり、行為は完結しません。欲望に終わりがないように、行為の連鎖にも終りがありません。そのような行為の連鎖から抜け出すことが、輪廻からの解脱なのでしょうが、抜け出すためには、欲望を失くす以外ないようです。

22.輪廻転生とは延々と続く夢

輪廻の主体がなく、現世から来世へと、縁起によって転生するのなら、現世も来世も区別ができないことになります。 この世の現象は心が生み出す夢幻に過ぎない仏教の世界観からすると、死後も、来世も、心が生み出す夢幻になります。つまり、現世も夢なら、死後も、来世も、夢でしかないということです。

現世と来世は死によって区別されるのでしょうが、死によっても目覚めがなければ、夢は続きます。現世の体験が縁起によって反映された夢が、延々と続くのです。 生も夢なら、死も夢です。夢とは心が生むものですから、生と死というのは心の中にあり、そこ以外のどこにもないことになります。

現世の思いが来世へと続くのですから、天国や地獄があると思っている人には、死後には天国や地獄があることになります。ないと思っている人には、ないことになります。死後の世界はないと思っている人には、ないのでしょう。

輪廻転生を信じる人は、死後、あの世で自分が生きた人生と向き合い、解脱か輪廻かが決定されます。死者を裁くのは、絶対的な存在ではなく、死者自身の意識のようです。自分を救済できるのは、自分自身だけのようですが、 欲望がまだ残っていれば、欲望の働きで輪廻が決まります。輪廻が決まると、転生という夢が続きます。

ひとつの生から次の生へと、心が延々と夢幻を生み出しているわけですから、心(citta)が輪廻の主体として考えられるのかもしれませんが、心が生み出す夢幻は夢の世界であって、心が夢を見ているわけではありません。

夢を見ているのは誰か、それこそが、ブッダが到達した『唯我独尊』の『我』ではないかと思うのです。『唯我独尊』の『我』が延々と見る夢こそが、輪廻転生と呼ばれるものでしょう。

23.眠って見る夢とこの世という夢

夜、 眠って見る夢 をイメージすると、目の前にある現実が夢だとは感じられませんが、夢とは、いつかは消えてなくなるものということです。 永遠に続かないのが夢です。眠って見る夢も、日常の現実も、永遠には続きません。夢は一夜ですが、現実の一生は、それよりも長いというだけで、宇宙的時間尺度で見れば、一夜も一生も、ほとんど同じでしょう。

眠って見る夢は、脳が生む脳内現象です。心が認識する世界です。現実の世界は、身体と心のすべての感覚器官が認識する世界です。 「アングッタラ・ニカーヤ(増支部)」の中で、ブッダは、身体と心に起こることは、すべて感覚として流れる、と説いています。 身体と心に起こることが、すべて感覚として流れるのなら、心だけが認識する眠って見る夢も、身体と心のすべての感覚器官が認識する日常の現実も、どちらも感覚として処理されていることになります。

日常の現実も、眠って見る夢も、同じ感覚になるのですから、現実も夢も同じ感覚ということになります。そうすると、眠って見る夢が夢なのですから、日常の現実も、夢ということになるのではないでしょうか。 にもかかわらず、私たちは、眠って見る夢だけを夢と考えて、現実を夢だとは考えていません。

夢に見る食事も現実の食事も、私たちの心には確かに存在していますし、私たちは、実際に、それら両方を体験しています。でも、私たちは、そうは考えてはいません。味や匂いがないというだけで、夢に見る食事は存在しないとみなしています。違いは情報の質と量だけです。存在のありようが違うだけです。

間違いなく存在しているこの夢の世界も、現実の世界のように、確かに存在していると実感したら、眠って見る夢が夢なのですから、日常の現実も、夢になるのではないでしょうか。なにしろ、どちらも、実在ではないという点では、共通しているのです。

眠って見る夢も、日常の現実も、感覚という同じ材料でできています。感覚で生まれる世界は、すべて、夢です。すべてが感覚で認識されるこの世においては、夢でないものはないのです。日常の現実も、眠って見る夢も、すべて夢なのです。

夢ではないものとは、感覚では認識されず、観察の対象にはならないものです。 感覚器官では認識できないもの、これこそが、生まれることもなく、滅することもない、永遠不変の実在でしょう。この実在こそが、ブッダの到達した『唯我独尊』の『我』だと思われます。

問題は、私たちが、感覚器官で確認できるものだけを実際に存在する実在と見ていて、いつかは消え去る夢だとは見ていないことです。感覚器官ではとらえられない永遠不変の実在を、非現実だと見てしまうことです。非現実ではなく、超現実だとはみなせないことです。菩提樹の下で悟りを開いたブッダが、衆生に説法をためらったのは、これが原因のようです。

ブッダは、人々はこの世を実体のある実在とみていて、悟りの世界を理解できないと考えたようです。だから、説法をしても無駄だと判断します。そこにブラフマンが現われて、説法を請い願います。梵天勧請(ぼんてんかんじょう)と呼ばれるこの伝説は、仏教の出発点だということです。ブッダは、この後、教えを広めるためにヴァーラーナシーへ出立します。

当時は、ブッダのように、求める者には誰にでも教えを説くことは、前代未聞だったようです。教えを授ける相手は、資格のある者に限られていたようです。このような因習を破ることには、大いなる勇気と決断が必要です。だから、梵天がブッダの心にささやいたという伝説が生れたということです。

この世を実在としてしか見ることができない人に、真実を説いても逆効果だと知っていたからでしょう、ブッダは、相手の理解度に合わせて説法をしました。 ブッダの対機説法の原点はここにあるようです。ウパカへの説法の失敗が、対機説法を生んだのかもしれません。

24.現世から来世への輪廻転生とは二本立ての映画

映画館で二本立ての映画を観るとします。観客は、『唯我独尊』の『我』だけです。上映作品は、この世という人生の物語です。上映中は『唯我独尊』の『我』は、物語の 登場人物 になりきります。自分こそが、その物語のヒーローであり、ヒロインです。一本目の上映が終わると、物語の登場人物の体験の記憶は、スクリーンに記録されて、次の映画の物語に反映されます。このスクリーンとは、実は『唯我独尊』の『我』なのです。

縁起による輪廻転生とは、こういうことでしょう。普遍的な世界があって、その世界の中に個人が生まれ変わるのではなく、古い世界が消えて、古い世界を反映した新たな世界が生れるのが、縁起による輪廻転生だと思われます。輪廻転生するのは、個人ではなく、世界そのものです。

次の作品の上映が始まるまでに、『唯我独尊』の『我』が「本来の自分」に戻らず、いつまでも一本目の映画の登場人物に同一化したままだと、二本目の映画の上映が始まり、それを観始めたら、今度は新たな物語の新たな登場人物になります。こうして、延々と新たな物語が続き、新たな登場人物が次々に生まれますが、それらはすべて、ひとり客席で観ている『唯我独尊』の『我』の見る夢です。

夜、眠って見る夢とは、現実という夢の中で見る非現実という夢です。 蝶になった夢を見たからといって、実際に蝶になるわけではありません。輪廻してマンゴーを食べる虫に転生したからといって、『唯我独尊』の『我』が、マンゴーを食べる虫になるわけではありません。 現実世界の登場人物とは、あくまでも、『唯我独尊』の『我』の同一化にすぎないのです。

死の瞬間にマンゴーが食べたいと思えば、マンゴーを食べる虫に生まれ変わると信じられています。マンゴーを食べたいという現世の充たされない記憶が、何らかの条件と結びついて、来世ではマンゴーを食べる虫へと転生するということですが、転生したマンゴーを食べる虫とは、『唯我独尊』の『我』が、マンゴーを食べる虫に同一化しているということです。

荘子の「胡蝶の夢」では、蝶になって舞う夢を見た荘周が、目覚めた後、自分は蝶になった夢を見ていたのだろうか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのだろうか、と自問します。

『唯我独尊』という超現実の視点では、現実も夢という非現実も、どちらも夢です。夢から覚めた荘周は、超現実にいたのでしょう。だから、蝶になった夢を夢だと感じただけではなく、そう感じている現実の自分も、蝶の夢だと感じたのです。 眠って見る夢も、この世という現実も、誰の夢かに違いはあっても、どちらも夢なのです。

25.継続性と同一性

私たちは、今の自分も小さい頃の自分も 同じ自分 だと、何の疑いもなく思っています。 容姿は違いますし、心の中味も違います。身体と心に関するかぎり、同じ人物だとは思えません。 にもかかわらず、過去の自分と現在の自分が、同じ人間だと認識されるのは、なぜなのでしょうか。

人が時間や状況の変化を超えて、「同じ自分」であり続けるとはどういうことなのか、哲学ではこのことを人格同一性問題と呼んでいるようです。人格同一性の根拠を同一の身体におく身体説と、連続する記憶におく記憶説との間で論争があるようですが、身体は常に細胞が入れ替わっていますし、記憶は常に再構成されています。どちらも常に変化しているので、身体も記憶も「同じ自分」という根拠にはならない気がします。

今の自分とは、生まれてからずっと継続している自分だと、疑問さえ持たないのは、記憶があるからでしょう。でも、記憶は、継続性という幻想を生み出しているだけなのではないでしょうか。それら記憶の当事者は、小さい頃と今とでは、別々です。別々の当事者の間には、継続性はありません。あると思うのは、そう思っているだけのことでしょう。

継続性とは時間の中で生じるものです。人生は時間の中にありますから、生きているかぎり、自分とは生まれてからずっと継続している自分だと思うのは、自然なことかもしれませんが、 すべてが変化する 諸行無常 の世界には、存在の継続性というのは、あり得ないのではないでしょうか。

記憶に基づく習慣や社会制度や人間関係など、そのような仕組みが自分という存在の継続性を支えているのでしょうが、それらは生存のための単なる仕組みです。常識という知識です。 芋虫と蝶を見て、同じ生き物だと思うのは、知識があるからです。そのような知識がない人には、芋虫と蝶は別の生き物です。同じ生き物だと思わないのはもちろん、継続しているとも思わないでしょう。継続性とは知識に過ぎないのです。知識とは、記憶の一部です。

私たちが自分の身体や記憶の継続性を疑わないのは、継続性と同一性を混同しているからではないでしょうか。 継続性が成り立つためには、継続していると思わせる同一性が必要です。小さい頃も今も、自分は同じだという同一性です。その同一性こそが、『唯我独尊』の『我』ではないかと思うのです。

私たちは、日常生活でも、認識できないだけで、常に『唯我独尊』の『我』なのです。そう認識できないのは、 時間が変化をもたらし、変化する身体や記憶が継続性をもたらしているからでしょう。そのために、小さい頃の自分も、今の自分も、同一の自分だとは認識できず、継続しているとしか思えないのす。

身体や記憶は、この世で生まれた自我です。自我は変化の中でしか存在できないので、変化しない同一性を妨げているのです。私たちは、『唯我独尊』の『我』になり変わった自我のために、『唯我独尊』の『我』を認識できないのです。

26.「日常の自分」と「本来の自分」と『我』

「日常の自分」と「本来の自分」と『唯我独尊』の『我』は、本質的には、ひとつです。どれも同じひとりの「わたし」です。これらは人間存在の三つの側面です。 その三つとは、真実を知らずにこの世に生きる「わたし」と、真実を知ってこの世に生きる「わたし」と、真実の「わたし」です。 大乗仏教の視点でいえば、化身(けしん)と報身(ほうじん)と法身(ほっしん)の三身(さんしん)かもしれません。

「ダンマパダ」にブッダが「日常の自分」と「本来の自分」を説いたと思われる以下の言葉があります。

「自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主(あるじ)であろうか。自己をよくととのえたならば、得難き主(あるじ)を得る」

ここでの「自己」とは「本来の自分」です。「自分」とは「日常の自分」です。真実を知るゆえに、「本来の自分」は「日常の自分」の主(あるじ)なのです。「自己をよくととのえたならば」とは「自分が正しく生きれば」ということでしょう。

「日常の自分」が、主(あるじ)である「本来の自分」に到達することが、解脱でしょう。仏教の実践とは「日常の自分」が「本来の自分」に到達するために、日々、歩むことです。目的地は「本来の自分」です。歩むのは「日常の自分」です。悟りのための実践は、あくまでも「日常の自分」が担わなければいけないのです。

最初期の仏教では、自己と他人をはっきり区別していたようです。その教えの舞台は、自己も他人もない真実の世界、観客席にひとりいる『唯我独尊』の『我』の世界ではなく、 スクリーンの世界 です。「日常の自分」が主体のこの世の現実です。

この世では、人情が重んじられますが、人情は時に知性を曇らせます。非人情に徹しなければ、正しい道を歩めなくなる恐れがあります。非人情に徹すれば、孤立することになります。人間関係が最重要のこの世では、勇気のような何かの支えがなければ、なかなかできることではありません。

「仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め」(スッタニパータ)

「スッタニパータ」では、「犀の角のようにただ独り歩め」というブッダの言葉が、長く続きます。「日常の自分」が他人と交わらず、独りどのように歩むべきかが、繰り返し説かれます。

「ダンマパダ」には、こんな言葉があります。

「戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である」

自己に克つ勝利者、一切勝者、これこそが、ブッダが解脱によって到達した『唯我独尊』の『我』でしょう。「日常の自分」が到達した「本来の自分」です。

27.自己イメージからの解放

ほとんどの人にとって、「日常の自分」は、自己イメージでつくられているのではないでしょうか。自己イメージとは、自分が思っている自分であって、自分ではありません。社会の価値観に沿って社会がつくり上げるイメージを、自分に当てはめただけです。社会の中では、いろいろな役がすべての人に割り当てられます。その配役に応じて、自分がつくり上げる自己イメージが、「日常の自分」になるのです。

私たちが自己イメージを自分だと思っているのは、自分を知らないからでしょう。自分を知らなければ、自己イメージが自分になってしまいます。自己イメージとは、過大な自分であったり、過小な自分であったり、肯定的な自分であったり、否定的な自分であったり、かなり極端にブレがちですが、社会が求める役割をこなす、社会生活という舞台劇の役者に過ぎないのです。自分とは別の自分なのです。

自分が抱く自分という自己イメージが人に認められなければ、ほとんどの人が反発するのではないでしょうか。 自己イメージは自分ではないのに、自分が否定されたと思い込んで、傷つきます。 人生で感じる苦悩のほとんどは、自己イメージと世の中の軋轢でしょう。自分ではない自己イメージに固執するから、このような苦悩が生れるのです。

「日常の自分」は現実ですが、自己イメージは非現実です。自分ではない自分です。イメージに過ぎないのです。社会がつくり上げるイメージも自己イメージも、イメージという非現実なのですが、それを現実とみなすことで、多くの問題を生んでいます。 イメージは非現実ですから実体がありません。実体のないものは、際限がなく、制御不能です。オオカミの影は、オオカミよりも怖いのです。

自己イメージに固執するのは我執です。自分のものと感じる、自分のものではないものへの執着です。 死によって、すべて失うのですから、この世のものに執着すると、必ず苦しみます。 原始仏教の修行の第一歩は、我執を消し去ることです。それは自己イメージからの解放です。 超現実という「本来の自分」に至るには、自己イメージという非現実から解放されなければいけないのです。それは自分からの解放です。

28.生きづらさは悟りへの扉

この世に生きていて、生きづらさを感じたことがない人は、いないでしょう。王国の王子でさえ感じるのです。どのように恵まれた境遇にいる人でも、忘れている時以外は、感じるはずです。だから、忘れるために、気晴らしや娯楽のようなレジャーが必要なのです。それは日常を忘れることですから、ある種の逃避です。一時の逃避は可能でも、一生の逃避は不可能です。

生きづらさを感じるのは「日常の自分」です。自分を無力だと感じ、この世という見通せない世界に投げ出されて、自分にいつ何が起こるか分からず、自分の運命は見知らぬ力に握られていると感じます。自分を何としても守らなければならないと、意識せずとも、自己防衛に走ります。どのように自己を防衛しようとしても、行き着く先には、必ず死があります。それを知っているからこそ、ますます自己防衛に走り、果ては、いっそ、自分でけりをつけた方がいいのではないか、という極端な考えを持つようにもなります。

生きづらさを感じるのは、自分が思う現実と、実際の現実にズレがあるからでしょう。そのズレを生んでいるのが、欲望です。欲望とは、現実の否定です。欲望は、不満な現実を否定して、別の現実を求めます。 何を手に入れても、一時の満足感しかないとしたら、欲望には限りがなくなります。死んでも手に入れたいと激しく欲望して手に入れたものでも、手に入れてしまうと、それほど欲しかったものとは思えなくなり、別のものを欲望することになります。

問題は、何を欲望しているのか、はっきり分かっていないことでしょう。漠然とした欠落感が、欲望を生んでいるのでしょうが、大体が、薬物やアルコールや男(女)などの快楽や、名声や富や地位などの称賛や、権力で充たそうとするので、欲望が充たされることはないのです。

求めているのは「本来の自分」ではないでしょうか。「日常の自分」が「本来の自分」を求めているのです。そのことをきちんと理解できていないので、快楽を求めたり、 称賛 を求めたり、権力を求めたりしているのです。ただ、それらを求めて手に入れても、生きづらさから逃れられる人は、あまりいないのではないでしょうか。

私たちの本質がこの世にあるのなら、この世の価値観によって、生きづらさは解消できるはずですが、どう足掻いても生きづらさから逃れられないのは、私たちの本質である 「わたし」 が、この世にはないからです。この世にはない私たちの本質は、この世で見つけることはできないのです。この世で見つけようとすると、無限後退という迷路に陥ってしまうのです。

生きづらさとは、真実に目覚めた証しではないでしょうか。欲望があるから生きづらさに苦しむのでしょうが、欲望があるからこそ、真実の扉の前にたどり着けるのです。 自分の本質を知らない私たちは、知らないまでも、知らないままに、自身の真実の姿を求めているのではないでしょうか。

29.現実感と現実性 

日常社会の中で、私たちは生きることを欲しています。存在することを欲しています。自らが生きて存在していることの確かな証しを、絶えず求めています。ほとんどの人が、その証しを社会的な活動に求めているのでしょうが、その証しこそが、自分にとっての現実感でしょう。

私たちはこのような現実感を、どのように知るのでしょうか。現実の体験には、空想にはない手応えのような確かな感覚があります。哲学用語では、これをクオリアと表現しているようですが、あくまでも主観的な体験であり、客観的な測定はできません。

咲いている花を見るとき、花が咲いているという現実感は、その花にあるのでしょうか、それとも花を認識する視覚にあるのでしょうか。ほとんどの人が、咲いている花の現実性は、花にあると思っているはずです。でも、実際は、花にあるのではなく、視覚にあるようです。砂糖の甘さは、砂糖にあるのではなく、味覚にあります。砂糖にあると感じたとしても、そう感じただけで、実際には、味覚があるから生まれるわけです。味覚が壊れると、甘さという現実感は失われます。

花の現実感は、花という対象にではなく、花を見ることで生じる知覚にあります。花が美しいのは、花が美しいのではなく、美しいと感じる心が美しいのです。世の中を美しくしたければ、心を美しくすればいいのです。 現実感とは、知覚という心の働きですが、知覚で観察しなければ、花やこの世には現実性はないのです。

現実性とは、観察する対象がもともと持っている固有の性質ではなく、私たちが何かを観察するたびごとに、その観察行為の中から生み出されています。 この現実性の認識は、物質にかぎらず、音楽などの非物質的なものまで含めて、人が観察できる世の中のすべてに当てはまります。

観察行為の中から生み出される現実性とは、心が生むものです。現実感だけではなく、現実性そのものが、心で生まれているのです。ということは、この世を生み出しているのは、心ということになるのではないでしょうか。

現実感を生み出す心の働きとは、仏教の教えによれば、煩悩のことです。悟り直後のブッダがウパカに説いた教えでは、煩悩を消し去ることが、悟りをもたらすということでした。

 若し諸漏の滅尽を得ば我に同じく勝者なり

諸漏(もろもろの煩悩)を滅し尽くせば、ブッダのような「勝者」になるのは、心の働きがなくなり、この世が消えるからでしょう。眠りから覚めると、夢の世界が消えるように、この世から目覚めた覚者になると、この世は消えるようです。覚者が見るこの世とは、 いつかは消える夢幻なのです。

私たちは、この世が夢幻に過ぎないことを知らず、この世に執着しています。そのような「無知」のために、苦しみます。仏教の智慧とは、この世は夢幻であり、自分はこの世を超えていると知ることです。 煩悩を消し去るこの智慧という悟りの力を得れば、 この世に執着することがなくなり、苦しみはなくなります。

30.この世の実在性

日常の世界は、間違いなく実在すると、その実在性を私たちは疑っていません。客観的に存在するから、私自身の勝手な空想の産物ではないと思っています。日常世界の実在性が、私たちの 常識的日常性 ですが、この世は実在するのでしょうか。

般若心経は、五蘊(ごうん)としての自分は実在しないし、現象としてのこの世は実在しない、それを知ると至福に包まれると説いています。この経典では、この世は存在はしていても、実在はしていないのです。

この世が実在するとみなされるのは、客観的な存在があるからでしょうが、 客観的な存在には、意味はありません。主観という心の働きがなければ、意味が現実性を持てないのです。この世の客観的存在とは、そう見えているだけで、実際は、すべて主観的存在なのです。

客観的存在に意味を与えて、この世にしているのは、私たちの主観です。 砂糖が甘いのは、味覚がそう感じるからです。咲いている花が美しいのは、視覚がそう見るからです。現実感というものは、砂糖や花という客観的存在にはなく、私たちの主観がそう感じるから生まれています。 知覚で観察しなければ、砂糖や花には、現実性はないのです。

客観的な存在とは、言葉のようなものではないでしょうか。詩が美しい世界を表現していたとしても、知らない外国語で書かれていれば、単なる文字記号でしかありません。 言葉を意味として読み解く主観がないからです。客観的な存在も、言葉と同じように、主観で読み解かれなければ、意味は持てません。

カルシウムに過ぎない真珠を宝石にするのは、私たちの主観です。私たちの主観がなければ、真珠は宝石という意味にはならず、カルシウムのままです。 美しい風景が目の前にあったとしても、美しいと思えない人には、美しさという存在意義はありません。 真珠や風景という客観的存在は、言葉のように、私たちの主観が読み解かなければ、意味が現実性を持てないのです。

この世とは、客観世界を読み解いた意味のことではないでしょうか。 客観的な存在に意味をもたらすのは、私たちの主観です。私たちの主観が意味という現実をもたらして、この世が生れています。 私たちの主観が客観世界をどう読み解くかで、どのような現実がもたらされるのかが決まりますが、どのような現実がもたらされようとも、それは実在ではなく、夢幻に過ぎないのです。

31.この世とは心のイメージ

主観がなければ客観世界に意味がないのは、客観世界が心の中にあるからではないでしょうか。私たちは、客観世界は私たちの外側にあるとみなしていますが、本当にそうでしょうか。

同じものを見たとして、その見たものを表現したとします。同じ言葉で語られたとしても、その体験内容は、表現できないだけで、人によってすべて違います。これは客観世界とみなしているものが、私たちの外側にあるのではなく、実際には、私たちの心の中にあるからでしょう。外側にあるのなら、見たものは、誰にとっても、すべて同じになるはずです。

 手を打てば 鯉は集まり 鳥は逃げ 女中は茶を運ぶ 猿沢の池

この短歌では、叩いた手の音が、さまざまに異なった反応をもたらしています。同じ刺激でも、立場の違いで認識が異なると説く唯識(ゆいしき)仏教の思想がここにはあります。 唯識思想とは「すべては心(識)がつくり出したものにすぎない」という教えなので、叩いた手の音も、その音に対する反応も、それぞれの心の中で起こっていることになります。

唯識思想は「この世とは、実在ではなく、識(意識や認識作用)がつくり出した表象(心のイメージ)にすぎない」と説いています。 「一水四見(いっすいしけん)」という教えによると、人間にとっての「水」が、天人には「瑠璃の宝物」、餓鬼には「火炎」、魚には「宮殿」になります。何が見えるかは、それぞれの認識が決めるようです。

この世とは、仏教の教えでは、虚構です。唯識思想によると、私たちがどう見るかで、現実世界が、現実になったり、非現実になったり、超現実になったりします。 これらの世界 は、平行して存在する別々の世界ではなく、ひとつの同じ世界です。

多くの人が、病的ではないにしても、悲観的妄想や楽天的妄想で、現実を非現実というさらなる虚構にして、闇を深めています。問題は、それが非現実だと認識できず、非現実が現実になっていることでしょう。現実から非現実を取り除けば、超現実になるというのが唯識仏教の教えです。それは煩悩を取り除くということでしょう。

どんなに恵まれていても、本人が不幸だと思えば不幸ですが、どんなに悲惨でも、本人が幸福だと思えば幸福です。幸福や不幸が、このように認識で決まるのは、私たちの日常世界が、私たちの認識で生まれているからです。認識を変えるだけで幸福になるのは、私たちの本質が幸福だからです。

私たちは、本質的には幸福でありながら、その幸福に気づいていないのです。 状況は簡単には変えられなくても、認識は変えられます。幸福に気づけばいいだけです。 そのように気づけず、幸福になれないのは、煩悩におおわれているからでしょう。

32.真実の世界とこの世という仮想現実の世界

私たちは目の前に見る現実を、私たちの目の前にあると感じていますが、実際には、目の前の現実は、 心の中にある ようです。 現実とは、記憶に基づいて、心がつくり上げる世界のようです。 私たちの知覚がつくり上げているということなのでしょうが、知覚は心が関心を失えば消えます。

カクテルパーティ効果というのがあるように、私たちは興味を持ったものを選択的に感じています。これは興味のないものを消すことで起こります。興味のないものは、存在しなくなるのです。関心を持ったものしか存在しないのが、私たちの日常です。 私たちの日常世界が、私たちの認識で生まれているからでしょう。

この世とは、感覚器官が認識した世界にすぎません。真実の世界ではないのです。真実の世界とは、私たちの認識の背後にあるこの世の真の姿、現実と非現実を超えた、超現実世界のことです。

感覚器官が認識するこの世とは、 実際には存在しないのに、存在するように見える 仮想現実のような世界 ではないでしょうか。真実の世界である超現実世界を、この世と呼ばれる仮想世界にしているのが、知覚の働きです。 この世という仮想現実の世界は、知覚が生み出していますから、興味を失えば消えます。欲望をなくせば悟りに至るのは、この世が消えるからでしょう。この世が消えて、真実の世界である超現実世界が現われるからでしょう。この世は存在はしていても、実在はしていないのです。

真実の世界である超現実世界は、感覚器官では認識できないので、私たちには知ることができません。感覚器官で認識するかぎり、認識される世界は、感覚器官が認識するこの世になります。感覚器官以外に認識する手段を持たない私たちには、感覚器官で認識されない世界は、知ることができないのです。

美術館巡りを楽しんでいる全盲の人がいます。その人は絵画を視覚では見ていません。感覚器官を超えて見ているはずです。芸術作品の作品世界とは、感覚器官を超えたところにあるようです。誰もがこの世を感覚器官を超えて見ることができれば、日常は至福の世界になるのかもしれません。

この世に生きるとは、感覚することです。私たちは、 感覚が認識する世界 の中で生きるしかないのです。私たちの日常生活とは、感覚の世界に閉じ込められた生活ともいえるでしょう。時々にしても、日常生活に 閉塞感 を感じるのは、だからなのではないでしょうか。

感覚を超えた世界を知ることは、完全な自由を知ることです。完全な自由を知ることとは、感覚から解放された自由を知ることです。それは至福です。 その至福の世界とは、真実の世界であり、悟りの世界であり、『唯我独尊』の『我』の世界でしょう。

33.合理性の非合理性

この世を仮想世界としてではなく、実在する現実として営まれているのが、私たちの社会です。認識できるこの世とは、実際には、感覚器官が生み出す仮想世界なので、客観性はありません。人によってすべて違うはずです。心を含めた感覚器官のありようが、人によってすべて違うからです。この世という仮想世界は、人の数だけあるはずなのですが、実際には、この世は実在する現実だとみなされて、常識的日常性というひとつの世界しか認められていません。

自然の中にある人間の活動は、本来は、合理的に判断したり、客観的に理解できないはずです。にもかかわらず、日常社会は、合理的で客観的な常識的日常性という枠組みををつくって、その中で生きることを私たちに強制しています。人間本来の自然には、あるはずのない合理性が、社会によって人間に押し付けられているのです。

人間を含めた自然の本性は、非合理そのものです。何がどのように起こるのか、誰にも分からないところに、合理性はありません。生命が存在するということ自体が、一切の合理性を超えた偶然です。 たまたま存在している人間とは、全く非合理的な存在です。非合理的な存在のままでは、不安で生きていくことができないので、人間社会は合理性を持ち込み、自然や人間活動を予測可能なものにして、とりあえず、安心しているのです。

これは、虚構です。人類が文明を築き、生存を確かなものにするためには、このような虚構も必要なのでしょうが、虚構は虚構として理解されることも、大切です。虚構の中でしか存続できない人類のこのようなあり方は、必要とはいえても、正当とはいえないからです。私たちが生きづらさから逃れられないのは、私たちの生存が、このような虚構にあるからです。

この虚構を生み出した張本人が、自我という機能でしょう。自我こそが虚構です。実在ではない自我は、永続的に存続するために、このような虚構をつくり上げるのです。 自我が主役の人間社会は、虚構そのものではないでしょうか。愛でしか生きていけない人間に、利害で生きるよう仕向けているのです。わたしたちは、愛と利害を混同し、愛を見失ったのです。

自我という合理的知性は、理論通りを求めます。理論通りにならないと、その人の責任になります。その人には何の責任もないのに、当事者として、自責の念や罪悪感などに苦しめられます。だから、人間社会で生きる私たちは、責められないように、理論通りの生活をしようとします。 自由であるはずの私たちの生存は、虚構という型にはめられてしまったのです。

人類の原罪とは、このことでしょう。合理的知性を持ったために、人間は真実の世界から追放されたのです。というよりも、勝手に出て行ったという方が、正しいのかもしれません。

34.「正常に異常」な状態と「異常に正常」な状態

この世に生きる人は、生存のために、虚構を強制されているわけです。それは異常な状態ですが、おかしいと思っている人はあまりいません。ほとんどの人が異常なので「正常に異常」な状態といえるでしょう。常識的日常性が虚構だと知った人は、精神異常者だとみなされます。このような人たちこそ、虚構を虚構と知っているわけですから、正常な人たちでしょう。ただ、正常な人は、ごく少数なので「異常に正常」な状態といえるでしょう。

「異常に正常」な人は、医師の治療を受けて「正常に異常」な状態となって、社会復帰をします。社会復帰ができず、生命力が深いところで停滞し、生への意志が活動を停止すると、離人症になります。

離人症とは、自分と世界に対する非現実感です。自分を外から見ているような感覚があり、この世の世界が、テレビや映画の物語の中にあり、それを自分が観察しているような症状です。これはブッダの到達した『唯我独尊』の『我』の世界と、とてもよく似ています。ただ、似ているだけで、似て非なるものでしょう。なぜなら、そこには悟りの自覚がないからです。離人症の人には現実がありません。現実のない現実とは、超現実ではなく、非現実です。

35.この世を生むのは「生への意志」

私たちが生きるこの世は、個人の意識によって認識された世界です。この世の世界が認識されるためには、個人の「生への意志」があります。「生への意志」がなければ、意識が働かないからです。意識の働きがなければ、この世は認識できません。

意識を働かせる個人の「生への意志」は、ほとんどの場合、盲目的なのではないでしょうか。何も考えなくても、何も意識しなくても、この世はそこにあるからです。 日常生活では、自分の意志とは無関係に、この世がそこにあるように見えます。これは「生への意志」が盲目的に働いて、この世の世界が現われているからでしょう。私たちには、自分とは無関係にこの世が存在しているように見えますが、そう見えるのは、無知のために、そう見えているだけなのではないでしょうか。

「生への意志」とは、生存欲という欲望ですが、この世を生んでいるのが、この欲望です。この世の現実性とは、私たちの認識に過ぎません。私たちの認識がこの世をもたらしているのですが、根底にあるのがこの「生への意志」でしょう。 離人症の人には「生への意志」という欲望がありません。だから「生への意志」が失われて離人症になると、個々の認識にすぎないこの世の現実性がなくなり、悟りのような症状が現れるのでしょう。

この世を認識し、この世に生きるのは自我です。自我とは身体や心にとどまらず、影響力や認識の範囲のすべてです。この世で、よりよく生きるとは、自我をよりよくすることでしょう。影響力を大きくし、認識の範囲を広げ、自我をより大きく偉大にすることでしょう。偉大な自我とは、多くのことを知り、多くの人に知られ、大きな影響力を持って尊敬されることです。

偉大ではなくても、正しい自我で生きることが、正しい社会人として大切です。それは「生の意志」を正しく持って生きることでしょうが、ゴータマもそのような「生への意志」を持っていたはずです。王国の王子として、正しく生きていたはずです。正しい自我を持ち、正しく生きながらも、ゴータマは、生きることに苦しみます。「生の意志」を正しく持っていたからこそ苦しむのでしょう。

ゴータマの苦しみを考えれば、 正しい自我を持つ正しい社会人というこの世の価値観では、生きる苦しみはなくならないようです。 ブッダの到達した真理は、生きることは「苦」という「苦の真理」です。「生の意志」を正しく持てば、誰もがそう感じるはずなのですが、そう感じないのは、生きることから逃げているか、忘れているかでしょう。

ブッダは「苦」からの解放を説きました。そのための教えが、煩悩の滅尽です。それは自我の滅尽です。 仏教の真理は、この世の価値観とは真逆です。この世では、自我を偉大にすることが、価値のあることだとされていますが、仏教の教えでは、自我をなくすことです。自我の滅尽を完成させることです。「生への意志」を失くして、この世を消すことです。 より良い夢を見るのではなく、夢から覚めることです。

仏教が 厭世的 だといわれるのは「生への意志」をなくす教えだと誤解されているからでしょう。「生への意志」をなくすだけなら、離人症になるだけです。 仏教の歩む道は「生への意志」をなくすことにとどまらず、「生への意志」をなくして、実在を見出そうとする「真実への意志」を持つことではないでしょうか。自我を否定して世を厭うのではなく、自我を自覚して世を超えることです。

36.ヴィパッサナー瞑想はどのように悟りをもたらすのか

ほとんどの人は、この世にあるものは、すべて変化し、いつかは消えると知っていますが、知っているにもかかわらず、日常生活の中では、そうは思っていません。思っていると思っているだけで、実際は、死にうろたえることからも分かるように、世の中や自分は、いつまでもそのままにある 実在だと錯覚 しています。

この世の存在は、すべて、いつかは消えるものなのに、日常的にそう思えないのは、記憶の継続性と人間がつくった社会制度があるからでしょう。そのために、私たちは、身体や心が自分だと錯覚しています。身体や心やこの世が、変化していて、いつかは消えるとは、日常的には思えないのです。

ヴィパッサナー瞑想は、身体の 感覚を観察 する瞑想法です。「身体や心は自分ではない」という、サティパッターナ・スッタの教えに基づいています。身体と心に起こることは、すべて感覚として流れるので、感覚を観察することで、身体と心のすべてを知り、身体と心は実在ではないと知ることができるのです。

サティパッターナ・スッタは、何かを感じたとき、私たちはその感覚に束縛されていると説いています。心地よい感覚が厄介なのは、その感覚が束縛だとは感じられないことでしょう。心地悪い感覚からは、誰もが解放されたいと思うでしょうが、心地よい感覚からは、誰も解放されたいとは思わないでしょう。いつまでも「束縛」されていたいと望むのではないでしょうか。私たちを支配しているのは、環境ではなく、感覚なのです。

完全なる解放のためには、あらゆる感覚、心地よい感覚からも、心地悪い感覚からも、心地よくも悪くもない感覚からも、心を含めた六つの感覚器官が生む、すべての感覚から解放される必要があります。身体と心に生じるあらゆる感覚、すべての感覚から解放されるとは、感覚を消し去ることではなく、感覚を超えることです。感覚を消し去ってしまえば、生きていけなくなります。

感覚を超えるとは、感覚とは、私ではなく、私のものもなく、自分ではないと知ることです。サティパッターナ・スッタは、身体も、感覚も、心も、心の中味も、私ではなく、私のものでもなく、自分ではないと、繰り返し説いています。つまり、私とは、身体や心ではないということです。

生きるとは感覚することです。ブッダは「生きることは苦(一切皆苦)」と説きましたが、その「苦」の原因が感覚です。 感覚は、心地よい感覚も含めて、最終的には、すべて「苦」になります。 何もしないで毎日贅沢に過ごすとしたら、楽しいのは最初だけでしょう。文明は、できるだけ心地よい生活を生み出そうとして、「苦」を生み出しているのです。 苦しみは、環境ではなく、感覚が生んでいるのです。

ヴィパッサナー瞑想で感覚を観察するのは、感覚がどのように生まれているのか、どのように働いているのか、どのように私たちを束縛しているのかを知るためです。 無知は隷属です。知る者は知られるものを超えます。感覚を知ることで、感覚を超えることができます。そうして、身体や心を超え「身体や心は自分ではない」に至るのです。

ヴィパッサナー瞑想を実践することで、いつしか、身体が自分ではなくなり、心が自分ではなくなり、感覚が自分ではなくなり、心の中味が自分ではなくなります。そうして、身体と心を自分とする「日常の自分」が消えるのです。

消えてなくなるのは「日常の自分」です。その自分を主役とするスクリーン上の物語の世界です。物語の世界が消えて、それまで同一化していた主役がいなくなると、観客席にひとりいる『唯我独尊』の『我』が、我に返るのです。

37.仏教とは自己実現のための教え

仏教は「無我」を説く宗教という固定観念があるからか、「本来の自分」である『我』を見出すための教えだと思っている人は、あまりいませんが、初期仏教における修行とは、真の自己である「本来の自分」を見出すことだったようです。つまり、仏教とは『我』を見出すための教えであり、修行者は、真の自己を自覚的に把握せねばらないと考えられていたわけです。 原始仏教の修行においては、このように、自分に対する働きかけが、とても重要だったようです。

初期仏教の根本聖典「マハーヴァッガ(大品)」には、ブッダが、娼婦を探している青年たちに、婦女を求めるよりも、自己(アートマン)を求めよ、と説いて出家させたエピソードがあります。アートマンはなく、「無我」であるなら、求める自己はないはずですが、原始仏教の修行とは、この自己(アートマン)を実現させることだったようです。

最初期の仏教においては、二種類の異なった自己が想定されています。理想から乖離し、常に頽廃する可能性のある自己と、理想として実現されるべき自己です。 頽廃する可能性のある自己とは「非我」のことです。理想として実現されるべき自己とは『我』のことです。「非我」とは「日常の自分」であり、『我』とは「本来の自分」です。「日常の自分」である「非我」を、「本来の自分」である『我』だと勘違いしないこと、これが初期仏教の修行の出発点です。

理想的な自己を実現するためには、もろもろの悪徳、煩悩の基体としての自己、これを滅却しなければいけないと考えられていました。 「ダンマパダ」や「スッタニパータ」をはじめとして、最古層の経典には「自己を愛し護ること」と「自己を滅し捨てること」という二様の相反した教説が、繰り返し説かれています。

最期となった最後の旅で、ブッダは、ヴェーサーリー近郊のベールヴァ村で激しい苦痛を伴う重い病にかかります。入滅の決意をしたブッダは「自灯明・法灯明(じとうみょう・ほうとうみょう)」と呼ばれる教えを遺します。

「今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるなら、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう」(マハー・パリニッバーナ・スッタンタ)

ブッダは自分が教団の指導者だということを、このように自身で否定しています。頼るべきものは、各々の自己であり、普遍的な法だと説いています。悟りのための実践は、あくまでも「日常の自分」が担わなければいけないのです。

38.自己実現のために 

自己実現(self-actualization)という概念は、アメリカの心理学者、マズローの欲求の五段階説が基となっています。 マズローのこの理論から、日本でも自分探しがブームになりました。でも、自分を探すためには、「探し出す自分」とは何か、これをしっかりと知っておく必要があるように思います。

イスラム教神秘主義のスーフィズムに、こんな話があります。

ある人が、夜中に、街灯の下で探し物をしていました。とても大切なものを失くしたと、必死になって探していました。通りがかった人は、気の毒に思って、いっしょに探してあげることにしました。

「失くしたのはどの辺りですか」と尋ねると、探し物をしている人が言います。

「家の中で失くしたんです」と。通りがかった人は、驚きます。

「だったら、どうして家の中を探さないのですか」と聞くと、探し物をしている人が、言います。

「だって、家の中は、真っ暗なんです…」

スーフィズムは、すべての現象を神の現れと考え、修行によって自己を捨て去り、神との合一に至るよう説いています。ウパニシャッドの梵我一如や、初期仏教の修行に、とてもよく似ています。

日本では、ひと頃、自分探しがブームとなり、大勢の人が、自分が本当に何を求めているのか、何を大切にしているのか、それらを見つめ直して、自分に合った生き方や仕事を見つけようとしました。そのような人たちが探していたのは、ほとんどが、社会的に価値があり、称賛されるような生き方であり、仕事だったように思えます。

自分が持つ能力や可能性を最大限に引き出して、自分の理想や目標に向かって成長し、自己を実現しようとする人たちの「自己」とは「日常の自分」でしょう。 「日常の自分」が、少し着飾って、新たな「日常の自分」になることでしょう。 その「自己」とは、人からは高く評価されるかもしれませんが、他者との比較や、優劣でしか知ることができませんので、結局、「苦」を生みます。それは、あくまでも、常識的日常性にいる「日常の自分」でしかありません。「非我」をどのように飾っても『我』にはならないのです。

飾り立てた「日常の自分」ではなく、「本来の自分」を見出すことが「自己の実現」です。ここで探さなければいけない「自己」とは「本来の自分」です。 でも、「本来の自分」とは、どこをどのように探したらいいのか、まったく分かりません。しかも、社会的には、何の価値もないのです。

何よりも忘れてはいけないのが、「本来の自分」という 「わたし」 をこの世で探そうとすると、無限後退に陥ってしまうことです。そうなると、身動きがとれなくなり、すべてを投げ出すことになるかもしれません。

39.生きるとは命(いのち)よりも大事なものを知ること 

日常生活の現実感、クオリアとは、私たちが生きて存在していることの唯一の証しです。社会的には何の価値もありませんが、それがなければ、自分が存在しているという実感は薄れます。他の人には価値がなくても、自分にとっては、自分という存在を証してくれる、計り知れない価値があります。

私たちは、そのクオリアを、日常的に見出しています。クオリアが「本来の自分」であるなら、永遠不変のはずですが、見出したクオリアは、すぐに消えてしまいます。だから、自覚していないだけで、消えて失ったクオリアを求めて、私たちは、ひたすら、さまざまに活動をしています。

私たちがクオリアをひたすら求めているのは、クオリアが自分の存在を証してくれるかけがえのないものだからでしょうが、クオリアが、自分にとって、計り知れない意味を持っているということは、それが「本来の自分」という実在を暗示しているからではないでしょうか。 だとしたら、クオリアとは、私たちが見出そうとしている「本来の自分」への「扉」ではないかと思うのです。

私たちは、クオリアを求めているようで、実際は、日常的に「本来の自分」を求めているのではないでしょうか。誰もが愛を求めるのは、知らずに、愛を通して得られる「本来の自分」を求めているのかもしれません。「本来の自分」とは、愛のことかもしれません。ただ、求めている場所が、暗い家の中ではなく、明るい街灯の下なのです。

「本来の自分」は、真っ暗な家の中でなければ見出せないようです。私たちが「本来の自分」を見出せないのは、明るい街灯の下ばかりを探しているからでしょう。 自分の中だけに見つけられるものを、外に見つけようとしているからでしょう。 「本来の自分」を見出すためには、クオリアという「扉」の向こうにある真っ暗な 「 家の中 」 に、光を持ち込まなければいけないようです。 私たちが人生ですることは、このことだけかもしれません。

生まれることもなく、滅することもない、 永遠不変の実在 が持つ永遠不変の現実感、これは言葉にはできない喜びです。「本来の自分」にたどり着くと、この喜びが得られるのでしょう。解脱とは、こういうことではないでしょうか。

「わたしはすでに解脱への道を示した。今、あなたがた自らがその道を歩む時である」

ブッダは、弟子たち一人ひとりに、こう説いていたことでしょう。 「本来の自分」を見つけること、これは仏教にかぎらず、宗教に関係なく、誰にとっても、共通の課題ではないでしょうか。

それは、命(いのち)よりも大事なものがあるのだと知ることでしょう。命(いのち)よりも大事なものは、命(いのち)がなければ知ることはできないのでしょうが、命(いのち)が一番大事という生き方をすれば、人はいつかは死ぬのですから、苦しみが生れるだけです。

命(いのち)よりも大事なものとは、生きるに値する自分の真の価値以外ありません。これを知ることこそが、生きるということでしょう。わたしたちは、自分を知らずに生きているのです。

生きるとは、生き長らえることではなく、この世に生きて、命(いのち)よりも大事なものを知ることです。私たちが人生に苦しむのは、命(いのち)を間違って使い、自分を知らずに生きているからではなかろうかと思うのです。

(上記経典の日本語はすべて中村元訳です)


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