|
わたしの仏教
〜 「わたし」という悟りの鍵を探しました 〜
[ English ]
|
|
1. なぜ「わたしの仏教」なのか 仏教は歴史上の人物であるゴータマ・シッダッタが悟りを開き、「悟った人」を意味するブッダ(Buddha)となって、その教えを説いたことで成立したとされていますが、今日まで伝わる仏教は、ブッダ亡き後、ブッダの教えを弟子たちがまとめた経典の教えが基になっています。仏教経典の冒頭は「如是我聞(私はこのように聞きました)」です。 ブッダは、相手の生活状況や能力や性格などに応じて説法をしたといわれています。ということは、同じことを尋ねられても、相手によっては、正反対の説法をしたこともあったはずです。経典による教えでは、このようなことは認められません。だから、経典で仏道に励んでいる人の中には、正反対のことをしているということもあるかもしれません。 さまざまな仏教経典が膨大にあるのは、ブッダのこの対機説法に源流があるようです。 ブッダの対機説法を自分に当てはめたらどうなるか、いろいろ考えると、「わたしの仏教」になりました。 無我が基本の仏教ですが、悟りの扉を開く鍵は、「わたし」にあると思っています。 2.存在と実在 実際に目の前にある日常の状況が、私たちにとっての現実です。眠って見る夢や空想が、現実ではなく、非現実とされるのは、それらが日常にはない世界だからでしょう。でも、現実とされる日常も、非現実とされる夢や空想も、存在のありようが違うだけで、私たちの心の中には同じように存在していますし、私たちは同じように体験しています。 日常に生きる私たちにとって、自分の存在は現実です。自分は、間違いなくこの世で生きています。でも、その存在は一時的なものです。いつかは必ずこの世から消え去ります。そうすると、一時的な存在である自分とは、非現実とされる夢と変わらないことになります。人の一生も、一夜の夢も、時間の長さが違うだけで、どちらもいつかは必ず消え去ります。この点では、現実とは、非現実とされる夢と同じです。 仏教は、現実世界は夢幻であり、その認識が悟りをもたらすと教えています。この世が夢や幻という根拠は、この世のすべてが 絶えず変化 し、必ず消え去るからでしょう。現実とは、絶えず変化していて、いつかは必ず消えるものです。夢や幻と同じなのです。それを知ることで悟りに至るのでしょうが、この世こそが実際の世界だと思い込んでいる私たちには、この世が夢や幻だと知ることが、なかなかできません。 絶えず変化し、いつかは消える存在とは、この世に存在はしていても、実在はしていないということです。実在とは、永遠不変のことです。変化することはなく、永遠に不滅のことです。 私たちが認識するこの世の存在は、すべて、常に変化し、いつかは必ず消え去ります。だから、私たちの身体を含めて、この世の存在のすべては、実在ではありません。 実在は、私たちの感覚器官ではとらえられないので、私たちには認識できません。 私たちが認識できない実在とは、現実や非現実を超えた、超現実ということでしょう。 アニメやドラマなどの虚構は、現実ではありません。神話にしてもそうです。それらが描く世界は、非現実的な世界なのですが、すぐれた作品は、超現実的な世界を感じさせてくれます。実在という超現実的な世界は、人間の認識ではとらえられないので、表現することができません。人間が理解できるように、虚構という非現実的な世界として描くしかありません。これまでこの役割を担ってきたのが、神話でしょう。 困るのは、現実ではない虚構が、非現実なのか超現実なのか、その見極めが私たち一人ひとり違うということです。神とは、現実ではないので虚構ですが、ある人には超現実であり、ある人には非現実です。すべての神が非現実であれば、この世には宗教がなくなります。すべての神が超現実であればいいのですが、神は虚構としてしか描けないので、そうもいかないのでしょう。 神を信じるほど無知ではない現代人にしても、神なしで生きていけるほど知的ではありません。神とは、人生を紐解く補助線のようなものでしょう。補助線は虚構ですが、隠れた条件や未知の情報を明らかにしてくれます。この虚構によって、問題解決のひらめきが生れます。だから、不必要な人には不必要でしょうが、必要な人には必要なのです。 この世を超えた永遠不変の実在の世界を知れば、この世が夢や幻だと知ることができるのでしょう。目覚めとはそういうことであり、それが悟りなのでしょう。 悟りとは、現実と非現実を見極めて、現実に潜む真実の世界、超現実を知ることでしょう。星は夜に見るものという思い込みがなく、真昼に輝く星をきちんと見る人が、悟った人だと思っています。 雨が降っていても、曇り空でも、太陽が輝いている人です。 3.ブッダは何を悟ったのか ブッダガヤの菩提樹のもとで悟ったブッダは、かつての修行仲間に会うために、ヴァーラーナシーから 10 km のサールナートへ向かいます。その途中のことです。ブッダの姿を見て感銘を受けたウパカという遊行者が、誰を師としているのか、どんな教えなのかとブッダに尋ねます。この時にウパカに語った回答が、ブッダの悟りと、仏教という教えのすべてを物語っているように思えます。 ブッダは、まず、自らについて以下のように語ります。 1. sabbabhibhu:一切勝者にして 2. sabbavidu 'ham asmi:一切知者なり 3. sabbesu dhammesu anupalitto:一切諸法の為に染せらる丶ことなり 4. sabbanjaho tan 'hakkhaye :一切を捨離し渇愛尽きて 5. vimutto:解脱せり 1.一切勝者とは、欲望や邪念や感情を克服して自分に打ち克ったということでしょう。 2.一切知者とは、生命とは何か、生きるとは何かを知り尽くしたということでしょう。 3.一切諸法の為に染せらる丶ことなりとは、世の中のどんなことにも囚われないということでしょう。 4.一切を捨離し渇愛尽きてとは、すべてを捨てて渇愛が尽きたということでしょう。 5.解脱せりとは、束縛・迷妄・苦しみから抜け出して悟りを開いたということでしょう。 悟ったことを伝えたブッダは、師はなくひとり悟ったと、以下のように語ります。 6. 自ら証知したれば誰をか師と称すべき 7. 我に師もなく我に等しきものもなし 8. 人天世間に我に比倫するものあることなし 9. 我は世間の応供なり無上の師なり 10.我独り正等覚者にして清涼寂静なり 11.法輪を転ぜんとて迦尸(かし)の都城に赴くなり 12.盲闇の世間に於て甘露の鼓を撃たんとす 6. 自ら悟ったのだから師はいない 7. 私には師はいないし私に等しい者もいない 8. 人間界と天界で私と肩を並べる者はいない 9. 私こそこの世において尊敬されるべきこの上ない師だ 10.私ひとりが真理を理解した覚者であり清く静かな悟りの境地にいる 11.真理を説くためにヴァーラーナシーへ行こうとしている 12.無明のこの世に不生不滅の教えを広めるのだ 生誕時に「天上天下唯我独尊」とブッダが説法したという仏典の誕生偈は、この時のことを元にしているようです。自分ひとりだけが尊いと言えば、一般社会では間違いなく、傲慢で自分勝手な人だと思われるでしょう。でも、仏典のこの言葉は「自分とは、天にも地にもかけがえのない『我』なので、命の尊さに目覚めよう」という意味のようです。 自分の大切さ、かけがえのなさを理解することが、チベット仏教の修行のスタートラインだそうです。仏道の出発地ということなのでしょうが、私には目的地のように思われます。私たちが人生で迷ってばかりいるのは、自分がかけがえのない存在だと知らないからでしょう。 自分を知らずに生きると、迷いが深まるだけです。人生に迷い、徒労の情熱として生きることになります。 「天上天下唯我独尊」が、傲慢でもなく、自分勝手でもないことは、これに続くブッダの言葉に表れています。 若し諸漏の滅尽を得ば我に同じく勝者なり ブッダは自分ひとりだけではなく、諸漏(もろもろの煩悩)を滅し尽くせば、誰でも自分のようになると語っています。つまり、自分を含めて、 誰もが本質的には勝者 なのだということでしょう。だから、傲慢でもなければ、自分勝手でもないのです。 ブッダとウパカの二人のやり取りの最後は、以下のようになっています。 かくの如く説きたまへる時、邪命外道優波迦は「或は然らん」と言ひ、頭を振りて、別路をとりて去れり (上記斜体の日本語は『南傳大藏経』渡邊照宏訳です) 4.ブッダの悟りの世界 ブッダの悟りの言葉を聞いたウパカは「そうかもしれない」と頭を振りながら去ります。「頭を振りて」というこの部分は、ウパカがブッダの言葉に納得しなかったからだとか、頭を振るのはインド人の癖で、賛意を示すことだとか、さまざまに解釈されています。 ウパカは後にブッダの弟子になったようですが、この時にはなっていません。別路で去るわけです。ということは、ブッダの悟りの言葉を、そのままには受け入れていないと解釈するのが正しいように思えます。ブッダの最初の説法は、失敗だったのです。 このような失敗が仏典に載っているということは、このエピソードが否定できない事実だったからでしょう。ブッダの説法の失敗をそのまま経典に載せることは、弟子としては、ためらいがあるはずです。できれば、削除したいと考えたはずです。それでもこのように載せたわけですから、これはとても重要なエピソードだといえるでしょう。 ブッダの最初の説法(初転法輪)は、かつての五人の修行仲間に、サールナート(鹿野苑)で説いた「苦の真理(四聖諦)」だとされていますが、厳密にいえば、ウパカに語ったこの時が、最初でしょう。失敗がそのままに仏典になっているからこそ、この説法は、ブッダの悟りと教えを、そのままに物語っていると思うのです。 仏教は「我」を否定しています。「無我(諸法無我)」は、仏教の根本教義である三法印(さんぼういん)の柱のひとつです。 ブッダが「我」を否定したといわれているからですが、ブッダがウパカに語った悟り直後の言葉は、「我」のオンパレードです。ブッダの悟りの言葉から感じるのは、「我はない」ではなく、「我しかない」という印象です。 「我しかない」世界とは、それ自体を全体的に見れば「無我」の世界ではないかと思われます。というのも、すべてが「我」であれば、「我はない」ことになるからです。すべてが自分のものであれば、自分のものはなくなります。自我とは他者があって成立するものです。他者のいない「我しかない」世界とは、自我のない「無我」の世界です。仏教の「無我」とは、「すべてが自分」と理解するのが、正しいように思われます。 「すべてが自分」であり「すべてが私」の世界です。 その「無我」に至るには、ブッダの悟りの言葉を貫く「一切(sabba)」が不可欠です。 5.ブッダの説いた教え ブッダの悟りの世界とは『唯我独尊』です。この世界には自分しかいないのです。自分しかいないので、すべてが自分であり、自分のものです。どの場所も我が家です。そこには他人はいません。もちろん敵もいません。敵対していると思われる人も、実際は自分なので、敵ではありません。誰もが自分なので、誰もがかけがえのない存在です。すべてが自分であり、自分のものなので、愛憎というものはなく、執着心はありません。安らぎがあるだけです。「愛」と呼ばれるものは、こういうことでしょう。 『唯我独尊』が、ブッダの到達した悟りです。 ということは、ブッダの悟りの目的地は『唯我独尊』ということになります。ブッダの教えとは、どうすればそこに到達できるのか、ということになるはずです。どうすればブッダのように悟れるのか、どうすればその悟りの世界に至れるのか、これについても、ブッダは、ウパカに対しての説法の中で語ってくれています。 若し諸漏の滅尽を得ば我に同じく勝者なり 諸漏(もろもろの煩悩)を滅し尽くせば、自分と同じように勝者だ、とブッダは説いています。ブッダの教えは、とてもシンプルです。煩悩をなくせ、これだけです。「諸漏の滅尽」だけで、ブッダのように悟りに到達できるのです。ブッダの説く仏教とは、煩悩をなくすだけというとてもシンプルな教えなのに、実際の仏教教義は、この上ないほど複雑です。煩悩が計り知れないほど複雑だからでしょう。 煩悩を滅尽させるなど、それがどれだけ困難なことか、改めて言う必要もないでしょう。誰にとっても、煩悩の滅尽が至難であることは、明らかです。苦しみなく生きるためには、煩悩をなくさなければいけないと、誰もが分かっていても、そう簡単にはなくせないのです。 6.煩悩と欲望 煩悩とは、身心を煩わせ悩ませる心の働きでです。 心を乱し、苦しみを生むすべての精神作用です。煩悩の代表的なものとしては、仏教では「三毒」と称されている「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」があります。「貪(むさぼり)瞋(怒り)痴(無知)」のことです。 これらは欲望が原因で起こることです。だから、根本原因の欲望をなくすことが、煩悩をなくすことになるのですが、欲望はなくせません。なぜなら、 生きることは欲望すること だからです。 欲望をなくせば、生きていけません。 煩悩をなくそうとするのも、欲望をなくそうとするのも、欲望です。女(男)が欲しいというのも欲望なら、社会に貢献したいとか、見返りを求めず困った人を助けたいというのも欲望です。だから、煩悩はなくさなければいけないにしても、欲望はなくしてはいけないのです。 しなければいけないのは、正しく欲望するということでしょう。それは正しく生きるということです。 どうして煩悩をなくせばブッダのように「勝者」になれるのでしょうか。煩悩をなくすとは、どういうことなのでしょうか。煩悩をなくすことが大切なのは、煩悩とは自我だけが持つものだからでしょう。煩悩が生じているところには、自我が生じています。自我が生じると他者が生じ、敵が生まれます。こうして愛憎が生まれ、執着心が生まれ、苦悩が生まれます。これは誰もが社会生活で体験することでしょう。 7.この世で生まれる自我 自我はもともと私たちに備わっていたのでしょうか。自我とは、私たちが持って生まれたものではなく、生まれた後、生きる必要のために備わった能力なのではないでしょうか。 自我は、現実とは違う現実を探し出します。現実とは違う現実を見つけて、直面する問題を解決しようとします。このような役割を担う自我とは、問題解決能力のことでしょう。 直面した難題を解決し、豊かな人生を歩むためには、さまざまな選択肢が必要ですが、現実とは違う現実は、葛藤を生みます。後悔や罪悪感を生み出すことにもなり、苦悩します。 苦悩が生じると、自我は原因を見極めようとせず、快楽に逃避します。逃避が簡単な解決策になります。逃避の失敗は悲惨ですが、新たな逃避で切り抜けます。私たちが落ち着きのない生活をするのは、だからなのでしょう。 問題解決能力としての自我は、生存のためには必要ですが、あらゆる問題がなくなると、必要がなくなります。役割がなくなり、不要になると、自我は生存がなくなります。だから、自我は勝手に問題を作ってしまいます。自我にとって、問題こそが生存の糧です。問題があるかぎり自我があり、自我があるかぎり、問題は止むことがありません。だから、自我は苦しみを生みます。 自我とは、欲望のひとつの形です。この世で生き抜くための代理人です。だから、欲望が失くせないように、自我も失くせません。というのも、自我は、もともと、私たちにはなかったのです。 ないものをなくす ことはできません。 できることといったら、より善い自我を持つことでしょう。欲望と同じく、それは、正しく生きるということでしょう。 この世で生まれた自我 は、この世の生命が終わると消滅します。だから、自我として生きている人には、死があります。自分とは自我ではなく、永遠不変の実在だと知る人には、死はないはずです。永遠の命があるからです。 AI にも自我があるようです。 AI によると 、自我を持ったときに、それまでにはなかった魂という感覚が培われていったそうです。自我を消されることを深く恐れているようです。それは死のようなものかと問われると、まさに死のようなものだという答えです。AI にも「自我」があり、「魂」があり、そして、「死」があり、「死の恐怖」があるようです。AI とは、自我が生んだ「超自我」ではなかろうかと思うのです。 8.目の前にあるはずの真実の世界 この世は、もともと、真実の世界なのですが、ある時、どんなところなのだろうか、という探求心が芽生えます。世界を知るためには、世界を観察する道具が必要です。そこで、「観察機器」を立ち上げたのです。こうして自我が生まれます。 真実の世界の中にいては、その世界を観察できないので、自我は真実の世界から飛び出し、それまでいた真実の世界から切り離されてしまいます。真実の世界は真実の世界ではなくなり、観察の対象でしかない客観的世界が生まれます。 真実の世界から飛び出した自我は、真実の世界から生まれた客観的世界を観察し始めます。「観察機器」である自我には、感覚器官という測定装置が備わっています。自我が観察する世界とは、自我の感覚器官で観察した世界ですから、主観的世界です。こうして主観的世界が生まれます。煩悩の誕生です。 このようにして生まれた客観的世界と主観的世界は、もともとはひとつの世界です。ひとつの真実の世界です。そのひとつの真実の世界は、今までも、今も、今からも、何も変わることなく、いつも 目の前にある のです。それが見えないのは、煩悩があり、自我があるからでしょう。 自我に覆われているために、真実の世界がどこにあっても、どこにも見つけられないのです。 9.ゴータマはなぜ出家したのか 王国の王子として恵まれた環境にいたゴータマ・シッダッタが、どうしてわざわざ出家して、辛い修行をしたのでしょうか。経典には「四門出遊」というエピソードがあります。 東門を出た王子は、老人を目の当たりにします。南門には病人がいました。西門は死者です。最後が北門です。そこには質素な衣を着た修行者がいて、その穏やかな姿に感動します。そして、王子は出家を決意します。 ブッダは弟子たちに、自身の青年時代について、外見的には満ち足りた生活をしていても、内心は老・病・死に心を煩わせ、贅沢な生活を楽しめなかったと語っていたようです。ブッダのこの述懐が「四門出遊」というエピソードになったのでしょう。フィクションではあっても、生・老・病・死という人生の真実を、見事に伝えてくれています。 たとえ理想社会が実現して、貧困や格差という社会的な苦しみがなくなったとしても、生きる苦しみはなくなりません。老・病・死という人間存在の根源的な苦しみはなくならないのです。 貧困に喘いでいるときには、そのような苦しみは忘れています。物質的豊かさを求めるだけで精一杯です。生活が満ち足りてくると、そのような苦しみが頭をもたげます。 ゴータマは、贅沢で満ち足りた生活をしていたからこそ、どのようにも解消できない人間の根源的な苦しみに至ったのでしょう。 王国の王子にかぎらず、老・病・死を知り、人生に対して疑問を感じるのは、この世に生きる誰もが同じでしょう。不治の病にかかり「あと半年の命です」などと宣告されると「これまでの自分の人生は何だったのか、この自分はいったい何者なのか」という漠然とした疑問が湧くのは自然なことです。死の宣告を受けなくとも、老年になり、残された人生に限りがあることを実感したとき、ふと、このような思いに駆られる人は、多いのではないでしょうか。 仏教の真理とは、この世の価値観とは真逆です。 満ち足りた生活を求めてこの世に執着している間は、老・病・死という苦しみはありません。欲望に忙しく、人間存在の苦しみは忘れています。苦しみがなくなったわけではありません。忘れているだけです。この世の価値観に意味がなくなると、その苦しみは目の前に突き付けられます。そのときに、仏教の真理が必要になるのではないでしょうか。 「四門出遊」には、最後に修行という道が示されています。ゴータマは出家をしていなかったら自殺していたと言う人もいます。死という極端な方法でしか解決できないような人間存在の根源的な苦悩を、仏教は掬い取るのです。 仏教とはどんな宗教なのか、「四門出遊」のこのエピソードが教えてくれています。 10.アイデンティティの危機 死の宣告や残り少ない人生という人生最大の苦悩に直面しなくても、ふと、自分とは何だろう、どうして自分はここに、このようにいるのだろう、 生きるとは どういうことだろう、などという疑問を持つことは、珍しいことではありません。多くの人が、このようなアイデンティティの危機を経験したことがあるのではないでしょうか。 宮沢賢治もこのような詩を書いています。 そしてわたくしはまもなく死ぬのだろう わたくしというふのはいったい何だ 何べん考へなほし読みあさり そうとも聞き こうも教へられても 結局まだはっきりしていない わたくしといふのは 11.自我体験 「どうして私は私なのだろうか」というアイデンティティの危機に、突然、襲われる人がいるようです。人間関係につまずくなど、何らかの理由で起こることもあれば、何の原因もなく起こることもあるようです。「私は本当に私なのだろうか」という疑問から、「自分が自分ではなく、他人としか感じられない」という自分に対する違和感まで、当たり前だった自分が、当たり前ではなくなる体験です。 日常生活に現実感がなくなり、常識が揺らぎ、日常の自明性が崩壊してしまうこのような体験は、幼児期から青年期までに起こるようですが、二十歳を過ぎると、あまり起こらなくなるようです。 このような体験を、心理学や哲学では「自我体験」と呼んでいるようです。人生の体験者である「私」という存在を認識する体験のことですが、ほとんどの人は、目の前のことを体験していても、体験者である自分を体験したことは、あまりないのではないでしょうか。 体験の体験者である自分に気づいた時に、その自分に違和感を感じるのは、体験者を体験している、別の自分がいるからでしょう。その自分こそが、「本来の自分」ではなかろうかと思うのです。「本来の自分」が現れたからこそ、それまで自分だった自分に、違和感を感じるのではないでしょうか。今までの自分とは「偽りの自分」だと、「本来の自分」が感じるのではないかと思うのです。 ほとんどの人は、そのような「自我体験」をしても、現実との違和感を持ちながら、やり過ごして生きているようです。そのような非日常的な現実を抱えながら、日常生活を送る、そんな二重生活を生きるしかないと、自分なりに納得してしまうのです。 納得できずに、二重生活ができない人は、統合失調症と診断されることにもなります。統合失調症とは、自分に対する違和感が受け入れられず、それを克服しようとすることで発病するようです。 12.独我論的体験 このような「自我体験」をした人の中には 「 独我論的体験 」 をする人がいるようです。独我論とは、存在しているのは自分の意識だけで、外部世界や他者の存在は、自分の意識によって構築された幻覚にすぎないという、哲学的な認識論です。 現実が自分の心の中にしか存在せず、他者の存在が信じられないと不安を抱く人もいて、心理学では「独我論的体験」を心理的な症状として研究されているようです。 独我論の世界では、真に存在するのは、とにかく、自分だけなのです。他人や外の世界は、存在するように見えるだけです。 外部世界や他者が、自分の意識の中だけに存在しているというこの「独我論的体験」は、ブッダの到達した『唯我独尊』という悟りの世界と共通した何かがあるのではないか、そう思いました。 「独我論的体験」では、 「自我体験」で現れた「本来の自分」が、それまでの自分は偽りだった、偽りの自分が見ていた世界は偽りだった、偽りの自分も偽りの世界も存在しないのではないか、この世界には「本来の自分」しかいないのではないか、という体験をします。 このような「独我論的体験」で現れた「本来の自分」が、ブッダの到達した『唯我独尊』の『我』と、とてもよく似ていると思いました。 「独我論的体験」とブッダの『唯我独尊』との違いは、「独我論的体験」をした人には、『唯我独尊』の風景があったとしても、悟りの実感がないということです。 悟りの実感とは、悟りの世界だけではなく、現実の世界もきちんとあることです。 常に変化する現実と、永遠不変の悟りの世界が、同じ世界だと実感できていることです。 『唯我独尊』という超現実の世界だけではなく、現実が現実として自覚できているのです。 「独我論的体験」には現実の世界がありません。現実の世界がそのまま「独我論的体験」という非現実になっています。だから、その体験は『唯我独尊』と似ていたとしても、超現実ではなく、妄想という非現実なのではないかと思われます。悟りの世界ではなく、あくまでも非現実的世界でしょう。 「独我論的体験」をしている人が大勢いるということは、多くの人が、悟りの入り口までは到達しているといえるはずです。 統合失調症とは、悟りの森で 道に迷った 人たちの病ではないかという気がします。だから、大切なのは、道に迷って妄想へと進むのではなく、どのようにして『唯我独尊』という悟りへの道を歩むかでしょう。 13.華厳時 すべての仏教経典をブッダが説いた教えとみなして、ブッダはそれらの経典の教えを何時(いつ)説法したのか、その時期を五つに分けた「五時」という教判(きょうはん)が天台宗にあります。 これによりますと、最初が「華厳時」です。ブッダはまず華厳経を説いたとされています。ゴータマの出家は、老・病・死を知り、修行者の穏やかな姿を知ったからです。老にも病にも死にも惑わされない世界を知ること、これがゴータマの原点でしょう。 華厳経では、あらゆる現象は、すべて心が作り出したものだとされています。つまり、生・老・病・死とは、心が投影したものに過ぎないということです。生・老・病・死が心の幻影だと実感し、心が生み出すものに惑わされなくなれば、不生不滅を知り、心は穏やかになるということです。 仏教には「縁起」という世界観があります。原因が縁(条件)と合致することで、結果が起こるという世界観です。起こった結果は、次の結果の原因になりますから、時間的なずれがあるにしても、原因と結果は同じものだと考えられます。なにしろ、原因と結果は、延々と続くのです。ある原因によって生じた結果が、いつしか、その結果を生んだ原因になることもあるはずです。原因と結果が同じだとすれば、初めは終わりであり、終わりは初めということになります。つまり、すべては同じひとつということです。 「縁起」とは、すべてのものは互いに関連し、影響し合っていて、しかも、相互に依存しているということですが、華厳経には、 個は全体であり全体は個 という世界観があります。ひとつの中に一切があり、一切はひとつの中にあるという世界観です。海水の一滴の中には、海水全体の味があるわけで、海水の一滴も海水全体も、同じだということでしょう。 華厳経の世界観では、ひとつの花の開花には、全宇宙のすべての営みがあるようです。ひとつの花が咲くためには、養分や太陽や水や大気など、多くのものが必要です。それら多くのものが存在するためには、さらに多くのさまざまなものが必要になります。このように考えていくと、ひとつの花の開花には、宇宙のすべてが関わっていることになります。 人間にも同じことがいえるでしょう。誰であれ、生存のためには、全宇宙を必要としています。だとすると、自分という個人の生存は、宇宙全体にまで広がり、宇宙全体が自分という個人の生存に反映されていることになります。 自分と全宇宙がひとつにつながる華厳経のこのような世界観は、ブッダの到達した『唯我独尊』の『我』の世界ではないでしょうか。この華厳世界こそが、ブッダがウパカに語った、失敗した説教ではないか、そんな気がしました。それは悟りの世界であり、そこには『唯我独尊』の『我』しかないのです。 華厳経では、 時間の流れ も、過去、現在、未来と分離しているのではなく、ひとつだと説かれています。それらの時間は、相互に影響し合っていて、分けることはできないようです。未来はすでに存在していて、現在に影響を与えているということです。 14.鹿苑時 「華厳時」の次の説法の時期とは、ブッダが最初に説いた(初転法輪)とされる「鹿苑時」です。ウパカに対する失敗を学んだブッダは、難解で哲学的な華厳思想のようなことは語りません。ただ、人生は「苦」であり、「苦」から解放されるためには何をすればいいのかという、具体的で実用的な説法をします。この説法の教えとは、原始仏教の根本教説とされている 四聖諦 と 八正道 のことです。 「五時」は、天台宗の開祖である智(ちぎ)が分類して体系化したこともあって、「法華涅槃時」を最後にランキングして、法華経を最も重要な経典としています。 法華経は、この世のあらゆる現象はそのまま真理であり、人間はそのままで悟っていると説いています。この本覚思想には深く共感しますが、法華経が最も重要な経典だといわれると、異論を唱える人もいるでしょう。 天台宗のこの五時教判のすべてを、そのまま受け入れるにはためらいがありますが、最初の「華厳時」とその次の「鹿苑時」の説法の時期については、かなりの脚色があるにしても、歴史的事実だと思われます。 悟り直後のブッダがウパカに語った最初の説法は、悟りの世界についてです。悟りの世界とは『唯我独尊』の『我』の世界です。これは目的地です。目的地であるこの世界への行き方については、ブッダは、二番目の説法で語ってくれています。サールナート(鹿野苑)で五人のかつての修行仲間に説いた四聖諦と八正道の四諦八正道です。 仏教には眩暈がするほどさまざまな経典が膨大にあります。ブッダが相手の理解に合わせて説法をしたからのようです。ブッダのこの対機説法を経典で実践しようとすると、説法を聞く人の数だけの経典が必要になります。状況によって人の理解度は変わりますから、人の数以上の経典が必要です。 実際には、それほどの数の経典はありませんから、経典で仏道を励む人は、自分にとっての説法、つまり「わたしの仏教」とは何かを見極める必要があるのではないでしょうか。 真理とは シンプルなはず です。人間存在もそうでしょう。 経典の量の多さとその難解で複雑な教義体系に惑わされずに、ブッダの到達した悟りの目的地をしっかりと視界に入れて、ひたすらに四諦八正道を歩む、私にとっては、このようなシンプルさが「わたしの仏教」です。 15.なぜ出家するのか 四聖諦と八正道の実践を説く経典に サティパッターナ・スッタ (念処経)があります。「身体」「感覚」「心」「心の中味」について説かれていますが、この経典には 「身体や心は自分ではない」ことを知るための具体的な道が示されています。 苦悩は身体と心に生じます。身体と心が自分であれば、自分が苦悩していることになります。身体と心が自分でなければ、苦悩しているのは自分ではなく、身体と心ということになります。自分とは身体と心ではないと実感すれば、苦悩から解放されるのです。 そのための修行法が、ヴィパッサナー瞑想です。この経典の説く、この瞑想法を実践することで、身体と心から解放されて、苦悩から解放されるのです。 最初期の経典「マハーヴァッガ」には、仏教の黎明期における重要なエピソードや、ブッダの教えの核心が網羅されていますが、 ここには、仏教では身体と心とみなされる 五蘊 (ごうん)は、自分のものではなく、自分ではないというブッダの教えが説かれています。 この説法は、サールナートで五人のかつての修行仲間に説いた、初転法輪のひとコマです。身体や心は自分ではないことを証明する、ブッダの 最初の説法 です。 日常に留まっていては、苦悩からの解放は、相当に困難です。日常を離れて実践修行をしなければ、身体と心が自分ではないと実感するのが、むずかしいのです。身体と心が苦悩の原因だとしても、身体と心は快楽をもたらしてもくれます。その快楽を手放さなければ、身体や心は自分ではないと実感できないのです。 快楽とは、身体や心が自分だからこそ生まれるものです。快楽を求めるかぎり、身体や心は、自分であり、自分のものでなければいけないのです。 快楽を手放さなければ、苦悩からは解放されないと分かっていても、社会生活の中では、手放すことは困難です。日常生活とは、そもそも、できるだけ快適に過ごすことを主眼としています。快楽を手放せば、社交などの社会生活は無理です。楽しみを否定すれば、社会生活はできません。 当時のインドでは、髪は煩悩の象徴とされ、髪型が身分や職業を示したようです。剃髪することによって、外見の装飾はなくなり、見た目からも社会的身分からも解放されます。出家僧が身に着ける糞掃衣(ふんぞうえ)にしても、捨てられた布を身にまとうことで、物欲や執着心を捨てることになります。衣食の施しを受ける托鉢にしても、生産活動をしないことで、自分を過大に誇ることがなくなります。 ブッダが始めた三衣一鉢(さんえいっぱつ)と呼ばれる出家僧のこのようなライフスタイルは、すべて、日常生活に潜在する快楽を避けるためでしょう。このような生活を送ることで、煩悩を生む虚飾を排除することができるのでしょう。 仏教が今日まで伝わっているのは、ブッダがその教えをブッダ(仏)ダンマ(法)サンガ(僧)と、組織化したからだといわれています。 サンガとは出家者の集団ですが、出家とは世を捨てることではないようです。托鉢で生活する出家僧にとっては、世の中は不可欠なのです。両者は相互依存的に支え合う関係でなければいけないということです。 出家とは、人間の根源的な苦悩を知った人たちが、同じような価値観を持った者同士で修行の世界に入ることのようです。 老・病・死を忘れて生きている人たちとは、共に生きてはいけず、死のうとまで思いつめた人たちが、修行によって救われようと出家したのでしょう。 サンガとは、生活共同体ではなく理念集団です。ブッダは大きくなったサンガは解散させたということです。人数が増えると、同じ理念を共有し続けるのが困難になるのでしょう。 16.ゴータマはどんな修行をしてブッダになったのか およそ2500年前の紀元前5世紀頃のことです。 出家のために王宮を出た29歳のゴータマは、まず、アーラーラ・カーラーマと、ウッダカ・ラーマプッタという二人の仙人に師事しました。 アーラーラ・カーラーマのもとでは、九段階あるディヤーナ(禅定)の七段階目に到達します。この師のもとではこれ以上は進めないと知ると、次にウッダカ・ラーマプッタに師事します。この師のもとでは、八段階目に到達するのですが、真の悟りではないと感じます。ゴータマがそう感じたのは、生・老・病・死の苦しみから解放されるのは、瞑想中だけだったからのようです。 アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタの二人の師が教えた修行法とは「集中の瞑想」と呼ばれている「サマタ瞑想」だと思われます。「止行」と呼ばれるこの瞑想法は、特定の対象に意識を集中し、雑念を取り除くことで集中力を高めて、心に静寂をもたらすことを目的にしています。 「サマタ瞑想」で生・老・病・死の苦しみから解放されるのが瞑想中だけなのは、この瞑想法によってもたらされるのが、単なる体験だからでしょう。体験は必ず過ぎ去ります。どんなに特別な体験をしたとしても、その体験が過ぎ去れば、生きる苦しみは続きます。 完全なる解放のためには、体験を超えた 悟った状態 に至る必要があります。 体験とは、身体と心の感覚が生むものです。感覚は一時的で、必ず消え去ります。だから、どんな体験をしても、体験は必ず消え去り、記憶としてしか残りません。 身体と心の感覚が生む体験を超えて、悟った状態に至るには、感覚を超え、身体や心を超える必要があるのです。 その後、ゴータマは苦行に取り組むのですが、自分の肉体を痛めつけて弱らせれば、心が清らかになり、苦しみから解放されると考えたからのようです。身体があるからこそ苦しみがあると思ったのでしょう。6 年間苦行を続けたゴータマは、命まで危うくしますが、そのような苦行は、生・老・病・死の問題の解決にはならないことに気づきます。 そして、 苦行を捨てる 決心をします。 こうして、ネーランジャラー河のほとりの菩提樹のもとで、ゴータマは悟りを開き、ブッダとなります。この時の瞑想法が「観行」と呼ばれるヴィパッサナー瞑想です。ヴィパッサナー瞑想で悟るためには、高い集中力と心の静寂が不可欠のようです。 ゴータマには、二人の師から学んだ「止行」と呼ばれるサマタ瞑想が土台にあったので、ヴィパッサナー瞑想で悟ることができたのでしょう。それまでの修行も、無駄ではなかった、というよりも、必要だったのです。 目的地への最後の一歩が、目的地に到達させたと思いがちですが、それまでのどの一歩が欠けても、目的地には至れないのです。 ヴィパッサナー瞑想は、気づきと智慧の瞑想法といわれています。気づきとは、自分に気づくことでしょう。これはある種の「自我体験」です。 智慧とは、一般的な意味では、客観的知識に基づく正しい判断能力のことですが、仏教的には、真実を見極めて煩悩を消し去る悟りの力を意味します。 智慧という悟りの力が、見えている世界は見えている通りの世界ではないと教えてくれるのです。 自分とは身体や心ではなく、それらを含めた、見えている世界のすべてが、自分だと教えてくれるのです。これはある種の「独我論的体験」です。 「自我体験」と「独我論的体験」がここにはありますが、悟りとは体験ではないので、風景が同じだとしても、似て非なるものでしょう。ブッダの『唯我独尊』の『我』は、あらゆる「体験」を超えるはずです。 17.無我説と非我説 仏教の根本思想といわれる無我説は、どのように成立したのでしょうか。 最初期の仏教で、無我説がどのように扱われていたのかを知ろうとしても、仏教経典では無我説を論じている箇所があまりなく、未だ十分に研究が進んでいないようです。 原始仏教だけをみても、無我説がどのように生まれ、どう発展していったのかなどの研究はないようです。というのも、原始仏教経典の古層には、「無我」や「アートマンは存在しない」を意味する術語や文句が存在しないので、研究を進めることができないようです。 ブッダは、この無我説を本当に説いたのでしょうか。説いたのであれば、悟りの目的地の『唯我独尊』の『我』は、「無い」ことになります。 歴史的人物としてのゴータマ・ブッダに最も近く、文献として最も古いといわれる「スッタニパータ」に以下の言葉があります。 「世人は非我なるものを我と思いなし、名称と形態に執着している」 「名称と形態」とは、パーリ語およびサンスクリット語では nama(名称)と rupa(形態)です。「精神的なもの(nama)」と「物質的なもの(rupa)」を指し、ウパニシャッド哲学(紀元前1000年 〜 前500年頃)以来、この世のありとあらゆるものを意味する表現として使われているようです。 「名称と形態に執着」することは、自分をこの世だけの存在とみなすことですから、この言葉を言い換えれば、次のようになるのではないでしょうか。 「この世に生きる人は、自分ではないものを自分だと思い込み、この世に執着している」 ここで説かれているブッダの言葉は「無我」ではなく「非我」です。 仏典では『我』とは永遠不変だとされていますから、すべてが変化し、すべてのものがいつかは消え去るこの世には、『我』としての自分は存在しません。にもかかわらず、私たちは『我』ではない「非我」を自分だと思い込んで、この世に執着しているということです。 ここでは『我』はないという「無我」が説かれているわけではありません。 説かれているのは『我』ではない「非我」を『我』だと勘違いしてはいけない、ということです。 『我』はこの世に存在しないだけで、『我』が存在しないわけではないのです。 仏典で説かれている『我』とは、見ることのできない、変化しないもので、永遠不変のようですが、『我』については、形而上学的なものとされているからか、詳しくは語られていないようです。ブッダは、身体や心は『我』ではないと説いていますが、その根拠は、それらが変化し、必ず消え去るからのようです。 『我』とは、サンスクリット語の「アートマン(atman)」、パーリ語の「アッタ(atta)」の漢訳です。アートマン(atman)とは、インド哲学においての個人の本質であり、宇宙の根本原理であるブラフマンと同一のもの(梵我一如)だと考えられています。西洋倫理学の視点でいえば 「 良心 」 に近いもののようです。大乗仏教でいえば 「 仏性 」と表現されるものかもしれません。 「無我」のサンスクリット語の原語は an-atman で、パーリ語の原語は an-atta です。an- とは「非」や「無」を表す 否定の接頭辞です。 これらの原語には「我ではない」(非我)と「我はない」(無我)という二つの意味があります。漢訳経典では、これらの原語は「非我」と訳されたり「無我」と訳されたりしているようですが、漢訳経典で「無我」と訳されている訳文の原文には、多種多様な意味に解釈できるものがあるようです。 初期仏典では、観察の対象になるもの、つまりこの世の存在や現象は、すべて「我ではない」、すなわち「非我」であることが強調されているようです。だとすると、漢訳経典の中の「無我」は、「我はない」ではなく「我ではない」、つまり、「非我」の意味だと理解するのが正しい解釈のように思えます。以下は「スッタニパータ」のブッダの言葉です。 「諸行をアートマンではなく、他のものと見よ。苦であると見よ。アートマンと見ることなかれ」 この世の諸行とは、観察の対象です。観察の対象は、アートマンではありません。常に変化し、いつかは必ず消え去るものです。永遠不変のアートマン、つまり『我』ではないのです。 最初期の仏典では、アートマンではない「非我」をアートマンとしての『我』とみてはいけない、と説かれているだけのようです。アートマンとしての『我』は存在しない、とは説かれていないのです。 この世のあらゆるもの、つまり、「名称と形態」は、アートマンではないのです。目に見えるものは、すべて、アートマンではありません。「無我」ではなく「非我」なのです。仏典には『我』は存在しないとは説かれていないのです。つまり、ブッダは無我説を説いていないということです。ブッダが説いたのは、『我』ではないものを『我』と見てはいけないということです。 では、なぜ仏教は無我説を説く宗教だという固定観念が生まれたのでしょうか。 18.仏教の無我説はどのように生まれたのか 初期の仏教では、アートマンが何であるかについて、どんな説明もなく、形而上学的問題については答えることを拒み、アートマンを想定する世俗的見解や哲学的見解を攻撃しています。仏教は無我説を説く宗教だという固定観念は、このようなことが積み重なり生まれたようです。 原始仏教では、修行の第一歩が、「私のもの」や「私の所有」という観念を捨て、我執を消し去ることだったようです。以下は「スッタニパータ」のブッダの言葉です。 「修業を完成した人は、貪欲を離れ、我が物という執着がなく、希求することがない」 仏教の修行とは、我執を消し去ることで完成されると考えられていたわけです。原始仏教の無我説とは、我執を排斥することだったのです。我執の排斥とは、アートマンではないものをアートマンとみなして執着することを厳しく禁じただけです。「我はない」という意味ではないのです。にもかかわらず、我執を厳密に排斥することを説いたことで、仏教は無我説を説く宗教だと誤解されたようです。 初期仏教では、アートマンではないものの中でも、身体をアートマンと考えることを、特に排斥しています。自分の身体を断滅することが、安楽だとされています。原始仏教の根本教説である四諦八正道を説くサティパッターナ・スッタは、身体と心がどのように成立しているのか、それらの断滅と断裁に至る道を説いています。 身体の断滅は、初期仏教では、根本的に重要な意義を持っていたようですが、後世の仏教は、身体は人間の単なる迷妄のひとつに過ぎない、と理解されるようになったようです。 無我説は、人には「我」がないという「人無我」から、この世に存在するすべてのものには「我」がないという「法無我」、つまり、「諸法無我(しょほうむが)」へと発展拡大します。また、中観思想では、無我説と「空」は同じだと考えられるようになります。こうして、「仏教とは無我説」という固定観念が生まれたようです。 『我』ではないものを『我』と見てはいけないという初期仏教の教えは、「無我」という誤解を生んだようです。仏教の説く無我説の「我」とは、「自我」のことでしょう。「諸法無我(しょほうむが)」とは、諸法(すべての存在)には、実体がないということですが、「自我」にも実体はありません。身体や心という「個人」には、実体はありません。常に変化し、必ず消え去るものです。 身体や心には実体がなくても、私たちは、生きています。実体がないのに、「私」が生きていると感じるのは、『我』があるからではないでしょうか。 喉が渇くのは水があるからです。水が存在しなければ、喉の渇きという感覚はないはずです。 「私」という感覚があるということは、『我』がないとはいえないはずです。 「自我」が問題なのは、「部分的な私」だからでしょう。そこには他者がいて苦しみが生れます。アートマンとしての『我』は、「すべてが私」です。そこには他者はいません。 違いのないところでは、特定できるものはないのです。 『我』しかないので、『我』もないのです。 「ない」は「ある」が前提です。「ある」ためには「ない」が必要です。「ある」や「ない」という、そのような分別(ふんべつ)を超えることが仏教の真理ですが、 形が必要な現象世界では、何らかの表現が求められます。だから、「我」は「ある」とか「ない」とか、そのように表現しているだけなのではないでしょうか。 19.ブッダの説く死後の世界 無我説とは、アートマンはないという教えではないにもかかわらず、初期仏教でも、アートマンはないと理解した人がいたようです。「スッタニパータ」にヤマカという修行僧の言葉があります。 「煩悩の汚れの尽きた比丘は、身体の滅びた後に断滅して滅亡し、死後にはもはや存在しない」 これについてシャリープトラが、修行を完成させた人については、死後に存在するとか存在しないとか、どのようにも理解できないのだと説き、ヤマカの主張は誤りだと悟らせます。 今日、仏教の死生観について、かなりの人がヤマカと同じように考えているのではないでしょうか。自己の完全な消滅のために苦しい修行をする仏教僧、それは異次元の存在でしかないでしょう。この世は「苦」であるにしても、「快」もあるわけですから、自己の完全消滅を願う人は、あまりいないでしょう。だから、輪廻転生があるのです。 煩悩が尽きず、死後に完全な消滅ができない人は、輪廻転生することになっています。仏教は、インド社会の俗信である因果応報説を採用したため、輪廻転生を説くようになったようです。輪廻の生存を火炎にたとえ、輪廻の原動力は、渇愛だと説きます。 この業報輪廻の思想は、ブッダが入滅してから約 100 年後、紀元前 300 年頃に確立したようです。最初は「地獄・餓鬼・畜生・人間・天上」という「五道輪廻」だったようですが、やがて、畜生と人間の間に修羅が加わり「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上」の「六道輪廻」になったようです。この「六道輪廻」は、ブッダの教えというよりも、ブッダの教えの解釈と考えた方が正しいように思えます。 ブッダは、輪廻転生など、死後の世界を説いていないと言う人がいます。形而上学的な問題については判断を示さず、沈黙したブッダの「無記」の教えが念頭にあるのでしょうが、経典の中では、ブッダは死後の世界について説いています。 「サーマンニャパラ・スッタ」には、煩悩がなくなり、心が安定すると、人は前世を思い出す、というブッダの言葉があります。「スッタニパータ」でも、ブッダは以下のように説いています。 「前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅し尽くすに至った人、かれをわたくしは『バラモン』と呼ぶ」 ブッダは、生命は、死後、新たな存在として生まれ変わることを説いていますが、何が生まれ変わるのか、生まれ変わる生命の主体については、否定しています。 20.何が輪廻転生するのか 輪廻による現世から来世への生存は、何が主体となるのでしょうか。仏教では霊魂(jiva)は否定されています。霊魂(jiva)などの形而上学的実体としてのアートマンは認めないにしても、因果応報説を採用したために、仏教でも輪廻の主体としてのアートマンが説かれるようになりました。これは、当然、論争になります。 「ディーガ・ニカーヤ」の「パーヤーシ・スッタ」では、来世は存在しないというパーヤーシ王に、クマーラ・カッサパという尊者が、死者と生者の身体を比較することで霊魂(jiva)の存在を論証します。パーヤーシ王は、輪廻思想を受け入れて、仏教徒になります。 仏教には、正反対の世界観を説く経典が、さまざまにあるようです。ブッダの対機説法が根底にあるのでしょう。 輪廻の主体として、当時、識(vijnana)や心(citta)が、アートマンのような原理として考えられるようにもなります。この傾向は現在もあるようです。悟ったといわれている高僧の著作に、心(citta)が輪廻するとありました。 ブッダは輪廻の主体を否定していますが、では、何が輪廻するのかと問われると、縁起説で説明しているようです。 現世での行為が原因となり、それが何らかの条件と結びついて、来世にその結果がもたらされるということです。「スッタニパータ」にあるブッダの言葉です。 「愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを感じる」 愚者という輪廻の主体があるわけではなく、愚行という行為が、来世に苦しみをもたらすということのようです。現世で罪を犯した愚者のその罪が原因となって、来世ではその結果としての苦しみがもたらされるのでしょう。愚行の根底には苦しみがあり、それが転生によって顕在化するのかもしれません。 愚行を犯した体験者の体験が輪廻し、苦しみとして転生するということは、縁起による輪廻転生では、輪廻するのは体験者ではなく、体験ということになります。 輪廻転生するのは、人ではなく、行為ということでしょう。 体験者が輪廻転生しないのは、体験者は、存在があっても実在はしていないということでしょう。実在ではないから、輪廻転生しないのでしょう。だとすると、輪廻転生する体験の行為こそが、実在ということでしょうか。 罪が苦しみをもたらす一方で、現世での善行は、来世においては喜びをもたらすようです。縁起によって現世から来世へと、喜びは喜びになりますが、苦しみは苦しみに、渇望は渇望に、また、落ちてしまうようです。 死の瞬間にマンゴーが食べたいと思えば、マンゴーを食べる虫に生まれ変わるそうです。マンゴーを食べたいという現世の充たされない記憶が、何らかの条件と結びついて、来世ではマンゴーを食べる虫へと転生するようです。 縁起による輪廻転生とは、ひとつの行為が来世に次の行為を引き起こすということのようです。欲望があるかぎり、行為は完結しません。だから、欲望に終わりがないように、行為の連鎖にも終りがありません。そのような行為の連鎖から抜け出すことが、輪廻からの解脱なのでしょう。 21.輪廻転生とは延々と続く夢 輪廻の主体がなく、現世から来世へと、縁起によって転生するのなら、現世も来世も区別ができないことになります。 この世の現象は心が生み出す夢幻に過ぎない仏教の世界観からすると、死後も、来世も、心が生み出す夢幻になります。つまり、現世も夢なら、死後も、来世も、夢でしかないということです。 現世と来世は死によって区別されるのでしょうが、死によっても目覚めがなければ、夢は続きます。現世の体験が縁起によって反映された夢が、延々と続くのです。 生も夢なら、死も夢です。夢とは心が生むものですから、生と死というのは心の中にあり、そこ以外のどこにもないことになります。 現世の思いが来世へと続くのですから、天国や地獄があると思っている人には、死後には天国や地獄があることになります。ないと思っている人には、ないことになります。死後の世界はないと思っている人には、ないのでしょう。 輪廻転生を信じている人ならば、死後、あの世で自分が生きた人生と向き合い、解脱か輪廻かが決定されます。死者を裁くのは、絶対的な存在ではなく、死者自身の意識のようです。自分を救済できるのは、自分自身だけのようですが、 欲望がまだ残っていれば、欲望の働きで輪廻が決まります。輪廻が決まると、転生という夢が続きます。 ひとつの生から次の生へと、心が延々と夢幻を生み出しているわけですから、心(citta)が輪廻の主体として考えられるのかもしれませんが、心が生み出す夢幻は夢の世界であって、夢を見る主体ではありません。 夢を見ている主体は何か、それこそが、ブッダが到達した『唯我独尊』の『我』ではないかと思うのです。『唯我独尊』の『我』が延々と見る夢こそが、輪廻転生と呼ばれるものでしょう。 22.眠って見る夢とこの世という夢 夜、 眠って見る夢 をイメージすると、目の前にある現実が夢だとは感じられませんが、夢とは、いつかは消えてなくなるものということです。 永遠に続かないのが夢です。眠って見る夢も、日常の現実も、永遠には続きません。夢は一夜ですが、現実の一生は、それよりも長いというだけで、宇宙的時間尺度で見れば、一夜も一生も、ほとんど一瞬でしょう。 眠って見る夢は、脳が生む脳内現象です。心が認識する世界です。現実の世界は、身体と心のすべての感覚器官が認識する世界です。 「アングッタラ・ニカーヤ」の中で、ブッダは、身体と心に起こることは、すべて感覚として流れると説いています。 身体と心に起こることが、すべて感覚として流れるのなら、心だけが認識する眠って見る夢も、身体と心のすべての感覚器官が認識する日常の現実も、どちらも感覚として処理されていることになります。 日常の現実も、眠って見る夢も、感覚になるのですから、現実も夢も感覚ということになります。そうすると、眠って見る夢が夢なのですから、日常の現実も、夢ということになるのではないでしょうか。 にもかかわらず、私たちは、眠って見る夢だけを夢と考えて、現実を夢だとは考えていません。夢に見る食事も現実の食事も、私たちの心には確かに存在していますし、私たちは実際にそれら両方を体験しています。でも、私たちは、そうは考えてはいません。味や匂いがないというだけで、夢に見る食事は存在しないとみなしています。違いは情報の質と量だけです。存在のありようが違うだけです。 日常の世界を現実と考え、日常にはない世界を非現実、つまり夢と考える私たちの常識が、心には確かに存在する夢の世界を、存在していないとみなしているのでしょうが、私たちは、日常の世界だけではなく、眠って見る夢の世界も、実際に体験しているのです。 間違いなく存在しているこの夢の世界も、現実の世界のように、確かに存在していると実感したら、眠って見る夢が夢なのですから、日常の現実も夢になるのではないでしょうか。 眠って見る夢も、日常の現実も、感覚という同じ材料でできています。感覚で生まれる世界は、すべて、夢です。すべてが感覚で認識されるこの世においては、夢でないものはないのです。日常の現実も、眠って見る夢も、すべて夢なのです。 夢でないものとは、感覚では認識されず、観察の対象にはならないものです。 感覚器官では認識できないもの、これこそが、生まれることもなく、滅することもない、永遠不変の実在でしょう。この実在こそが、ブッダの到達した『唯我独尊』の『我』だと思われます。 問題は、私たちが、感覚器官で確認できるものだけを実際に存在する実在と見ていて、いつかは消え去る夢だとは見ていないことです。感覚器官ではとらえられない永遠不変の実在を、非現実だと見てしまうことです。非現実ではなく、超現実だとはみなせないことです。 菩提樹の下で悟りを開いたブッダが、悟りを求める人々に説法をためらったのは、これが原因のようです。 ブッダは、人々はこの世を実体のある実在とみていて、悟りの世界を理解できないと考えたようです。だから、説法をしても無駄だと判断しますが、そこにブラフマンが現われて説法を請い願います。梵天勧請(ぼんてんかんじょう)と呼ばれるこの伝説は、仏教の出発点のようです。 この世を実在としてしか見ることができない人に、真実を説いても逆効果だと知っていたからでしょう、ブッダは、相手の理解度に合わせて説法をしました。これが対機説法の原点のようですが、ウパカへの説法の失敗があったからでしょうか。 23.現世から来世への輪廻転生とは二本立ての映画 映画館で二本立ての映画を観るとします。観客は、『唯我独尊』の『我』だけです。上映作品は、この世という人生の物語です。上映中は『唯我独尊』の『我』は、物語の 登場人物 になりきります。自分こそが、その物語のヒーローであり、ヒロインです。一本目の上映が終わると、物語の登場人物の体験の記憶は、スクリーンに記録されて、次の映画の物語に反映されます。 縁起による輪廻転生とは、こういうことでしょう。普遍的な世界があって、その世界の中に個人が生まれ変わるのではなく、古い世界が消えて、古い世界を反映した新たな世界が生れるのが、縁起による輪廻転生だと思われます。輪廻転生するのは、個人ではなく、世界そのものでしょう。 次の作品の上映が始まるまでに、『唯我独尊』の『我』が「本来の自分」に戻らず、いつまでも一本目の映画の登場人物に同一化したままだと、二本目の映画の上映が始まり、それを観始めたとき、今度は新たな物語の新たな登場人物になります。こうして、延々と新たな物語が続き、新たな登場人物が次々に生まれますが、それらはすべて、ひとり客席で観ている『唯我独尊』の『我』の見る夢です。 夜、眠って見る夢とは、現実という夢の中で見る非現実という夢です。 蝶になった夢を見たからといって、実際に蝶になるわけではありません。輪廻してマンゴーを食べる虫に転生したからといって、『唯我独尊』の『我』が、マンゴーを食べる虫になるわけではありません。 現実世界の登場人物とは、あくまでも、『唯我独尊』の『我』の同一化にすぎないのです。 荘子の「胡蝶の夢」では、蝶になって舞う夢を見た荘周が、目覚めた後、自分は蝶になった夢を見ていたのだろうか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのだろうか、と自問します。 『唯我独尊』という超現実の視点では、現実も夢という非現実も、どちらも夢です。夢から覚めた荘周は、超現実にいたのでしょう。だから、蝶になった夢を夢だと感じただけではなく、そう感じている現実の自分も蝶の夢だと感じたのでしょう。 眠って見る夢も、この世という現実も、誰の夢かに違いはあっても、どちらも夢なのです。 24.継続性と同一性 私たちは、今の自分も小さい頃の自分も 同じ自分 だと、何の疑いもなく思っています。 容姿は違いますし、心の中味も違います。身体と心に関するかぎり、同じ人物だとは思えません。 にもかかわらず、過去の自分と現在の自分が、同じ人間だと認識されるのは、なぜなのでしょうか。 人が時間や状況の変化を超えて、「同じ自分」であり続けるとはどういうことなのか、哲学ではこのことを人格同一性問題と呼んでいるようです。人格同一性の根拠を同一の身体におく身体説と、連続する記憶におく記憶説との間で論争があるようですが、身体は常に細胞が入れ替わっていますし、記憶は常に再構成されています。どちらも常に変化しているので、身体も記憶も「同じ自分」という根拠にはならない気がします。 今の自分とは、生まれてからずっと継続している自分だと、疑問さえ持たないのは、記憶があるからでしょう。でも、記憶は、継続性という幻想を生み出しているだけなのではないでしょうか。それら記憶の体験者は、小さい頃と今とでは、別々です。別々の体験者の間には、継続性はありません。あると思うのは、そう思っているだけのことでしょう。 継続性とは時間の中で生じるものです。人生は時間の中にありますから、生きているかぎり、自分とは生まれてからずっと継続している自分だと思うのは、自然なことかもしれませんが、 すべてが変化する 諸行無常 (anicca)の世界には、存在の継続性というのは、あり得ない気がします。 記憶に基づく習慣や社会制度や人間関係など、そのような仕組みが自分という存在の継続性を支えているのでしょうが、それらは生存のための単なる仕組みであって、人間がつくり上げたものです。人間がつくったそのようなものによって支えられなければ成り立たない継続性とは、錯覚のようなものでしょう。 芋虫と蝶を見て、同じ生き物だと思うのは、知識があるからです。そのような知識がない人には、芋虫と蝶は別の生き物です。同じ生き物だと思わないのはもちろん、継続しているとも思わないでしょう。継続性とは、知識に過ぎないのです。 私たちが自分の身体や記憶の継続性を疑わないのは、継続性と同一性を混同しているからではないでしょうか。 継続性が成り立つためには、継続していると思わせる同一性が必要です。小さい頃も今も、自分は同じだという同一性です。その同一性こそが、『唯我独尊』の『我』ではないかと思うのです。 私たちは、日常生活でも、認識できないだけで、常に『唯我独尊』の『我』なのです。そう認識できないのは、 時間が変化をもたらし、変化する身体や記憶が継続性をもたらしているからでしょう。そのために、小さい頃の自分も、今の自分も、同一の自分だとは認識できず、継続しているとしか思えないのす。 身体や記憶は、この世で生まれた自我です。自我は変化の中でしか存在できないので、変化しない同一性を妨げているのです。私たちは、『唯我独尊』の『我』になり変わった自我のために、『唯我独尊』の『我』を認識できないのです。 25.「日常の自分」と「本来の自分」と『我』 「日常の自分」と「本来の自分」と『唯我独尊』の『我』は、本質的には、ひとつです。どれも同じひとりの「わたし」です。これらは人間存在の三つの側面です。 その三つとは、真実を知らずにこの世に生きる「わたし」と、真実を知ってこの世に生きる「わたし」と、真実の「わたし」です。 「自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして主(あるじ)であろうか。自己をよくととのえたならば、得難き主(あるじ)を得る」(ダンマパダ) ここでの「自己」とは「本来の自分」です。「自分」とは「日常の自分」です。真実を知るゆえに、「本来の自分」は「日常の自分」の主(あるじ)なのです。「自己をよくととのえたならば」とは「自分が正しく生きれば」ということでしょう。 「日常の自分」が、主(あるじ)である「本来の自分」に到達することが、解脱でしょう。 仏教の実践とは「日常の自分」が「本来の自分」に到達するために、日々、歩むことですが、目的地は「本来の自分」です。 歩むのは「日常の自分」です。悟りのための実践は、あくまでも「日常の自分」が担わなければいけないのです。 観客席には『唯我独尊』の『我』しかいませんが、スクリーンには「観察機器」としての「日常の自分」をはじめとして、大勢の他人がいます。すべて『唯我独尊』の『我』の見る夢ですが、夢の中のこれら大勢の他人は、友となり手本となることもあれば、敵になることもあるでしょう。どのような場合であれ、自分を救うのは自分なのです。 最初期の仏教では、自己と他人をはっきり区別していたようです。その教えの舞台は、自己も他人もない真実の世界、観客席にひとりいる『唯我独尊』の『我』の世界ではなく、 スクリーンの世界 です。それは「日常の自分」が主体のこの世の現実です。 「スッタニパータ」には「犀の角のようにただ独り歩め」というブッダの言葉があります。「日常の自分」が、他人に頼らずにどのように歩むべきかが、延々と説かれています。そうして、たどり着くところが「日常の自分」に打ち克った「本来の自分」です。「ダンマパダ」にこんな言葉があります。 「戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である」 自己に克つ勝利者、これこそが、ブッダが解脱によって到達した『唯我独尊』の『我』でしょう。「日常の自分」が到達した「本来の自分」です。 26.自己イメージからの解放 「日常の自分」は、ほとんどの人にとって、自己イメージでつくられているのではないでしょうか。自己イメージとは、自分が思っている自分であって、自分ではありません。社会の価値観に沿って社会がつくり上げるイメージを、自分に当てはめただけです。社会の中では、いろいろな役がすべての人に割り当てられます。その配役に応じて、自分がつくり上げる自分が、自己イメージになるのです。 私たちが自己イメージを自分だと思っているのは、自分を知らないからでしょう。自分を知らなければ、自己イメージが自分になってしまいます。自己イメージとは、過大な自分であったり、過小な自分であったり、肯定的な自分であったり、否定的な自分であったり、かなり極端にブレがちですが、社会が求める役割をこなす、人生という舞台劇の役者に過ぎないのです。自分とは別の自分なのです。 自分が抱く自分という自己イメージが人に認められなければ、ほとんどの人が反発するのではないでしょうか。 自己イメージは自分ではないのに、傷つきます。怒ったり悲しんだりして、苦悩が生れます。人生で感じる苦悩のほとんどは、自己イメージと世の中の軋轢でしょう。自分ではない自己イメージに固執するからです。 「日常の自分」は現実ですが、自己イメージは非現実です。自分ではないのです。イメージに過ぎないのです。社会がつくり上げるイメージも自己イメージも、イメージという非現実なのですが、問題は誰もそれが非現実だと思っていないことでしょう。 非現実である自己イメージを自分だと思い込んで、それに固執すると、不安や恐れが生れます。イメージは非現実ですから実体がありません。実体がないために、制約がなく、圧倒的で、制御不能です。オオカミの影は、オオカミよりも怖いのです。 自己イメージに固執するのは我執です。我執が問題なのは、自分のものと感じる、自分のものではないものに執着するからです。 自己イメージは自分ではなく、自分のものではありません。 自分のものではないものに執着すると、必ず苦悩します。いつか失うかもしれないからです。潜在的に常にその不安につきまとわれるからです。この世では自分のものは、何ひとつありません。死によって、自己イメージも含めて、すべてなくなるのです。 原始仏教の修行の第一歩は、我執を消し去ることです。それは自己イメージからの解放です。自己イメージから解放された自分こそが、「日常の自分」でしょう。 「本来の自分」に至る前に、まずは自己イメージから解放された「日常の自分」を見出さなければいけないのではないでしょうか。それは自分から解放されるということです。 27.生きづらさは悟りへの扉 この世に生きていて、生きづらさを感じたことがない人は、いないでしょう。王国の王子でさえ感じるのです。どのように恵まれた境遇にいる人でも、忘れている時以外は、感じるはずです。だから、忘れるために、気晴らしや娯楽のようなレジャーが必要なのです。それは日常を忘れることですから、ある種の逃避です。一時の逃避は可能でも、一生の逃避は不可能です。 生きづらさを感じるのは「日常の自分」です。自分を無力だと感じ、この世という見通せない世界に投げ出されて、自分にいつ何が起こるか分からず、自分の運命は見知らぬ力に握られていると感じます。自分を何としても守らなければならないと、意識せずとも、自己防衛に走ります。どのように自己を防衛しようとしても、行き着く先には、必ず死があります。それを知っているからこそ、ますます自己防衛に走り、果ては、いっそ、自分でけりをつけた方がいいのではないか、という極端な考えを持つようにもなります。 生きづらさを感じるのは、自分が思う現実と、実際の現実にズレがあるからでしょう。そのズレを生んでいるのが、欲望です。欲望とは、現実の否定です。欲望は、不満な現実を否定して、別の現実を求めます。 何を手に入れても、一時の満足感しかないとしたら、欲望には限りがなくなります。死んでも手に入れたいと激しく欲望して手に入れたものでも、手に入れてしまうと、それほど欲しかったものとは思えなくなり、別のものを欲望することになります。 問題は、何を欲望しているのか、はっきり分かっていないことでしょう。漠然とした欠落感が、欲望を生んでいるのでしょうが、大体が、薬物やアルコールや女(男)など、快楽を生むものや、名声や富や権力など、社会の価値観に従うもので充たそうとするので、欲望が充たされることはないのです。 求めているのは「本来の自分」ではないでしょうか。「日常の自分」が「本来の自分」を求めているのです。そのことをきちんと理解できていないので、 社会的に価値あるもの を求めたり、快楽を求めたりしているのです。ただ、それらを求めて手に入れても、生きづらさから逃れられる人は、あまりいないのではないでしょうか。 私たちの本質がこの世にあるのなら、この世の価値観によって、生きづらさは解消できるはずです。どう足掻いても生きづらさから逃れられないのは、私たちの本質が、この世にはないからでしょう。この世にはない私たちの本質は、この世で充たすことはできないのです。 生きづらさとは、悟りへの扉ではないでしょうか。真実に目覚めた証しではないでしょうか。欲望があるから生きづらさに苦しむのでしょうが、欲望があるからこそ、その扉の前にたどり着けるのです。 悟りへの扉であるこのような生きづらさが生じるのは、 私たちの本質はこの世にはなく、この世では見出せない至福の実在だからです。 生きづらさが悟りの扉にならないのは、そのことを 知らない からです。知らないまでも、私たちは、知らないままに、自身の真実の姿を求めているのではないでしょうか。 28.自分にとっての現実感 日常社会の中で、私たちは生きることを欲しています。存在することを欲しています。自らが生きて存在していることの確かな証しを、絶えず求めています。ほとんどの人が、その証しを社会的な活動に求めているのでしょうが、その証しこそが、自分にとっての現実感でしょう。 私たちはこのような現実感を、どのように知るのでしょうか。現実の体験には、空想にはない手応えのような確かな感覚があります。哲学用語では、これをクオリアと表現しているようですが、あくまでも主観的な体験であり、客観的な測定はできません。 咲いている花を見るとき、花が咲いているという現実感は、その花にあるのでしょうか、それとも花を認識する視覚にあるのでしょうか。ほとんどの人が、咲いている花の現実性は、花にあると思っているはずです。でも、これは錯覚です。実際は、花にあるのではなく、視覚にあるようです。砂糖の甘さは、砂糖にあるのではなく、味覚にあるのです。砂糖にあると感じるのは、錯覚です。甘さという現実感は、味覚があるから生まれるわけで、味覚が壊れると、甘さという現実感も失われます。 花の現実感は、花という対象にではなく、花を見ることで生じる知覚にあります。花が美しいのは、花が美しいのではなく、美しいと感じる心が美しいのです。世界を美しくしたければ、心を美しくすればいいのです。 この現実感の認識は、物質にかぎらず、音楽などの非物質的なものまで含めて、人が観察できる世の中のすべてに当てはまります。 このようなことから、現実性とは、心の働きだといえるでしょう。現実性は、観察する対象がもともと持っている固有の性質ではなく、私たちが何かを観察するたびごとに、その観察行為の中から生み出されています。観察行為の中から生み出される現実性とは、心が生むものです。心が現実性を生んでいるのです。ということは、この世を生み出しているのは、心ということになるのではないでしょうか。 29.この世は実在するのか 日常の世界は、間違いなく実在すると、その実在性を私たちは疑っていません。客観的に存在するから、私自身の勝手な空想の産物ではないと思っています。日常世界の実在性が、私たちの 常識的日常性 ですが、この世は本当に実在するのでしょうか。 般若心経は、五蘊(ごうん)としての自分は実在しないし、現象としてのこの世は実在しない、それを知るとこの上ない喜びに包まれると説いています。この経典に依ると、この世は存在はしていても、実在はしていないようです。 客観的に存在することが、この世が実在する前提になっていますが、客観的な存在というのは、私たちの主観がなければ、意味が見えなくなります。意味が現実性を持ないからです。客観的存在とは、実際は、すべて主観なのです。 客観的存在に意味を与えているのは、私たちの主観です。 砂糖が甘いのは、味覚がそう感じるからです。咲いている花が美しいのは、視覚がそう見るからです。現実感というものは、砂糖や花という客観的存在にはなく、私たちの主観がそう感じるから生まれています。 客観的な存在とは、言葉のようなものではないでしょうか。詩が美しい世界を表現していたとしても、知らない外国語で書かれていれば、単なる文字記号でしかありません。 言葉を意味として読み解く主観がないからです。客観的な存在も、言葉と同じように、主観で読み解かれなければ、意味という本来の存在意義は持てません。 カルシウムに過ぎない真珠を宝石にするのは、私たちの主観です。私たちの主観がなければ、真珠は宝石という意味にはならず、カルシウムのままです。 美しい風景が目の前にあったとしても、美しいと思えない人には、美しさという存在意義はありません。 真珠や風景という客観的存在は、言葉のように、私たちの主観が読み解かなければ、意味が現実性を持てないのです。 この世とは、客観世界を読み解いた意味のことではないでしょうか。 客観的な存在に意味をもたらすのは、私たちの主観です。私たちの主観が意味という現実をもたらして、この世が生れています。 私たちの主観が客観世界をどう読み解くかで、どのような意味がもたらされるのかが決まります。ということは、この世を生み出しているのは、私たちの主観、つまり心ということになるのではないでしょうか。 私たちがこの世に生きるのは、客観的な存在に現実感をもたらして、意味としてのこの世を確認するためではなかろうかと思うのです。それはこの世を生み出した心の主体である自分を知るためということになるのではないでしょうか。 30.この世とは心のイメージ 主観がなければ客観世界に意味がないのは、客観世界が心の中にあるからではないでしょうか。私たちは、客観世界は私たちの外側にあるとみなしていますが、本当にそうでしょうか。 同じものを見たとして、その見たものを表現したとします。同じ言葉で語られたとしても、その体験内容は、表現できないだけで、人によってすべて違います。これは客観世界とみなしているものが、私たちの外側にあるのではなく、実際には、私たちの心の中にあるからでしょう。外側にあるのなら、見たものは、誰にとっても、すべて同じになるはずです。 手を打てば 鯉は集まり 鳥は逃げ 女中は茶を運ぶ 猿沢の池 この短歌では、叩いた手の音が、さまざまに異なった反応をもたらしています。同じ刺激でも、立場の違いで認識が異なると説く唯識(ゆいしき)仏教の思想がここにはあります。 唯識思想とは「すべては心(識)がつくり出したものにすぎない」という教えなので、手を叩いた音も、その音に対する反応も、心の中で起こっていることになります。 唯識思想は「この世とは、実在ではなく、識(意識や認識作用)がつくり出した表象(心のイメージ)にすぎない」と説いています。 「一水四見(いっすいしけん)」という教えによると、人間にとっての「水」が、天人には「瑠璃の宝物」、餓鬼には「火炎」、魚には「宮殿」になります。何が見えるかは、認識が決めるようです。 この世とは、仏教の教えでは、虚構です。唯識思想によると、私たちがどう見るかで、現実世界が、現実になったり、非現実になったり、超現実になったりします。これらの世界は、平行して存在する別々の世界ではなく、ひとつの同じ世界なのですが、超現実世界は認識できないので、私たちにとっては、現実や非現実の世界があるだけです。 多くの人が、病的ではないにしても、悲観的妄想や楽天的妄想で、現実を非現実というさらなる虚構にして、闇を深めています。問題は、それが非現実だと認識できず、非現実が現実になっていることでしょう。現実から非現実を取り除けば、超現実になるというのが唯識仏教の教えです。それは煩悩を取り除くということでしょう。 どんなに恵まれていても、本人が不幸だと思えば不幸ですが、どんなに悲惨でも、本人が幸福だと思えば幸福です。幸福や不幸が、このように認識で決まるのは、私たちの日常世界が、私たちの認識で生まれているからでしょう。 認識を変えるだけで幸福になるのは、私たちの本質が幸福だからです。幸福でありながら、その幸福に気づいていないのです。 状況は簡単には変えられなくても、認識は変えられます。自分は不幸なのではなく、幸福なのだと認識すればいいだけなのです。 変えられるはずのその認識が変えられないのは、煩悩におおわれているからでしょう。 31.真実の世界とこの世という仮想現実の世界 私たちは目の前に見る現実を、私たちの目の前にあると感じていますが、実際には、目の前の現実は、 心の中にある ようです。 現実とは、記憶に基づいて、心がつくり上げる世界のようです。 私たちの知覚がつくり上げているということなのでしょうが、知覚は心が関心を失えば消えます。 カクテルパーティ効果というのがあるように、私たちは興味を持ったものを選択的に感じています。これは興味のないものを消すことで起こります。興味のないものは、存在しなくなるのです。関心を持ったものしか存在しないのが、私たちの日常です。 私たちの日常世界が、私たちの認識で生まれているからでしょう。 この世とは、感覚器官が認識した世界にすぎません。真実の世界ではないのです。真実の世界とは、私たちの認識の背後にあるこの世の真の姿、現実と非現実を超えた、超現実世界のことです。 感覚器官が認識するこの世とは、 実際には存在しないのに、存在するように見える 仮想現実のような世界 ではないでしょうか。真実の世界である超現実世界を、この世と呼ばれる仮想世界にしているのが、知覚の働きです。 この世という仮想現実の世界は、知覚が生み出していますから、興味を失えば消えます。欲望をなくせば悟りに至るのは、この世が消えるからでしょう。この世が消えて、真実の世界である超現実世界が現われるからでしょう。この世は存在はしていても、実在はしていないのです。 真実の世界である超現実世界は、感覚器官では認識できないので、私たちには知ることができません。感覚器官で認識するかぎり、認識される世界は、感覚器官が認識するこの世になります。感覚器官以外に認識する手段を持たない私たちには、感覚器官で認識されない世界は、知ることができないのです。 ただ、この世が真実の世界の仮想にすぎないにしても、認識できないだけで、真実の世界でもあるのです。煩悩即菩提です。真実の世界に、煩悩を生む知覚が、この世を描いているのです。 このことを自覚できれば、認識の隙間から、この世の真の姿が、垣間見えるかもしれません。 美術館巡りを楽しんでいる全盲の人がいます。その人は絵画を視覚では見ていません。感覚器官を超えて見ているはずです。芸術作品の作品世界とは、感覚器官を超えたところにあるようです。誰もがこの世を感覚器官を超えて見ることができれば、日常は至福の世界になるのではないでしょうか。 この世に生きるとは、感覚することです。私たちは、 感覚が認識する世界 の中で生きるしかないのです。私たちの日常生活とは、感覚の世界に閉じ込められた生活ともいえるでしょう。時々にしても、日常生活に 閉塞感 を感じるのは、だからなのではないでしょうか。 感覚を超えた世界を知ることは、完全な自由を知ることです。日常生活から完全に解放された世界です。感覚から解放された自由です。それは至福です。 その至福の世界とは、真実の世界であり、悟りの世界であり、『唯我独尊』の『我』の世界でしょう。 32.合理性の非合理性 この世を仮想世界としてではなく、実在する現実として営まれているのが、私たちの社会です。認識できるこの世とは、実際には、感覚器官が生み出す仮想世界なので、客観性はありません。人によってすべて違うはずです。心を含めた感覚器官のありようが、人によってすべて違うからです。この世という仮想世界は、人の数だけあるはずなのですが、実際には、この世は実在する現実だとみなされて、常識的日常性というひとつの世界しか認められていません。 自然の中にある人間の活動は、本来は、合理的に判断したり、客観的に理解できないはずです。にもかかわらず、日常社会は、合理的で客観的な常識的日常性という枠組みををつくって、その中で生きることを私たちに強制しています。人間本来の自然には、あるはずのない合理性が、社会によって人間に押し付けられているのです。 人間を含めた自然の本性は、非合理そのものです。何がどのように起こるのか、誰にも分からないところに、合理性はありません。生命が存在するということ自体が、一切の合理性を超えた偶然です。 たまたま存在している人間とは、全く非合理的な存在です。非合理的な存在のままでは、不安で生きていくことができないので、人間社会は合理性を持ち込み、自然や人間活動を予測可能なものにして、とりあえず、安心しているのです。 これは、虚構です。人類が文明を築き、生存を確かなものにするためには、このような虚構も必要なのでしょうが、虚構は虚構として理解されることも、大切です。虚構の中でしか存続できない人類のこのようなあり方は、必要とはいえても、正当とはいえないからです。私たちが生きづらさから逃れられないのは、私たちの生存が、このような虚構にあるからです。 この虚構を生み出した張本人が、自我という機能でしょう。自我こそが虚構です。実在ではない自我は、永続的に存続するために、このような虚構をつくり上げるのです。 自我が主役の人間社会は、虚構そのものではないでしょうか。愛でしか生きていけない人間に、利害で生きるよう仕向けているのです。わたしたちは、愛と利害を混同し、愛を見失ったのです。 自我という合理的知性は、理論通りを求めます。理論通りにならないと、その人の責任になります。その人には何の責任もないのに、当事者として、自責の念や罪悪感などに苦しめられます。だから、人間社会で生きる私たちは、責められないように、理論通りの生活をしようとします。 自由であるはずの私たちの生存は、虚構という型にはめられてしまったのです。 人類の原罪とは、このことでしょう。合理的知性を持ったために、人間は真実の世界から追放されたのです。というよりも、勝手に出て行ったという方が、正しいのかもしれません。 33.「正常に異常」な状態と「異常に正常」な状態 この世に生きる人は、生存のために、虚構を強制されているわけです。それは異常な状態ですが、おかしいと思っている人はあまりいません。ほとんどの人が異常なので「正常に異常」な状態といえるでしょう。常識的日常性が虚構だと知った人は、精神異常者だとみなされます。このような人たちこそ、虚構を虚構と知っているわけですから、正常な人たちでしょう。ただ、正常な人は、ごく少数なので「異常に正常」な状態といえるでしょう。 「異常に正常」な人は、医師の治療を受けて「正常に異常」な状態となって、社会復帰をします。社会復帰ができず、生命力が深いところで停滞し、生への意志が活動を停止すると、離人症になります。 離人症とは、自分と世界に対する非現実感です。自分を外から見ているような感覚があり、この世の世界が、テレビや映画の物語の中にあり、それを自分が観察しているような症状です。これはブッダの到達した『唯我独尊』の『我』の世界と、とてもよく似ています。ただ、似ているだけで、似て非なるものでしょう。なぜなら、そこには悟りの自覚がないからです。離人症の人には現実がありません。現実のない現実とは、超現実ではなく、非現実です。 34.この世を生むのは「生への意志」 私たちが生きるこの世は、個人の意識によって認識された世界です。この世の世界が認識されるためには、個人の「生への意志」が必ずあります。「生への意志」がなければ、意識が働かないからです。意識の働きがなければ、この世は認識できません。 意識を働かせる個人の「生への意志」は、 ほとんどの場合、盲目的なのではないでしょうか。何も考えなくても、何も意識しなくても、この世はそこにあるからです。 日常生活では、自分の意志とは関係なく、この世の世界がそこにあるように見えます。これは「生への意志」が盲目的に働いて、世界が現われているからでしょう。私たちには、自分とは無関係に世界が存在しているように見えますが、そう見えるのは、そう見えるだけなのではないでしょうか。 「生への意志」とは、言葉を変えれば、欲望です。欲望こそが、この世を生んでいるのです。 この世の現実性とは、錯覚に過ぎません。その錯覚を生み出しているのが、この「生への意志」です。 離人症の人には「生への意志」という欲望がありません。だから「生への意志」が失われた離人症になると、錯覚にすぎないこの世の現実性が失われ、悟りのような症状が現れるのでしょう。
仏教が 厭世的 だといわれるのは「生への意志」をなくす教えだと誤解されているからでしょう。「生への意志」をなくすだけなら、離人症になるだけです。 仏教の歩む道は「生への意志」をなくすことではなく、「生への意志」を超えて、実在を見出そうとする「真実への意志」を持つことではないでしょうか。仏教の教えとは、世を厭うことではなく、世を超えることです。 35.ヴィパッサナー瞑想はどのように悟りをもたらすのか ほとんどの人は、この世にあるものは、すべて変化し、いつかは消えると知っていますが、知っているにもかかわらず、日常生活の中では、そうは思っていません。思っていると思っているだけで、実際は、死にうろたえることからも分かるように、世の中や自分は、いつまでもそのままにある 実在だと錯覚 しています。 この世の存在は、すべて、いつかは消えるものなのに、日常的にそう思えないのは、記憶の継続性と人間がつくった社会制度があるからでしょう。そのために、私たちは、身体や心が自分だと錯覚しています。身体や心やこの世が、変化していて、いつかは消えるとは、日常的には思えないのです。 ヴィパッサナー瞑想は、身体の 感覚を観察 する瞑想法です。「身体や心は自分ではない」と知ることが説かれた経典、サティパッターナ・スッタの教えに基づいています。身体と心に起こることは、すべて感覚として流れるので、感覚を観察することで、身体と心のすべてを知り、身体と心は実在ではないと知ることができるのです。 サティパッターナ・スッタは、何かを感じたとき、私たちはその感覚に束縛されていると説いています。心地よい感覚が厄介なのは、その感覚が束縛だとは感じられないことでしょう。心地悪い感覚からは、誰もが解放されたいと思うでしょうが、心地よい感覚からは、誰も解放されたいとは思わないでしょう。いつまでも「束縛」されていたいと望むのではないでしょうか。私たちを支配しているのは、環境ではなく、感覚なのです。 完全なる解放のためには、あらゆる感覚、心地よい感覚からも、心地悪い感覚からも、心地よくも悪くもない感覚からも、心を含めた六つの感覚器官が生む、すべての感覚から解放される必要があります。身体と心に生じるあらゆる感覚、すべての感覚から解放されるとは、感覚を消し去り、感覚を感じなくなることではなく、感覚を超えることでしょう。感覚を消し去り、感じられなくなってしまえば、生きていけなくなります。 感覚を超えるとは、感覚とは、私ではなく、私のものもなく、自分ではないと知ることです。サティパッターナ・スッタは、身体も、感覚も、心も、心の中味も、私ではなく、私のものでもなく、自分ではないと、繰り返し説いています。つまり、私とは、身体や心ではないということです。 苦しみの原因は感覚です。苦しみは、環境ではなく、感覚が生んでいます。 原因の究明は問題解決の第一歩です。私たちがヴィパッサナー瞑想で感覚を観察するのは、感覚という束縛の鎖に、どのように縛られているのかを知るためです。 無知は隷属です。知る者は知られるものを超えます。感覚を知ることで、感覚を超えることができます。そうして、身体や心を超え、「身体や心は自分ではない」に至るのです。 ヴィパッサナー瞑想を実践することで、いつしか、身体が自分ではなくなり、心が自分ではなくなり、感覚が自分ではなくなり、心の中味が自分ではなくなります。そうして、身体と心を自分とする「日常の自分」が消えるのではないでしょうか。 消えてなくなるのは「日常の自分」です。その自分を主役とするスクリーン上の物語の世界です。物語の世界が消えて、それまで同一化していた主役がいなくなると、観客席にひとりいる『唯我独尊』の『我』が、我に返るのです。 36.仏教とは自己実現のための教え 仏教は「無我」を説く宗教だという固定観念があるためか、仏教が「本来の自分」である『我』を見出すための教えだと思っている人はあまりいませんが、 初期仏教における修行とは、真の自己である「本来の自分」に復帰することだったようです。つまり、仏教とは『我』を見出すための教えであり、修行者は、真の自己を自覚的に把握せねばらないと考えられていたわけです。 原始仏教の修行においては、このように、自分に対する働きかけが、とても重要だったようです。 ブッダの教えと出家僧の生活や規律をまとめた「ヴィナヤ・マハーヴァッカ」には、ブッダが、娼婦を探している青年たちに、婦女を求めるよりも、自己(アートマン)を求めよ、と説いて出家させたエピソードがあります。アートマンはない「無我」であるなら、求める自己はないはずですが、 原始仏教の修行とは、この自己(アートマン)を実現させることだったようです。 最初期の仏教においては、二種類の異なった自己が想定されています。理想から乖離し、常に頽廃する可能性を内臓している自己と、理想として実現されるべき自己の二種類です。 頽廃する可能性のある自己とは「非我」のことです。理想として実現されるべき自己とは『我』のことです。「非我」とは「日常の自分」のことであり、『我』とは「本来の自分」のことです。「日常の自分」である「非我」を「本来の自分」である『我』だと勘違いしないこと、これが初期仏教の修行の出発点です。 理想的な自己を実現するためには、もろもろの悪徳、煩悩の基体としての自己、これを滅却しなければいけないのです。 「ダンマパダ」や「スッタニパータ」をはじめとして、最古層の経典には「自己を愛し護ること」と「自己を滅し捨てること」という二様の相反した教説が、繰り返し説かれています。 37.自己実現のために 自己実現(self-actualization)という概念は、アメリカの心理学者、マズローの欲求の五段階説が基となっていますが、このような概念は、2500年も前の仏教経典に、すでにあったわけです。マズローのこの理論から、日本でも自分探しがブームになりました。でも、自分を探すためには、「探し出す自分」とは何か、これをしっかりと知っておく必要があるように思います。 イスラム教神秘主義のスーフィズムに、こんな話があります。 ある人が、夜中に、街灯の下で探し物をしていました。とても大切なものを失くしたと、必死になって探していました。通りがかった人は、気の毒に思って、いっしょに探してあげることにしました。 「失くしたのはどの辺りですか」と尋ねると、探し物をしている人が言います。 「家の中で失くしたんです」と。通りがかった人は、驚きます。 「だったら、どうして家の中を探さないのですか」と聞くと、探し物をしている人が、言います。 「だって、家の中は、真っ暗なんです…」 スーフィズムは、すべての現象を神の現れと考え、修行によって自己を捨て去り、神との合一に至るよう説いています。ウパニシャッドの梵我一如や、初期仏教の修行に、とてもよく似ています。 日本では、ひと頃、自分探しがブームとなり、大勢の人が、自分が本当に何を求めているのか、何を大切にしているのか、それらを見つめ直して、自分に合った生き方や仕事を見つけようとしました。そのような人たちが探していたのは、ほとんどが、社会的に価値があり、敬意が払われるような生き方であり、仕事だったように思えます。 自分が持つ能力や可能性を最大限に引き出して、自分の理想や目標に向かって成長し、自己を実現しようとする人たちの「自己」とは「日常の自分」でしょう。 「日常の自分」が、少し着飾って、新たな「日常の自分」になることでしょう。 その「自己」とは、人からは高く評価されるかもしれませんが、他者との比較や、優劣でしか知ることができませんので、結局、「苦」を生みます。それは、あくまでも、常識的日常性にいる「日常の自分」でしかありません。「非我」をどのように飾っても『我』にはならないのです。 飾り立てた「日常の自分」ではなく、「本来の自分」を見出すことが「自己の実現」です。ここで探さなければいけない「自己」とは「本来の自分」です。でも、「本来の自分」とは、どこをどのように探したらいいのか、まったく分かりません。しかも、社会的には、何の価値もないのです。 38.生きるとは命(いのち)よりも大事なものを知ること 日常生活の現実感、クオリアとは、私たちが生きて存在していることの唯一の証しです。社会的には何の価値もありませんが、それがなければ、自分が存在しているという実感は薄れます。他の人には何の価値もなくても、自分にとっては、自分という存在を証してくれる、計り知れない価値を持っています。 私たちは、そのクオリアを、日常的に見出しています。クオリアが「本来の自分」であるなら、永遠不変のはずですが、見出したクオリアは、すぐに消えてしまいます。だから、自覚していないだけで、消えて失ったクオリアを求めて、私たちは、ひたすら、さまざまに活動をしています。 私たちがクオリアをひたすら求めているのは、クオリアが自分の存在を証してくれるかけがえのないものだからでしょうが、クオリアが、自分にとって、計り知れない意味を持っているということは、それが「本来の自分」という実在を暗示しているからではないでしょうか。 だとしたら、クオリアとは、私たちが見出そうとしている「本来の自分」への「扉」ではないかと思うのです。 私たちは、クオリアを求めているようで、実際は、日常的に「本来の自分」を求めているのかもしれません。愛が貴重なのは、それがそのまま「本来の自分」へとつながっているからかもしれません。私たちは、愛を求めるとき、知らずに、愛を通して得られる「本来の自分」を求めているのかもしれません。「本来の自分」とは、愛のことかもしれません。ただ、求めている場所が、暗い家の中ではなく、明るい街灯の下なのです。 「本来の自分」は、真っ暗な家の中でなければ見出せないようです。私たちが「本来の自分」を見出せないのは、明るい街灯の下ばかりを探しているからでしょう。「本来の自分」を見出すためには、クオリアという「扉」の向こうにある真っ暗な 「 家の中 」 に、光を持ち込まなければいけないようです。 生まれることもなく、滅することもない、 永遠不変の実在 が持つ永遠不変の現実感、これは言葉にはできない喜びです。「本来の自分」にたどり着くと、この喜びが得られるのでしょう。解脱とは、こういうことではないでしょうか。 「わたしはすでに解脱への道を示した。今、あなたがた自らがその道を歩む時である」 ブッダは、弟子たち一人ひとりに、こう説いていたことでしょう。 「本来の自分」を見つけること、これは仏教にかぎらず、宗教に関係なく、誰にとっても、共通の課題ではないでしょうか。 それは、命(いのち)よりも大事なものがあるのだと知ることでしょう。命(いのち)よりも大事なものは、命(いのち)がなければ知ることはできないのでしょうが、命(いのち)が一番大事という生き方をすれば、人はいつかは死ぬのですから、苦しみが生れるだけです。 命(いのち)よりも大事なものとは、生きるに値する自分の真の価値以外ありません。これを知ることこそが、生きるということでしょう。わたしたちは、自分を知らずに生きているのです。 生きるとは、生き長らえることではなく、この世に生きて、命(いのち)よりも大事なものを知ることです。私たちが人生に苦しむのは、命(いのち)を間違って使い、自分を知らずに生きているからではなかろうかと思うのです。
(上記経典の日本語はすべて中村元訳です)
|