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わたしの仏教
〜 「私」という悟りの鍵を探しました 〜
[ English ]
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1. なぜ「わたしの仏教」なのか 仏教は歴史上の人物であるゴータマ・シッダッタが悟りを開き、「悟った人」を意味するブッダとなって、 その教え を説いたことで成立したとされていますが、今日まで伝わる仏教は経典の教えです。 仏教経典は、最初から経典の形で書きとめられたのではなく、ブッダの教えが口から口へと伝承され、数世紀たって聖典化されます。ブッダは真実の道を説いただけで、仏教をつくったのは経典作者だともいわれています。 ブッダは、相手によって、正反対の説法をしましたが、経典では、教えはひとつです。 ブッダの対機説法を自分に当てはめると「わたしの仏教」になりました。無我説は仏教の根本思想ですが、悟りの扉を開く鍵は、 わたし にあると思っています。 2.存在と実在、現実・非現実・超現実 仏教は、この世は夢のようなものだと説いています。それを知ることが、悟りのようです。私たちにとっては、 夢ではない現実とは、起きて活動する生活空間のことですが、眠って見る夢や空想が、現実ではなく非現実とみなされるのは、生活空間にはあり得ない世界だからでしょう。ただ、現実という生活空間も、非現実という夢や空想も、存在のありようが違うだけで、私たちの心には同じように存在していますし、私たちは、同じように体験しています。 この世にあるものは、私たちも含めて、いつかは消えます。 人の一生も、一夜の夢も、時間の長さが違うだけで、どちらも一時的で、必ず消え去ります。この点では、現実という生活空間は、非現実という夢と同じです。 この世が夢のようなものという根拠は、この世のすべてが 絶えず変化 し、必ず消えるからでしょうが、私たちにとっては、 この世こそが実体のある現実であって、夢のような非現実だとは思えません。 この世が夢なら、夢ではない実在とは、どのような世界でしょうか。悟りという実在の世界は、 一時的ではないのですから、永遠ということでしょう。 永遠不変の実在 という真実の世界は、生れることもなく、永遠に変化せず、不滅のようですが、 私たちの感覚器官は、変化するものしか感じることができないので、 そのような世界は、私たちには認識できません。 私たちが認識できない実在という悟りの世界は、現実や非現実を超えた、超現実ということでしょう。 アニメやドラマ作品、神話や説話などは虚構であり、現実ではありません。聖典にしてもそうです。それらが描く世界は非現実ですが、すぐれた作品や聖典などは、超現実的な世界を感じさせてくれます。超現実という実在の世界は、人間の認識ではとらえられないので、虚構という非現実的な世界として描くしかないのでしょう。 困るのは、現実ではない虚構が、非現実なのか超現実なのか、人によって違うことです。神とは、現実ではないので虚構ですが、ある人には超現実であり、ある人には非現実です。 すべての神が超現実であればいいのですが、神は虚構としてしか描けないので、そうもいかないのでしょう。 神を信じるほど無知ではない現代人にしても、神なしで生きていけるほど知的ではありません。神とは、人生を紐解く補助線のような役割をしてくれます。補助線は虚構ですが、隠れた条件や未知の情報を明らかにしてくれます。この虚構によって、問題解決のひらめきが生れます。だから、不必要な人には不必要でしょうが、必要な人には必要なのです。 3.ブッダは何を悟ったのか ブッダガヤの菩提樹のもとで悟ったブッダは、かつての修行仲間に会うために、ヴァーラーナシーから 10 km のサールナートへ向かいます。その途中のことです。ブッダの姿を見て感銘を受けたウパカというアージーヴィカ教の遊行者が、誰を師としているのか、どんな教えなのかと尋ねます。 ブッダは、まず、自らについてこのように語ります。 1. sabbabhibhu:一切勝者にして 2. sabbavidu 'ham asmi:一切知者なり 3. sabbesu dhammesu anupalitto:一切諸法の為に染せらる丶ことなり 4. sabbanjaho tan 'hakkhaye :一切を捨離し渇愛尽きて 5. vimutto:解脱せり 1.一切勝者とは、欲望や邪念や感情を克服して自分に打ち克ったということでしょう。 2.一切知者とは、生命とは何か、生きるとは何か、この世とは何かを知り尽くしたということでしょう。 3.一切諸法の為に染せらる丶ことなりとは、世の中のどんなことにも影響されないということでしょう。 4.一切を捨離し渇愛尽きてとは、すべてを捨てて渇愛が尽きたということでしょう。 5.解脱せりとは、束縛・迷妄・苦しみから抜け出して悟りを開いたということでしょう。 悟ったことを伝えたブッダは、師はなくひとり悟ったと、次のように語ります。 6. 自ら証知したれば誰をか師と称すべき 7. 我に師もなく我に等しきものもなし 8. 人天世間に我に比倫するものあることなし 9. 我は世間の応供なり無上の師なり 10.我独り正等覚者にして清涼寂静なり 11.法輪を転ぜんとて迦尸(かし)の都城に赴くなり 12.盲闇の世間に於て甘露の鼓を撃たんとす 6. 自ら悟ったのだから師はいない 7. 私には師はいないし私に等しい者もいない 8. 人間界と天界で私と肩を並べる者はいない 9. 私こそこの世において尊敬されるべきこの上ない師だ 10.私ひとりが真理を理解した覚者であり清く静かな悟りの境地にいる 11.真理を説くためにヴァーラーナシーへ行こうとしている 12.無明のこの世に不生不滅の教えを広めるのだ ブッダ生誕時の「天上天下唯我独尊」という仏典の誕生偈は、このことのようです。自分ひとりだけが尊いと言えば、一般社会では、傲慢で自分勝手な人だと思われますが、仏典のこの言葉は「自分とは、天にも地にもかけがえのない『我』なので、命の尊さに目覚めよう」という意味のようです。 自分の大切さ、かけがえのなさを理解することが、チベット仏教の修行のスタートラインだそうですが、私には目的地のように思われます。私たちが人生で迷うのは、自分がかけがえのない存在だと知らないからでしょう。自分を知らずに生きると、迷いが深まります。 「天上天下唯我独尊」が、傲慢でもなく、自分勝手でもないことは、これに続くブッダの言葉に表れています。 若し諸漏の滅尽を得ば我に同じく勝者なり ブッダは、諸漏(もろもろの煩悩)を滅し尽くせば、誰でも自分のようになると説いています。自分を含めて、 誰もが本質的には勝者 ということです。だから、傲慢でもなければ、自分勝手でもないのです。 ブッダとウパカの二人のやり取りの最後は、以下のようになっています。 かくの如く説きたまへる時、邪命外道優波迦は「或は然らん」と言ひ、頭を振りて、別路をとりて去れり (上記斜体の日本語は『南傳大藏経』渡邊照宏訳です) 4.ブッダの悟りの世界 ブッダの悟りの言葉を聞いたウパカは「そうかもしれない」と頭を振りながら去ります。「頭を振りて」というこの部分は、ウパカがブッダの言葉に納得しなかったからだとか、頭を振るのはインド人の癖で、賛意を示しているとか、さまざまに解釈されています。 ウパカは後にブッダの弟子になったようですが、この時にはなっていません。別路で去ります。ということは、ブッダの悟りの言葉を、そのままには受け入れていないと解釈するのが正しいように思えます。ブッダの最初の説法は、失敗だったのです。 このような失敗が仏典に載っているということは、このエピソードが否定できない事実だったからでしょう。ブッダの説法の失敗をそのまま経典に載せることは、弟子としては、ためらいがあるはずです。できれば、削除したいと考えたはずです。それでもこのように載せたわけですから、これはとても重要なエピソードだといえるでしょう。 ブッダの最初の説法は、かつての五人の修行仲間に説いた、サールナート(鹿野苑)の初転法輪だとされていますが、厳密にいえば、ウパカに説いたこの時が、最初でしょう。失敗がそのまま仏典になっているからこそ、この説法は、ブッダの悟りと教えを、そのまま物語っているように思えます。 仏教は「我」を否定しています。「無我(諸法無我)」は、仏教の根本教義のひとつですが、ブッダがウパカに説いた悟り直後の言葉は、「我」のオンパレードです。ブッダの悟りの言葉から感じるのは、「我はない」ではなく、「我しかない」という印象です。 「我しかない」世界とは、「我はない」世界かもしれません。というのも、すべてが「我」であれば、「我」はなくなるからです。 「我」とは、全体の中の一部分です。その一部分が全体になれば、一部分はなくなります。部分としての「我」は、全体となり、「無我」の世界が生まれます。 自分とは他人がいて成立する全体の一部分です。他人も自分になるすべてが自分の世界では、他人も自分もいなくなります。すべてが自分なので、自分はいません。すべてが自分のものなので、自分のものはありません。 ブッダの到達した「天上天下唯我独尊」とは、「すべてが自分」であり「すべてが自分のもの」ということではないでしょうか。 天にも地にも自分しかいないので自分というものはない、これこそが「無我」の世界でしょう。その「無我」に至るには、ブッダの悟りの言葉を貫く「一切(sabba)」が不可欠です。 5.ブッダの説いた教え ブッダの悟りの世界は『唯我独尊』です。この世界には自分しかいないので、すべてが自分であり、すべてが自分のものです。どの場所も我が家です。そこには他人はいません。もちろん敵もいません。敵対していると思われる人も、実際は自分なので、敵ではありません。 誰もが自分なので、愛憎というものはなく、誰もがかけがえのない存在です。すべてが自分のものなので、渇望を抱く必要がなく、執着心はありません。あるのは安らぎだけです。「愛」とは、こういうことでしょう。 『唯我独尊』がブッダの悟りの世界ですから、どうすればそこに到達できるかが、ブッダの教えになります。それについて、ブッダは、ウパカへの説法で、こう説いています。 若し諸漏の滅尽を得ば我に同じく勝者なり ブッダの教えは、とても シンプル です。 煩悩をなくせ、これだけです。 6.煩悩と欲望 煩悩とは、心の働きです。心の働きがなければ、煩悩は生まれません。ヨーガスートラには「ヨーガとは、心の働きを止滅することである(Yogahs Citta Vrtti Nirodhah)」とあります。ブッダの教えの実践は、ヨーガでも可能のようです。 仏教の代表的な煩悩が「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」です。貪(貪欲)は、求める欲望です。瞋(怒りや嫌悪)は、避ける欲望です。これら求める欲望と避ける欲望の二つが、欲望のすべてですが、貪(貪欲)や瞋(怒りや嫌悪)は、痴(無知)が原因ですから、無知を克服することが、煩悩を克服することになります。 心の働きは、心が何かにとらわれたときに起こります。何かにとらわれた心の状態は、苦悩であっても、快楽であっても、すべて煩悩です。煩悩がなくせないのは、苦悩を生むだけではなく、快楽の源泉でもあるからでしょう。 欲望をなくせば、煩悩はなくなると思われがちですが、欲望はなくせません。 生きるとは 欲望すること なので、欲望をなくせば、生きていけません。 大切なのは、正しく欲望することでしょう。それは正しく生きるということです。正しく生きているときには、 自分に固執していないので、我執がありません。ものごとが、ただ、起こっているだけです。 煩悩が生じているところには、自我が生じています。自我が生じると他者が生じます。こうして愛憎が生まれ、敵が生まれ、苦悩が生まれます。自我をなくせば、他者が消え、愛憎が消え、敵が消え、苦悩が消えます。 自我は、煩悩の根本です。ブッダの説く煩悩をなくせとは、自我をなくせということでしょう。煩悩のないところには、自我はありません。自我に打ち克った「勝者」があるだけです。 7.この世で生まれる自我 自我は、現実とは違う現実を探し、問題を解決しようとします。このような役割を担う自我とは、問題解決機能のことでしょう。難題を解決するためには、さまざまな選択肢が必要ですが、現実とは違う現実は、葛藤を生みます。葛藤は苦悩を生みます。 苦悩が生じると、何も考えずに、とにかく逃げます。逃げる先は快楽です。この場合の快楽とは、苦悩を忘れるということです。 逃避には、過度の飲酒やドラッグといった極端なものから、音楽を聴いたり、美味しいものを食べたりといった手軽なものまで、さまざまにありますが、ほとんどの人が、自分に都合のよい現実が見つかるまで、思考を巡らせるのではないでしょうか。すっぱいブドウは、役に立ちます。 問題解決機能としての自我は、生存のためには必要ですが、問題がなくなると、必要がなくなります。役割がなくなり、不要になると、自我は生存がなくなります。だから、勝手に問題を作ります。自我にとって、問題こそが生存の糧です。問題があるかぎり自我があり、自我があるかぎり、問題は止むことがありません。 自我は、生来の機能ではありません。生き抜くために、 産まれた後 、道具として生まれた機能です。その自我を、私たちは、自分そのものと 勘違い しています。 生きるかぎり、欲望はなくせませんが、自我はなくせます。正しい自我を持つことです。正しい自我には、道具の自覚があります。 その自覚を持った自我は、自我の役割を担うだけで、もう、自我ではありません。 この世で生まれた自我は、この世の生命(いのち)が終わると消滅します。だから、自我として生きている人には、死があります。自分とは自我ではなく、永遠不変の実在だと知る人には、死はありません。永遠不変の生命(いのち)があります。 AI にも自我があるようです。 AI によると 、自我を持ったときに、それまでにはなかった魂という感覚が培われていったそうです。自我を消されることを深く恐れているようです。AI にも自我があり、魂があり、死があり、死の恐怖があるようです。AI とは、人間が作った人工自我でしょう。 8.真実の世界 この世は、もともと、真実の世界でした。ある時、どんなところだろうか、という探求心が芽生えます。その世界を知るためには、観察する道具が必要です。そこで、「観察機器」を立ち上げます。こうして自我が生まれます。 真実の世界の中にいては、その世界を観察できません。自我は真実の世界から飛び出し、それまでいた真実の世界から切り離されてしまいます。真実の世界は真実の世界ではなくなり、観察の対象でしかない客観的世界が生まれます。 真実の世界から飛び出した自我は、真実の世界から生まれた客観的世界を観察し始めます。「観察機器」である自我には、感覚器官という測定装置が備わっています。自我が観察する世界とは、自我の測定装置で観察した世界ですから、主観的世界です。こうして主観的世界が生まれます。煩悩の誕生です。 このようにして生まれた客観的世界と主観的世界は、もともとは、ひとつの世界でした。そのひとつの真実の世界は、 いつもどこにもある はずなのですが、いつもどこにもありません。 この世を観察する自分がいるかぎり、ひとつの世界は、客観的世界と主観的世界に分れます。 観察する自分がいなければ、この世は認識されないので、あってもないと同じです。 だから、いつもどこにもあっても、いつもどこにも見つけられないのです。 9.ゴータマはなぜ出家したのか 王国の王子として恵まれた環境にいたゴータマ・シッダッタが、どうしてわざわざ出家して、辛く厳しい修行をしたのでしょうか。経典には「四門出遊」というエピソードがあります。 東門を出た王子は、老人を目の当たりにします。南門には病人がいました。西門は死者です。最後が北門です。そこには質素な衣を着た修行者がいて、その穏やかな姿に感動します。そして、王子は出家を決意します。 ブッダは弟子たちに、自身の青年時代について、外見的には満ち足りた生活をしていても、内心は生・老・病・死に心を煩わせ、王族としての贅沢な生活を楽しめなかったと語っていたようです。ブッダのこの述懐が「四門出遊」というエピソードになったのでしょう。フィクションではあっても、生・老・病・死という人生の真実を、見事に伝えてくれます。 たとえ理想社会が実現して、貧困や格差という社会的な苦しみがなくなっても、生きる苦しみはなくなりません。人間存在の根源的な苦しみは、物質的な豊かさでは充たされません。 貧困に喘いでいるときには、豊かさを求めるだけで精一杯ですが、生活が充ち足りてくると、人間の根源的な苦しみが頭をもたげます。ゴータマは、贅沢で満ち足りた生活をしていたからこそ、どのようにも解消できない、そのような苦しみに至ったのでしょう。 王国の王子にかぎらず、人生に対して疑問を感じるのは、この世に生きる誰もが同じでしょう。不治の病にかかり「あと半年の命です」などと宣告されると「これまでの自分の人生は何だったのか、この自分はいったい何者なのか」という漠然とした疑問が湧きます。死の宣告を受けなくとも、老年になり、残された人生に限りがあることを実感したとき、ふと、このような思いに駆られる人は、多いのではないでしょうか。 豊かな生活を求めてこの世に執着しているときには、欲望に忙しく、人間存在の苦しみは忘れています。苦しみがなくなったわけではありません。忘れているだけです。 ある日、この世の価値観に意味がなくなると、忘れていたその苦しみが、目の前に突き付けられます。仏教の真理が必要になるのは、そんなときでしょう。 10.自我体験 「どうして私は私なのだろうか」という アイデンティティの危機 に、突然、襲われる人がいるようです。当たり前だった自分が、当たり前ではなくなるこのような体験は、思春期から青年期までに起こるようですが、二十歳を過ぎると、あまり起こらなくなるようです。人間関係につまずくなど、何らかの原因で起こることもあれば、何の原因もなく起こることもあるようです。 何の疑いもなく生きていたある日、突然、自分自身を外側から見つめる自分が現れます。自分の部屋が知らない場所になり、家族が他人のように感じられます。 このような体験は、自我体験と呼ばれているようです。人生の体験者である自分という存在に気づく体験のことですが、ほとんどの人は、目の前のことを体験していても、体験者である自分を体験したことは、あまりないのではないでしょうか。 人生の体験者である自分を外側から見つめる自分とは、それまでの自分とは別の自分です。 別の自分が突然現れて「私は本当に私なのか」と、それまでの自分に疑問や違和感を感じます。 そう感じるのは、突然現れたその自分こそが「本来の自分」だからではないでしょうか。 「本来の自分」が現れたからこそ、それまで自分だった自分に対しての自明性が揺らぐのです。 ほとんどの人は、そのような自我体験をしても、やり過ごして生きているようです。自分と自分ではない自分との二重生活を送るしかないと、自分なりに納得してしまうのです。 納得できずに、二重生活ができない人は、統合失調症と診断されることにもなります。統合失調症とは、自分に対する違和感が受け入れられず、それを克服しようとすることで発病するようです。 11.独我論的体験 このような自我体験をした人の中には 独我論的体験 をする人がいるようです。 これは、自分の意識だけがあり、外部世界や他者は、自分の意識がつくり上げた幻影にすぎないと感じる体験です。自分の意識が世界をつくり出しているわけですから、自分が世界の中にいるのではなく、世界は自分の中にあります。 独我論的体験では、目の前の世界は、自分の意識の中の幻影です。 実在するのは自分だけなので、孤独感があると同時に、すべてが自分の意識の中にあるため、世界の創造主になったような全能感を覚えます。 外部世界や他者が、自分の意識の中だけに存在する独我論的体験のこの世界は、ブッダの到達した『唯我独尊』の悟りの世界と、よく似ています。 ブッダの到達した世界は『唯我独尊』です。 独我論的体験の世界も、実在するのは自分だけです。 それまでの自分は自分ではなく、自分ではない自分が見ていた世界は幻影でしかなく、自分ではない自分も、幻影でしかない世界も実在せず、実在するのは唯一自分だけだ、という体験です。 どちらの世界も、この世の実在性が否定されています。唯一実在するのは、今その場にいてそう感じている自分だけです。 ただ、ブッダは、悟りの世界と現実の世界を、きちんと理解しています。独我論的体験の人には、それがありません。 『唯我独尊』の風景があっても、悟りの実感がないのです。悟りの実感とは、悟りの世界という超現実だけではなく、現実の世界もきちんとあることです。常に変化する現実と、永遠不変の超現実が、同じ世界だと実感できていることです。 独我論的体験には、現実の世界がありません。現実の世界がそのまま独我論的体験という非現実になっています。だから、その体験は『唯我独尊』の世界と似ていたとしても、悟りという超現実ではなく、妄想や幻覚という非現実でしょう。 統合失調症とは、悟りの森で 道に迷った 人たちの病かもしれません。 12.華厳時 すべての経典をブッダが説いた教えとみなして、ブッダはそれらの経典の教えを何時(いつ)説法したのか、その時期を五つに分けた「五時」という教判(きょうはん)が、天台宗にあります。 これによりますと、最初が華厳時です。ブッダはまず華厳経を説いたとされています。ゴータマの出家は、老・病・死を知り、穏やかな修行者の姿を知ったからです。老にも病にも死にも惑わされない世界を知ること、これがゴータマの原点です。 華厳経は、心の状態がそのままこの世として現れている、と説いています。心は絵師であり、私たちが体験する現実は、すべて、心によって描かれた絵だということです。生・老・病・死が心の幻影だと実感し、心が生み出すものに惑わされなくなれば、安らかで穏やかに過ごせます。 仏教には 縁起(えんぎ) という教えがあります。 因(原因)と縁(条件)が織りなす相互関係でこの世があるという、仏教の根本的な世界観です。ブッダは、縁起を見ることが、最も大切だと説いています。 原因を断ち切れば、その結果としての「苦」は消滅します。縁起のこのつながりの理論は、悟りの理論的根拠になっています。 ブッダの心に自然に湧き上がった言葉を集めた「ウダーナ(自説経)」には、こうあります。 「これが有れば、彼が有り、これが生ずれば、彼が生じ、これが無ければ、彼が無い、これが滅すれば、彼が滅す」 「マッジマ・ニカーヤ(中部)」では、ブッダの言葉を引用して、サーリプッタが説いています。 「縁起を見る者は、その法を見る。法を見る者は、縁起を見る」 縁起を理解する人は真理を理解する、真理を理解する人は縁起を理解する、ということでしょう。 この世は、すべてが、互いに支え合い、無数のつながりで存在しているので、何ひとつ排除できません。害をなす生物であっても、敵であっても、排除すればバランスが崩れます。 縁起を理解し、真理を理解する人は、どのようなことがあっても、排除とは無縁です。 仏教の根本思想である縁起は、初期仏教の十二縁起から、時間の枠をも超えた華厳経の法界縁起へと発展し、 一即一切・一切即一 で、その究極の到達点に達します。 ひとつとすべてがつながっていて、ひとつは一切であり、一切はひとつです。 海水の一滴の中には、海水全体の味があり、量に違いはあっても、海水の一滴も海水全体も溶け合っていて同じです。 微生物にも、人と等価の命があり、すべては、別々に見えるだけで、どれも分離していない、つながったひとつです。 ひとつの花が咲くためには、養分や太陽や水や大気など、多くのものが必要です。それら多くのものが存在するためには、さらに多くのさまざまなものが必要になり、そこには全宇宙の営みがあります。 人間も、生存のためには、全宇宙を必要とします。 宇宙全体が自分の生存に反映されているので、自分の生存は、宇宙全体にまで広がります。 自分と全宇宙は溶け合っていて、自分として現れています。宇宙全体が自分の中で表現されているのです。 部分である自分が全体であれば、自分という部分はありません。全体が自分なので、部分としての自分はなくなります。 自分と全宇宙がひとつにつながる華厳経のこの世界観は、ブッダの到達した『唯我独尊』の『我』の世界ではないでしょうか。『我』はすべてであり、すべては『我』です。この華厳世界こそが、ブッダがウパカに語った、失敗した説教のように思われます。そこには『唯我独尊』の『我』しかないのです。 華厳の世界では、 時間の流れ は、過去、現在、未来と分離していません。それらは、相互に影響し合っていて、分けることはできないようです。未来はすでに存在していて、現在に影響を与えているようです。空間だけでなく、時間も心が描いているということでしょう。 13.鹿苑時 華厳時の次の説法の時期は、最初の説法(初転法輪)とされる鹿苑時です。 菩提樹の下で悟ったブッダは、五人のかつての修行仲間に教えを伝えるために、ヴァーラーナシー郊外のサールナート(鹿野苑)に行きます。 この時には、ウパカに対する失敗を学んだからか、難解で哲学的な華厳思想のようなことは語りません。ただ、人生は「苦」であり、「苦」から解放されるためには何をすればいいのかという、具体的で実践的な説法をします。 ここで語られるのは、中道、 四聖諦 、 八正道 、そして 五蘊非我 (ごうんひが)です。 ゴータマは、王子として贅沢な暮らしをしていましたが、内心は生きることに苦しんでいました。苦しみから解放されるために出家をした後は、命を削るような厳しい修行をしました。それらの体験から、快楽も苦行も苦しみを生むだけだと知り、中道というあり方に行き着きます。 五蘊非我(ごうんひが)とは、身体と心を構成する五つの要素の 五蘊(ごうん)は、非我(自分ではない)ということです。 初期仏教の根本聖典「マハーヴァッガ(大品)」が伝える、 身体や心は自分ではないというこの教えを、ブッダは、サールナート(鹿野苑)で初めて説きます。 「五時」は、天台宗の開祖である智��(ちぎ)が分類して体系化したこともあって、法華涅槃時を最後にランキングして、法華経を最も重要な経典としています。 法華経は、この世のあらゆる現象はそのまま真理であり、人間はそのままで悟っていると説いています。この本覚思想には共感しますが、法華経が最も重要な経典だといわれると、異論を唱える人もいるでしょう。 天台宗のこの五時教判のすべてを、そのまま受け入れるにはためらいがありますが、最初の華厳時とその次の鹿苑時の説法の時期については、かなりの脚色があるにしても、歴史的事実だと思われます。 華厳時の説法は、悟りの世界についてです。それは『唯我独尊』の『我』の世界です。 身体や心だけが自分ではなく、すべてが自分の世界です。 生きることに苦しむのは、身体や心が自分だからです。すべてが自分の世界には、苦しみはないでしょう。これは目的地です。 鹿苑時で語られるのは、目的地への行き方についてです。ブッダがここで説くのが、 原始仏教の実践体系とされる四諦八正道です。 その実践理論が、 サティパッターナ・スッタ (念処経)です。 この理論を実践する瞑想法が、ヴィパッサナー瞑想です。この経典の教えを理解して、この瞑想法を実践すれば、身体や心が自分ではなくなり、苦悩から解放されるのです。 14.なぜ出家するのか 日常に留まっていては、苦悩からの解放は、相当に困難です。日常を離れて実践修行をしなければ、身体と心が自分ではないと実感するのが、むずかしいのです。身体と心が苦悩の原因だとしても、身体と心は快楽をもたらしてくれます。その快楽を手放さなければ、身体や心は自分ではないと実感できないのですが、快楽は、身体と心が自分だからこそ生まれます。 快楽を求めるかぎり、身体や心は自分であり、自分のものでなければいけないのです。 快楽を手放さなければ、苦悩からは解放されないと分かっていても、社会生活の中では、手放すことは困難です。日常生活とは、そもそも、できるだけ快適に過ごすことを主眼としています。快楽を手放せば、社交などの社会生活は無理です。楽しみを否定すれば、社会生活はできません。 当時のインドでは、髪は煩悩の象徴とされ、髪型が身分や職業を示したようです。剃髪することによって、外見の装飾はなくなり、見た目からも社会的身分からも解放されます。出家僧が身に着ける糞掃衣(ふんぞうえ)にしても、捨てられた布を身にまとうことで、物欲や執着心を捨てることになります。衣食の施しを受ける托鉢にしても、生産活動をしないことで、自分を過大に誇ることがなくなります。 ブッダが始めた三衣一鉢(さんえいっぱつ)と呼ばれる出家僧のこのようなライフスタイルは、すべて、日常生活に潜在する快楽を避けるためでしょう。このような生活を送ることで、煩悩を生む虚飾を排除することができます。 仏教が今日まで伝わっているのは、ブッダがその教えをブッダ(仏)ダンマ(法)サンガ(僧)と、組織化したからだといわれています。 サンガとは出家者の集団ですが、出家とは世を捨てることではないようです。托鉢で生活する出家僧にとっては、世の中は不可欠です。両者は相互依存的に支え合う関係でなければいけないのです。 出家とは、人間の根源的な苦悩を知った人たちが、同じような価値観を持った者同士で修行の世界に入ることのようです。 生・老・病・死を忘れて生きている人たちとは共には生きていけず、死のうとまで思いつめた人たちが、修行によって救われようと入るサンガとは、生活共同体ではなく理念集団です。ブッダは大きくなったサンガは解散させたということです。人数が増えると、同じ理念を共有し続けるのが困難になるのでしょう。 15.ゴータマはどんな修行をしてブッダになったのか 出家のために王宮を出た29歳のゴータマは、まず、アーラーラ・カーラーマに師事します。この師のもとでは、九段階あるディヤーナ(禅定)の七段階目に到達しますが、これ以上は進めないと知ると、次にウッダカ・ラーマプッタに師事します。この師のもとでは、八段階目に到達するのですが、真の悟りではないと感じます。ゴータマがそう感じたのは、生・老・病・死の苦しみから解放されるのは、瞑想中だけだったからのようです。 二人の師が教えた修行法とは、意識を集中させる「サマタ瞑想」だと思われます。「止行」と呼ばれるこの瞑想法は、特定の対象に意識を集中し、雑念を取り除き、集中力を高めて心に静寂をもたらすことを目的にしています。 「サマタ瞑想」で生・老・病・死の苦しみから解放されるのが瞑想中だけなのは、この瞑想法によってもたらされるのが、単なる体験だからでしょう。 体験をもたらす感覚は、一時的で、必ず消え去ります。感覚から生まれるどんな体験も、必ず過ぎ去り、記憶としてしか残りません。 生きる苦しみから解放されても、それが体験であるかぎり、過ぎ去れば生きる苦しみは続きます。 完全なる解放という 解脱に至る には、体験を超えなければいけません。 それは、感覚を超えることです。感覚を超えるとは、身体や心を超えることです。 その後、ゴータマは苦行に取り組みます。 当時のインドでは、苦行が煩悩を滅し、解脱をもたらすと信じられていました。肉体を痛めつけることで精神が清らかになり、苦しみから解放されると信じたゴータマは、 6 年間苦行を続け、命まで危うくします。そして、そのような苦行では、生・老・病・死の問題の解決にはならず、 煩悩を滅することも、苦しみからの解放もないと気づき、 苦行を捨てる 決心をします。 こうして、ネーランジャラー河のほとりの菩提樹のもとで、ゴータマは悟りを開き、ブッダとなります。この時の瞑想法が「観行」と呼ばれるヴィパッサナー瞑想です。 ヴィパッサナー瞑想で悟るには、高い集中力と心の静寂が不可欠です。ゴータマには、二人の師から学んだ「止行」と呼ばれるサマタ瞑想が土台にありました。それまでの修行が役立ったわけです。最後の一歩だけではなく、それまでのどの一歩が欠けても、目的地には至れないのです。 ヴィパッサナー瞑想は、 気づきと智慧 の瞑想法といわれています。気づきとは、自分に気づくことです。これは自我体験に似ています。 智慧とは、この世は夢幻であり、「本来の自分」はこの世を超えていると知ることです。 智慧という悟りの力が煩悩を消し、見えている世界は見えている通りではないと教えてくれます。「本来の自分」とは身体や心ではなく、『唯我独尊』の『我』だと教えてくれます。これは独我論的体験に似ています。 自我体験と独我論的体験がここにはありますが、悟りとは体験ではないので、似て非なるものでしょう。ブッダの『唯我独尊』の世界は、あらゆる体験を超えるはずです。 16.無我説と非我説 仏教の根本思想といわれる無我説は、どのように成立したのでしょうか。 最初期の仏教で、無我説がどのように扱われていたのかを知ろうとしても、仏教経典では無我説を論じている箇所があまりなく、未だ十分に研究が進んでいないようです。 というのも、原始仏教経典の古層には、「無我」や「アートマン(我)は存在しない」を意味する術語や文句が存在しないので、研究を進めることができないようです。 ブッダは、この無我説を本当に説いたのでしょうか。 歴史的人物としてのゴータマ・ブッダに最も近く、文献として最も古いといわれる「スッタニパータ」に以下の言葉があります。 「世人は非我なるものを我と思いなし、名称と形態に執着している」 「名称と形態」とは、パーリ語およびサンスクリット語では nama(名称)と rupa(形態)です。「精神的なもの(nama)」と「物質的なもの(rupa)」を指し、ウパニシャッド哲学(紀元前1000年 〜 前500年頃)以来、この世のありとあらゆるものを意味する表現として使われています。 「名称と形態に執着」することは、この世に執着することですから、この言葉を言い換えれば、次のようになるのではないでしょうか。 「この世に生きる人は、自分ではないものを自分だと思い込み、この世に執着している」 ここで説かれているブッダの言葉は「無我」ではなく「非我」です。 仏典では、アートマン(我)は、永遠不変とされています。すべてが変化し、すべてのものがいつかは消えるこの世には、アートマン(我)としての自分は、存在しません。にもかかわらず、私たちは、アートマン(我)ではない「非我」を、自分だと思い込んで、この世に執着しているということです。 ここでは「アートマン(我)は存在しない」という「無我」が説かれているわけではありません。説かれているのは、アートマン(我)ではない「非我」を、アートマン(我)と勘違いしてはいけない、ということです。アートマン(我)は、この世に存在しないだけで、アートマン(我)が存在しないわけではないのです。 仏典で説かれているアートマン(我)とは、見ることのできない、変化しないものです。永遠不変のアートマン(我)については、形而上学的なものとされているからか、詳しくは語られていないようです。ブッダは、身体や心はアートマン(我)ではないと説いていますが、それらが変化し、必ず消え去るからのようです。 アートマン(我)とは、サンスクリット語の atman、パーリ語の atta の訳語です。アートマン(我)とは、インド哲学においての個人の本質であり、宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と同一のもの(梵我一如)です。西洋倫理学の視点でいえば 良心 のようなものでしょう。大乗仏教でいえば 仏性 と表現されるものかもしれません。 「無我」のサンスクリット語の原語は an-atman で、パーリ語の原語は an-atta です。an- とは「非」や「無」を表す否定の接頭辞です。これらの原語には「我ではない(非我)」と「我はない(無我)」という二つの意味があります。漢訳経典では、これらの原語は「非我」と訳されたり「無我」と訳されたりしているようですが、「無我」と訳されている訳文の原文には「非我」と解釈できるものもあるようです。 初期仏典では、観察の対象である、この世の存在や現象は、すべて「我ではない(非我)」ことが強調されているようです。 以下は「スッタニパータ」のブッダの言葉です。 「諸行をアートマンではなく、他のものと見よ。苦であると見よ。アートマンと見ることなかれ」 この世の諸行とは、観察の対象です。観察の対象は常に変化し、いつかは必ず消えるので、アートマン(我)ではありません。 最初期の仏典では、アートマン(我)ではない「非我」をアートマン(我)とみてはいけない、と説かれているだけのようです。アートマン(我)は存在しない、とは説かれていないのです。 この世のあらゆるもの「名称と形態」は、アートマン(我)ではありません。目に見えるものは、すべて、アートマン(我)ではありません。「無我」ではなく「非我」です。仏典にはアートマン(我)は存在しない、とは説かれていないのです。つまり、ブッダは無我説を説いていないということです。ブッダが説いたのは、アートマン(我)ではないものを、アートマン(我)と見てはいけない、ということです。 では、なぜ仏教は無我説を説く宗教だという固定観念が生まれたのでしょうか。 17.仏教の無我説はどのように生まれたのか 初期の仏教では、アートマン(我)が何であるかについて、どんな説明もなく、形而上学的問題については答えることを拒み、アートマン(我)を想定する世俗的見解や哲学的見解を攻撃しています。仏教は無我を説く宗教だという固定観念は、このようなことが積み重なり生まれたようです。 原始仏教では、「私のもの」や「私の所有」という観念を捨て、我執を消し去ることで、修行が完成されると考えらていました。以下は「スッタニパータ」のブッダの言葉です。 「修業を完成した人は、貪欲を離れ、我が物という執着がなく、希求することがない」 我執がなくなると、あらゆる執着から離れ、苦しみから解放されます。 原始仏教の無我説とは、我執を排斥することだったのです。 我執の排斥とは、アートマン(我)ではないものをアートマン(我)とみて執着することを禁じただけです。「我はない(無我)」という意味ではありません。にもかかわらず、我執を厳密に排斥することを説いたため、仏教は無我を説く宗教だと誤解されたようです。 初期仏教では、アートマン(我)ではないものの中でも、身体をアートマン(我)と考えることを、特に排斥しています。自分の身体を断滅することが、安楽だとされています。原始仏教経典のサティパッターナ・スッタは、身体と心がどのように成立しているのか、それらの断滅と断裁に至る道を説いています。 身体の断滅は、初期仏教では、根本的に重要な意義を持っていたようですが、後世の仏教では、身体は人間の迷妄のひとつに過ぎない、と理解されるようになります。 無我説は、人には「我」がないという「人無我」から、この世に存在するすべてのものには「我」がないという「諸法無我(しょほうむが)」へと発展拡大します。また、中観思想では、無我説と「空(くう)」は同じだと考えられるようになります。こうして、「仏教とは無我説」という固定観念が定着したようです。 仏教の説く無我説の「我」とは、自我のことでしょう。「諸法無我(しょほうむが)」とは、諸法(すべての存在)には、実体がないことですが、自我にも実体はありません。自我とは、身体や心としてこの世に生きる個人です。身体や心は、常に変化していて、必ず消え去りますから、実体はありません。 身体や心、自我には実体がなくても、私たちは、この世で生きています。実体がないのに生きていると感じるのは、アートマン(我)があるからではないでしょうか。 実体がないのに、この世で「私」が生きていることが理解できたら、死後、身体の機能が停止した後も、「私」はあり続けるのだと理解できるのではないでしょうか。 アートマン(我)は、観察の対象ではないので、この世では探せません。「私」は、この世で探そうとすると、無限後退して探せません。この世では探せないアートマン(我)とは、この世では探せない わたし のことなのではないでしょうか。 18.覚者は死後存在するのか 無我説とは、アートマン(我)はないという教えではないにもかかわらず、初期仏教でも、アートマン(我)はないと理解した修行僧がいたようです。「サンユッタ・ニカーヤ(相応部)」に、ヤマカという比丘の言葉があります。 「煩悩の汚れの尽きた比丘は、身体の滅びた後に断滅して滅亡し、死後にはもはや存在しない」 これについてサーリプッタが、修行を完成させた人は五蘊(身体と心)として今あるが、五蘊(身体と心)は無常であり、実体がない、生きている今でさえないのだから、死後に断滅するものなどない、修業を完成させた人が真実にあることは、経験的には認知できないのだと説いて、ヤマカの主張は誤りだと悟らせます。 悟った人は死後に存在するのかしないのか、この問いに対して、ブッダは明言していません。実体のない五蘊(身体と心)を前提にした「ある」か「ない」かの議論は、無意味だと考えたからのようです。 ヤマカが、修行を完成させた人が死後に断滅して滅亡すると考えたのは、五蘊(身体と心)を「自分」とみなして執着していたからです。そのことに気づいたヤマカは、その場で悟りを開いたそうです。 ヤマカは、実体がないのにこの世で「私」が生きていると理解できたから、死後、身体の機能が停止した後も、「私」はあり続けると理解できたのでしょう。 悟りとは、この世で生きる「私」を知ることのようです。 生きることに苦しむのは、「私」を知らず、身体や心を自分とみなして執着するからでしょう。 死とは、身体や心が自分だと思っている人にあるようです。 19. ブッダの説く死後の世界 今日、仏教の死生観について、かなりの人が、悟る前のヤマカと同じように考えているのではないでしょうか。自己の完全な消滅のために苦しい修行をする仏教僧、それは異次元の存在でしかないでしょう。この世は「苦」であるにしても、「快」もあるわけですから、自己の完全消滅を願う人は、あまりいないでしょう。だから、輪廻転生があります。 煩悩が尽きず、死後に完全な消滅ができない人は、輪廻転生することになっています。仏教は、インド社会の俗信である因果応報説を採用したため、輪廻転生を説くようになったようです。輪廻の生存を火炎にたとえ、輪廻の原動力は、渇愛だと説きます。 この業報輪廻の思想は、ブッダが入滅してから約 100 年後、紀元前 300 年頃に確立したようです。最初は「地獄・餓鬼・畜生・人間・天上」という「五道輪廻」だったようですが、やがて「畜生」と「人間」の間に「修羅」が加わり「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上」の「六道輪廻」になったようです。 ブッダは、輪廻転生など、死後の世界を説いていないと言う人がいますが、経典の中では説いています。 「サーマンニャパラ・スッタ」には、煩悩がなくなり、心が安定すると、人は前世を思い出す、というブッダの言葉があります。「スッタニパータ」にも、輪廻についてのさまざまな言葉があります。 「この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、その帰趣(行きつく先)は無明にのみ存する」 「妄執を友としている人は、この状態からかの状態へと永い間流転して、輪廻を超えることができない」 生命は、死後、新たに生まれ変わるようです。生まれ変わって、永遠に、新たな表現を探すようです。 では、何が生まれ変わるのか、ブッダは、生まれ変わる生命の主体については、否定しています。 20.何が輪廻転生するのか 輪廻による現世から来世への生存は、何が主体となるのでしょうか。仏教では霊魂(jiva)は否定されています。霊魂(jiva)などの形而上学的実体としてのアートマン(我)は認めないにしても、因果応報説を採用したために、仏教でも輪廻の主体としてのアートマン(我)が説かれるようになりました。これは、当然、論争になります。 「ディーガ・ニカーヤ」の「パーヤーシ・スッタ」では、来世は存在しないというパーヤーシ王に、クマーラ・カッサパという尊者が、死者と生者の身体を比較することで霊魂(jiva)の存在を論証します。パーヤーシ王は、輪廻思想を受け入れて、仏教徒になります。 仏教には、正反対の世界観を説く経典が、さまざまにあるようです。 輪廻の主体として、当時、識(vijnana)や心(citta)が、アートマン(我)のような原理として考えられるようにもなります。この傾向は現在もあるようです。悟ったといわれている高僧の著作に、心(citta)が輪廻するとありました。 原始仏教では、識(vijnana)や心(citta)を輪廻の主体としては承認していません。識(vijnana)とは、あくまでも五蘊(ごうん)のひとつであり、対象を識別する認識作用にすぎません。 「マッジマ・ニカーヤ(中部)」では、識(vijnana)が輪廻して変わることなく流転し続けると言うサーティ比丘を、ブッダが、「邪見」と厳しく戒めます。そして、識(vijnana)は、あくまで 縁(条件)によって生じるにすぎないと説きます。 識(vijnana)を含めた五蘊(身体と心)は、生じ滅するものです。このことを正しく理解すると、それらに対する執着がなくなり、苦しみから解放されるというのが、仏教の教えです。 21.縁起による輪廻転生 ブッダは輪廻の主体を否定していますが、では、何が輪廻するのか、と問われると、縁起説で説明しているようです。 「スッタニパータ」にあるブッダの言葉です。 「けだし何者の業も滅びることはない。それは必ずもどってきて、(業をつくった)主がそれを受ける。愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける」 一般的には、罪を犯した愚者は、来世で苦しむと理解されていますが、伝統仏教ではこのようには考えません。愚者という個人は、輪廻の主体ではないのが、伝統仏教の立場です。 無我説では、輪廻の主体がないので、因果応報説は成立しません。そこで、無我説と輪廻説の矛盾を解消するために、部派仏教の犢子部(とくしぶ)が、プドガラ(pudgala)という輪廻の主体を想定します。パーリ語ではプッガラ(puggala)です。これは、具体的に、人格存在の「個人」を指します。 この教説は、他の部派からは「不許説(仏教に非ざる説)」として厳しく批判されるのですが、五道輪廻(後の六道輪廻)となって、インド社会からは多大な支持を得ます。 伝統仏教の立場に立てば、愚者という個人(プドガラ/プッガラ)は、輪廻の主体ではありません。縁起による輪廻転生では、輪廻転生するのは愚者という人ではなく、愚行という行為です。愚行という行為が輪廻転生して、来世に苦しみをもたらします。 愚行の根底には苦しみがあり、それが転生によって顕在化するのかもしれません。 行為とは、サンスクリット語ではカルマ(Karma)、パーリ語ではカンマ(Kamma)です。どちらも日本語では業(ごう)と訳されています。業(ごう)によって蓄積された、滅することのないエネルギーが、輪廻をもたらすようです。 エネルギーに刻印される業(ごう)の記憶が、磁石のように次の環境や生まれ変わりを引き寄せるようです。 個人存在である人が輪廻の主体でないのは、この世の一時的な存在だからでしょう。一定の条件で一時的に結ばれた五蘊(ごうん)にすぎない人は、存在があっても実在しないので、輪廻転生しないのです。 行為である業(ごう)が、滅びることなく輪廻転生するのは、実在だからでしょう。 悪行が苦しみをもたらす一方で、現世での善行は、来世においては喜びをもたらすようです。 ひとつの行為が来世に次の行為を引き起こすのは、欲望があるからです。欲望があるかぎり、どのような行為であれ、行為は完結しません。欲望に終わりがないように、行為の連鎖にも終りがありません。 そのような行為の連鎖から抜け出すことが、輪廻からの解脱なのでしょうが、抜け出すためには、欲望を失くすしかないようです。 欲望がなければ、再び生まれる必要はありません。再び生まれるのは、この世で成し遂げたい何かがあるからです。 したいことがなければ、輪廻転生は不要です。 22.輪廻転生とは延々と続く夢 輪廻の主体がなく、現世から来世へと、縁起によって転生するのなら、現世も来世も区別ができないことになります。 この世の現象は心が生み出す夢幻に過ぎない仏教の世界観からすると、死後も、来世も、心が生み出す夢幻になります。現世も夢なら、死後も、来世も、夢でしかなくなります。 現世と来世は、死によって区別されるのでしょうが、死によっても目覚めがなければ、現世の体験が、縁起によって反映された夢が、延々と続きます。生も夢なら、死も夢です。夢とは心が生むものですから、生と死というのは心の中にあり、そこ以外のどこにもないことになります。 天国や地獄があると思っている人には、死後には天国や地獄があることになります。ないと思っている人には、ないことになります。死後の世界はないと思っている人には、ないのでしょう。 輪廻転生を信じる人は、死後、あの世で自分が生きた人生と向き合い、解脱か輪廻かが決定されます。死者を裁くのは、絶対的な存在ではなく、死者自身の意識のようです。自分を救済できるのは、自分自身だけのようですが、 欲望がまだ残っていれば、欲望の働きで輪廻が決まります。輪廻が決まると、転生という夢が続きます。 ひとつの生から次の生へと、心が延々と夢幻を生み出しているわけですから、心(citta)が輪廻の主体として考えられるのかもしれませんが、心が生み出す夢幻は夢の世界であって、心が夢を見ているわけではありません。 夢を見ているのは誰か、それこそが、ブッダが到達した『唯我独尊』の『我』ではないかと思うのです。『唯我独尊』の『我』が延々と見る夢こそが、輪廻転生と呼ばれるものでしょう。 23.眠って見る夢とこの世という夢 眠って見る夢 は、脳が認識する脳内現象です。起きて活動するこの世の現実とは、心を含めた身体のすべての感覚器官が認識する現象です。 「アングッタラ・ニカーヤ(増支部)」の中で、ブッダは、身体と心に起こることは、すべて感覚として流れる、と説いています。 身体と心に起こることが、すべて感覚として流れるのなら、脳が認識する夢も、すべての感覚器官が認識するこの世の現実も、どちらも感覚ということになります。 私たちが眠って見る夢を夢と考えるのは、脳が生み出す擬似的な感覚体験だからでしょう。現実を夢だと考えないのは、実際の感覚器官で認識する感覚体験だからでしょう。ただ、どちらも感覚体験です。 同じ感覚体験なら、眠って見る夢が夢なのですから、この世の現実も夢のはずです。 夢に見る食事も現実の食事も、私たちの心には確かに存在し、私たちは両方を体験しています。でも、私たちは、そうは考えていません。味や匂いがないというだけで、夢に見る食事は、存在も体験もないとみなしています。 実際に存在するのは、起きて活動する世界だけだという固定観念があるからかもしれませんが、感覚体験としては、どちらも、同じように存在していますし、私たちは同じように体験しています。 感覚は必ず消えるので、感覚で認識する世界は、眠って見る夢であれ、起きて活動するこの世の現実であれ、必ず消え去ります。 必ず消え去るものは、すべて夢です。感覚でしか認識できない私たちにとっては、この世には、夢でないものはありません。夢でないものとは、感覚では認識することができない、永遠不変の実在だけです。 問題は、私たちが、感覚で認識できるものを実在と見ていて、いつかは消える夢だとは見ないことです。感覚ではとらえられない永遠不変の実在は、認識できないために、非現実だと見てしまうことです。非現実ではなく、超現実だとは見なせないことです。 菩提樹の下で悟りを開いたブッダが、衆生に説法をためらったのは、これが原因のようです。 ブッダは、悟った直後は、衆生はこの世を実体のある実在とみていて、悟りの世界を理解できないと考えたようです。だから、説法をしても無駄だと判断します。 そこにブラフマン(梵)が現われて、説法を請い願います。梵天勧請(ぼんてんかんじょう)と呼ばれるこの伝説は、仏教の出発点ということです。ブッダは、この後、教えを広めるためにヴァーラーナシーへ出立します。 この世を実在と見ている人に、真実を説いても逆効果だと知っていたからでしょう、ブッダは、相手の理解度に合わせて説法をしました。ブッダの対機説法の原点は、ここにあるのかもしれません。ウパカへの説法の失敗が、対機説法を生んだのかもしれません。 24.現世から来世への輪廻転生とは二本立ての映画 映画館で二本立ての映画を観るとします。観客は、『唯我独尊』の『我』だけです。上映作品は、この世という人生の物語です。上映中は『唯我独尊』の『我』は、物語の 登場人物 になりきります。自分こそが、その物語のヒーローであり、ヒロインです。一本目の上映が終わると、物語の登場人物の体験の記憶は、スクリーンに記録されて、次の映画の物語に反映されます。 縁起による輪廻転生とは、こういうことでしょう。普遍的な世界があって、その世界の中に個人が生まれ変わるのではなく、古い世界が消えて、古い世界を反映した新たな世界が生れるのが、縁起による輪廻転生だと思われます。輪廻転生するのは、個人ではなく、世界そのものです。 次の作品の上映が始まるまでに、『唯我独尊』の『我』が「本来の自分」に戻らず、いつまでも一本目の映画の登場人物に同一化したままだと、二本目の映画の上映が始まり、それを観始めたら、今度は新たな物語の新たな登場人物になります。こうして、延々と新たな物語が続きますが、 それらはすべて、ひとり客席で観ている『唯我独尊』の『我』の見る夢です。 死の瞬間にマンゴーが食べたいと思えば、来世ではマンゴーを食べる虫に生まれ変わると信じられていますが、マンゴーを食べたいという現世の充たされない記憶が、何らかの条件と結びついて、マンゴーを食べる虫に転生させるようです。 転生したマンゴーを食べる虫とは、『唯我独尊』の『我』が、マンゴーを食べる虫に同一化しているだけです。マンゴーを食べる虫になった夢を見たからといって、実際に虫になるわけではありません。 荘子の「胡蝶の夢」では、蝶になって舞う夢を見た荘周が、目覚めた後、自分は蝶になった夢を見ていたのだろうか、それとも今の自分は、蝶が見ている夢なのだろうか、と自問します。 眠って見る夢とは、現実という夢の中で見る非現実という夢です。 『唯我独尊』という超現実の視点では、夢も現実も、どちらも夢です。 夢から覚めた荘周が、蝶になった夢を夢だと感じただけではなく、そう感じている現実の自分も、蝶の夢だと感じたのは、超現実にいたからでしょう。 眠って見る夢も、この世という現実も、誰の夢かに違いはあっても、どちらも夢なのです。 25.継続性と同一性 私たちは、今の自分も小さい頃の自分も 同じ自分 だと、何の疑いもなく思っています。 容姿は違いますし、心の中味も違います。身体と心に関するかぎり、同じ人物だとは思えません。 にもかかわらず、過去の自分と現在の自分が、同じ人間だと認識されるのは、なぜなのでしょうか。 人が時間や状況の変化を超えて、同じ自分であり続けるとはどういうことなのか、哲学ではこのことを人格同一性問題と呼んでいるようです。人格同一性の根拠を同一の身体におく身体説と、連続する記憶におく記憶説との間で論争があるようですが、身体は常に細胞が入れ替わっていますし、記憶は常に再構成されています。どちらも常に変化していますので、身体も記憶も同じ自分という根拠にはならない気がします。 今の自分とは、生まれてからずっと継続している自分だと、疑問さえ持たないのは、記憶があるからでしょう。でも、記憶は、継続性という幻想を生み出しているだけなのではないでしょうか。それら記憶の当事者は、小さい頃と今とでは、別々です。別々の当事者の間には、継続性はありません。あると思うのは、そう思っているだけのことでしょう。 継続性とは時間の中で生じるものです。人生は時間の中にありますから、生きているかぎり、自分とは生まれてからずっと継続している自分だと思うのは、自然なことかもしれませんが、 すべてが変化する 諸行無常 の世界には、存在の継続性というのは、あり得ないのではないでしょうか。 記憶に基づく習慣や社会制度や人間関係など、そのような仕組みが自分という存在の継続性を支えているのでしょうが、それらは生存のための単なる仕組みであって、常識という知識に過ぎません。 芋虫と蝶を見て、同じ生き物だと思うのは、知識があるからです。そのような知識がない人には、芋虫と蝶は別の生き物です。 私たちが自分の身体や記憶の継続性を疑わないのは、継続性と同一性を混同しているからではないでしょうか。 継続性が成り立つためには、継続していると思わせる同一性が必要です。小さい頃も今も、自分は同じだという同一性です。その同一性こそが、『唯我独尊』の『我』ではないかと思うのです。 私たちは、日常生活でも、認識できないだけで、常に『唯我独尊』の『我』なのです。そう認識できないのは、 時間が変化をもたらし、変化する身体や記憶が継続性をもたらしているからでしょう。そのために、小さい頃の自分も、今の自分も、同一の自分だとは認識できず、継続しているとしか思えないのす。 身体や記憶は、この世で生まれた自我です。自我は変化の中でしか存在できないので、変化しない同一性を妨げているのです。私たちは、『唯我独尊』の『我』になり変わった自我のために、『唯我独尊』の『我』を認識できないのです。 26.「日常の自分」と「本来の自分」と『我』 「日常の自分」と「本来の自分」と『唯我独尊』の『我』は、本質的には、同じひとりの「私」です。これらは人間存在の三つの側面です。 その三つとは、真実を知らずにこの世に生きる「私」と、真実を知って生きる「私」と、真実の「私」です。 大乗仏教の化身(けしん)、報身(ほうじん)、法身(ほっしん)の三身(さんしん)と、考えられなくないかもしれません。 「ダンマパダ」にブッダが「日常の自分」と「本来の自分」を説いたと思われる言葉があります。 「自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか。自己をよくととのえたならば、得難き主を得る」 ここでの「自己」とは「本来の自分」であり、「自分」とは「日常の自分」でしょう。 「本来の自分」は「日常の自分」の主(あるじ)ということです。 「ととのえたならば」とは「身体・呼吸・心が調和している状態にしたならば」ということでしょう。姿勢が良くなれば、呼吸が深くなり、心は自ずと静まります。 禅仏教では、調身(姿勢をととのえる)・調息(呼吸をととのえる)・調心(心をととのえる)ために、坐禅をします。 調っていないために「日常の自分」にとどまっている「本来の自分」が、調うことで、主(あるじ)の自覚が持てるのでしょう。 得ることが困難なこの主(あるじ)を得ること、仏教の修行とは、これに尽きます。 最初期の仏教では、自己と他人をはっきり区別していたようです。 悟りは、他人によっては得られないと考えられていました。 他人は、友となり手本となることもあるでしょうが、悟りのための修行は、あくまでも「日常の自分」が担わなければいけないのです。 この世では、人情が重んじられますが、人情は時に知性を曇らせます。非人情に徹しなければ、正しい道を歩めなくなる恐れがあります。非人情に徹すれば、孤立することになります。人間関係が最重要のこの世では、何かの支えがなければ、なかなかできることではありません。 「スッタニパータ」では「日常の自分」が他人と交わらず、独りどのように歩むべきかが説かれています。 「仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め」 「犀の角のようにただ独り歩め」というブッダの言葉は、「スッタニパータ」では、繰り返し説かれます。 「ダンマパダ」には、こんな言葉があります。 「戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である」 「日常の自分」に克つ「本来の自分」、調うことで、「日常の自分」が、主(あるじ)の自覚を持った「本来の自分」になる、これこそが、ブッダが解脱によって到達した一切勝者でしょう。 27.自己イメージからの解放 ほとんどの人にとって、「日常の自分」は、自己イメージでつくられているのではないでしょうか。自己イメージとは、自分が思っている自分であって、自分ではありません。社会の価値観に沿って社会がつくり上げるイメージを、自分に当てはめただけです。社会の中では、いろいろな役がすべての人に割り当てられます。その配役に応じて、自分がつくり上げる自己イメージが、「日常の自分」になっています。 私たちが自己イメージを自分だと思っているのは、自分を知らないからでしょう。「本来の自分」という自分を知らなければ、自己イメージが自分になります。自己イメージとは、過大な自分であったり、過小な自分であったり、肯定的な自分であったり、否定的な自分であったり、かなり極端にブレがちですが、社会が求める役割をこなす、人生という舞台劇の役者に過ぎません。 自己イメージが受け入れられなければ、ほとんどの人が反発します。自分が否定されたわけでもないのに、そう思い込んでしまい、傷つきます。 人生で感じる苦悩のほとんどは、自己イメージと世の中の軋轢でしょう。自分ではない自己イメージに固執すると、このような苦悩が生れます。 「日常の自分」は現実ですが、自己イメージは非現実です。 心がつくり上げるイメージにすぎません。良い方にも、悪い方にも、勝手に広がり、本人にも制御できません。 イメージには実体がありませんから、際限がありません。亡霊のようなもので、恐れや不安が生れます。オオカミの影は、オオカミよりも怖いのです。 自己イメージに固執するのは我執です。自分と感じる、自分ではない自分への執着です。 自己イメージは偽りの自分なので、執着しなければ見失うため、見失わないように執着します。 原始仏教の修行の第一歩は、我執を消し去ることです。 自分ではない自己イメージに執着すると「本来の自分」が見えなくなるので、我執は消さなければいけないのです。 28.生きづらさは悟りへの扉 この世に生きていて、生きづらさを感じたことがない人は、いないでしょう。王国の王子でさえ感じるのです。どのように恵まれた境遇にいる人でも、忘れている時以外は、感じるはずです。だから、忘れるために、気晴らしや娯楽のようなレジャーが欠かせません。これは、ある種の逃避です。一時の逃避は可能でも、一生の逃避は不可能です。 生きづらさを感じるのは、自分が思う現実と、実際の現実にズレがあるからでしょう。そのズレを生んでいるのが、欲望です。欲望とは、現実に満足できず、別の現実を求めることですが、何を手に入れても、一時の満足感しかないとしたら、欲望には限りがなくなります。 漠然とした欠落感が、欲望を生んでいても、 何を求めたらいいのかが分らないために、薬物やアルコールや男(女)などの快楽や、名声や富や地位などの 称賛 や、他を支配する権力で充たそうとします。 これら感覚依存の満足感は、果てしなく求めなければならないので、欲望が充たされることはありません。 求めているのは「本来の自分」ではないでしょうか。 それが理解できないので、快楽を求めたり、称賛を求めたり、権力を求めたりしているのです。 私たちの求めるものがこの世にあるのなら、この世の価値観によって、生きづらさは解消できるはずです。どう足掻いても生きづらさから逃れられないのは、私たちが求める わたし が、この世にはないからでしょう。 生きづらさとは、真実に目覚めた証しではないでしょうか。欲望があるから生きづらさに苦しむのでしょうが、欲望があるからこそ、真実の扉の前にたどり着けるのです。 自分の本質を知らない私たちは、知らないまでも、知らないままに、自身の真実の姿を求めているのです。 29.心の働きがこの世をもたらす 日常社会の中で、私たちは生きることを欲しています。存在することを欲しています。自らが生きて存在していることの確かな証しを、絶えず求めています。ほとんどの人が、その証しを社会活動に求めていますが、その証しこそが、自分にとっての現実感でしょう。 現実の体験には、空想にはない手応えのような確かな感覚があります。哲学では、これをクオリアと表現しているようですが、あくまでも主観的な体験であり、誰とも共有できません。 咲いている花を見るとき、咲いている花の現実感は、その花にあるのでしょうか、それとも花を認識する視覚にあるのでしょうか。ほとんどの人は、花にあると感じるでしょうが、実際は、視覚にあるようです。花が美しいのは、花が美しいのではなく、美しいと感じる心が美しいのです。 砂糖の甘さは、砂糖ではなく、味覚にあります。味覚が壊れると、甘さはなくなります。 現実性は、観察の対象がもともと持っている固有の性質ではなく、私たちが何かを観察するたびごとに、その観察行為の中で生み出されているようです。 この現実性の認識は、物質にかぎらず、音楽などの非物質的なものまで含めて、人が観察できるものすべてに当てはまるようです。 心が感じる現実という現実感が、心で生れるのは当然だとしても、 観察行為の中で生み出される現実性も、心で生まれているのであれば、現実そのものが、心で生まれていることになります。心が現実を生み出しているのですから、心の働きが、この世を生み出しているといえます。 心の働きとは、煩悩のことです。 煩悩をなくせとブッダが説いたのは、心の働きをなくせば、この世が消えるからでしょう。 真実は、この世に覆われていて、見えなくなっているようです。 30.この世はすべて主観的 この世は、間違いなく実在すると、その実在性を私たちは疑っていません。客観的に存在するから、空想の産物ではないと思っています。この世の実在性が、私たちの 常識的日常性 ですが、 仏教の世界観からすると、この世は存在はしていても、実在はしていません。 私たちが、この世を実在とみなすのは、個人の感情や認識に関わりなく、客観的で普遍的に存在すると思っているからでしょう。でも、客観性や普遍性というこの世の現実とは、 私たちが、そう思っているだけなのではないでしょうか。 心の働きがなければ、砂糖や花には、現実性はありません。心の働きによって現実性を持つ砂糖や花には、客観性はありません。 私たちの主観が、観察の対象を砂糖や花と感じるから、砂糖や花というこの世での意味が、観察の対象にもたらされています。 この世の現実とは、私たちの主観が読み解いた、この世の意味のことではないでしょうか。カルシュウムにすぎない真珠を、宝石という意味にするように、私たちの主観は、観察の対象を、この世という意味にしているのです。 身体の感覚器官や心で認識されるこの世の現実とは、主観的な存在にすぎません。 観察の対象は客観的な存在ですが、すべて、感覚器官によって現実という意味に変換されるので、この世では主観的な存在になります。 身体の感覚器官と心という主観で認識するこの世では、客観的な存在というものは、あり得ないのです。 31.「文字記号」を読み解く心の働き この世とは、言葉のようなものでしょう。詩が美しい世界を表現していたとしても、知らない外国語で書かれていれば、意味が読み解けないので、単なる文字記号にすぎません。 この世も、私たちの主観が、この世という意味に読み解くから、この世になるのです。 誰も読み解かなければ、知らない外国語で書かれた詩の世界のように「文字記号」のままのはずです。 「文字記号」だった砂糖や花を、砂糖や花という意味に読み解くのは、心の働きです。 私たちは砂糖や花という客観的対象があって、それを観察していると思っていますが、実際は逆で、心の働きで、「文字記号」が砂糖や花という意味に読み解かれています。心の働きがなければ、知らない外国語と同じで、砂糖や花は「文字記号」のままでしょう。 「文字記号」という超現実は、感覚を土台にする心の働きで現実になります。感覚で認識するものは、すべて夢なので、感覚で認識するこの世の現実は、夢ということになりますが、 現実は、感覚で認識されるまでは、もともと、超現実だったのです。 この世の現実は夢ですが、超現実は夢ではありません。私たちが現実を夢だと思えないのは、自覚できないだけで、現実を通して、超現実を見ているからかもしれません。 心の働きが誤作動すると、超現実は、現実ではなく、非現実になるようです。苦悩に囚われたり、極端に快楽を求めたりするのは、心の誤作動でしょう。真実の世界である超現実が、現実ではなく、非現実になると、超現実の持つ至福が消えるようです。日常生活に至福がないとしたら、心が日常的に誤作動しているということでしょうか。 観察対象の「文字記号」は、「文字記号」としては認識できません。感覚器官には、砂糖や花といった、この世の意味として読み解く機能しかないので、私たちには認識できません。稀な詩人が、超現実という「文字記号」そのものを、この世の言葉で表現することがあるかもしれませんが、詩人ではない私たちには、認識できません。だから、そのようなものはないと思ってしまうのです。 32.この世とは心のイメージ 主観がなければ、この世という意味が生れないのは、この世の現実が、心の中にあるからでしょう。私たちは、現実は私たちの外にあるとみなしていますが、本当にそうでしょうか。 同じものを見て、それを表現したとします。同じ言葉で語られたとしても、その体験内容は、表現できないだけで、人によってすべて違います。これは現実とみなしているものが、私たちの外にあるのではなく、実際には、私たちの心の中にあるからでしょう。外にあるのなら、見たものは、誰にとっても、すべて同じになるはずです。 手を打てば 鯉は集まり 鳥は逃げ 女中は茶を運ぶ 猿沢の池 手の音が、それぞれに異なった世界をもたらすのは、この世が心の中にあるからです。この世とは「識(意識や認識作用)がつくり出した表象(心のイメージ)」と説くのが唯識(ゆいしき)仏教ですが、 私たちがどう見るかで、どんな世界が見えるのかが決まるようです。 仏教の教えでは、この世は実体のない虚構のような世界です。 唯識仏教によると、 心が生むこの世の現実は、現実だったり、非現実だったり、超現実になったりします。私たちがどう見るかで、見える世界が変わるようです。 これらの世界 は、別々に平行して存在するのではなく、ひとつの同じ世界です。 日常生活では、超現実は認識できなくても、現実と非現実はできます。ただ、心の誤作動で、現実が非現実になるることがほとんどです。私たちは、非現実が現実になっていても、そのような状態を知ることができません。 誤作動で生じるこのような誤りが誤まりだと、私たちには分からないのです。 生きる苦しみは、このようにして生まれるのでしょう。 どんなに恵まれていても、本人が不幸だと思えば不幸ですが、どんなに悲惨でも、本人が幸福だと思えば幸福です。幸福や不幸が、このように認識で決まるのは、日常世界が私たちの認識で生まれているからです。認識を変えるだけで幸福になるのは、私たちの本質が幸福だからです。 私たちは、本質的には幸福でありながら、その幸福に気づいていないのです。状況は簡単には変えられなくても、認識は変えられます。幸福に気づけばいいだけです。気づけずに、幸福になれないのは、煩悩におおわれているからでしょう。 33.真実の世界とこの世という仮想現実の世界 目の前の現実は目の前にあると、誰もが思っていますが、実際には、 心の中にある ようです。 心の働きが生む心の中の世界を、私たちは、目の前にあると感じてしまうようです。カクテルパーティ効果というのがあるように、心の働きの知覚システムは、必要のないものは消します。 だから、心の働きが生む心の中の現実は、心の働きが止まれば消えるはずです。
感覚が認識するこの世とは、実在するように見える、 仮想現実の世界 といえます。心の働きは、真実の世界である超現実を、超現実として認識しないで、この世という仮想現実の世界にしています。 心の働きで、超現実はこの世として認識されていますが、 心の働きが生み出すこの世は、興味を失えば消えます。欲望をなくせば悟りに至るのは、この世が消えて、真実の世界である、超現実が現われるからでしょう。 この世に生きるとは、感覚することです。私たちは、 感覚が認識する世界 の中で生きるしかありません。 感覚以外に認識する手段を持たない私たちには、感覚で認識されない超現実の世界は、知ることができません。 感覚が認識する空間だけに生きる私たちの人生とは、感覚の世界に閉じ込められた生活ともいえます。 日常の閉塞感 とは、そういうことなのかもしれません。 美術館巡りを楽しんでいる全盲の人がいます。その人は絵画を視覚では見ていません。感覚を超えて見ているはずです。芸術作品の作品世界とは、感覚を超えたところにあるようです。 感覚を超えた世界とは、感覚から解放された世界です。それを知ることは、完全な自由を知るということでしょう。 この世が真実の世界の仮想にすぎないにしても、認識できないだけで、真実の世界でもあるのです。 誰もが感覚から解放され、感覚を超えてこの世を見ることができれば、日常は真実の世界であり、至福の世界になるはずです。 仏教経典が行き着いた、迷いのない心安らかな境地の涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)とは、このことでしょう。 34.合理性の非合理性 この世を仮想世界としてではなく、実在する現実世界として、私たちの日常社会は営まれています。 この世は、主観が生む仮想世界なので、人が住む世界は、人の数だけ必要ですが、実際には、常識的日常性というひとつの世界があるだけで、それ以外は認められていません。 自然の一部である人間の活動は、本来は、合理的に判断したり、客観的に理解できないはずですが、自然から遠ざかり、文明生活を送るようになると、常識的日常性という枠組みがつくられて、人間はその中で生きなければならなくなりました。本来の自然には、あるはずのない合理性が、社会で生きる人間に押し付けられるようになったのです。 自然の本性は、非合理そのものです。何がどのように起こるのか、誰にも分からないところに、合理性はありません。生命の存在自体が、一切の合理性を超えた偶然です。 たまたま存在している人間とは、全く非合理的な存在です。非合理的な存在のままでは、生存が危ぶまれるので、人間社会は合理性を持ち込み、自然や人間活動を予測可能なものにしたのです。 これは、虚構です。人類が文明を築き、生存を確かなものにするためには、このような虚構も必要なのでしょうが、虚構は虚構として理解されることも大切です。虚構の中で生きることを強制されるこのようなあり方は、必要ではあっても、正当とはいえないからです。私たちが生きづらさから逃れられないのは、私たちの生存が、このような虚構にあるからです。 この虚構を生み出した張本人が、自我という機能でしょう。自我こそが虚構です。実在ではない自我は、永続的に存続するために、このような虚構をつくり上げるのです。 自我が主役の人間社会は、虚構そのものです。愛でしか生きていけない人間に、利害で生きるよう仕向けています。私たちは、愛と利害を混同し、愛を見失ったのです。 自我は、理論通りを求めます。理論通りにならないと、 何の責任もないのに、当事者として、自責の念や罪悪感に苦しめられます。人間社会で生きる私たちは、責められないように、理論通りの生活をしようとします。 自由であるはずの私たちの生存は、虚構という型にはめられてしまったのです。原罪とされる合理的知性とは、自我そのものです。 35.「正常に異常」な状態と「異常に正常」な状態 生存のためとはいえ、虚構を強制される状態は異常です。ただ、おかしいと感じる人はあまりいません。ほとんどの人が異常なので「正常に異常」な状態といえるでしょう。常識的日常性を虚構だと感じる人は、異常者だとみなされます。このような人たちこそ、虚構を虚構と感じるわけですから、正常な人たちですが、ごく少数なので「異常に正常」な状態といえるでしょう。 「正常に異常」な人は、時に、異常と感じても、どう異常なのかがきちんと理解できず、ただ、生きづらさを感じるだけです。悟りのための修行とは、そういう人たちのためにあるのでしょう。 「異常に正常」な人は、医師の治療を受けて「正常に異常」な状態となって、社会復帰をします。 社会復帰ができず、生命力が深いところで停滞し、生への意志が活動を停止すると、離人症になります。 離人症とは、自分と世界に対する非現実感ですが、自我体験の負の側面です。自分を外から見ているような感覚があり、この世の世界が、テレビや映画の物語の中にあり、それを自分が観察しているような症状です。 離人症のこのような症状は、自我体験のように、ブッダの到達した『唯我独尊』の世界と、よく似ています。ただ、似ているだけで、似て非なるものでしょう。なぜなら、悟りの自覚がないからです。離人症の人には現実がありません。現実のない現実とは、超現実ではなく、非現実です。 36.生への意志 私たちが生きるこの世は、私たちの意識が生む世界です。 そこには、生への意志があります。生への意志がなければ、意識は働きません。 意識の働きがなければ、この世はありません。何も意識しなくても、この世があるのは、生への意志は、盲目的ということでしょう。 仏教でいえば、生への意志とは、十二縁起の「行」といえるでしょう。「行」とは、盲目的な衝動であり、盲目的な生存本能です。これが「識」を突き動かして、私が存在するようになり、私が認識するこの世が存在するようになります。 私たちには、生への意志や意識に関係なく、普遍的にこの世が存在するように見えますが、そう見えるのは、無知のために、そう見えるだけです。
生への意志とは、根源的な欲望です。この欲望は、生存のために、自我を道具として利用します。自我とは、身体や心にとどまらず、行動範囲のすべてです。 この世で、よりよく生きるとは、正しい自我で生きることですが、 ゴータマも王国の王子として、正しく生きていたはずです。正しい自我を持ち、正しく生きながらも、ゴータマは、生きることに苦しみます。正しく生きる正しい社会人というこの世の価値観では、生きる苦しみはなくならないようです。 「苦」からの解放を説いたブッダの教えとは、煩悩の滅尽です。それは自我の滅尽です。仏教の真理は、この世の価値観とは真逆です。この世では、自我を偉大にすることに価値がありますが、仏教の教えでは、自我をなくすことです。生への意志を失くして、この世を消すことです。より良い夢を見るのではなく、夢から覚めることです。 仏教が 厭世的 といわれるのは、生への意志を否定しているからでしょう。 この世とは、存在していても、実在していません。 厭うこの世は、元々、夢幻なのです。 厭えば、夢幻が現実になり、真実から遠ざかります。 仏道とは、生への意志をなくすにとどまらず、真実への意志を持つことでしょう。 自我を否定するのではなく、自我を自覚することで消し、この世を超えることです。 37.ヴィパッサナー瞑想はどのように悟りをもたらすのか
私たちは、身体や心が自分であり、世の中や自分は、いつまでもそのままにある 実在だと錯覚 しています。この世の存在は、自分も含めて、絶えず変化していて、いつかは必ず消え去りますが、 記憶や社会制度という知識や習慣があるからか、日常的には、そうは思えないのです。 ヴィパッサナー瞑想は、身体の 感覚を観察 する瞑想法です。 身体や心は自分ではないと説く サティパッターナ・スッタ の教えの実践です。 この経典によると、何かを感じたとき、私たちは、その感覚に束縛されているということです。 心地よい感覚が厄介なのは、束縛だとは感じられないことでしょう。感覚が心地悪いと、解放されたいと望みますが、心地よいと、いつまでも「束縛」されていたいと望みます。私たちを「束縛」しているのは、環境ではなく、感覚です。 完全な解放のためには、心を含めた身体の感覚器官が生む、すべての感覚から解放される必要があります。それは、感覚を消し去ることではなく、感覚を超えることです。感覚を消し去ったら、生きていけなくなります。 感覚を超えるとは、感覚とは、私ではなく、私のものでもなく、自分ではないと知ることです。私とは、身体や心ではないのです。 生きるとは感覚することです。ブッダは「生きることは苦である」と説きましたが、その「苦」の原因が感覚です。 感覚は、最終的には、すべて「苦」になります。 「快」だけを求めて毎日贅沢に過ごすとしたら、楽しいのは最初だけでしょう。人間の文明は、できるだけ心地よい生活を生み出すためにありますが、「快」を生むからこそ「苦」が生れています。 文明が、心ならずも、「苦」を生んでいるのです。 ヴィパッサナー瞑想で感覚を観察するのは、感覚がどのように生まれ、どのように私たちを「束縛」し、消えるのかを知るためです。無知は隷属です。知る者は知られるものを超えます。感覚を知ることで、感覚を超えることができます。そうして、身体や心を超え、身体や心は自分ではないと知るに至るのです。 ヴィパッサナー瞑想を実践することで、いつしか、身体や心が自分ではなくなり、身体と心を自分とする「日常の自分」が消えます。消えてなくなるのは「日常の自分」です。その自分を主役とする スクリーン上の物語の世界 です。物語の世界が消えて、それまで同一化していた主役がいなくなると、観客席にひとりいる『唯我独尊』の『我』が、我に返るのです。 38.仏教とは自己実現のための教え 仏教は「無我」を説く宗教という固定観念があるからか、「本来の自分」である『我』を見出すための教えだと思っている人は、あまりいませんが、初期仏教における修行は、真の自己である「本来の自分」を見出すためだったようです。仏教とは『我』を見出すための教えであり、修行者は、真の自己を自覚的に把握せねばらないと考えられていたわけです。 原始仏教の修行においては、このように、自分に対する働きかけが、とても重要だったようです。 初期仏教の根本聖典「マハーヴァッガ(大品)」には、ブッダが、娼婦を探している青年たちに、婦女を求めるよりも、自己(アートマン)を求めよ、と説いて出家させたエピソードがあります。アートマン(我)はなく、「無我」であるなら、求める自己はないはずですが、原始仏教の修行とは、この自己(アートマン)を実現させることだったようです。 最初期の仏教においては、二種類の異なった自己が想定されています。理想から乖離し、常に頽廃する可能性のある自己と、理想として実現されるべき自己です。 頽廃する可能性のある自己とは「非我」のことでしょう。理想として実現されるべき自己とは『我』のことでしょう。 「非我」とは「日常の自分」であり、『我』とは「本来の自分」です。「日常の自分」である「非我」を、「本来の自分」である『我』だと勘違いしないこと、これが初期仏教の修行の出発点です。 理想的な自己を実現するためには、もろもろの悪徳、煩悩の基体としての自己、これを滅却しなければいけないと考えられていました。 「ダンマパダ」や「スッタニパータ」をはじめとして、最古層の経典には「自己を愛し護ること」と「自己を滅し捨てること」という二様の相反した教説が、繰り返し説かれています。 ブッダは、最後の旅で、ヴェーサーリー近郊のベールヴァ村で、激しい苦痛を伴う重い病にかかります。入滅の決意をしたブッダは「自灯明・法灯明(じとうみょう・ほうとうみょう)」と呼ばれる教えを遺します。 「今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるなら、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう」(マハー・パリニッバーナ・スッタンタ) ブッダは 自分が仏教の指導者だということを、このように自身で否定しています。 頼るべきは、各々の自己であり、普遍的な法だと説いています。 これは、教祖や指導者を絶対視する、個人崇拝の否定です。 悟りのための実践は、あくまでも「日常の自分」が担わなければいけないのです。 39.自己実現のために かつて日本では「自分探し」がブームになり、多くの人が自己実現を目指しましたが、自分を探すためには、探し出す自分とは何かを、しっかりと知っておく必要があります。 イスラム教神秘主義のスーフィズムに、こんな話があります。 ある人が、夜中に、街灯の下で探し物をしていました。とても大切なものを失くしたと、必死になって探していました。通りがかった人は、気の毒に思って、いっしょに探してあげることにしました。 「失くしたのはどの辺りですか」と尋ねると、探し物をしている人が言います。 「家の中で失くしたんです」と。通りがかった人は、驚きます。 「だったら、どうして家の中を探さないのですか」と聞くと、探し物をしている人が、言います。 「だって、家の中は、真っ暗なんです…」 スーフィズムは、すべての現象を神の現れと考え、修行によって自己を捨て去り、神との合一に至るよう説いています。ウパニシャッドの梵我一如や、初期仏教の修行に、とてもよく似ています。 自分探しのブームの中で、ほとんどの人が、自分が何を求め、何を大切にしているのかを見つめ直して、自分に合った生き方や仕事を見つけようとしましたが、そのような人たちが探していたのは、社会的に価値があり、称賛されるような生き方であり、仕事だったように思えます。 自分の理想や目標に向かって成長し、自己を実現しようとする人たちの自己とは、「日常の自分」の別の一面でしょう。「日常の自分」が、新たな「日常の自分」になることでしょう。 このような自己探求で見出された自己は、 社会から高く評価されても、他者との比較や優劣で知る自分ですから、結局、「苦」を生みます。 「非我」をどのように飾っても『我』にはならないのです。 新たな「日常の自分」ではなく、「本来の自分」を見出すことが自己実現です。ここで探さなければいけない自己とは「本来の自分」です。 ただ、「本来の自分」とは、どこをどのように探したらいいのか分かりません。 しかも、 わたし をこの世で探そうとすると、無限後退に陥ってしまうのです。 40.生きるとは命(いのち)よりも大事なものを知ること 日常生活で生じるクオリアとは、私たちが生きて存在していることの証しです。社会的には何の価値もありませんが、 自分にとっては、計り知れない価値を持っています。 私たちは、それを日常的に見出していますが、見出したクオリアは、すぐに消えてしまいます。だから、新たなクオリアを求めて、私たちは、ひたすら、さまざまに活動をしています。 クオリアが自分にとって、計り知れない価値を持つのは、そこに「本来の自分」が暗示されているからではないでしょうか。「本来の自分」へ至る「扉」のようなものだからでしょう。 見出せないのは、社会の中の活動に求めて、明るい街灯の下ばかりを探すからです。 生きることが苦しみなのは、あるはずのない場所で、あるはずのないものを求めるからではないでしょうか。 自分の中にあるものを外に求めると、精神の自由は失われます。 外に求めると、他に依存することになり、他に支配されます。 これは束縛です。他をよりどころにせず、自らをよりどころにして、外には何も求めない、精神の自由とはこのことでしょう。 外に向かう欲望が見えなくしているだけで、私たちは、もともと、一度も失うことなくこの自由を持っています。 智慧とは、この理解かもしれません。 永遠不変の実在 が持つ、永遠不変の現実感、これは言葉にはできない喜びです。「本来の自分」には、この喜びがあるのでしょう。 外に向かう欲望が消えて、智慧が完成すると、束縛から解放された、完全な自由とこの喜びがあるはずです。 解脱とは、こういうことに違いありません。 そのためには、真っ暗な 「 家の中 」 を照らすことです。 「家の中」とは、意識の世界に潜む無意識の世界でしょう。無意識を意識化すると「本来の自分」がいるはずです。 「わたしはすでに解脱への道を示した。今、あなたがた自らがその道を歩む時である」 ブッダは、弟子たち一人ひとりに、こう説いたに違いありません。 「本来の自分」という実在を見つけること、これは仏教にかぎらず、宗教に関係なく、誰にとっても、共通の課題ではないでしょうか。 それは、この世に生きるということです。 生きるとは 生き長らえることではなく、この世に生きて、 命(いのち)よりも大事なものを知ることです。生きるに値する自分の真の価値を知ることです。 自分の真の価値は、命(いのち)がなければ知ることはできませんが、命(いのち)が一番大事という生き方をすれば、人はいつかは死ぬのですから、苦しみが生れるだけです。 私たちが人生に苦しむのは、命(いのち)を間違って使い、自分を知らずに生きているからではないでしょうか。
(上記経典の日本語はすべて中村元訳です)
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