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知覚の働き
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すべての人がそうだとはいえませんが、いつも一緒にいる目の前の恋人よりも、なかなか会えない遠くにいる恋人の方が、だいたい、愛しく思えるのではないでしょうか。なぜなのでしょう。
目の前にいる恋人は、すぐに欠点が目につきますが、遠くにいる恋人の場合、欠点は見えません。良いところばかりを思い出します。目の前の恋人は、目の前にいるので、自分が思っている通りの人である場合もあれば、そうでない場合もあります。遠くにいる恋人は、いつも、自分が思っている通りの人です。目の前の恋人とは、とにかく、ありのままです。 思い出は、いつも美しく、懐かしいものです。日常生活の日々の現実よりも、思い出の方が、はるかに美しく感じられます。目の前の現実は、どのようにも変えようがありませんが、過ぎ去った過去は、自分に都合よく書き換えることができます。日常の辛い現実も、思い出になれば、美しく輝くことがよくあります。思い出にしてしまえば、自分の思い通りにすることができるからでしょう。 空想はすべてを可能にしてくれるのです。 目の前の恋人より、遠くの恋人の方が愛おしく、日々の日常よりも、過ぎ去ったあの頃の方が美しいのは、そういうことでしょう。 「どうして生活する必要があるのだろう。空想している方がずっといい。空想なら何でもできるけど、生活するのは、たいくつだ」(カラマーゾフの兄弟) 遠くにいる恋人や過ぎ去った懐かしい日々とは、知覚がつくり上げた情報です。私たちは、思い通りにならない日常を、自分にとって受け入れやすい、知覚という情報にして体験しているのです。それは過去の思い出にかぎらず、今の体験においても、日常的に行われているのではないでしょうか。 このような現実の知覚化、あるいは概念化は、仏教では戯論(けろん)と呼ばれているようです。戯論(けろん)とは、ある意味、心がつくる仮想世界でしょう。日常の世界を、自分の経験に基づいて、自分の観念で作りあげることです。遠くにいる恋人のように、楽しいことばかりをつくり上げていれば、そう大きな問題にはなりませんが、ほとんどの場合、戯論(けろん)は、妄想となり、「苦」を生む原因となります。 仏典では、戯論(けろん)は「苦」の元であり、楽しむべきではないと説かれていますが、戯論(けろん)は「苦」だけではなく「快」も生んでいますから、煩悩と同じで、なかなか断ち切れません。 SNSでは多くの戯論(けろん)が展開されているような気がします。誰かを傷つければ、結局、自分も傷つきます。書いて載せて、多くの人に読んでもらうのは、喜ばしいことですが、戯論(けろん)世界には、必ず「苦」があると知ることも、大切なのではないでしょうか。
以下はドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」のゾシマ長老が語ったある医者の懺悔です。 「自分は人類を愛しているけど、われながら自分に呆れている。それというのも、人類全体を愛するようになればなるほど、個々の人間、つまり、ひとりひとりの個人に対する愛情が薄れてゆくからだ」(新潮文庫 原卓也訳) この医者は、人類への奉仕という情熱的な計画を立てたり、人々のためなら十字架にかけられる覚悟があると思っているにもかかわらず、誰かが近くに来ただけで、その人の個性に自尊心が圧迫され、自由が束縛されるような気になるということです。 風邪をひいていて、のべつ洟をかむという理由だけで、立派な人でも憎みかねない一方、個々の人を憎めば憎むほど、人類全体に対する愛はますます熱烈になってゆくということです。 「人を愛するためには、相手が姿を隠してくれなけりゃだめだ、相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまうのだよ」(新潮文庫 原卓也訳) 我々が持つ日常的な愛とは、空想の中にしかないと、ドストエフスキーは語っているのでしょうか。 |