現実性とは  

私たちは、目の前に広がる現実を、そこに、そのままに、独自にあると、何の疑いもなく考えています。でも、これは、錯覚です。現実性は、観察する対象がもともと持っている性質ではありません。私たちが何かを観察するたびごとに、その観察行為の中から生み出されています。ということは、観察の対象である目の前の現実も、私たちの観察によって生み出されているはずです。

現実が常に目の前に独自にあるというこのような錯覚が生じるのは、私たちが現実を見るたびごとに、以前に見た現実と、同じ現実があるからでしょう。厳密には、まったく同じ現実というものはないのですが、違いが識別できないために、同じだとみなしています。そして、私たちの前に現れる現実は、私たちの存在に関係なく、そこに、そのままに、独自にあると思っています。

私たちの観察行為で現れるこの世の現実は、五感と心が生み出しています。五感と心は、自我という「観測機器」の「測定装置」です。視覚は光を、聴覚は振動を、味覚と嗅覚は化学物質を、そして触覚は温度と圧力を測定しています。測定したその結果は、脳に伝達され、心が解析・総合をして、この世という現実をつくり上げています。私たちが見ている「現実」とは、五感と心による世界の想像図なのです。

世界の想像図は、記憶を元に描かれています。記憶は過去の記録ですが、未来の想像図も、過去の記録である記憶を元に描かれています。未来とは、過去の記憶を元にしてつくられた想像の世界です。過去の記憶で生まれた想像の世界という現実を生きる私たちは、自分のつくり上げた世界に生きているのです。この世は夢ということは、そういうことでしょう。

朝、目が覚めると、世界は前夜と同じように、そこに、そのままに、独自にあります。でも、これは、錯覚です。現実は私たちの観測行為で現れているのですから、私たちが眠ると、世界は消え、目を覚ますと、現れます。そう感じ取れないのは、記憶が錯覚をもたらしているからでしょう。

量子力学の世界では、量子は粒子と波動の二重の性質を持っていますが、観測されると粒子の状態に確定します。量子は、観測されていないときには、さまざまな場所に同時分布する「量子もつれ」や、「重ね合わせ」などの状態にありますが、観測されると確定した状態になります。量子にとって、状態が確定していないことが常態であって、状態が確定しているというのは、特殊な状態のようです。

量子が基本の物質世界の現実とは、本来は確定していない状態なのでしょう。私たちが眠ったときには、その確定していない状態にあり、目を覚まして、私たちという観察者が現われると、この世の現実という確定した状態になるのではないかと思われます。自我は「観測機器」というよりも、感覚器官が集めた情報を、感覚という「絵具」で世界を描く「絵師」なのかもしれません。

量子力学では、見えている世界は世界ではなく、見ていないときの世界が世界です。この世では、見えている世界が世界ですが、それは錯覚であって、実際は、量子力学と同じように、見えていないときの世界が、世界なのでしょう。



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