身体と心は自分ではない  

ブッダ亡き後、弟子たちによって編纂された最初期の経典「マハーヴァッガ」には、五蘊について説法するブッダの教えが説かれています。この説法は、サールナートで五人のかつての修行仲間に説いた、初転法輪のひとコマです。

最初の説法 

自分という実体はあるのか、これについて、まず、五蘊(色・受・想・行・識)について検証しています。

「弟子たちよ、色(肉体)は自分ではない。もしこの形あるものが自分であるならば、それは病むこともなく、また色について、わが形体はかくあれとか、あるいはまた、わが形体はかくあってはならぬなどと言えるであろう。

だが弟子たちよ、色は自分ではないからして、それは病に罹りもし、また色について、わが形体はかくあれかしとか、また、わが形体はかくあってはならぬ、などということはできないのだ」

色(肉体)が自分ではないことを証明した後、ブッダは、受(感覚)、想(知覚)、行(反応)、識(意識)についても、自分ではないことを証明します。

弟子たちとの問答は続きます。

「弟子たちよ、色は常住だろうか、無常だろうか」
「世尊よ、色は無常です」
「無常なるものは苦だろうか、快だろうか」
「無常なるものは苦です。世尊よ」
「では、無常であり、苦であり、有為転変するものを、これは自分だとか、自分のものだとみなすことができるだろうか」
「それはできません。世尊よ」

色(肉体)が無常であり、苦であることを証明した後、ブッダは、色・受・想・行・識についても、無常であり、苦であることを立証して、さらに説きます。

「それゆえに、弟子たちよ、この世の過去、現在、未来における、色・受・想・行・識の一切は、それが内にあろうとも外にあろうとも、大きかろうとも小さかろうとも、優れていようとも劣っていようとも、遠かろうとも近かろうとも、自分のものではないし、自分ではないと、すべてをあるがままに、正しい叡智をもって観なければいけない。ひとたびこのように観れば、汝らは色を厭い、受を厭い、想を厭い、行を厭い、識を厭うようになる。ひとたび厭えば、汝らは貪欲を離れ、貪欲を離れれば解脱に至る。解脱に至れば、ふたたび以前の状態に復帰することはあるまい」

ブッダはこのように説き、それを聞いた五比丘は感動し、随喜します。こうして五比丘は貪欲を離れ、執着なく、さまざまな煩悩から解放され、解脱します。

五蘊非我

ここでの「五蘊は自己でない」というのは、自己が存在しないことを意味するのではありません。ここで説かれているのは「非我(我ではない)」であって「無我(我はない)」ではありません。これは「五蘊非我」と呼ばれているようです。



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