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同じ自分
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自分とは、何の自覚もなく、身体や心だと思っているのが、私たちの日常ではないでしょうか。自分のものとは、自分の身体や心に関わるものです。身体に関わるものとしては、人間関係や所有物があり、心に関わるものとしては、記憶や意見があります。 それら自分や自分のものは、すべて、目に見えるもの、観察の対象になるもので、必ず消え去るものです。初期仏典では、観察の対象になるものは、すべて、「我」ではないのです。それらは、すべて、スクリーンに映った映像でしかなく、客席の「我」が見る「夢」なのです。 「夢」とは、この場合、「我」の目に映る映像です。それらは変化し、必ず消滅しますが、目に映った映像を見る「我」は、不生不滅です。ただ、目に映る映像は見ることはできても、目が目を見ることができないように、「本来の自分」である「我」は、自身である「我」を見ることができません。 水面や鏡には自分の姿が映ります。そこに自分がいるからですが、水面や鏡に映る自分は、自分ではありません。この世に生きる身体や心も、水面に映る自分と同じように、自分ではありませんが、そこには必ず「本来の自分」がいます。 見えない「本来の自分」は、身体や心があるのなら、必ずそこにいるはずです。そこにいないのであれば、身体や心は、存在しないはずです。 身体や心は、水面や鏡に映った自分です。その自分が見えるのは、「本来の自分」が、そこにいるからでしょう。 |