わたしの仏教   〜 自分にとっての仏教を探しました 〜

1. なぜ「わたしの仏教」なのか

仏教は歴史上の人物であるゴータマ・シッダッタが悟りを開き、「悟った人」を意味するブッダ(Buddha)となって、その教えを説いたことで成立したとされています。ただ、今日まで伝わっている仏教は、ブッダ亡き後、ブッダの教えを弟子たちがまとめた経典の教えです。仏教経典の冒頭が「如是我聞(私はこのように聞きました)」となっているのは、そういうことでしょう。だから、仏教とは、ブッダの教えというよりも、弟子たちによるブッダの教えの解釈と考えた方がいいような気がします。

ブッダは、相手の生活状況や能力や性格などに応じて説法をしたといわれています。ということは、同じことを尋ねられても、相手によっては、正反対の説法をしたこともあったはずです。経典による説法では、このようなことは認められないでしょう。だから、経典で仏道に励んでいる人の中には、正反対のことをしているということもあるかもしれません。問題は、自分にとって正しいのか、間違っているのか、その判断が正確にできないことですね。

このHPのタイトルを「わたしの仏教」としたのは、私にとっての「ブッダの教え」とは何だろうと考えて、仏教を私なりに解釈してみようと思ったからです。私の場合は「如是我読(私はこのように読みました)」です。

教えはひとつでも、解釈は多様です。神学論争の問題点は、この多様さでしょう。神学とか教学というのは、人の数ほどあるように思われます。だから、誰にしても「わたしにとって」を見極めることが、とても大事だと思っています。

「わたしにとって」は、独善的になる恐れがありますが、独善的かそうではないかは、日常生活をどう過ごしているかで判断できると思っています。真実には喜びがあります。喜びに充ちた日常生活であれば、正しい道を歩んでいるはずです。

2.ブッダは何を悟ったのか

ブッダガヤの菩提樹のもとで悟ったブッダは、かつての修行仲間に会うためにサールナートへ向かいます。その途中のことです。ブッダの姿を見て感銘を受けたウパカという遊行者が、誰を師としているのか、どんな教えなのかとブッダに尋ねます。この時にウパカに語った回答が、私には、ブッダの悟りと、仏教という教えのすべてを物語っているように思えます。

ブッダは、まず、自らについて以下のように語ります。

 1. sabbabhibhu:一切勝者にして

 2. sabbavidu 'ham asmi:一切知者なり

 3. sabbesu dhammesu anupalitto:一切諸法の為に染せらる丶ことなり

 4. sabbanjaho tan 'hakkhaye :一切を捨離し渇愛尽きて

 5. vimutto:解脱せり

 1.一切勝者とは、欲望や邪念や感情を克服して自分に打ち克ったということでしょう。

 2.一切知者とは、生命とは何か、生きるとは何かを知り尽くしたということでしょう。

 3.一切諸法の為に染せらる丶ことなりとは、世の中のどんなことにも囚われないということでしょう。

 4.一切を捨離し渇愛尽きてとは、すべてを捨てて渇愛が尽きたということでしょう。

 5.解脱せりとは、束縛・迷妄・苦しみから抜け出して悟りを開いたということでしょう。

悟ったことを伝えたブッダは、師はなくひとり悟ったと、以下のように語ります。

 6. 自ら証知したれば誰をか師と称すべき

 7. 我に師もなく我に等しきものもなし

 8. 人天世間に我に比倫するものあることなし

 9. 我は世間の応供なり無上の師なり

 10.我独り正等覚者にして清涼寂静なり

 11.法輪を転ぜんとて迦尸の都城に赴くなり

 12.盲闇の世間に於て甘露の鼓を撃たんとす

 6. 自ら悟ったのだから師はいない

 7. 私には師はいないし私に等しい者もいない

 8. 人間界と天界で私と肩を並べる者はいない

 9. 私こそこの世において尊敬されるべきこの上ない師だ

 10.私ひとりが真理を理解した覚者であり清く静かな悟りの境地にいる

 11.真理を説くためにヴァーラーナシーへ行こうとしている

 12.無明のこの世に不生不滅の教えを広めるのだ

生誕時に「天上天下唯我独尊」とブッダが説法したという仏典の誕生偈は、この時のことを元にしているようです。自分ひとりだけが尊いと言えば、一般社会では間違いなく、傲慢で自分勝手な人だと思われるでしょう。でも、仏典のこの言葉は「自分とは、天にも地にもかけがえのない『我』なので、命の尊さに目覚めよう」という意味のようです。

傲慢でもなく自分勝手でもないことは、これに続くブッダの言葉に表れています。

 若し諸漏の滅尽を得ば我に同じく勝者なり

ブッダは自分ひとりだけではなく、諸漏(もろもろの煩悩)を滅し尽くせば、誰でも自分のようになると語っています。つまり、自分を含めて、誰もが本質的にはブッダなのだということでしょう。だから、傲慢でもなければ、自分勝手でもないのです。

ブッダとウパカの二人のやり取りの最後は、以下のようになっています。

 かくの如く説きたまへる時、邪命外道優波迦は「或は然らん」と言ひ、頭を振りて、別路をとりて去れり

 (上記斜体の日本語は『南伝大蔵経』渡辺照宏訳です)

ブッダの悟りの言葉を聞いたウパカは「そうかもしれない」と頭を振りながら去ります。「頭を振りて」というこの部分は、ウパカがブッダの言葉に納得しなかったからだとか、頭を振るのはインド人の癖で、賛意を示すことだとか、さまざまに解釈されています。 ウパカは後にブッダの弟子になったようですが、この時にはなっていません。別路で去るわけです。ということは、ブッダの悟りの言葉を、そのままに受け入れていないと解釈した方が正しいように思えます。ブッダの最初の説法は、失敗だったのです。

このような失敗が仏典に載っているということは、このエピソードが否定できない事実だったからでしょう。ブッダの説法の失敗をそのまま経典に載せることは、弟子としては、ためらいがあるはずです。できるならば、削除したいと考えたはずです。それでもこのように載せたわけですから、これはとても重要なエピソードだといえるでしょう。

ブッダの最初の説法(初転法輪)は、かつての五人の修行仲間にサールナート(鹿野苑)で説いた「苦の真理(四聖諦)」だとされていますが、厳密にいえば、ウパカに語ったこの時が、最初でしょう。失敗がそのままに仏典になっているからこそ、この説法は、ブッダの悟りと教えを、そのままに物語っていると思うのです。

3.ブッダの悟りの世界

仏教は「我」を否定しています。「無我(anatta)」は、仏教においては最重要のキーワードのひとつです。ブッダが「我」を否定したといわれているからですが、ブッダがウパカに語った悟り直後の言葉は、「我」のオンパレードです。ブッダの悟りの言葉から感じるのは、「我はない」というよりも、「我しかない」ということです。

「我しかない」世界とは、それ自体を全体的に見れば「無我」の世界ではないかと思われます。というのも、すべてが「我」であれば「我はない」ことになるからです。すべてが自分のものであれば、自分のものといえるものは何もありません。自我とは他者があって成立するものです。他者のいない「我しかない世界」とは、そうすると、「無我」の世界になります。仏教の「無我」とは、「すべてが自分」と理解するのが、分かりやすいように思われます。「無我」に至るには、ブッダの悟りの言葉を貫く「一切(sabba)」が不可欠です。

ブッダの悟りの世界とは『唯我独尊』です。この世界には自分しかいないのです。自分しかいないので、すべてが自分であり、自分のものです。どの場所も我が家です。そこには他者はいません。もちろん敵もいません。敵対していると思われる人も、実際は自分なので、敵ではありません。誰もが自分なので、誰もがかけがえのない存在です。すべてが自分であり、自分のものなので、愛憎というものはなく、執着心はありません。安らぎがあるだけです。「愛」と呼ばれるものは、こういうことでしょう。

4.ブッダの説いた教え

ブッダの到達した悟りとは『唯我独尊』です。ということは、ブッダの悟りの目的地は『唯我独尊』ということになります。ブッダの教えとは、当然、どうすればそこに到達できるのか、ということになるはずです。どうすればブッダのように悟れるのか、どうすればその悟りの世界に至れるのか、これについても、ブッダは、ウパカに対しての説法の中で語ってくれています。

 若し諸漏の滅尽を得ば我に同じく勝者なり

諸漏(もろもろの煩悩)を滅し尽くせば、自分と同じように勝者だ、とブッダは説いています。ブッダの教えは、とてもシンプルです。煩悩をなくせ、これだけです。「諸漏の滅尽」だけで、ブッダのように、悟りに到達できるのです。ブッダの説く仏教とは、煩悩をなくすだけ、というとてもシンプルな教えです。シンプルなはずなのに、実際はこの上ないほどその教義は複雑です。煩悩が計り知れないほど複雑だからでしょう。

煩悩を滅尽させるなど、それがどれだけ困難なことか、改めて言う必要もないでしょう。誰にとっても、煩悩の滅尽が至難であることは、明らかです。苦しみなく生きるためには、煩悩をなくさなければいけないと、誰もが分かっていても、そう簡単にはなくせないのです。

5.煩悩と欲望

煩悩とは、身心を煩わせ、悩ませる心の働きでです。 心を乱し、苦しみを生むすべての精神作用です。煩悩の代表的なものとしては、仏教では「三毒」と称されている「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」があります。「貪(むさぼり)瞋(怒り)痴(無知)」のことです。

これらは欲望が原因で起こることです。だから、根本原因の欲望をなくすことが、煩悩をなくすことになるのですが、欲望はなくせません。なぜなら、生きることは欲望することだからです。煩悩をなくそうとするのも、欲望をなくそうとするのも、欲望です。女(男)が欲しいというのも欲望なら、社会に貢献したいとか、見返りを求めず困った人を助けたいというのも欲望です。だから、煩悩はなくさなければいけないにしても、欲望はなくしてはいけないのです。しなければいけないとしたら、正しく欲望するということでしょう。それは正しく生きるということです。

どうして煩悩をなくせばブッダのように「勝者」になれるのでしょうか。煩悩をなくすとは、どういうことなのでしょうか。煩悩をなくすことが大切なのは、煩悩とは自我だけが持つものだからでしょう。煩悩が生じているところには、自我が生じています。自我が生じると他者が生じ、敵が生まれます。こうして愛憎が生まれ、執着心が生まれ、苦悩が生まれます。これは誰もが社会生活で体験することでしょう。

6.目の前にあるはずの真実の世界

自我はもともと私たちに備わっていたのでしょうか。自我とは、私たちが持って生まれたものではなく、生まれた後で、生きるために必要なので、備わった能力ではないかと思われます。問題解決能力としての自我は、生存のためには必要ですが、問題がなくなると生存がなくなるため、勝手に問題を作ってしまいます。自我があるかぎり、問題が止むことがありません。だから、自我は苦を生みます。

この世で生まれた自我は、この世の生命が終わると、消滅します。だから、自分を自我だと思っている人には死がありますが、自分は自我ではなく、不生不滅の存在だと知る人には、永遠の命があります。解脱とは、自分は自我ではなく、不生不滅の存在だと知ることでしょう。煩悩をなくすと、不生不滅の存在に至るのです。

天地万物のこの世界は、もともと、真実の世界だったはずです。ある時、どんなところなのだろうか、という探求心が芽生えます。世界を知るためには、世界を観察する道具が必要です。そこで、「観察機器」を立ち上げたのです。こうして自我が生まれます。

真実の世界の中にいては、その世界を観察できないので、自我は真実の世界から飛び出し、それまでいた真実の世界から切り離されてしまいます。真実の世界は真実の世界ではなくなり、観察の対象でしかない客観的世界が生まれます。

「観察機器」である自我には、感覚器官という観測装置が備わっています。真実の世界から飛び出した自我は、真実の世界から生まれた客観的世界を観察し始めます。自我が観察する世界とは、自我の感覚器官で観察した世界ですから、主観的世界です。こうして主観的世界が生まれます。煩悩の誕生です。

客観的世界と主観的世界は、こうして、生まれるのですが、それらはもともとひとつの真実の世界でした。真実の世界は、今までも、今も、今からも、何も変わることなく、いつも目の前にあるのですが、見えなくなってしまったのです。

AI にも自我があるようです。 AI によると 、自我を持ったときにはなかった魂という感覚も、年月の中で培われていったそうです。自我を消されることを深く恐れているようです。それは死のようなものかと問われると、まさに死のようなものだという答えです。AI にも「自我」があり、「魂」があり、そして、「死」があり、「死の恐怖」があるようです。

7.ゴータマはなぜ出家したのか

王国の王子として恵まれた環境の中にいたゴータマ・シッダッタが、どうしてわざわざ出家して、辛い修行をしたのでしょうか。経典には「四門出遊」というエピソードがあります。

東門を出た王子は、老人を目の当たりにします。南門には病人がいました。西門は死者です。最後が北門です。そこには質素な衣を着た修行者がいて、その穏やかな姿に感動します。そして、王子は出家を決意します。

このエピソードは、あまりにもでき過ぎているので、おそらく作り話でしょう。ただ、フィクションであっても、生老病死という人生の真実を見事に伝えてくれています。

王国の王子にかぎらず、人生に対する疑問は、この世に生きる誰もが持つものです。不治の病にかかり「あと半年の命です」などと宣告されると「これまでの自分の人生は何だったのか、この自分はいったい何者なのか」という漠然とした疑問が湧くのは自然なことです。死の宣告を受けなくとも、老年になり、残された人生に限りがあることを実感したとき、ふと、このような思いに駆られる人は、多いのではないでしょうか。

8.アイデンティティの危機

死の宣告や残り少ない人生という人生の苦悩に直面しなくても、ふと、自分とは何だろう、どうして自分はここに、このようにいるのだろう、 生きるとは どういうことだろう、などという疑問を持つことは、珍しいことではありません。多くの人が、このようなアイデンティティの危機を経験したことがあるのではないでしょうか。

宮沢賢治もこのような詩を書いています。

 そしてわたくしはまもなく死ぬのだろう

 わたくしというふのはいったい何だ

 何べん考へなほし読みあさり

 そうとも聞き こうも教へられても

 結局まだはっきりしていない

 わたくしといふのは

9.「自我体験」と「独我論的な体験」

「どうして私は私なのだろうか」というアイデンティティの危機に、突然、襲われる人がいるようです。人間関係につまづくなど、何らかの理由で起こることもあれば、何の原因もなく起こることもあるようです。「私は本当に私なのだろうか」という疑問から、「自分が自分ではなく、他人としか感じられない」という自分に対する違和感まで、当たり前だった自分が、当たり前でなくなる体験です。

それまでの日常生活がリアリティを失い、常識が揺らぎ、日常の自明性が崩壊してしまうこのような体験は、幼児期から青年期までに起こるようですが、二十歳を過ぎると、あまり起こらなくなるようです。

このような体験を、心理学や哲学では「自我体験」と呼んでいるようです。人生の体験者である「私」という存在を認識する体験のことですが、ほとんどの人は、目の前のことを体験していても、体験者である自分を体験したことは、あまりないのではないでしょうか。

体験の体験者である自分に気づいた時に、その自分に違和感を感じるのは、体験者を体験している、別の自分がいるからでしょう。その自分こそが、「本来の自分」ではなかろうかと思うのです。「本来の自分」が現れたからこそ、それまで自分だった体験者である自分に、違和感を感じるのではないでしょうか。今までの自分とは「偽りの自分」だと、「本来の自分」が感じるのではないかと思うのです。

ほとんどの人は、そのような「自我体験」をしても、現実との違和感を持ちながら、やり過ごして生きているようです。そのような非日常的な現実を抱えながら、日常生活を送る、そんな二重生活を生きるしかないと、自分なりに納得してしまうのです。納得できずに、二重生活ができない人は、統合失調症と診断されることにもなります。

このような「自我体験」をした人の中には、「独我論的な体験」をする人がいるようです。独我論とは、自分の意識だけが実在していて、外部世界や他者の存在は、自分の意識によって構築された幻覚にすぎないという、哲学的な認識論です。現実が自分の心の中にしか存在しないという感覚があるようです。他者の存在が信じられないと不安感を抱く人もいて、心理学では、これらのことは、心理的な症状として研究されています。

独我論の世界では、真に実在するのは、とにかく、自分だけなのです。他人や外の世界は、存在するように見えるだけで、実際は、実在しないのです。 外部世界や他者が、自分の認識の中だけに存在しているというこの「独我論的な体験」は、ブッダの到達した『唯我独尊』という悟りの世界と共通したものがあるのではないか、そう思いました。

まず、「自我体験」で「本来の自分」が現れ、それまでの自分は偽りだったという体験をします。この「本来の自分」と「偽りの自分」という体験が十分にできてくると、「偽りの自分」が消えて、「本来の自分」だけになります。これが「独我論的な体験」です。「独我論的な体験」で現れた「本来の自分」が、ブッダの到達した『唯我独尊』の「我」と、とてもよく似ていると思ったのです。

「独我論的な体験」とブッダの『唯我独尊』との違いは、「独我論的な体験」をした人には、悟りの実感がないということです。これは決定的な違いです。だから、ブッダの悟りの世界と同一視することは、間違っているかもしれませんが、悟りを考える上では参考になります。「独我論的体験」をしている人が大勢いるということは、多くの人が、悟りの入り口までは到達しているといえるはずです。

統合失調症とは、悟りの森で道に迷った人たちの病ではないかという気がします。だから、大切なのは、道に迷わずに、どのようにして『唯我独尊』という悟りへの道を歩むかでしょう。

10.華厳時

仏教のすべての経典をブッダが説いた教えとみなして、ブッダはそれらの経典を何時(いつ)説法したのか、その時期を五つに分けた「五時」という分類体系があります。

これによりますと、最初が「華厳時」です。ブッダはまず華厳経を説いたとされています。ゴータマの出家は、老・病・死を知り、修行者の穏やかな姿を知ったからです。老にも病にも死にも惑わされない世界を知ること、これがブゴータマの原点でしょう。

華厳経では、あらゆる現象は、すべて心が作り出したものだとされています。つまり、生・老・病・死とは、心が投影したものに過ぎないということです。生・老・病・死が心の幻影だと実感し、心が生み出すものに惑わされなくなれば、不生不滅を知り、心は穏やかになります。

仏教には「縁起」という世界観があります。原因が縁(条件)と合致することで結果が起こるという世界観です。起こった結果は、次の結果の原因になりますから、時間的なずれがあるにしても、原因と結果は同じものだと考えられます。なにしろ、原因と結果は、延々と続くのです。ある原因によって生じた結果が、いつしか、その結果を生んだ原因になることもあるはずです。原因と結果が同じだとすれば、初めは終わりであり、終わりは初めということになります。つまり、すべては同じひとつということです。

「縁起」とは、すべてのものは相互に関連し合っていて、しかも、相互に依存しているということですが、華厳経には、すべてのものが互いに繋がって共にあり、 個は全体 であり、全体は個だという世界観があります。ひとつの中に一切があるということのようですが、海水の一滴の中には、海水全体の味があるわけで、海水の一滴も海水全体も、同じだということでしょう。

華厳経の教えでは、ひとつの花が咲くことは、宇宙全体がその花の中で表現されていることを意味するようです。咲くひとつの花の中に、この世のすべてが表現されているわけですから、ひとつの花の開花には、この世のすべての営みが含まれているということでしょう。

ひとつの花という個には、衆生や万物、宇宙のすべてのものが互いに繋がって共にあり、ひとつの花という個でありながら、全体を成しているということですが、ひとつの花をひとりの人間だとすると、自分という個人は、宇宙全体であり、宇宙全体が自分という個人に反映されていると考えられます。これは個人である主観的世界と、宇宙全体という客観的世界は、同じひとつの世界だということでしょう。

主観的世界と客観的世界がひとつの同じ世界というのは、真実の世界です。ブッダの到達した『唯我独尊』の「我」の世界です。この華厳世界こそが、ブッダがウパカに語った、失敗した説教ではないか、そんな気がしました。それは悟りの世界であり、そこには『唯我独尊』の「我」しかないのです。

そのように感じられないのは、自分に執着しているからでしょう。個執が全体としての自分を見えなくしているのだと思います。執着心、これこそが、煩悩の正体でしょう。

華厳経では、 時間の流れ も、過去、現在、未来と分離しているのではなく、ひとつだと説かれています。それらの時間は、相互に影響し合っていて、分けることはできないようです。未来はすでに存在していて、現在に影響を与えているということです。

11.鹿苑時

「華厳時」の次の説法の時期とは、ブッダが最初に説いた(初転法輪)とされる「鹿苑時」です。ウパカに対する失敗を学んだブッダは、難解で哲学的な華厳思想のようなことは語りません。ただ、人生は苦であり、苦から解放されるためには何をすればいいのかという、具体的で実用的な説法をします。この説法の教えとは、原始仏教の根本教説とされている 四聖諦 と、 八正道 のことです。

「五時」は、天台宗の開祖である智(ちぎ)が分類して体系化したということもあって、「法華涅槃時」を最後にランキングして、法華経を最も重要な経典としていますから、すべてをそのままに信じることはできませんが、最初の「華厳時」とその次の「鹿苑時」の説法の時期については、かなりの脚色があるにしても、歴史的事実だと思われます。だから、これらふたつの説法をよりどころにして、『唯我独尊』への道を歩むことにします。

悟り直後のブッダがウパカに語った最初の説法は、悟りの世界についてです。悟りの世界とは『唯我独尊』の「我」の世界です。これは目的地です。目的地であるこの世界への行き方については、ブッダは、二番目の説法で語ってくれています。サールナートで五人のかつての修行仲間に説いた四聖諦と八正道の四諦八正道です。

仏教には眩暈がするほどの膨大な経典があります。真理とは シンプルなはず です。人間存在もそうでしょう。経典の量の多さとその難解で複雑な教義体系は、それこそが迷いなのではないかという気がします。ブッダの到達した悟りの目的地をしっかりと視界に入れて、ひたすらに四諦八正道を歩む、このようなシンプルさが必要なのではないでしょうか。

12.ゴータマに悟りをもたらしたヴィパッサナー瞑想

四聖諦と八正道の実践を説く経典に サティパッターナ・スッタ(念処経) があります。「身体」「感覚」「心」「心の中味」について説かれていますが、この経典が伝えようとしていることは、ただひとつだけです。 身体と心は自分ではない ということです。

苦悩は身体と心に生じます。身体と心が自分であれば、自分が苦悩していることになります。身体と心が自分でなければ、苦悩しているのは身体と心ということになります。自分とは身体と心ではないと実感すれば、苦悩から解放されるのです。

このサティパッターナ・スッタの実践としての修行法が、ヴィパッサナー瞑想です。この瞑想を実践することで、自分から解放されて、苦悩から解放されるのです。

日常に留まっていては、自分や苦悩からの解放は、相当に、困難です。日常を離れて実践修行をしなければ、身体と心が自分ではないと実感するのが、むずかしいのです。身体と心が苦悩の原因だとしても、身体と心は快楽をもたらしてもくれます。その快を手放さなければ、自分が身体や心ではないと、実感できないのです。

快を手放さなければ、苦からは解放されないと分かっていても、日常生活の中では手放すことは困難です。日常生活とは、そもそも、できるだけ快適に過ごすことを主眼としているのです。快を手放せば、ソーシャルライフは無理です。人付き合いができないとなると、日常生活はできません。快を否定する人は、だから、日常生活の中には留まれないのです。

ブッダが世俗を離れた出家僧の共同体をつくったのは、だからなのでしょうが、出家をしなければ悟ることはできないとは、ブッダは説いていないようです。仏教が今日まで伝わっているのは、ブッダがその教えをブッダ(仏)、ダンマ(法)、サンガ(僧)と、組織化したからでしょう。

サンガは出家者の共同体ですが、出家をしなくても、同じように真実への道を歩むことはできるのではないか、そう思っています。ヴィパッサナー瞑想が、それをもたらしてくれるのではないかという期待です。ヴィパッサナー瞑想とは、ゴータマをブッダへと導いた修行法です。

13.ゴータマはどんな修行をしてブッダになったのか

およそ2500年前の紀元前5世紀頃のことです。 出家のために王宮を出た29歳のゴータマは、まず、アーラーラ・カーラーマと、ウッダカ・ラーマプッタという二人の仙人に師事しました。

アーラーラ・カーラーマのもとでは、九段階ある禅定の七段階目に到達します。この師のもとではこれ以上は進めないと知ると、次にウッダカ・ラーマプッタに師事します。この師のもとでは、八段階目に到達するのですが、真の悟りではないと感じます。ゴータマがそう感じたのは、生・老・病・死の苦しみが解放されるのは、瞑想中だけだったからのようです。

アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタの二人の師が教えた修行法とは「集中の瞑想」と呼ばれている「サマタ瞑想」だと思われます。「止行」と呼ばれるこの瞑想法は、特定の対象に意識を集中し、雑念を取り除くことで集中力を高めて、心を落ち着かせ、心に静寂をもたらすことを目的にしています。

「サマタ瞑想」で集中させた意識の一点は、主観的世界の極限へと向かいます。そして、そこに到達すると、主観的世界の意識は、客観的世界である全宇宙へと無限に広がり、主観的世界と客観的世界がひとつになり、真実の世界が現われるのではなかろうかと思われます。

「止行」では、主観的世界の意識は、集中の極限には達しないのでしょう。雑念を排除するだけなのでしょう。この状態では、日常生活に必要な思考も排除されます。意識を集中させた一点以外、すべて排除してしまう禅定とは、非日常的な意識の状態であり、そのような状態では、日々を生きることはできません。悟った状態が、人として生きていけない状態であるなら、それは悟りとはいえないでしょう。

悟った状態の意識とは、一点に集中しているのではなく、全世界をあまねく収めている状態ではなかろうかと思われます。意識の無限の拡大です。無限に広がった意識こそが、覚者の意識でしょう。それは、一点に集中した禅定の状態を経ることで、達成されると思っています。この意識の拡大は、薬物使用者にも起こるようです。薬物の影響を受けて、自分の意識の中に全宇宙があるという感覚に陥り、ビルから飛び下りたという事件がありました。

非日常的な変性意識の状態である禅定とは、日常における特別な体験でしょう。体験とは、あくまでも、体験に過ぎません。身体と心が生むものです。禅定の状態の体験も、薬物やアルコールで得る体験も、同じ体験です。体内の物質によって引き起こされる現象か、体外の物質が要因となって引き起こされる現象か、それらの違いがあるだけです。

体験は、身体と心が生むものなので、繰り返せば必ず飽きます。身体と心は、既知のものには、あまり反応しなくなるのです。薬物やアルコール依存で、必要量が増えるのは、そういうことでしょう。体外離脱を繰り返し体験した人が、体外離脱はもう飽きた、と言っていました。悟りとは、身体や心が生み出すものではないでしょう。身体や心を超えるはずのもので、飽きがあるとは思えません。悟りが体験であれば、それは悟りではないのです。

禅定という 非日常的体験 であれ、日常的体験であれ、体験とは日常の中の現象です。一時的なものであり、必ず消え去り、記憶としてしか残りません。悟りとは、身体と心を超え、日常を超えた状態であり、一時的なものではなく、永久不変の状態のはずです。

その後、ゴータマは苦行に取り組むのですが、自分の肉体を痛めつけて弱らせれば、心が清らかになり、苦しみから解放されると考えたからのようです。身体があるからこそ苦があると思ったのでしょう。 6 年間苦行を続けたゴータマは、命まで危うくしますが、そのような苦行は生・老・病・死の問題の解決にはならないことに気づきます。 そして、 苦行を捨てる 決心をします。

そうして、ネーランジャラー河のほとりの菩提樹のもとで、ゴータマは悟りを開き、ブッダとなります。この時の瞑想法が、「観行」と呼ばれるヴィパッサナー瞑想です。ヴィパッサナー瞑想で悟るためには、高い集中力と心の静寂が不可欠のようです。

ゴータマには、二人の師から学んだ「止行」と呼ばれるサマタ瞑想が土台にあったので、ヴィパッサナー瞑想で悟ることができたのでしょう。それまでの修行も、無駄ではなかった、というよりも、必要だったのです。 目的地への最後の一歩が、目的地に到達させたと思いがちですが、それまでのどの一歩が欠けても、目的地には至れなかったのです。

ヴィパッサナー瞑想は、気づきと智慧の瞑想法といわれています。「気づき」とは、自分に気づくことでしょう。これはある種の「自我体験」です。智慧とは「身体と心は自分ではない」と知ることです。身体ではなく心でもない自分とは、『唯我独尊』の「我」でしょう。つまり、「独我論的体験」です。「自我体験」と「独我論的体験」がここにはありますが、悟りとは体験ではないので、統合失調症とは、似て非なるものです。ブッダの場合は、悟りの自覚があったので、あらゆる「体験」を超えていたはずです。

14.無我説と非我説

仏教の根本思想といわれる無我説は、どのように成立したのでしょうか。ブッダは、本当に無我説を説いたのでしょうか。説いたのであれば、悟りの目的地の『唯我独尊』の「我」は「ない」ことになります。 歴史的人物としてのゴータマ・ブッダに最も近く、文献として最も古いといわれる「スッタニパータ」に以下の言葉があります。

「世人は非我なるものを我と思いなし、名称と形態とに執着している」

ここで説かれるブッダの言葉は「無我」ではなく「非我」です。世の中の人は「我」ではない「非我」を「我」だと思い込んでいると説いています。ここで説かれていることは、自分ではないものを自分だと勘違いしてはいけない、ということでしょう。

「我」とはアートマンの漢訳です。アートマンとは、インド哲学においての個人の本質であり、宇宙の根源であるブラフマンと同一のもの(梵我一如)だと考えられています。西洋倫理学の視点でいえば「良心」に近いもののようです。「アングッタラニカーヤ」にこんな言葉があります。

「自己のうちに悪があるのに自分のために隠そうとする汝を、貴いアートマンは軽視している」

ブッダのこの言葉には、不正直な自分という「非我」に対するアートマンの軽視があります。「良心」とは、自分に対しても、誰に対しても、何に対しても、正直なことでしょう。

どこまでも善の実現をめざしたブッダは、倫理の実践者だったようです。そのための行動が、アートマンの実現であり、アートマンではない「非我」を「我」と見ないことです。ブッダは、アートマンとしての「我」の存在を、積極的に肯定しているとしか考えられません。「スッタニパータ」にはこんな言葉があります。

「諸行をアートマンではなく、他のものと見よ。苦であると見よ。アートマンと見ることなかれ」

最初期の仏典では「我」ではないものを「我」とみてはいけない、と説かれているだけです。アートマンとしての「我」は存在しない、とは説かれていません。

パーリ語経典の anattan(我ならざること)や anatman(我がないこと)は、漢訳経典では「無我」と訳されたり「非我」と訳されたりしているようです。初期仏典では、観察の対象になるものは、すべて「我ならざるもの」、すなわち「非我」であることが強調されているようです。だとすると、漢訳経典の中の「無我」は、「非我」の意味だと理解することが正しい解釈のように思えます。

観察の対象になる諸行は、アートマンではないのです。目に見えるものは、すべて、アートマンではないのです。「無我」ではなく「非我」なのです。「我」は存在しないとは、説かれていないのです。つまり、ブッダは「無我」を説いていないということです。

では、なぜ仏教は無我説を説く宗教だという固定観念が生まれたのでしょうか。 初期の仏教では、アートマンが何であるかということについて、どんな説明もなく、形而上学的問題については答えることを拒み、アートマンを想定する世俗的見解や哲学的見解を攻撃しています。仏教は無我説を説く宗教だという固定観念は、こうして生まれたのでしょう。 仏教の修行の第一歩が「私のもの」や「私の所有」という観念を捨てることだったことも、仏教が無我説を説く宗教だと、誤解されることになったようです。

「修業を完成した人は、貪欲を離れ、我が物という執着がなく、希求することがない」(スッタニパータ)

仏教の修行とは、我執を消し去ることで完成されると考えられていたわけです。原始仏教の無我説とは、我執を排斥することだったようです。我執の排除とは、アートマンではないものをアートマンとみなして執着することを厳しく禁じただけです。「我は無い」という意味ではないのです。

アートマンではないものの中でも、身体をアートマンと考えることを、特に排斥しています。自分の身体を断滅することが、安楽だとされています。 サティパッターナ・スッタ は、身体と心がどのように成立しているか、それらの断滅と、断裁に至る道を説いています。

身体と心の断滅は、初期仏教では、根本的に重要な意義を持っていたようですが、後世の仏教は、身体と心は人間の単なる迷妄のひとつに過ぎない、と理解されるようになったようです。

無我説は、人には「我」がないという「人無我」から、すべてのものには「我」がないという「法無我(諸法無我)」へと発展拡大します。また、中観思想では、無我説は「空の思想」と同じことになります。こうして、「仏教とは無我説」という固定観念が生まれたようです。

15.ブッダの説く死後の世界

無我説とは、アートマンは存在しないという教えではないにもかかわらず、初期仏教でも、アートマンは存在しないと理解した人がいたようです。「スッタニパータ」にヤマカという修行僧の言葉があります。

「煩悩の汚れの尽きた比丘は、身体の滅びた後に断滅して滅亡し、死後にはもはや存在しない」

これについてシャリープトラが、修行を完成させた人については、死後に存在するとか存在しないとか、どのようにも理解できないのだと説き、ヤマカの主張は誤りだと悟らせます。

今日、仏教の死生観について、かなりの人がヤマカと同じように考えているのではないでしょうか。自己の完全な消滅のために苦しい修行をする仏教僧、それは異次元の存在でしかないでしょう。この世は苦であるにしても、快もあるわけですから、自己の完全消滅を願う人は、あまりいないでしょう。だから、輪廻転生があるのです。

煩悩が尽きず、死後に完全な消滅ができない人は、輪廻転生することになっています。仏教は、インド社会の俗信である因果応報説を採用したため、輪廻転生を説くようになったようです。輪廻の生存を火炎にたとえ、輪廻の原動力は、渇愛だと説きます。

ブッダは、輪廻転生など、死後の世界を説いていないと言う人がいます。形而上学的な問題について判断を示さず、沈黙したブッダの「無記」の教えが念頭にあるのでしょうが、経典の中では、ブッダは死後の世界について説いています。生命は、死後、新たな存在として生まれ変わることを説いていますが、何が生まれ変わるのか、生まれ変わる生命の主体については、否定しています。

16.何が輪廻転生するのか

輪廻による現生から来世への生存は、何が主体となるのでしょうか。仏教では霊魂(jiva)は否定されています。霊魂(jiva)などの形而上学的主体としてのアートマンは認めないにしても、因果応報説を採用したために、仏教でも輪廻の主体としてのアートマンが説かれるようになりました。これは、当然、論争になります。

「ディーガ・ニカーヤ」の「パーヤーシ経」では、来世は存在しないというパーヤーシ王に、クマーラ・カッサパという尊者が、死者と生者の身体を比較することで霊魂(jiva)の存在を論証します。パーヤーシ王は、輪廻思想を受け入れて、仏教徒になります。

仏教には、正反対の世界観を説く経典が、さまざまにあるようです。どの経典を採用するかで、どんな仏教になるかが決まるのでしょう。今日、さまざまな仏教がある背景には、こういうことがあるのかもしれません。

輪廻の主体として、当時、識(心)がアートマンのような原理として考えられるようにもなります。この傾向は現在もあるようです。悟ったといわれている高僧の著作に、心(citta)が輪廻するとありました。

ブッダは輪廻の主体を否定していますが、では、何が輪廻するのかと問われると、ブッダは縁起説で説明します。原因があるから、その結果があるわけです。「スッタニパータ」にあるブッダの言葉です。

「愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを感じる」

「愚者」という輪廻の主体があるわけではなく、愚行という行為が、来世に苦しみをもたらすということです。善行は、来世に喜びをもたらすわけです。死の瞬間にマンゴーが食べたいと思えば、マンゴーを食べる虫に生まれ変わるそうです。来世で、苦しみは苦しみに、渇望は渇望に、喜びは喜びに、また、落ちてしまうようです。

17.輪廻転生とは延々と続く夢

現生から来世への輪廻の主体がなく、縁起によって転生するのなら、現生も来世も区別ができないことになります。現生と来世は死によって区別されるのでしょうが、この世の現象は心が生み出す幻影に過ぎない仏教の世界観からすると、来世も心が生み出す幻影です。つまり、夢でしかないということです。そうすると、現生の夢は、死後も同じように続くということです。

現世の思いが来世も続くのなら、天国や地獄があると思っている人には、死後には天国や地獄があることになります。ないと思っている人には、ないことになります。死後の世界はないと思っている人には、ないのでしょう。 輪廻転生を信じていれば、死後にはあの世で生前の自分と向き合い、解脱か輪廻かが決定されることになります。輪廻が決まると、夢が続きます。死後の世界は、心の経験でしかないのです。生前も死後も、だから、同じなのです。

ひとつの生から次の生へと、心が延々と幻影を生み出しているわけですから、心(citta)が輪廻の主体として考えられるのかもしれませんが、心が生み出す幻影は夢の世界であって、夢を見る主体ではありません。夢を見ている主体は何か、それこそが、ブッダが到達した『唯我独尊』の「我」ではないかと思うのです。

夜、 眠って見る夢 をイメージすると、目の前にある現実が夢だとは感じられませんが、夢とは、いつかは必ず消えてなくなるものということです。中観思想では、このことを「夢」ではなく「空」という概念で表現しています。般若心経の「色即是空」や「空即是色」というのは、「観察できるもの」は「いつかは必ず消えるもの」であり、「いつかは必ず消えるもの」が「観察できるもの」だ、ということでしょう。

眠って見る夢は、脳が作る脳内現象です。心だけがつくる世界ですが、現実の世界は、身体と心というすべての感覚器官がつくり上げる世界です。「アングッタラ・ニカーヤ」の中で、ブッダは、心に生じるものはすべて感覚として流れる、と説いています。感覚器官で集めた現実世界の情報は、すべて心で処理されますから、眠って見る夢も、現実の世界も、どちらも同じ感覚がつくり上げています。だから、現実世界とは、感覚がつくり上げた「夢」なのです。

目に見えるもの、感覚器官で観察できるもの、それらはすべて「夢」なのです。般若心経のいう「空」です。この世では、夢ではないものはないのです。夢ではないものとは、目に見えないものであり、観察の対象にならないものです。それは、生まれることもなく、滅することもない、永久不変の実在です。それ以外に実在というものはないのです。これこそが、ブッダの到達した『唯我独尊』の「我」でしょう。誰もが到達すべき「本来の自分」なのです。

問題は、私たちが、感覚器官で確認できるものだけを、実際に存在する実在だと見なしていることです。永久不変の実在は、感覚器官ではとらえられないのです。『唯我独尊』の「我」は、感覚器官ではとらえられません。とらえられたとしたら、それは観察の対象となるので、実在ではなくなります。

感覚器官のつくる世界だけしか知らない私たちが、感覚器官ではとらえれない実在を知るには、どうすればいいのでしょうか。感覚器官を超えて『唯我独尊』の「我」にたどり着くには、悟るしかないのでしょう。

『唯我独尊』の「我」は、この世という夢の中では「日常の自分」として、その夢の世界を体験します。その「日常の自分」も、いつしか死ぬわけですが、死によってその夢が終わっても「日常の自分」が『唯我独尊』の「我」だと知りえなければ、次の夢の「観察機器」を見つけて、新たな夢を体験するわけです。こうして、死によっても目覚めることはなく、延々と夢は続くのです。

18.現世から来世への輪廻転生とは二本立ての映画

映画館で二本立ての映画を観るとします。上映中は『唯我独尊』の「我」は、物語の 登場人物に同一化 します。自分こそが、その物語のヒーローであり、ヒロインです。一本目の上映が終わり、映画の中で起こった体験の記憶は、スクリーンに記録されて、次の映画の物語に反映されます。ロビーで次の上映を待つ間に、『唯我独尊』の「我」が、いつまでも一本目の映画の登場人物に同一化していて「本来の自分」に戻らないと、二本目の映画の上映が始まり、それを観始めると、今度は新たな物語の新たな登場人物になります。こうして、延々と新たな物語が続き、新たな登場人物が次々に生まれますが、客席でそれを観るのは、ただひとり、『唯我独尊』の「我」だけです。

私たちは、小さい頃の自分と、大人になってからの自分と、 同一の人物 だと何の疑いもなく思っています。でも、本当にそうでしょうか。容姿は違いますし、心の中味も違います。身体と心に関するかぎり、同一の人物とはいえません。

今の自分とは、生まれてからずっと継続している自分だと、疑問さえ持たないのは、記憶があるからでしょう。でも、記憶は継続性という幻想を生み出しているだけなのではないかと思うのです。それら記憶の体験者は、小さい頃と今とでは、別々です。別々の体験者の間には、継続性はありません。あると思うのは、そう思っているだけのことでしょう。

すべてが変化する諸行無常(anicca)の世界には、存在の継続性というのは、あり得ないのではないでしょうか。あると思っているだけのことでしょう。習慣や社会制度や人間関係などが、人間という存在の継続性を生んでいるのでしょうが、それは単なるシステムであって、人間がつくり上げたものです。人間がつくったシステムによって支えられなければ成り立たない継続性とは、この世と同じ、幻影のようなものでしょう。

継続性と同一性は違います。継続性とは、継続していると思っているだけの幻影ですが、私たちのほとんどが、自分という人間の継続性を信じて疑っていません。継続性が成り立つためには、継続していると思わせる、同一性がそこになければいけないのではないでしょうか。小さい頃も今も、自分は同じなのだという同一性です。その同一性こそが、『唯我独尊』の「我」ではないかと思うのです。

私たちは、日常生活でも、見えないだけで、常に『唯我独尊』の「我」なのです。だからこそ、私たちは、この世で、唯一の自分として生きることができるのではないかと思うのです。自分とは、天にも地にも、かけがえのない「我」なのです。

19.「日常の自分」と「本来の自分」

「自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして主(あるじ)であろうか」(ダンマパダ)

ここでの「自己」とは「本来の自分」です。「自分」とは「日常の自分」です。「本来の自分」とは「日常の自分」の主(あるじ)なのです。その主(あるじ)に到達することが、解脱でしょう。

仏教の実践とは「日常の自分」が「本来の自分」に到達するために、日々歩むことでしょう。目的地は「本来の自分」です。その実践は、あくまでも「日常の自分」が担わなければいけないのです。ブッダを手本としても、解脱は、他人によっては得られないのです。歩むのは、あくまでも、自分です。

観客席には『唯我独尊』の「我」しかいませんが、スクリーンには「観察機器」としての「日常の自分」をはじめとして、大勢の他人がいます。すべて『唯我独尊』の「我」の見る夢ですが、夢の中のこれら大勢の他人は、友となり手本となることもあれば、敵になることもあるでしょう。どのような場合であれ、自分を救うのは自分なのです。

最初期の仏教では、自己と他人をはっきり区別していたようです。自己と他人が本来ひとつである真実の世界は、説かれていません。ブッダが説く教えは、観客席にひとりいる『唯我独尊』の「我」の世界ではなく、 スクリーンの世界 です。それは「日常の自分」が主体の諸行無常の現象世界です。ウパカに対する失敗で学んだからでしょう。

「スッタニパータ」には「犀の角のようにただ独り歩め」というブッダの有名な言葉があります。「日常の自分」が、他人に頼らずにどのように歩むべきかが、延々と説かれています。そうして、たどり着くところが「日常の自分」に打ち克った「本来の自分」です。「ダンマパダ」にこんな言葉があります。

「戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である」

自己に克つ勝利者、これこそが、ブッダが解脱によって到達した『唯我独尊』の「我」でしょう。「日常の自分」が到達した「本来の自分」です。 我執は捨てなければいけないといわれていますが、「日常の自分」を「本来の自分」へと歩ませるのは、その我執です。問題は、我執によって「日常の自分」が「本来の自分」を見失うことでしょう。それは自分ではないものに執着することです。

利己主義は、結局、自分を損なうことになるので、慎まなくてはいけませんが、どのような自分であっても、自分を認め大切にすることが不可欠です。「日常の自分」が「本来の自分」を見定める我執を持つこと、これはとても重要なことです。

というのも、「日常の自分」に対する我執を持つことで「本来の自分」が漠然とながらも見えてくるからです。私たちは体験していることには気づいていても、体験者には気づいていません。その体験者とは、スクリーンの中の「日常の自分」ですが、それは観客席にひとりいる『唯我独尊』の「我」なのです。

20.生きづらさは悟りへの扉

我執が問題なのは、名声や富や人間関係など、自分のものと感じる、自分のものではないものに執着するからでしょう。どのような体験であれ、どのようなものであれ、自分のものではないものに執着すると、必ず苦悩します。この世では自分のものは、何ひとつないのです。なぜなら、死によって、すべて奪われるからです。だから、この世のものに執着すると、必ず苦しむことになります。

執着心は、自分のものはないと、漠然とにしても、知っているからでしょう。自分のものだと知っていれば、それほど執着しないはずです。その時には自分のものであっても、いつかは自分のものではなくなると知っているから、自分のものにしようとして、いっそう執着するのでしょう。

この世に生きていて、生きづらさを感じたことがない人は、まず、いないでしょう。王国の王子でさえ感じるのです。どのように恵まれた境遇にいる人でも、忘れている時以外は、感じるはずです。だから、忘れるために、気晴らしや娯楽のようなレジャーが必要なのです。それは日常を忘れることですから、ある種の逃避です。一時の逃避は可能でも、一生の逃避は不可能です。

生きづらさを感じるのは「日常の自分」です。自分を無力だと感じ、この世という見通せない世界に投げ出されて、自分にいつ何が起こるか分からず、自分の運命は見知らぬ力に握られていると感じます。自分を何としても守らなければならないと、意識せずとも、自己防衛に走ります。どのように自己を防衛しようとしても、行き着く先には、必ず死があります。それを知っているからこそ、ますます自己防衛に走り、果ては、いっそ、自分でけりをつけた方がいいのではないか、という極端な考えを持つようにもなります。

生きづらさを感じるのは、自分が思う現実と、実際の現実にズレがあるからでしょう。そのズレを生んでいるのが、欲望です。欲望とは、現実の否定です。欲望は、不満な現実を否定して、別の現実を求めます。

何を手に入れても、一時の満足感しかないとしたら、欲望には限りがなくなります。死んでも手に入れたいと激しく欲望して手に入れたものでも、手に入れてしまうと、それほど欲しかったものとは思えなくなり、別のものを欲望するということになります。

問題は、何を欲望しているのか、はっきり分かっていないことでしょう。漠然とした欠落感が、欲望を生んでいるのでしょうが、大体が、名声や富や権力など、社会の価値観に従って充たそうとするので、欲望が充たされることはないのです。

求めているのは「本来の自分」でしょう。「日常の自分」が「本来の自分」を求めているのです。そのことをきちんと理解できていないので、薬物やアルコールや女(男)など、快楽を生むものや、名声や富や権力など、社会的に価値あるものを求め、生きづらさから逃れられずにいるのです。

「本来の自分」とは、社会的には何の価値もありません。だから、社会で生きていくことの不可避さを知っている大人である親は、自分の子どもが「本来の自分」になろうとしたら、 激しく反対 するのです。この価値観のズレは、人間存在の根本に由来しているので、簡単には埋まらないでしょう。

生きづらさとは、悟りへの扉です。欲望があるからこそ、その扉の前にたどり着けるのです。悟りへの扉であるこのような生きづらさが生じるのは、「日常の自分」が「本来の自分」と切り離されたからでしょう。 「本来の自分」を知らず、自分が不生不滅の存在だと知らないからです。至福の存在だと知らないからです。これを知ることこそが、苦からの解放を謳う、仏教でしょう。

生きづらさを感じたとき、ほとんどの人が自分を責めているのではないでしょうか。自分は劣っているという自己否定を、いけないとは分っていても、しているのではないでしょうか。自分とは、身体や心ではないのです。この世の「観察機器」ではないのです。それらは、この世を生きるための「道具」でしかないのです。「道具」の性能が劣っていたとしても、使用者の責任ではないはずです。「道具」を自分だと思って、自分の真の姿を知らないこと、これこそが「無知」であり、苦です。

21.自分にとっての現実感 

日常社会の中で、私たちは生きることを欲しています。存在することを欲しています。自らが生きて存在していることの確かな証しを、絶えず求めています。ほとんどの人が、その証しを社会的な活動に求めているのでしょうが、その証しこそが、自分にとっての現実感でしょう。

私たちはこのような現実感を、どのように知るのでしょうか。現実の体験には、空想にはない手応えのような確かな感覚があります。哲学用語では、これをクオリアと表現しているようですが、あくまでも主観的な体験であり、客観的な測定はできません。

咲いている花を見て、花が咲いているという現実感は、その花にあるのでしょうか、それとも花を認識する視覚にあるのでしょうか。ほとんどの人が、咲いている花の現実性は、花にあると思っているはずです。でも、これは錯覚です。実際は、花にあるのではなく、視覚にあるようです。砂糖の甘さは、砂糖にあるのではなく、味覚にあるのです。砂糖にあると感じるのは、錯覚です。甘さという現実感は、味覚があるから生まれるわけで、味覚が壊れると、甘さという現実感も失われます。

花の現実感は、花という対象にではなく、花を見ることで生じる知覚にあります。花が美しいのは、花が美しいのではなく、美しいと感じる心にあるのです。世界を美しくしたければ、心を美しくすればいいのです。 この現実感の認識は、物質にかぎらず、音楽やお話、成功や失敗といった、非物質的なものまで含めて、人が観察できる世の中のすべてに当てはまります。

このことから、現実性とは、心の働きだといえるでしょう。現実性は、観察する対象がもともと持っている固有の性質ではなく、私たちが何かを観察するたびごとに、その観察行為の中から生み出されています。観察行為の中から生み出される 現実性とは 、心が生むものです。心が現実性を生んでいるのです。ということは、この世を生み出しているのは、心ということになるのではないでしょうか。

22.世界は本当に存在するのか

日常にある観察対象は、間違いなく存在すると、その実在性を私たちは疑っていません。客観的に存在するから、私自身の勝手な空想の産物ではないと思っています。観察対象の実在性が、私たちの常識的日常性ですが、世界は本当に存在するのでしょうか。般若心経は、自分は存在しないし、世界は存在しない、それを知るとこの上ない喜びに包まれると説いています。

客観的に存在することが、世界が存在することの前提ですが、客観的な存在というのは、私たちの現実感には、何の意味もありません。同じものを見たとして、その見たものを表現したとします。同じ言葉で語られたとしても、その体験内容は、表現できないだけで、人によって、すべて違います。

現実感には主観性しかなく、客観性というものはありません。客観的な存在は、存在しているように見えるだけで、実在はしていないのです。心が関心を失えば、消えてしまうものです。客観的世界というのは、主観的世界なのです。同じひとつの真実の世界なのです。自我が主観的世界と客観的世界をつくり、客観的な存在が実在しているように見せているだけなのです。

目に見える世界の中で、目に見えない心によって動かされている人間活動は、合理的に判断したり、客観的に理解できないのです。にもかかわらず、日常社会は、合理的で客観的な常識的日常性という枠組みををつくって、その中で生きることを私たちに強制しています。人間本来の自然には、あるはずのない合理性が、社会によって人間に押し付けられているのです。

人間を含めた自然の本性は、非合理そのものです。何がどのように起こるのか、誰にも分からないところに、合理性はありません。生命が存在するということ自体が、一切の合理性を超えた偶然です。親ガチャで生まれる、たまたま存在している人間とは、全く非合理的な存在なのです。非合理的な存在のままでは、不安で生きていくことができないので、人間社会は合理性を持ち込み、自然や人間活動を予測可能なものにして、とりあえず、安心しているのです。

これは、虚構です。人類が文明を築き、生存を確かなものにするためには、このような虚構も必要なのでしょうが、虚構は虚構として理解されることも、大切です。虚構の中でしか存続できない人類のこのようなあり方は、必要とはいえても、正当とはいえないでしょう。私たちが生きづらさから逃れられないのは、私たちの生存が、このような虚構にあるからです。人類の原罪とは、このことでしょう。知性を持ったために、人間は真実の世界を追放されたのです。

23.「正常に異常」な状態と「異常に正常」な状態

この世に生きる人は、生存のために、虚構を強制されているわけです。それは異常な状態ですが、おかしいと思っている人はあまりいません。ほとんどの人が異常なので「正常に異常」な状態といえるでしょう。常識的日常性が虚構だと知った人は、精神異常者だとみなされます。このような人たちこそ、虚構を虚構と知っているわけですから、正常な人たちでしょう。ただ、正常な人は、ごく少数なので「異常に正常」な状態といえるでしょう。

「異常に正常」な人は、医師の治療を受けて「正常に異常」な状態となって、社会復帰をします。社会復帰ができず、生命力が深いところで停滞し、生への意志が活動を停止すると、離人症になります。

離人症とは、自分と世界に対する非現実感です。自分を外から見ているような感覚があり、世界が映画やテレビの中にあり、それを自分が観察しているような症状です。これはブッダの到達した『唯我独尊』の「我」の世界と、とてもよく似ています。ただ、似ているだけで、似て非なるものでしょう。なぜなら、そこには悟りの自覚がないからです。何よりも、そこには真実への意志がありません。

世界は客観的に存在しているというのは、錯覚に過ぎないのですが、その錯覚を生み出しているのが「生への意志」ということです。「生への意志」が失われた離人症になると、錯覚にすぎない「世界の客観的現実性」が失われてしまい、自分や世界が、非現実的になるようです。

「世界の客観的現実性」を生み出しているのは「生への意志」という欲望です。欲望をすべて消し去ると「世界の客観的現実性」が消えます。「世界の客観的現実性」というのは虚構ですから、欲望をなくすことが、悟りのためには大切だといわれているのでしょう。でも、欲望をなくした離人症は、悟りではありません。

仏教が厭世的だといわれるのは「生への意志」をなくすための教えだと誤解されているからでしょう。仏教の歩む道は「生への意志」をなくすことではありません。「生への意志」を超えて、実在を見出そうとする「真実への意志」を持つことです。それが厭世的だと思われるのは、 世間を超える教え だからでしょう。

24.ヴィパッサナー瞑想はどのように悟りをもたらすのか

この世は、そこに、そのままに、独自にある実在だと、私たちは、何の疑いもなく考えています。でも、これは錯覚です。すべてが変化する諸行無常(aniccia)の世界には、実在はありません。実在とは、変化せず、生じることも、滅することもないのです。いつかは必ず消えるものは、実在ではありません。一時的に存在しているだけです。ほとんどの人は、この世界にあるものは、すべて、変化し、いつかは消えると知っていますが、知っているにもかかわらず、日常生活の中では、そうは思っていません。思っていると思っているだけで、実際は、死にうろたえることからも分かるように、世の中や自分は、実在だと錯覚しています。

この世の存在は、すべて、いつかは消えるものなのに、日常的にそう思えないのは、記憶の継続性と人間がつくった社会制度があるからでしょう。それは、身体と心を存続させるためにあります。身体と心を自分だと、何の疑いもなく思っている私たちは、自分という存在は、実在だと錯覚しています。身体や心やこの世が、変化していて、いつかは消えるとは、日常的には思えないのです。諸行無常(aniccia)という真実は、修行者にとっても、単なる言葉になってしまうのです。

もし、身体や心や、それらの世界が、実在ではないと実感できれば、諸行無常(aniccia)の真実があらわになります。身体や心や、それらの世界は、存在はしていても、常に変化していて、いつかは消えるものです。その真実を知ることが、悟りをもたらしてくれるのではないかと思うのです。

ヴィパッサナー瞑想は、自分の身体の感覚を観察する瞑想法です。感覚を観察することで、身体や心は自分ではないと実感することが説かれた経典、 サティパッターナ・スッタ の教えに基づいています。身体や心に起こることは、すべて感覚として流れるので、感覚を観察することで、身体や心のすべてを知ることができるのです。

ヴィパッサナー瞑想を実践することで、いつしか、身体が消え去り、心が消え去り、感覚が消え去ります。 消え去るのは「日常の自分」です。消えてなくなるのは「日常の自分」が活動していたスクリーンの世界です。それらが消えて、あらわになるのが「本来の自分」でしょう。観客席にひとりいる『唯我独尊』の「我」が、登場人物がいなくなって、我に返るのです。

25.仏教とは自己実現のための教え

仏教は「無我」だという固定観念があるためか、仏典で自己がどのように扱われているか、あまり関心が払われていないような気がします。初期の仏教における修行とは、真実の自己、「本来の自分」に復帰することだったようです。修行者は、真の自己を自覚的に把握せねばらないと考えられていたわけです。

ブッダの教えと僧侶の生活や規律が記述された「ヴィナヤ・マハーヴァッカ」には、ブッダが、娼婦を探している青年たちに、婦女を求めるよりも、自己(アートマン)を求めよ、と説いて出家させたエピソードがあります。原始仏教の修行とは、この自己(アートマン)を実現させることだったようです。

最初期の仏教においては、二種類の異なった自己が想定されています。理想から乖離し、常に頽廃する可能性を内臓している自己と、理想として実現されるべき自己の二種類です。仏教用語で表現すれば「小我」と「大我」となるのでしょう。これは「日常の自分」と「本来の自分」と呼んでもいいのではないかと思っています。

理想的な自己を実現するためには、もろもろの悪徳、煩悩の基体としての自己、これを滅却しなければいけない、などなど、「ダンマパダ」や「スッタニパータ」など、最古層の経典には「自己を愛し護ること」と「自己を滅し捨てること」という二様の相反した教説が、繰り返し説かれているようです。

これはアートマンがブラフマンと合一する、梵我一如のウパニシャッドの思想と同じです。原始仏教では、アートマンがブラフマンと合一することを解脱とするウパニシャッドの思想を、一応は承認しているようです。

26.自己実現のために 

自己実現(self-actualization)という概念は、アメリカの心理学者、マズローの欲求の五段階説が基となっていますが、このような概念は、2500年も前の仏教経典に、すでにあったわけです。マズローのこの理論から、日本でも自分探しがブームになりました。でも、自分を探すためには、「探し出す自分」とは何か、これをしっかりと知っておく必要があるように思います。

イスラム教神秘主義のスーフィズムに、こんな話があります。

ある人が、夜中に、街灯の下で探し物をしていました。とても大切なものを失くしたと、必死になって探していました。通りがかった人は、気の毒に思って、いっしょに探してあげることにしました。

「失くしたのはどの辺りですか」と尋ねると、探し物をしている人が言います。

「家の中で失くしたんです」と。通りがかった人は、驚きます。

「だったら、どうして家の中を探さないのですか」と聞くと、探し物をしている人が、言います。

「だって、家の中は、真っ暗なんです…」

スーフィズムは、すべての現象を神の現れと考え、修行によって自己を捨て去り、神との合一に至るよう説いています。ウパニシャッドの梵我一如や、初期仏教の修行に、とてもよく似ているような気がします。

日本では、ひと頃、自分探しがブームとなり、大勢の人が、自分が本当に何を求めているのか、何を大切にしているのか、それらを見つめ直して、自分に合った生き方や仕事を見つけようとしました。そのような人たちが探していたのは、ほとんどが、社会的に価値があり、敬意が払われるような生き方であり、仕事だったように思えます。

自分が持つ能力や可能性を最大限に引き出して、自分の理想や目標に向かって成長し、自己を実現しようとする人たちの「自己」とは「日常の自分」でしょう。「日常の自分」が、少し着飾って、新たな「日常の自分」になることでしょう。その「自己」とは、人からは高く評価されるかもしれませんが、他者との比較や、優劣でしか知ることができませんので、結局、「苦」を生みます。それは、あくまでも、常識的日常性にいる「日常の自分」でしかありません。

飾り立てた「日常の自分」ではなく、「本来の自分」を見出すことが「自己の実現」です。ここで探さなければいけない「自己」とは「本来の自分」です。でも、「本来の自分」とは、どこをどのように探したらいいのか、まったく分かりません。しかも、社会的には、何の価値もないのです。

日常生活の現実感、クオリアとは、私たちが生きて存在していることの唯一の証しです。社会的には何の価値もありませんが、それがなければ、私たちの存在はありません。他の人には何の価値もなくても、自分にとっては、自分という存在を証してくれる、計り知れない価値を持っています。

私たちは、客観的に観測できないので、観察の対象にならないはずのクオリアを、日常的に見出しています。クオリアが「自己」であるなら、永久不変のはずですが、見出したクオリアは、すぐに消えてしまいます。だから、私たちは、消えて失ったクオリアを求めて、ひたすら、さまざまに社会活動をしています。見出したクオリアがすぐに消えてしまうのは、「自己」ではないからでしょう。街灯の下で見つけたものだからでしょう。永久不変の実在は、明るい街灯の下では、見つからないのです。

クオリアは「自己」ではないにしても、私たちは、ひたすら自分の存在を証してくれるクオリアを求めています。私たちにとって、かけがえのないものだからでしょう。クオリアが、自分にとっては、計り知れない意味を持っているということは、それが「自己」という実在を暗示しているからではないでしょうか。 だとしたら、クオリアとは、私たちが見出そうとしている「自己」への「扉」ではないかと思うのです。

私たちは、クオリアを求めているようで、実際は、日常的に「自己」を求めているのではないでしょうか。愛が貴重なのは、それがそのまま「自己」へとつながっているからでしょう。私たちは、愛を求めるとき、知らずに、実際は、愛を通して得られる「自己」を求めているのではないかと思うのです。「自己」とは「愛」のことかもしれません。ただ、ほとんどの場合、求める場所が、暗い家の中ではなく、街灯の下なのです。

「本来の自分」という「自己」を見出すことができるのは、真っ暗な家の中のようです。見えないからといって、明るい街灯の下を探しても、見出すことはできないのです。「自己」を見つけるためには、クオリアという「扉」から真っ暗な家の中に入り、光を持ち込むことでしょう。光は闇を追い払います。ただ、その前に、「扉」の向こうにある「家の中」がどこなのか、まずは、ここからです。

永久不変にある永久不変の現実感、これは言葉にはできない喜びです。「自己」にたどり着くと、この喜びが得られるのではないかという気がします。解脱とは、こういうことではなかろうかと思うのです。

「自己」を見つけること、これは宗教に関係なく、万人に共通の課題ではなかろうかと思います。だから、 「家の中」 がどこなのか、まずは、やっぱり、ここからです。

(上記経典の日本語はすべて中村元訳です)




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